仏恩報謝―(1)報謝とは

井上善右衛門先生

浄土真宗の真実、親鸞聖人の宗教的体験の“かなめ”とでも申すものが、三つあろうかと思われるのでございます。その三つと申しますのが、一つには申すまでもないことですが、「信心正因」という言葉で皆さんがよくご承知の、信心が根本であるということ。それから第二番目のかなめは「正定聚」ということ、これはご承知かと思いますが、私どもが現在この身で真実の国に往き生まれる間違いの無い身の上に成らしめられるのであると云う意味を、親鸞聖人は正定聚という言葉でお示しになりましたが、それが蓮如上人に至りますと、皆さんお聞きの「平生業成(へいせいごうじょう)」という言葉をもって現生正定聚というお心が伝えられるようになりました。
それから第三番目は、今日ここに申し上げたいと思います「仏恩報謝」ということ、報謝の念仏ということ。以上が親鸞聖人の宗教的体験の三つの“かなめ”を成すと申してよろしいかと思うのでございます。

皆さんが朝夕仏前で読誦(どくしょう)されます『正信偈』の中にも、

憶念弥陀佛本願(おくねんみだぶつほんがん)
自然即時入必定(じねんそくじにゅうひつじょう)
唯能常称如来号(ゆいのうじょうしょうにょらいごう)
応報大悲弘誓恩(おうほうだいひぐぜいおん)
と続いた4句の言葉がございます。「憶念弥陀佛本願」といいますのは、申すまでもなく信心ということであります。それから「自然即時入必定」とありますのは只今申し上げました現生正定聚、平生業成という意を自然即時入必定という言葉であらわしておいでになります。そして「唯能常称如来号、応報大悲弘誓恩」という句は、取りも直さず仏恩報謝ということを『正信偈』の中に明確にお示しになっておるのでありまして、この三つのことが浄土真宗の真実をあらわす柱となっている事が知らされます。その第三番目の仏恩報謝ということにつきましてご一緒に少し省み味わわせていただきたいと思うのでございます。

仏恩報謝ということは、皆さんつねづねお聞きのことでもございますし、報謝の念仏ということは今更あらたまって申し上げるまでもないのですが、しかしその心はどういうことなのであろうか。仏様からご恩をいただいたので、そのお返しをしなければならぬ。とそういうふうに仏恩報謝ということを感じておられるお方があるとするならば、それは全く親鸞聖人のお心ではないと申さねばなりません。
『正像末和讃』に、

弥陀の尊号となえつつ
信楽まことにうるひとは
憶念の心つねにして
仏恩報ずるおもいあり
とお詠みになっておりますが、「仏恩報ずるおもいあり」というお言葉の中に、よく感じられます聖人のお気持ちには、決して何か遣り取りに仏様にお礼を申すという心はいささかも感じられません。「信楽まことにうるひとは、憶念の心つねにして、仏恩報ずるおもいあり」おのずと自然に仏様のご恩に頭を下げて有難うございますと申さずにはおられない気持ちが心の底から催して来るとでも申しましょうか、そんなお心が私どもに響いて来るのであります。

申すまでもなく浄土真宗の信心は、阿弥陀仏の光明無量、寿命無量の光寿を私どものこの身に頂戴すると言う体験でございます。それは話ではなくて、現に只今、私どもが阿弥陀仏の光寿を頂戴しているその事実に気付かせていただくことが信心の中心の事柄でございましょうが、その信心の上におのずと催されてくる生活実践の心情を『御一代記聞書』の中に「仏法の上は何事も報謝と存ずべきなり」と語られております。したがって報謝ということは、私どもの生活実践のすべてに関わる心情でございます。

無論、念仏がその中心になるのではありますが、さてその報謝というのはどういうことを意味されているのであろうか。報謝という言葉を表に出しますと酬(むく)い報じるという意味が出てまいるのですけれども、報謝というお心はむしろ私どもの如何に生きるかという生き方の本質、あるいは生きることのあり方、そうしたこころを述べておいでになるという思いがいたすのであります。したがって報謝ということは、意識的にお礼を申すというような意識や自覚をもって念仏するとか生活するということとは限らない。報謝の意識的な思いがあろうがなかろうが、その私どもの信心の上からおのずと流れ出る生活のすべてが、仏恩報謝という生き方に転じられてゆくというふうに、意識的な報謝よりも、更に深く私どもの生活そのものの中に報謝と申されるお心を味わってみなければならないと思うのであります。

したがって報謝の念仏と申しましても、何心なく申す念仏も有難いと思って申す念仏も、あるいは申し訳ないことだと思って申す念仏も、あるいは苦悩を縁として出てまいりますお念仏も、ことごとく私は報謝という意味合いがそこに含まれておると申さねばならぬと思います。したがってそうした味わいを私どもに示して下さっているお言葉はいろいろございますが、例えば、『御一代記聞書』に出ているところを取り上げてみますと、

信心の上は、尊く思うて申す念仏も、またふと申す念仏も、仏恩にそなわるなり

こういう言い方がされております。『仏恩にそなわるなり』というのは、「仏恩を報ずる意味が自ずとそこに宿されて来る」あるいは「果たされてくるものである」というような意味のお言葉かと思います。それでは一体、親鸞聖人の宗教的体験の中で、どうしてその報謝ということを申さずにはおられなくなってきたのか。なぜそうなるのか。こういうことを私どもは振り返って見なければなりません。

次回(2)念仏申すこころ に続く




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