般若心経
2000.09.11

色即是空、空即是色(しきそくぜくう、くうそくぜしき)

この句は般若心経にある言葉で、一般にもかなり有名ではないかと思います。
私は仏教学者ではありませんし、悟りの境地からも程遠く、単に仏教書を読んだり、講話を聞きかじっただけの凡人ですので、正しい解釈が出来ているかどうかは、識者の判断にお任せ致しますが、私はこうではないかと考えているところを申し述べ、仏教の素晴らしさを知って貰いたいと思って解説を致します。

『色』は、私達の目に見えるすべての存在の事を総称しております。
『空』は、空っぽと言う意味で、何も無い、と言う事ですが、丁寧に言いますと、これと言う実体が無いと言う事だと思います。
従って、『色即是空』とは、『すべての存在、実はこれらは一切これと言う実体が無い』と直訳出来ます。
現代言葉で申しますと、『私達の目に見えているものは、あると思っているけれども、元々すべては変化して行くものであり、消えてしまうものでもあり、今たまたま目で見えているから、あると思っているだけで、本来は、これ、と言う固定したものは何も無いのです』と言う事だと思います。

仏教言葉である『無常』と言う事も、『常と言うものは無い、すべて変化して行く』と言う事で、同じ事を言っています。『一切空(いっさいくう)』とも言います。
そして、これを頭だけの理解ではなく、心の奥深いところで感じられたら、悟りに近い心境だろうと思います。

実体が無いと知れば、執着する気持ちは湧いて来ません。欲も無くなり煩悩も消えます。
頭だけの理解ならば、私も、物質・生物すべては原子の集まりで、原子の集まり方で色々な分子が出来て、色々な物質になっている事を知っています。水も石も木も人間も、全て原子の集まりであり、色即是空が頭では理解出来るような気もします。
しかし、どうもこれだけでは悟りではないようです。
後に来る『空即是色』を実感出来ないと仏教的には真の悟りとは言えないようです。
この『空即是色』は、『全ては元々実体はないけれども、それぞれの存在には意味があり、全て光り輝いている』と言う意味だと思います。
色即是空だけで終わるならば、虚無主義(元々何も無いのだから、何をしても意味が無い、何をしても構わないと言う破れかぶれの考え方)に陥ってしまいかねません。
仏教は、色即是空にとどめず、空即是色と帰って来るところに、私は仏教の素晴らしい洞察と智慧が輝いているのではないかと思います。

『空即是色』は、『実体の無いものが、縁によって今私達の目に見えている存在となっている』とも言い換えられると思います。『空即是色』は、私の命も縁によって今存在する事に気付き、他の生命体も縁によって命を与えられている事を知って、地球上に与えられた命を大切にしましょうと言う仏教の基本的な考えでもあるのだと思います。

仏教は、決して無欲になりなさいとは教えていません。悟りを開いて無欲になり、粗食を進めている訳でもありません。仏教の教えの要点のすべてを平易な言葉で説明する事は大変難しく、やはり色即是空、空即是色だと言う事になってしまいます。


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2000.09.05

幸せ感は………当たり前の事が当たり前で無くなった時に……。


自分の幸せは、自分が幸せと感じなければ、幸せではありません。他人が自分の事を幸せだろうと思う状態でも、それは自分の幸せではありません。自分自身が幸せに感じて、はじめて幸せと言えます。だから冒頭、敢えて幸せ感と表現しました。

人間、幸せを願わない人はいないでしょう。誰しも、幸せを求めて日夜努力もし、悩みもし、争いすら行います。しかし、精一杯努力して財産を手に入れましても、また競争に打ち勝って有名大学に入り、一流企業で社長まで出世しても、或いは社会的な地位・名誉を得たとしても、幸せ感はそう長くは続かないものではないでしょうか。また、数年来の恋人と結婚に辿り着く事が出来ましても、幸せ感は日数とともに確実に萎えて行くのが現実ではないでしょうか。

では幸せ感に満ち足りた日常生活を常に送りたいとしたならば、どうすればよいのでしょうか?

私は、その答えは宗教の世界に求められるのだと思います。特定の宗教団体に入信しなければならないと言う事ではありません。真実の宗教(邪教ではなく正教のと言う意味)に触れ、価値観を変える、即ち、当たり前の事が当たり前でないのだと言う世界に気付かされる事によって初めて永遠の幸せを掴めるのだと思います。
当たり前の事が当たり前ではないと言う事はどういう事でしょうか?

例えば、私達生物は、空気無くして生存出来ません。しかし普段、誰しもそんな大事な空気の存在を、すっかり忘れて生活しています(勿論、始終空気の事を考えるのは異常でしょうけれど)。そして更に、空気を吸う力も与えられている事にすら気が付きません、いやむしろ、自分の意志と力で生きている積もりでいると言うのが実状ではないでしょうか。自分が生きている事は当たり前の事と思っています。当たり前ですと、有り難さもありません。感謝する気持ちも毛頭生まれません。自分が今生きているのは、数十億年の昔からの生命の継承と、大宇宙の営みと恵み、身近では、父母、夫婦、友人、その他あらゆる人々の助けがあっての事であると気付く事が出来ましたら、それこそ、感謝・感謝・感謝で、大地にひれ伏すしかないのではないでしょうか?

私も、小さいながらも会社を経営して日夜会社の存続・発展を願って努力していますが、ともすれば、毎月お客様からご注文を頂けている事が、さも何時までも続く当たり前の事と思い込み、感謝の気持ちが何処かに飛んで行っています。そして我が社の製品を製造してくれている従業員に対しましても、給与を支払っているから当たり前のように思い込んでいる時があります。仕入先に対しましても、お金を払っているから商品を納入してくれるのは当たり前だと……。知らず知らず、当たり前、当たり前の生活を送ってしまっています。

失って初めて知る有り難さ!親を亡くして初めて親の有り難さに気付くのが私達ですが、失う前に、たまには心静かに、自分に与えられている、当たり前の恵みと幸せに想いを馳せまして、実は当たり前ではない恵みと幸せに感謝したいものです。それが宗教の世界ではなかろうかと思います。

以前のコラムでご紹介させて頂いた中村久子さんが、手足を失っているにも拘わらず、生かされている自分の生命を尊とく想われてお詠みになった『手足なき身にしあれども、生かさるる、いま我いのちは尊とかりけり』と言う詠は、手足も何も揃っている私には、当たり前の世界に安住する自分への、尊いお教えなんだと実感させて頂く次第です。


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2000.09.01

話を聞かない男、地図が読めない女


最近のベストセラーと言われる一冊の本の題名である(発行は主婦の友社、作者は、英国の夫婦共著、1600円)。知人の女友達の話を聞いて読みました(^o^)。久し振りに納得した本でしたので紹介したくなりました。

男と女は、同じ人間の姿をしているけれども、異星人というべき決定的な違いがある。
そしてこの違いは、昔から狩猟に出掛けて食料を獲得する役割を努めて来た男と、家で自分の家族や周りの家族達との人間関係をまとめる役割を担って来た女とでは、DNA(細胞分子)が根本的に異なり、知らぬ土地に出掛けて獲物を獲得し続けるうちに、何代も重ねて、男は男として必要な性格、能力を形成して来たし、女は女で人間関係をうまく回転させる能力、言葉の大事さ、巧みさを何代も重ねて身につけて来たと言う訳である。
どちらが優秀とか、どちらが正しいと言う事ではなく、とにかく男と女は根本的に違うと言う事を認識しようと言う訳である。そうすれば、腹も立たないし、仲良く生活出来るのではないかと言う主張のようである。

考えてみれば動物達も、自然環境に適応すべく、何代も何代も重ねて現在の種別・姿が出来ています。高い木の葉っぱを食べる環境に生きて来たキリンは首の長い姿になりました。

役割が異なる男と女は、所詮違う動物なんだと認識した方が正しく、しかも幸せかも知れないと思いました。確かに、嫁さんの話は上の空で新聞を読んでいる自分は、話を聞かない男だし、嫁さんは、車のナビゲーターとしては、何の役にも立たない地図の読めない女だと、納得するしかありません。しかも、これが日本だけでは無く、レディファーストの欧米でも同様と言う事に驚かされました。

また最近の17歳の犯罪は、何れも間違いなく男によるものでしかありません。女の子に腕力が無いから犯罪が起らないと言うだけではなく、周りとコミュニケーションを取るのが苦手な、男特有の、切れた行為なのかも知れないとも思いました。

ご一読下さい。


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2000.08.23

中村久子さんの詠


以前のコラムで、我が家に所蔵する中村久子さんの掛け軸の詠を紹介させて頂きましたが、一文字どうしても読めないのがありました。その後インターネットの恩恵を頂き、山口県の青年僧にお教え頂き、その文字は、間違いなく『我』であると領解(りょうげと読み、心深く解釈すると言う意味、仏様の教えを頭で理解するだけでは無く、体全体で頷けると言う事)させて頂きました。

全体の詠は『手足なき、身にしあれども、生かさるる、いま我、いのちは尊とかりけり』ですが、ご覧のように、筆を口に喰わえて掛かれた文字とは思えない達筆です。

『私には手も足も無く、とても不自由な体ですが、大宇宙のお働きによって今こうして生かして頂いている私の命は、もう私の命ではなく、尊い仏様の命なんだなぁ、有り難いなぁ』と言うお心を詠われたものでしょうか。不平不満が尽きない私は五体満足!恥ずかしい想いが致します。


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2000.08.18

正教についての一考察


正教と邪教。区別の基準は何でしょうか?宗教は排他的な側面を持っており、キリスト教徒からすれば極端な結論を出せば、仏教は邪教かも知れません。少なくともキリスト教徒はイスラム教を邪教と断言するかも知れません。従って私が正教とは何かと論じても、多くの人々には受け容れがたいところもあるでしょう。それを前提として、以下に私の邪教観、正教観を申し述べたいと思います。

ここ数年来、マスコミを騒がせ続けている宗教団体、そして極最近詐欺罪等で摘発された団体等を思い浮かべまして、判断基準を示したいと思います。下記の内一つでも要件を満たせば邪教と判断し、入信を思い止まるべきだと思います。

@ 自殺・他殺を問わず、結果として人の生命を絶つ行為を進める或いは認める宗教。
A 入信に当たって、私有財産の提供をあからさまに要求する宗教。
B 他宗を実際の行為で拒絶・否定し、攻撃する宗教。

本当は、人間の弱いところを突いて、『病気が治る』『お金が儲かる』『あらゆる不幸を取り除く』事を勧誘言葉として使う宗教も邪教と言いたいところですが、人間は不幸を脱出したい為、或いは幸せになりたい事を動機として宗教を求めますから、勧誘の言葉までを否定する事はこの際敢えて避けました。

私は、正教とは何かと尋ねられますと、『自分がこの地球に生命を受けた不思議さと有り難さを説き、生かされて生きる歓びを感得・体得させ、周りの人々ともその幸せを共有しようと言う教えを説く宗教を正教と言う』と言う事になりますでしょうか。

難しい議論になりそうですが、人間はこの肉体を持っている限り欲望を無くす事は出来ません。そしてまた欲望を満足させる事が幸せであると想う境遇から完全に脱出する事は出来ないでしょう。しかし人間は、正しい教えを聞き続ける事によって、また正しい宗教の道を歩む先生・先輩に親しく接する事によって、若干欲望を制御する事は出来るようになる事も確かだと思います。

決して、上記の要件を満たす邪教にだけは入信しない事を切に祈ります。


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2000.08.11

中村久子さんの事


中村久子さん(明治30年〜昭和43年)をご存知の方は少ないかも知れませんが、『日本のヘレンケラー』と称された事もあります。腕が肘から先が無く、足も膝から下がありませんでした。確か幼い時に、脱疽と言う病気で失われたと記憶しています。そして、母親はそう言う久子さんを、大人になってからも一人で生きて行ける様に、一通りの家事が出来るようにと厳しく育てたと言います。口と僅かに動く肘と足を使って、裁縫まで出来るようになるまでには、母娘ともに忍耐と涙と悔しさの日々が続いたと聞きました。

年頃になって経済的な自立を目指して、久子さんは見世物小屋に身を投じ『ダルマ娘』として、観客の前で、裁縫をして見せて全国を廻りました。

久子さんは、人一倍の勉強家でもあり、ある時、親鸞上人の歎異抄に出会う事によって、不自由な身ながらも生かされている事を歓べる安らかな世界に目覚め、晩年は仏教布教に身を捧げられ、全国を廻られました。私の実家にも2回お越し頂き、お泊まり頂きましたが、葡萄を上手に食べられていた事を思い出します。

私の自宅の床の間に、久子さんが筆を口に喰わえて書かれた掛け軸があります。『手足無き、身にしあれども、生かさるる今知る命は尊とかりけり』と言うものです[達筆ですので、一文字(知)に不安がございます]。69歳の時の書です。私達は、五体満足ながらも、時として自分の身の不運・不幸を愚痴りがちです。五体不満足ながらも、人生を明るく、生かされている事に感謝し、歓んでいる人もいると言う事をたまには思い出し、人生の苦難・苦境を乗り越えたいと思います。


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2000.08.05

ご冥福を祈ります。


今日(8月5日)は、6月に初対面させて頂いた会社社長のご令息(二十歳前)の『お別れ会』が東京で執り行われます。若くして亡くなられる場合、殆どが不慮の、と言う修飾が付きますが、このご令息の場合も、留学先のニュージーランドで、サーフィン中に高波に浚われて行方不明とお聞きしておりますので、誠に親御さんに取りましては、予想も出来ない事態での不慮の事でした。しかも約半月待たれましたがご遺体も見付からなかったと言う事で、私にも二人の子供がいますが、『ご心中をお察し致します』とはとても申し上げられない事態でもあります。まさにお悔やみのお言葉も見当たりません。

私達の人生、誰の上にも予想もしない出来事が起こります、そして色々な目に遭います。 悲しい目、悔しい目、痛い目、辛い目、死ぬ程の目にも遭い、実際に死に目にも遭います。 しかし平等に良い目にも遭います。嬉しい目、楽しい目、心暖まる目、美味しい目。私達はこの色々な目に遭う事によりまして、はじめて目が開かれて行くのだ、目を大事にしないといけないと、禅宗のご老師様からお聞きした事を思い出しました。

事故は、既に契約を取り交わした共同開発のスタート(第1回目の打ち合わせ日に来社される予定でした)の二日前の出来事でした。来週、ご傷心中にも拘わらずご来社頂き、再スタートのキックオフとなりますが、その社長様が世界に通用する技術だと、ご評価頂いた弊社開発の『多孔性体の製造技術』を応用して、1日も早く商品開発を成功させて、その商品をご令息のご霊前に捧げたいと思っています。


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2000.07.26

天命に安んじて、人事を尽くす


『人事を尽くして天命を待つ』と言う言葉なら良く聞くと思いますが、『天命に安んじて、人事を尽くす』と逆転された言葉をお聞きになられた方は少ないと思います。しかし私にはその言い方の方が胸に心に響きます。仏教的に申しますと、前者は自力表現、後者は他力表現と言う事になると思います。

前者を現代言葉で飛訳致しますと、『自分でやれる事は精一杯やります、後は天の思し召しを待ちます』と言う事ですが、何処かに良い結果を期待した頑張りが感じられます。

一方後者は、『結果はどうなろうとも、それは天にお任せするしかない、自分はただ、今出来る事を、気負う事なく淡々とやって行くだけでございます』と言う安らかさを感じます。

この世は自分の思い通りにはならないものです。しかし、それは分かっていても良い結果を求めるのは極自然な事でありましょう。初めから悪い結果を求める人なんていないと思います。でも仏教では、良い事も悪い事も、それは人間の頭で分別した事で、大きな世界から見れば、人間が良いと思う事が、実は悪い事になるかも知れません、良かったと思う結果が、実は、悪い結末が待っているかも知れないと説きます。仏教では、これを善悪一如と言う難しい表現を致します。善も悪も区別出来無い一つの事ですと。善とか悪は人間の浅はかな分別で決めたものですよ、と説いているのですが、現実社会を生きている私達には、なかなかそう悟れるものではありませんね。

でも、そういう冷静な気持ちを持って現実を見詰める事は、不幸な時には助けになるかも知れません。また、幸福の絶頂にある時は、少し謙虚になるかも知れませんね。 そして、一般的に表現しますと、何時も、どんな時でもプラス思考で参りましょう、と言う事を角度を変えて言って下さっているのかも知れません。

はい!必ず結果は良い事になりますから、それを信じて、今やるべき事に誠心誠意尽くして見ませんか?


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2000.07.20

人間の可能性について


この世に存在する生き物の中で、人間だけが自分の意思と努力によって変身が可能な存在だと言います。そう言えば犬はどう頑張っても外観も能力も犬でしか有り得ませんし、鳥も鳥以外の何者にも変身出来ません。勿論草木含めましてあらゆる生物がその様です。しかし人間は、自分の意志で神仏に近い存在になり得ますが、一方自分の意志で殺人者にだって成り下がります。いえ、犬畜生にも劣ると言うべき『母親が我が子を計画的に殺す』と言う最近の事件報道がありますように、私達人間は環境・事情さえ整えば、何でもやってしまいかねない極めて危い(あやうい)存在であります。また弱い存在であります。報道される事件は決して他人事と済ませる訳には参りません。政治家の汚職にせよ、選挙が目の前に迫り、しかも選挙資金が足りない状況で目の前にお金を積まれれば、崇高な志しを持っていなければ、誘惑に負けてもおかしくありません。しかしそれでは結局は自分を不幸にしますし、周りをも不幸に致します。またその人自身に取りましても極めて悔いの残る人生になります。

可能性があるのならば、やはり価値の高い存在になりたいと思うのが人情ではないでしょうか。少しでも社会の役に立つ存在になりたいと思います。殺人者として受刑の身のままにこの世を去る事を願う人は決していないと思います。どちらの道を歩むかは、人としての志し(世の為、人の為に役立ちたい心)を持つかどうかで決まると思います。

動物と同じく自分の欲望の満足だけに生きるのではなく、社会全体の役に立つ人物になろうと言う志しを持てれば最高ですが、そこまではいかなくても、『周り人の役に立とう、或いは周りの人を喜ばせたい』と言う志しを立てて、人生を精一杯生きて行きたいものです。

志しを持てば、行動が変わる、

行動が変われば、習慣が変わる、

習慣が変われば、人格が変わる、

人格が変われば、人間関係が変わる、

人間関係が変われば、運命が変わる、

運命が変われば、境遇が変わる。


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2000.07.13

雪印乳業事件に想う


総選挙の前後は、よく首相の資質が問題となっていたが、雪印の食中毒問題が発生してからは、経営者の資質と言うか、経営者の在り方に関しての批判が目立ち始めた。雪印乳業の社長の記者会見での発言・態度に、そして、そごうグループの前会長の経営破綻に至った経営責任等などである。

私も小なりとは言え会社経営者、自分があの立場だったら、こんな事にはならなかったと断言出来るだろうかと自問自答した。日々現場で為されている作業の詳細を知らないまま、突然の記者会見場で工場長に向かって「それは本当か?!」と言う驚きと叱責の声を発した社長を私は無責任に責める気持ちにはなれなかった。また、多くの経営者と同様に、バブルの調子に乗っかり、百貨店売上高日本一をひたすら目指し、銀行の無節操な融資姿勢に身を委ねた会長を、見通しの甘い経営者、イエスマンばかりのブレーンに囲まれた裸の王様だと、多くのマスコミと一緒になって批判する気持ちにはなれなかった。自分もしたかも知れないと、いやもっと無様な事になったかも知れないと。

この一連の事件を他人事にせずに、経営の基本に戻ろうと思いました。経営の基本とは何か。
やはり自信を持って製品を世に送り出し、お客様の信頼を得る事に徹する事だと思います。そしてそれには、モノ作りのルールを決める、守る、確認すると言う当たり前の事を毎日愚直なまでに繰り返す事だと思います。誰も振り向いてくれないし、誉めてくれなくても、ただお客様の信頼を得るために、全従業員が、そして経営者が淡々と繰り返す事だと思います。

今年改訂した弊社の品質方針には、「お客様にただ単に満足して頂く水準に止まらず、お客様に感動を与えられる職場から、お客様に感動して頂ける品質をお届けしたい」と定めていますが、特別な事をするのではなく、お客様に製造現場を見て頂いた時に、ここまで気を配って製造されているのかと感動して頂くように、日々の製造現場を作り上げていきたいと思います。

「品質は私達の良心です」と言うのが雪印乳業の標語として、工場に掲げられていました。でも、結果的には言葉だけに終わってしまいました。弊社は品質方針を体現するように、経営者の私自身が、決める・守る・確認するを守りたいと思います。

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