生き甲斐ーC宗教的真理ー

井上善右衛門先生

つぎに、宗教に対する一般の思いというものが、もういっぺん、出直してみなければならないのではないかという感じがいたすのでございます。よく申されますのに、宗教というのは何かぼんやりしたもので、幾度聞いても同じところをぐるぐる廻っているような気がすると、こんなことを申される方がいます。これは少し的がはずれているのではないか、という気が致します。

そのように何時までも遠い彼方の夢物語を聞くというようなものではなしに、科学に取り残されておりますような、自己の内面の問題、その自己を尋ね求めて、自己の根本問題に迫って行く道がすなわち宗教的自覚への道だと私は思います。したがってそれはぼんやりとした取りとめもないものではなしに、私どもの人間としての問題点を一つ一つ押さえていくことによって、嫌応なしに仏陀のお言葉に迫っていかざるを得ない、そういう確実な階段を踏みしめるような、そういう足取りが私は宗教的自覚への道だと思います。

しかるに何か、宗教的真実を開く踏み出しに残されている問題があるのではないかと思われます。一段一段と私どもの自覚が開かれていくということでしたら、それは必ずや青年達にその一歩一歩が感動として、気付かれてゆくでしょう。現代人のもっております生甲斐へのやるせなさ、生きることそのものへの不満、こういう問題を捨て置いて、空しく彼方の物語を聞いておると言うことになれば、何時までたっても同じことでございましょう。科学というものの答えてくれない、人間としての己れ自らの問題、その問題の急所急所を押さえてまいりますならば、そこに必ずや一筋の道が私どもに開かれてくると申さねばなりません。

よく科学は実験出来るけれども宗教は実験出来ないと、学生などが申すことがございますが、これも取り違えでございます。科学というのは、先程申すように外を見る目でございますから、科学の実験の場は私どもの外にあります。その外側の場において科学的に追求した法則を実際の場に確かめてみる、これが科学実験というものでしょう。しかし宗教的真理というのは私どもの外側にある真理ではございません。私どもが人間として、生きる主体として、私どもの内に見出されて来る真理でありますから、宗教的実験の場は、この生きる私自身の中にある、これがまさに私どもの宗教的真理の実験の場だと申さねばなりません。その実験が出来ないような宗教的教条なら、それは空しいドグマであるといわれても致し方ないことです。

親鸞聖人の教えは、決してそのような空しいドグマでも、慰めの物語ではない。真の人間として生きる道、私どもが人間として生まれてきました生甲斐を全うするかしないか、その岐路に立って、いのちそのものの問題を、ご自身のいのちそのもののなかに実験された。そこに親鸞聖人の教えの確かさのあることを私どもは気付かねばなりません。

よく法蔵菩薩がご修行になったといったって、どこでご修行になったのかというようなことを、何か空間的に尋ねようとする私どもの思いや考え方がございますけれども、空間の場でたずねられるのは科学の問題です。法蔵菩薩の修行された場所は明らかです。この私のこの胸のなかで修行されたのでございまして、その事実を踏み外して、宗教的真理というものを追っかけておりますと、全く捉えるところもなく空しく馳るということになるのではありませんか。

私ども人生の実際に立ってみまして感じることの一つは、今までいろいろ人生の情景を見せて貰って来たけれども、どうも人生の景色を見尽したというふうには申せません。もし人生というところが空間の場でしたら、あちらではあんなことが起こっているし、こちらではこんなことが起こっておるというように、時間を掛けてすべてのことを見尽くすということも可能でございましょうが、どうも人生というところはそういう場所ではないようです。そうではなしに、この私の人生に生きる心境というものが少し変ってまいりますと、今までとは違った様相を呈して、人生というものが現れてくる。

例えば、どうもあの人はけしからん人だと思っていた人が、こちらの心が少し視野が転じてきますと、何か愛することの出来る人となって、現れてくる。そして前に私が見ていた相手と新しく見出した相手と、どちらがより正しく相手を見ておったのかということになりますと、何か人生というところは横に拡がっておるのではなしに、奥行きがあると申しますか、その奥行きを私どもが掘り起こしていかねばならぬと言うことになる。その掘り起こしていく掘り手は誰かというとこの私なんです。人生というのはそういう場所ではなかろうか。それを何か平面的に人生を考えておりますと、そういう人生には宗教的真理というようなものは見出せない。宗教的真理が確実に光りをそそいでまいります場所は、空間としての人生ではなしに奥行きとしての人生の中にある。私はそういう気がいたすのでございます。

Dの自己を尋ねるに続きます。




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