体験と真実

井上善右衛門先生

仏教を学んで知るとか、或はながめて研究するとか、こういうような道を私どもが、いくら積み重ねてみましても、仏教の真理にまみえることは恐らく不可能と申してよろしいでありましょう。今日、仏教の研究が非常に盛んであることは事実なんですが、しかし、その仏教の研究が、知的対象として研究されておりますかぎり、仏教的真理にわたしどもが到達する道を歩んでいるのかどうかは極めて疑問であると言わねばなりません。

今ここに一つの蜜柑があると致しますと、それを私どもが手に取ってその色・形・艶・重さ・大きさ等いろいろこの蜜柑のもっておる諸性質を眺め観察して知ることはできます。これも確かに、蜜柑に対する私どもの認識の一つではございますけれども、しかしそれが蜜柑の内容とこの私とが関わるすべての方法とは申されません。では他にどのような仕方があるか。それは私が親しくその蜜柑を私の口にいたしまして、それを味わってみるということです。そういたしますと、眺めていてはわからなかったような、或は言葉では尽くせないような、秋の味覚を私どもは味わい知ることが出来ますし、同時にその蜜柑の持っておる栄養を、この私の身に受け取ることができるのでありましょう。

宗教の道というのは、観察して知る知識、そういう筋合いのものではなしに、ただいま申しますように、一つの豊かな内容を持っておるその真実をこの身の上に味わい受け取る道こそが仏道というものでなければなりません。したがって、学問的な仏教の知識というものが決して無駄だと申しませんけれど、その方面ばかりに関わりあっておりますと、遂に大切な生きた仏教的真理を逸する結果になるのではないか。

仏道というものは、宇宙的な真実に、この私が通わしめられるところの体験でなければなりません。したがって、釈尊の正見・お悟りに基づく教えというのは、決して釈尊が知的に世の中はこんなものだとか、真理はこうだとか、というようなことを私どもに説明されたのではない。お釈迦様ご自身の人間としての根本問題の解決という、そういう菩提心の位置に立たれまして、そしてついに、宇宙的な真実との命の交わりと申しましょうか、釈尊ご自身の命が真理によって開かれた、その開かれた真実の明るさと悦びと力とを私どもにお伝えくださったのが、仏教だと申さねばならぬのであります。

その後いろいろな祖師方が、それぞれの道を通って、証(しょう)即ち悟りの世界を私どもに明かしてくださっておりますのも同様の意味内容でありますし、或は浄土門における信心というのも、仏の私どもに働きかけてこられる大慈悲の中に、目を開かしめられることでありまして、これはやはり体験と申すべきものであります。

我々のこの人間の世間でいう信というのは、なにかこれは間接的なのでございまして、あの人の言うことだから間違いなかろうと信ずるというように、その人を仲において間接的に何事かを信じると、こういう形のものが私どもの世間における信というものだと思いますが、宗教的信、宗教的な信体験というものは決してそのような間接的なものではない。どこまでも直接的な体験なのであります。

仏様の大いなる慈悲の中に、この身が摂めとられていることに気付く体験、そういうところに浄土門の信心も、また開かれてくるものであります。このように顧みてまいりますと、仏教にはいろいろな立場というものがございましょうけれども、それを一貫して申しますならば、その仏道の趣くところは一つである。宇宙的な真実と私の命とが、親しく交わり触れる体験の中に、私どもが新しい人間として甦る道が与えられるのであると申さねばならないと存じます。

さて、私どもの現実というのは。道元禅師が示しておられるように「実法を厭うて妄法を求める」ということです。これを現代の言葉に置き換えてみますと、次のように申してよかろうかと思います。即ち真実に背を向けて夢を追うということです。この生活の実態を「実法を厭うて妄法を求める」と言うておられる。これは人間自身へのきびしい反省であり、まことの自覚であると申してよいと考えます。

なぜそうなるか、なぜそうなっていかざるをえないのかということは、長い人間存在の歴史を省みなければなりません。歴史と申しますと、わずか二千年とか三千年とかを歴史と申しますが、もっと悠久な人間存在の生命の歴史を振り返ってみなければならないと思います。つまり人間がいつのまにか、身体的欲望の奴隷となって生きる生き方を身につけてしまったということです。それはこの体としての自己に閉じ込められ、それをすべてだとするところからきております。これは人間の先天的な一つの錯覚だと思いますが、人間の本能的な意識が根となりまして、誰しも身体的な欲望を追求し、その身体に執着する、しかもその身体的自己と言うものは、やがて消え失せていくものでしかない。そうすると、一体なんのためにその欲望を追い求めているのであるか、実にそこに空しいものが残ってまいるほかないわけです。それが「実法を厭うて妄法を求める」という人間の姿です。真実なるものに背を向け、何かしらん空しいものを追い続けずにはおれないという、人間の実態なのであります。

では一体、私どもの求めておるものは具体的には何かということになりますと、次のことに尽きるのではないかと思います。それは「名利と愛欲」です。俗な言葉で申しますと、色と物欲と名誉です。これはどういうわけか人間には非常に強い魅力をもっておりまして、そして我れ識らず人間というものは、それを追及するのにあくなき執着をもつ。そしてその結果がどうなるかということは、案外考えてはいない。

ですからお釈迦様の最も古いお言葉の記録といわれているあの『スッタニパータ』(法句経)には、「これは我がものだと思っているものも、その人が死ねばどこかへいってしまう。我がものにするために、夢中にならぬがよい」というお言葉があります。非常に平易なお示しでございますが、まことにその人が死ねばどこかへいってしまう、跡形なく失せてしまうようなものを追いかけるのに、人を傷つけ、自らも苦しみ、何かそこに夢中になってゆく人間の姿が指摘されております。

「夢中にならぬがよい」といわれておるところに、その空しいものを追う心を翻して、背を向けていた真実に、心を振り向けてみなければならぬぞという切なるお釈迦様のお心が、私どもの胸に響いてまいるような思いがいたすのでございます。やはりまずこういうところから、求道心というものを我が身の問題としてみなければなりません。

菩提心は決して単なる理屈ではございません。捨てておくことの出来ない問題意識、自己の根本問題に関わるやむにやまれない思い、そういうところに自己を立たしめ位置づけるところに、真の宗教的要求という意味があるかと思うのですが、そのことに関連いたしまして、私どもにとって非常に貴重な事柄が現存しております。それはどういうことかというと、いかなる人間も否むことのできない事実として、現にただいま苦というものを経験しておるではないかということであります。

次回の『苦諦と集諦』に続くーきます。




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