菩提心−救道の原点

井上善右衛門先生

仏教には仏教を聞く道、それを仏法に入る門戸と申してもよいでしょうが、そういう筋道がございます。ところが聞法において、聞いて理解するという態度になりますと、これは知識と言う方向に我れ知らず進んでおるのでありまして、それは仏道に踏み込み向かう姿勢ではないのであります。この点を私どもは、先ず十分に反省し確かめておかなければならないと思います。

さてその仏法に入る筋道を私どもに極めて明確に厳正に示されていますのが、『菩提心』でありまして、この筋道の問題を仏教ほど明らかに語り、かつまた、位置づけております宗教は他に求めることが出来ないと申してよいでありましょう。キリスト教では、『求めよ、さらば与えられん』とか、『悔い改め』とかいう言葉はございますけれど、しかし菩提心という言葉に匹敵する厳正な言葉はないのであります。

その菩提心とは、どういうことか。菩提というのは難しい字が書いてありますので、どうかしますと私どもはそれを軽んじ、忘れている場合が多いかと思うのです。漢字で書きました菩提心というのは、シナに仏教が伝わりましてこの言葉が出来たのでありますが、釈尊のお生まれになったインドの言語では、菩提というのはbodhiそれを音で漢字に当てまして、『菩提』といわれたわけです。したがって、菩提というのはインドの言葉、ところが『心』というのは、申すまでもなくシナの言葉でございます。ですから、『菩提心』というのは、インドの言葉と、シナの語が一つの用語に使われておるのでありまして、こうした梵漢併用の言葉はよく出てまいります。

さてこの菩提bodhiというのは、申すまでもないと思いますが、悟り、あるいは目覚め、シナの学者は『覚』と訳しております。この『覚』というのは、宇宙的な真実に、この私の生命が目覚めて一体となる状態をいうのでありますから正覚とも言われて来ましたが、これは大変よい訳語だと思います。
その宇宙的な真実にこの私の生命が摂めとられてゆくことを、この私が願い求め、その世界を希求してそこへ向かい進む心、それが取りも直さず菩提心という言葉になった訳であります。しかし、そこに大事なことは、その宇宙的真実を体現された仏の世界に向かいゆくという私自身の心根といいましょうか、姿勢といいますか、そこによほど注意しなければならない第一の問題があると思います。

私どもの慣らされております心の姿勢というのは、向うにあるものを眺めて知る、と言う態度であります。いろいろとお話を聞いて、知って覚えるという私どもの心の姿勢は、そういういわば癖がついておるのです。癖づけられた心でありますので、仏法を聞く場合にも、やはり私どもは聞いて知ったという枠を我知らず自分にかぶせているというのがあるのですが、それは知の道であっても宗教的な信の道ではない。

しかるにその知の道を知らず識らず聞法の上でも踏み進むのです。しかし道が違っておりますと、それで分かった、理解したと思うけれど、どうも何か胸の中がすっきりしない、曖昧なものがいつまでも残ってゆく。こういう結果が私どもに往々にして起こるのではないかと思います。宗教的体験と申しますか、親鸞聖人が私どもに心をこめてお伝え下さいます信心というのは、眺めて知るのではなしに、真実の中にこの命がおさめとられて気付かされてゆく体験とでも申しますか、そういう筋道であることを先ずしかと心得えねばなりません。

タゴールは次のように言っています。『我々はいろいろなものを外から獲て我が所有にする。しかし宗教の世界は、これと反対である。それは大きな真実の只中に入って遂に我々がその真実に所有されることである』と。たしかにこの言葉は宗教的真実の本質を語っているといってよいでしょう。眺めて知るという場合には私どもはその眺めているものの外にいる。いつまでたっても外におります。外からそれを私どもは写し取って我が物にするという態度だからであります。只今申しますように、真実の中にこの身をおいて、そして体験的にその真実に気付かされて行くという道筋とは、むしろ逆であると申さねばなりません。

仏様とは何か、浄土とは何か、いくらそういうことを論じたり知ったりしましても、それは、眺めておる食物のようなもので、決して私の栄養にもならなければ味わいの喜びも分からない。そこに何か物足りない、満たされない状態が残ってまいるということは、当然のことではなかろうかと思います。それでそこの取り違えのないように、私どもに仏法を聞くということは知るのとは方向が異なるということを明確に示して下さったのがこの『菩提心』という言葉だと申してよかろうかと思います。

ところがこの菩提心でさえ、私どもはこれを取り違えるということが昔からあったのでありましょう。道元禅師がそのことを『学道用心集』の中でおっしゃっています。菩提心というのは無上等正覚を求める心である。あるいは一念三千の悟りを開こうとする心であるというように、色々と菩提心をとやかく言うているがその時、『吾我名利の当心如何』と、こういうことを言うていらっしゃる。非常に鋭い言葉だと思います。菩提心をいろいろともてあそぶようなことをやっているときに、これを『貪名愛利』と言うてありますが、菩提心を頭で云々しているとき、お前さん自身の心の正体そのものは一体どうなっているのかと指摘されているのです。

菩提心というのは先程から申し上げて参りました通り、仏法に入る今日の言葉で申しますと原点です。私どもが仏陀の教えに関わらせていただきます最も根本の第一歩ということです。仏法の原点でございますから、菩提心において私どもが取り違えを犯すということになりますと、それは結局、長い間聞法しながら一つの夢・幻を聞いたに過ぎないということになりましょう。これほど残念なことはなく、また無駄なこともない。また親鸞聖人に対してもまことに申し訳ないことだと申さねばならぬと思います。その原点に立つ心を私どもに最も誤りなからしめるように、示して下さっております言葉が『御一代記聞書』の中にでてまいります。

往生は一人のしのぎなり。一人一人仏法を信じて後生を助かることなり。他事のように思う事はかつは我が身をしらぬことなり。
という切実な言葉でございます。私どもの胸にぴったりと沁みるような戒めであります。ここに親鸞聖人の教えを聞くものにとりまして、はっきりとした踏み出しが与えられていることに気付かねばならぬと感じます。

仏法の原点である菩提心につきましては、聖道門も浄土門もないといって然るべきだと思います。私どもは朝夕、『願以此功徳、平等施一切、同発菩提心、往生安楽国』という善導大師の回向文を誦しております。前二句は自利利他一如の仏教精神が語り示されていることは言うまでもありません。ところが後の二句の初め『同発菩提心』が何か軽んじられ忘れられて、ただ『往生安楽国』だけが眼に入っているように感じてならぬのです。しかし『同発菩提心』を離れた『往生安楽国』は幻想の国への往生になってしまうと思います。そこには人間がまことの人間になる道もまた開かれて来ないでありましょう。菩提心をはずして仏教は成り立たぬのです。

ただ問題は、この私に提起されてまいります菩提心、即ちこの自己の根本問題をば自分の修練と努力によって達成しようという道にそれが推し進められることになりますと、そこに『聖道の菩提心』という非常に厳粛無比な道を辿ることになる。具体的に言えば四弘誓願の実践ということになるのです。行く方向は取り違えてはおらぬのですけれども、しかしこの私の実践ということになれば行き詰まらざるをえない。もともと聖道門というのは、悟りの世界から現れる道理の展開でありますから、そこに誤りはありません。しかしその理の道に私が直ちに乗りうるか否かが問題であります。親鸞聖人が私どもに示して下さった次の『和讃』(正像末和讃)は親鸞聖人が叡山の修行の中で、身をもって体験された悲痛な叫びでありましょう。
自力聖道の菩提心 心も言葉もおよばれず 常没流転の凡愚は いかでか発起せしむべき
この和讃の心は私どもが、私ども自らの身で決するべき事柄であります。さらにまた自己に立って菩提心を徹底しようと思いますと、私どもは純粋に菩提心一途になりきれるでありましょうか。自己の眼前の暗澹たることに気付いて、これを何とかせねばならぬと思う心の下から、フイフイと湧き来る愛欲執我の心を脱却しえましょうか。如何に菩提心をかかげても、それに純粋に徹しきることの出来ないこの身の現実こそ、最も根本的な我が身の問題ではありませんか。この現実こそ放置することの出来ないこの私というものの最も具体的直接的な根本問題といわざるを得ないのであります。それこそが私どもの捨て置けない問題―それを浄土の真実を聞かざるを得ない心―と申してみましょう。その聞かざるを得ない心に私どもは否応なしに導かれざるをえません。それは、この私の究極の問題だからであります。この究極の自己の問題を凝視して『往生は一人のしのぎなり』と申されたのです。そしてそこにこの私のゆくべき『浄土の菩提心』という唯一の道が開かれてあることを親鸞聖人はお示し下さったのであります。




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