生き甲斐ーA科学と『人』ー

井上善右衛門先生

ところが先ほど申しましたように、今日の私どもの文化を支えているものは科学でございます。この科学というものは、いろいろの捉え方が出来るでしょうが、私は科学というのは一言で申しますと、『外を見る目である』と申してよかろうと思います。私どもの外側に何があるかを、厳密に観察したり、そこにあるものを法則的に認識する。こういう能力が科学の世界を打ちたてたその本質をなす性格でございます。

ですから、科学は私どもの外側の世界を厳密に追及し把握するという点においては、たしかに正確な成果を私どもにもたらすものです。けれどもその性格の根本に、外を見る目という持ち前を持っておりますから、科学の目の前に映し出されるものは、ことごとく外側のものとして眺められ捉えられてくる。このような認識の仕方を対象的認識ということばで、いい表されておるのですが、例えば人間というものを観察致します場合、科学的に人間を対象とします場合には、眺められたものとしてのみ見尽くせないものがあります。人間の主体的自覚がそれです。そこには無限の深さがある。しかしその領域に科学は手を廻すことができない。自覚は対象化できない領域なのです。

科学は、ご承知のように日進月歩に、私どもの外側の世界の前進をもたらしています。私どもの外側の世界の造りかえを営んでまいります。けれども人間自体の自覚や心情には手が及ばない。そういうところから、最近皆さんもよく耳にされると思いますが、科学の成果は結構だけれども、その科学を如何に使うかという、使い手が問題なのだと。それは科学の罪ではない筈です。 その科学を如何に駆使するかという、明らかに使い手の問題ですが、そういう問題が浮かびあがる。しかも使い手の根本自覚を科学そのものは明確には正していくことができない。そのようなところに今日の問題点が存在しておると思うのでございます。

今日の科学文明というものが至れり尽くせりに、外側の便利さを、私どもの周辺に積み重ねてきましたことは、疑う余地はありません。しかし「よく生きるという」その「よく」の二字が指しておるそのものを、科学は根底から明らかにすることができないのです。今日の科学を土台とした文明というものが、私どもの外側の拡大・拡充ということには大きな力を添えますけれども、真に人間の求めている「よく生きる」という内容を展開できない。

そこに時代に敏感に感覚いたします青年達が、現代社会への不満を「生甲斐への不満」として訴えるということは、これは非常に意味ふかいことだと思うのであります。今日の文明というものが人類の真の行く手を照らすものかどうか、真に人類の歴史を正しく前進向上せしめるものかどうか、この問題は、只今申しましたようなところにかかっておるのではなかろうかと思います。

最近私は自分の立場(当時、神戸商科大学の学長)から、つくづく思わせられることが一つございますが、それはどう言うことかと申しますと、今日は組織・制度優先の時代でございまして、組織・制度さえよければすべてのことがうまくいくという観念が至るところにひろがっている。しかし実際の問題にたずさわってみますと、組織・制度の欠け目というものは、人間の良識と協力で補っていくことが出来ます。しかし人間の欠陥というものを組織・制度は埋め合わせてくれません。反対に組織・制度が悪用さえされる。こういう問題点を、私は何か身につまされて感じるのでございますが、そこに「人」という問題がある。その「人」の問題が何か隠されておりまして、そして見える組織・制度だけが問題にされておる。

人間というもの、或はこの世の中というものが機械でありましたら、それは組織・制度というものだけで事が円満に整ってまいるでしょう。しかし、何といいましても私どもの人生というものは「人」というものが生きて動いておる世界です。その「人」の内的要素というものを見えぬところに隠しておきながら、組織・制度だけを優先させて、それで事が片付くというような考え方で、はたして正当な生き方がつくり出せるであろうか。

私はそれを何と表現したらいいかということを思ったのでございますが、このごろこんなふうにいえるのではないかと思います。今日は車体を整え飾ることに気をとられて運転手の存在を忘れている。それではどれほど車を整備してみましても、それは立派な車として役立つものにはならない。これは分かりきったことのようなんですけれども、今日の世の中の現実というものに直面致しますと、いつもこういう問題につき当たる。「人」という問題が「物」というものの陰にかくされてしまっている。家庭ということでもそうでありまして、家庭の仕組みが悪い、制度が悪い。それでご承知のように民法か改まりまして、家族制度というものが一変いたしました。はたしてそれで家庭円満ということが、ほんとうに実現したであろうか。

平和という問題を考えます場合も、今日はやはり考え方は同じでございまして、国と国とが対立しておるからしてそれで戦いがおこる。独立の主権というようなものをなくしてしまわなければならない。そして世界を一つの政府にしてしまえば戦争はなくなるであろう。国境というものがあるから戦いがおこる。国境を無くしてしまうのが先決だ。或は武器があるからそれで戦争がしたくなる。だから軍備というものを先ず禁止し全廃する。そうすることによって平和が招来できるであろう。こういうような考え方であります・これも尤もな一面がございます。たしかに私は意味ある点を諒承します。

しかし、翻って考えますというと、例えば私どもの家庭の中には境界はございません。それから家の中には無論武器はありません。しかも家庭の一人一人は皆利害を一つにしておる。主人が好調であるということは奥さんのよろこびというものでなければならん。全く利害は一致しておる。そういう角度から申しますと、家庭というところは平和の条件に全く叶っておると申してよいと思うんです。しかもその家庭において、生涯喧嘩を止めない夫婦というものがある。一体この事実をどう解釈するのか。

やはり、そこにも人という問題を忘れては、問題の決め手を失うことになるのではないか。このように思い合わせてきますというと、私には組織・制度も大切でありますけれども、それと同時にこの人生という所では、何としましても、人の真実というものへの道を開くこと。このことなしに、私どもの生きておるこの世の中の、解決はつかないと思うのであります。

B真実の願いに続きます。




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