聞と信 ー聞法と二灯二依ーA

井上善右衛門先生

人間が動物と異なるところは、自己の担い手である自己というものを持っている点にあります。動物はただ本能と衝動に機械的に動かされる。ところが人間にはその本能と衝動とをさらに支配する自己がある。現に我々は機械の歯車に挟まれて動くだけの存在とは思っていません。人間には誰にも自由の要求があり希望がある。そこに自らを担い、自らを決する自己が前提されています。そのような自己は、人間であるかぎり必ず我々の内にある。かくて自己の自覚というものが生まれて来ると、ここに始めて生きた責任の意識が湧き起こるのです。

自己を持たずして責任を感じるということはあり得ない。責任を自覚しないような人を我々は一人前の人とは考えないし、自分のよき友達としたいとも思わないでしょう。だから何よりも先ず自己の目覚めを育てることが必要です。自らを担う自己の自覚が明らかでなく、原因をただ外に求めている限り、人間として生きる精神の秩序は生まれません。

しかし、一度人間が自己に目覚めてみると、そのときこそ今まで問題にならなかった自己が問題になり始めるのです。自己に気付くことなしに、自己が問題になりません。自己が問題になることなしに仏法への道は開けないのであります。

我々が自己に目覚め、自己のすべてを担っている自分に気付くと、この時はじめて自分は果たしてこれでよいのかということが切実な問題になってくるのです。自分の内面を見、自分の不完全を知り、自分の責任を感じるという心が生まれてきます。すると、それはそのまま自己主張への静かな反省とならざるを得ません。それは決して自信を失うた自己喪失の心ではなく、自己に目覚め自己を大切にすればこそ現れてくる自覚です。

自己を失わずしてしかも自己に固執しない心の道が見出せるのでなければ、民主主義の精神も決して確立するものではありません。自己をよい加減に捨てて衆に従うのではなく、どこまでも真剣に忠実に自己に生きながら、その自己に執じて自己を絶対視するのではなく、自己を超えて自己を照らすものを忘れないことです。それが徒(いたず)らな自己主張に走らぬということであり、他の言葉を尊重する余裕を持つということであります。

人間は個性によってものの見方、感じ方が違ってくる。例えば私の友人は現実主義的な考えを持ち、私は理想主義的な傾向を持っているとすると、何かある問題に遭遇してと友は私を評して夢を見ているというでしょうし、私は友を評して現実に溺れていると思うでしょう。これはどうにも仕方のない相互の思いで、それを誤魔化すことは出来ない。

しかしそこに相手の言葉を通じて私は自分の思いの中に現実を見忘れている節はないであろうかと、反省を怠らず、友もまたその反省において同様であるとすれば、意見を異にしながら反目し合うのではなく、却って内面的に協力することが出来ます。相互が相互を高めることが出来る。何等か否定するものがあってこそ、前進は可能であります。

しかも各々が各々の個性を通じて一隅を照らし、全体の統一に美しく寄与することが出来ます。性格を異にし意見を異にするものが憎み合うのでなく、尊重し合うということが実現するのでなければ、民主主義は成立しません。しかるにただ対立と憎悪に始終し、相手を敵と呼び、これを覆滅して自己を拡張する戦術のみが議せられるところに、どうして民主主義の成長がありましょう。民主主義は制度と共に心の態勢を開くところから始まらねばなりません。

さて我々が自己に目覚め、自己が問題になってみると、その目覚めを通して今まで気づかなかった自己の心の不可解な深さが必ず浮かび上がってくるものであります。人間の心ほど不可解な謎を宿しているものはない。私は一体自分自身をどうしようとしているのか。私の心は何を思い、何を考え、何を企てているのか。この心に真に明るさがあるのであろうか。そう思いきたると、さ迷う自己の果てしない過去と未来が胸に迫らざるを得ないのです。




[戻る]