聞と信 ー聞法と二灯二依ーB

井上善右衛門先生

 自己の存在の底に横たわる謎と矛盾、それは自己が問題となる人に必ず現れずにはおれぬ事柄です。そのとき我々はあたかも無限の虚無の深淵に吊り下げられているような、浮雲の上に足かけて立っているような、そうした自分をしみじみと感じるでありましょう。このとき自分はどうしてもこのまま自分を捨てておくことができない。闇を脱して明るい世界に出てゆかずにはおれない。

求道というのは決して外から命じられる努力ではなく、内から湧くやむにやまれぬ魂の切願であります。その切願の中に立つと言うことは、自己に気付くという道をおいてはありますまい。人生行路の様々な経験を経て人生の無常を感じるということも、人生を介して自己が気付かれてきたことに外なりません。

自己に関らない無常ということは、おおよそ無意味なものであります。かく諸縁を介して自己が知らされ自己が問題になってくると、それは同時に今までの自己に止まっていることの出来ない立場が開かれてくることを意味します。自己が自己以上のものに照らされてくるからです。即ち自己を見、自己を知ることが自己を超える道に転ずるのです。ここに真実の法に遭う道が開けるのであります。

釈尊は最後の遺誡を弟子に示して、「当(まさ)に自らを灯明とし、自らを依所とせよ。法を灯明とし法を依所とせよ」という名高い教示を垂れておられます。自己を灯明とし依所とすることと、法を灯明とし依所とすることが表裏一体に説かれていますから、これを二灯二依(にとうにえ)の教えとよばれています。自己を離れたものは戯論です。法を聞く場は自己を離れてはありません。先ず自己を依所とし自己に目覚め自己に還らねばならぬ。しかしそれは自己に止まり自己に執じることではない。

法は外にあるのではなく、常に自己の内にあって心の扉をたたいているのですから、自己より外に法に触れる場所はない。「火は熱い」と聞いても自己をよそにしていては、「火は熱いものだそうだ」ということに止まる外ないでしょう。火の熱いことを証するのは自己自身を措いてはない。法は自己にお いて顕現するものです。この故に自己を離れて法はないと言いうる。自己に帰らずに法を聞くとき、法は物語となってしまう。それは知識の対象とはなっても、"いのち"の拠所とはならない。親に抱かれる子のように、自分の心は法に抱かれている。だから自分に帰るものは法に還らしめられざるをえない。自らを灯明とすることが法を灯明とすることになる所以がここにあります。

道元禅師が『正法眼蔵』に、「仏道をならうというは自己をならうなり、自己ならうというは自己を忘るるなり、自己を忘るるというは万法に証せらるるなり」と言われている有名な言葉は、またこの消息を語られているものでありましょう。仏道は自己をならうことに始まる。それが自己を超え、法をいのちとする世界を開く、それが即ち万法に証せられることに外ならぬと示されているのであります。

我々人間は誰しも健康に重大な関心を持っているのですが、その健康とは一般に身体の健やかさを指す言葉になっています。しかし肉体は動物にも通ずるものです。人間が動物と異なるのは身体と共に精神をもっているところにあるのですから、人間の健康と言う場合、それは身と心との二つながらの健康でなければなりません。静座の岡田虎次郎先生の言葉に「人間の健康とは身と心との健康である。そうした健康を楽しんでいる日本人が何人あるであろうか。否、世界に幾人あるであろうか」と言われていますが、深く思わしめる言葉であります。

毎日の新聞を見ると、多くの薬の広告が紙面を賑わせているのに気がつきます。それは広告が病気や健康の関心に結び付くからでありましょう。ところがその反対に、毎日の紙面には次から次へと心の不健康な悲劇が家庭にも、社会の問題にも、世界の出来事にも報じられているのを見ます。身体の健康に留意するのに比して、どれだけの関心が心の健康の問題に払われているかが反省されざるを得ません。

また我々は外からの禍(わざわい)には非常に警戒するのですが、内からの禍にはあまり注意をしない。しかし外の禍というものは案外回復されるものです。東京の震災でも関西の風水害でも、実に目覚しい復興を我々は経験しました。しかし内の禍というものは恐ろしい。「獅子身中虫」というのは仏典から出た言葉であり、「三宝を破壊するのは獅子身中の虫の自ら獅子を食するが如くであって、外道のわざなのではない」(仁王波羅蜜経)と説かれているのですが、まことら至言といわねばなりません。老人はよく家の戸締りに注意を促すものですが、それは人の世に生きて来た経験からです。しかし我々は心の戸締りにどれ程の注意をしているか。心の盗人というものは、時をきらわずやってくる。外の用心に対し内の不用心に思い至るべきでありましょう。

ところが我々にとっての聞法の過程は決して真っ直ぐに本願の真実に直進するものではありません。まことに紆余曲折の道へ巡るものです。それは聞法の旅路の実際なのであります。我々はその旅路を一歩一歩踏みしめる外ないのです。

人間の精神には知と情と意という三つの活動の分野があります。それが決して各別独立のものではなく、一つの精神の三つの側面として働くのであることは容易に了解しうるところです。その一体である一つの精神が天地の真実の中におさめられ一致せしめられる外に救済ということはあり得ません。根本の精神が真実に背を向けてさまようておるとき、知・情・意の上にも迷える妄動が起こることはいうまでもないことです。その妄動、或いは盲動といってもよい、それが即ち煩悩に外なりません。精神は知・情・意として活動しているのですから我々が真実を求めようとするとき、ひとまずはどうしても、この知・情・意の働きに立つことになる。しかし迷える自己の知・情・意の上に立って真実を探るかぎり、如何に正しさを期しても自己の画く影を脱することができない。それは畢竟、表象(描かれた像)に止まって真如(真実そのもの)の世界に触れることが出来ないからです。

カントと言う哲学者が物自体という問題を出しました。我々の認識するところは主観の構成したものに止まって物自体に達することが出来ないという。確かに人間的な認識に止まるかぎり、このことは肯定されなければなりません。カントはこの壁を破る道を知識を超えた実践界に求めたのですが、それは兎に角として、我々の聞法の途上においても自己の画いたものを自己が見ているかぎり、本願の真実から有利することは避けえません。如来の親心を聞くと思いながら私の人間的なものが附着しているかぎり、聞いても聞いても拭いきれない何ものかが残る。そして不安がどこかに潜む。その底には無意識のうちに自分の方からする何ものかが宿っているのです。それが人間に共通した精神の姿であります。




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