No.1100  2011.05.23
祈りとは聞くこと

今回の大震災で大きな被害を受けた岩手県大船渡市に一人のキリスト教(カトリック)信者の医師が居る。
山浦玄嗣(やまうらはるつぐ、71歳)医師である。マタイ伝を気仙地方の言葉で著わしたケセン語訳新約聖書の著者でもある。

沿岸から数キロメートルに位置する山浦医院も大津波に依り床上浸水(胸まで浸かる位)の被害を受けたそうであるが、「負けてなるか!」と云う闘争心が沸き起こり、泥を掻き出して診療を再開し、薬が不可欠な高血圧とか糖尿の 人々の為に薬問屋と必死の交渉をして多くの命を支えたそうである。

私は昨日の『こころの時代』で山浦医師を始めて知った。普通はキリスト教関係の『こころの時代』はあまり積極的に見ないのであるが、医師であることと、キリスト教独特の匂いを感じなかったし、キリスト教が今回のような災害 をどう受け止めているかも知りたくて、最初から最後まで視聴させて貰った。

その中に共感を覚えた二つの言葉があった。一つはキリストの言葉なのだと云う「災害と罪は無関係だ」を紹介されていた。キリスト教信者の中にも災害は天罰だと考える人々も居るようであるが、キリストはそう云う考え方をして いないと山浦医師が断定されていた。単なる自然現象だと受け取っている私は「それはそうだろう」と、キリスト教に抱いていた先入観と誤解を払拭した。人間は災害が繰り返し起きる地球と云う星に存在する一つの命なのだと云う 認識なのである。

もう一つは表題の「祈りとは聞くこと」である。「神様仏様に祈る場合、普通はお願い事であろうが、旧約聖書(?)の中に祈りとは聞くことだと云う言葉が残されている」と云う説明があり、「神様の願いを聞くことだ」とも補足 されたので、私は仏法と全く同じ考え方だと驚いた次第である。仏法の中でも特に親鸞聖人の教えは『本願(ほんがん)』『誓願(せいがん)』を聞くことが「仏様を念じること」であり、それが『なむあみだぶつ』の念仏なので あるから、本当のキリスト教の『信』と変わらないのだと驚いたのである。

それから『復活』と云う事に付いても、一旦死んだキリストが生き返ったと云うことではなく、「大きな喜びの命の世界に生れる、生れ直す」と云う意味だと知り、これもキリストの教への私の誤解を解いてくれました。今回の震災 で多くの命が奪われて実に悲しいことではあるが、それで終わったのではない。永遠の命の世界に帰り、永遠の命を貰ったのだと云う考え方を述べられていたことも、仏法の考え方そのものだと驚かされました。

また、山浦医師が信仰は信頼だと云うことを仰っておられた。「信頼とは双方向のものだ。片方だけではいずれ崩れてしまう。こんな目に遇わせる神様の悪口を言いながらも、神様は最後は救ってくれるとこちらが思っていれば、神 様もそう云う私を信頼して、それじゃ仕方ない。それじゃーお前はこれをやれと仰り、私は〝はいやります。一所懸命にやります〟と云うことになるのだ」と云うようなことを言われ、今自分がやれる医師と云う職業を一所懸命にや るだけだと締め括られていたのには大きな感動を覚えた次第でありました。

私は仏法の教えを大切にしていますが、決して仏法が誰に取っても世界で一番正しいとは思っていません。色々な考え方があって当たり前だと思っていますが、でも、私には仏法の考え方が一番納得出来、信頼出来る教えであります。 山浦医師が言われた双方向の信頼関係だと思います。 「仏様に信頼されて、今自分が出来ることを一所懸命にやる。そして出来れば多くの人々の役に立ちたい。せめて家族や友人知人近隣の人々の役に立ちたい」とあらためて思ったことであります。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


[ご意見・ご感想]

[コラムのお部屋へ]

<TOPページへ戻る>


No.1099  2011.05.19
衣変(いへん)

米沢先生の著作集等に出遇って、私は親鸞仏法の要が漸く分かったと思ったことがあります。しかし、直ぐに井上善右衛門先生のお言葉を思い出しました。「分かったと思うのは、丁度、今まで羽織っていた着物の上から別の着物を 羽織っただけではないか。それを古来から『衣変』と言っている」と云うようなお言葉です。『衣変』すなわち「衣を変えただけ」と云うことですね。

私はスポーツを致しますから、スポーツの熟達過程に喩えて考えたのですが、例えばゴルフに於きまして、何回か〝コツ〟を掴んだと思ったことが何回かありますが、その度毎に、コースに出たら、〝ガックリ〟したものであります。 それは何故かと考えますと、自分が思っていたコツは上手く打てる為に必要な技能では無かったと云うことだと思います。たまたま気付かないまま別のコツを体が掴んでいたので良い球が打てたと云う事だったのではないかと思います。

仏法も全く同じで、「掴んだは掴まぬなり」と云うことでありましょう。

私たちは幸せを求めて、色々なことを致します。家を建てたり、旅行に行ったり、結婚したり、子供を産み育てたり、一生懸命勉強して希望の大学に進学したり、書物を読んだり、そして仏法に安心を求めて、坐禅をしたり法話を聞い たり致します。そして、これが幸せなんだと思うことがありますが、それらは全て瞬間的なことではないかと思います。つまり、衣変を繰り返しているだけではないかと・・・。

私は、むしろ衣を脱いで行くのが正しいのではないかと思っています。身に付けたものに全て我が付くからです。決して何もしない方がよいと云うのではなく、色々とチャレンジはしてもいいが、それは持っているものを捨てる為のチ ャレンジと考えたいと思っています。家を建てたら、本当に家は幸せを齎してくれたのか・・・と。これが本当の幸せか・・・と。

そして最後には究極の幸せを掴みたいものです。それは本当の幸せを求め続ける自分に働き続けてくれている他力に目覚めることではないかと思い至っていますが、これも『衣変』に過ぎないと井上善右衛門先生はお浄土から微笑みか けて居られるのでしょうか・・・。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


[ご意見・ご感想]

[コラムのお部屋へ]

<TOPページへ戻る>


No.1098  2011.05.162
科学者「任せ」脱却を

今日は、神戸新聞に掲載されている『識者評論―消費文明の転換迎えた世界』の見出しを表題とさせて頂きました。そしてその全てを転載致します。その識者は池内了と云う、現在は総合研究大学院理事の宇宙物理学者(国立天文台、 阪大、名古屋大の教授を歴任)です。私と同じ学年で、私と全く同じ見解を述べて下さっていることに感動したからであります。 普通一般の学者ではとても語って頂けない評論内容ですので、そのまま転載させて頂こうと思った次第です。

転載―

科学技術は二面性を持つ。使いようによってはプラスにもマイナスにもなるのだが、専門家はプラスを強調してマイナスを口にしない傾向が強い。人工物は限界強度がありそれを超えたら壊れるのだということを、科学者は社会的責 任として説明しなければならないのだが、サボってきた。

原子力は特に情報開示が遅れてきた。原子力は危険であるという情報の開示は、原子力をエネルギー源と位置付ける国策に悪影響を与えるという配慮からだ。政府を含めていわゆる原子力村にとっては、その方が政策をスムーズに実 現でき、都合が良く安住できた。科学者や技術者は誰の顔を見て仕事をしているのか、と問いたい。市民の顔を見て仕事をしていれば、情報は公開されていた。その結果、市民が「こんな危ないことをやっているのか」「十分注意す べきだ」と言えば、科学者はより敏感になり、おごりがなくなる。

市民の側も専門家にお任せで甘かった。本来は科学技術を勉強し中身を知らなければならないが、現代人は多くの他の楽しみを得ようと追われており、科学の学習を時間の無駄と思ってしまっている。原子力発電所では正しく万全の 措置が取られているのか、自ら確かめずに、政府や電力会社、科学者にお任せする体質になっているのだ。

今は地下資源文明から地上資源文明への、文明の転換期にある。今回の事態でその思いをますます強くしている。地下資源文明とは化石燃料(石油、石炭)やウラン資源をエネルギー源として使い、大型化、集中化、一様化の文明で 大量生産、大量消費を可能にしてきた。この文明では市民は仕組みを学ばずお任せ体質となる。それに対して地上資源文明は太陽光、地熱などをエネルギー源とする。廃棄物も自然が浄化でき、自然をそのままに保てる。小型化、分 散化、多様化の文明だ。市民は自分の体を使って生活に使うエネルギーを産出する。自分の手を汚して自分のそばにあるものを使うから、安全かどうかも自ら確認出来る。お任せでない。この文明の転換は産業革命以来の拡大一辺倒 の流れからの初めての転換となる。

人間の欲望には2種類ある。物質的な欲望と精神的な欲望だ。これからは物質的な欲望を抑えて精神的な欲望を重視する時代に移るべきだ。精神的な欲望とは知的な好奇心を満足させて心の豊かさを得ることを意味する。物質的な欲 望を抑えられればエネルギーの大量消費も必要なくなる。実際、物質的な欲望を追及できない外圧が強まっている。地下資源は世界中の国々が奪い合い資源戦争さえ起きかねない。環境面でも、温暖化ガスの大量の排出など受け入れ がたい状況だ。50年後に、今の消費文明が続いているとは思えない。人間が物質欲を抑えるのは難しいと言われるが、そもそも物の値段がどんどん上がり手に入らなくなる。われわれは節約し代替エネルギーを工夫せざるを得ない のだ。

原子力エネルギーは東京電力福島第一原発の事故でその限界が明らかになり、脱原発に向かうだろう。中部電力浜岡原発の停止は当然の措置だし、地震の可能性を考えれば、経営判断として再開を諦めた方が賢明である。
政府は今、将来のエネルギー源をどう組み立てていくかの工程表をつくるべきだろう。急に脱原発と言っても、国民はついてこない。10年後にはエネルギー消費を現状から30%減らす目標を立て、半分を地下資源、半分を地上資 源という枠組みにすれば良い。原子力依存は20年掛けてなくしていく、太陽光を5年後には5%に増やす、といった具体的で長期的な目標が必要だ。

これからの日本の国家目標は、国内総生産(GDP)ではない。経済のけん引役にはなれなくとも、清貧で文化を誇り信頼できる国に変えていくべきだ。この大災害を転換の契機としたい。

―転載終わり

私は末尾に示された結論に大賛成である。そして、「これからは物質的な欲望を抑えて精神的な欲望を重視する時代に移るべきだ」と云う意見にも諸手を上げたいのであるが、その為の方策が問題だと思う。私は教育しかないと思っ ているが、今の政治家達を見ていると極めて悲観的にならざるを得ないのである。何故かと言えば、今政界を牛耳っている政治家達は全員経済最優先である。それに本来本末転倒の政権奪取闘争に明け暮れ、相手の意見に耳を傾ける 知的姿勢が全く見られない故に、今各政党を引っ張っている政治家達に教育を任せる訳には参らない。

政治改革をして、教育改革が出来る政治家が輩出出来るようにしなければならないのであるが、その改革をするのが政治家であるから、堂々巡りになり、そこに大きなジレンマがある。しかし、何とかしなければならない。その為に は、時間が掛かっても、国民の安心と安全を政治家に丸投げして来た私たち国民の一人ひとりが変わってゆくしかないと思う。表題を言い換えて、『政治家「任せ」脱却を!』と言いたいのである。そしてそれには先ずは政治家を育 てることしかないと思う。選挙に於いては、党で選ばず、政策で選ばず、表面的人物で選ばず、その哲学・人生観・世界観で選ぶことに大転換すべきだと私は考える。そうすれば自ずと国民の知的水準は上がり、延(ひ)いては政治 家の知的水準も上がり、世界的にも物質文明が精神文明へと転換してゆくことになるのではないかと思う。原発事故に遭遇した日本は、精神文明の源である仏教哲学を有する国家としても、そのリーディングカントリーになるべき使 命を託されていると考えたいのである。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


[ご意見・ご感想]

[コラムのお部屋へ]

<TOPページへ戻る>


No.1097  2011.05.12
何故神様は大震災をお許しになるのですか?

表題は大震災から丁度2ヶ月の昨日の神戸新聞に評論家立花隆氏が、『「なぜ」を問い続けたい』と言う寄稿の中にあった、ある日本人少女がローマ法王に問うた言葉であります。
その疑問を含む立花氏の文章を詳しく転載致しますと、下記の通りです。

今回、ある視点に立っての問答が、日本人少女とローマ法王との間で交わされた。地震津波で起きた大量の犠牲者の死について、「なぜこんなむごいことが起きるのですか?なぜ神さまはそれをお許しになるのですか?」 と問う日本人の少女に、ローマ法王は「私には分かりません。私も『なぜなのですか?』と神に問い続けています」と答えた。そして「でも神さまはいつも私たちのそばにいます」と付け加えた。

―引用終わり

私は「ローマ法王、さすがだなぁー!」と感動致しました。多分、私が敬愛している今は亡き日本仏教の祖師方・先輩師匠方も、言葉は異なるでしょうが、ほぼ同じニュアンスのお答えをされるだろうと思ったことでした。 それに対して、悟りにはかなり程遠い修行中の身である私は執拗に答えを探しているところであります(やっぱり答えを欲しいじゃないですか・・・)。

序(ついで)に同じ立花氏の寄稿の中から、立花氏自身が問い続けることが大切だと結論している文章を引用したいと思います。

アウシュビッツ強制収容所で犠牲になった100万人の死(第二次世界大戦中に、ヒトラー率いるナチ政権が国家をあげて推進した人種差別的な抑圧政策により、最大級の惨劇が生まれたとされる強制収容所での惨劇)の 正当性について、ローマ法王に疑問を投げ掛けた人々はたくさんいた。それに対するローマ法王の答えは、今回の日本人少女の問いに対する答えと同じだった。
こういう場合、神が返すのはいつも「沈黙」という答えなのだ。それを不満として、神から離れることを選ぶ者もいるが、答えを自ら探し続ける者もいる。答えはないのかも知れないが、私も問い続けたい。なぜなのです ?なぜこれほど多くの人が死ななければならなかったのですか?答えは見つからないかもしれないが、問い続けることが大切だ。

―引用終わり

私は、表題を『何故仏様は大震災をお許しになるのですか?』に代えて、私なりに問い続けた現時点での結論を皆様にお示しし、皆様が問い続けられる参考にして頂ければまことに幸いでありますし、また異議を申し立て て頂ければ、尚更嬉しく存じます。

キリスト教の神さまがどう云う位置付けかは存じませんが、まさか人間に似た姿形をした神様が宇宙の何処かで宇宙を見渡し、また地球を支配していると云うことではないと思います。多分、宇宙の真理、宇宙全体を動か している働きを擬人化したものであろうと思います。少なくとも仏教の仏様は、そう云う位置付けであります。
それを前提にしまして、私は立花氏の「なぜ?」に対する答えとして、前々回のコラム『仏様の願い』を用意していたことになります。

即ち、「地球上に起きていることは全て、地球上に30数億年前に生れさせた生命をずっと繋ぎ続けるために起きている」と考えれば、全ての説明が付くのではないかと私は考えています。
個々の命を護ろうと云う働きではありませんから、多くの他の命を犠牲にしてしか生きていけない人間が現在地球を支配していますし、私たちが受け入れがたい悲劇的な人間の死も認めざるを得ないのではないでしょうか。

生命がずっと続くには、仏様は(宇宙の働きは)強い生命力を持つ命を生み出していかねばなりません。だから命は、恐竜⇒マンモス⇒人類へと進化させて来たのではないか。丘浅次郎と云う動物学者氏(日本に進化論を 輸入された方)は、「生物の進化を調べてみると、ある生物はそれが持っている特徴的なもので一時的に世界を支配する。たとえばマンモスは巨大な牙をもっていることで世界を制覇した。ところが、その生物が亡(ほろ) びる場合には、その生物がそれでもって他の生物を制圧した、その特徴的なものによって亡ぶ。マンモスの場合もその通りで、その巨大な牙を養うだけのエネルギーを摂取するのが困難になり、環境に適応出来なくなって 亡びたのである」と。そして、更に「人間が今日地球を制圧しているのは、〝手〟と〝頭〟によってである。つまり、科学と技術です。これで地球の王者になったが、人間はその最も特徴的な科学と技術によって亡びるの ではないか」と予言されているそうであります。

丘先生の考え方からしても、もし、人間がもっと強い生命力を持つ生物に進化して命を次世代に繋ぎ続けるには、人類が地球の自然環境や原理を知り尽くした上で、地震や津波などの自然現象に依って犠牲者を出さない方 法を創造出来たり、核分裂のエネルギーを利用した発電や核兵器で自滅しない生き方を創造出来る種に生まれ変わることでしかないのではないかと私は考察しているところであります。

何故仏様は(つまりは宇宙の働きが)命を繋ぎ続けることを目的にしているのかに付きましてはやはり、ローマ法王と同様に仏法も「分かりません」としか言いようが無いと思われます。そしてそれを仏教では、『不可称 、不可説、不可思議(ふかしょう、ふかせつ、ふかしぎ)』と申し、また、〝推し量ることが出来ない〟を意味する梵語「ア・ミター」を音訳して、『阿弥陀(あみだ)』と申し、それに帰依する(全面的に受け容れます )と云うことで、浄土門では「南無阿弥陀仏」と古来から表白して来ているのだと思います。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


[ご意見・ご感想]

[コラムのお部屋へ]

<TOPページへ戻る>


No.1096  2011.05.09
続―仏様の願い

今、法話コーナーでご紹介している「心の詩」は、『米沢秀雄著作集(第一巻~第八巻)』の第三巻に纏め入れられているものです。私は『米沢秀雄著作集(第一巻~第八巻)』を福井の坊守さまから長期間お借りして通読させて頂き、 今は第三巻だけを延長してお借りしているものです。

私は『米沢秀雄著作集(第一巻~第八巻)』を読ませて頂いたお蔭で仏法の真髄に触れ得たような気がしており、この著作集を何とか入手したくて古本を探しているところでございます。ごく最近幸いにも第一巻、第七巻、第八巻を手に することが出来ました。古本と云えども、希少価値の高いものですから一冊5500円前後しました(第三巻は2万円以上しますので見送っています)。

第八巻の冒頭は、『真実の自己を求めて』と云う富山県教育委員会主催の先生相手の講話会を筆録したものですが、その中で大脳構造を説明されつつ、自我と自己の違いを仏法との関係で考察されているのですが、その中に、「『脳幹 (のうかん)』と云う器官は自律神経、内分泌の中枢で内臓を働かせている神経の参謀本部で〝生命の座〟である」と云う一節があります。

私は、この箇所を読んでいる時、『脳幹』と云う器官こそが『仏の願い(宇宙の働きの目的)』が形となって顕われたものだと考えてみたいと思ったのであります。大脳は、『脳幹』と『古い皮質』と『新しい皮質』で構成されてお ります。そして『古い皮質』の働きは〝本能〟(食欲、性欲、集団欲)と〝情動〟(原始感情と言われる、快、不快、怒り、怖れ)で、人間以外の動物も持っている『たくましく生きる』ためのものですが、人間だけに発達した『新しい 皮質』の働きは〝理性・知性の座〟で『よく生きる』ためのものと考えられています。

米沢先生は、他を傷付けてでも生きようとする心は古い皮質に属するとされ、それと正反対の、他を慈しみ思いやる仏性は原子力兵器を生み出した『新しい皮質』では無いのではないかと推察され特定はされていないように印象を持ってお ります。

私は、『脳幹』の存在そのものが『仏様の願い』そのものだと考察していましたのですが、その観点から、もう一度、米沢先生の『真実の自己を求めて』を熟読しようと思っている次第であります。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ

追記
『仏様の願い』は「地球上に産み育てた命を決して絶やすことなく、繋ぎ続けること」だと私は前回のコラムで申しました。そして、今回のコラムでそれは動物の『脳幹』として具体化されているではないかと考察しました。
私たちは『仏様の願い』に沿った生き方を追い求めねばならないのですが、それは、命を大切にすることだと思います。人間の命は勿論ですが、あらゆる命を大切にしなければなりません。一つの命をも疎かにしない生 き方を追及することが大切だと思います。
でも、今の私に出来ることは、自分の命を大切にする事と、家族・親族をはじめとする周りの人々の命を大切にし、皆がこの地球上に命を貰ったことに喜びを感じれるように日常生活を過ごすことだ思います。他人様を喜ばせてあげる事、即 ち仏様が喜ぶことだと、あらためて思ったことであります。


[ご意見・ご感想]

[コラムのお部屋へ]

<TOPページへ戻る>


No.1095  2011.05.06
仏様の願い

一日遅れの更新になりました。
昨日は子供の日、その前日は被災地の仙台から牛タンを取り寄せて、長男一家5人と焼肉パーティーをし、その後に、孫たち(中三男、中二女、小五女)が楽しみにしている麻雀に午前ゼロ時まで付き合いました。
麻雀は妻を入れた4名がやり、私は点数計算係とお菓子や飲み物の給仕係り。翌日の子供の日も、朝食後直ぐに麻雀開始。昼食を挟んで約5時間、二日で合計約10時間、一勝負毎に「じじちゃん、点数数えてぇー」との声が掛かり、 食事の用意も含めて忙しい子供の日でした。しかし、孫たちを送り出してから、孫たちを持て成せる状況にあることを「喜ばんとあかんね」と、妻と乾杯したことでした。

さて、東日本大震災からもう2カ月になろうとしています。何回観てもテレビに映し出される大津波の映像は、自分の身に起こった瞬間を想像してしまうからでしょう、実に恐ろしい限りですが、同時に、「神も仏もあるものか」と 云う言葉がありますが、「仏様のお慈悲が有難い」と云う言葉が空しく思える瞬間でもあります。 この大震災を仏法はどう説き聞かせるのだろうか、大震災も仏様のお慈悲の表れと云うのだろうか、また私たち仏法者はどう考察しどう受け取るべきであろうかと、私はずっと考えて参りました。そして、『仏様の願い』と云う観点 から、一つの答えに至ったところです。

仏様と、〝様〟を付けますと人格化してしまって誤解されてしまうのですが、仏とは、宇宙の真理、法、如来、縁起、他力とも言われるものです。そして、それは人間の想像を遥かに超えた宇宙の働きそのものでありますから、古来 から〝様〟と云う尊敬・畏敬の念を籠めて『仏様』と称して来ているのだと私は考えております。

ですから、私が『仏様の願い』を云々すること自体非常に大それたことなのです。でも、色々と想像・考察する頭脳を持った人間をこの地球上に生み出させしめたのも『仏様』でありますから、精一杯の想像力を働かせてみることは 仏様は許して下さるだろうと・・・。

この地球上に人類を生み出したのは仏様の働きです。これは本当に宇宙の奇蹟だと思います。宇宙に頭脳を持った人類が誕生しなければ、宇宙も存在していないままではないかと思うのです。 昔恐竜全盛の時代がありましたが、恐竜に宇宙を想像する頭脳を与えられていないどころか、地球と云う星の存在すら自覚していなかったと思います。現在地球に存在する生物の中で、地球の事、宇宙の事を認識しているのは人間だ けだと思います。

地球が生まれてから生命が誕生するまでに数億年かかり、その生命が頭脳を持つ人類にまで進化(進化と云うべきかどうかも分かりませんが)するのには35~40億年掛かっていると言われています。一時期地球を我が物顔に活動 していた恐竜は隕石が地球に衝突した時に殆どの生物と共に絶滅したと言われていますが、その命の危機を乗り越えて命を繋ぎ、現在の人類に進化させて来たのは、宇宙の働きです、仏様の働きです。

そうして、地球に生命を誕生させた宇宙の働きそのものに『仏様の願い』が籠められているのではないかと想像致しました。そしてその生命を進化(?)させて人類を誕生させたことにも『仏様の願い』が籠められているのだと思い ました。しかし、私は「仏様の願いは人類をこの地球上に誕生させる事だ」と結論付けた訳ではありません。それでは余りにも手前勝手、人間勝手な考えで、何れは(数万年後か、数百万年後か、数億年後か分かりませんが)人類も 滅びて、更に強い生命力を持つ生物の時代が来ると考えるのが自然ではないかと考えました。

そして、『仏様の願い』とは、「生命を維持すること、どんなことがあろうとも命を延々と繋ぎ続けることだ」と考えると、あらゆることに説明が付き、納得出来るのではないかと考察しました。 命を繋ぎ続ける命は個々の個体の命ではなく、命そのものと言いますか、生命力と云うべきものであり、仏様の願いとはその生命力を絶やさないと云うことだと考えました。そう考えますと、人間の複雑な内臓器官が用意されている こと も、人間に頭脳が与えられていることも、命を繋ぎ続ける為の願いが為さしめたものだろうと考えました。

そして、これから更に進化して高等化し、決して絶滅することのない強い生命体とは、自然に随順した生き方を何よりの基本として、人類のように戦争で人間同士で殺し合ったりもせず、万全の対策を講じて、交通事故や大地震や大 津波などの自然現象で、一つの命さえも失くすことも無い、また他の生物を乱獲絶滅させるようなこともせずに、勿論、一旦事故が起これば多くの生物を死滅させる原子力を利用するような愚かなこともせず、地球上のすべての生物 が共存共栄する、まさに仏法が目指す『お浄土』を実現させたいと云うのが、『仏様の願い』ではないかとの結論に至った次第であります。お浄土は西方十万億土と云う地球から遠く離れたところにではなく、地球そのものを浄土に したい、それが、仏様の願いだと思うのであります。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


[ご意見・ご感想]

[コラムのお部屋へ]

<TOPページへ戻る>


No.1094  2011.05.02
愛とは一人一人に向き合うことです・・・マザー・テレサ尼

私は3人の姉と1人の兄と共に育った末っ子です。末っ子ですから母と最後まで暮らしましたし、仏教を求めていたのは私だけでしたから、兄姉達は母との関係は私が一番深かったと思っているかも知れませんが、母親の子を思う気持ちに差 は無かったと思います。常に一人一人の事を案じていたように私は感じていました。母親の愛情は何人の子供が居ようと、一人一人に同じ愛情が注がれているのではないかと思います(私は小学4年生で父親を亡くしましたので、父親の愛情 が母親と同じものなのかは分かりませんが、父親になっている私自身から想像するに、母親と同じく、平等の愛情を持っているのではないかと思います)。

仏教に於ける仏様の愛を慈悲と申しますが、仏教では仏様の慈悲は一つ一つの命に平等に注がれていると考えます。それを特に浄土真宗では『一子地(いっしぢ)』と申しまして、阿弥陀仏の慈悲は一人の子供に接するが如くに平等に注がれ ていると受け止められています。仏様の慈悲に最も近いのは、生物の母親の愛ではないかと思います。例えば、学校の先生の愛はどうでしょうか?私は毎日曜日小学校の校庭で約70名の小学生(1~6年生)のテニスの指導に参加しており ます。同じ気持ちで接している積りではおりますが、多分母親のような平等心ではないと思いますので、学校の先生も、先生によって多少の違いはあるかも知れませんが、母親の愛と同じ平等性には程遠いのではないかと思います。

母親と云うものは、子供一人一人の好きな食べ物、嫌いな食べ物を把握しています。好きなことと嫌いな事も知っています。異性の好悪も分かります。性格の長所欠点もちゃんと分かっています。それも努力することなく、また記憶している と云うのではなく、自分と一心同体的なのです。

マザー・テレサ尼は、インドで路上で行き倒れた人々をせめてベッドで死を迎えさせて上げたいと云う気持ちから、〝死を待つ人々の家〟というホスピスや児童養護施設を開設してカルカッタの街の弱者の世話をされましたが、一瞬一瞬に向 き合った一人一人に母親の如き平等の愛を以って接しられたのではないでしょうか。

私の想像でございますが、マザー・テレサ尼も、最初からそのように一人一人に母親の如き平等の愛を以って接しられた訳では無いのではないかと思います。活動を続けられる中で、或いは多くのシスターを指導される立場を続けられる中で 、本当の愛とは何かを自問自答された後に、「難しいことではあるけれど、本当の愛とは一人一人に向き合うことなんだ」と実感されたのではないかと思います。

私たちはどうかしますと対人関係(隣近所や職場の付き合い等)において、今向き合っているその人をその他大勢の中の一人として接してしまいがちではないでしょうか。向き合っているその人をオンリーワンの命として、尊ぶ心を以って、 母親のような一子地の心で接することが善き人間関係の基本ではないかと、マザー・テレサ尼の言葉から考えた次第であります。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ

追記:
「一子地の如く実践されているのが天皇陛下と皇后さまではないか・・・」と、東日本大震災の避難所にお見舞いに行かれたお姿を思い浮かべて思いました。200名を超す被災者の一人一人に、真向かいに目を合わされて話し掛けられ、丁 寧に接して行かれているお姿に私は大きな感動を覚えながら拝見しておりました。分刻み秒刻みであろう時間スケジュールの厳しい中、特に急がれる素振りも一切見せられず、一人をも漏らさずにお見舞いされるそのお姿こそ、「一人一人 に向き合う」愛のお姿だと思います。お立場から思いますに、被災者の中から代表的に一組か二組を選ばれてお見舞いの言葉を掛けられるだけでもよいかと思いますが、そうなさらなかったところに、本当に民を思う天皇皇后さまのお気持 ちが顕われているのだと多くの国民は感動したのではないでしょうか。
それから、もう一つ『一子地』のお心を思い出しました。それは私の母親が何回か私に聞かせたことでございます。南禅寺官長をされていた柴山全慶老師がどこかの法話会で大勢の中から自分(母)を見付けて目と微笑みで挨拶を送られて きたことを、その一子地の実践をされているところに感動したと云う話です。何人かと顔見知りの方にも同様にされたと思いますが、聴衆を全体として見ているならば、その中から知り合いを見付け出すことは出来ないと思います。一人一 人の顔を丁寧にご覧になられていたからこそ出来たことなのだろうと、あらためて柴山全慶老師の素晴らしさを思い起こした次第でございます。


[ご意見・ご感想]

[コラムのお部屋へ]

<TOPページへ戻る>


No.1093  2011.04.28
片手落ち

東日本大震災は未曾有の災害であった。大地震も大津波も、これは人間には防ぎ様のない自然現象である。しかし、その自然現象によって、家屋、車、家具等の財産を失ったり、尊い命までをも失ってしまうのは、広い意味で人災であって、天災ではないと考えるべきではないかと思う。これまでの私は、殆どの災害を致し方ない天災だと考えて来たのであるが、今回の地震と津波に依って起きている原発事故の実被害・風評被害を目の当たりにすると、人間のやることには必ず片手落ちがあり、それを人災と言わずに、何を人災と言うのだろうか・・・と考えているところであります。

薬には必ず副作用があります。直ぐに起こすか長時間を掛けてから起こすか、致命的か致命的でないかの違いはあるけれども、どんな薬にも必ず副作用があると考えるべきではないか。原発も効率よく安価に、そして地球温暖化の原因とされる二酸化炭素を排出させずに電力を得られる方法なのだろうが、一度事故が起きると、甚大な被害を蒙ることが現実となった。

考えてみれば、人類はその誕生からずっと今まで効率、スピード、便利さを求めて走ってきたのだと思う。それを文化と云うのであろう。無論、それが齎(もたら)すマイナス面を出来るだけ小さくする努力は行ってきたのであるが、結局は片手落ちで文化発展に伴う犠牲者を排出し続けて来たのだと思うし、このまま生活の便利さを求め続けるならば、これからも犠牲者が出ることを避けることは出来ないだろうと思う。

鉄道、飛行機、自動車の交通事故も、効率を求め、生活のスピードアップを求めるから起きる事故である。スピードアップして人類は何を得たのだろうかと思う。スピードの異なる人と車が同じ道を進む道路で衝突事故が起こらないはずはない。あんな重たい機体が空を飛んでいれば、墜落もするだろう。

恐らく、人間のやること為す事、全て片手落ちを免れ得ないと考えるべきではないかと思う。24時間営業のコンビニは夜遅くまで働く人間には便利であるが、朝が来たら目を覚まし、暗くなったら眠る、そして晴耕雨読と云う自然と共の生き方から反して進む人類の将来には不幸しか待っていないのではないかと思う。幸せを求めて文化を発展させることが本当に人間の幸せなのかどうか、やはり立ち止まって考えたいものである。

ここまで発展させた生活を一挙に原始生活に戻せないのも現実であるが、人間のやることには必ず片手落ちがあると云う過去の事例・経験を共有し、一挙に突っ走らないことだと思う。 また、広くは社会生活を左右する政治問題、狭くは日常生活を左右する個々人の言動において、お互いに片手落ちがあることを認め合うことも、お互いを傷付け合う無用な諍(いさか)いに至らない知恵だとも思う。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


[ご意見・ご感想]

[コラムのお部屋へ]

<TOPページへ戻る>


No.1092  2011.04.25
仏かねてしろしめして

親鸞聖人の(法然上人の、と言ってもよいと思いますが)仏法が私たち在家止住(ざいけしじゅう;世間で暮らすより外無い一般庶民と云う意味)の凡愚(ぼんぐ;自分を愚かだとも思えていない凡夫)に取って有難いところは、 煩悩を肯定しないまでも、敵視していないところではないかと私は思います。

「仏法でも聞いて綺麗な心になりたい、人格を高めたい」と思って仏道に足を踏み入れるものでありますが、「なかなか煩悩は消えないなぁー」と壁にぶつかるのが普通のパターンだと思われます。私もその普通の一人なのです が、その者に取りましては、曹洞宗のお坊さんで禅を究められ、親鸞聖人の教えをも求められた西川玄苔師の、「仏法を聞いて、或いは坐禅をし続けて煩悩が無くなることは無い。むしろ、我が煩悩がはっきりとして来る」との お言葉は、煩悩・妄念・妄想の暗闇で出遇う一条の光であります。

浄土真宗の法話で喩え話として能(よ)くお聞きするのですが、『或るおばあさんがご住職に、「ご院さん、わたし仏法を聞いて来たお蔭で、この頃腹が立たんようになりました」と感謝の挨拶をしたそうですが、それに対して ご住職は「嘘をつけ!」と言ったそうです。すると、おばあさんは烈火の如く腹を立てて帰って行ってしまった』と云う話です。もしそのおばあさんが腹を立たないようになったのが事実としても、それは周りの人々が、腹立て 易いおばあさんに畏れをなして言い難いことを言わない様になったからかも知れませんね・・・。有り得ることではないでしょうか。

でも、仏法を聞いても仏法を聞く前と何も変わらなかったら意味は無いと云うべきではないかとも私は思います。常念仏の仏法者であった私の母が、生前、子供の私には気を許してだと思いますが、雑談の中で色々と愚痴っぽい 話をしていました。その時わたしは偉そうに「お母さん、仏法聞いてるのに、愚痴はあかんのと違う!?」と説教していた事を思い出しています。母からどんな返事が返って来ていたかは記憶して居ません。ひょっとしたら「な んまんだぶ、なんまんだぶ」だったのか知れません・・・。今思い起こします時、もっと母の愚痴話に相槌を打って、一杯聞いてあげるべきだったと思いますし、もっと深い親鸞聖人の仏法の話をしたかったと後悔しております 。

当時の私は親鸞聖人の教えの事は何も分かっていなかったなぁーと思っていますが、でも仏法を聞いた今も、何も変わらないではやはり意味が無いと云う想いを持ち続けております。
そして最近思うのですが、私は自分可愛さの自己愛や自分は正しいと云う自己中心症から、人からよく見られたい、損はしたくない、人から迷惑はかけられたくない、あの人は、否、世の中はもっとこうあるべきではないか等と 、硬直した心で妄念妄想を働かす日暮しを送っているのですが、その自分の妄念妄想にいち早く気付けば、妄念妄想を重ねてとんでもないところに迷い込むことはなくなるのではないか、日常生活の色々な場面で妄念妄想はスタ ートを切るが、仏法に依ってその妄念妄想の暴走を食い止められるのではないかと思ったりしています。

私は思うのです。私が思わず涙を流す時とか思わず笑う時には妄念妄想は無い、また好きな事をやっている時、何かに集中している時も妄念妄想は湧き出ていないけれど、それ以外は妄念妄想しか私の心には無いように思います 。源信僧都が「妄念はもとより凡夫と地体なり。妄念の外に別に心はなきなり」と仰っているそのままだと思いますし、妄念妄想が全く起こらない様にはならないと思います。そして、それを親鸞聖人は、「仏かねてしろめして 煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば・・・」(歎異抄第9章)と仰せられたのだと思います。

私は、これまで法然上人が一日に6万回とか7万回と念仏を称えられていた事や、浄土宗や、浄土真宗のお坊さんの中には「兎に角、お念仏を称えなさい」と説教されることに抵抗を感じて来ておりましたが、今は、一日に何万 回と妄念妄想を繰り返す私だからこそ、何万回でも〝なんまんだぶ〟と云う仏法を聞けば、妄念妄想の暴走を止め、真実に出遇えるご利益があるのではないかと思っています。そして、それが妄念妄想のお蔭で真実の自己に還る 瞬間でもあるのだと思っているところであります。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


[ご意見・ご感想]

[コラムのお部屋へ]

<TOPページへ戻る>


No.1091  2011.04.21
あなたは一人じゃない

〝生涯学習のユーキャン〟として通信講座や出版等を事業とされている株式会社ユーキャンをご存じの方は多いと思います。5年位前に私は『青山俊董尼のCD法話集(全12巻)』を購入したのですが、それ以降、その出版事業部から『やすらぎ通信』と云う季刊紙が送られて来るようになりました。今日はその〝2011年春号〟に掲載されている『あなたは一人じゃない』と云う紙上法話を転載させて頂きます。一万人以上の自死志願者との面談・救済活動を通して仏法を説きつつ実践され、ご自身も実践を通して学ばれた上での法話に深い感銘を受けたからでございます。
ご法話の見出しには、『千葉県成田市にある曹洞宗長寿院の住職・篠原鋭一さんは、長年にわたり自死志願者の救済活動を続けています。今まさにいのちを絶とうとしている人たちの相談を受けてきた篠原さんに、あたたかい人間関係を築き、よりよく生きていくための心構えについてお話をいただきました。』との紹介文が添えられています。

『やすらぎ通信』には青山俊董尼のご法話も連載されていますが、その他にも感銘を受ける紙上法話が多く私自身この季刊紙を楽しみにしております。購読は無料ですが、出版物のダイレクトメールも送られて来ると思います。ご興味のある方は、一度お問い合わせ下さい(〒151-0053 東京都渋谷区代々木1-11-1 電話:03-3378-0770)。 

あなたは一人じゃないー篠原鋭一

今をどう生きるか
 私が自死志願者からの電話相談を受ける活動を始めてから、15年が経とうとしています。「いのち」をテーマとした講演依頼も増え、全国で「生きることの大切さ」についてのお話をさせていただいています。
私の名刺には、次のようなメッセージが記してあります。「お寺には、生きている間においでください。死んでからでは遅いのです。『仏教』はよりよく生きるための『生き方』を説いています。生きている間に学び、実行してください。死んでからでは遅いのです。どうぞおいでください」。

私たちは朝、目が覚めることが当たり前だと思って、そのことを深く考えたり、喜んだりはしません。けれども、明日の朝、必ず目が覚めるという保証はどこにもないのです。ですから私は毎朝、目が覚めるたびに「今日が本番だ」と自分に言い聞かせることにしています。明日のことはわからないし、昨日を取り返すこともできません。 お釈迦様も「過去を追わざれ、未来を願わざれ」と説いておられます。これは「今に徹して充実した人生を歩みなさい」という教えです。つまり、大切なのは「今をどう生きるか」を考え、実行することなのです。

無縁社会から有縁社会へ
 私はこれまでに1万人以上の自死志願者と対話してきました。今、「自死志願者」と述べましたが、私は「自殺」と「自死」は違うと考えています。古今東西、自殺の例はたくさんあります。武士の切腹も自殺の一つでしょうし、芸術家が個人的な苦悩から解放されるために死を選ぶこともある。いわば、自殺は本人の覚悟の上での行為です。

しかし自死の場合は違います。現在、日本では年間3万人以上の人が自らのいのちを絶っています。その人たちの中には、リストラや病気などが引き金となり、借金苦、家族崩壊などの苦難を抱え、ついには死を考えるようになるケースも少なくありません。あるいは、介護疲れから死を選ぶ人もいます。日本の社会構造から生じたゆがみに陥り、そこから抜け出せなくなった人たちが、自らを死に追いやってしまうのです。本当は死にたくないのに、死を選ばざるを得ない。そういう死は「自死」と呼び、自殺と区別して考えたほうがいいと思っています。

多くの人たちの相談を受けているうちに、見えてきたことがあります。それは、死を選ぶ理由として、「孤立」が大きくかかわっているということです。たとえば、こんな出来事がありました。

夜中の2時に、「私、捨てられたんです」と電話がかかってきました。話を聞くと、その方は岩手県に住む、77歳の女性でした。ご主人に先立たれたけれど、息子さんが三人いて、それぞれ家庭を持っている。けれども息子さんやお嫁さん、孫たちは誰一人として会いに来てくれない。そんな状態が5年も続いているそうです。77歳はおめでたい喜寿なのに、お祝いの言葉もない。「子供たちから捨てられて、生きている意味がありません。住職さん、私に死に方を教えて下さい」と涙ながらにおっしゃるのです。私は「死ぬお手伝いはできませんよ。いのちを絶つようなことは二度と考えないでください。私とこうしてつながったのだから、新しい息子ができたと思って、一週間に一度は電話をください」と返事しました。 その後、その方に会いに行っていろいろなお話をしました。帰り際、「新幹線の中で読んでください」と手渡された一枚の紙には、自作の短歌がきれいな字で綴られていました。

        来るはずの ない息子とは しりつつも
                    車の音に ベランダに駆け

            命なる息子との仲引き裂かれ
                    喜寿も悲しい ひとりいて泣く

情景が目に浮かんでくるようなその短歌に涙が止まりませんでした。

「孤立」は人を死の淵まで追い詰めてしまうのです。このように、人と人との関係が希薄になってしまった世相を「無縁社会」といいます。つまり、他人のことは無関心な社会。でも、そんな社会にしてしまったのは誰かというと、私たち自身なんです。私たちみんなに連帯責任がある。だからこそ、私たちの手で「有縁社会」、つまり常に他の人とかかわりをもって生きるという日常を築き上げていかなければならないのです。

お節介をやこう
 有縁社会を作り上げるには、もっとまわりとのかかわりを考える必要があると思います。
私は幼稚園や小学校でお父さんやお母さんに講演することもあります。そのときに「どんな家庭教育をなさっていますか?」と質問をすると、多くの人が「人に迷惑をかけない人間になれと教えています」とおっしゃいます。そこで「では、皆さんはこれまで誰にも迷惑をかけずに生きてきたのですか?」とお聞きすると、うなずく方はいらっしゃらない。私たちは、一人では生きられません。人とのかかわりの中で生きている限り、迷惑をかけずにはいられないのです。だから、お子さんたちにはきちんと教えてあげてほしい。人に迷惑をかけなければ生きていけないのが人間だから、迷惑を掛けてもいい。でも、その代わり人からかけられる迷惑も嫌がらない人間になってほしい。そう、教えてあげてください。「迷惑の行ったり来たり」ができる社会をつくる。それが、無縁社会から有縁社会へ回帰していく一つの方法だと思います。

それからもう一つ、皆さんにぜひやってもらいたいことがあります。それは、若い人たちのお節介をやくことです。
一昔前は、大人が子供たちにお節介をやくのは当たり前でした。近所のおじさんやおばさんが悪いことをした子供を叱る光景もよく目にしたものです。ところが現代社会では「他人のことに口を出すな」という風潮が強く、お節介をやくことが少なくなってしまった。しかし、実際に子供たちの話を聞くと「大人は何も教えてくれない」とか「大人は若者に無関心だ」と思っている。彼らは内心、お節介をやかれることを望んでいるのです。

私たちが生きていくうえでは、人と意見がぶつかり合うこともあるかもしれません。ときにはけんかをすることもあるでしょう。でも、そうやってお互いにかかわり合うことが「生きていく」ことなんです。だから、お互いに無関心であってはならない。相手のことを心配したり、諌(いさ)めたり、褒(ほ)めたり・・・・。そのようなお節介は、積極的にやくべきなのです。

そして、「あなたは一人ではない」ということを、言葉や態度で示してあげてほしいのです。たとえたった一人でも「あなたがそこにいるだけで私は嬉しい」と言ってくれる人がいれば、それだけで前向きに生きていくことができる。自分の存在を認めてくれる人がいるという安心感が生きる力を育てるのです。

苦しみは続かない
 ところで、近ごろは多くの人が生き方に戸惑っているように思えます。ときには「私はなんて不幸なんだろう」と落ち込んでしまうこともあるかもしれません。私の寺にも「自分はいつも苦しんでいる」と相談にいらっしゃる方がいます。

ある方は1時間にわたって、自分がどんなに不幸だったのかを切々と訴えました。お話を聞いた後に私は「よくわかりました。では、これからの1時間は、あなたが楽しかったことを話してください」と言いました。そして一時間後に、辛かった話と楽しかった話を比べてみると、楽しいことの方が多かった。人間は幸せを感じたことは忘れやすく、苦しいことや悲しいことばかり記憶しているものなんです。でも、マイナスもあればブラスもある。どちらか一方しかない人生はありえません。

いつまでも苦しみだけが続くことはないのに、私たちはつい「このままずっと不幸だ」と思い込んでしまうのですね。物事は必ず変化していきます。仏教ではそれを「無常」といいます。「同じ状態はずっと続くことはない、すべては移りゆく」という意味です。苦しいときには、そのことを思い出してほしいと思います。今に違った風景が見えてくると・・・。

一生、現役
中高年世代には「定年」という言葉を意識している方も多いでしょう。確かに会社や組織には、一つの区切りとして定年があります。けれども、それで人生のすべてが終わってしまうわけではありません。私たちはこの世に生を受けた限り、いつかは死を迎えなければならないときが来ます。そのときが人生の定年ですから、その一瞬前までは、人生の現役なのです。

ましてや、「老後」や「余生」というのは不思議な言葉ですね。「老いた後」とか、「余った生」とは、どういうことでしょう?もしもいのちが余っているのなら、私にください。そのいのちで助けたい子供が大勢います。

以前、百歳を過ぎても元気な、きんさん、ぎんさんという双子のおばあさんが話題になったことがありました。テレビでも人気だったころ、菩提寺の和尚さんがきんさんに「ずいぶん出演料が貯まったでしょう?そのお金を何に使うのですか?」と聞きました。すると「老後のために蓄えておく」と答えたそうです。 素晴らしいなと思いました。

百歳になっても、「自分は老後を過ごしている」と思わなければ、老後ではない。自分の気持ち次第なんですね。ですから、「定年を迎えたから、もう老後だ」とか「細々と余生を過ごしますよ」などとおっしゃるのはもったいない。まだまだできることはたくさんあるし、いきいきと人生を楽しむこともできるのです。毎日が本番なのです。

人生は各駅停車で
私たちは生まれた瞬間に、人生の定期券をもらいます。交通機関の定期券ならば、有効期限があるから、それが切れたら新しいものに買い換えなければなりません。でも、人生の定期券には、終わりの日付が書いていない。いつかは終わりが来るけれど、その日まであせらずにゆっくり生きましょう。

現代社会はあわただしく、みんなが急ぎ過ぎているのではないでしょうか。それはまるで人生という旅を特急列車で進んでいるようなものです。特急ならば、窓の外の景色を楽しんでいる暇もありません。人生は各駅停車で行きましょうよ。

たとえば、ローカル線なら行商のおばあちゃんが大きな荷物を背負って乗ってくることもあるでしょう。「この荷物、どのくらいあるんですか?」「60キロ以上はあるよ」「え?そんなに」などと会話が弾むかもしれません。駅舎にしても、無人駅もあれば、桜がきれいな駅もある。各駅停車の旅だからこそ気がつくことがたくさんあるのです。特急に乗ったのでは出会えないような風景を、しっかり見ておきましょう。今の駅には何もなくても、次の駅に着いたら眼前にきれいな海が広がっているかもしれない。人生も同じです。今日は苦しいと思っても、次の駅には苦難を解放してくれる何かが待ち受けていることだってあるのです。

仏教学者の鈴木大拙先生は90歳を超えても、アメリカで禅を伝えるべく活動されていました。あるとき、先生の秘書をなさっていた女性が自殺未遂をされた。鈴木先生は彼女に「そんなに急ぐことはないよ。私は90歳になったけれど、今でも新しい発見がある。あなたもこれからいろいろなことを発見できるんだよ」と諭されたそうです。

何歳になっても、新しい発見がある。発見があると人生は楽しくなるし、幸福や充実感を味わうこともできます。そして、そういう生き方をしている姿を若者に見せてあげてください。「学ぶ」という言葉の語源は「まねる」だそうです。大人の生き方をまねて、子供たちは成長していくのです。

最近、こんな話を聞きました。84歳のおばあさんが孫に連れられてスイミング教室に行ったそうです。水泳の先生がおばあさんに「なぜ泳げるようになりたいのですか?」と聞くと、「子供のころから泳げないので、このままだと三途の川を渡りきれないから」と答えました。それを聞いたお孫さんが、「先生、おばあちゃんがもしも三途の川を渡ることになっても、そこから折り返して私のところに泳いで帰ってこられるような力をつけてあげてください」 と言ったそうです。孫と一緒に水泳を習おうとするおばあさんの積極的な生き方と、おばあさんに対するお孫さんの思いに感動しました。

このおばあさんとお孫さんのような、あたたかい人間関係が世の中に広がっていけば、孤立したり、自死にまで追い詰められる人は少なくなっていくはずです。大切なのは、まず、私たち大人が見本を示すこと。そして、人とのかかわりを大切にしながら、あせらずに生きることのすばらしさを子供たちに伝えていくこと。それが無縁社会を有縁社会に変える大きな力になると信じてやみません。

しのはら・えいいち:
昭和19年兵庫県生まれ。駒澤大学仏教学部卒業。現在、曹洞宗長寿院住職。NPO法人「自殺防止ネットワーク風」理事長。寺院を開放し、24時間いつでも自死志願者からの電話相談や面談を受ける活動がテレビや新聞で報道され、注目を集めている。著書に「みんなに読んでほしい本当の話」「もしもし、生きてていいですか?」などがある。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


[ご意見・ご感想]

[コラムのお部屋へ]

<TOPページへ戻る>