仏恩報謝―(3)無我行

井上善右衛門先生

無我行というのは、これは仏法の根本的な悟り世界から現われて参ります活動態でございますけれども、なかなか私どもに無我の行というようなものはとてもとても容易にできるものではございません。人間の中でいささか無我に似通っておると申しますか、近付いておるのはやはり親心でございましょう。よその子供の世話をしたときには、ちゃんとその事を覚えておるものです。何時間預かって、どのように世話をして、どのようなお菓子を上げたというようなことまで、覚えておりますけれども、我が子には覚えておりません。たとえ夜の目も寝ずにその子のために看病したというようなことがあっても、親は忘れています。帳面にはつけておりません。

けれども人間というものは悲しいもので、たとえ我が子でもその子が成長して、本当に親に仕えてくれるような子供ならよろしいですけれど、何か親に逆らう、反対する、勝手に振る舞うというようなことになりますと、悲しいことですが「お前一人で大きくなったと思うておるのか」と、こういう心がどうしても起こってまいります。そういう心が起こってきましたらもう無我ではありません。そうしたことを私どもがどこかで思い、それがふと振る舞いや顔付きに出てきましたら、そういうものはきっと相手に反応するものです。「偉そうに親だ親だという顔をして」という反応がきっと向こうに起こってまいりますので、子供の方が自分が悪かったと思い改めるような気持ちに立ち返るものでは決してありません。それが人間の実態であります。「我」と「我」との角の突き合わせという状態が結果として現われてくるだけでございます。

そういうことを思って見ますと、私ども人間の世の中で最も純粋に近いと思われる親子関係でさえ、底を探るとどんな見苦しい執我の心がひそんでおるか分かりません。仏教の無我行の一つとして「布施」ということがございます。その布施とは、与える物と、与える相手と、与える自分と、その三つを忘れてしまう。そういう時にこそ始めて無我の行が、布施ということにおいて実現されるのだと申されるのですが、とてもとても私どもにできることではございません。貰った方はよく忘れますが、与えた方は忘れません。礼を言うだろうという下心はどこかにございます。ですから、いつまでたっても礼を言わないということになると、礼一ついわぬ礼儀知らずの人だという思いがきっと起こってきます。そういうことの起こらぬ布施こそが真実に与えるということですが、真実に与えるということは至難なことであります。

私どもにこの無我行が尊いことであることは解ります。我執を土台にした私どもの生活実践というものが、結局は角(つの)と角との突き合わせになるのだということは百も承知しておりましても、この無我行は到底できないものであります。しかしそのでき難いことをどこまでも仕上げるのだというのが聖道門的姿勢というものです。確かにそれは雄々しい態度です。青年はその雄々しい理想主義的態度というものに魅せられるのです。他力浄土門は意気地がない、修行において自分の理想を貫徹するのでなければならぬ、身を粉にしても自分の理想を仕上げるという立場こそが本当だと。こういうふうに若い人々が努力主義に傾倒する。

これは確かに真面目な心だと思います。けれどもそこに何か見忘れているものがある。看過しているものがある。一体人間というものが、無我を行ずることのできる本質を持っておるかということです。自己凝視ということにおける不徹底、そこにそういうものが介在しておりませんでしょうか。あたかも踏み台を積み重ねて天に手が届くように思うている。しかし踏み台をいくら重ねましても、天に手は届かないのです。そういう己れの分というもの、有限なる人間の自己の本質をどれだけ見つめているか。

理想主義そのものは尊いものでしょうけれど、そこにはなお安易な予想があると思います。自己の見損ないというものがあると思うのです。それと同時に只今の『歎異抄』に語られておりますように、いかに努力主義を私どもが続けましても、その途中でどのような障害が起こってくるやら分からない。人間とはそうしたものです。にもかかわらずその障害も起こらぬが如く思いなしておるならば、それはあまりにも夢を追う理想ではなかろうかと思います。

宗教の厳しさというのは、自己を真に見つめるという事ではございませんか。しかし真に自己を見つめるということは、自己というものを知り尽くすということではなく、知り尽くすことのできない自分を知るということではないかと思います。そのとき始めて、今まで俺の力で俺の力でと、ただそればかりになっておりましたその私の一種の自惚れ(うぬぼれ)、自己の過大評価、そういう自惚れの手を散じて、仏様の真実なるお心に、私のすべてをお任せすることのできる世界が、私どもの上に訪れ、現われて来るのではありませんか。

ゲーテが『ファウスト』の中に、「人間にとって謙虚ということほど神よりの恵まれた賜物はない」ということを言っておりますが、理想主義は尊いのですけれど、その理想主義、努力主義の奥に己れというものを過大に評価し、真の意味における自己認識を欠き、謙虚という真実を素通りしておる点がありはせぬでありましょうか。

真の謙虚というのは、自分が自分を知るということではなしに、自分が自分を知り尽くせないということを知らされるという、そういう意味での謙虚が人間に与えられる神の最大の恵みであるとゲーテは申しておるのであると思いますが、私はやはり、自己を真に知らしめられるということは、真実の光に出遇うて始めてそこに自己の真実の姿に気付かされてまいるものだと思います。

その時に握ろう握ろうとしていた己れの執我の手を散じて、自己を遥かに超えた偉大なるものに私の全てを託しきって安らうという世界が私どもの上に恵まれてまいるものだと思います。そうしてその任せきった心の流れが、私どもの生活実践の上に先ほどから申しております報謝の心即ち生き方の本質というところに報謝の深い意味を読みとっていただきたいのです。

―次回(4)生活の大地に続く




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