2000.01.04

21世紀の文明回帰について

勿論暗いニュースも伝えられていますが、全般的には、穏やかに21世紀が始まったように感じます。
しかし、私は、人類もそろそろ文明を考え直す必要があるように思います。
何故かと言いますと、私達人間は、物質文明の進歩と共に、人類の破滅に、ゆっくりではありますが、ひたすら走っているように感じ始めているからです。

20世紀の重大ニュースとか20世紀を特別視する様な表現で総括するテレビ番組もあったようですが、私は20世紀も歴史の中の1世紀と捉えるべきではないだろうかと思います。
確かに、人類が月に到達したり、テレビ社会、コンピーター社会になった事は特筆する価値はありますが、それは世界の出来事を瞬時に知る事が出来、また過去の物質文明を普く享受している現代に生きる私達が感じる事であって、ガリレオの時代の地球が太陽を廻っていると言う発見やアメリカ大陸の発見、産業革命、電話の発明と、各世紀には、各世紀毎に、びっくりする出来事があったと考えるべきであろうと思うからです。
世紀ごとに、確実に物質文明は進歩を遂げて来た事は間違いありません。
そして、本当に便利な生活、物の豊かな生活になりましたし、まだまだ進歩して行く事は間違いありません。

しかし、物質文明と対比される精神文明に関しては如何でしょうか?
私は確実に衰えて来たと言いますか、人類が堕落して来ている事は間違いの無い事実だと考えます。
詳しく歴史的な検証をする必要がありますが、いつの時代の記録資料にも『最近の人間の堕落』を嘆く言葉が残っているように思います。
それは、物質文明の進歩とは、あまりにも対照的です。
事実、哲学においても、宗教においても、多くの人に影響をあたえる境地を示した人物は、時代を溯るほど多く、また影響力も大きいのではないでしょうか。
お釈迦様ほどの人、キリストほどの宗教者はここ20世紀の間(2000年間)出ておりません。
日本でも、法然・親鸞以来、独自の宗教的境地を切り開いた人物は、輩出していません。

どうやら物質文明は右肩上がり、精神文明は右肩下がりと両者は完全に反比例的関係にある様に思えます。
これは、ひよっとすると宇宙の真理なのかも知れません。
一昔前、『恐竜が自身の巨大な体で地球を征したが、巨大な体故に滅びたのと同じく、人類は、その優れた頭脳で地球を征したが、その優れた頭脳故、自らを破滅に至らせる』と言われました。
核兵器がそうかも知れないと思われた事もありますが、今では、どうでしょうか?
遺伝子操作技術に対して、そう言う警鐘を鳴らす人々もあります。
しかしその声も、物質文明追求派の勢いに、かき消されつつあるように思います。

地球規模でなくとも、私達の生活を振り返って見ましても、地域社会の結び付きの希薄さは、年々進行していると思います。
近所同士の無関心さは驚くほどです。
隣の人の家族構成も知らない、何を職業にしてる人か分からない。顔を合わす事も殆ど無い、と言う状況が普通になってはいないでしょうか。
他人のプライバシーには立ち入らない、自分のプランバシーをおかされたく無いと言う主義が現代的なのかも知れません。
しかし、そこには他人の苦しさ、苦労に無関心、さらには他人が殺されても無関心と言う、冷たい人間関係が定着しつつあります。
そしてそれがアメリカでも日本でも顕著な、犯罪の低年齢化、凶悪化に繋がっているもと思います。

ここらで、一旦物質文明の進歩を中止して、精神文明を取り戻すべく、21世紀の人類が勇気を持って、大きく舵を切る必要があるのではないでしょうか。
その第一歩は、自分に対すると同じように、他人の心にも大きな関心を持つ事だと思います。


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2001.01.01

般若心経の解説ーAー

21世紀を迎えました。
明けまして、おめでとうございます。
輝かしい21世紀にしたいものです。そしてそれは、般若心経に説くところのお釈迦様が気付かれた宇宙の真理が、世界の人々に浸透する事によって初めて可能になるだろうと思います。
引き続き、般若心経の解説を続けさせて頂きます。

『舎利子。色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。受想行識。亦復如是。』
(しゃりし。しきふいくう。くうふいしき。しきそくぜくう。くうそくぜしき。じゅそうぎょうしき。やくぶにょぜ。)

本に記載されている和訳は、下記の通りです。勿論一般の方には、仏教の専門用語があり難解だと思います。

『舎利子よ、色は空に異ならず、空は色に異ならず、色は即ち是れ空なり、空は即ち是れ色なり。受・想・行・識も亦復是(またまたかく)の如し(ごとし)。』

これはお釈迦様が弟子の舎利子に空(くう)の真理を諄諄と説かれた言葉ですが、なるべく平易な現代語訳を試みるならば、次の様になるのではないでしょうか。

『舎利子よ、色(しき)は空(くう)と異なるものでは無いし、空もまた色と異なるものでは無いのだよ。色は空そのものであり、空は色そのものなんだよ。受(じゅ)も想(そう)も行(ぎょう)も識(しき)にも又、同じ事が言えるのだよ』

舎利子と言うのは、お釈迦様のお弟子中でも智慧第一と言われたシャーリブトラ(実在人物)の事です。この弟子に対しての呼びかけが、初めの舎利子です。
そして、いよいよ簡単な1字同士ですが、でも大切、しかし難解な、空(くう)と色(しき)の話です。
空(くう)は前コラムで説明し尽くしたと思いますので、ここでは色(しき)について説明したいと思いますが、ここでは、前コラムで敢えて説明を省きました色を含めて、色・受・想・行・識の五蘊(ごうん)を説明しておく必要があります。

五蘊は、この世に(この宇宙にと言っても良い)存在する一切のものを5つに分類して説明したものです。
蘊は、梵語のスカンダーフと言う言葉を翻訳したものですが、元は『あつまり』と言う事です。
ですから、五蘊は5つの集まったものと解釈出来ます。
その5つが、色・受・想・行・識です。

色は、色のある物質(形ある物質)と言うもので、私達が目に見えるすべての物を総称しています。
次の受・想・行・識の4つは、物に対する心を4つに分類したもので、今日の心理学上の表現を借りれば、感情・知覚・意思・意識の精神の作用を4つに分けたものです。
ですから、五蘊は、有形の物質と無形の精神との集まりを意味します。
肉体と精神を持っている私達人間そのものが五蘊と言って良いでしよう。

本文の解釈に戻りまして、舎利子に続く、4節は、とにかく空(くう)と色(しき)は同じものだと力説しています。
しかし、私は、数学的な表現として、空=色と言う事を言っているのでは無く、空←→色と表わしたいのだと思います。
そして、最後の節で、空←→受・想・行・識と念を押していると思います。
この←→はいつでも変化する、変幻自在(へんげんじざい)と言う意味に捉えたら良いと思います。
やはり全ては因・縁・果によって変化するものだと悟って欲しいのです。
固定したものは何も無いんだと悟って欲しいのです。

形あるものは、とどのつまり、何も無い事と同じなんだと説いているのですが、でも、大切なのは、そこで終わらずに、空即是色と何も無いと言ってもやはり形はあるものなんだよ、と戻っているところです。
全否定から、全肯定に戻っているところが素晴らしいのです。
形あると思っても、全ては何れは壊れてなくなる物だと悟ってしまうだけでしたら、何か厭世的(えんせいてき)で世をはかなんでしまい、暗い悟りとなります。
そうでは無くて、今、目前に現れている形あるものを大切にする心が、空即是色であります。
どなたの詠か存じませんが『舎利子みよ、空即是色、花ざかり』と言う詠があります。
私には頭の理解でしか論評出来ませんが、これは仏教の悟りの心境を見事に表わしたものではないでしようか?
今、地球と言う星に、肉体と心を頂いて生まれて来た私、縁が尽きれば、煙となり、水と炭酸ガスになります。
宇宙時間からすれば、一瞬の命ですが、多くの縁がたまたま寄り集まって、2度と無い命であるからこそ、大切にしたい、また、他の生命も同じく大切にしたい、それが空即是色の意味するところだと思います。

今年も宜しくお願い致します。


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般若心経 2000.12.25

般若心経の解説ー@ー

それでは、今回のコラムから般若心経(はんにゃしんぎょう)の解説をさせて頂きます。
大体、11回位で完了するものと思いますが、時折ですが、間に世事・世相の感想コラムを入れますので、2ヶ月位にはわたると思います。
解説形式と致しましては、漢文のお経そのものと読み方と、直訳的な和訳を記載し、その後に出来るだけ平易な現代語解説、平易な解釈に努力したいと思います。

『観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄。』
(かんじざいぼさつ。ぎょうじんはんにゃはらみたじ。しょうけんごうんかいくう。どいっさいくやく。)

本に記載されている和訳は、下記の通りです。
勿論一般の方には、仏教の専門用語や、古いインド語のサンスクリット語の当て字が混じっていて、難解だとは思います。

『観自在菩薩が、深般若波羅蜜多を行ずる時、五蘊は皆、空なりと照見して、一切の苦厄を度したもう』

この冒頭の25文字は、この般若心経の結論と言われています。
般若心経が仏教の肝腎要のお経と申しますから、この25文字は、仏教の最終的な教理、お釈迦様が私達に最も伝えたいメッセージと言っても良いものだと思います。
なるべく平易な現代語訳を試みるならば、次の様になるのではないでしょうか。

『観音様が、深い深い真理の智慧を求めて修行されているうちに、この宇宙に存在する全て、形ある物も、人間の意識や想いなどの形無いものも、一切全てのものは、空(くう)だと悟られて、一切の苦しみ悩みから解放されたのです』

観自在菩薩と言うのは、お釈迦様が悟りを開かれる前の、修行中のお名前と理解すれば良いと思います。観音様とも申します。
観と言うのは、観察するの観です。『ものをみる』と言う時のみるには、『見、観、視、察』と言う4つの字がありますが、観は心の眼でもってものをみると言う事で、ものの本質をみると言う時に使います。
菩薩と言うのは、仏になりたいと修行している人の尊称です。
従いまして観自在菩薩とは、世間の出来事、人間の悩み苦しみの本質を自由自在に観察して、救済の手を伸ばして下さる尊い修行僧と捉えて良いです。

しかし、ここでは難しい事はさておき、ここの25文字は、私達が、苦しみ、悩みから解放されたいと思うならば、空(くう)を悟りなさいと言うお釈迦様からのメッセージと受け取れば良いでしょう。

しかし、『ああそうですか!』と言う訳には参りません。
空(くう)と言う事が何んだか分かりません。
空(くう)は、空っぽ(からっぽ)の空です。空(そら)の空です。
この空(くう)は、言葉で説明し尽くす事は出来ませんし、説明を聞いて理解出来るものでも無いと思います。
自分自身が、体全体で感じ、心から納得出来なければ、分かったとは申せません。
ここでは、理解への取っ掛かりと言う意味で、筆舌を尽くして説明してみたいと思います。

『空(くう)とは何も無い事』と言っても現に目で色々な物を認識出来ている事は事実ですから、『この世のものすべては、人間が認識しているからこそ存在していると言える訳で、人間が認識できなければ、本来何もないのと同じです』と説明すれば、多少は理解出来るかも知れません。

もっと深く考察しますと、『全てのものは変化する。一つとして変化しないものは無い。空(そら)に浮かぶ雲も、やがて雲の姿では無く、空(そら)は文字通り、空っぽになってしまう。だから本来何もないのだ』と言う事だと思います。
しかし、自分が生きている間は、周りには物も、人も存在しているし、自分が死んでも、それらは存在し続けると思うのが自然ですので、とても、何もないと言う空(くう)だとは思えません。
確かに、諸行無常と言う言葉もあり、すべてのものは変化すると言う事は、頭では理解出来ています。
地震に襲われたら、街ごと変わってしまう事も経験しましたし、自分は経験しなくても、何回も目で見て来ました。

しかし、頭では理解出来ましても、心が納得してくれません。
だから、苦しみからも悩みからも解放されていないのですが、では一体どうすれば、空(くう)を心底、或いは体で理解出来るのでしょうか?
この空を悟ろうとするあらゆる努力(体験・経験を仏教的真理として捉える思索、そして実践)が、必要であり、頭だけの知識を学ぶだけの勉強だけでは到底悟る事は出来ないと思います。
これが仏教の修行だと思います。但しそれは、修行僧がする座禅を組んだり、滝に打たれたり、朝夕の読経だけが修行ではありません。私達のような一般人の日常生活も仏教的な思索を加えて、空(くう)の追求をすれば、それは立派な修行になります。

私も、空(くう)を悟るには至っておりません。
しかし、いつか『あっそうか!』と空を悟る瞬間が来そうな気もします。
喩が適切では無いかも知れませんが、例えば、『おまえは馬鹿だなぁ』と何回言われても、私は自分を本当に馬鹿だとは自覚出来ませんでした。
そんな時は精々『私は馬鹿かも知れないな』と言う位は思った時もありましたけれど、人に言われる程の馬鹿ではないと思っていました。
しかし、自分自身が思いも及ばない、考えもしなかった真実に出会った時、『ああ馬鹿だったなぁ、こんな事も分かっていなかったのか!本当に私は大馬鹿者だったなぁー、昔あの人が言っていた意味はこういう事だったんだ』と大地に平伏す位に自覚した時が何回かありました。

それと同じ様に、空(くう)も、『本当に空なんだ、空とはこういう事なんだ』と頷く(うなずく)瞬間も有りそうに思います。
いや実際、過去では、お釈迦様も、達磨(だるま)大師も、法然上人も親鸞上人も道元禅師も、その瞬間に出会った方々です。
そして、私がお会いし存じ上げている方々の中にも、沢山おられますから、努力すれば、空を悟れるはずです。
空(くう)を悟れば、苦・悩みから解放される、お釈迦様は、人類史上初めて、この真理に気が付き、このメッセージを残されました。これが般若心経の冒頭25文字です。

般若心経では、このメッセージの後に空(くう)と色(しき)は同じ事だと言うメッセージが続きますが、次節(次回コラム)に移る前に、少し知識を増やしておいて頂ければと思います。
その方が多少とも、空(くう)についても更に理解し易くなると思いますし、次節で解説する空(くう)と色(しき)の関係についても、理解し易いと思います。

その知識と言うのは、この般若心経の中に直接的には出て来ませんが、因縁果(いんねんか、これも以前のコラムで説明しています)と言う事です。
この宇宙の現象は、すべて因があり、その因に色々な縁が働きかけて、結果が生まれると言うのが普遍の真理です。
仏教では、自然現象も、人間の精神現象、人間関係も何もかも、因と縁があって始めて果が生じると断言しています。
仏教と言うより、これは、元々の宇宙の法則・真理であった事を、人間ではお釈迦様が初めて気が付かれたと言うものです。
詳しくは以前のコラムを見て頂きたいと思います。

ものごとは、因と縁により結果が生じると言う事は、一度結果として生じているものも、現象も、様々な縁によって異なる別の結果に移り変わって行くと言う事であり、私は以前のコラムで、要因の連鎖と言う表現を使ったと思いますが、因縁果の連鎖と言っても良いのです。
因が縁によって果を生じ、その果が別の縁によって別の果を生じると言う連鎖です。
この因縁果の連鎖を空(くう)と言う概念で表現しているように、私は思います。
空(くう)とは全く何も無いと言う事では無く、瞬間的に捉えれば、目の前に石を見ているとしたら、確かに目の前には『石』が存在するが、これは永遠に存在するのでは無く、いつか風雨に削られて、石では無くなるでしょう。
石から粉塵と言うものに変化するかも知れません。或いは、地球の大爆発で、宇宙のゴミとなるかも知れません。
宇宙が何十億年前からの存在か分かりませんが、宇宙的な時間からすれば、1万年位は瞬き(まばたき)する間の時間です。
宇宙の時計からすれば、地球が生まれてから、しかも人類が生まれてから現在までの時間の数百万年は、一瞬と言って良いのです。
仏教で言う空(くう)と言うのは、そういう宇宙の時間経過から見れば、人間が認識している物にせよ、意識にせよ、元々無いに等しいと言う事を言うのでは無いでしょうか。

仏教は、宇宙的な時間経過の中で生じている現象を因縁果で捉え、空(くう)を説いているものだと思います。
そして空(くう)を悟り、苦しみ・悩みから解放されなさいと言う事だと思います。


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2000.12.21

般若心経(はんにゃしんぎょう)について―序章―

少しの間、経営や企業に関するコラムが続きました。
これからは本来のコラム中心テーマと考えていた仏教の話に戻りたいと思います。
しかし、折々には世相に感じた事や経営上感じた事も挟ませて頂きたいと思います。

さて、般若心経と言うお経の解説を連載したいと思いますが、かなり前のコラムで、般若心経の中心的な言葉である色即是空(しきそくぜくう)、空即是色(くうそくぜしき)について説明させて頂きました。
今回は、般若心経全文にわたっての解説に挑戦したいと思います。

その前に、序章と言う事で、お経について説明したいと思います。
お経と言いますとお坊さん、お坊さんと言えばお葬式と言う連想で、お経と言えばお葬式と言うイメージが定着していると思います。
一般の人は、お経は死者を弔う唄と思い込んでいるのでは無いかと思います。
何時の時代からでしょうか、情けなく残念な事です。
お経と死が完全に結び付いているため、一般の人々は、お寺にも、お経にも親しみを持てなくなっています。
何百年と続いた慣習から植え付けられたイメージと言うものの怖さです。
その点、讃美歌のイメージはどうでしようか?
結婚式などでも歌われておりますから、一般の人にもきっと明るいイメージがあると思います。
聖書は嫌でも讃美歌にはそう抵抗は無いと言う人もいるでしょう。
讃美歌は、神を称え、神に感謝を表わす言葉が並んでいます。

お経も、決して死者の冥福を祈ったり、あの世に無事届ける為の儀式の為に作られたものでもありませんし、そんな内容とは全く異なります。
現に生きる人に対する、『より良く生き抜く為のメッセージ』以外の何物でもありません。
死者を送る言葉、死者に語り掛ける言葉は一切無いと断言出来ます。
むしろこれから胸膨らませて飛び立とうとする若者達を前にした卒業式や結婚式でお経が読まれて良い位です。

何故お葬式にお経なのでしょうか?
私達人間は、他人の死に遭った時にしか自分の死について考えないと言ってもよい位です。
だから、お葬式の時位にしか、自分が何れ死ぬ存在である事に気付きません。
だから、お葬式でお経を読むと言う儀式は、お葬式に集まった人々が死を前にして少し神妙になった機会を捉えて、人生の在り方についてお経を読んで知らせようと、頭の良いお坊さんが考えた事がきっかけでは無いかと思うのです。
しかし、現実的には、お経は何を言っているのか、私にも殆ど聞き取れません。
外国語のようなものです。
現代語に直す必要があろうと思いますが、有り難さを残したまま、格調高い表現の現代語にする事は非常に難しく、粘り強く挑戦する人が見当たりません事は残念です。

さて、お経には、般若経、浄土経、法華経、華厳経、維摩経、阿含経と聞いた事のあるものだけでも色々とあります。
その上、般若経だけでも600巻あると言われていますから全体の量は想像を絶すると言うものです。
お経は、紀元前450年頃からインドで作成されたものが、中国、チベットで漢訳され、日本に伝わったものですが、日本でも、親鸞や道元の著述書もお経として扱われますので、更に莫大な数量になります。
これらのお経に関する知識は、学者の本に譲るとして、これから解説を試みようとしている般若心経は、般若経の要点をまとめたものと言って良いですし、また、すべてのお経が言葉を変えて場面を変えて説き尽くす要点と言って良いものです。
更に言い換えれば、お釈迦様が悟られ、私達に教えたい肝腎要(かんじんかなめ)のところをまとめた著述書と言って良いと思います。
宗派によって大事にしているお経は異なりますが、どの宗派(邪教と言われるものは除き)も般若心経だけは、共通のものとして読む経典と言われていますところからも、仏教に取りましては、大変大事なお経と言って良いかと思います。

私も、毎日の朝夕お経を家族全員で読むと言う浄土真宗の家で育ちましたが、この般若心経も、時折読んでいましたので、260文字のこの経典は、経典を見ないでも読み上げる事が出来ます。
しかし、内容は、高校・大学となった頃に少しずつ分かりかけたと言う程度です。

般若心経は、詳しくは、般若波羅蜜多心経(はんにゃはらみたしんぎょう)と言います。
般若は、サンスクリット語で、プラジュニャー、パーリ語でパンニャーという智慧と言う言葉に漢字を当て字したものです。
そして、波羅蜜多も、パーラミータと言う原語に当て字したもので、元の意味は、『悟りに至る道』と言って良いかと思います。
心経は、原語に当て字したものでは無く、核心となる教え、中心となる教えと言う事です。
般若心経は、悟りの世界に辿り着くための真理の智慧を表わした仏教の肝腎要の教えを説いたものと解釈すれば良いと思います。

私も、過去に読んだ参考書も再び紐解きながら、改めて勉強をさせて頂きながら、解説したいと思います。
ただ、本当に解説をしようと致しましたら、コラム50回分は必要と思いますし、それでも一般の人々には難解かも知れません。
出来るだけ平易な解説を心掛けますので、真髄に迫りたいと思われた方は是非、角川文庫から出版されている『般若心経講義』(高神覚昇著、昭和27年初版)をスタートとして、更に専門的に勉強されたらと思います。
しかし、本当に知るためには、これらの勉強だけでは足らないと高神師も言われています。
いわゆる信仰心に至るまで日常生活そのものが仏教と一体にならないと本当に知った事にはならないのも事実だと思います。


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2000.12.18

守・破・離(しゅはり)

現場・現物・現時点報告・連絡・相談に引き続いて、守・破・離について説明するが、この言葉は、前の二つの3組単語に比べて、一般企業でも、そう頻繁には聞かれないものであろう。
しかし、これからの日本企業にとっては、大変重要な3単語であると思っている。
特に空洞化に喘ぐ日本の中小製造業が再び世界のトップを奪還する為には、非常に重要な3組単語だと私は思う。

この守・破・離は、元々は茶道の習熟段階を表わしたものと聞いているが、文字通り、守る、破る、離れると言う事である。これを茶道、花道を想い浮かべながら説明したい。

先ず守の段階とは初心の段階を言い表わすものだ。
姿勢は勿論、一本の指の動きから、決められた作法通り、寸分違わずにお茶を点てる事を繰り返し、繰り返して教え込まれる。
もう意識せずともそれが自然に出来るようになるまで教え込まれるのである。
これが守の段階だ。道を究め尽くすには、この段階を疎かにしては為し得ないと言われる段階である。
自由度が無いだけに、つまらないと感じて、大抵の人が挫折する段階でもある。
相撲で言えば、十両以上の関取になる前までの、付け人時代がその段階と言っても良い。
自分の好む型を主張する事は決して出来ない。
プロ歌手だったら、楽譜読み取りとメロディの音階取りと発声練習に明け暮れるだろう。
そして一つの唄を貰っても、作曲家の言う通りの抑揚で歌わされるだろう。
こう言う不自由さが守の段階である。
不自由とは言え、無意識に演じる事が出来るまで繰り返しの反復練習が必要である。
しかし、人間やはり自分のやり方を追求したくなるものである。

それが破の段階である。
まぁ一人前に扱われる段階と言って良いだろう。
この段階は、温故知新(おんこちしん)、古いものは古いもので良いが、やはり新しいものに挑戦したくなるものであるし、またそうでないと道は究められない。
芸道もスポーツの技も、この挑戦者達の段階が無ければ、進歩しない。
伝統芸能もなんでも、そういうチャレンジ精神を持った人によって、より良いものに進化し磨き上げられて来たのである。
この段階は、古いものを打ち破る段階である。
むしろ古いものを意識的に否定する段階と言って良いだろう。
多少傲慢なところが見える段階であると言っても良い。
この段階は自信満々ではあるが、当事者にとっては、結構辛いものである。自分の型を作り上げようとするのであるから色々と試し、挫折し悩む。
ある時は完全に自信を無くして、一切投げ出して止めてしまおうと思うのも、この段階である。
振り返れば、産みの苦しみ、陣痛の激しさに耐え兼ねる時である。
そして迷い迷った挙げ句、多分もう一度、初心の段階に戻る事を思い付くだろう。
そして初心に戻って、決められた通りに演じる。
その時、守の段階で習った作法の素晴らしさ、その理に適った部分部分に頭が下がるだろう。
伝統の重み、その伝統を継承して来た数多くの先輩・師匠の苦労に頭が下がる。

頭が下がった時は、もう離の段階に入っているのである。
そして、初心の守ではない、そうかと言って過信とも見えた、少々個性的であった破の段階の癖も無い、守からも破からも離れた自由自在な境地と技や作法、型に到達するのである。
名人・達人は、こう言う離の段階に入った人を言うのだろう。
守は上手達者の段階、破は怖いもの無しの危ない段階だ。

この守・破・離は、勿論あらゆる芸道にも当て嵌まるが、前にも述べた相撲を含めて、全スポーツも然りである。
スポーツでは、個性は大切であるが、基本が出来ていないと、大きく伸びないと言われる。
天性だけでは一流選手にはなれないと言う。
キチンと守の段階を通り、一度は傲慢になってスランプを嫌と言う程味わった者でなければ、離の段階の名人と言われ一流と言われる選手にはなれないものである。
プロ野球で、多くのドラフト1位選手が活躍も無いまま、球界を去って行った。
むしろドラフト1位以外の選手の方が、一流選手になっていると言っても良い。
守の段階が大切なのである。

私は、冒頭でこの守・破・離を日本の製造業が空洞化を乗り越えて世界のトップに返り咲くために必要なものだと言った。
それは品質に関するグローバルスタンダードであるISO−9000Sを自分のものにする事は、守の段階として勿論大切である事を言いたいのであるが、これが全てと錯覚して、従業員全ての努力で改善改良を進めると言う、40数年来、日本の良き品質管理手法として取り組まれて来たTQC(全社的品質管理)を忘れては日本の良さを何もかも失ってしまうと思うからである。

日本の製造業の平均値は、すでにないしの段階にあるにも関わらず、国際規格を言い換えたグローバルスタンダードと言う幻影に惑わされて、道草を食っているとしか思えない。
そして多くの企業で、ISO−9000Sの取得と維持にエネルギーを費やし、QCサークルの活動を前時代的と位置付けて、日常の改善改良活動を疎かにして、一般従業員は、活性化を阻害されているのが現状であると思う。

勿論、私の会社も含めて守の段階の企業も多い事は認めるが、既に守の段階を随分以前に抜けたはずの中堅会社が、ISO−9000Sの取得を契機として、守のみに奔走し、全く活力を失っているのを見るに付け、守・破・離を思い浮かべずにはいられなくなり、このコラムとなった次第である。


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2000.12.15

ホウレンソウ

報告・連絡・相談の報連相(ほうれんそう)である。
会社で働く人ならば、誰でも知っているかと思っていたが、そうでも無いようだ。
以前従業員募集で面接した時に質問したら、野菜でしょう?と言う女性が2、3人いたのでビックリしたが、従業員教育をしない会社では、全く遭遇しない言葉であり、また家庭では殆ど使わないので、世間的には、半分以上の人が知らないと思う。

しかし、ホウレンソウは企業でも、一般生活でも人間関係をうまく構築する上で非常に大切だと思う。

ホウレンソウが出来るか出来ないかで、企業での出世が決ると言っても過言では無い。
また、私的な付き合い、或いは親子関係でも、ホウレンソウの上手な人は得をしているように見える。
ホウレンソウは処世術と言っても良いかも知れない。

ホウレンソウのワンポイントを示したい。

報告は、人に何かを依頼されたり指示された後、結果を相手に知らせる事であるが、なるべく早く、必ずする事である。簡単な事でも、必ずする事が大切である。
『この手紙出しておいて下さい』と女子社員に頼んだ場合、『ついでがございましたので、お手紙先程出して参りました』と言う人と、一向に報告が無く、出してくれたのか、未だだしていないのかわからず、『手紙出してくれた?』と聞いたら、怪訝そうな顔をして『ええ、直ぐに出しておきましたよ?』と言う人もいる。
当たり前の事でも、分かり切った結果でも報告した方が、相手に安心感を与えるものだ。

連絡は、自分が得た情報を誰かに伝える事であるが、タイミングと方法が大切であり、要領良くまとめて伝える事である。
上司が会議中に、お客さんからの電話を受けた時、重要なお客さんの場合は、当然会議中でも、つなぐべきであるが、会議が終わっても、未だ連絡しない人もいる。
『そんな大事な電話、早く言ってくれよ!』と言われている女子社員を見た事があるが、例え重要会議でも、メモを差し入れる位の機転が欲しい。
タイミングがずれては台無しである。
相手にとっての重要度を日頃から知り抜いている事が必要である。
伝える時は、いつ、だれが、なにを、どこで、なぜ、どうしてと言うまとめ方をすれば、抜けが無い。

相談は、困った時に他人にアドバイスを貰う事であるが、何を相談するのかが端的に分かる様に、結論を先ず提示する位が良い。
だらだらと経緯やいい訳みたいな事を繰り返されると、結局何が聞きたいの?と言う事になる。
そして、自分の考えも持って相談すべきだろう。
何も自分で考えずに、どうしましょう?では、その中厄介者にされる。
そして、相談した結果を後日、こうなりましたと報告すると、相手は喜んで次回の相談にも応じてくれるだろう。

ホウレンソウの上手下手は、結局、どれだけ相手の立場に立つ事が出来るかと言う証明でもあるだろう。


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2000.12.11

続・ビジョナリーカンパニー

ビショナリーカンパニーと言う意味は、先見性のあり、且つ卓越した会社と考えたら良い。
前コラムで、世界のトップ企業の中から、50年以上存続し、且つあらゆる面でトップと目される、18社が選ばれ、その企業と2番手企業を比較した結果をまとめた本が、日経BP社から出ている『ビジョナリーカンパニー』である。


前コラムから以下に続きとして、ビジョナリーカンパニーと言われる由縁の7項目から始める。

F会社のシステム、ルール、経営者・従業員の行動等に一貫性がある事である。しかも徹底した一貫性と言うべきだろう。顧客の立場に立ってと言うスローガンを掲げながら、トイレにぶら下がるタオルが汚いレストランでは困惑してしまう。品質は私達の良心ですと言う標語を掲げながら、作業手順を守らない製造現場も困るし、重要なクレーム情報が社長の耳に届かないのも困りものだ。まして、日常の品質監査ルールが無いとなるとシステムもルールも無い事になる。ビジョナリーカンパニーは、人材の採用、研修、登用システム、給与システム、福利厚生と言う労務管理システムから、仕事の進め方、課題の取組み方、目標の決め方まで、すべて一貫性があると言う。

Gものごとを決断する場合、二者択一にのみ拘らず、二者採用と言う考えも持つと言う事。本の中では、ORとANDと言う表現を使用している。長期的な繁栄を考えた戦略を立てる一方、目先の利益もしっかり追うと言う立場を取るのだ。普通、目先の利益は少々目を瞑って、将来の大きな利益を獲得する方針を立ててしまう。普通は今の小さな欲望を捨てて、将来の大きな欲望の満足を狙うと言う立場に立ちがちだ。そうでは無く、今も満足させ、将来も満足出来る方法に頭を使うと言う事だ。逆転の発想と言える。

Hこれで終わりと言う事が無い、前進のみを考え、常に緊張感を持ち続ける工夫をしている。 安心感を持たない様に、飴(アメ)と鞭(ムチ)を準備していると言う。競争心を常に持ち続けるために、成績を公表しそして表彰する。頑張れない人間には、居辛い職場だと言う。頑張る人間には、とてもヤリガイのある職場だと言う。



私は、やはり人間として生まれた限りは、他の動物では出来ない頭脳を使い、改善・改良をして行く事が、ヤリガイでもあるし、それが仕事だと思って来た。
ただ、それを奨励したり、 鞭を振るうシステムはして来なかった。
社是にも詠い、時折集会で改善する事を促しはしたが、結局は、個人のやる気を待って来ただけある。
だから、会社の体質はまだ、力強い改善志向のものにはなっていない。

ビジョナリーカンパニーと言う本を読んで、仕組み、制度を作らないといけないと、実感した。
序でに設立当初から制定していた経営理念、社是の表現を平易に変えて、誰にでも、直ぐに理解出来るものにする積もりだ。

100年後のビジョナリーカンパニーに選ばれたいと思う。


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2000.12.07

ビジョナリーカンパニー

1942円です。

日経BP出版センターから出ている本『ビジョナリーカンパニー』(副題、『時代を超える生存の原則』)を読み、久し振りに非常に興奮を覚えている(未だ読み終わってはいない)。

この本は、副題の通り、時代を超えて存続出来る企業の条件を事実に基づいて纏め上げたものである。
二人のスタンフォード大学教授共著の和訳本である(原書は1994年発刊)が二人を中心としたチームが6年の歳月を掛けて『真に卓越した企業と、それ以外の企業との違いはどこにあるのか』を問い続けながら、設立50年以上存続した世界のトップ企業18社と、その後塵を拝している2番手企業を徹底的に比較調査をした結果と結論を詳細に、しかも主観なしに記述した報告書である。

私は、学生時代の受験参考書と同じように、常に傍らに置き、これから経営を続ける限り何回も読み直すに違いないと思う。
それほど共感出来る、示唆に富んだ、しかも主観の入っていない素晴らしい本である。

興味のある人は、是非読んで欲しい。
念のため、調査対象企業名を下表に示しておく。何れも超優良、有名企業である。

ビジョナリーカンパニー比較対象企業(2番手)
3Mノートン
アメリカンエキスプレスウェルズ・ファーゴ
ボーイングマクダネル・ダクラス
シティコープチェース・マンハッタン
フォードGM
GEウェスチングハウス
ヒューレット・パッカードテキサス・インスツルメント
IBMパローズ
ジョンソン&ジョンソンプリストル・マイヤーズ
マリオットハワード・ジョンソン
メルクファイザー
モトローラゼニス
ノードストローム メルビル
プロクター&ギャンブル(P&G)コルゲート
フィリップ・モリスR・J・レイノルズ
ソニーケンウッド
ウォルマートエームズ
ウォルト・ディズニーコロンビア

結論として、ビジョナリーカンパニーと2番手企業の際立って異なる点は、

@経営する上での基本理念(何を目的とする会社かと言う事と、基本的価値観としての信念)を文章化しており、それをオカルト宗教団体と同じ様に、徹底的に浸透させている点。

A企業は、製品作りよりも、人作りが大切と言う事を聞くが、そうでは無く、会社を作ると言う事、言い換えれば、企業を支え、発展させ得る人を輩出し続ける仕組みを作っている点。

B社運を賭けて、わくわくするような、しかし達成する可能性は50%程度の困難な目標を掲げて、挑戦する点。

C常に新しい事にチャレンジする体質と仕組みを持っている点。そして、失敗をすることこそ、財産だと言う点。

D2、3年先までの計画を持ってはいるが、常に臨機応変に変えれる体質を持っている点。

E経営者は、必ず生え抜きであり、他社からスカウトする事は有り得ない(@の基本理念を時代を超えて守り通す事を徹底している会社であるから当然と言えば当然であり、日産自動車の様に、その場凌ぎのリストラを、哲学も異なる人物を引っ張って来て任せるような事は決してしないと言う事だ)。



次回のコラムに続く。


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2000.12.04

現場、現物、現時点

企業では、仕事の進め方の留意点を3つの単語を並べる事が良くある。
前コラムの整理・整頓・清掃も然りであるが、今回の現場・現物・現時点(3現主義と言う)、そして報告・連絡・相談(ほうれんそうと言う)、ムリ・ムダ・ムラ(3ムと言う)、守・破・離(技能の習熟段階、元は芸事の習熟段階を表わす言葉)もその中の代表的なものであろう。
それぞれに付いて、順次解説してみたい。

今日は、現場・現物・現時点と言う3現主義についてであるが、これは『他から聞いた情報だけに頼らないで、自分で現場に行き、現時点の、現実の物や状況を確認せよ!聞いている事とは違う事が多いはずだ』と言う事である。

これは、企業の仕事上の事、例えば、顧客ニーズ(顧客が欲している事)とか或いはクレーム情報(雪印乳業とか三菱自動車の品質異常等の問題が発生した時の事)に付いても、本社の奥深い部屋の椅子に座って、人伝えに聞く情報だけを頼りに対処していては、とんでもない過ちを起こす事があると言う戒めでもある。

マスコミ情報も全く同様に考えるべきである。
今朝もある番組で内閣支持率(10%)、不支持率(86%)を報じていたが、いつ、だれが、どんな場所で、どのような人に、どのような状況で、どのような表現で質問した上での解答かを詳細に確認しないと、判断を誤る。
『森首相の最近の失言はヒドイですね、ところであなたはこういう内閣を支持しますか?』と言う質問を、街を急ぎ足で歩いている人にぶつけた結果としての解答を集計したものならば、『支持しません』、『別にどちらでも…』と言う解答が多くなる事は容易に想像出来る。

顧客ニーズにしても、あの一流企業の花王の社長は、自ら特定のスーパーの特定の場所に毎週特定の時刻に立って(これを定点定時観測と言う)、客の購買行動を自分の目で確認していると言う。
アメリカの自動車の3大メーカーの一社であるGM(ゼネラルモータース)の社長ですら、毎年1週間(だったと思う)休暇を取り、地方の直営店の店頭に立って他の店員と一緒にセールスをすると言う。
3現主義を実践しているのである。

クレームについては、クレーム自体の現象の把握から始まって、その原因の追求調査段階では、この3現主義は絶対に必要だ。
私もサラリーマン時代、クレームを処理する立場になった事があるが、営業担当者から『不良が見付かり、お客さんの製造ラインがストップしている、大変な事になる』と言う事を聞き、慌ててお客さんの現場に入ると、別にそんな大変な事では無く、先方の製造担当者から、『弊社が組み立てた製品に不具合が見付かり、原因が分からないので困っている。
御社の部品に関して問題が無いかどうか、未だ使用していない在庫部品を点検してくれませんか?』等と言われて、肩透かしに遭ったような、ほっとしたような気持ちを味わった事が1回だけには止まらない。
現場に行けば、情報と異なる事が多いと言う事は確かである。
勿論、これは何もその営業担当者が嘘を伝えたとか私を騙したと言う事では無く、営業担当者も自分が現場に行って確認した事では無く、お客さんから電話情報を受けた代理店の担当者から、これまた電話で受けた営業担当者が自分なりの理解を言葉にして伝えたものであるから、情報が電話を通る毎に、曲がり曲がり伝えられたと言う、笑うに笑えない結果なのである。

勿論、情報を信用せず、自分の目と耳ですべて確認する事は現実的には不可能である。
しかし、重要な判断をしなければいけない時は現場に行き、今、その品物が、或いはその人がどういう状態にあるかを、自分の目と耳で確認しなさい、と言う事であると考えたい。

先般の加藤政変も、加藤氏が今の政治家達の森政権に対するスタンスを現場・現物・現時点で自ら把握すると言うステップを怠った為の失敗劇であった。
側近達からの状況報告(『自民党員の多くは、森首相を支える気持ちを失ないつつある、閉塞感で一杯だ、加藤待望論がある』と言う進言)を、そのまま信じ、また自ら開いたホームページに寄せられる多くの森首相否定論、加藤待望メッセージを、そのまま一般国民世論として受け取り、追い風と誤認した事が間違いの源では無かったかと私は考えている。
ホームページにアクセスして意見をメールする人達は、一般国民の代表とは言えないのである。
また側近は耳に気持ちの良い事しか言わないのが常なのである。

重要な判断を迫られる場合は、情報は情報として受取り、面倒でも、足を運び現場・現物・現時点を自ら把握しなければ、取り返しが付かないと言う最近の良い例である。
勿論、こう書く私も3現主義で、加藤政変劇を確認した訳ではない事を断っておく。

最後に、私達にとって最も大切なのは人間関係である。
人の噂をそのまま信じてしまうと、対人関係を思いもよらない方向に舵を切る事になるので、特に、この3現主義を忘れない事にしよう。




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2000.11.30

3S(整理・整頓・清掃)について

企業の現場に掲げられ、品質を造り込む工程を評価する単語として、歴史的には整理・整頓の2Sから始まり、3S、4S、5S、6SとSが増えて参りました。
2Sから6Sを順番に掲げますと、下記の様になります。

2S:整理、整頓
3S:整理、整頓、清掃
4S:整理、整頓、清掃、清潔
5S:整理、整頓、清掃、清潔、躾
6S:整理、整頓、清掃、清潔、躾、習慣

私の経営する株式会社プリンス技研は、3Sを採用し、品質方針『お客様に感動を与えられる職場の基本は、感動して頂ける整理・整頓・清掃にある』に盛り込んでいます。

品質方針に何故整理・整頓・清掃かと言いますと、品質管理レベルと現場の3Sのレベルは一致すると考えているからです。
何故6Sでは無いか言いますと、6Sは3Sが徹底出来れば、自ずから達成出来ると考えているからです。
本当は、1S、即ち、『整理』だけでも良いと思っています。
整理を徹底して、しかも継続出来れば、他のSは自ずから出来てくるものだとさえ考えています。

多分、守られない故に、だんだん増えてきたのではないでしょうか?
それ程、このSを徹底し、且つ継続する事は、難しいものです。
多くの企業も6Sまで欲張りながらも挫折しているように見受けます。

経営トップの方針を会社全体に浸透すると言う事がなかなか至難の業である事は、私自身が実感しているところでありますが、このSだけでも隅々まで浸透出来れば、その外に策定する経営理念も、経営目標でも、全社に浸透出来、目標達成出来ると断言しても良いかと思い、私は品質方針にまでして取り組んで参りました。
幸いお客様から『社長ところの会社は、何時でもISO−9000Sが取得出来ますね』と評価されますが、私自身はまだまだと感じています。
そして、経営理念、社是の徹底も、未だ未だ道遠しと言うレベルであると認識しています。

そう言う意味で、私は来年度も3Sの徹底に取り組みたいと考えています。
その徹底とは、経営者が毎日、現場を見て廻る事では無く、経営者がいなくても、経営者が代替わりしても徹底出来る仕組み(システム)を皆で構築する事だと思います。

因みに、整理・整頓・清掃は、私の会社では以下のように捉えています。

整理とは?
物品を必要なものと、不必要なものに分別し、不必要なものを捨てる事です。
情報社会の現代では、情報も含めて良いと思います。

整頓とは?
必要なものが直ぐに取り出せるように、置き場所を決めて、誰にでも分かるように表示する事です。

清掃とは?
工場の中の、目に見えない箇所に至るまで、塵、ゴミ、ホコリを除去する事です。


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