No.1140  2011.10.13
〝いのち旅〟:第3話(奇跡の惑星・地球-③)

これまで、想像を絶する宇宙の大きさと、その宇宙に存在する星の数もまた想像を絶する多さであることを学び、その大きな宇宙、無限とも言うべき星の中の一つである地球の親分とも言うべき太陽の圧倒的な存在感 (大きさと重さ、無尽蔵と思えるエネルギー)に驚きと畏敬の念を抱かざるを得ませんでした。

私たちの〝いのち〟は、太陽無くして生まれることも、存在し続けることも出来ないのでありますが、太陽には地球だけではなく、他に七つの惑星も太陽の周りを廻っています。でも、〝いのち〟はどうやら私たちの 地球だけにしか無いようです。私たちが感謝の念を込めて〝母なる大地〟とも呼ぶその地球の実態を先ずは数値で知りたいと思います。

4.地球ってどんな星?

地球が宇宙に生れたのはビッグバーンが起こって太陽系が生まれたと推測される約46億年前です。ただ、ビッグバンと同時に太陽とその8つの惑星が突然生まれたのではなく、先ずは、直径が100天文単位程(1 天文単位とは、約1億5千万kmとされる太陽と地球の距離の事)もある馬鹿でかい主として水素のガス雲が生じ(原始太陽と称せられている)、その後、その原始太陽は高速回転しつつ数千万年かけて太陽と8つの惑星に徐々に分かれていったと 言われています。

        地球の直径は、約1万3千キロメートル
        地球の重量は、6× 1024 キログラム
        公転半径は、約1億5千万キロメートル
        公転速度は、1秒間に3万メートル
     新幹線の最高速度が1秒間に80mですから、地球はおそらく目にも留まらぬ速さで太陽の周りを周回していると云うことです。
     そんな速さで1年間走ってやっと太陽を一周出来るのですね。
        自転速度は、赤道の位置で、1秒間に500m(日本の位置では1秒間400m)
        自転軸の傾きは、23度(この傾きがあるから、日本に四季があるのですね)
        大気圏の厚みは、大気圏と宇宙空間との境界と捉えると、高度80キロメートルから120キロメートル位とされています。
                私たちが乗る国際線ジェット機が高度約11キロメートルのところを飛んでいます。また、国際宇宙ステーションは、大気圏外とされる高度4百キロメートルで地球を周回しているそうです。
        地球の内部は、中から、コア、マントル、地殻の3層構造。
                (コア)
                地下3千キロメートルからは鉄とニッケルで出来ていて、温度が3000℃~6000℃で鉄とニッケルは融けて液体になっている部分が殆ど。
                (マントル)
                地下7~30キロメートルから下の柔らかい岩石で出来ている層。
                (地殻)
                海洋部分で地下7キロメートル、陸地部分で地下30キロメートルまでの玄武岩と花崗岩から出来ている層

太陽と地球の事を少々勉強して、私の〝いのち〟が秒速400メートルと云う高速回転しながら、太陽の周りを秒速3万メートルと云う超高速で周回しつつ、しかも天の川銀河の中を、秒速22万キロメートルで移動している事を知りました。 おそらく、その天の川銀河も、文字通り果てしない大宇宙空間を数百万メートルと云う超々高速度で突っ走っているに違い有りません。
私自身はそのスピード感を味わえないからこそ、ある意味でノンビリ落ち着いて日々の生活を送ることが出来ているのだと思います。しかし、私たちの〝いのち〟が宇宙空間に占める位置と動きを認識しておくことは、〝いのち〟の不思議さ、 尊さを自覚し、与えられた〝いのち〟を大切に生き切りたいと切望する動機【仏法的表現としては〝廻心(えしん)〟のキッカケ】になるのではないかと私は思うのです。

これから、いよいよ〝いのち〟そのものが地球だからこそ宿った無数の縁(条件)と、生命の進化に付いて勉強致します。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1139  2011.10.10
刹那に生きる

私は最近仏法が教えるところの人生のあり方(毎日毎日の生き方)は、〝確実に有る今の一瞬〟を自分が心からしたいこと、自分がして自分も他の人も〝いのち〟の輝きが実感出来ることをする事ではないかと思い始めていました。

そして今日の表題を実は『新刹那主義』にしようかと思っていました。『刹那主義』に〝新〟を付けようと思いましたのは、〝刹那主義〟と云う言葉には「その場その場を享楽的に生きる」と云うイメージが私には強かったからでありま す。しかし、『新刹那主義』にしましても、やはり読者に誤解を与え兼ねないと思いまして、『刹那に生きる』にした次第であります。

そこで、私はいつもの如く熟語本来の意味を知っておこうと広辞苑を引くことと致しました。今回は先ず『刹那主義』が私の思っている意味かどうかを確認しようとしました。そして、『刹那(せつな)』が「極めて短い時間=一瞬」、 の意味であることは納得でしたが、『刹那』が仏教から来た言葉であることを初めて知りました。そして更に『刹那主義』が「過去や将来を考えず、ただこの瞬間を充実すれば足りると云う考え方」だと説明されており、決して一般的な 受け取り方の「今さえ楽しめばそれで良い!」と云うような享楽的な刹那主義となっていないことも知りました。

そこで、インターネットで『刹那主義』を検索致しましたところ、【お釈迦様の教え『刹那主義』とは】がヒットしまして、二度びっくり致しまし て、不勉強を恥じねばならない羽目になりました。
これまで何回かお釈迦様の下記の言葉を経典から引用して参りましたが、それが〝刹那主義〟であるとは考えてもみませんでした。

        過ぎ去れるを追うことなかれ
        いまだ来らざるを念(おも)うことなかれ
        過去 そはすでに捨てられたり
        未来 そはいまだ到らざるなり
        ただ今日 まさになすべきことを 熱心になせ
        たれか明日 死のあることを知らんや
                                              (『中部経典』131「一夜賢者経」

そして、〝刹那主義〟が仏法の根本にある考え方であった事に我が意を得たりと少し嬉しく思った次第であります。そのように自問自答しているところに、アップル社の前CEOのジョブズ氏が亡くなったと云うニュースが飛び込んでき ました。彼は21世紀を生きる世界の人々の生活スタイルに多大な影響を与えました。デジタル情報機器であるimac、ipod、iphone、ipadが彼が遺した発明品であります。彼は56歳と云う若さでこの世を去ったので ありますが、彼はまさに刹那・刹那を生き〝いのち〟輝く人生を生き切った一人と言えるかも知れないなと思いました。彼のスピーチの中では下記のメッセージが有名であります。

• 人の人生に自分の時間を費やすことはありません。誰かが考えた結果に従って生きる必要もないのです。自分の内なる声が雑音に打ち消されないことです。そして、最も重要なことは自分自身の心と直感に素直に従い、勇気を持 って行動することです。心や直感というのは、君たちが本当に望んでいる姿を知っているのです。だから、それ以外のことは、全て二の次でも構わないのです。

• 私は17歳の時、こんな感じの言葉を本で読みました。「毎日を人生最後の日だと思って生きてみなさい。そうすればいつかあなたが正しいとわかるはずです。」これには強烈な印象を受けました。それから33年間毎朝私は鏡 に映る自分に問いかけてきました。「もし今日が自分の人生最後の日だとしたら今日やる予定のことは私は本当にやりたいことだろうか?」それに対する答えが「ノー」の日が何日も続くと私は「何かを変える必要がある」と自覚するわけ です。

彼はアメリカ曹洞宗の師家から仏法を学んだそうでありますが、メッセージにある『人の人生に自分の時間を費やすことはありません。誰かが考えた結果に従って生きる必要もないのです』は、禅門が説く『随所に主となる』から学んだ ことでありましょうし、〝自分の内なる声〟とは多分『本来の自己』の事だと思われます。彼は仏法を学ぶその中で、お釈迦様の刹那主義に啓発されたのかも知れないなとも思いました。

彼はたまたま時代に受ける偉業を成し遂げ、地位と名誉と財産を築いた一人でありますが、何も彼のように有名人になる事や金持ちになることが仏法の目指すところではありません。
市井(しせい)に生きる一庶民として、冒頭で申し上げたように、〝確実に有る今の一瞬〟を自分が心からしたいこと、自分がして自分も他の人も〝いのち〟の輝きが実感出来ることこそ、この世に人間として生まれた生まれ甲斐であり生き甲斐だ と思えることが、仏法の目指すところではないかとあらためて思いました。そして私自身の自分らしさは、一介の化学技術者として小さな発明品を開発することを生業としつつ、その化学知識を生かして仏法を学ぼうとする人々の何らか の参考になる仏法の取っ掛かりかヒントになるメッセ―ジを発信し続けることだと思い直したところでございます。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ

追記
昨夜、世辞雑感に『夫婦で「有難う」を言い合っていますか?』と云う一文を書いた時、私が言いたかった〝刹那に生きる〟と云うことは何も特別なことではなく、向き合っている今の瞬間を〝うわの空〟に 過ごしては〝いのち〟が勿体ないと云うことで、例えば、家族同士で日常生活の挨拶が自然にキチンと気持ちよく取り交わされることがその第一歩だと思い追記させて頂きました。


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No.1138  2011.10.06
〝いのち旅〟:第2話(奇跡の惑星・地球-②)【題名変更しました。】

第1話では、想像を絶する宇宙の大きさと、その宇宙に存在する星の数もまた想像を絶する多さであることを学びました。その大きな宇宙、無限とも言うべき星の中の一つである地球に私たちは現に今、生きているのです。 世界中には私と同じ人間が約60億人も居ますから、自分のこの〝いのち〟に大した意味は無い、尊いと言う程のことは無いと思いがちですが、地球と云う星に〝いのち〟が生まれ、今も存在し続けていること自体がとても 尊いですし、今、その〝いのち〟を実感している私が居ることが尊いのだと私は思っております。

その〝いのち〟は、太陽と地球の夫々が持つ特質と、その太陽と地球との微妙な位置関係が無ければ、生れ得なかったことは間違いないところであります。そこのところをこれから勉強し、地球が〝奇跡の惑星〟たる所以( ゆえん)を確認したいと思います。

3.太陽はどんな恒星?
太陽が宇宙に生れたのは、ビッグバーンが起こったと言われる46億年前です。太陽が無ければ地球もありませんし、〝いのち〟もありません。私も存在していませんし、宇宙も無かったとも言えるのではないかと思います。 全ての源である太陽は、文字通りにとてつもない大きく重たい存在です。さて地球の何倍の大きさと重さでしょうか?

      太陽の直径は、地球の109倍(約139万km)
            ・・・地球をパチンコ玉としますと、太陽の大きさは運動会で転がす大玉の大きさです。
      太陽の体積は、地球の130万倍
      太陽の重量は、地球の33万倍(1.98×10の30乗kg)
      太陽の表面温度は、6000K(ゼロKは、-273℃)
      コロナの温度は、100万K
      太陽の中心部の温度は、1500万K

私たちは鉄などの金属が熱で融けて液体になることは知っていますが、その鉄が2500Kと云う超高熱(地球上では造り出せません)で液体から気体になると云うことですから、太陽には個体部分が全く無く、全部がガス体 (気体)なのです。太陽は主として水素とヘリウムで出来ており、太陽の内部では水素原子核4個が核融合してヘリウムの原子核1個になり、その融合時に発するエネルギーで内部温度が高くなるのだそうです。

この太陽が属する太陽系の大きさは、太陽から最も離れた公転軌道を廻っている海王星までの距離が、太陽と地球の距離(1億5000万km)を1天文単位としますと、30天文単位だそうですし、更に太陽には不定形な軌 道を公転する彗星群があります。その彗星群は発見者の名前からオールトの雲と言われているそうですが、その雲までの距離は10万天文単位とも言われております。

それから、地球が太陽の周りを自転しながら公転していることは私たちは知っていますが、実は太陽も自転しながら天の川銀河の中を(太陽から銀河の中心までの距離は25,000から28,000光年ほど)公転しています。 自転(1回転)は地球時間で27日、公転は約2億2600万年で銀河系内を1周しているそうですが、その速度は秒速で220kmだそうです。そうしますと、地球は太陽の周りを秒速30kmで公転しながら、天の川銀河を太陽と 共に秒速220kmで動き回っていることになりますから、これまた〝知らぬが仏・・・〟、凄いことです。

太陽系の大きさだけで、まさに天文学的大きさですが、太陽が属する天の川銀河のなかで、太陽から最も近い恒星(ケンタウルス座アルファ星)までの距離が、27万天文単位だと言いますから、宇宙と云うものは人間の想像 力を超えた世界です。仏教に『不可称、不可説、不可思議(ふかしょう・ふかせつ、ふかしぎ)』と云う言葉がありますが、私たちが住む地球が、そして私たちの〝いのち〟そのものが『不可称、不可説、不可思議』である ことを忘れてはならないと云うことだと思います。

次回は、地球とはどんな星かを勉強致します。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ

追記
今回から『いのちの講座』と云うシリーズ名を『いのち旅』に変更させて頂きました。〝いのち〟の源から私の〝いのち〟までを訪ね歩くと云う意味を込めて考え直しました。 現在BSプレミアムで放映されている、火野正平さんが自転車で日本を訪ね歩く『こころ旅』と云う番組(火~金;午前7:45~7:55、午後19:00~19:30) から拝借した次第であります。


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No.1137  2011.10.03
日本人の誇り

藤原正彦氏の著書「日本人の誇り」を読み終わりました。
彼は1943年7月生まれで、私(1945年3月生まれ)よりも1学年上の方である同世代だからと云う訳では無いと思いますが、この著書で示されている彼の〝日本の有り方〟に関する提言は、私とドンピシャリと一致しており、 私は読み終えて我が意を得たりと云う思いにしばし浸りました。

そして、この沈没(没落?)しつつある日本を方向転換させ、誇り高き国柄に再生する為には藤原氏に一肌脱いで貰うしかない、そして、同じ考えを持っているに違いないジャーナリストの櫻井よしこ氏(彼女も1945年10月生ま れで私より1学年下)と共に独立国を目指す政党を立ち上げて欲しいとも思いました。そして私も何かで役に立ちたいと真剣に思っているところであります。

藤原氏の提言は、下記の3点です。

        1.戦勝国の復讐劇に過ぎない東京裁判の断固たる否定と、日本が1853年のペリー来航以来世界と戦った誇り高い百年戦争を国民はしっかり胸に刻み直すこと。
        2.アメリカに押し付けられた、日本弱体化のための憲法を破棄し、新たに、日本人の、日本人による日本人のための憲法を制定すること。
        3.自らの国を自らで守る事を決意して、実行すること。自らの力で自国を守れるだけの強力な軍事力を持った上でアメリカとの対等で強固な同盟を結び直すこと。

考えて見ますと、現在多くの政党がありますが、新しく自前の日本国憲法の制定と自国の軍隊を保有することを党是としている政党はありません。それは直ぐさまマスコミの餌食になって潰されかねない故に極めて勇気が要ることだか らだと思います。でも、私は今の日本には藤原氏の提言に賛成する国民が少なくとも10%前後は居ると思います。極最近の世論調査に支持政党が無いと云う国民が65%と言う統計がありますが、この中には勿論政治に全く関心が無 いと云う人々も居ると思いますが、日本の現状を憂い支持したい政党が本当に無いのだと言う人達も居るのではないかと思うのです(私は選挙権を得てからの40年間自民党候補者に投票し続けましたが、前回の総選挙では政権交代に 期待して民主党に投票してしまったのですが、今は支持政党無しです)。

軍隊を持つと言いますと、直ぐに戦争肯定、軍国主義と指差す自称平和主義者達が居ますが、それはアメリカ軍頼りの一見平和主義者であり、真の平和を希求する姿勢ではないと思っています。
日本は軍隊を持ち自国の意思で戦うことを憲法として認めている国々に囲まれています。それらの国々と陸地上での国境を接して居ませんが海上に於ける国境問題が頻発しているのです。軍事力を背景にして国益を主張するこれら国々 と外交交渉をするには、最悪の場合を想定してイザと云う時に領土・領海を守る力を持っておくことが抑止力になり、戦争を引き起こすことを避けることが出来るのです。
それは、イラク戦争にその不幸が現れています。イラクは核兵器を持っていなかったから、アメリカ主導の多国籍軍に攻め込まれました。そして逆に北朝鮮は、核保有国だから容易に攻め込まれず政権安泰と云う状況に現れているので はないかと思います。

藤原氏は、日本人が誇るべき価値観を次のように述べられています。

日本文明を特徴づける価値観は、欧米人が自由とか個人を最も大事なものと考えるのに対し、日本人は秩序とかの精神を上位におくことです。日本人は中世の頃から自由は身勝手と見なしてきましたし、個人を尊重すると全体の秩序や 平和が失われることを知っていました。自分のためより公のために尽くすことの方が美しいと思っていました。従って個人がいつも競い合い激しく自己主張し、少しでも多くの金を得ようとする欧米人や中国人のような生き方は美しく ない生き方であり、そんな社会より、人々が徳を求めつつ穏やかな心で生きる平等な社会の方が美しいと考えて来ました。
日本人の築いた文明は、個より公、金より徳、競争より和、主張するより察する、惻隠や「もののあはれ」等を美しいと感ずる文明であり、「貧しくともみな幸せそう」という、古今未曾有の社会を作った文明なのです。

藤原氏の日本の価値観・文明は、多分、鈴木大拙師の主張された『日本的霊性』そのものだと私は考えております。古来から自然を神と捉えた日本民族が飛鳥時代に仏教を取り込み、鎌倉時代になって、道元禅師や親鸞聖人が日本独特 の仏教に仕立て上げました。そして中国に根付かなかった大乗仏教が鎌倉時代に花開いた日本の文明は、その後海外の文明と混じり合わずに成熟した江戸時代に熟成され根付いたのだと思いますが、幕末から欧米ロシアの帝国主義に翻 弄され始め、最終的にはアメリカに原爆を投下されて、誇るべき日本文明は風前の灯状態になっているのだと思います。

私は人類がもし生き続けるとしたら、世界の七大文明の一つに数えられている日本文明だけが、その和の精神がそれを為し得るのだから、この日本文明を失う訳にはいかないと云う白井成允先生(私の尊敬する井上善右衛門先生のお師 匠)の遺された言葉を根拠に、自信を持って藤原氏の提言にあらためまして賛意を表する次第であります。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1136  2011.09.29
〝いのち旅〟:第1話(奇跡の惑星・地球-①)

人命が損なわれる事件や事故・災害が起こると識者は一斉に〝命の尊さ〟を説きます。小学校の先生たちも児童に「命は尊いから大事にしましょう」と教えます。しかし、「何故命は尊いのか?」に言及する識者にも先生にも出遭ったことは有りません。
難しい問題ではありますが、私は無相庵コラム読者の方々と一緒に答えを求め考えて参りたいと思います。

さて、〝いのち〟が宇宙の中で地球だけに存在するのかどうかは分かりませんが、この地球と云う星に現に生きていることは確かであります。そして、その〝いのち〟が地球に生れていることは、自己を認識出来る頭脳を持つ人間が地球上に生れたからこそ 分かったことでありまして、人類が生まれなければ宇宙の存在すら分からなかったことになります。このようなこと自体がすでに奇跡だと思いますが、先ずは地球と云う星が如何に奇跡的存在であるかを勉強してみたいと思います。数字が苦手と言われる方もいら っしゃると思いますので、ゆっくりと進めて参ります。

1.宇宙に星は幾つ有る?
宇宙に〝いのち〟が宿る星は「万と在る」と予測する学者もいますが、私はむしろ宇宙に唯一存在する奇跡の惑星だと思っております。

ご存じのように、地球は太陽と云う恒星(自ら光を放つ)の周りを廻る九つの惑星の中の一つでありますが、太陽自身、数百億から数千億の恒星の集合体であると言われている〝天の川銀河〟に属しています。そして、〝天の川銀河〟のような銀河は宇宙全体に、 およそ1000億個は存在すると言われていますから、一つの銀河に平均値として1000億の恒星があると致しますと、太陽のような恒星は、宇宙全体では1000億×1000億=10の22乗個もあることになります。
数の単位は、「十」「百」「千」「万」「億」「兆」「京(けい)」「垓(がい)」・・・・と続きますので、太陽のような恒星は、全宇宙に100垓個(ひゃくがいこ)在ると云うことになります。

しかし、地球は、その恒星の一つである太陽の惑星ですから、地球のような惑星の数と云うことになりますと、一つの恒星に平均的に何個の惑星があると見るかによって計算値は異なりますが、いわゆる天文学的個数になりましょう(百個以上の惑星を持っ ている恒星もありますし、また、そのまた惑星が地球のように月と云う惑星を持っていることもあります)。

2.宇宙の大きさ
宇宙の大きさは、人間が制作した望遠鏡で捉えられた地球から最も遠い天体の存在が分かり、その天体との距離が計算出来、光年と云う距離の単位で推測されますが、現時点で最も遠い天体は137億光年先にあると言われ ているようであります。
1光年は、光が1年間に進む距離であります。覚えておられると思いますが、光は1秒間に30万キロメートル進み、この距離を私たちが想像出来る喩えとして、「光は1秒間に地球を7周半廻る」と習われたのではないでしょうか?
地球からお月さんまで、光はたった1秒そこそこで到達致しますから、宇宙の大きさ(宇宙の端から端までの距離を450億光年とも推測している天文学者も居るそうであります)が、もう想像を絶する距離だと云うことが分かります。

今回は、私たちが住む地球が宇宙に存在する天文学的無数の星の中の一つだと云うことを勉強しました。次回は、太陽と地球の関係を勉強したいと思います。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1135  2011.09.26
国にも〝いのち〟が有り、自我が有る

人間個人の〝いのち〟を考える『いのちの講座』を開講するにあたって、今はその道筋を考えているところでありますが、藤原正彦氏の近著『日本の誇り』を読んでいて、「国にも〝いのち〟が有り、自我も有る。そして悟りも有る」と、ふと思いました。

自分のいのちを愛せないのが仏法の説く〝迷い〟でもあると思うのですが、国民の殆どが愛国心を失った国家は、目標を失い、迷い、漂流し続け、やがて朽ち果てることになるのではないか、と、藤原氏の嘆きに共感しております。「もし戦争が起こったら、 国のために戦うか」と云う18歳以上の男女への質問に「ハイ」と答えたのは、日本が図抜けて最低の15%。韓国は74%、中国は90%と云う世界価値観調査のデーターがあるらしいのです。なんだか分かるような気がしました。

藤原氏は、「世界中が日本のように戦う意思を失ったら、世界平和が達成されるのだが、残念ながら、日本はそのはるか前に国を失うであろう」と言われています。そして「占領国アメリカの深謀遠慮(二度と立ち上がらないように様々な施策と 憲法を作り与えたこと)に依って誇りを失わされた日本人が、国を救うために命を投げ出すはずがない」と考察されています。

国にも命が有り、自我が有ると思うのですが、勿論、それは、国民一人ひとりの自我(自分さえよければ良いと云うエゴ)を寄せ集めたのが企業のエゴになり、国を運営する政治家達と役人達のエゴになって、最終的に国家のエゴになるのだと思います。

日本はまさにその状況に在り、本来企業が担うべき使命である雇用責任を放棄し、大企業は会社と経営幹部が生き伸びることだけを考えて海外に雇用を求めているのがここ20年の日本であります。
そして、為す術なくそれを容認して来たのが政治家達であり役人達であります。高額の年金や天下り先さえ確保出来て自分達の老後の生活さえ安泰ならば国民の生活はどうなってもいいのだと云う政治家や役人達に引っ張られているのが、この日本国では ないかと思わざるを得ません。そして、私たち国民もそんな国家の深刻な状況には一切関心を持たず(関心があるのは精々マスコミがこぞって報道する政変劇位か・・・)、「自分さえ何とかなればいいのだ」と毎日の生活に忙殺され続けているだけでは ないかと思います。
日本国漂流の大本の因は、国民一人ひとりの価値観、つまり「自分さえ良ければいい」と云う自我にあることは間違いないと思いますが、さて何処から手を付ければいいのでしょうか・・・。

藤原氏は著書の前半に大いに嘆かれておられますが、愚痴やただ単なる鬱憤晴らしに終わらせない為にどのような提言をされるのか、著書の後半部分を楽しみにしているところでありますが、私は個人の場合と同じく、仏法が説く「本来の自己を求める」こ とに尽きるのではないかと考えております。つまり「自分とは何か?」「自分らしさとは何か?」と云う自問自答をしなければならないと思いますが、冷静な歴史観を持たれている藤原氏も恐らく同じ見解を述べられるのではないかと推察しております。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1134  2011.09.22
人間になるための〝いのちの講座〟―開講にあたって

私は今年の3月に66歳になりました。私が生まれた年(1945年)のゼロ歳児の平均寿命が50歳位でしたので随分長生きしていることになりますが、さらに長生きしようと殆ど毎日近隣をウォーキングしております。 主に舗装された歩道を歩くのですが、最近、その歩道の路肩のコンクリートと歩道のアスファルトの狭いジョイント裂け目に顔を出している小さな雑草に目がとまりました。

「こんなところにでも雑草は生えるんだ」と思い、ある法話を思い出しました。「花は、人に褒められようと思って咲いているわけではない。自分に与えられた命をただ淡々と生きているだけだ」と云う言葉です。その名 も知らぬ雑草も、生える場所を選ばず、水も十分に吸えないコンクリートの裂け目と云う窮屈な場所で、文句も言わずに、本来の命そのままに生きているのだと思ったのであります。

それに引き換え人間は、与えられた場所に文句を言い、与えられた役割に満足せず、たまたま隣り合った仲間が気に食わないと不平不満を言っているだけで、生れた本分・本性に気付かないまま朽ちて行っているのが人間 ではないかと。否、むしろ大脳と云う考える力を与えられた人間に生れながら、その人間にならないまま朽ちていっているのが、私たちの現実ではないかと、雑草の姿に教えられたような気がしました。

それに、その路端に生えている雑草と私は同じ年齢だとも思いましたし、同じ命の仲間だとも思いました。何故かと言えば、地球に生命が誕生した時(30億年前とも言われています)まで遡れば同じ生命個体に行き着く はずだからです(現代の生物学では、生命は宇宙から飛来して来たかも知れないと云う説もありますが)。それに、その路端に生えている雑草の学術名は知りませんが、その雑草が生えている環境は、同じ名前の仲間たち の環境とは微妙に異なり、その雑草唯一固有のものでありますから、同じ名前の雑草たちとは外観が似ていてもオンリーワンの命を生きているのだと気付かされました。

そして、私は雑草とおなじように多数の仲間たちの中で生きているけれども、「あのイチロー選手の様に輝いているか?あの演歌の上手い氷川きよしや坂本冬美のように生き生きとしているか?ノーベル化学賞を貰った人 達のように自信に満ちて仕事をしているか?親鸞聖人のように、後世の人々の道標になるような生き方をしているのか?」・・・と、自問自答してみました。そして、「あの人たちはたまたまマスコミが注目しただけで、 きっと、たまたま自分固有の命に出遇うことが出来たから嬉々として命を燃やしているのだろう。彼らだけでなく、世間には沢山、自分の本分を見付けて命を燃やしている人が居るのだろう。親鸞聖人は生きている時だけ ではなく、亡くなってからも燦然と輝いているではないか・・・。」と考えたわけであります。

そして、私のオンリーワンを考えました。私は何千何万何億万人の先祖から様々な遺伝子を受け継いでいるはずだと思いました。そして、育ってきた環境も考えました。そして、私が行き着いた私のオンリーワン〝いのち〟は、 化学技術者として経営者として親鸞仏法を学んだことだろうと考え、私なりの親鸞仏法を伝えて、この世に生まれた全ての人が自分の人間としてのオンリーワンの命に気付き、生まれ甲斐を持って生きて行く手助けが出来 ればと思い、今回、人間になるための〝いのちの講座〟を開講しようと思った次第であります。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1133  2011.09.19
これからの人類の進化と浄土の建立

昨夜のNHKテレビで、『宇宙の渚(なぎさ)に立つ』と云う番組がありました。宇宙ステーションから高感度カメラで宇宙と地球の界面(これを〝渚〟と洒落ている)で起こる現象をテレビ生中継で映し出すと云う世界初の試みでありました。
オーロラ、スプライト(雷の稲妻が宇宙に向けて放電する現象)そして流星等の自然現象や、月が地平線に沈む瞬間や、夜の陸地に点在する生活の灯り、海上のイカ釣り船の灯り、昼間の陸地に覗ける広大なサハラ砂漠、 国境境界線の無い地球の姿を大気圏の上から映し出して見せてくれた世界は、私たちの人生観・宇宙観を変えさせてくれる刺激的・神秘的なものでありました。

刺激的だっただけに今朝目が覚めてから、私の頭の中には色々な思いや考えが浮かんでは消えていく状態でした。その中で、知能が発達して地球上に生れた現在の人類だからこそ為し得た快挙に拍手喝采する自分と、 その人類が今なお戦争や内紛で殺し合っている愚かさや、財政赤字に苦しむ先進国家、国民の安心安全を第一にしなければならない政治が政党間の争いや党内の亀裂で漂流し続ける日本の状況を思う自分に気付きまし た。

そして、地球上の生物は30憶年をかけて進化してきて、約3千万年前に現出した霊長類が現在の人類にまで進化して来たのであろうが、今の人類(ホモサピエンス)が進化の最終到達点ではなく、これからも進化し 続けるに違いないと思いました。そして、その進化はどう云う進化なのたろうかと思った時に、仏法の説く浄土を思い付きました。

現在の人類(ホモサピエンス)は自ら持つ自我・煩悩を満たす為に、与えられた知能を使って来て、今、その文化は宇宙空間にまで活動の範囲を伸ばしたのでありますが、その自我・煩悩が、人間が人間を殺す戦争や 内紛、そして貧富と云う核差社会を生み出しており、仏法ではこのような世界を、穢土(えど;心が汚れた世界)とか娑婆(しゃば;苦しみの世界)と称しているのではないかと・・・。これから進化があるとすれば 、今の人類ホモサピエンスの知能がコペルニクス的方向転換をし、ヒトは原人(ホモ・ハビリス)⇒旧人⇒新人と200万年位かけて進化して来ましたが、今度は更に数百万年を経て、穢土の反対である浄土建立を果 たす人類(ホモ・?)になるのではないかと考えるに至りました。

そして、そのキッカケは苦しみを無くす原因である煩悩を滅する八正道を説いた釈尊の誕生であったと云うことになりましょうが、私はその釈尊の教えを進化させた大乗仏教の祖師方の中でも、煩悩を断ぜずして悟り を開く道を示された親鸞聖人の仏法の更なる進化が、この地球を浄土たらしめるのではないかと我田引水している次第であります。

私の生まれ甲斐は親鸞仏法を後代の人類に伝え残すことなんだと思い至り、すっきりとしたところであります。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1132  2011.09.15
命の尊さ

お釈迦様が「今を大事にしよう」と下記の言葉を遺されていることは、この無相庵コラムでは何回もご紹介して参りました。

        過ぎ去れるを追うことなかれ
        いまだ来らざるを念(おも)うことなかれ
        過去 そはすでに捨てられたり
        未来 そはいまだ到らざるなり
        ただ今日 まさになすべきことを 熱心になせ
        たれか明日 死のあることを知らんや
                                              (『中部経典』131「一夜賢者経」

勿論、人間は色々と将来の事を考えて、今何をすべきかを考えて今日の行動を決めていることは否定出来ません。お釈迦様も「将来の事は一切考えてはならない」と仰られたのではなく、「将来どのような結果になるかに心を煩わさず、 現在只今は将来の為にやるべき事を熱心にやろう」と教えておられたのだと思います。

過去のことに関しましても、「過去の失敗や被った災難や事故を受けたことを一切考える必要は無い」とは仰ってはいないと思います。再び同じ失敗を繰り返さないようにその原因を把握し再発防止に努力することを否定 された訳ではなく、「取り返しのつかない過去の失敗を悔やんで、大切な今生かされている命を無駄にしてはならない」と云うことを説かれたのだと思います。

上述したことをどなたもその通りだと納得して頂けると思いますが、なかなかそうはなりません。過去を悔やみ、未来を不安に思って、現在を取り逃がしているのが、私たちの日常の精神生活の実態ではないかと思います。それがそのま ま私自身のことでありますので、「では何故お釈迦様の教え通りにならないのだろうか?」と考察して参りました。
私たちの人生は過去・現在・未来と続いているものですが、過去はとても長い時間ですし未来は有るか無いか私たちには分かりません。そして現在は確実に有るものの、ただしそれは一瞬です。そしてその一瞬一瞬が未来だった時を過去 に加算されていくだけです。従って一瞬一瞬がつまらない時だとしますと、過去も未来も全てはつまらないものになってしまうことになりましょう。そうしますと現在を大切にしなければ、命が終わる時もし過去を振り返る瞬間 があるとすれば、その人生はまことに儚(はかな)いものだったと後悔することになってしまいます。

そのようなことにならない為には、この今生かされている命の尊さを本当に自覚する必要があるのだと思います。しかしそうは思いますが私たちは生れてから長い時間を掛けて家庭教育・学校教育を受けますが、私たちの殆どは命に関する本格的 な教育を受けたことは有りません。今の学校教育に「命の尊さ」と云う言葉は存在しますが、「命って何なのか?、尊いってどう云うことなのか?、命は何故尊いのか?」に答えられる先生は果たしてどれ位居られるのでしょうか?また、教育を 預かる元締めの文部科学省や政治家にどれ位居られるでしょうか?私は甚だ疑問に思っております。

今の教育も私たちが受けて来たこれまでの(かなり昔にまで遡っての)教育も、生きていく上で必要な技能と知識中心であります。確かに読み書きそろばんは生きていく上で大切ではありますが、それは飽くまでも我欲(自己愛)を満足させる為 の手段を教える事が目的の教育であります。意義のある人生を送る為に一番大切なのは『命の尊さ』を教えることではないかと思います。もしその教育を受けていたら、あの日本一の出世頭と言われる太閤秀吉が『露と落ち露と消えにし我が身か な 浪速のことは夢のまた夢』と云う人生を儚む後悔の句を遺さずとも良かったのではないかと思います。

私も含めまして、私たちが幼い時からしっかりと『命の尊さ』を家庭でも学校でも学んでおれば人生は一変するのではないかと思います。私は私自身の反省を込めまして、仏法を中心として学んだ『命の尊さ』を一般に伝える一助として、 先ずは中学生を対象にした〝命を学ぶコーナー〟を無相庵ホームページに設けたいと考えているところであります。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1131  2011.09.12
本当に依るべき究極の依り所を根拠として生きよう

昨日の9月11日、東日本大震災から半年を迎えました。この日はまた偶然にもあのアメリカの同時多発テロから10年を迎えた日でもありましたので、犠牲者を追悼する式典がアメリカでも日本でも各地で催されました。

今朝のテレビでは、東日本大震災の津波で、家も両親も祖母も、父親が経営していた板金工場、すべてを失った兄弟(18歳と15歳)が仮設住宅で暮らしている今をレポートしていました。専門学校に通う兄が弟の為に食 事を作る様子が映し出されていましたが、激変した状況を受け入れて踏ん張っている姿を見て、何とも言えない気持ちになりました。「受け容れたくないが、生きている限りはただこうするしか無い」と云う覚悟みたいな雰 囲気が、仮設の台所に漂っているように感じました。

この兄弟と同じ目、或いはそれ以上の辛い目に遇っている方々も居られるに違いありませんが、それは私たちに無関係な事ではありません。誰の身にも考えもしなかった事態が起こり得るのが人生であります。
私も、上述の兄弟程ではありませんが、これも丁度10年前の2001年8月30日のコラム『天命を信じて人事を尽くす』に書き残しておりますが、会社 の倒産と自己破産を目の前にした日がありました。

その時は、やはり、「生きている限りは、一日一日をこなしてゆくしかない!」と云う心境ではなかったかと思いますが、この無相庵コラムを続けながら仏法を学びながら10年経った今、同じく「生きている限りは、一日一 日をこなしてゆくしかない!」と云うことには変わりはありませんが、10年前には明確では無かったと思われる親鸞聖人のおっしゃった『畢竟依(ひっきょうえ)に帰命せよ』の畢竟依がおぼろげながら見えてきたような気 がしております。

『畢竟依(ひっきょうえ)』とは、表題にあります「究極の依り所」のことであります。
浄土真宗系の大谷大学のホームページではその究極の依り所を、『いかなる状況でも、どのようなことが起こっても、揺らぐことのない、究極的な依り所とは一体何なのでしょうか。それは阿弥陀仏であると親鸞は示していま す。阿弥陀仏とは、すべてのものは変化して止まないということを徹底して照らし出し、その上で、すべての命あるものが一歩一歩確かに歩んでいける道を、いつも呼びかけ続けている仏です。その阿弥陀仏のはたらきだけは 、状況がどのように変化していこうとも微動だにしません。むしろ変化していく状況のなかで、ますますその確かさを証明していくものです。このような依り所が明らかになるならば、状況が変化するなかでいたずらに嘆くと いうこともないのでしょう。
刻々と変化していく現実の中で、どのように生活環境が変わろうとも、また自分自身がどのようになっていこうとも、そのことの真っ直中( ただなか)にいつも変わらずに人間に呼びかけているはた らきが阿弥陀仏なのです。そのはたらきに出遇(であ)った親鸞は、阿弥陀仏を自己存在が依るべき究極の根拠として生きていったのです。』と説明されています。端的には「畢竟依は阿弥陀仏である」と説明されていますが、 一般の方にはなかなかピンと来る説明ではなく理解出来ないとも思います。

私の畢竟依は、「今この瞬間に在る私の命の真実・実体・大切さに気付かされた事実そのもの」だと思います。違う言い方を致しますと、「親鸞聖人の教えに出遇うことを通して、お釈迦様の仏法に出遇った自分そのもの」だ と言ってよいと思います。それを『阿弥陀仏』とも言い、『南無阿弥陀仏』とも言うのではないでしょうか。

私は、これからも仏法が教えてくれる真理を畢竟依にして生きていきたいと思っています。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ

追記
今日のコラムは、極最近拝聴した『御いのちを仰いで』と云う法話(講師は仁愛女子短期大学前学園長の禿了滉師;You Tubeで視聴出来 ます)の中で、東日本大震災に纏わっ て使われていた『畢竟依』をテーマとさせて頂きました。

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