とらわれのない眼でものの真実を観る

青山俊董老尼

「観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)」「観自在菩薩(かんじざいぼさつ)」すなわち観音様の「観」について、天台智者大師は「観音玄義」という著書の中で「取相(しゅそう)を破(は)す」と注釈しておられるという。つまり「とらわれのない透明な眼で、すべてのものごとの真実の姿を、ありのままに観る」ということであろう。"人間のモノサシを外し、仏のモノサシで見る"といいかえることもできよう。

とらわれのない眼、仏の御眼で見るという方(ほう)は、われわれ凡夫には高すぎて、かすんでしか見えない。とらわれの眼でしか見られない私、凡夫のメガネをかけてしか見られない私の姿なら理解できる。その姿を見据えることによって、そうではない「とらわれのない自在の眼」「仏の眼」をかんがえてみるという方法で、「観」の心に近づいてみることにする。

『観察』の「観」は、まさに、とらわれのない眼で、科学的真実を調べようと言うところから来ているのでしょう。日本の言葉は意味深い・・・・。
澄んだ鏡がすべてのものをありのままに映すように見ることができない私。それは、まずは"とらわれ"、「取相」があるから。では何にとらわれているのか。ほかならない「誰よりも私がかわいい」という我執が、その真ん中に深く根を下ろしているから。

たとえば運動会の走り競争で、わが子、わが孫がスタートラインに立ったとする。親や親族の眼は、子や孫にしか注がれないであろう。子や孫が友達を追い越したら、とびあがって喜ぶであろう。反対に友達がわが子や孫を追い越したらその友達が憎らしくさえなるであろう。わが子が友達を追い越した時と同じようには、わが子を追い越した友達に、喜びの拍手は決して送れない。それが凡夫の私の眼であり姿である。絶対に平等には見られない。わが身かわいい思いが、身びいきの思いが、ものの姿をゆがめてしか受けとめられないのである。

とらわれがあるために、ものごとの真実の姿を見ることが出来ない、そのとらわれの中身のもう一つは、自分の経験した角度、貧しい(乏しいと言う意味)ながらもすでに持っている知識というメガネを通してしか見ることができないと言うことである。

一人の人のインタビュー記事を、多くの記者団に書かせた。インタビューの前に、記者団を半分に分け、一方は「今からインタビューをする人は右翼系の人だ」と予備知識を与え、もう一方の記者団には「左翼系の人だ」と先入観を与え、実際にはどちらでもない一人の人のインタビュー記事を書かせた。結果は全く反対の記事をそれぞれが書いたという。それほどにわれわれはいつの間にか入った先入観、いつの間にかかけてしまった色メガネを通してしか、ものを見ることができない。

『唯識【ゆいしき、(注)】』に「非黄見黄(ひおうけんおう)」という言葉があるという。黄でないものを黄と見る。世に言う好きになればアバタもエクボとなり、一度気にいらなくなれば、エクボがアバタに見えてくるように、そのときの気分で変わり、経験や先入観というメガネを通してしか見られない私、決して真実の姿をありのままに見通すことができない私、それが「観音様」と対極にある凡夫の眼である。観音様の眼とは、そういうさまざまなとらわれを去った眼、凡夫のメガネを外した眼で、ものの真実を徹見(てっけん)する働きをいうのである。

(注)唯識とは、仏教の深層心理学とでも言ってよいと思います。




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