2000.11.27

8勝7敗

エニアグラムと言う性格分類学(?)があります。
紀元前にアフガニスタンで生まれ、イスラム教のスーフィー派へと口伝で伝わってきた、門外不出の秘伝の公理、人間学と言われていますが、私は良く出来た性格分類だと思います。
最近本屋さんにこの種の本が結構並んでいますので、ご存知かと思います。
タイプ1からタイプ9、人間の性格を全部で9タイプに分類しています。
エニアグラムホームページにあるテストでも自分のタイプがほぼ決まるのですが、タイプを説明した文章を読みますと、私はこのタイプだと分かる位に良く出来た分類です。

私はその中の、タイプ1、完璧主義タイプに当てはまります。タイプ別に性格を列挙しているのですが、タイプ1として表現されている性格は、ことごとく当てはまり、苦笑するしかありませんでした。
他の人にも、そう映っているのでしょう。
ある人が、私の完璧主義振りを別の表現で実にうまく批評をしてくれた事を、今年の九州場所の中日で全勝中(結果的には4敗?)の横綱貴乃花の相撲を見ながら思い出しました。

その人は、私が今経営している株式会社プリンス技研を設立した時の仲間ですが、相撲取りになぞらえて、『大谷社長は、常に全勝狙いですね、私は8勝7敗です』と言われた事を思い出しました。
多分、私に余裕とか、いい加減さが無いと言う事を柔らかく進言してくれたのだと思います。
しかしその当時は、『全勝狙いで稽古するからこそ、悪くても8勝7敗で、末は横綱になれるんだ』と考えていたと思います。

確かに、私が相撲取りなら、場所前は全勝を狙って稽古をする事でしょう。
稽古をする時に、8勝出来れば良いと言う考え方はしないと思います。
高校時代の受験勉強においても、100点を狙って勉強していたと思います。
結果として100点はとても無理でしたが、100点を狙って自分なりに抜けの無い勉強を心掛けていたと思います。
合格ラインの60点を狙った勉強では、多分受験には失敗していたと思います。

スポーツでも、学生時代テニスをしていましたが、誰に当たっても勝てるテニスを目指していました。
残念ながら一流プレーヤーにはなれませんでしたが、一流プレーヤーを目指して練習していました。
今はゴルフをやりますが、ゴルフも練習とか、スタート前は72のパープレイを狙います。大体は、90台に終わる訳ですが。

思い起こせば、挫折したサラリーマン時代の仕事振りもそうだったと思います。
会社の経営トップの在り方にも一流を求めましたし、自分の仕事も、何処かに不明点があったりすると自信を持って先に進められませんでした。
良い加減で妥協する事が出来なかったと思います。
上司、仕事仲間からすると融通の利かない、やり難い男だったろうと思います。
一緒に脱サラした仲間から、『いつも全勝狙いですね!』と言われたと言う事は、経営をするようになってからも、やはりそうだったのでしょう。
何ごとにも妥協が無かったし、部下にもそれを求めたと思います。

今もこの性格は変わりません。
8勝7敗で良いと言う気楽な気持ちでやれば、稽古も楽しいかも知れませんし、100点狙ってピリピリ周りを緊張させるのも迷惑な話かも知れませんので、折りに触れて自分を変えようとは思いましたが、生まれ付きと幼い頃の環境で培われた性格でしょうから、これを変える事は無理のようです。

しかし、エニアグラムの本を読み、またDNAや遺伝子、ゲノムと言う世界を知るようになってからは、他の人にも自分と同様に全勝狙いを、或いは100点狙いを求める事だけはすまいと思うようにはなりました。
8勝7敗狙いも、人生を豊かに、そしてリラックスして生きる為のコツかも知れません。

あなたは、何勝狙いですか?


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2000.11.24

あなたの一番大事な役目は何ですか?

『あなたは、何を目標にこの人生を生きていますか?生きる目的は何ですか?』と突然質問されたら、あなたならどう答えますか?

『自分の意志で生まれて来た訳ではないし、生まれて来たから仕方なく生きている、別にこれと言う目的や目標は無い』と答える人が多いかも知れません。
『楽しく生きて行けたら、それで良い』と言う人もいると思います。

私は、ちょっと考えて一般向きには『周りの人の役に立ち、死ぬ時に良かったと思える人生が目標です』と答えます。
そして、仏教の考え方から『この人生で死のカーテンを取り外し、流転輪廻から脱出したい』(歎異鈔に関するコラム参照下さい)と付け加えると思います。
しかし、咄嗟(とっさ)の時に果たしてこの答えがすんなり出るかどうかは、自信ありません。

この様に、人生の目的、目標は?と言うと、答えに窮しますが、日々の生活における、職場や家庭での自分の存在価値、存在目的或いは役割・役目くらいはしっかり認識していたいものです。
ところが、これすら正しく答えられない人が以外と多いのではないでしょうか。

☆お医者さんの一番大事な仕事は何ですか? はい、病気を治す事です。
☆警察の一番大事な仕事は何でか? はい、悪い事をした人を捕まえる事です。
☆先生の一番大事な仕事は何ですか?はい、勉強を教える事です。
☆お坊さんの一番大事な仕事は何ですか?はい、お葬式を勤める事です。
☆政治家の一番大事な仕事は何ですか?はい、選挙に勝って国会に出る事です。

ここまで、書き並べて来ると、誰でも果たしてそうか?と疑問が湧くものと思います。
5つとも答えは一見正しいようですが、一番して欲しい仕事と言う事になると、次の通りでなければなりません。

私達は、いつも基本を忘れがちです。一番大事な事を忘れて、枝葉末節(しようまっせつ)に囚われてしまいがちです。
特に、昨今の政治家達は、国会でつまらない口撃(こうげき、造語です)舌戦(ぜっせん)の繰り返しです。
森首相の資質も問題かも知れませんが、そう批判する代議士達も似たり寄ったりではないでしょうか。
たまたま先日の深夜国会で、コップの水を野党席に向かって掛け飛ばした議員がいましたが、この議員にも問題はあるとは思いますが、この様な態度を引き出す野次を飛ばした野党議員達の資質もどうかと疑いたくなります。
手を出す暴力は確かに認める訳には参りませんが、時には口の暴力は、手の暴力よりも人を傷付ける場合があります。
議員の役割は?本当の仕事は何?と問い詰めたい思いが致しました。

議員達に限らず、私達も基本に戻り、初心に帰る事が大切です。以下の質問の答えを考えて下さい。

上の質問を次の様に言い換えても良いと思います。

これらの正解はこれだ、と模範解答を示す自信はありませんが、最後の質問は個々に譲るとして、私は今、下記の様に考えています。

人には、色々な立場があり、立場に応じて果たすべき大事な役割があります。
男は、プライベートでは、夫であり、父であり、婿であり、息子であり、孫かも知れません。
公には、団体のリーダーであったり、メンバーかも知れません。
また頼れるボランティアでもあるかも知れません。

その立場、立場で、何をする事が一番大切かをチェックする事が、信頼を得、生きる歓びを得る一助となるものと思いますが、如何でしょう。


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2000.11.20

コミュニケーションの出発点は理由を聞く事(その二)

正解者は無く、解答の代表的なものは下記の通りだったと言う。

正解は、実に簡単、『遅刻の理由を聞く』と言う事である。

私も、勿論正解出来なかった(解雇と思った)。
そしてこの正解を聞いた時、何か馬鹿にされた様な気分になり不愉快さを感じた程である。
しかし、不愉快になる人は、コミュニケーション下手な人に違いない。
私も『理由は聞くまでも無かろう』と思ったのである。

しかし、そこがそもそも間違いで、そこがコミュニケーション不足の出発点になってしまっているのである。
実際理由を聞けば、子どもを保育所に預けに行く役割を担っているかも知れない、介護が必要な老人を抱えて、なかなか家を出れないのかも知れない。
だから、真っ白な気持ちで『何故遅刻したのですか?』と遅刻1回目に聞くべきなのである。
もし、2回目も発生したら、また真っ白な気持ちで『今度は何故遅刻したのですか?』と聞くべきなのである。3回目も同様だ。
しかし、現実は、毎回嘘(うそ)の理由を言われていると思い、腹立たしくなり、コミュニケーションを諦めてしまう事だろう。
これでは駄目であり、やはり真っ白な気持ちで『何故嘘の理由を言うのですか?』と聞けないとコミュニケーションの達人にはなれないと言う事だろう。
しかし、真っ白な気持ちで、なかなか理由を聞けるものでは無い。
何故遅刻理由を聞けないのであろうか?
何故理由を聞かずに、見逃したり、解雇とか厳罰で対処してしまうのであろうか。

理由を決めつけている事が第一であるが、つまらない理由を直接聞きたくないと思ったり、理由を聞いて平静を保てず、口論になるのが怖かったりして、敢えてコミュニケーションを避けていると言ったところだと分析する。
そして、一度コミュニケーション(質問したい、訳を知りたい)の機会を逃すと、もう後は雪だるま式に疑問、不審が増えて行き、やがて不信感に成長し、その不信感が相手に以心伝心して、信頼関係が完全に無くなり、果ては憎み合いにまで至ると言うのが、私たちがいつも辿る(たどる)人間不信の道ではないかと思う。
だから、最初に感じた小さな疑問や不審を、真っ白な気持ちで相手にぶつける事が大切なのである。

私の唯一の成功体験は、現在も弊社の従業員である一人の女性に関してのものである。
弊社は人材の採用に際しては、原則1週間の体験入社期間を経た上で、採否を決めている。
彼女の場合も、社員達の評価も聞き、次の表現を文書に盛り込んで、不採用を伝えた。
『貴女が意識しているかどうか分かりませんが、挨拶・会釈が全く無く(端的には愛想が無い)、人とコミュニケーションを取ろうとする姿勢が感じられなかったと言う点で、殆どすべての従業員の感想が一致しました』。
そして、もし直す積もりがあるならば、もう一度挑戦したらどうか、と付け加えた。
勿論通常は、不採用理由は伝えないのであるが、彼女の仕事の集中力は抜群のものがあり惜しいと思ったからだったと記憶している。
それでも、普通は『そうですか』と言う事もなく終わりとなるが、彼女は、電話をして来たのである。
『そう受け取られたのでしょうが、そんな積もりはありませんし、直せるなら直したいので』と言う再挑戦の意思表示であったので、もう一度チャンスを与える事にしたと言うのが経緯である。
その1年3ヶ月後の現在の評価は、全く180度変ったものとなり、彼女は非常に好ましい女子社員になったのである。
彼女に一度聞いて見た『ああ言う経緯があって入社して貰ったけれど、今はどう思いますか?』と。
彼女の答えは、『自分でも変わったと思うし、プライベートの周りの人からも変わったと言われます』と言う事であり、それを聞いて本当に良かったと思った。
これまでに無い歓びを感じた事を今でも思い出す。

彼女が弊社に来るまでの職場では、とにかく仕事さえすればよく、出退社時の挨拶は勿論、通路ですれ違う時の会釈も必要はなかったらしい。
挨拶は無駄と言う会社の考えだったかも知れない。
だからであろう、彼女の仕事中の集中力は大変なものである。
その集中力が、弊社の従業員には無愛想に映ったのだと今思う次第である。

彼女は、自分の知らないところで、とんでもない評価を受けていた事に驚いた事であろうが、 見事に変身し、集中力は依然として素晴らしいまま、適切な会釈の出来る女子社員になったのである。

この結果は、彼女の為とは言え、普通では出来ないと思われる、無愛想を指摘した事(無愛想な理由を聞いた事と同じ)で、コミュニケーションがスタートしたからだと思っている。
そして彼女も、本当は聞きたくもない自分への評価を真っ白な気持ちで受止め、是正する努力をしてくれたからだと思う。

コミュニケーションが取れるか取れないかは、相性の有無も否定出来ませんが、私は、彼女の採用で体験した事により、とにかく小さな疑問を貯金せずに、『何故ですか?』とコミュニケーションをスタートさせる事が、組織でも、個人の人間関係においても大切だと実感したのである。

付け加えて、勿論、理由を聞く時の表現、タイミング、手段(口頭、文書、メール等の)の選択も大切である事は間違い無い。
問い詰めるような、責めるような印象を与えては、元も子もないのは確かである。
私は、相手と未だあまり親しく無い場合は、正確に伝わる事を重視して、文書かメールが良いと思っている。
そして、文書はあまりに硬くなり冷たい印象があるので、最近ではメールが一番良い手段だと考えている。
そして、口頭で補うと言うのが、ベストな選択であろう。


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2000.11.16

コミュニケーションの出発点は理由を聞く事(その一)

人生で不幸せと思う瞬間は、人間関係の不調、破綻に悩む場合であると言って良いかと思う。
そして、その原因はコミュニケーション不足にあると断言出来るだろう。
国と国の争いも然り(しかり)、嫁と姑の確執も然り、そして隣近所同士の反目も然りだ。
夫婦の離婚も、発端はコミュニケーション不足にあると言えるかも知れない。

幸せな人生も、企業の成功も、コミュニケーション無くして有り得ないと言っても良いだろう。
そしてそれは誰しも分かっている事であろうと思う。
しかし、コミュニケーションをとると言う事はそう簡単なものでは無いのだ。

今回は、何故コミュニケーション不足になるかを考察し、次の様に提唱したい。


『コミュニケーションの出発点は、理由を聞く事にある!!』

  • 小さなルール違反でも黙認せず、理由を聞く
  • 何故こんな事を?と思ったら理由を聞く
  • 気になる言動は、理由を聞く

『がんばれ社長!今日のポイント』と言う日刊マガジンを発行している経営コンサルタントがいる。
私よりも10歳も若い(46歳)が、勉強家で物事の把握能力に優れていて、稀に見る、頼り甲斐のある経営コンサルタントであると感心している。


(興味がある方は、こちらへどうぞ!!)

そして、私は彼の日刊マガジン(経営指南日誌と言って良い)を読むお陰で、毎朝、自分の経営の在り方を振り返らずには居られないのである。
そして、頑張らなければと心を新たにさせられている。

恐らく、約3000人いる登録読者も同様の感銘を受け啓蒙されているに違いないと思う次第である。

しかし、その経営指南が即経営に生かせるかと言うと、そうはならないのである。
何故か、それは、企業で何かをしよう、何かを改革しようとするには、人の心を動かさなければならないからである。
人の心を動かすには、従業員全員を集めて、理念、理想、目標、方針をたった1回発表しただけでは何も変わらないのである。

また経営コンサルタントには申し訳ないが、自分の会社の改善・改革すべき点、問題点は、コンサルタントに指摘される迄も無く、殆どの経営者は気が付いているものだと思う。
そしてその解決方法はただ一つ、コミュニケーションであると言う事にも気が付いているものです。
しかし、コミュニケーションを具体化出来ない(行動に移せない)まま時が過ぎ、問題が残ったままと言うのが平均的な企業の姿なのである。

現在の中近東で、イスラエルとパレスチナの衝突が続き、アメリカの大統領がバラク首相とアラファト議長を再三にわたって呼び寄せて仲介に努力しているが、一向に進展していない。
クリントン大統領は多分、衝突の無意味さ、平和の尊さ、人命の尊さを説いているのであろうが、肝腎の両首脳間で心を開いたコミュニケーションがとれていない上に、自国民衆とコミュニケーションが取れておらず、従って民意を代表しているとは言えない両首脳が、何回顔を合わせても、和平交渉が成立するはずが無いのである。生々しい例えではあるが、この中東和平問題に限らず、人間社会で起るすべての争い・反目は、コミュニケーション不足を解消しないと完全には解決しないのである。

しかし又、厄介な事には、問題が起ってからコミュニケーションをどう取るかでは、時既に遅しと言うのが現実である。コミュニケーションは最初に思い切った(精神的エネルギーを使った)努力をしなければ、必ずコミュニケーション不足の事態となり、問題が起ると言う事を心に刻まねばならない。と言うよりは、私自身、ある体験を通して確信するようになったのである。

その体験をお話しする前に、やはり、これも冒頭の日刊マガジンで、コミュニケーションの基本に触れたと言える、クイズ形式の問い掛けがあったので紹介したい。
その問い掛けとは、

『才能ある部下が遅刻の常習犯。あなたならどうするか?』
と言うものである。
この問に対する代表的な解答と、正解に関する話と考察は、次回コラムに引き継ぐ事にする。


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2000.11.13

私のサラリーマン挫折物語 (前コラムより続く)

高野さんがもし、ぎりぎりの腕前で(テスト生)プロ野球に入団し、さしたる活躍も無く、無名のまま球界を去った人ならば、周囲の期待も無く、自分自身も『仕方無いか出直しや!』と開き直って生きたのだろうと思います。
しかし高野さんには栄光の時がありました。従って有名人でした。
過去の栄光と言う重たい荷物を背負って、周囲からは一挙手一投足を見詰められていると背中に感じながら生きたに違いありません。
いつか指導者として、あの栄光を取り戻したいと考えていたかも知れません。

私の場合も、多少背負ったものがありました。
今でこそ殆ど、最終学歴が会社での出世を決定付けはしませんが、昭和40年代は未だ実力主義からは程遠い、学歴社会そのものでした。
一応帝国大学卒を引っ下げて、決して一流とは言えない会社(帝国大学出は、先輩に3名位いただけでした)に入った私は、途中入社ではありましたが、仕事に関する熱心さは誰にも負けないと思っていましたから、学歴を考え合わせれば、直ぐにでも役員になるだろうと言う、甘い甘い考えを持っていました。
だから何がなんでも出世をしなければと言う気負いもありませんでしたし、出世を念頭においた努力も致しませんでした。
むしろ無頓着で、所属した研究所の所長(役員)に可愛がって貰おうと言う様な殊勝な態度はとりませんでした(同じ大学の先輩でしたが、あまり相性が良く無かったからです)。
むしろ逆らった位でしたから、大いに逆鱗(げきりん)に触れていたに違いありません。

先に入社したとは言え、同年のある人が、4階級上の課長になった頃、未だ平社員の私はやっと仕組まれた出世遅れに気が付きました。
また、初めての肩書きである係長に昇格したのは、3歳位下の後輩達と同時期の39歳。いわゆる管理職になったのが、42歳でした。
しかも、係長になる前、大卒では誰も経験した事の無い製造現場監督職である作業チーフと言う肩書きも貰ったと言う経緯もありました。
簡単に役員になると思っていた私が、出世出来ない自分の惨めさを自覚したのは、大学時代の同級生達が揃って一流企業の課長に昇進していた頃の40歳前後だったと思います。
二歳上の兄も大企業で課長に昇進して5年、年収差は当時ですら500万円位ある事を知り、情けなさに追い討ちをかけられていました。

その頃色々な人生教訓の本も読み、仏教の話も聞きました。
仏教書も漁る(あさる)ように読んで、心の安定を求めました。
当時元気であった母に愚痴をこぼしたりして、気苦労を掛けていました。
母が、慰めと励ましの仏教言葉をハガキに書いて寄越した(よこした)のも、その頃でした。

それでも、私は管理職となり、大卒としては初めての製造課長となり、何とか乗り遅れた出世を取り戻そうと肩に力が入り過ぎていた様に今は思います。
しかし所詮技術畑で育った人間が、人間関係能力がもっとも必要なポストである製造現場の中間管理職を簡単にこなせる訳がありません。
誰かが毎日休むモラルの低い職場でしたが、上司に相談しても明確な対応はして貰えず、私自身班員達との会話に活路を見出す努力も出来ず、課長が休業者の代わりに現場作業に入ると言う日々が続きました。
また、その上に自分自身が技術屋でしたから、現場で発生した技術上の問題をそのまま技術課に持ち込めませんでしたから、精神的にも辛い日々を過ごしました。
このままでは私も駄目になるし、製造の班員達も不幸だろうと、思い余って工場長にギブアップを申し出ました。
こうして、第一番目の挫折を経験致しました。

そして配属されましたのが、それまでと逆の立場である、製造現場をサポートする技術責任者でした。
そこで私を悩ましたのが、来る日も来る日も舞込むクレームでした。
原因が純粋に技術的な問題では無い場合も多く、いわゆる単純ミスでありながら、原因と対策を文章にしても、説得力が無い事は明らかで、作文に苦労すると言ったもので、このクレーム処理は精神的に辛い仕事でした。
また明らかに製造現場のミスでも、論客の担当製造課長にマニアルの不備と言う理由で技術の責任にされ、止む無くすべてを被ると言う羽目に陥っていました。
また、基礎技術的に解決しなければならない原因と現象のクレームも頻発致しました。
しかも何年も前から発生しており、解決していないまま放置されていたものです。
私は、研究部門の協力も得て、根本的な技術解析が必要と思い、提案致しましたが、信頼関係が構築出来ていなかった上司には受け容れられず、どうしょうもありませんでした。
工場には私を支えてくれる人間は上にも下にも存在しませんでした。

その頃、会社に出勤して行く私をマンションの3階から見送る妻と二人の子どもは、私が自殺しないかと心配する位、足取りが遅く、ヨタヨタと会社に向かっていたと今も言います。
私も、地下鉄とJRを乗り継いで会社まで行きますが、途中3回位駅のベンチで休み休み行っていた事を思い出します。

満身創痍(まんしんそうい)の八方塞でした。
このままこの会社で、この職場で仕事を続けると、自分自身の心身も壊れるし、そう言う上司の下で働く部下達も気の毒と思い、思い切って辞表を提出致しました。
別に何処へも行く当てがあった訳ではありませんでした。まぁ私塾でもやるしかないかとおぼろげに考えていた位です。
辞表を出して、妙に清々しく、すっきりした気持ちになった事を今でもはっきりと思い出せます。
しかし、幸いにも死を選ばずに退職を選べたのは、私がさんざん弱音を吐き、愚痴をこぼす相手となってくれ、そして会社を辞める事を了承してくれた女房がいたからだと思います。
もし、私が中途半端に辛抱強くて、弱音を吐けなかったら、ある日突然自殺していたかも知れません。

私は、高野さんに鞭打っている訳でも、奥さんにも問題があったと言う事を言っているのではありません。
高野さんが、誰かに愚痴をこぼせる人であったらと思うのです。
それが奥さんでも良かったと思いますし、友人でも親でも良かったと思います。
『女房に仕事の辛さや愚痴を言えるか!』と言うタイプの方も多いとは思いますので、兄弟でも、友人でも、誰か、人生のコーチ役か、甘えられる人がいたならばなぁーと残念に思うのです。

私の事に戻りまして、あの苦しい時について、今だからこそ思う反省点があります。
それは、仕事上で行き詰まった時に、他人に頼らなかったと言う事です。頼れなかったと言う事です。
エリートでは無いけれど、自分を過信していたのだと思います。
こんな事を聞いても、どうせ当事者では無いから分からないだろうと言う決め付けをしていました。
ですから誰にも積極的に助けを求めませんでした。
クレームで悩む時に、素直にその苦しさやつまらなさとその解決方法について、周りの人々に相談していたら、展開は変わっていたであろうと今思います。
そう思えるようになったのは、自分が会社を経営して、本当に解決しなければ困る立場になり、何か問題が発生すれば、解決方法が見付かるまで片っ端から人に相談し、本当に解決方法が見付かる事を経験し実感したからだと思います。

仕事上でも、生き方においても、行き詰まった時、他人の力を精一杯借りると言うか、協力を貰うと言う姿勢、アドバイスを貰うと言う謙虚で柔軟な姿勢が大事だと思います。一番下座に座る姿勢が大事とでも言えましょうか。
今では、はっきりと知る事が出来ました。
自分の実力は磨かねばならないけれど、自分独りの力で解決出来る事は先ず有り得ない、色々な人との出会いと縁、協力によって初めて、物事が進むのだとはっきりと知る事が出来ました。

なお、挫折した私は辞表を工場長に提出致しましたが、会社のトップマネージメント(私が尊敬していた専務)から引き止めて頂きました。
『行く当てはあるのか?』
『いえ、特にございません』
『それでは、大谷君に来て欲しいと言う関連会社があるから、一度其処に出向して冷静に将来を考えたらどうか?』
『有難うございます。それではそうさせて頂きます』。
ざっとこんな風なやり取りで、私はその後の3年間を関連会社の経営に携わった後、色々な経緯の末、やはり会社を退職し、現在経営する株式会社プリンス技研を設立する事になりましたが、その経緯に付きましては、いずれこのコラムで触れたいと思います。

このコラムの結論として、サラリーマン時代の私と同じ様な目に遭って悩んでいる方、また様々な人間関係に悩んでいる方にも、是非色々な人に相談する事、悩みを打ち明ける事を勧めたいと思います。
解決するまで諦めずに相談し続ける事をお勧めしたいと思います。

『この世に、自分独りで解決出来る事は有り得ない!』と思って下さい。そうすれば、道は必ず開けると思います。

最後に、前回と今回のコラムを書くキッカケを与えてくれた高野さんのご冥福と、ご遺族の今後の立ち直りを祈りたいと思います。




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2000.11.09

エリートの自殺

折角の人生を自殺と言う形で幕を引く人は結構多く、昨年過去最高の33048人と言うデーターがあります(1時間あたり3.8人)。
それぞれ行き詰まりの事情、理由は異なると思いますが、エリート、例えば著名企業のトップマネージメント、有名作家、ヒット歌手、有名スポーツ選手の自殺ニュース、自殺未遂ニュースは、結構脳裏に残っているものです。

私は前述の様なエリートではありませんが、親の希望する通りの高学歴を手にして競争社会を歩む中で、周りが期待していた(?)程の出世が出来ず、自分自身も燃焼し切れないサラリーマン生活に満足出来ず、中間管理職になった一時期、家族から自殺を心配される程の登社拒否状態になると言う大いなる挫折を経験しています。
そう言う立場から、今現在、死にたい位の苦しみに悩んでいる人にとって、乗り越える手掛かりになれば幸いと思い、自殺をテーマとしたコラムを書く気になりました。
一昨日の元プロ野球エースであった、エリートの自殺ニュースがキッカケです。

11月7日(火)の新聞に、元ヤクルトの高野光投手(39歳)の自殺を知らせる記事が載りました。
高野さんは、1984年に東海大学を卒業し、ドラフト1位指名でヤクルト球団に入団し、新人として開幕投手(彼以後、誰もいない。松坂投手でさえ出来なかった)を勤め、話題となりました。
またその年、新人で10勝をあげて、続く4、5年はエース格として活躍されていた事を記憶しています。
しかし6年目に肘を故障され、2年後カンバックしたものの1994年、ダイエーに移籍した後に引退されました。
その後は、オリックスの2軍コーチを4年、昨年から台湾、韓国のコーチをされていたと言う事です。
プロ野球1軍で通算51勝55敗13セーブと言う事ですから、立派な実績を残された投手であると言えます。
しかし、ヤクルトファンでは無かった私には、知らぬ間に表舞台から消え、今回のニュースで漸く高野投手を思い出したと言うのが本当のところです。

奥さんとお嬢様の制止を振り切っての、自宅マンション7階のベランダからの飛び降り自殺と言う報道です。
ご家族の目の前での自殺と言うところに、突発的な不自然さを感じますが、無職で仕事探しに悩んでいたと言うご家族の話から類推致しますと、エリート故に、自殺を考える位に追いつめられていたと言う事は間違い無いと思います。

高野さんは、東海大学時代の23勝1敗と言う素晴らしい成績を引っさげ、ドラフト1位、新人開幕投手、新人2桁勝利と言う、野球選手としては、望むべくも無い位の脚光を浴びた超エリートでした、と言って良いと思います。
プロ野球同期の中西氏(元阪神タイガース投手)が、宴会部長的な明るい方であったと言うコメントをされていましたが、彼を知る人は一様に、『何故?信じられない!』と言うのが、偽らざる想いでしょう。
でも私は、高野投手が死に至るまでに歩んだ心模様は、彼が一時期脚光を浴びただけに、根底に潜む強いプライドが、周りの人の目と評価を背にして自身に抱く情けなさ、歯がゆさ、そしてON対決だ、イチロー大リーグ挑戦と、華やかな話題が報道される現在のプロ野球界を横目に見ての焦りと疎外感、しかし自分の力ではどうしても切り開けない行き詰まりと挫折感を抱かせ、死以外の選択肢が無くなってしまっていたのだ推察しています。
真実は勿論分かりません、計画的な自殺ならば、家族の前ではしないと思いますので全然別の原因と言う事も否定は出来ませんが、自分の現状を悲観してと言う事ならば、私自身のサラリーマンとして挫折に至る経過から類推して、前述の推察にほぼ間違いないと思います。
私自身の経過を今振り返った時に、若気の至りだったなぁ、挫折は当たり前だったなぁ、と思う事があります。
そんなところを私の過去を振り返りながら、次回コラム(私のサラリーマン挫折物語)にまとめてみたいと思います。




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2000.11.06

―悪貨は良貨を駆逐するー

『悪貨は良貨を駆逐する』と言うグレシャムの法則は、企業では、『ネガティブ(無用)なものがポジティブ(有用)なものより優先されてしまう』と言う比喩的法則として使われて来た。私がネット購読している日刊マガジン(無料)の11月2日発行分でも紹介され、久し振りにこの言葉を思い出した直後、引き続き読んだ、同じ11月2日の朝日新聞の朝刊コラム『天声人語』が、このグレシャムの法則を最も当てはめて改善すべき事例を記述していた。それで直ぐに、私のコラムにも取り上げる気になった訳である。


日刊マガジン『頑張れ社長!』(http://www.e-comon.co.jp/)の冒頭文
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
イギリスのトーマス・グレシャムが1560年にエリザベス女王に対して進言した"Bad money drives out good."(悪貨は良貨を駆逐する)という法則がある。グレシャムの法則とよばれるこの法則は、通貨の問題だけでなく、あらゆることに応用が効きそうだ。
◇優先順位の低い仕事は、高い仕事を駆逐する
◇日常業務は、改善業務を駆逐する
◇既存事業が新規事業を駆逐する
◇既存客まわりが新規客開拓を駆逐する
◇耳ざわりの良い話が耳の痛い話を駆逐する
◇成績の悪い部門(人)に割く時間が、良い部門(人)に割く時間を駆逐する
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


マガジンを読んで、私たち凡人は、易き(やすき)に流されると言う事であろうかと実改めて感した訳であるが、さて、朝日新聞11月2日の『天声人語』のテーマは、森総理と野党党首の党首討論内容に付いてであったが、ご存知の通り、党首討論の中味は、政策討論では無く、中川前内閣官房長官の辞任に関する首相の任命権者としての責任問題である。グレシャムの法則に当てはめると、この中川辞任問題が悪貨であり、国の経済立て直し対策が良貨である。国の最高議決機関での、しかも党首同士の討論会での討論であるから実に情けない話である。

確かに国の重要なポストに付くべき人物の任命は、慎重であって欲しい事ではあるが、はっきり言って(森総理に代わって言い訳してあげると)、大臣に登用しようとしている人に付いて、何年も前にさかのぼっての人との交流状態、人脈、女性問題、パーティ出席時の隣合わせた人物等を逐一チェックしていては、組閣作業が全く進まない事は確かである。 ここ数ヶ月間、中小企業の倒産が相次ぎ、失業率の改善が見られず、消費低迷を脱出する気配さえ無い現時点で、この非生産的討論である。私の小中学校時代の学級討論でも、もっと真剣な討論をしていたと記憶する。

私も、中小と言うより零細の製造業を営む経営者として、特に気になる消費動向がある。既にご承知の様に、衣食住の中、住を除いて衣料、食物の殆どが東南アジア諸国等からの輸入品が主役となっており、製造業の空洞化が一層顕著になっている状況である。今は携帯電話、半導体関係以外の製造業は、リストラ、リストラの嵐が吹きっぱなしである。我々国民も安い外国製品に群がり、自分で自分の首を締めているとは分かっていても、安い外国製しか買えないと言う、惨めな蟻地獄の中でひしめき、うめいているのである。そのうちに、残った住(住宅)さえも、500万円を切るメイド・イン・チャイナが建ち並ぶに違いありません。

こんな時に、森首相の言葉のあげ足を取るのが目的であるかのような党首討論に挑み続ける野党党首達自身が、日本にとって、まさに悪貨そのものである。森首相(与党党首)を良貨とは言わないが、与党内閣を良貨であらしめるように、政策の良否・過不足に関して、直接最高責任者を生の声で問い詰める姿勢を見てみたいものである。恐らく野党党首には、如何にすれば失業率を下げられるかと言う議論をする知識も見識も努力すら無いのだと思う。そして、週刊誌のレポーターの如きスキャンダラスなネタにしがみ付いているだけの能力しかないのである。そして、残念と言うか情けないと言うか、その類の質問の返答に窮しないように、想定問答集とやらで、事前準備怠り無いと言う与党党首が迎え討つのである。 平和と言えば平和、世紀末と言えば世紀末の茶番劇ではないだろうか。

私はもう30年以上も、朝日新聞のこの『天声人語』のファンであるが、今回は実に物足りない想いがした、と言うより何かの間違いでは無いかと何回も読み直した位である。単に野党の討論に臨む作戦の稚拙さと、首相の回答の不誠実さを指摘しているだけなのである。昔の天声人語氏ならば、討論テーマそのものにクレームを付けたであろうと、情けない想いがしたのである。まさに天声人語氏自身が、悪貨に駆逐されたのである。

特に最近、マスコミの首相批判が目立つ。いや日本では昔から、マスコミから誉められた現役首相はいない事も確かである。ノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作首相ですらも、後半は特にアメリカの手先呼ばわりされ、非核三原則を疑われて散々国賊扱いされた。中では比較的ましな扱いを受けた田中角栄首相は、学歴が無かった分、今太閤(豊臣秀吉)と好意的に扱われた記憶があるが、後半はロッキード事件で金権政治家と散々批判され、病と共に、腹心の部下にも裏切られて、政界の表舞台からも裏舞台からも消えて行った。記憶に新しい村山首相は、神戸大震災時の危機管理不足の一点を突つかれ、震災1年後の正月明けて直ぐに潔く舞台から降りた。それを引き継いだ橋本首相は、国の遠い将来を想い、財政再建、6つの行政改革に取り組もうとしたものの、無責任な経済評論家、野党、そして身内の与党、役人達からも水を掛けられた上、ここでも反体制マスコミの大合唱に、消費税・医療負担増の目先の苦労に耐え切れなかった国民(特に無党派層)が呼応し、(参議院選挙で)NOと言う審判を下してしまった。橋本氏にとっては志し半ばまでもいかずに散った訳である。そして、あの小渕さんの登場であった。優柔不断、自分の意見無し、真空首相と、これまたマスコミは散々馬鹿にし続けました。ここまで馬鹿にされてまで、何故首相の座に座り続けねばなら無いのだろうかと同情していた矢先に、突然帰らぬ人となってしまった。そして、急遽登板した森首相の失言批判オンパレードである。外観から受けるキャラクターで多少損をしていると推察しているが、私はそんなに大きな失言をしているとは思っていない。マスコミの論評には常に、『一国の首相ともあろうものが』と言う枕詞(まくらことば)が付く。クリントン大統領が日本の首相だったら、とっくに退陣である。

どうも全てのマスコミは、反体制的な内容でないと国民からの支持が得られず、ノルマの購読部数や視聴率が確保出来ないとでも思っているのだろう。私は、そう言う首相や与党こき下ろしワンパターン、国民は弱者被害者ワンパターンに飽き飽きしているところであった。朝日新聞も社説の論説委員は、既にそのワンパターン化人間となって久しいが、天声人語氏だけは、未だ辛うじて見識を保っているかと胸をなで下ろしていたところへ、11月2日の天声人語の論評でありショックであった。

マスコミと言うものは、野党を鼓舞したり、与党をこき下ろしたりしないと、本当にその存在価値はないのだろうか?首相の良い点、美談、努力、快挙を国民に知らせる事は、無意味なのだろうか?そんな記事を書くと、他のマスコミから体制派と逆批判されるのだろうか? 現在のマスコミの在り方に関して、素直な疑問を抱いていた事は確かである。

しかし未だマスコミ、マスコミサイドの人物の中で唯一、日曜日の報道2001のホストコメンテイターである竹村健一氏は、首相キラー与党キラーのキャスターをたしなめ、マスコミの在り方をたしなめ、時には海外新聞の記事を紹介しながら、極力偏らない見方をしようとして努力している方だと思っている。他番組のキャスターは、単なる首相キラー、大物政治家キラーに終始しており、如何にも一般大衆に迎合している感じがして、今では顔を見るのも不愉快である。

このままでは、21世紀の日本は沈没するしかないと思う。悪貨を良貨が駆逐しないと大変な事になる。悪貨とは、国民注視の国会で、経済対策論議が出来ない野党政治家達と、スキャンダル好きで、首相キラーに終始するマスコミと、マスコミに群がる評論家達である。そしてこの悪貨を駆逐する良貨には、私達国民自身がならねばなりません。良貨になるには、見識を持たねばならない。その見識は、時代の大きな変わり目の明治維新で、私利私欲を捨てて国の為に尽くした先人達、そして正しい人間の生きる道を説く宗教家、哲学者から、人生で何を大切にすべきかを学ぶ事ではないかと思う。

20世紀は、核兵器を生んだ科学技術と言う悪貨が人間の良心、宗教心と言う良貨を駆逐しました。21世紀は、コンピユーター情報技術を生んだ科学技術と宗教心・道徳心と言う良貨が、核兵器と無用な国家間の衝突・戦争と言う悪貨を駆逐して、私たち一般大衆の心に平和な心を取り戻させ、未来を背負う子ども達がキレる必要の無い社会を構築する100年にし、人類が更に進化したと言えるミレニアムの出発世紀にすべきであると切実に思うのである。


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2000.11.03

−子は親の鏡―

下記の詩は、アメリカ、南カルフォルニア在住のドロシー・ロー・ノルト博士(女性)の有名な詩です。

私は、この詩をごく最近『子どもが育つ魔法の言葉』と言うPHP研究所出版の和訳本(1500円)で知りました。作者は、この詩を1954年に書いたそうです。

私は、すでに二人(長男と長女)の子育てが終わり(結婚しています)、孫さえいる身ですので、この詩を知るのが、せめて30年位前だったら、と思いますが、それでも読む気になったのは、日頃から経営者と従業員の関係は、親と子どもと同じだと言う想いがあったからです。
やはり大いに役に立ちそうです。いや、従業員にとっては、経営者に読んで欲しい内容でしょう。

ただ、この本に補足したいと思う点があります。それは、以前の本コラムで紹介した『話を聞かない男と地図の読めない女』と言う本の主旨でもあると思うのですが、『受け継いで来た血、遺伝子DNAは無視出来ないし、認めるべき尊いものでもある』と言う事実です。
親の育て方だけでその子の一生の性格・資質が決るものでは無く、その子の持って生まれた性格・資質があると言う事です。
子の全てに責任を持つと言うプレッシャーを持つ事は大事にしても、その子の持っている尊い性格・資質・才能にも気が付くユトリを持つ事も大切だと思うのです。

本の中の文例を以下に抜粋しご紹介致しますが、子育て真っ最中の方、或いはそのご両親は勿論、経営者の方にも、是非読まれる事をお勧め致します。


誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ

子どもを誉めることは、親の大切な愛情表現の一つです。子どもは、親のことばに励まされて、自分は認められ愛されているのだと感じるのです。親の誉め言葉は、子どもの心の栄養になります。子どもの健全な自我形成には欠かすことができません。
子どもが為し遂げたことだけでなく、その子の意欲も誉めましょう。子どもを誉めすぎることはありません。子どもが大人になり、様々に苦難にぶつかった時、子どものころ親に誉められたことが、心の強い支えになります。親の言葉を、子どもは一生忘れないのです。
子どもは、自分を誉めてくれる親を見て育つことで、友だちとの関係でも相手の良い所を認めて仲良くやっていくことの大切さを学びます。こうして、子どもは、相手の長所を認められる明るい子に育ちます。親に誉められた分だけ人に好かれる子になるのです。



子どもは親に誉められた面を伸ばしてゆく

私たち親は、子育てのあらゆる場面で、子どもにわたしたち自身の価値観を教えています。子どもは、自分が何をしたら誉められ、何をしたら叱られるかと言う体験を通して、親は何を良しとし何を悪いと考えているかを学ぶのです。子どもの人格形成において、親の価値観は、大きく影響します。親が子どもの長所を見付け出し、それを誉めれば、肯定的な自己像を形成していくことが出来ます。子どもは、良いところを誉められれば誉められるほど、よい子になろうと頑張るのです。
お子さんのどんな面を誉めたいと思うかは、もちろん親御さんによって、それぞれ違うことでしよう。子どものどこを誉めるかによって、子どもの人格と価値観の形成に大きな影響を及ぼすことになるのです。子どものどのような面を認めるかによって、親は子どもに自分の価値観を示しているのです。親の価値観を基盤にして、子どもは自分自身の価値観を形成してゆきます。



子どもと意思疎通を図りたいなら

子どもが親の同意を得ようと何かを言っきたら、出来るだけソフトな態度で受けることが大切です。『言ってくれてよかった』と言う態度を示せば、子どもの態度も柔らかくなり、親の意見を聞いてから決めようと言う気になります。過保護にならずに、子どもの自立心を伸ばしてあげて欲しいのです。それを心に留めていれば、子どもにも親の気持ちが伝わり、親を煙たがらなくなるものです。



見詰めてあげれば、子どもは頑張り屋になる

冷蔵庫のドアに、「太り過ぎ注意!」と張り紙をしたけれど、全く効果が無かったと言う経験はないでしょうか?いつも見慣れているものには、私たちは注意を払わなくなってしまいます。あなたの子どもさんに対しても同じことが言えませんか?子どもの存在が当たり前のものになり、何とも思わなくなってしまうのです。毎日、子どもを学校に送り出し、ご飯を食べさせ、身の回りの世話をしています。けれど、本当に子どもを見つめ、分かっているかといえば、さて、どうでしょうか。子どもの成長のひとこまひとこまに目をとめることなく、過ごしてしまう事があるのです。子どもの姿を見つめ直してほしいのです。親の視線は子どもに直ぐに伝わります。子どもは喜んでやる気を出すことでしょう。




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2000.11.01

人生の厳しい瞬間に

人生には時として、とんでもない事が我が身に起ります。
肉親を不慮の事故で一瞬の中に失うと言う事はその中でも最もショッキングな出来事です。
とんでもない事ではありますが、毎日何処かで発生しており、新聞でそれを報ずる記事を見ない日はありません。
新聞記事にならないものも含め、世界中で起っている件数を想像致しますと、とんでもない事でも無いと言うのが現実です。

実は私も、小学校5年生の時に当時は未だ交通事故も珍しかった昭和30年の1月19日に交通事故で父(享年54歳)を失いました。
父は、大学4年生の姉を頭に末っ子の私まで、5人の子供を(当時49歳)に遺して亡くなりました。
母のショック、不安は大変なものだったであろうと、自分がその歳に近くなって初めて考え及ぶようになりましたが、実際は大変どころでは無かった事でしょう。
その母も、もう亡くなって15年になりますから、今更答えては貰えませんが、恐らくは、当時既に母は仏教の講演会(垂水見真会)を主宰していた位ですから、仏教の教えに心の救いを求めて、また仏教の話を聞く事に心の拠り所を得て、乗り越えて行った事は間違いありません。
その後自身が亡くなるまでの31年間、毎月1回の法話の会を続けるエネルギーは、父から与えられたものと思います。
しかし、50歳そこそこでの一家の大黒柱の死は、世間からはきっと同情を集めていたに違いありません。

最近私も、学生時代の同期達3名が50歳前後で相次いで病死致しました。
何れも一流企業での出世を果たして、取締役を前にして、お子さんを遺しての残念な死でもありました。
誰しも死を避ける事は出来ない、いつ死が訪れるかもしれない、明日の命の保証も無いと言う事も、阪神大震災で、身を持って実感しておりますものの、やはり友の死を前に致しますと、『運命だから致し方ない』とはなかなか割り切れるもではありませんでした。
また、ご遺族に何もしてあげられないと言う無力感も同時に抱いたものです。

そういう事が起ってもおかしくない年齢に私がなったと言う事でしょうが、実は一週間前にも、幼馴染の一人が脳血栓で倒れたと言う事を人伝(ひとづて)に聞き、今もそのショックが尾を引いており、気の重い想いを抱きつつ、一方人生の厳しい面を痛感しながら、何かを書かずにおれず、このコラムを書いているところです。
同期達の死よりも気が重いように感じるのは、同期達の死が風化してしまったと言うだけではなく、私自身がその幼馴染の奥さんとはソフトテニスを数年にわたって毎週土・日プレーした仲であり、彼女が今もそしてこれから味わうであろう不安、心の葛藤、悲しみ、苦しみ等などを思うからだと思います。
そして、そんな苦労など奥さんに絶対掛けたくなかったはずの元気な時の彼が抱く無念さを想像するからだと思います。

彼は、私よりも1年下ですが、小学校時代は直ぐ近所に住んで、色々一緒に悪い事をしたりした餓鬼仲間でした。
私立に進んで、大学で一度は学生チャンピオン(確か神和住純選手を決勝で破り)にもなり、社会人でもデ杯候補選手までになった彼とは、その後彼が現役を引退して、私と同じソフトテニスを楽しまれる様になった30歳代の後半になって、再び交流が出来ました(彼の自宅前に実家が保有するテニスコートがあります)。
一緒にペァーを組んで試合に出た事もありました。
さすが一流プレーヤーであった彼のプレーは、光るものがあり、風格もありました。
彼の奥様も、これまたウィンブルドンで活躍した沢松和子のライバルで、日本選手で沢松に勝利した唯一の選手として有名な方です。
彼女はソフトテニスでも日本チャンピオンに何回かなられた素晴らしい選手でもあります。
女性ではありますが、練習試合では、私と対等な勝負をし、勝ったり負けたりの宿敵でありました。

また彼は、人柄も素晴らしく、仕事でも有名企業の重要ポストにあり、将来を嘱望されていたに違いありません。
彼もまたお嬢さんお二人を持ちながら病に倒れてしまったわけです。

まさに、お二人には思っても見ない事が起ってしまいました。
今私は、お声の掛けようもなく、ただただ心配しているだけです。
彼女に頑張って下さいとは言えるはずがありません、それは頑張り屋の彼女にとっても、乗り越えるにはあまりにも大きな試練と思うからです。

死と言うものは、いずれは誰の身にもやって来ますので、時がやがて解決してくれます。
しかしこんな場合はどう考えたら良いでしようか?
事故で体に障害が残って車椅子生活を余儀なくされた方も実に大変ですが、脳血栓の場合は、命令する脳に障害が残るでしょうからリハビリにも限界があるかも知れません。
彼の状態を詳細に把握出来る立場にありませんので、ただただ心配しています。

自分の身内に起った場合は、とても忍耐出来ないのでは無いかとさえ思います。
仏教が拠り所となり得るものでしょうか?
そう簡単には心の解決には至らないかも知れません。
『一の矢は受けても二の矢は受けないで欲しい』と言う事が通じる状況でもないと思います。

彼女には辛くて不安な時が続くと思いますが、彼女が何とか耐えて、またテニスが出来る状況になる事を、今は離れて祈るしかありません。
また、現代の医学の研究が進み、元に戻る治療方法が見付かる奇跡を待ちたいと思います。

私達にも何時どのような試練が待ちうけているか誰にも分かりません。
その様な目に遭いたいとは勿論思いませんが、遭った場合には乗り越えられる心境ではありたいと思いますものの、今からその様な状況になった時を想定して、心構えをしておく事も出来ません。
そうするよりはむしろ、仏教言葉として有名な『日々是好日(にちにちこれこうにち)』と、ただただ日々の平穏を祈り、一日、一日の平穏に感謝して過ごして行く事より外は無いのではと、幼馴染の不慮の病に接して、改めて思う次第です。


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2000.10.30

歎異鈔について―D―善き人に遭う

前回のコラムで、往生(=悟り、流転輪廻からの脱出)への出発点は、『苦』であると言う内容を書きました。
今回で歎異鈔の解説は一先ず終わりと致しますが、最後に、宗教の信仰心と言うものは、人から人へと伝わるものであり、学問を幾ら積み重ねても、信仰心を体現されている善き師匠、先輩に遭わないと、信仰には至らないと言う事を申し上げたいと思います(この事を詠まれているのが、無相庵カレンダーの9日のお詠『ともしびを、たかくかかげて、わがまえを、ゆく人のあり、さ夜なかの道』です)。

他力本願を信じてお念仏を唱えなさいと言われましても、なかなか心からのお念仏は私の口から出ません。
そして、これは仏教講演会で他力のお話しを聞いて、幾ら頭の中で、他力本願の説明を理解出来ても、無理だと思います。
また一方、自力の修行を幾ら積みましても、自力に頼っている間は、他力が信じられるはずがありません。
どうすれば他力本願を信じる事が出来るかと申しますと、歎異鈔の第2条に、親鸞は『善き人の仰せを信じるよりほかありません』と申されています。
親鸞にとって善き人とは、法然上人(親鸞より40歳年上)です。この信じ方には凄いものがあります。
『たとえ法然上人にだまされて、念仏を申して地獄に落ちても後悔はありません』と断言されています。
勿論、むやみやたらと盲信しておられるのでは無く、理路整然と説明されています。
『私親鸞が、様々な自力の修行をして往生出来ると言う身であるところを、念仏を申した為に地獄に落ちたのならば後悔もするでしょうが、地獄に落ちる事が間違いない煩悩具足(ぼんのうぐそく、煩悩がすべて揃っていると言う意味)の親鸞ですから、何の後悔もございません』と言う絶対の自己否定と法然への絶対の信頼、そして法然を通して感じる他力本願への信心(しんじん)が言わしめていると思います。

私達もこのような『善き人(見本、お手本)』に巡り遭えたならば、他力本願を信じる事が出来るのだと思います。
しかし、善き人に遭いさえすれば良いかと言うかとそうではなく、絶妙のタイミングが必要であると思います。
時期が熟すと言う条件です。
こちら側(私)に、その準備(他力本願を信じ切る心の準備)が出来ていないと、幾ら立派な方善き人にお遭いしても駄目だと実感致します。と言いますのは、私は既に善き人達と巡り遭っています。
無相庵カレンダーに採用させて頂いている詠を詠われた方々にお遭いさせて頂いているのに、未だ他力本願を信じ切れてはいませんし、お念仏も出ません。
私にその準備が出来ていないからです。
この絶妙のタイミングをニワトリの卵のふ化の瞬間に喩えて、『そっ啄同時』(そったくどうじ:そつは口へんに卒と言う字です。)と申します。
親鶏が卵を突つき割るのと、雛が卵の内側から叩き割るのとが同時だそうです。まことにぴったりの喩です。

親鸞も9歳の出家から20年の歳月を経て、29歳の時にやっと機が熟したのです。
親鸞は、あまり地位の高くない公家の生まれで、多分口減らしの為に9歳で比叡山延暦寺預けられました。
青年になる頃、公家社会の地位に応じて、寺での地位が決ると言うお坊さん社会の現実にぶつかり、思うように出世出来ない自分の嫉妬心、挫折感に苦しみます。
そしてそれを自分の努力・修行によって悟りを開き、乗越えようとして20年の歳月を過ごしました。
自分の名誉欲から来る苦しみに身悶えしながらの歳月でした。苦悩からの脱出が親鸞のテーマでした。
しかし、どうしても自分の裡にある名誉欲が消え去る事は有りませんでした。
悟りを開きたいと言う名誉欲が出発点ですから(汚れた手で顔を洗う様なもので)、名誉欲が消える訳がありません。

また、親鸞の生きた時代は公家の支配する時代から平氏・源氏・足利氏へと武士が支配する 時代への変わり目で、戦争が絶え間なく、常に生命の危険にも怯えていたものと推察されます。
根本的には死にたくない苦しみ、死への恐怖心を乗越えたいとも思っていたに違いありません。

苦悩からの脱出を願いとして親鸞は、比叡山での修行、経典の読破に明け暮れましたが、適わず、最後の望みを賭けて、聖徳太子の建立とされる烏丸にある六角堂への100日参り、聖徳太子に祈願を込めました。
疲労困憊状態の95日目に『法然に縁を求めよ』と言う聖徳太子の示現を受け、最終的には比叡山を下り、既に他力本願に救われると言う教えを説いていた法然のもとに引かれるようにして行き、他力本願の念仏に救われたのです。
20歳でも25歳でも駄目だったと思います。29歳の時がまさに絶妙のタイミングだったのだと思います。

私達の人生におきましては、『あの時、あの人に遭わなかったら、今日の自分は無い』と言う事を良く聞きます。

私には勉学をそっちのけでテニスに励んだ時代があります。
ボールを打つ瞬間の『ちょっとした間の取り方』がどうしても分からず、壁が破れない時期が続きましたが、良い二人の先輩、師匠に会い開眼出来た瞬間がありました。
多分一人で練習に明け暮れましても駄目だったと思います。

仕事上では、反面教師と言う善き人に遭いました。
まさにあの人がいなかったら、今日の私はなく、今もサラリーマン生活を送っているものと思います。
あの人に遭ったお陰で、一部上場とは言え小さな会社での出世も思うように出来ずに、名誉欲と戦い、人間関係の難しさに苦悩して、仏教書をはじめとして色々な本を読ませて頂きました。
今も、経営者として抱える欲と不安、肉親の行く末に関する心配、自分自身の老いと死への不安等、様々な苦悩から救われたいと言う想いを持ち続けています。

親鸞の様な運命的な善き人との出会いは、もっともっと深い苦悩を色々と味わった先に、その時が来るものと信じています。


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