No.1070  2011.01.24
日本人の宗教心

ここ数年、正月三ヶ日に神社・仏閣に初詣する人数は9千万人以上で推移しているらしい。何ヶ所かの神社を掛け持ちでお参りしている人も居るであろうし、また神社側が実際の人数にかなり下駄を履かせている可能性もあるので、そのままの数値を採用すること は出来ないが、日本人1億2千7百万人の半数近くは初詣していると考えてもよいのではなかろうか。

しかし、これを以って、日本人は宗教心がある民族だとは言えないのではないかと思う。「あれは神様・仏様を祈っているのではなく、自分の欲を祈っているのだよ」と言った人が居るが、殆どの人がその通りで、おそらくお金儲け、健康、受験合格、良縁を祈っ ているのであろう。しかし、私はその気持ちを無慈悲に否定してはならないとも思う。でも、それを以って宗教心があると言い切ってしまうのは間違いだと思うので、その考えは否定しておきたいのである。

何故このテーマをコラムにしようと考えたかと言うと、五木寛之氏の他力本願念仏の教えに関する認識に大きな錯誤があり、著名人だけに世間(仏法に関心を持つ人々)に与える影響が大きく、看過出来ないと思ったからである。少し前のコラムで私が五木寛之 氏執筆の新聞連載小説『親鸞』を読み始めていることをお伝えしたが、私と五木氏では仏教信仰の捉え方が異なるとも言い添えたと思う。そしてたまたま昨日の日曜日に掲載された場面の中で、彦山房と言う小説の中に登場させた坊さんに、「易行念仏の法然なら知って おる。大変な人気があった。善行もいらぬ。修行もいらぬ。ただ一筋に阿弥陀仏を信じて念仏せよ、それひとつでいかなる悪人も必ず浄土へ往生できるという、驚くべき仏法だ。」と言わしめているが、称名念仏を勧めた法然上人も、正確に言えば阿弥陀仏と云う 仏様を信じよとは言っていない、『二枚起請文』と云う書の中で、はっきりと、「阿弥陀仏の悲願を仰ぎ、他力をたのみて名号をひまなく唱うべき也。これを本願をたのむとはいうなり。」と言っている。親鸞の弟子唯円が歎異抄第一章で、親鸞聖人の言葉として 、「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をばとぐるなり、と信じて念仏申さんと思い立つ心の起こる時、すなわち摂取不捨の利益にあづけしめたもうなり。」と紹介されており、「弥陀を信じて念仏申さんと・・・」とは紹介されていない。 ただ、五木氏がこの後のどこかの場面で、この彦山房の発言を親鸞に否定させようと云うことを考えていたとしたら、私の早とちりであったとお詫びしたいと考えている。

日本の本願他力念仏宗の祖師とも言うべきお二人は、阿弥陀仏信仰ではなく、この宇宙の働きを人間中心、或いは自己中心に働いていない『他力』とし、且つこの働きは生きとし生けるものの命を護り育てたいと言う知恵と慈悲が籠められた根本的な願い、つまり は本願が具わっていると云う信心なのである。それが本願他力信仰なのだと私は教えられて来たし、そう信じている。

仏様とか神様を信じると云うのは、敢えて言うとしたら人類が未だ地球が丸いことも、地球が太陽の周りをまわっている事も分からなかった科学知識未開の時代の信仰の姿ではないかと思う。色々な自然災害の原因が解明され、地球規模での天気図が毎日発表され るようになって天気予報の当たる確率が高くなった現代、祟りを怖れるとか、雨乞いをする為に必死に祈ると云うのは非科学的な 思考といわねばならない。空中浮揚した教祖を信じて、その教祖の命令なら殺人をも犯してしまう教団の教えは宗教とか信仰からは実に程遠いものだと言わねばならない。

知識人の中に、「自分は無宗教だ」と、さも自分が理性的・知性的な人間であるかのように言い切る者がかなり居るようであるが、それは真実の宗教、真実の仏法への知識がないからだと思う。「宗教を否定する自然科学は暴走族だが、科学を否定する宗教は盲走 族だ」と云う趣旨の発言をした人が居るが、日本の宗教心は一体どうなのだろうか。また日本人は何族と言えばよいだろうかと思ってしまう。

仏法の教えに関する誤解の最たるものは、上述してきたように仏様を拝んだり、仏様に何かをお願いしたり、或いは懺悔したりすることが信仰だと云う考えであるが、更に、坐禅とか滝に打たれたりの難行苦行の修行をして、欲望を無くし、心清かな人間になるこ とだと云う考えも誤解だと私は教えられて来たし、そう思っている。そして、浄土門の教えに従い念仏を称えれば、西方十万億土の浄土に往生出来ると云うのも大いなる誤解である。

それらの事を、青山俊董尼が感銘を受けらけた先輩方の言葉をその解説と共に紹介されているので、転載したい。

宗教は、心がきれいになるために聞くのじゃない。
汚い自分に気付かせていただくために聞くのじゃ。
――米沢秀雄

禅門に「その智におよぶべくも、その愚に及ぶべからず」という言葉がある。
妙好人と呼ばれた因幡の源左さんは、かつて一度も「誰々は悪い」と言ったことは
なく、誰よりも悪い自分のことしか話さなかったという。省みて恥じ入るばかりである。
その源左さんは、自分の肖像画ができてきたとき、「これは私のと違う。私の頭には
角がある」と言って角を書きこんだという。
他人の頭の角は見えるが、自分の角は、身びいきの私の眼には見えない。
仏の光に照らされて、初めて気づかせて頂けるわが非なのである。
親鸞聖人が自らを「罪悪深重・煩悩熾盛の凡夫」と呼ばれたのは、親鸞聖人を照らす
仏の光がいかに明らかであったかを示していることを忘れまい。

十万億土とは、自分から自分への距離のことだ。――沢木興道

二つの自分を自我と自己に言い換えたらわかりよい。
罪悪深重・煩悩熾盛の凡夫と気付く親鸞さまは浄らかだ。この泥んこの私を自我と呼び、そ
れに気づき、恥じるもう一人の私を自己と呼ぶ。
闇は闇を照らし出しはしない。闇を闇と照らし出し、気づかせてくれるのは光である
ように、泥んこの私に気づかせてくれるのは、浄らかな私なのである。
このもう一人の私は、正しい師に、教えに出遇うことにより、坐禅や念仏に出遇うこ
とにより、育っていく。
もう一人の私が、大きく育ち、その眼が深まるほどに一層私の中の泥が見えるように
なり、泥んこの私ともう一人の私、自我と自己の距離はますます遠くなる。
そこを十万億土と表現されたのであろう。

この二つのお話は仏法が自分の非に気づかねばならないと云う教えと受け止められかねず、仏教は暗い教え、マイナス思考の教えと受け取る人がいるとよく聞くことがある。自分の非に気づかねばならないと云うことは間違いではないが、仏法を聞いて、自分の非 に気づく努力をしなければならないと云うことではない。聞いているうちに、気づかされると云うことであろう。そして、気づかされて暗くなるのではなく、そんな私が色々な恵み(物だけではなく、自分に与えられた才能とか、仕事とか、家族や友人も・・・) を受けて生かされて生きている現実にも気づかされ勇気づけられて、世間の為に役立とうと積極的にもなるはずである。否、そうならねばそれまで聞いた仏法は間違いだと考え直すべきだと思う。青山俊董尼が道元禅師の「正しい師に遇わなければ、むしろ学ばな い方がよい」と云う言葉をよく紹介されるがその通りだと思うのである。

私は多くの正しい師に縁を頂いたと思っており、真実の仏法に出遇えたと考えている。それは違うと云う人が居るかも知れないが、宗教・信仰にも相性と云うものがあると思う。私は自分が出遇った仏法を正しいと考えているが人それぞれだとも思う。私の意見を 一つの参考にしてそれぞれの方が非科学的ではない且つ確固たる仏法観を確立される事を願っている次第である。

合掌ーなむあみだぶつ


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No.1069  2011.01.20
快適な人生を過ごすためのソリューション(3)

これまでの『快適な人生を過ごすためのソリューション』をまとめますと、先ずは一生涯かけてやり通したい「自分が本当に好きなこと、得意なことを探し求めて」、それに打ち込む。打ち込めなければ、見付かるまで探し求める。そして、人格的にも尊敬出来る良き指導者或いは目標とする先輩を見付ける。そんな中で、人間関係能力や人格も磨き上げられることに依って、他の人からも認められるようになり、自信が芽生え、溌剌とした日常生活に恵まれるのではないかと云うことになりましょうか。

ただ、何か物足りない気が致します。何かが足りない気が・・・。
それは私が仏法を人生の中心に据えていることから来るのかも知れません。『自己とは何か?』と云う人間として生まれたが故に持たざるを得ない根本的な〝人生に対する問いかけ〟が感じられないからではないかと考察しました。 道元禅師が『仏道を習うというは、自己を習うなり。自己を習うというは、自己を忘るるなり。自己を忘るるというは、万法に証せらるるなり』と云う言葉を残されています。仏道は人生道と言い換えてもよいと思います。「人生は自分探しの場なんだよ」と説かれて、結論としては、「万法に証せらるるなり」つまり、「この人生は自分中心で動いているのではなく、全宇宙の働きの中で生かされている存在だと云うことが分かるはず。それが分かれば人生に迷いが無くなるのだよ。快適な人生が顕現するのだよ」と云うことだと思います。 「人間とは何か?」「自分とは何か?」「何故生まれてきたのか?」を考察する時、科学的知識だけでは答えは出て来ないと思います。理論的思考のみでは何処かで行き詰ってしまうことでしょう。哲学、宗教の助けを借りなければ、納得し得る答えには至らないと私は思います。

私は、私の両親二人から生まれました。そして、その両親には、4人の両親が居ます。そしてずっと両親を辿って参りますと、15代遡りますと両親たちは合計で約6万5千人にもなります。15代前と云いますと、親鸞聖人が生きて居られた鎌倉時代あたりでしょうか・・・。そして、その6万5千人の中の一人でも欠けていれば、今の自分は生まれていないのですから、縁と云う如何に凄い命のたすきリレーが行われた結果の自分であるかが明らかになります。そして、その両親たちの一人ひとりにはきっとそれぞれに特徴的に恵まれた才能素質があったはずです。自分のその才能素質に気付かないまま一生を終えた方が殆どかも知れませんが、知らないながらも遺伝子として手渡されて来ているはずだと思うのです。無数の祖先が居る訳ですから、あらゆる種類の才能素質が揃っているはずです。その中のどんな才能素質の遺伝子を受け継いでいるかは分かりませんが、遠い過去から受け継いで来ているに違いない遺伝子探し、つまり自分探しをしたいものです。

人間は同じ両親から生まれた兄弟姉妹でも、性質も素質も全く異なります。つまりそれぞれがオンリーワンの命です。桜は桜の花を咲かせるように、そして同じ桜でも、ソメイヨシノとサトザクラ、オオシマザクラ、ヤエザクラでは、同じ桜の花でも花弁の形や色合いが異なるように、人間もオンリーワンである自らの命に目覚めて、オンリーワンの花を咲かせたいものであります。

最後に、青山俊董尼の『あなたに贈る、ことばの花束』から、〝切に思うことは必ず遂ぐるなり〟〝一発菩提心を百千万発するなり〟〝絶対に他と比較しない。その子の自己最高記録に拍手を送る。「やったじゃないか」「やれるじゃないか」と〟を紹介させて頂いて、『快適な人生を過ごすためのソリューション』の締めくくりとしたいと思います。

切に思うことは必ず遂ぐるなり〟(道元禅師) 「娘にお茶を習わせたい」と入門を頼みにくる母親に私は言う。
「お母さんがやらせたいというならお断りします。本人が〝どうしても学びたい〟という気持ちになったとき、よこしてください」と。
千利休の歌に、「この道に入らんと思う心こそ、わが身ながらの師匠なりけり」と云うのがあるが、本人にやる気が起きない限り、〝何としても〟という切なる思いの炎が燃え上がらない限り、力は出ず、同じように稽古の場にあっても身につかない。
坂村真民さんのお母さんは、念仏のように、
「念ずれば花開く」
と唱え念じながら事に当たり、文字通りどんな困難なことも乗り越え、また花開かせての生涯だったという。

一発菩提心を百千万発するなり〟(道元禅師)

高校時代あまり成績のあがらなかった人が文化勲章を貰った時、同級生が集まってこう言った。「お前が文化勲章を貰うんじゃ、我々のクラスにはノーベル賞を貰う奴が何人もいなければならない」と。
その先生はこう答えたという。
「人生は一段式ロケットじゃ駄目だ。どんな威力のあるロケットでも一度きりじゃだめだ。一度噴射し、又噴射し、もう一度噴射して方向転換し、それでもだめならまた噴射して軌道修正をするというふうにして進まねばならない」
「よしやるぞ!」というやる気が起きなければ何事も始まらないが、それは一度起こせばよいというものではない。今日も、明日も、一生起こし続けて初めて事は成就するのである。

絶対に他と比較しない。その子の自己最高記録に拍手を送る。「やったじゃないか」「やれるじゃないか」と〟(八ツ塚実)

国体に出場するという選手団が坐禅にやってきた。私はこの八ツ塚先生の言葉を紹介し、競技を通し、人生として学ぶべきことの何かを語った。
「結果を問わない。そのことにどれだけ努力したかだけを問う」と。日本新記録、世界新記録などといって、競技の世界ばかりではなく、世間一般においても、勝か負けるか、早いか遅いか、役に立つか立たないかという結果を問うモノサシしか通用しないようである。
このモノサシだけでは、オチコボレになる人が必ず出て来る。
中身はどうかというモノサシもあるはず。その方が大切なモノサシであり、人間らしい深まりと、仏の心にもかない、そこにはオチコボレはない。

合掌ーなむあみだぶつ


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No.1068  2011.01.17
仏法は軍備の必要性を認めるのか?

私の以前のコラム『石原東京都知事の核武装論に付いて思うこと』に関連してなのか、はたまた〝世事雑感〟コーナーで私が度々発言したことを含めてなのか、ある無相庵読者殿から、次のようなお尋ねを頂きました。

『いつも、敬意とともに拝読させていただいております。
真に、浅薄な理解に基づく単刀直入なお尋ねで無礼とは存じますがご寛恕ください。
軍備は、当然のことながら、実力行使の暁には、破壊・殺戮が不可避的に伴うわけですが、このことと、例えば、道元禅師の「尽十方界真実人体」(宇宙中が自分の身体だから、宇宙中を大切に―米沢英雄師―)という考えとは、どのように整合が図られるものか、御披瀝願えれば幸いに存じます。』

通常メールでのお尋ねには、メールでご返答させて頂いておりますが、今回のお尋ねは多くの方が抱かれるものかも知れないと考えまして、今回のコラムでご返答に代えさせて頂こうと考えた次第でございます。

さて、今回お尋ねになられた方が「仏法は殺生を認めない理想平和主義思想そのものだ」と云う捉え方をされて居られるならば、お尋ねは真にご尤もなものであり、ご疑問・ご疑念だと考えました。そして、仏法に親しまれて居られる殆どの方々に取りましても私の考え方には違和感があるものかも知れないとも思った次第であります。

ただ、私は今でも日本は日本国憲法(特に第九条)を改正して、自分の国は自国の軍隊で守るべきだと考えておりますし、現時点での私の仏法観から致しましても、日本は自国を護る為に軍備は整えておくべきだと云う考えに至っている訳であります。
私の軍備を容認する(いざと云う時は、殺生も容認する)と云う考え方の根本にありますのは、下記にお示しする事実・現実を人間は免れ得ない存在だと思うからでございます。

① 宇宙全体の事実は知る由もございませんが、地球に限って申しますと、地球上の多くの生き物は、人間だけに限らず、他の命を奪わなければ生きていけない存在であると云ことです。もっともらしく表現しますと共存共栄している間柄であると云うことです。更に言い換えますと、個々に存在するお互いの命を奪い合って子孫を残し命を繋いでいる存在だと云うことが出来ると思っております。そして、子孫の残せない種(競争世界に適合しない種)はこの地球上から消えてきましたし、これからも消えていくのだと思っております。残っている種は、競争に打ち勝ったか、地球の環境変化に順応し対応し得た種と云えるのだと思います。人類も幾つかの系統が存在した可能性があり、現在生き残っているのは、ホモサピエンスと云う種だけなのかも知れません。

② 個々の命は殺されなくても消えますが、人間の命で考えますと、私と言う個の命は何れは消えましても、人間と云う命は私が死んでも続きます。しかし、日本国が他国に侵略され国が消滅しますと、日本人と云う命が途絶えるかも知れませんし、日本が世界に誇り得る伝統文化も消えて無くなる可能性があります。これは日本だけでなく、他国・他地域に付きましても同じことです。

③ 個の命にせよ、国の命にせよ、他者の攻撃から命を護る為には、他者に勝る力が必要です。力とは、個人の場合は腕力とか武器ですが、国の場合は軍事力と云うことになると思います。

ただ、この軍備は飽くまでも抑止力と、いざと云う時に相手からの攻撃力を減じさせる為に備えるものであり、自国の勢力や領土・領域を拡張するために使うものであってはならないことは勿論のことであります。他国の攻撃・侵略を受けない為に先ず為すべきことは、他国と友好な関係を築き維持するための不断の外交的努力であることは論を待ちません。

ただ、外交力だけで国を護ることは極めて難しいと思います。ましてや現状では外交力が乏しい上に、軍事力を突出させて増強している国々と隣接している日本は、外交力だけで国と国民を護ることは相当難しい状況にあると私は考えております。

私の意見は少数意見だと思いますが、昭和20年の敗戦で終結した太平洋戦争は、当時の日本政府の稚拙な外交力と軍事力に関する認識の甘さから、してはならない戦争をしてしまったのだと思います。核兵器を持たずに核兵器を持つアメリカに立ち向かう愚かさが、広島・長崎への原爆投下、そして約30万人もの命が犠牲となったのだと思います。これは結果論ではなく、当時の日本のリーダーの無知から来た無謀が国民を不幸のどん底に落としたのだと言っても過言ではないと思います。国民に多大な犠牲を齎しただけではなく、アジアの国々にも多大な犠牲を強いることになり、日本への感情も取り返しのつかないものになった訳でした。

話し合いで外交問題が解決出来ればそれに越したことはありません。しかし、昨年末の尖閣諸島で起きた事件やロシア大統領の北方領土(国後島)訪問は、過去から引き摺っている領土問題ですが、話し合いだけで解決するはずがないと私は思います。経済問題も含めた外交力も必要ですが、一方で核保有国に対抗出来る抑止力としての軍備が無ければいずれ領土を徐々に失っていくしかないと考えます。軍備の一つの有り方として日米同盟の深化に期待する人々も居ると思いますが、アメリカは中国とロシアとは国連の常任理事国仲間です。それらの国を敵に回してアメリカが、憲法で戦争を放棄している日本の為に戦ってくれるとは私には思えないのです。

私の考え方を道元禅師の仏法からかけ離れたものと受け止められるかも知れませんが、私たちは他の生命を犠牲にすることで、生命を維持していることは間違いない事実であり現実でございます。そのようにしてしか生きていけない我が身を見詰め直して、地球上のあらゆる命に感謝し、その命を生かしめている宇宙全体の働きと存在に感謝しようと云うのが、真実と事実を説く仏法の考え方だと私は考察しております。

これからも私は上述したことの是非に付きまして、色々な方の見解を勉強し考察を続けて参る所存でございます。決して凝り固まっている訳ではございません。

今日は1月17日、阪神淡路大震災が起きた日です。あれから16年経ちました。私は震源地の淡路島から近い神戸市西区に住んでいましたが、幸いにも家族は皆無事でしたし、家も大きく揺れは致しましたものの家財道具や食器類等に損傷があった程度でした。自宅が半壊した須磨に住む友達家族5名を10日間お世話したことが震災地らしい出来事でした。犠牲になられた方々の無念を思い、哀悼の意を表したいと思います。

合掌ーなむあみだぶつ


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No.1067  2011.01.13
五木親鸞―私の読み方

今年の元旦から五木寛之氏の新聞連載小説『親鸞』続編が始まりました。
今回は流罪地〝越後(現在の新潟)〟の生活から始まっております。前回どのようにして終わったかを調べますと、私はコラムで『五木親鸞―残念なクライマックス』と云う一文を書いております。その中で、越後到着直前の船の上での親鸞聖人と妻である恵信尼の会話内容に対しまして、私は下記に転載しますように少し批判的評論を書いていますので今回の五木親鸞が前回からの続きものであることは明らかです。

『小説の中では、朝廷から流罪に処せられた親鸞は妻の恵信尼と二人連れの徒歩と舟での長旅を終え、越後に到着するのであるが、越後の居多ケ浜(こたがはま)を目前にして、親鸞は恵信尼に、「恵信どの、お山で修行したことはあっても、わたしは世の中を知らない。越後で地元の人びとのような暮らしができるだろうかと、不安でならないのだ。なにもかもがはじめての経験だし、流人の暮らしとはどういうものか想像もつかない。頼りになるのはそなただけだ。この世間知らずの親鸞を、弟子と思うてきびしく仕込んでくれ。わたしは本当に自信がないのだよ」 それに対して、恵信尼には、「大丈夫です。わたくしたちには、念仏という大きな支えがあるではございませんか」と言わしめている。
親鸞聖人が、自分を偽り隠すことない人格であることを描かれたのかも知れないが、少し極端な表現の仕方ではないかと私は思ったのである。法然上人との出遇いによって他力本願念仏の教えの信心を戴かれた親鸞聖人ではあるが、見知らぬ流罪地での暮らしに全くの不安が無いはずは無かったであろうが、「頼りになるのはそなただけだ。」「わたしは本当に自信がないのだよ」と云う言葉は、あまりにも凡夫過ぎはしないかと・・・。また、小説の中で五木氏自身が、朝廷の念仏弾圧に対しても毅然として念仏を守り続けた親鸞聖人に言わせたことと整合性が保てないとも思った次第である。
信心を戴いても、夫婦間では凡夫そのものの姿を見せ合うことも事実かも知れないが、少し言葉足らずではなかったかと思う。生涯、念仏禁止令と流罪に対して憤りを抱き続けられた親鸞である。私は、むしろ、次のように親鸞に言わしめて締めくくって欲しかったと思っている。 「越後での流罪人としての暮らしに不安が無いわけではないが、法然上人と共に念仏を地方に広める縁を戴いたのだと思う。そう思うと、遠くに見える越後が仏様の光に照らされ少し輝いているように思えるのだよ」と・・・。』

さて今回もまた次の移住地〝常陸の国〟を前にして終わるのか、それともその20年後の関東から京都への出発までを描かれるのか興味があるところですが、私の思い描いている親鸞聖人と五木氏の抱いている親鸞聖人の人物像の切り口が異なるだけであり、私が正しくて五木氏が間違いとは言えません。私は『五木親鸞』が本願他力の念仏者としての親鸞ではなく、歴史的に見て日本仏教界に大きな影響を与えた一人の僧侶としての親鸞を小説化したものであると割り切って読んで行こうと思っております。五木氏は、私の到底出来そうもない親鸞の足跡を丁寧に辿り、親鸞の生きた時代背景を手に取って見せてくれるかのように描いてくれています。その時代を背景として生きた親鸞だからこそどのように他力本願の信心を深めて行ったのかを私なりに推察・考察しながら読んで行くことは大変楽しみなことだと考えている次第であります。

合掌ーなむあみだぶつ


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No.1066  2011.01.10
快適な人生を過ごすためのソリューション(2)

快適な人生を過ごすための第一歩は、自分が『好きなこと』『得意なこと』を見付けることだと私は前回のコラムで申しました。しかし、これは必要条件の一つであり十分条件では無いかも知れません。無いかも知れませんと云います訳は、例えばプロ野球選手達を思い浮かべますと、今年も百数十名の選手が各所属球団から戦力外通告を受けました。つまり、解雇を申し渡されました。年齢は殆どが20歳代ですから、とても快適な人生ではありませんし、これからも苦難の人生が待っています。 本塁打王にもなり、5億円の年俸で4年契約をしたともあり、大リーガーにもなった中村紀洋選手(37)も東北仙台の楽天球団から解雇され、契約金400万円でもいいとアピールするも現時点で契約したいと云う球団は無いと云う状況です。

プロ野球選手になるには、ドラフト会議と云う場で指名されなければなりません。指名されるのは県に一人か二人かの狭き門です。小中学校時代、育った地域では神童と呼ばれる位でなければプロにはなれません。本人も多分野球が得意だったに違いありません。しかし、〝本当に〟好きだったのかと云う事と、それから人は一人だけで世間を生きていけない訳ですから、どうしても礼儀や協調性を含めた人間関係能力とか人格と云う面も快適な人生を過ごすためにはやはり必要になってくると言わなければならないでしょう。

未だ打率2割5分、ホームラン20本、打点70点は期待出来、且つ守備力も普通以上に備えている中村紀洋選手に声が掛からないのは、37歳と云う年齢ではなく、もしかしたら彼が得意とする野球技術を買わせない程、人間関係能力に問題があるのかも知れません。

昭和の名横綱大鵬と並んで大相撲史上二人しか居ない6場所連続優勝を成し遂げた朝青龍も、相撲は得意で強かったけれども、やはり人間関係能力の欠如から相撲協会を追われた形での引退になりました。ひょっとしたら相撲と云う格闘技は好きだったけれども、大相撲と云う国技を好きになれなかったかも知れませんが・・・

好きとか得意だけでは即快適な人生にはならない、やはり人生は一人で生きていけないものでありますから、人間としての能力を備えて初めて快適な人生を過ごすための必要十分条件になると考察したのでありますが、人間としての能力を身に付ける上で欠かせない条件と申しますか、運と云う表現も当たるかも知れませんが、自分が好きとし得意とする道で人間的にも尊敬出来る先輩或いは指導者、或いは同僚・ライバルに回(めぐ)り逢うことこそ、好きになる重要要素であり、心技体を磨き上げ得意になる必要且つ十分条件だと言えるかも知れません。

―快適な人生を過ごすためのソリューション(3)に続く

合掌ーなむあみだぶつ


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No.1065  2011.01.06
快適な人生を過ごすためのソリューション(1)

最近よく『ソリューション(solution)』と云うカタカナ言葉を聞きませんか?社名に使われていたり、事業部署名にも使われたりしています。インターネット上のあるサイトでは『業務上の問題点の解決や要求の実現を行うための情報システム。専門の業者が顧客の要望に応じてシステムの設計を行い、必要となるあらゆる要素(ハードウェア、ソフトウェア、通信回線、サポート人員など)を組み合わせて提供するもののことをいう。』とありますが、『問題解決方法の提供』と云ってもよいと思います。

『困っていることをトータルで解決する方法』とも言えます。たとえば、快適な生活をしたいと云う顧客の要望に対して、土地の選定から、家の設計・建築だけではなく、自家発電、空調、インテリア・カーテン・照明は勿論のこと、造園も、自家用車の選定等を1社がトータルで引き受けて快適な生活を提供すると云うことが当てはまります。

そこで私は私たちが快適な人生を過ごすためのソリューションと云うことで色々と考察して数回に亘って連載してみようと思います。私のコラムをヒントにされてそれぞれが独自に考察されたり、コラムを読まれた方から色々なご意見や見解を頂き、ソリューションの幅を広げ、深められたらこれほど幸いなことはございません。

先ず、仏法サイトとしては人が仏法を求める動機を考察したいと思います。平易で一般的な表現と致しましては、「幸せを求めて」とか「今の好ましくない状況(病気、経済苦境)から脱したいから」と云うことになりましょうが、仏法を求める動機を熟語に求めますならば、『不安感』、『不満感』、『焦燥感』、『無能力感』、『劣等感』、『孤独感、孤立感』、『未達成感』を感じて・・・と云うことではないでしょうか。

これは私だけが感じることかも知れませんが、テレビで見るアスリート達、例えば、野球のイチロー選手やダルビッシュ投手、ゴルフの石川遼選手や宮里藍選手、相撲の白鵬、プロボクサー世界チャンピオンの長谷川穂積選手、アジア大会で2種目の短距離走金メダリストの福島千里選手などの活躍を見て憧れる一方、その人たちの恵まれた才能・素質を羨ましく思い、それに比べて自分は・・・・と『無能力感』を味わう場合があります。 また、大晦日の紅白歌合戦の出場歌手の恵まれた歌唱力や激しいヒップホップダンスを見せつけられましても、アスリート達に感じたのと同じ憧れと羨ましさと我が『無能力感』を感じてしまうのも致し方ありません。

それに、プロ野球選手やプロゴルファーの所得は年末にははっきりと報道されます。トッププロと言われる一握りの人たちではありますが、私たちよりも少なくとも『0』が二つは多いのですから、何処か納得し切れない感情が湧くことがあります。

世の中には様々な仕事・役割・趣味・スポーツ・芸能があります。多分何千種類もあることでしょう。たとえば、紅白出場の歌手だけを取りましても、歌手だけでは舞台には立てません。歌手と同等以上に才能豊かな作詞家と作曲家があってのことですし、舞台衣装をデザインする人、衣装を縫製する職人、髪型をセットする美容師、歌に合わせた所作を考える振付師、照明係、伴奏指揮者、演奏者等など・・。それぞれがそれぞれに必要な才能素質に恵まれ且つ嬉々としてその仕事に打ち込んでいなければ、紅白の舞台で歌手は輝けないものだと思います。

私が言いたいことは、人間なら誰にも『得意なこと』『これだけは誰にも負けたくないこと』とか『好きなこと』『これをしていると時間の経つのをついつい忘れてしまうこと』があるはずだと云うことです。そして、現在の年齢がどうあろうとも、先ずはその『得意なこと』或いは『好きなこと』を探し求め始めることが大切で、これはと思うことに先ずはチャレンジして打ち込んで見ることだと思います。そして、見付かるまでチャレンジすることだと思います。きっと見つかるはずですし、そしてその結果、前述の『不安感』、『不満感』、『焦燥感』、『無能力感』、『劣等感』、『孤独感、孤立感』、『未達成感』は払拭されるのではないかと思います。大事なことは、本当に『得意なこと』や『好きなこと』を見付けようと云う意志を持つことだと思います。好きならば、得意なことならば、それを究める上で生じる多少高い壁や障害は乗り越えられるのではないかと思うからです。

私の場合は、スポーツ(テニス、ゴルフ)、仏法思索、プラスチックス多孔体に関係する研究と云うことになります。テニスは11歳から46歳まで現役プレーヤーとして選手権に出続けまして、県のチャンピオンにもなりました。仏法思索も一応幼少の頃から現在まで続いております。 プラスチックス多孔体の研究開発は35年のキャリアが有りますし、現在も取り組んでいる生涯の研究テーマでもあり、得意で好きなテーマでもあります。この分野で世界オンリーワンの技術も開発しております。私の場合は、好きなことをしたと云うよりも、好き放題、勝手放題に人生を渡って来たと云うべきだと思います。私は我が儘に育ったからでしょう。人から命令され、それに従順に従うようなことはして来なかったと思います。

大学では1年留年してまで、テニスに打ち込みました。クラブを関西一部リーグに押し上げる為にキャップテンを自ら買って出て国立大学のクラブにも拘わらず私立大学のクラブ体質に変えました(私がキャップテンを退いて1年後に関西一部リーグに昇格しました)。仕事の面では、サラリーマンになってから2度転職し、46歳の時に終に脱サラ起業しました。大企業では自分の理想とする仕事、理想の仕事の有り方が何一つ出来る環境では無かったからです。自分の思う通りの仕事をやるには社長になるしかなかった訳であります(零細企業の社長はお金で苦労します。今も苦労していますが、でもサラリーマンに戻りたいと思ったことは一度も一瞬もありませんでした)。 そして、仏法はそんな好き勝手放題の私がぶち当たって当然の壁や障害から逃げないで前進させるべく、因縁果の真理を説き聞かせくれ続けているのだと思っております。

前述した各界のスターは一握りです。スターになれることは良い事かも知れませんが、一番良いことは、自分が一番好きなこと、得意なことに打ち込んでいることです。お金儲けが好きな人はお金儲けの道を究めたらいいのです。お金儲けが好きでも得意でない人もいます。得意でない人は本当に好きではないのだと思います。親鸞聖人は一生貧乏生活でした。でも仏法思索が好きで得意で一生打ち込んだ人ですから、世界の歴史上の人物としても有名になっています。イチロー選手の名前は数百年残るかも知れませんが、親鸞聖人の名は既に750年残っており、今後数千年間世界中の人々に影響を与え続けることでしょう。自分が好きで得意で打ち込んでいることがどれ位に価値あるものかは、現時点では分からないものです。打ち込める好きなことを見付けて得意になって活き活きと生きている事にこそ価値があるのではないでしょうか。

合掌ーなむあみだぶつ


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No.1064  2011.01.03
年頭のご挨拶

無相庵コラム読者の皆様、明けましておめでとうございます。
今年も引き続き無相庵コラムを続けさせて頂きますので、どうか宜しくお願い申し上げます。

今年の無相庵コラムは、「仏法とは『法』すなわち『真実』を求めるものである」と云うことを根底の考え方にしつつ勉強して参りたいと思っております。科学も真実を追求するもので、決して過小評価してはならないと思いますが、人間が追及する科学的真実は宇宙のホンの一部分であることも忘れてはならないと思っています(ハヤブサの快挙も素晴らしいことですし、iPS細胞の発見も素晴らしいことではありますが、所詮は太陽系の中での科学的事実であることを忘れて道を間違えてはならないと・・・)。

一方、宗教或いは仏教と云うものは何かを信じて祈ることに依って我が身にとって善き奇跡が起こることを保証するものではないと云うことも仏教に救いを求める人々に繰り返し伝えて、金銭被害を蒙られることがない一助にもなりたいと思っております。

孔子の「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」と云う言葉が有名ですが、この中の『道』とは『法、すなわち真実』と云うことでありましょう。そう云う宇宙的真実にめぐり会う為に、今年も仏法を聞いて参りたいと思っております。

合掌ーなむあみだぶつ


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No.1063  2010.12.27
年末恒例の・・・

昨日から、孫たち5名が我が家に泊まり込み・・・。孫たちの毎食の用意と後片付けをしつつクリスマスの飾り付けの片付け、お正月の準備をするのは、老体にはかなり負担になって来ておりますが、孫たちをこのように世話が出来る幸せを喜ばねばならないと思いつつこなしているところです。

また、こうして孫たちの世話をする時に、私たちの親から受けた数々の恵みと今となっては返すことが出来ない大恩をひしひしと感じてもおります。親へのこういう思いは孫を持つことによって、深まるようにも思っております。
そして、いつもこの時期に『今にして、知りて悲しむ、父母が、我にしましし、その片思い』と云う窪田空穂氏の御年70歳の時の歌を思い出します。

合掌ーなむあみだぶつ


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No.1062  2010.12.23
断捨離(だんしゃり)

『断捨離』と云う熟語、大方の人には聞き慣れない言葉かも知れませんが、そんなことを言う私が流行遅れの可能性が高いとも思います。この熟語を私は極最近テレビを視聴していて初めて聞いた言葉なのですが、2010年の流行語の一つとして取り上げられているようであります。

この言葉は20代でヨガを修業された〝やましたひでこさん〟(多分50代)と云う方が、ヨガの断行、捨行、離行から造語され提唱されたもののようであります。 何処の家庭の主婦も家をすっきり片づけて快適な空間にすることに依って心もスッキリ軽やかになりたいと常々思われているに違いありません。そんな主婦が飛びついたのが、やましたひでこさんの『断捨離』提言です。

我が家の天井裏に20畳程の隠し倉庫があります。今の家に引っ越しして丸11年、11年間一度も使用していない物品・書類が殆どであります。引っ越し後まもなくして工場を閉鎖する羽目に陥りましたので、会社関係の在庫品、経理書類等が殆どですが、なかなか捨てる決断出来ないまま11年と云う時が経過してしまいました。そして、何とかしなければと云うプレッシャーを毎日ではありませんが、心のストレスになっているように思います。

断捨離への取り組みは人間の煩悩、つまり執着心との闘いだと思いますので、そう簡単なものではないと思います。お釈迦様が皇太子の座を捨てて出家されたのを『大いなる放棄』と云われておりますが、妻子への執着心を断ち、皇太子と云う座を捨て、29年間育ったお城を離れさせしめた『大いなる放棄』は、煩悩に苦しむ人間が永遠に救われる道を求める『大いなる決断』だったと思います。そのお蔭で、2500年後の私たちに仏縁が恵まれているのだと思います。

得ること、持つことは執着心を育てます。私は65歳、そろそろ積極的に断捨離に努めるべき年頃になっているのだと思います。

合掌ーなむあみだぶつ


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No.1061  2010.12.20
共にこれ凡夫のみ

この表題の言葉は聖徳太子が制定された『十七条憲法』の第10条に、聖徳太子がご自身の対人関係を処する上での基本的考え方が述べられ ているものでもあると思うのですが、この考え方は時代の新旧に関わりなく、人間関係が希薄になった私たち現代に生きる者こそ耳を傾けるべき言葉だと思います。

十七条憲法は今の日本国憲法とは異なり、国民が守るべき憲法ではなくて当時の政治・行政に携わる者を対象として定められたものであります。従って、「共にこれ凡夫のみ」と云う聖徳太子の言葉は揚げ足取りの論争しか出来ない 現在の国会議員達に届けたいものでありますが、私たち庶民の日常生活・職場生活において、ともすれば相手の非を責めがちになる自分を戒める言葉として受け取りたいと思います。
また、昨今のマスコミも私たち一般国民も、政治・行政・司法の面で不祥事が発生するたびに批判致します。確かに政治・行政・司法の有り方に乱れがあり、国民の政府への信頼感が失われ、その結果国民の不安が増大していると思 われます。私自身、検察・警察は真実を追求する正義の味方であると云う認識の下、絶大な信頼を持っておりましたので、今回の大阪地検の証拠改ざんや、取り調べ時にヤクザと見間違う位の担当刑事の暴言・脅迫の言葉に、検察・ 警察への信頼は瓦解してしまいました。一般国民は何を頼りに自分の身の安心と安全を確信すればよいのかと・・・。

しかし、考えて見ますと私たちは対人関係において、仕事・職業、所属する団体や組織、或いは人生のアクセサリーとも言われる趣味・スポーツ、宗教、家柄等で相手を評価し判断してしまいがちであります。これは致し方無いとは思います が、上述の検察官のように、本来、真実を追求するのが職業でありながら、自分の保身や出世の為に真実を曲げる人も居ることを知らねばなりませんし、政治家も又政府すらも、本来その使命が国民の安心と安全を守るべきことであ る事を忘れて、所属する政党の為にだったり、自分の立身出世の為にだったりして、国民が将来困窮するであろう政策を選挙目当てに声高に主張することがある事を知らねばなりません。つまり彼らも煩悩を抱えた一人の凡夫である ことを心の隅に置いておく必要があるのではないかと云うことであります。

喩えとして、検察官と政治家を例として挙げましたが、肩書やアクセサリーから個人の人格や信条・思想を判断していけないのは公務員も、医者も、学校の先生も、坊さんも、スポーツ選手も、全ての肩書を持つ個人に付いて言え ることだと思います。
職業・肩書やアクセサリー(趣味や信仰)で相手を判断しない心積りが大切だと思います。それは何の根拠も無しに相手を信じないと云うことでもありますが、むしろ、今日の表題にした『共にこれ凡夫のみ』、つまり、お互いに自 己中心の我愛・我執に引き摺られ易い人間同士だと云う、排他的ではなく、表現は適切ではないかも知れませんが「同病相哀れむ」とでも云うような広い心で処して行くのがよいのではないかと思います。

昨今の予算委員会で内閣の大臣を個人攻撃する野党議員の姿と言葉を見聞きしている時、あの一方的に相手を攻撃する姿勢で幾ら大臣を非難しても、その非難を受け入れて大臣が素直に「ご指摘の通りです。私が間違っていました。 直ちに直します」とはならないのではないかと思います。無駄なやりとりに終始しているなと全国民が感じているのではないでしょうか。 また、テレビの報道番組で、菅内閣の失政を批判し、菅首相のリーダーシップの無さを批判するコメンテーターの言動を見ていても、それは野党の議員と同じく責任の無い評論家と云う立場だからこそ言えることであって、内閣総 理大臣の立場になった積りで360度見渡した時にも言えるかと自問自答した上で見解を述べて貰わないと説得力が無いと思っています。

ただ、斯く云う私も「共にこれ凡夫のみ」と、野党議員やコメンテーターの方々を寛容に受け容れなければならないと思っております。それぞれの立場立場で言わねばならないこと、或いは言えることもあるのだと理解しなければな らないでしょう。個人としては言いたくないことも、職業上や立場上言及しなければならないこともあると云うのが世間でもありましょうから・・・。でも、その場合でも相手の人格を否定するような発言は避けたいものであります。 心の何処かに、「共にこれ凡夫のみ」と、自分も他人をも第三者的に見る冷静な気持ちを持って世間に臨みたいものであります。

合掌ーなむあみだぶつ


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