こころ

井上善右衛門先生

人間は、外から見ると体、内からすると心という存在でありますが、その外から見えます体に付きましては、ご承知のように今日、微に入り細にわたって科学的に観察され、研究されておるのですが、それに反して、内の心の問題は、殆ど放置されている状態と申して過言ではないという気が致します。昔から、『鳥の両翼』という言葉がありますが、その両翼の一翼を失っているのが現代人ではないか。また、現代の世相ではなかろうかという感じが致します。

今日、科学知識に支えられ、科学文明を豊かに享受しております現代社会に、次から次へと厄介な問題が起こっておりますことは、皆さん、十分ご承知のことかと思いますが、そういう諸問題の原因をいろいろと追究してまいりますと、結局、両翼の一つを失った人間、そこに問題の原点ともいうべきものが潜んでいるのではないか、という感じが切にいたすのです。

今日は、科学と共に外を見る眼が進歩発達してまいりましたが、人間の内面的な柱である心の健康という問題が置き忘れられようとしておるのであります。しかし、これは決して忘れ去られて事済むものではありません。必ずやその問題に立ち返ってこざるを得ない時がやがてやってくるにちがいない。これは、現状に対する反省とともに、将来に対する確信でもあります。

ところが心というものは目に見えるものではございません。心というのは、働きそのものであります。しかもその心が、実に無限の深さと広さを宿しているものなのであります。したがって心につきまして、さまざまな言葉が用いられております。あるいは『意識』と言い、あるときは『精神』と言われ、また『自覚』というよう言葉も使われる。或はまた、『魂』とでも言い表さないと、その意味を十分に表現することが出来ない場合もございます。かと申しますと『目覚め』という言葉もございます。

恐らく動物に『目覚め』などという言葉が使われる場合はなかろうと思いますが、その反対に、人間には『迷い』という言葉もあります。これらすべての、さまざまな言葉が一にかかって、我々の心の問題に帰するのであることはいまさら申すまでもないことかと思います。

その心は、一つ間違えば泥沼にも落ち込みますか、しかしまた、一つ転じますと天駈けるが如き偉大さをも発揮することが出来る。その点において心と申しますものは、よきにつけ、あしきにつけ、実に、無限の可能性を宿しておるものであると申すことができましょう。そういう心が、現に私ども人間として、いま、皆さんの中に動き続けておるのです。この心の問題を、どうして放置しておくことができるでありましょうか。

仏教―殊に天台の教学―におきましては『一念三千』ということが語られます。『三千』と申しますのは数で示されておりますが、今日の言葉に置き換えますならば、ありとあらゆる世界の在り方とでも申してよろしいでしょう。『一念』と申しますのは、まさに、私ども一人一人が抱いている心、そのものでございます。

私どもの抱いております心が、世界のありとあらゆる在り方を現出する動力因である。或はまた、私どもの一念の心を離れて宇宙の森羅万象は成り立たないということを『一念三千』という言葉で言い表しております。この一語を持ってしましても、いかに私どもの心と言うものを仏教が、重大なるものとして捉えたかが分かります。これをはずして人間を語ることはできない、世界も語られない。このように存在追求の基盤として心に大きな着眼を致しまして参りましたことは、ただ目にみえるものだけを知性の対象として扱う科学的思考に異なるところと申してよろしいかと思います。

さて、その人間の心というものは、これを外に捉えて外側から眺め観察する事の出来る性質のものではございません。心そのものの中に入り込んで、その主体となって生きてみることにおいてのみ、私ども心がいかなる働きを演じ続けているのかということに、触れることが出来ると申すべきでありましょう。私どもの平素ならされている外を見る姿勢を転じて、自らが己の心の働きそのものになって生きてみますと、そのときはじめて我々は、心を自由に使えるものであるのに、これを不自由に使うているという自己の現実を問題として実感するようになってまいります。

ところが、私どもの心には、大きく申しまして二つの層がございます。二つの層と申しますのは、表面の心と、底の心と言い換えることができましょう。今日の言葉で『意識』と申しますのは、表面の心でございます。外側に動いて自分でも気付いている。しかし、眠っておるときは働いていない。これが、人間の表面に動いている心であります。意識に対して底の心と申しますのは、今日の『潜在意識』と申すものに当たります。心の底に深く沈み隠れて、それ自体の姿を表にあらわしていないけれども、絶えることなくその底の心が表面の心に作用し続けているのです。表面の意識は途絶えることがある、意識不明になることもあり、あるいはまた熟睡しておるときは、意識は停止しておることもございましょう。

ところが、不思議なことに底なる心は、その働きをやめる時がない。仏教ではこれを『不断』と申します。『不断』とは、断じることがない、絶えることがない、生涯働き続けておると言う意味です。そういう二重の成り立ちを人間の心が持っておることを、先ず省みることが必要であります。

表面の心を成り立たせておるものに先ず五つの感覚的意識があります。眼があって視覚を通じて物が映る、耳があって音を聞く、鼻があって臭いをかぐ、舌があって味わいを知る。そして皮膚があって触感が成り立つ。このように私達の感覚は五つの要素から成り立っておる。これを『前五識』と申します。『前』とはさらに次のものに対する言葉ですが、また同時に一番前面にあるという意味合いも含められましょう。

それから、五つの外側の感覚意識に合わせて、必ずそれに添って動いている第六意識、即ち第六番目の内的な働きがあります。今日私どもが一般に『心』といっているものに当たります。私どもが目で物を見ましたときに、同時に第六識で再確認して明瞭な意識となるのです。しかもこれらの諸六識には種々な従属作用があって、快いと思ったり、いやらしいと感じたり、好きだと思ったり、私どもの外的感覚にぴたりと一つに寄り添って動くのです。味わいにおいても、臭いにおいても、すべて同様です。内の心は第六番目に数えられますから、名称上『第六意識』と申すのです。またこの第六意識という心は感覚を離れて独りで働く場合もしばしばあります。以上六つが私どもの表面の心、表に立ち働いている心であることは疑いないところであります。

ところが、これだけで人間の心が成り立っているかと申しますと、そうではない。表面の意識の底に潜んでいる隠れた心の働きがある。そんなものがどこにあるかとおっしゃるかも分かりませんが、私ども誰一人として『おれが、おれが』という心を無意識に持っていない人間はございません。嘘と分かっていても、ほめられると喜ぶ。本当だと気付いていても自分の過ちを指摘されると、不愉快になる。それは何がそうさせるのでありましょう。人間の心の底には、先天的に閉鎖的自我を形づくってそれに執着するような働きが潜み宿っている。人間には無意識に『おれが、おれが』と固執している心がある。その働きが私どもの意識の底に働き続けているのです。

私どもが腹を立てたり、喜んだり致しますのは、殆どの場合、深層に姿を隠して潜んでおります心に反応して現われるのです。人間の喜怒哀楽は底なる心と関係しております。そのような底の心を仏教では『第七識』と名づけております。第六番目のもう一つ奥に隠れておるものですから、『第七識』、或は原語では『末那識』といわれます。これが私どもの心の核になって、この私をあやつっておることは否定できないところであります。

ところが更にもう一つ。上記の前五識、第六識、第七識が私ども人間におきまして、決して、ばらばらなものではございません。何か、そこに一個の完結した統一態を成り立たせておるものがある。何が一体、五つに数えられ、六つに数えられ、七つに数えられるようなものを一つにまとめておるのであるか。まとめておるというのは、すべての働きの土台となり、心の基礎となっていると申してよいと思います。そういうものを仏教の言葉で、『第八識』と申したり、原語では『アーラヤ識』と申します。

『アーラヤ』は『蔵』という意味でありまして、すべてのものを収め、すべてのものをそこから出してくると言う意味を持ちます。『アーラヤ』という言葉を玄奘三蔵は『阿頼耶』という漢字でその音を表しておるのでございます。人間の心の働きはそのような成り立ちの中に構成されています。人間の精神の成り立ち、構造を念頭におさめて頂きまして、自己を問い直す事も、一つの方法だと思います。




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