No.1120  2011.08.01
何のために生きるのか

駒澤勝医師の著書『目覚めれば弥陀の懐』(2010年6月20日、法蔵館出版)が届きまして、読み始めたところです。今日の表題『何のために生きるのか』はその第一章の題名です。
その中で、
『私は医師になって何年か過ぎた頃から、「私たちはなぜ病気を治療するのか」、「なぜ病気のままではいけないのか」という漠然とした疑問を持つようになった。・・・・・同僚や先輩の医師たちに、あるいは各分野の専門家に 「あなたはどのように治療するのか」と尋ねると、以前は思いもつかなかったり、夢物語だった鮮やかな治療法をいとも簡単そうに回答してくれる。でも彼らに「なぜ病気を治療するのか」と尋ねると、大方が「一体何を言うのか 」とキツネにつままれたような顔をするのみで、誰も明快で納得いく答えを出してくれない。・・・・・ 実はこれは、「人は生きて何をするべきか」の問題と大きくかかわっていることに気づいた。そもそも人は健康のほうが生きやすいから健康を求めるのであって、健康になるために生きているのではない。健康は生きるための手段 でしかない。私たちは生きるためにパンを食べるのであって、パンを食べるために生きているのではない。パンは生きるための手段である。そこから考えれば、健康はパンに相当する。その健康というパンを食べて何をするのかが 問題である。』と。

更に、
『人生で肝心なのは、手段ではなく目的である。まともな目的があって意味ある人生である。しかし今の社会は、ほとんどの人がそれを問題にしていない。手段ばかりに気を奪われている。だから、いきなり人生の目的と言われて も、たいていの人は、何を目的にするべきか、何がまともな目的か、皆目見当もつかないかも知れない。
第一、今の学校では小学校から大学までほとんどが、生きるための手段のみを教え、研究し、生きる目的については少しも教えない。考えさせない。今は情報社会で巷には情報が氾濫するが、人生の目的についての情報はほとんど ない。崇高な哲学には解答があるかも知れないが、凡人には手が届かない。
実はその答えこそ浄土真宗が教えてくれる。親鸞はいわば人生の意義を深く掘り下げ、人生の手段ではなく、目的とその達成法を教えてくれる。』

以上のように、ご自身が親鸞仏法に求めた事と、それに至る経緯を纏められているのでありますが、私が大いに共感を覚えるところであります。しかし、大方の人は、「たまたまこの世に生まれて来たから、生きているだけだし、 死ぬのが嫌だから生きてるし、出来れば豊かに快適に生きてゆきたいから日々忙しくしているんだ。何のために生きているなんて考えたこともないし、考えても結論は出ないだろうに…」と言うかも知れませんし、「駒澤医師のよ うに〝何のために生きるのか〟なんてことは、生活に余裕のある人が考えることではないか・・・」とさえ言う人だって居るかも知れません。

何のために生きているかに付きまして、私はこれまで数回に亘るコラムで申し上げて来た積りであります。結論としましては、「真実の自己に目覚めて、たまたま受け継いだ人間としての命、しかもオンリーワンの命を全うするこ と」ですが、現実の生き方としては、「2500年前にこの世に現れられた釈尊が示された八正道を生きること」だとも申し上げました。

これから、駒澤医師が至られた〝何のためにいきるのか〟に対する結論を求めて読み進みたいと思っております(次回のコラムでその結論をお伝えしたいと考えております)。

駒澤 勝(こまざわ まさる)医師のご経歴:

昭和17年 広島県三次市に生れる
昭和43年 岡山大学医学部卒業
昭和44年 国立岡山病院小児科勤務
昭和48年~49年 科学技術庁長期在外研究員としてアメリカ・ニューヨーク州立大学小児科に留学
昭和55年 国立岡山病院小児医療センター医長
平成3年  こまざわ小児科開院 院長

著書 『病気の子どもも日本一』(山陽新聞社、平成2年)
    『健康であれば幸せか』(法蔵館、平成12年)

住所 〒705-0001 岡山県備前市伊部400-8

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No.1119  2011.07.28
命の実体

〝駒澤勝〟と云う親鸞仏法に傾倒されている小児科医が居られます。私は一昨日、『青色青光ブログ』を拝見(7月23日付のコラムです)して知りました。詳しいご経歴は分かりませんが、 1942年のお生まれで、私と殆ど同世代ですから、未だ現役のお医者さんではないかと思います。

そのお医者様が『目覚めれば弥陀の懐』と云うご著書の中で『木全体が一つの生命体であって、何千枚の葉がそれぞれ一つの生命体ではない。葉っぱの一生は木の命の営みの現われにすぎない。葉が春に芽生え、夏に青々とした葉になり、秋には 鮮やかな紅葉になり、そして落葉していく。葉が勝手にそうなっているのではない。葉に自主独立があるのではない。それなのに葉が「自分は一つの自主生命体である」と思いこんでいる。木と無関係に自分が存在していると思っている。自分が 自分の力で変化し、自分の力で存在している自主独立の生命体だと思っている。しかしこれが間違いなのです』と述べられているそうであります。

これは、これまで私がテーマとして参りました『虚仮の自己』、『現実の自己』、『真実の自己』を樹木に喩えて〝命の実体〟をビジュアルに説かれたまことに素晴らしい教えだと思いまして、ご紹介する次第であります。無相庵読者の方々も是 非お読み頂ければと存じます(私は既にインターネット通販で注文致しました)。

私たちの眼の感覚では、人と人の命が繋がっているとは見えませんが、一本の木の葉っぱと葉っぱの関係にあり、一つの寿(いのち;永遠の命)から現出しているものであります。私たち人間に与えられた能力(感覚)では、その繫がりが見えな いだけで、それが苦悩を産む自我そのものになると云うのが、駒沢医師のお諭しだと思います。

更に考えたいことは、樹木にも色々な種類があり、たとえば、人間と云う樹木、犬と云う樹木、鴉と云う樹木、桜と云う樹木、街路樹と云う樹木、公園を覆い尽くして皆に嫌がられる雑草等・・・が一つの森を形成している事に喩えて考えますと、 それらすべてが一つの生命体(寿)で繋がっていることが想像出来ます。これが命の実体であるにも関わらず、私たち人間は、その真実が人間の視覚と云う限られた能力が故に見えないのだと考えたいのであります。 更にもっと広く想像力を働かすならば、地球上の生命体に限らず、山も川も海も、石も土も、そして空に見える太陽も月も星も、私たち人間を生み出した同じ宇宙の働きに依って現出している存在だと言えます。

皆、同じ寿(いのち)の仲間でありますが、それでも、皆それぞれ姿形が異なり、特質が異なります。従って、役割も異なります。 米沢先生流に言いますと、人間以外の存在は、皆不平不満も言わずに役割を淡々と果たしています。大脳を与えられた人間だけが自我に振り回されて、人間の役割を忘れ(本来の自己、真実の自己を忘れ)、人間に生れた喜びを感じられないまま 生き死にしているのではないでしょうか。

間もなく届く駒澤勝医師のご著書『目覚めれば弥陀の懐』を読める事を楽しみにしているところであります。なお、駒澤勝医師の『医と私と親鸞』をインターネットサイトで見付けましたので、ご関心 のある方は、ご覧下さい。

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No.1118  2011.07.25
人間が歩く道―八正道(はっしょうどう)

八正道は釈尊が悟りに至る為の修行の基本となる八種の実践徳目として示された、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定であり、それぞれ正しい見解、正しい思い、正しい言葉、正しい行い、正しい生活、正しい努力、正しい念(おも)い、正しい瞑想と言い換えられています。

私は極最近までこの八正道の実践をすると云うことは、自分の努力で悟りに到ろうとする修行であるから自力聖道門が勧める修行であり、およそ私たち在家の者が為し得る仏道ではないと考えて居ました。そして、親鸞仏法は八正道をむしろ雑行(正しくない仏道修行)として排除しているのではないかとさえ考えて居ました。

しかし最近、八正道は釈尊が仏道修行として示されたものではなく、人間らしく生きる指針として示されたのではないかと考えるようになりました。つまり、人間と云う命を授かった尊さに目覚めたなら、必然として起こる「他の多くの動物ではない人間と云う稀な命を与えられて生まれたからにはどのように生きれば人間らしい生き方なのか?人間はどうあるべき存在なのか?」と云う自問に対する自答として八正道が用意されているのではないかと考えるようになりました。

つまり桜は桜としての命を生き潔く散っている、犬は犬としての命を生き死にしている。しかし人間は人間の命を生き切っていないから苦しみ悩み、死への恐怖もあるのではないか。

八つの道すべてに〝正〟が付いておりますが、この〝正しい〟と云う意味は、〝自我を自覚した(真実の自己に目覚めた)人間としての〟と云うことだと思います。

勿論、私たちは自我(自己愛、煩悩、エゴ)に気付きましても、肉体を持っている限りは残念ながら自我を完全に滅することは出来ませんので、正しい言葉遣い、正しい行い、正しい生活態度に徹することは出来ませんが、人間として歩むべき道としての八正道がそのまま人生の道標(みちしるべ)であると思います。そして、八正道に添って毎日を生きて行くことが、人間としての生まれ甲斐なのだと思います。

八正道に関しましてはインターネットで検索して頂いて勉強して頂きたいと思いますが、私は次のように受け止めたいと思います。

正しい見解とは、縁起の道理・因縁果の道理をしっかり身に付けて、何か問題にぶつかったときは常にこの宇宙の真理に戻るようにと云うことだと思います。
正しい思いは、何か行動を起こそうとするときや意見を纏めようとする場合に、人の為になることかどうか、社会の為になることかどうかを前以て考えようと云うことだと思います。
正しい言葉と正しい行いは、これからしようとする言動が事実に基づいているかどうか、他人を傷付けるものでないかどうか等を前以て考え、また言葉を発した後にもチェックすることが大切であると云うことだと思います。
正しい生活は、煩悩に支配された不規則な生活ではなく、他の動物とは一線を画した生活を送ろうと云うことだと思います。

正しい努力、正しい念い、正しい瞑想は、その他の正しい見解、正しい思い、正しい言葉、正しい行い、正しい生活が果たされているかどうかを常にチェックして行こうと云うことだと私は考えます。

この八正道は、自分の命の真実に目覚めれば、自ずから見えてくるものだと思います。自分の命の真実に目覚めるには、法話コーナーの法話をご覧頂き、また進んで仏法を求めて行くことによって、自然と為されるに違いないと思います。

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No.1117  2011.07.21
続―真実の自己とは?

引き続き『真実の自己』を考察しておりますが、それは親鸞聖人が自覚された「罪悪深重・煩悩熾盛の凡夫」では無く、これは私の造語ですが『現実の自己』の姿ではないかと・・・。しかし、その『現実の自己』を自覚せしめるに至ったのは、 『真実の自己』に気付かしめられたから、と言うよりも、『真実の自己』と『現実の自己』に、同時に目覚められたのではないかと考察しているところであります。

そして、それまで自覚している自己は『虚仮(こけ)の自己』、『虚仮』は聖徳太子のお言葉として遺っている『世間虚仮唯仏是真(せけんこけゆいぶつぜしん)』の『虚仮』であり、〝偽り〟とか〝ありもしないこと〟と云う意味の言葉 です。

私を含めて、現に悩み苦しんでいる人間は「自分はいずれ死ぬ存在だとは知っているけれども、当分は死なない」と思っていますし、「昨日よりは今日、今日よりは明日を良くしたい。将来は今よりも良くありたい。努力すればそうなるはず だ」と考えて努力しているのだと思います。また、「この世で自分が一番正しいとまでは自惚れていないが、自分の考え方や生き方が自分の知っている他人と較べた場合、間違っているとは思っていない」、と、自分を何となく肯定して生きて いるのだと思います。でも、全ては真実ではありません。人間はいつ死ぬか分からない存在ですし、昨日まで元気だったけれど、今日病の床に寝ることを避け得ない存在ですし、それに平家ではないですが、栄華を極めても、必ずいつかは没落 するのは世のならいであります。自分は間違っていないと思っているのに人間関係は上手くいかないし、幸せな生活には程遠く感じてしまいます。この現実は『虚仮の自己』を信じて生きているからが故に遭遇しているのではないかと思うので あります。

この『虚仮の自己』は、『真実の自己』を知らない、或いは『真実の自己』に目覚めていない人間の姿ではないかと思われます。何故『真実の自己』が隠れて『虚仮の自己』が表面にあらわれるのかと考えますと、折角人間の命を授かって生ま れて来たにも拘わらず、親や周りからの教育に依って、自他の区別を知り、競争心を養い、自分を一番大事と考える洗脳教育を受けて、大脳の新しい皮質が、自我(エゴ)一杯の細胞に占拠されるからではないかと思います。それは人間に与えら れた能力を誤った方向に使ってしまい、本来の有るべき人間では無くなっているからだと思います。

ではどうすれば本来の人間に立ち戻れるのか?現時点では「他の動植物と差別化された本来の人間としての自分」と考えればいいのではないかと考察しています。 地球上のあらゆる生物を生かしているのは、同じ一つの働きだと思います。私を呼吸させている働きも、向かいの家の犬が元気に走り回らせる働きも、街路樹を活き活きとさせている働きも、全ての生物を生かしているのは宇宙に遍満する命を 生かし続けようとする同じ一つの働き(宇宙の意思)でありますが、命が宿る個体の特徴・特質・外観は、進化と云われる様々な縁に依って、千差万別化されており、私は偶々、人間と云う個体に命を授かって今生きているのだと考えます。

人間と他の生物の最も大きな違いは、大脳皮質、それも、考える能力を担っている新しい皮質が発達しているところにあることは間違いないと思います。ただ、前述しましたように、この考える能力を間違った方向に使うことに依り、人間は自 我(自己愛、エゴ)と云う、与えられた命を粗末にしてしまう負の能力に変質させてしまい、人間と云う個体を滅亡に向かわせて来たのが、人類の歴史ではないかと思われます。これでは駄目だと立ち上がったのが釈尊や釈尊以前の祖師方(古 仏と言われる人々)や釈尊以後、印度・中国・日本に現れた親鸞聖人等の祖師方ではないかと私は考えます。

釈尊も、色々な説法を遺されていますが、結論は、「折角人間と云う稀な命を頂いたのだから、人間らしく生きよ!人間として生きよ!」と云うことではないかと思います。そして、人間らしい生き方とは、八正道を生き切ることだと説かれた のではないかと思います。

私は八正道は悟りへの道であり、自力修行の道だと考えて参りましたが、それは間違いであって、本来の人間が有るべき生きる姿を示したものではなかったかと今は考えております。決してこれは悟る為の苦行ではなく、人間の命の真実・現実 に気付いた時の私たちへの釈尊からの示された生活指針、人生の指針ではないかと思います。
八正道は、『中部経典』と言う経典に、苦しみをなくす方法とは何かという質問への答えとして八つの道が説かれているそうですが、その紹介文は「苦しみの消滅にみちびく道という真理は何であるか。それは実に八つの要件を備えた尊い道で ある。すなわち正しい見解、正しい思い、正しい言葉、正しい行い、正しい生活、正しい努力、正しい念(おも)い、正しい瞑想である」となっております。、

次回に、この八正道を勉強したいと思います。

帰命尽十方無碍光如来ーなんまんだぶつ

追記
7月22日(金曜日)に更新した法話コーナーの心の詩は、真実の自己に目覚められた方が〝花〟に喩えられて詠まれた詩に関するものでございます、参考にして頂ければと思います。


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No.1116  2011.07.18
真実の自己とは?

米沢先生は能く『真実の自己』と云う言葉を使われています。『自我』と対極的に使用され、「真実の自己に目覚めしめるのが真実の宗教だ」と申されているのでありますが、その場合の『真実の自己』とは何かがなかなか分かり 難いのではないかと思います。私もなかなか分からなくて自問自答を繰り返して参りましたが、漸く、「このようなことなのかな?」と云う答えが纏まりましたので、皆様にお伝えしてご批判を頂ければ有難いと思います。 その前に、米沢先生の真実の宗教、真実の自己に関するお話を或るご法話から抜粋してご紹介させて頂きます。

米沢先生のご法話からの抜粋―

私たちは、自我というものに気付きにくいのでありますが、自分さえよければ、他のものが自分の思うようになればよい、思うようになるものは可愛いという、自分の都合ばかり考えて生活しているわけであります。

仏法では自我のことを煩悩と言いますが、この煩悩の底にある真実の自己、この真実の自己を目覚ましめるのが宗教であります。宗教といっても何ものでもなく、この自己を目覚めしめてくれるものが、真実の宗教であります。

親鸞聖人が、「真実の経、大無量寿経」と言われたのも、大無量寿経によって、長年探し求めていた自己に遇うことが出来たから、真実の教えと申されたのでしょう。如何に高邁な真理を説く教えであっても、それが自己に実現し てくるという事実がないなら、自分において、真実の教えとならないわけでありましょう。真実が自己自身に実現してくる。即ち、真実の自己に目覚めしめる宗教が真実の宗教であります。この真実の自己が生きる世界を浄土とい うのでありましょう。 自我の世界を出るのを出世間と言いますが、家出をする話ではなく、真実の自己に目覚めると、世間を超えた世界が開かれてくる。即ち、浄土の世界が開かれてくるということで、浄土が見えてきたということは、こちらに自己が 目覚めてきたということであります。この真実の自己に目覚めたことを、真宗では「信心を獲得(ぎゃくとく)した」と、申すのでありましょう。 だからして、信心というものは、別に他よりいただくものではなく、自分の内にある真実の自己、それが目覚めることであります。お内仏とは、自分の内にある仏性に目覚めたものが、本当のお内仏であると思います。真実の自己 がお内仏でありましょう。

自我は肉体と密着しているので、その命が終わる時、自我は終わるのでしようが、真実の自己は無量寿で永遠に生き続けているのであろうと思います。

―転載終わります

私たちは父母から命を受け継ぎこの世に生れます。しかし、他の動物では発達していない大脳皮質を有していますから、もの心が付くと共に自他の区別を知り、自我が芽生えます。そして競争社会を生きてゆくうちに、その自我は ますます強くなり、その自我が自分そのものだと思い込むようになります。 そして、自分の命は自分が造り出したものではないのに、何でも自分の思うようにしたい、否、頑張れば何でも自分の思い通りになるものだと思うようになります。でも、やっぱり思う通りになりませんから、あらゆる苦悩(生・ 老・病・死の四苦)に遭遇します。

真実の自己に目覚めると云う事は、私はこの私の命の真実に目覚めることだと思います。私の命は無始よりずっと受け継がれて来たものである事、そして多くの命がある中で、人間と云う、〝考える能力を持った〟命を与えられた事 、そして、人間の命を生き切ることが私に与えられている勅命である事を自覚することが、真実の自己に目覚めると云うことではないかと思うようになりました。

『自我』も大脳皮質の所産でありますが、『真実の自己』に目覚められるのも大脳皮質を与えられているからこそのご褒美だと思います。私たちは自分の力で生きていると思っていますが、呼吸をし続け、心臓が血を全身に循環さ せ続けているのも、私たちの脳幹と云う器官を機能させる命が宿っているからこそなのだと思います。そしてこの脳幹みたいな機能は全ての生物にある命そのものだと思われます。

人間以外の生物には大脳皮質の発達がありませんから、自我がなく、受け継いだ命そのままを生き、そして寿命がくれば死んでゆきます。猫は猫のままに、犬は犬のままに生き死にを繰り返し、花も桜は桜の命をバラはバラの命を 生き切り、朽ちてゆきますが、人間だけは大脳の古い皮質と云うところに他の動物と同じ本能(強く生きる力、集団を組織する能力等)を持っていますから、動物と同じ生き方で終わることも多く、人間に生れた喜びを知らずに命 を終わってしまいがちであります。それを真実の自己に目覚めないままの人生と言うのではないかと思います。

浄土門は、それぞれの命をそのままに生きる世界を浄土と申しています。それを阿弥陀経の中で浄土の景色を『青色青光、黄色黄光、赤色赤光、白色白光』と表現しているとお聞きしています。

人間に生れた限りは真実の自己に目覚める努力が必要だと思います。それは、命の真実を説く宗教に遇うことでしか叶わないと思います。それは人夫々の縁に依って宗教・宗派は異なるのだと思いますが、私のそれは親鸞仏法だと今確 信している次第であります。しかし、現実の自己を振り返ります時、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑する自分の罪悪深重振りの身に愕然としていると云うのが現実であります。そして、その反省を促されるように、週二回 のこの無相庵コラム更新に向き合っているところであります。

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No.1115  2011.07.14
自分とは何か?

仏法は、「自分とは何か?」と云う自問自答の答えに導いて貰える教えだと思います。自分を外しての仏法は何の意味もございません。他人や社会等の他を批判する為の道具で有ってはならないと自誡を込めつつ申したいところであります。
その観点から現在の私を振り返り、以下に自分の今を分析したところを素直に申し述べたいと思います。

私は小学性の頃から多くの法話を聞かせて頂き、また多くの先生方の仏法を書物を通して勉強して参りましたので、仏法の知識はそれなりに身に付けていると思っております。しかし、未だ仏道の道半ば、とい言うより、入口に立ったところであ ると思っております。禅門の扉を叩かれた方に置き換えて申しますと、悟りを開きたいと考えて坐禅を永らく続けながらも、「悟りには到れていない、何とか悟りたい」と多少の焦りを感じながら、「自分はそもそも悟りに至れる人格ではな いのではないか」と思い出しているところだと思われます。

私はこれまで浄土真宗では念仏を素直に称えると云う心境になった時に、〝信心を獲(え)た〟と云うことになり、それが〝禅門の悟り〟に等しいのではないかと考えて参りました。従いまして、人前で念仏を称えることに気恥ずかしさを感じてし まう私は〝信心獲得(しんじんぎゃくとく)〟には未だ未だ程遠いと思って来ました。
今日もある著名なご住職の法話をDVDで視聴致しましたが、そのご住職がご法話の前に経典の一節を読み上げられるに際して何回も「なんまんだぶつ、なんまんだぶ」と繰り返されるのを見て、有り難いと云うよりも、何処かわざとらしく感じてしまう自 分を、これでは駄目なんだろうな、人前でも念仏を称えられる素直さが必要なんだろう、人前で堂々と念仏を称えられないのは、自分に驕慢と云う煩悩が人一倍強いからではないかと自己分析をした次第であります。

しかし一方、驕慢と云う煩悩を失くそうとすることは、坐禅をして悟ろうとする自力依存の姿勢であり、親鸞聖人の教えから180度外れた姿勢ではないかとも考察致しました。そして、驕慢と云う煩悩を失くそうとする私の心の動きは、ま さに他力の働きに依るものであり、この強い煩悩のまま、否、この強い煩悩があるからこそ、仏法を求め続けられているのではないか。

この自分が素直に念仏を称えられる程の人格では無いことを素直に認めるところから、これからも仏法を聞いて行こうと思っている次第であります。

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No.1114  2011.07.11
続々―浄土とは?

前回のコラムで私は「『浄土』とは『真実の世界』である」と申しました。でも、それはなか納得されないと思います。今、私が現実的に見ている世界、社会がそのまま真実のものだと云う考え方から離れることは出来ないと云 うのが正直なところでしょう。
でもそれは自分の眼を信じているからであり、自分の思考を信じているからであることに気付く必要があると云うのが仏法の根本的な教えではないかと私は考察しているところです。

たとえば私たちの視力は、顕微鏡では見える自分の周りに浮遊する細菌、ばい菌、病原菌、放射能物質を直接捉える精度を持っていません。多くの人が春先に苦しめさせられる花粉も、中国から飛来する黄砂も直接眼で確認する ことが出来ません。それらが無いものとして世界を見ていることになります。

また、私たちが行動の基準としている単位時間は、地球が太陽の周りを一周するのを1年として、一日とか一時間、一秒と決められているものです。宇宙の時間単位とは多分大きく異なるものでありましょう。私たちの宇宙は もっともっと緩やかな時間単位で動いているのかも知れません。

それに、今日本が苦しんでいる東日本大震災の原因になっている地震も、私たちが捉えられない地球内部の動きが齎したものであります。今こうしている中にも、次の大地震を引き起こす地殻変動が私たちの地下深くで緩やかに 進行しているのは間違いないのですが、それが何処で何時発生するかを私たち人間は予測出来ないのです。

私たちは、私たちが知り得ない法則や縁に依って私たちを取り巻く世界の中(つまり『真実の世界』)で生きているのだと言えましょう。しかし、逆に考えますと私たちは『真実の世界』が見えないから平気で生きて居られると 言ってもよいかも知れませんが、この『真実の世界』は私たちが殆どコントロールすることが出来ない世界でもあります。仏法では『自力無効の世界』と申します。

私たちは自分の力で生きていると思っていますし、自分の努力で、自分の能力で、何事もある程度何とかなると考えていますから、朝目覚めた時からその日に起こるであろう色々な事に考えを回らします、また今日明日のことで なく、少し遠い将来のことも思い描いて希望を抱いて努力をしたり、或いは心配もしたり致します。しかし、殆ど思い通りにはゆくことは少なくて悔しんだり悲しんだり、後悔したり致します。逆に思わぬ幸運に回り逢って、有 頂天になることもありましょう。これを『自力無効の世界』と申すのであります。

私たち全員、死ぬ瞬間には自力無効の世界を生きていたことに気付くのだと思います。死を前にした自分を自分ではどうすることも出来ないからであります。自力無効の世界を生きていることに生きている間に目覚めることが、 『真実の世界』に目覚めることであり、それを『浄土往生』と云うのではないかと私は考察しているところであります。『真実の世界』『自力無効の世界』に生きている自分に気付けば、人生で起きる何事も〝納得できる事〟ば かりであり、苦悩は無くなります。

ただ、一旦は『真実の世界』に生きていることに目覚めましても、肉体を持ち、自我から離れることが出来ない私たち人間は直ぐに『真実の世界』『自力無効の世界』に生きている我が身を忘れてしまうものであります。でも、 一旦目覚めた限りは、何事かの苦しみ悩みに遭遇した時に、それが自分の煩悩から出ていることに気付き、『真実の世界』『自力無効の世界』に還らせて貰えるのだと思います。煩悩が縁となって、常に『浄土』、すなわち『真 実の世界』、『如』に還らせて頂けると云うのが、親鸞聖人が至られた境涯ではないでしょうか。

つまり、私たちを苦しめる『煩悩』と云うものは、大脳皮質を持った人間に必然的に具わる真実であり、それが縁となって、生きている私たちが『浄土の風光』に触れ得るのだと思うのであります。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ

追記:
コラム更新した後にコラム内容を自問自答していました時、『自力無効の世界』と云う表現が誤解される可能性があると思いましたので、追加させて頂きます。

『自力無効の世界』と云う表現は、勿論、「この世は自力が無効の世界だから、何かを成し遂げようとして努力しても無駄だ」と云うことではございません。何かを成し遂げたいと思った時、努力は必要です。しかし自力だけで 何事も無し得ないと云うことであります。希望の学校に入学したいと思えばそれなりの受験勉強に励まねばなりません。同じ入学試験を受ける人達よりも勉強しなければ決して合格出来ません。でも、自分の努力、力だけでは合格 出来ません。母親がちゃんと食事の用意をしてくれて健康を保つ為に心を配ってくれた上で始めて精一杯の勉強が出来るわけでありますし、米沢先生がよく仰っているのですが、呼吸が出来ているのは自分の力ではないと・・・。 自分の力で呼吸しているなら、息を吸って吐いてと云う動作を常に意識して努力しないといけないけれど、私たちは眠っていても、何かの力で呼吸させて貰っているのだと・・・。そうして考えますと、希望の学校に入学する為には 無数の様々な人の存在のお蔭であり、自分の努力だけではないことは事実であり、真実であります。そう云う真実を知っていることが人生を依り深く味わえ、それこそ浄土に生きる喜びに生きていうちに回り逢うことになると云う ことではないかと思います。

今、菅首相は孤立感を深めているのではないかと思われますが、首相が決断すれば自分だけの力で何でも出来ると勘違いしているからかも知れません。菅さんが首相と言う地位にあるのは、小沢一郎の存在がなければ有り得なかった かも知れません。小沢氏だけでなく、多くの民主党議員の日頃の努力があって、民主党が衆議院で過半数を得られたからこそ現在の地位があると考えるべきで有りましょう。そうすれば、自分だけで物事を決めず、然るべき人の意 見に耳を傾けた上で決断するからこそ、皆の協力が得られ、結果としてリーダーシッフが発揮出来るのではないかと思います。

『自力無効の世界』とは、『他力に生かされている事に目覚めた世界』と言い換えることが出来ると思います。


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No.1113  2011.07.04
続―浄土とは?

一か月前に『浄土』を考察致しました。この一ヶ月の間にも考察を続けておりますが、これからも、『浄土』だけではなく、『信心』、『他力』、『本願』、『如来』などの親鸞仏法のキーワードを考察し続けることになると思っております。

一か月前のコラムで私は、『浄土』は実在する特定の場所では無く、人間が考え出した概念と申してもよい『寿(いのち)の世界』と申しました。肉体が亡くなり、死んで還る世界を『寿の世界』と云う考え方をしていましたが、少し考え方を 変えたいと思っています。

多くの一般の人々が浄土真宗の教えをイメージしているのは、死んだ後に地獄ではなく極楽浄土へ往けるように、阿弥陀さんに向かって念仏を称えてお願いするものだと云うことではないかと思います。ひょっとしたら、信者の中にもそのよう に思い込んでいる人も居られるかも知れません。それは親鸞聖人が説き遺したいとかんがえられていた念仏の教えとは方向が異なると私は思いますし、私たちが願う「この世で幸せになりたい」と云う想いは実現しないと思います。

このように有る意味で間違った受け取り方になりましたのは、親鸞聖人の教えを説く側(親鸞聖人のお弟子方、ご子孫を含む本願寺教団)に問題があったからだと思います。親鸞仏法を広めて教団の経済的安定を図りたい意思が働き、教えをか なり簡略化し、「念仏を称えて極楽浄土へ参りましょう!」と云う様な、今日で云う庶民をその気にさせるキャッチコピーを生み出し、親鸞聖人の念仏を安売りしてしまったところに問題があったと思います。また、お浄土が、死んで参るとこ ろだと思わせてしまう説き方や表現をしていたと云う取り返しのつかない部分もあります。

たとえば、親鸞聖人の教えを示す代表的な著述である歎異抄の中にもございます。第九章から下記に抜粋します。

『また、浄土へいそぎまひりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも煩悩の所為なり。久遠劫よりいままで流転せる苦悩の舊里(きゅり)はすてがたく、いまだむまれざる安養浄土 はこひしからずさふらふこと、まことに、よくよく煩悩の興盛にさふらうにこそ。なごりおしくおもへども、娑婆の縁つきて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまひるべきなり。いそぎ、まひりたきこころなきものを、ことにあはれみ たまふなり。これにつけてこそいよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定(けつじょう)と存じさふらへ。 』

これは親鸞聖人のお弟子の唯円が、「私は念仏を申しておりますが、躍り上がるほどの歓びが心の奥から湧いてまいりませんし、また速く浄土へ参りたいと言う心もありませんが、これはどうしたことでありましょうか?」と親鸞聖人にお尋 ねした時に親鸞聖人が答えられた内容ですが、この内容からだけでは、親鸞聖人ご自身も、お浄土は死んでから参るところだと考えられていたことになります。

平安時代から、平等院とか、この度世界遺産に登録された平泉の中尊寺にも、浄土を想像して造られた庭園等がありますように、死んで参る浄土を恋しがらせる試みが為されてもいます。今も仏教徒でもない一般の人のお葬式でも、多分「極楽 浄土へ生れ直して、ゆっくりとお休み下さい」と云うような雰囲気が流れていると思います。そしてお経はそれを演出する小道具になっています。

この間違った浄土の考え方を一掃し一変させることは至難の業だと思いますが、数百年掛かっても、親鸞聖人の真意を説き続ける責任が、親鸞仏法を学ぶ者には義務と責任があると私は思っております。

私は親鸞聖人の教えを故井上善右衛門先生や西川玄苔師等多く先生方に学びました。その先生方は親鸞仏法を体現されて居られた方々です。私はあのような信心の人になりたい、近付きたいと考えて参りました。今もそれは変わりませんが、親 鸞仏法の真髄を理論的に説き教えて下さっているのは故米沢秀雄先生です。勿論もう亡くなられていますから『米沢秀雄著作集』と云う著述を通してであります。

米沢先生の受け取られている『浄土』とは、何々世界と云う表現をとるならば、『真実の世界』と云うことになると私は思います。前々回のコラムで『如来(にょらい)とは?』で説明している『如(にょ)』ですね。

私たち人間が見て居る世界は、『抽象された世界』だと米沢先生は説明されています。『抽象(ちゅうしょう)』と云うと私は「ばやけた」とか「観念的な」と云う意味に捉えてしまいましたが、広辞苑で調べますと「事物または表象(心の表 れる外界対象の像)の在る側面を抽(ぬ)き離して把握する心的作用」と説明されていますので、私たちが捉えている世界は「ものごとの一部分しか見えて居ない世界」だと云うことになり、逆に『真実の世界』は、その反対の世界だと云うこ とであります。

考えて見ますと、私たちは私たちに具わっている知識・経験を含めた感覚力でしか物事(つまり事物や表象)を認識出来ませんが、それなのに、それが自分を取り囲んでいる世界だと信じ込んでいます。そしてそれは肉体を持ってしまった私た ちにはどうすることも出来ないのだと云うことであります。『真実の世界』は必ず在るけれども、私たちにはその『真実の世界』が見えないのだと云うことであります。

確かに、私が認識している世界と、妻が認識している世界は異なると感じることがあります。おそらく、私たち一人一人が認識している世界は共通している部分も多くあるのでしょうが、詳細に比較して行きますと食い違っている部分も必ずあります。 だから、この世では、政治の世界でも、国同士でも争いが絶えないのだとも言えるのではないでしょうか。

今日はこの位にしまして、次回『続々―浄土とは?』に続けます。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1112  2011.07.04
共業(ぐうごう)を考える

業(ごう)は仏教の考え方を表す言葉であります。業は梵語のkarman(カルマ)を漢訳した言葉だそうですが、その〝業(カルマ)〟は「行為、行動。言葉や心を含めて為した事全て」を意味します。そしてその業は後にその結果 (善因善果、悪因悪果)として現れると云うことになり、一般的には「宿命」に近い意味として使用されています。

私たち個人個人にはそれぞれの業がありますが、その業は『共業(ぐうごう)』と『不共業(ふぐうごう)』に分けて考えられます。個人個人の為した結果が現れるのを『不共業』で、これは世間一般的に受け入れられている『自 業自得(じごうじとく)』と云う捉え方でよいと思います。一方、『共業』は、個人単位ではなく、社会、国、世界全体、人類と云う個人を取り巻く大きな単位に於ける「業」であります。

私が今日のコラムで『共業』を捉えた訳は、昨夜のNHK教育番組『ETV特集―大江健三郎が問う核兵器と原発』を視聴し「日本の業」、「日本国民の業」を考えさせられたからです。そして、個人に悟りを求め歩む道(人 生)があると同様に、国にもまた人類にもその道(生まれてから死ぬまで)があるのだと気付かされたからであります。

番組は、1954年、ビキニ環礁(現マーシャル諸島共和国)でアメリカが水爆実験を行ない、近くにいた第五福竜丸が被爆した時の船員、大石又七氏(77歳)との対談が主なものでありましたが、大石氏の「この 国は何があっても誰も責任を取らないし、追及しない。太平洋戦争の戦争責任を誰も取っていないし、今回の東日本大震災で起きた原発事故に関しても、原発を国策として強力に推進した自民党の誰も(中曽根康弘の名前を出さ れていた)責任を取ろうとせず、民主党の菅首相降ろしに走っていることには怒りを感じる」と云う言葉には、氏が被爆後の人生で同じ乗組員を次々と失い自身も癌を患い今もなお被爆の後遺症に苦しまれているだけに説得力がある ものであり、私は日頃個人の業と向き合うことが多かっただけに、国の業と云うものを思わざるを得ませんでした。

大江氏も、人命よりも経済を大事にして歩みを進めて来たこの日本に言及されていましたが、私は仏法が個人に求める回心(えしん)は、国にも求めねばならないとあらためて思ったことでした。私たち日本人は、往々にして、お上 を敬い、お上の言うことは正しいとしてお任せしがちでありますが、明治維新以降、戦争に突き進んだり、経済成長一辺倒に進んだりした来し方を今だからこそ振り返り、国の生き方を考え直すべき時ではないかと思いました。でな ければ、私たち日本国民は同じ船に乗っていると云う共業により全員が共に沈没没落してゆくしかないのではないかと思います。

私は今思うのです。私が社会人になって就職した企業はあの水俣病を発症させた原因企業のチッソ株式会社であります。多分かなり早い時期に会社も国も、チッソの廃液に原因があると分かっていたと思われます。化学者ならそう云 う想像力は働いていたはずです。しかし、チッソも国も水俣病の原因である有機水銀を排出する工場の運転ストップに踏み切ったのは、昭和43年の4月(私が水俣工場に赴任した丁度その日)であり、水俣病が公になった昭和31 年から既に12年も経過していました。

何故それだけ遅れたのかと考えますと、その有機水銀を排出する工場が生産する『アセトアルデヒド』と云う化学品は、医薬品や他の工業用品の原料となる極めて重要な製品であり、チッソだけでなく、多くの化学会社が製造しており、チ ッソのその工場をストップすることは、日本の工業をストップさせるに等しいことだったからではないかと私は今推測しております(新潟の昭和電工の廃液で起きた第二水俣病も同じ原因です)。

水俣病の悲劇は国が「人命軽視・経済最優先」で判断を下した最初の例だと思いますが、その後公害や医薬品の副作用に依る病気は各地、各企業で起きましたし、今なお起きておりますが、全ては国の、と言うよりも政治家や役人たち の私利私欲と、経済を止めると云う勇気の無さが招いたものであることは間違いないと思います。
原発事故処理も同じ道を歩みつつあります。このまま国民が黙っていれば、経済最優先、そして企業が海外に出て行くことを怖れて原発は止められることはないでしょう。海外に安い電力を求めて工場を移すなら移して貰えばいいと思 います。電力15%カットを進める国と電力会社は、国難を乗り切る為と言いますが、原発を存続させる為だけのパフォーマンスでしかないと思います。

経済最優先から一人の命を大切にする人命最優先に心を切り替えると云う回心の時を日本が迎えていることに目覚めねばならないと思う次第であります。

人間の業を明確簡単に、『共業』と『不共業』に分けることは出来ません。両方が影響を与えつつ個人の『業』を生み出してゆくのだと思われます。私が10年前に会社自己破産の危機に直面したのは、世界全体が安い賃金を求めて、 生産拠点を後進国に移して行くと云う『共業』と、日本政府の不動産取引に関する規制の行き過ぎや金融政策の不味さから急激な円高に振れた経済環境等は『共業』の一部分であったと考察出来ますが、それらの経済環境の動きに敏感 で無かった私個人の経営者としての能力、私が脱サラ起業するに至った個人事情などは『不共業』だと思います。個人の能力や努力だけで決まるものではなく、世界と日本の様々な動きにも大きな影響を受けながら、私たちの『業』が日 々現れていると云うことだと思います。

仏教に人生を学ぶ者は『不共業』だけではなく『共業』にも思い及び、個人の回心と同時に国の回心にも心を向けていかねばならないと思います。

帰命尽十方無碍光如来ーなんまんだぶつ


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No.1111  2011.06.30
如来(にょらい)とは?

仏教では釈迦如来、大日如来、阿弥陀如来、薬師如来と『如来』と云う熟語が使われていますが、世間的には『如来』は「仏の尊称」と受け取られているのではないかと思います。広辞苑では、「真如の理を証得し、迷界に来て衆生を救うもの」 と説明されていますが、私が教えられて来た『如来』を以下に説明させて頂きます。

そもそも『如(にょ)』とは何かと云うところから考えたいと思います。『如』は広辞苑に「実体、本体、真相、真実、真如」と説明されていますが、平易な言葉に言い換えますと、「ありのまま、そのまま」と云うことであります。

私たち人間は、〝ありのまま、そのまま〟に見たり感じたり出来ないものだと仏法では考えます。私たち個人個人に学習・経験・体験した事から総合的にまとめられた先入観があります。『仏法』と云う言葉を聞いた時、私が頭に描く 仏法と、法話を聞いたことが無い人の描く仏法は全く異なります。卑近な例では、今世間から辞任を求められている菅首相に付いて、ある自民党の幹部議員は「権力の座に未練を持って、延命を図っている」と批判しますが、菅首相の 真意は誰にも分かりません。ひょっとしたら、批判する人自身が権力の座に憧れを持っているから、そう考えるのかも知れません。私は、「今はもう首相の座なんてそんなにいいものでは無いだろう。こんなに苛められては早く辞めた いはずではないか」と考えてしまいます。

昨年から問題になっている検察の不祥事も、真実を求めるはずの検事が自分の描く事件の背景に合致する間接的証拠ばかり集めたり、酷い場合は証拠を偽装したりするから生じたことでありましょう。

また、私の周りでも離婚が多く見受けられますが、アツアツの恋愛結婚しながら、最後は憎み合って別れる芸能人夫婦の姿を見ますと、相手の本当のところを見られない故に起こる不幸な姿ではないかと思います。いや、これは批判ではあ りません。私たち夫婦は今年満40年を迎えましたが、ここまで続いているのはたまたま決定的に我慢出来ない互いの欠陥に遭遇しなかったからだけだと私も妻も考えております。自分に好意を持ってくれる人に出遇えば、相性とタイ ミングに依っては、その相手を〝運命の人〟と思ってしまうことを私は否定出来ません。

見誤りの例を挙げましたが、『如』とは、「ありのまま、そのまま」と云うことであります。そして、『如来』とは、「如より来たっている、如より私たちに知らせている」と云うことであります。 仏法を説いたお釈迦様を釈迦如来と申しますのは、お釈迦様はありのまま、そのままの世界から生まれ出て私たちに真理を説いた方だと考えるからだと思います。

今回の東日本大震災を如来と考えるべきかも知れません。如より来た知らせと受け取る考え方もありましょう。如来を神様と同じに受け取っている方からすれば、多くの犠牲者、被災・避難者を思うと、不謹慎だと言われる方もござい ましょうが、私たちの周り、つまりこの世で私たちの眼の前に現れる現象も存在も全て、如来でないものは無いと言うのが、私が教えて頂いて来た仏法の考え方であります。その如来をそのままに感じさせないのは人間の妄想・妄念な のだと云うことであります。

私が今捉えている『如来』に付いて申し述べて参りましたが、大事なことは「私たちはありのまま、そのままには見れない」と云うことを常に心に言い聞かせておくことだと思います。信仰に関しましても、自分の信心に問題が無いか と常に疑いを持って歩み続けることが真実に沿って生きる生き方だと考えている次第であります。

帰命尽十方無碍光如来ーなんまんだぶつ


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