仏道偶感(往生とは)

井上善右衛門先生

  今日は、『往生』と言う題を出させて頂きました。仏典の中には、至るところにこの往生という言葉が出て参ります。親鸞聖人がお書き下さいました漢文のご著書、和文のご著述の中にも、蓮如上人の御文章にも、往生という言葉が、至るところに気を付けてご覧になりますと出て参ります。仏典読誦の最後は『願以此功徳 平等施一切 同発菩提心 往生安楽国』という句で結ばれています。

  ところが最近感じることは、往生という言葉が、浄土真宗の方々におきましても、薄らいで行っているのではなかろうか、また一般のご法話におきましても、往生ということにふれられたお話しが極めて少なくなってきているのではなかろうかと思うのです。現実の人生という限られた枠内で、私どもの心をどのように始末するか、そういうようなお話しが多くなって参りますが、これも確かに大事なことです。しかし現在ただ今をよそにして、往生という問題を、往生の何たるかを、捉えるということではいけないと思います。現在ただ今こそ、私どもの命を正しく間違いのない状態で受け取っていただくと言うことが、殊に浄土真宗の教えをお聞きになっているみなさまにとって極めて大事なことと思うのであります。

  思いますに、人間の目に見えたところという観点で世界を眺めますと、科学とともに現実的、物質的、それは同時に時間と空間という枠の中の現象に現代人の関心が集中して参りましたので、その観点から往生という問題が疎んじられ、関心が薄くなってきたのではなかろうかと思われます。

  しかし、私は浄土真宗の信心というものは、往生という事に対するしかとした命の御受取りがなければ、それは浄土真宗の教えを誠に受け取られたお方とは思いません。いつぞやも申したと思うのですが、この前、金治勇先生がお亡くなりになりまして、色々な弔辞をいただいたのですが、その中に、最後に、安らかにお眠りくださいという言葉で終わっておるのがありましたが、その気分は分りますが、それでは往生は寝に行くのか、お浄土は寝室かとなってしまいます。いよいよこれから大いなる活動の出発点という、そういう未来に対する広大無辺な、宇宙的な壮大な展望を、私どもは信心と共に與えられるところに、仏教の仏教たる所以があるのです。人間感情だけでことを処理して、それで誠に達しられるかというと、決してそうではないと思います。

  仏教は、現実から宙に浮いたお話しではなしに、現実の人間のひとつひとつを押えまして、一歩一歩辿るべき正しい方向へ辿らせていただくところに仏法の道を味合わせていただくことが出来る、誠に私どもの命に頂戴することが出来るのでありまして、決して現実離れした夢のお話しを聞いて楽しむと云う様なこととは、全く本質を異にしたものであることを私どもは心得ておかねばなりません。

  第一に思うことは、私ども自身、これは一体何者であろうか、私ども自身の命というものを現在いただいて生きているのですけれど、一体このままでよいのであろうか。私どもはいささかその点に気がついて参りますと、己自身を振り返らざるを得ないものです。そういたしますと人間というものは実にちっぽけな存在で、身体の上においても、心の上においても、有限な限られたものより己のことを思うことができない、そういう存在であることを先ず感じます。私どもの身体は有限でございますから、生まれて参りましたなら必ず死なねばならない、もうこれははっきりとした有限なるものの姿でございます。しかし、それだけなのであろうか。私どもの日々をつかさどっている、この私の命と心というものは一体どのような働きをしているものであろうか。そういう点に触れて、私ども己を振り返ってみます時に、仏様が私どもにお示しくださいました迷いという世界に生きている私であり、その迷いの中に私の心が動いておる、結局人間というものは、あるべからざる自己を固執して所謂エゴを中心として離れられない生き物でございます。

  私は戦争に参り、挙げ句の果てはシベリアへ四年抑留されまして、いやもう戦争ほど馬鹿げたものはない、生きて帰って来ましたが、戦後五十年、戦争は止みませんね。ソ連が崩壊するとたちどころにバラバラに分かれ、どういう分かれ方かというと、結局エゴが、民族という形になって分かれていくのです。日本人も中国人もアメリカ人も、みんな平等な人間であると、心では解っているのですが、実際のところ私どもの命がどのように働いているのか、どうしても民族中心という葛藤が現れてくる。他国との協調ということができない。最近もユーゴーのサラエボで非常に悲惨な戦争が起ったことは、みなさんも新聞などで既にご存知と思います。恐らくこのままでは、人類から戦争は絶対になくならないと思います。

  また、人類は、自己中心のエゴから自然を破壊するのです。一言で言えば人間の欲です。自然が破壊されれば、人類が人類自身を破壊することになってくる、これは目に見えたことです。人間は理性が発達して、色々科学的な思考が現れてきておりますが、結局大きく眺めてみますと、理性が欲望に負けております。欲望が優先しています。欲望に支配されて、理性が動いている。だから、公害とか汚染とか自然破壊が日々続いております。こういう筋道を変えずにこのまま進みますと、悲しいことですが人類は滅亡する時が来ると言わざるを得ません。

  しかし現在、人類の歴史はせいぜい数百万年でございまして、あの恐竜でも何億年も前の生き物ということですから、人間の歴史は短いものです。その中で私どもが築いてゆかねばならない人類の進歩発展、豊かなる人類生活の形成という所に本当に精神を集中して、真剣に考えねばならぬ時と思うのですが、そのようになっておりません。このことは、私どもよくよく考えねばならないと思います。そんな人類全体の大きなことを言わずとも私どもの家庭というものひとつさえ、穏やかに豊かに幸せに暮らしておるかと申しますと、悲しいかな、これまたそうは参らぬのです。

  みなさまに、人生は楽なところか、難しいところか、とお尋ねしたら、異口同音に難しいところです、とおっしゃると思います。そのように自らが自らを疎外するような出来事がどうして起ってくるのか、これは結局先程から申しております迷いの世界に私どもが、自己中心に動いておるゆえ、それが微妙に関係し合い、反発し合って人生の難しさをつくり出しておる其の根元に、まず私どもは気付かせてもらわねばならぬ。それを気付かずに人生の苦しさだけから、逃れようとするところに、迷信というものが起る。迷信というものは、必ずお金と結び付いております。迷信に入り込むことの出来ぬ性格の人は、悲しい自殺を遂げられる。私どもは何としても、事柄の源、根源というものから気付いて参らねばなりません。

  親鸞聖人のお言葉を少し引かせて頂きますが、みなさん自身の心を顧みられて、私は清い人間です、と申し得られる方が何人おいででしょうか。別に悪いことはしておりません。と誰しも思いますけれど、私のその心の底には、親鸞聖人のお言葉で、『欲も多く、怒り腹立ち、そねみ、ねたむ心多くひまなくして、臨終の一念に至るまで、とどまらず消えず絶えず』とおっしゃっておられる。実際これは、そんなことはありません、と申したいが申せませんな。現にこの私、確かに欲も多く怒り腹立ち、嫉み妬む心多くひまなくして、しかもこれが一時のものならまだしも、臨終の一念に至るまで、止まず消えず絶えず、と聖人がよくもおっしゃったと私感じ入るのですが、これは『一念多念証文』の終わりの方に出て来るお言葉です。その私どもの現実の中に先程から申します、迷いの世界というものを、己自身の中に気付いてみなければならない。その迷いの世界から救われる道が、仏法です。その迷いを脱して、悟りに向わしめられ、運ばしめられるのが、仏道であり、ここに真の救済というものがあるのです。

  もうひとつ、私どもが反省して置くべき事は、現代の私どもはややもすると、死ねばおしまいという観念が非常に強く根ざしておりますね。死ねば焼いて灰になる、灰になったら何もなくなる。それで万事が消滅と、こういう観念です。しかし、これは、人間の目に見えた限りはそうかも知れませんが、例えば私どもが氷塊を見ている。氷は融けたら無くなります。けれども、私が気付かない水が、そこに形を変えて現れております。とにかくいかに科学的と申しましても、人間の見るところは、時間と空間に制約され、拘束された理解しか持ち得ないのです。ただ人間の常識に思うことだけを、己の信条にしているということは、もう一度考えてみなければならないのではございませんか。

  往生ということは、昔の方は、伝統的に、現代人と違いまして、命が変化しながら変わる永続性というものに関する観念を持たれた。ですから、迷いというものも、ただこの世だけのものではない、命終わって後に現れる迷いの恐ろしさ、そういうものが感じられていたのです。親鸞聖人が比叡山を下りて、六角堂に百日参籠されて、これは恵信尼文書にございますが、『その暁出でさせたまいて、後世のたすからんずる上人にあいまいらせんと』、それで法然上人の所へお行きになられたのですね。後生の助かる、そういうところに真の救済の世界があることに、昔の方々は案外伝統的に敏感であったと思うのです。現代人には、極めてそれが薄くなっている。死ねば終いと言う、人間の目に見えただけがすべてではない、もっと私どもはよく目を開いて見なければならない。

  仏教と言うものは、宇宙論的な教えです。釈尊の教えは現実を超えて大いなる宇宙的真理に目覚められたお方の教えでございまして、その教えを受けた私どもですから、私どももまた小さな人間の常識の中だけに止まっておるという立場を超えねば、真の命の喜びというものに達することはできないのではないでしょうか。

  さて、只今申しましたように、私ども自身の心の清らかでない迷いをお感じになったお方は、何とかしてもっと清い心になりたいものだと重い立たれることは、正しいことであり当然のことと思うのであります。つまり言葉を変えますと、自分の迷いを自分の努力で超えようとする。こういう思いをお持ちになるということは、当然であると思います。しかしながら、なかなかこういうことは、単なる思いで果たされるものではないのでありまして、もしそれを、実際にやってみようとお思いになるお方があるならば、これは仏教でも、聖道門という門戸が与えられていますから、そこへ行って励んでみられるのもけっこうですが、ただしその時は、命がけ、己を捨てるという心根をもって向われるのでなければ、不可能なことだと思います。家庭生活をして、一方に欲の楽しみを願いながら、自分の力で自分の迷いを超えようというようなことは、あまりにも勝手過ぎます。

  迷いと言うものは、そんなに根の浅いものではございません。しかし、これは人間として一度はそんな思いが起ってきても決して無理なことではないと思います。そういう志をお持ちになるということ自体が尊いことであると思うのです。しかし、実際におやりになってみてお分かりになることですが、私はいつも喩えとして申すのですが、自分が今乗っている板を、自分の手で持ち上げることが出来ましょうか。私どもは今迷いという板の上に乗っているのです。その迷いの中から、奮い起す力というものは、迷いの汚れを拭い得ないものになる、自分が乗っておる板を自分で持ち上げるような矛盾を、私どもはきっと身に染みて感じざるを得ない時がやってくる。親鸞聖人が二十年のご修行の後、叡山降りられたというのは、やはりこういう矛盾をお感じになられたのではなかろうか。到底私どもの思っておるような生易しい求道ではなかったと思います。それでいて、やはりこういう悩みをお持ちになったのです。その時代に、法然上人が既に早く浄土の教えをお説きになっていられた。吉水の草庵で、念仏の教えをお説きになっておられたということは、親鸞聖人もずっと以前からご存知だったのです。しかし、おいそれと良いことを聞いたからすぐに行くというようなことをなさるお方ではなかった。ご自身でいよいよ行かざるを得ないところまでやってみられて、そして遂に歩みを法然上人の所へ向けられた。六角堂で百日、観音様に参籠されたと同じ様に、また百日の間、降る日も照る日も欠くことなく法然上人のところへお出掛けになって、教えをお聞きになった。これほどの厳しさがなければ、浄土真宗の道は歩めません。他力の易しい教えだから、誰でもおいそれと行けるようにお思いであるならば、これは誤まりです。そんな生易しいものではない。

  人間の迷いというものそれ自体が、私どもの気付かないほど根深いものでありますから、その私どもが辿るべき道は、決して噂とか、或いは話とか、何かの書物に書いてあったとか、そんなことで仏法の道を辿るのではない。みなさん、己自らを偽ってはなりません。決して夢を見ているのではなく、己を偽ることなく、己を見詰めながら、己が行かざるを得ない方向に歩みを進める、そこに仏道の辿りというものがあることを確信したいのであります。その時の法然上人のお教えは、念仏の教えでありましたが、現代的に言い換えてみますならば、私どもは現に迷いの世界に蠢いておるものでございますが、不思議というか有り難いというか、言葉では言い尽くせませんが、私どもは宇宙の真理というものの外に、出ることの出来ないものなのです。いかに迷っておりましても、この私どもは宇宙的真実というものに包まれておる。そのことを今まで気付くことが出来なかった。その真実のお働きが、光寿無量即ち光明と寿命となって、私どもの上に働き続けて、そして私どもの命を摂め取ってくださる、この道が念仏の教えに外ならないということになります。

  どうしてこのようなことが私どもに起るのか。不思議と言えば不思議、また何と有り難いことかと思われるのですが、真理というものは、末徹った真実そのもの、常に全体を包んでいるものです。これは西洋の人でありますが、ヘーゲルというドイツの哲学者をみなさまもご存知と思いますが、その著書の中でに、『真実なるものは全体なり』という言葉がありますが、これは動かぬ言葉だと思います。部分的なものの中に真実はない。それが真実であれば、日本の国でもアメリカでも、アフリカでも何処へいっても、それは変わりのない働きを私どもの上に及ぼし続けるものである。それを今お釈迦様がしかと体験され、実感され、体得された、それが即ち光寿二無量であったのです。その光というのは言うまでもなく、人間の目に見える光ではありません。しかし、私どもの心の闇を照らして、心の闇を包んでおられる。この事が気付かれた時ああそうであったかと、心の目が開ける。開眼と言ってもよろしいでしょう。その私どもの命に開眼をもたらすものですから、それは闇を抱いて闇を破る光なのです。ですから、これを光明と申されておる。しかもこの光明は、永遠の真実から現れ起ったものですから、それは、無限のものであり、永遠のものである。そこに光寿無量という実感が現れて参ります。そのことを私ども今現にお聞きしておるのです。しかし私どもの煩悩は根深いですから、常に真実の働きを遮ろうとします。その私どもが遮っておる迷いの中で、真実が尚且つ止むことなく、私どもに働きかけておる、摂取不捨とか、摂取光中とか申す事実を気付かして頂くのが、浄土真宗の教えであります。

  そしてそのことに一度開眼されますと、私どもは今までのような思いに止まっておることが出来ないのです。前に述べた柔軟心というような徳を頂きます。なお聖人は現生十種の益として本典信巻に讃えておられます。だからといって煩悩を離脱したのではありません。煩悩を抱きながら光明に摂取されて明るく有り難い境涯を恵まれるのです。それを聖人は『正信偈』に『譬如日光覆雲霧、雲霧之下明無闇』と讃じられました。実に巧みな譬えです。しかもこの境涯に入る時、光明の摂取は私を離れ給うことなく必ず浄土へ達する真実道に乗ぜしめられるのです。これを正定聚の分に入ると言われました。そして忝けなくも弥勒に同じ諸仏に等しとさえ嘆じられたのです。この正定聚の分人こそ真実信心の人です。されば、真実信心の人は必ず往生を遂げ真実浄土のさとりを得るのです。

  ここに往生浄土の重大性を確と思わねばなりません。往生という二文字は翻訳語ですが、往という字があるので何か遠いところに往くように思われる。しかし往生の本来の意味は、世界が変わる∞境涯が転じる≠ニいう義をもつもので決して空間的にある処からある処へ往くという意味ではありません。蓮如上人がこの世の厭わしさを『あわれ死なんとおもわばやがて死なれなん世にてもあらばなどかこの世に住みはんべりなん』と言われ、続いて、『ただ急ぎても参りたきは、極楽浄土、願うても願いえんものは無漏の仏体なり』と仰慕したもうています。その徳を『仏智より賜りながら、先生より定まれる死期を急がんも愚に惑いぬるかと思いはんべるなり』と誡めておられます。往生浄土のところにおいて、究極の悟りの世界に私どもは入られて頂く恵みを、この身に持って生まれさせていただいたのです。

  そのために人間に生まれてきておるのである、そのことに気付かせていただくことは、これは今まで解決できなかった問題をも解決してくださる、開眼というほかないと思うのであります。従って往生ということは、どうぞ間違いなくお受け取り願いたい、究極の悟りにいることであり、そこに救済の究極点があるということ、本当の救済ということは、往生とともに、仏とひとつの身にならせて頂く、皆さまもよくご存知の、足利浄圓先生という方がいつも、仏様はひとつになりたい、ひとつになりたい、と言っておられる、とおっしゃっておられたのが今でも耳の底に残っております。

  宇宙的な真実というものは、そうなんでしょう。身体を持っている限りはまず間違いのない道に、私どもを乗せてくださる、大悲の大道という、間違いのない道に乗せて下さる時を、正定聚と申され、その道に乗せていただけば、必ずや涅槃の仏様と同体の世界にまで、いやがおうでも、運ばれて行くのです。それが正定聚という、もう決して退転はせぬ、脱線はせぬ、後戻りはせぬ、そういう心でございます。

  私どもその道に乗った以上は、もはやそれは仏様のお手元に行ったのも同然であるという、その喜びを親鸞聖人は『末灯抄』には、『正定聚の人は弥勒に同じ、如来に等し』と申されたのです。正定聚の人、その位にあるその時の状態が、信心でございますから、その道を私どもは南無阿弥陀仏といただくのです。阿弥陀仏の真実の御働きに身を委ねる喜びが、南無阿弥陀仏と口に出る。そういうおおけなき恵みの中に、私どもは現在ただ今摂め取られておる身の上であることを、喜ばねばなりませんとともに、その救済の究極点、そこから真の働きに入る、大いなる働きの出発点でもある。還相回向というのは、みなさまご存知でしょうが、その味わいもそこから出て来るのでありましょう。

  色々と申し上げたいこともありますが、今日、往生という題のもとに、そのような私どもを末徹って救われる筋道を申し上げたかったのでございます。色々な点からそれに合わせて色々な恵みを、喜びの味わいをお聞き取りを頂いたことです。どうぞ、根本の筋道をしかと念頭に置いて、往生という輝かしい未来を仰いで頂きたいと思います。

平成9年1月19日




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