No.1210  2012.07.02
究極のマインドコントロール

私たちは人間として生れて来た故に自分の『人生の意味や生まれ甲斐、生き甲斐』を考える。
犬や猫に生れて来ていたとしたらそんなことは考えるなんてことは無かったはずである。そして、そんな事を考えるのもこの世に生れてから早い人で小学生になってから、遅い人でも高校生にもなれば少しは考えるものではなかろうか。 中には考えることは有っても面倒臭くて、犬や猫と殆ど同じように日々惰性で過ごしてしまう人々もかなり居るのであろう。

そして、日々の生活に追われながらも充実感を得られず何とかして『自分の人生の意味や生まれ甲斐、生き甲斐』の答えを求めようとする人々も、その明確な答えを一生見付けられないまま終わるのが殆どと言っていいかも知れない。斯 く言う私が正直なところ、「これだ!」と云う答えは未だ得られていないのである(勿論、仏法を学んでいる中に答えがあると確信はしているが・・・)。

『カルトを考える』と云うコラム連載を終えた後も頭ではなお色々と考え続けているのであるが、〝カルト〟から連想する〝マインドコントロール〟に付いて考えている時に、ふと思い付いたのである。
それは、「マインドコントロールと云うものが自分で罹っていることが分からないと云われている事からすると、私自身が何かのマインドコントロールに罹っているのに気が付いていないかも知れないことである。そして、『自分の人生 の意味や生まれ甲斐、生き甲斐』の答えが見付けられないのは、実はそのマインドコントロールの所為ではないか?」と云うことである。

実はそのマインドコントロールの正体に私は直ぐに気付いた。それは私が生まれてから小学生、中学生と成長する間に母親を中心とした家庭や家族、そして当時の社会から定常的に受けた教育と言い換えてもよい強烈なマインドコントロ ールである。そのマインドコントロールは端的に言うと『人よりも幸せになるには出世してお金持ちになりなさい』と云うものである。
当時の大人達の話し言葉に言い換えるならば、「大きくなったら社会に役立つ人になりなさい。社会の役に立つ人になったらお金持ちになれて他人よりも幸せな生活が出来るからね。でもその為には友達たちよりも勉強して有名な大学に進 み、一流企業に就職して経営者になるか、世の中から先生として尊敬される政治家やお医者さんになりなさい。それとも大学でもっともっと勉強して博士になりなさい」と直接間接に言われ続けたのではないかと思う。

今にして考えると、それらの言葉は仏法が典型的な煩悩として本当の幸せには直結し得ないと考える『財産』と『社会的地位』を追い求めよと云う教育指導であったが、それは教育する側の大人達も気付かない中のマインドコントロール ではないかと思うのである。

そしてこれは私が育った日本だけの問題ではなく、先進国から後進国へと引き継がれて来て今も尚、日本社会はもとより世界中で行われている幼児期~少年期に行われている家庭教育及び社会教育であり、その実は人間の本来あるべき進 化を阻害している『究極のマインドコントロール』ではないかと思うのである。

つまり、このマインドコントロールの所為で人類が未だに幸せから程遠い状況にあるのではないかと思うのである。それはそうであろう、幼い時から、相手に思いやりを持つことよりも競争を強いられ、お金が唯一の価値観である事を頭 に刷り込まれて勝ち上がった政治家や経済人がリードする日本も世界も平和に向かうはずがないではないかと思うのである。そして、このマインドコントロールから人類が解かれる鍵は釈尊が説き親鸞が考え続けた〝いのち〟の実体にあ るのではないかと考え始めたところである。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1209  2012.06.28
親鸞の信仰

過去3回のコラム『カルトを考える』で〝信仰宗教〟と云う造語を使用し信仰を否定していると思われたのではないかと思いますが、そうではございません。その信仰を親鸞の言葉を借りて申し上げます と『罪福信』と云うことになります。

罪福信とは、自分の力では願いが叶わないから、神、仏の力を借りて、自分の思いを遂げようと云う信仰の事です。「これは自我の満足を求めるだけで、たとえば、商売繁盛、商売繁盛と、自分の同業者 を叩き潰して、自分の商売だけ伸びようという願いで、お稲荷さんを拝んでいるんだったら、これは、つまり、神、仏を拝んでいるようだけれども、実は自分の欲望を拝んでいるのではないか」と米沢秀 雄先生は仰っています。

さらに、「大体、人間の力というものが分かって、人間、自分の力だけではとても叶わないから、神仏に加勢して貰って、自分の欲望、自我の満足を叶えさせよう、というのが、迷信というものでないか と思います。受験期になると神社が繁盛するというのも、まぁ、そういうことでしょう。」と仰っています。罪福信は迷信、つまり迷い間違った信仰と云うことであります。

殆どの人の信仰はこの罪福信ではないかと思われます。私自身の信仰心も皮を剥いで行きますとその罪福信が顔を覗かせます。昔、西川玄苔老師が九死に一生を得る大交通事故に遭われた後のご法話 で、「仏教の信心を求めて坐禅をしている自分は交通事故には遭わないと無意識の中に思っていたようだけれども・・・」と述懐されていましたが、ここが親鸞の信仰の入り口ではないかと思われます。

私たちは肉体を持っており、肉体を持っている限り自分中心の考え方、我が身が一番かわいいと云う心を捨て切るということは不可能に近いのです。こう云うことを見透したところから親鸞の信仰が始ま るのだと思います。つまり、自分に取って都合の良いことが起こって欲しいと云う願いから生じる『罪福信』を持つことを断ち切ることはとても難しいと云うのが、親鸞の立場だと思います(勿論、それ で良し、仕方がないと諦めてしまうことでは有りません・・・)。

親鸞は自己中心的に考える自我を完全には捨て切ることは出来ないとされ、晩年の85、6歳になられてからも、『悪性(あくしょう)さらにやめ難し 心は蛇蠍(じゃかつ)の如くなり』、つまり、自 分は蛇や蠍(さそり)のような心からどうしても抜け切れない、自分が一番かわいいと云う心から抜け切れないと悲しみを述べておられるのですが、悲しみと言いましても、親鸞の悲しみは私たちの悲し みとは異なります。私たちの悲しみは自分の思い通りにならない悲しみですが、親鸞は自分を悲しんでいるのです。悪性さらに止め難い自分を悲しんでいるのです。

ではその親鸞の信仰の救いとは一体何処にあるのかと申しますと、悪性止め難いどうしようもない自分が、それでも生かされている、そんな自分を先生と呼んでくれる者がある、夫と、そしてお父さんと 呼んでくれる者が居る。そして三度のご飯にも恵まれている。なんと云う恩恵を与えてもらっているのか・・・・と云う真実の自分の姿、つまり真実の自己に目覚めるところに親鸞の確信、信が生まれる のだと思います。
阿弥陀仏を拝むのが親鸞の信仰ではありません。「なむあみだぶつ」と毎日称え続けることが親鸞仏法の要ではありません。阿弥陀仏を拝まざるを得なくなった自己に目覚めることこそが親鸞仏法であり 、それこそが真実の宗教の信仰の姿だと・・・。

私は米沢秀雄先生から真実の信仰心を学びました。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ

追伸:
米沢秀雄著作集(全8巻)が漸く揃いました。日にちもお金も随分掛かりましたが、有難いことです。アマゾンで中古本が出品されていますが、かなり高価です。
一度読んで見たいと思われましたら、お名前、ご住所、現在のお仕事、無相庵の読者歴等を添えて、これまで法話コーナーに掲載した米沢先生のお話に対するご感想も合わせてご一報下さい。


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No.1208  2012.06.25
カルトを考えるー完

仏教はお釈迦様(紀元前463年~紀元前383年)が亡くなられてから500年後に大乗仏教と上座部仏教に分かれたと言われていますが、 その大乗仏教に対して大乗非仏説論と云うものもあります。それは大乗仏教と云うものは実はお釈迦様が直接説かれた教えでは無いと云う歴史論であります。

ただ、口伝えにしていた教えを文字化したものが大乗仏教経典ですから、お釈迦様が亡くなられて500年も経過して作成された経典と云うことになりますと、 お釈迦様が説かれたそのままと云うことは有り得ないと私は思っています。
キリスト教、イスラム教もそうですが、宗教は教祖が亡くなりますと、宗教も多くの人の集まりでありますから、新しい教祖が旗を上げて多くのグループに分かれていくものであります。 仏教も同じ道を辿ったものと思われます。そう云う分派現象が今も続いており、現代のカルトも生まれたと云うことだろうと思いますし、これからも次々と生まれて来るものと思います。 これを止めることは信教の自由を制限する厳しい法律を制定することでもしない限り難しいでしょう。

私がこの『カルトを考える』シリーズで最後に申し上げたいのは、既に多くの宗教が存在する現代社会で宗教に興味を持った場合にはどうしてもどこかの教団に属してしまう事になり易 い状況にあり、色々な教団に属して比較研究をして選択することが出来難い状況にあることが問題だと云うことです。 たとえば、運悪く(?)カルトと云われる教団に属してしまった場合はなかなか脱退出来ない雰囲気やシステムがあり、終には反社会的な行為に走る結果になりかねないのだと思います。今既にどこかの教団に属している方を含めて申し上げたいの は、宗教は本来集団の中で求めるものではないと云うことです。一人で沈思黙考することが非常に重要だと云うことであります。

言い伝えですがお釈迦さまも当初は一人で山中に籠り、難行苦行されたようですし、その難行苦行に意味を見い出せなくなった後も、山を下りられ独り菩提樹の下で坐禅を組まれて人生や 〝いのち〟の事に想いを巡らせられたと聞いております。直接間接に先輩の人生観等を勉強されたことは間違いないと思いますが、独りで思考され納得出来る結論を得られたのではないか と思います。

また、親鸞聖人も9歳で比叡山に登られ多くの同世代の若者達と仏教の勉強と修行を共にされたと思いますが、色々な疑問が出た時は独りで答えを求めて思考するしかなかった環境だったと思われ ます。そして、やはり究極の答えが見つからず、29歳を前にして比叡山を下りられ、法然上人の念仏の教えに希望を感じられたのだと思います。しかし、念仏を称えれば誰でも往生出来 ると云う法然上人の教えだけで自分を含めた全ての一般在家の者が救われることにはならないと思われ、越後から関東そして京都と住まいを代えられながら、一生思考を続けられたのでは ないかと私は思っています。

人間と云うものは、何かの集団に所属する事だけで一つの安心感を得、心の落ち着きを得たように思ってしまうことがあります。そこで何かの教えを聞いたり、皆で同じ修行をすることで 宗教的な心境を得た気分になる事もあると思います。そしてそれが一つの無形のアクセサリーになって、他人よりも優れた人生を勝ち得たような気分になってしまうこともあるようです。

他の人々と没交渉になって独善的になってはなりませんが、何かの集団に属して、お互い慰め励まし合うことが中心になってしまって、道元禅師の言われている「仏道とは自己を習う事である」 を忘れてしまっては実に残念な結果になります。

蓮如上人でしたか?「往生は一人一人の凌(しのぎ)ぎなり」と云う言葉があります。最後は一人一人が自分の言葉で自己とは何かと自分に説き聞かせることにならなければお釈迦様や親鸞聖人 の仏教とは少し違うのではないかと思います。

仏教系の新興宗教が数多くある日本ですが、旧来の仏教も私の云う信仰宗教化してお釈迦さまや親鸞聖人の仏教が忘れ去られようとしているように思っていましたので、カルトが話題になった今回 の事件で、日頃考えていた事を自誡を込めて申し上げました。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1207  2012.06.21
カルトを考えるー②

私が前回と今回のコラムの表題を〝カルトを考える〟としたのは、世間一般ではオウム真理教等と云う特定の教団を〝カルト〟と云う向きがあるが、普通の宗教、即ちキリスト教やイスラム教、それに仏教の浄土門や法華経と 云う経典を拝む日蓮宗や創価学会等、何かを崇拝し信じ奉る、いわゆる信仰する信仰宗教(新興宗教ではなくて)はある意味で全て〝カルト宗教〟と言ってもいいのではないかと考えるからである。

インターネットのWikipediaで『カルト』は、下記の様に解説されている。
『カルト(Cult)は、「崇拝」、「礼拝」を意味するラテン語 Cultus [1]から派生した言葉で、元来は「儀礼・祭祀」などの宗教的活動を意味しており否定的・批判的なニュアンスは無かった。しかし現在では、反社会的な 宗教団体を指す世俗的な異常めいたイメージがほぼ定着している。ただし、反社会的な問題のない団体に独自の主観によりカルトのレッテルを貼る等の混乱が見られたり、派生的な用法が多岐にわたって使用されはじめており 、境界線があいまいな言葉である。カルト団体として世間的な批判が行われる場合、それは批判する当事者にとって不都合な団体にそのレッテルを貼り、悪宣伝の対象にしている面が強い。』

従って、私が上述したキリスト教、イスラム教、仏教の浄土門、日蓮宗等は本来のカルトの意味の『崇拝』『礼拝』を大切にしているから信仰宗教と称することは当たり前と言えば当たり前であるが、〝カルト〟と云う言葉に はマインドコントロールとか洗脳と云う少し得体の知れない恐ろしさが染みついており、普通の信仰宗教が〝カルト〟と云われることには抵抗があるだろうとは思う。

しかし私は、大勢の人々が集って共に礼拝する儀式を重要視する上述の信仰宗教が意識してはいないだろうけれども、それらの儀式はカルトが利用しているマインドコントロール的な働きでしかなく、宗教に安心・安穏な人生 を求める人々に結果的には応えられていないのではないかと思うのである。

私が宗教とは何か、安心・安穏な人生を生きるにはどうすればよいかを模索し続けて来た中で大きな影響を受けた米沢秀雄先生が宗教に付いて次の言葉を遺して居られる。
『宗教と云うのは、真実の宗教というのは、永遠と今、無限と有限の関係を明らかにしたものだと考える。今の瞬間を措いて永遠はないし、有限な存在を離れてべつに無限というものはない。今の瞬間、有限な私は無限、永遠 の現われる場所である。瞬間、或いは有限なものを通じて背後に永遠、無限を感じとる心を宗教心というのではないか。』

つまり、米沢先生は宗教というものは、拝むことに依って奇跡を起こすというような神秘的なものではないと言われているのである。米沢先生の〝永遠と今〟、〝無限と有限〟と云う言葉は哲学的で難しく思われるかも知れな いが、要するに、自分の今の〝いのち〟を〝うわの空〟で生きないことが人間の〝いのち〟を貰った値打ちと云うことだと私は思う。

ある瞬間に悟りを開くとか回心することや、何か特別な心境に到達することを信仰の目的にするのではなしに、今、この瞬間を人間らしく生きることを忘れては何のための信仰かと云うことだと・・・カルトとは何かを考えつ つ思った次第である。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1206  2012.06.18
カルトを考えるー①

数千年後になるか数万年後になるかも知れませんが、その頃の人類は現在の宗教を振り返って、「あれは人間同士が殺し合うような野蛮な、そして未だ科学的知識が少し芽生え始めた時代の未開人類の文化だった 」と云うことになるかも知れません。

17年前に地下鉄サリン事件を起こし逃亡していた最後の信者が逮捕されました。この教団は初期の頃にチベット仏教との接触があり、一般的には仏教系のカルト集団と分類されているのだと思われますが、世 界の三大宗教の中で仏教にカルトが生まれたのはオカシイと思っています。キリスト教とイスラム教は創造主であり絶対者である神を信仰し、神が人間世界に遣わしたとされる実在の教祖(キリストとマホメッ ト)が存在しますが、釈尊直伝の教えには創造主としての『仏』は説かれていません。釈尊が説かれたのは真理のみです。そして頼りとすべきは神仏ではなく、『自灯明法灯明』の教えで有名ですが、「よく整 えた自己を頼りとしなさい」「真理を頼りとしなさい」と説かれました。絶対者を信じ、その奇跡を信じるキリスト教とイスラム教にはカルトは必然ですが、釈尊の原始仏教にカルトは本来生じないものだと思います。

釈尊が直々に説かれたことの中に科学的非常識は無いと思われます。浄土も説かれませんでしたし、死んだ後の事は誰にも証明出来ないことだから議論しても仕方ないと、あの世の事には言及されませんでした。 仏教がキリスト教やイスラム教と同じく、信仰宗教になったのは大乗仏教が興ってからだと思われます。
〝・・・如来〟とか〝・・・仏〟とか悟りの象徴としての偶像を考え出したのは釈尊ではありません。南無阿弥陀仏も浄土も考え出したのは釈尊ではなく大乗仏教の人々です。浄土三部経も大乗仏教の経典です。 おそらく、現代よりも更に科学知識が乏しい紀元前後の人々は、雷や台風、地震などの自然現象の原因が分かりませんでしたから、この世界を支配している蔭の存在の怒りだと聞かされるとそれを素直に信じ、そ れを解決してくれる絶対者の存在があると聞かされると、疑問を抱くこともなく拝み貢ぎもしたのではないかと思います。

大乗仏教の全てが釈尊の説かれた真理から外れている訳ではないと思います。部分的には釈尊の教えが引き継がれていると思いますが、私は全てが仏説(釈尊が直々に説かれた教え)ばかりでは無いと考えていま す。特に、特定の人物や擬人化した仏や如来、更に経典を含む事物を拠り所にして拝んだり貢いだりすることを主体とする教えは、釈尊の仏教からは程遠いものです。釈尊は難行苦行をしても安楽な境地には至ら ないとされ、瞑想つまり人生や自己を思考し分析することを勧められ、縁起の道理を含む真理を学び取ることと、その真理に従って八正道と云う正しい道を歩みなさいと説かれました。

釈尊の説かれた道から全く離れて高学歴の若者達は、実在の教祖を信じ、空中浮揚や予言を信じ、教祖のどんな命令にも従うカルト集団は居心地がよかったのかも知れませんが、釈尊の仏法とは全く関係がありません。
上述は私が考察している釈尊の仏教ですが、その私が大乗仏教で興った浄土門の教えに帰依された親鸞聖人の仏法こそ私向きの仏法だと考えていますのは、親鸞仏法は大乗仏教が求めたであろう在家(一般家庭)の 者の為の仏法だと共感出来たからです。また、85歳を過ぎた親鸞聖人の晩年は、阿弥陀信仰から自然法爾に生きる境地に至られたのではないかと、在家者へ道標を遺されたと思うからです。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1205  2012.06.14
仏さまのお慈悲は有り難いものか?

浄土真宗のお坊様は法話の中で能く「阿弥陀様のお慈悲は有り難い」と仰います。確かに私も、「私が頼みもしないのに私の心臓を24時間動かし続け、寝ている間も呼吸をさせて私を生かしめているこのお働きは実に有り難い」と思います。 でも、それはどうもあまり波風が立っていない穏やかな生活が続いている時だけのような気もするのです。死にたい位の苦難・災難に出遭った時もそのように思えるかと言いますと自信はありません。そして、これでは私が本当の仏法に遇って いない証拠なのだろうとも思うのです。

少し前のコラムで、私は、吉本隆明氏の『最後の親鸞』から学んで「人間は不可避の出来事に出遇うことで人生を見詰め直し、初めてこの〝いのち〟の真髄に触れ得るのだと思います」と申しました。今もそうだろうと思いますが、1年3ヶ月 前の東日本大震災に出遇い、住居を根こそぎ奪われ、家族をも全て失って1人避難所や仮設住宅に身を寄せている人々の心境を想像したり、無免許運転少年の車の暴走等で、突然命を奪われた幼い被害者やそのご家族のお気持ち、そして、かな り昔の出来事(第二次世界大戦)ですが、精神科医フランクルが経験したドイツの生き地獄とも云うべき強制収容所での精神状態等を我が身に引替えて思いますと、とても、「仏さまのお慈悲は有り難い〝なむあみだぶつ〟」とはならないと思 うのが正直なところです。
無相庵読者の皆さまは如何でしょうか?

能く引用させて頂くインターネットのサイトの法話に、お慈悲に関する下記するお話があります。

仏さまの慈悲は目に見えません。お念仏は仏さまのよび声ですが耳に聞こえません。身に感じるのです。人間の愛情も眼に見えません。しかしその人の優しさやぬくもりを身に感じることができます。同じように仏さまの慈悲の優しさやぬくもり を、我が身に感じるのです。「決して見捨てない、必ず救う」「あなたをそのまま救う」というお慈悲に遇われた方は、「お慈悲は温いです」とよろこばれています。お慈悲が我が身に響いてくると、私の口からお念仏が出てくださいます。仏さま の声なき声を聞くことができます。 本来仏さまは色も形もありません。はたらきです。その仏さまの働きを形に表わしているのが仏像です。仏像を拝むのではありません。仏像を通して仏さまの願い働きを拝むのです。仏さまの願い働きを、身 に感じてください。大きな喜びです。生きる力となります。
―引用終わり

『身に感じる』と云う表題ですが、仏様とは目に見えない働きであり、感じるものである事は間違い有りません。米沢先生は能く『風』に譬えられておられました。『風』は目に見えない、でも、木の葉や枝が揺れるのを見て、風の働きが見える のと同じで、仏の働きは目に見え、肌と心で感じる事が出来ると仰っていましたが、まことに説得のある喩えだと今も有り難いと思います。

引用した法話は波風の立たない生活の中での有り難さを表現されたお話ではないかと思われます。一方、米沢先生のご著書『大きな手の中で』で紹介されている〝吉村かほる〟さんは32歳の時に米沢先生に助けを求められたのですが、その時に は小頭症と云う障害児二人のお母さんでした。その後文通を続けられて、約4年経つ頃には、病気で死んで欲しいと祈ったこともあると云う二人の子供さんの事を、「以前の私でしたら夜中に二児が泣いたりしますと、私まで泣いて夫を困らした ものでしたが、現在は少しも苦にならないで、ダッコして、やさしい言葉を話すことが出来るようになりました。」と報告されるまでになられました。

そしてある夏、以下の暑中見舞い状を出されています。
暑中御見舞申し上げます。先生はお変わりなきことと存じます。暑い毎日でございますが心身共に爽快な日々を過ごすことが出来ます。二児も大変元気にてコロンコロンところがってよく笑うようになり、本当に可愛くなりました。私のこの深い 気持ちを理解して下さるのは先生のみです。父母も兄姉も私のことをみじめな人間だと思うています。でも私は自分自身であるところのものであれば何を失ってもよい、瞬間瞬間を精一杯生きてゆけばよいという、この深い深い人間の神秘なるも のを先生によって教わったのです。肩を張ってでは無く、自ずと喜びに変わるこの不思議なる人間の知恵(これはむしろ仏の智慧・米沢注)親鸞の教えの深さに陶酔する(深く傾倒する意ならん、仏法は酔わせるものでなく覚めさせるもの・米 沢注)ばかりです。ご自愛下さい。

二児の病気が不思議と治って救われたのではなく、吉村かほるさんの心が大変化して死にたいくらいの苦しみが、苦しみではなくなったと云うことですが、苦しみから逃げるのではなく、苦しみの最中にある自分の〝いのち〟の意味と向き合い続 けられたからこその救いで、そこに感じられる働きを仏様のお慈悲であると親鸞仏法では捉えるのだと思います。

本当の苦しみとか悲しみは、私たち凡人が思う苦しみや悲しみではなく、人間として生まれながら、人間としての〝いのち〟の尊さを知らないまま死んで行くことだと親鸞聖人は考えられていたのではないかと思います。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1204  2012.06.11
偶然と想定外

野田首相は福井県の大飯原発3、4号機の再稼働を認めることを決断したらしい。福島第一原発事故は想定外に起こったが、しかし野田首相は可能な限り起こり得る地震・津波・竜巻・豪雨を想定しても大飯原発で 福島第一原発のような炉心溶融と云う事故が想定外に起こることは無いと原発関係機関(原子力保安院、原子力委員会)が纏めたデーター等から結論付けた。

首相に、そして政治家達に、原発の安全に関するデーターを見て想定外の事故が起こるか起こらないかを判断する能力があるとは思えない。世界経済の危機と言われる情勢の中で寄せられた経済界からの強い要望に 沿って、原発専門家達の楽観的暫定的な結論を丸呑みしただけに違いない。

想定しないことが起こるのは人間の能力(科学知識水準)から考えると認めざるを得ないことだろう。つまり、想定外は人間の勝手な言い訳だけであり、想定外の事は起こるのである。確かに地震(震源地)が何処 に生じるかをピンポイントで予想する技術は確立していない。加えて、何時生じるかを予想する能力は全く無いに等しい。最近天気予報が当たる確率は随分上がった。おそらく、地震や津波も数百年乃至数千年後に は天気予報並みに予測出来る時代も来るだろうが、現時点では原発事故を起こす自然災害は起こる事を前提にすべきなのである。それが福島第一原発事故でやっと分かったと受け取り、大飯原発再稼働を中止し、更 に今後の原発問題とエネルギー政策を早急に策定すべきだと思うのである。

従って、「次に起こる地震の震源地が何処で震度が幾らかは全く予測出来ません。従って、地震国日本の原発は想定外に起こる地震を考慮し、今後一切再稼働することはありません。経済や生活を守るよりも先ずは国 民の生命を守る事を第一とすべきてあると考えました。この夏の関西圏では一時的に計画停電などもあるかも知れませんが、全国民譲り合い協力し合って乗り切ろうと不退転の覚悟を致しました。宜しくお願い致し ます。」と云うのが首相の現時点で言うべき発言だと思う。

野田首相の発言が〝想定外〟と〝偶然〟を一緒くたにしたものだと気付いたのは、昨日の心斎橋の通り魔殺人事件である。ご存知だと思うが、昨日、大阪の繁華街で通り魔殺人事件があり、二人の尊い命が無差別に 偶々奪われた。心斎橋筋商店街は私も何回か歩いたことがあり、他人事では無いと思った。亡くなられたお一人の南部信吾氏(42)の出身は大阪であるが、現在の勤めは東京で、昨日は偶々大阪に音楽プロデュー サーとしての仕事があって出張で来ていただけであった。まさに偶然、事件に巻き込まれたのである。これを〝想定外〟とは言わない。対策が出来る原発事故とは異なって、通り魔事件は想定して対策を講じること は現実問題無理である。

偶然起こる事は対策出来ない。想定外に起こったと人間が考えることは対策して起こらないように出来るのである。野田首相は、福島第一原発事故は偶然起こったと考えているに違いない。そして、日本海側では数 万人も亡くなるような大津波が過去に発生したことが無い。従って、少なくとも私の首相在任中に起こることは無く、大飯原発事故が発生することは有り得ないと考えて、原発再稼働の判断に至ったのだと推察出来 る。

原因があって生じる結果は、偶然では無いと考えるべきだと思う。地震や津波が起こる原因は分かっている。全ての要因(条件)を把握出来ていないから、今の人類が場所(震源地)や発生時刻を予報出来ないが、 いずれは天気予報並みに、かなり高い確率で予報出来るようになるに違いない。
だから、原発事故を起こす地震や津波は偶然起こるものではない。必ず起こることが分かったからには対策として、地震や津波が生じる場所と時刻を予報出来るまでは原発を稼働しないことである。

通り魔殺人は過去に日本各地で起っているが、誰にも場所も時刻も予測出来ないし、現実的な対策も無い。これは偶然として受け入れざるを得ないのではないか。事件に巻き込まれて亡くなられたお二人が不用意だ ったから犠牲になられたのではない。勿論、今回の容疑者が刑務所出所直後に起こした犯罪であることに対しては、再犯防止対策を見直す等の処置は必要であるが、通り魔は必ずしも初犯だけでは無い。

私が言いたいのは、原因と結果の関係が明らかではない偶然生じることは諦めようと云うことではない。この世は必ずしも原因があって結果が生じることばかりでは無く、偶然の出来事で人一人の人生が左右される こともあるし、人類の将来も偶然に依って決まることもあると云うことである。実は理論的と考えられている科学の世界も必ずしも理論的に進んで来ただけではなく、偶然の発見や発明が結構多いのである。

想定出ることと想定出来ない偶然を峻別考察することは、偶然この世に人間の〝いのち〟を貰った私の人生を意味あるものにするのではないかとフト考えた次第である。

帰命尽十方無碍光如来-なむあみだぶつ


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No.1203  2012.06.07
人生の意味とは・・・

歌謡曲の作詞作曲家小椋佳氏(68歳)が、自らの予感する死亡年齢76歳の5年前となる71歳の時に生前葬コンサートを開く積りだと聞いた。レコード大賞を取った『シクラメンのかほり』、美空ひばりの代表曲の一つ 『愛燦々』、その他にも『さらば青春』『生きて悔いなし』等々、昭和を彩った演歌とは少し距離を置いた多くのヒット曲を生み出した。

彼は東大法学部を出て直ぐに第一勧業銀行に勤め、支店長そして本店部長へとサラリーマンとしても順調に出世の階段を上っていたが、役員を前にした49歳で退職し、東大文学部に学士入学し6年間哲学を学びつつ作詞 作曲を続けると云う他の作詞作曲家とは異なり、何か志を持った人間だと私は思っていた。

インタビューの中で、「小椋さんの人生とは?」と聞かれて彼は、「歌作り」と言い、「歌作りは真剣な遊びだ」と言った。銀行も色々な問題や不祥事が発生していた時期でもあり、歌作りを片手間では出来そうもない銀 行の役員と云う地位は彼の遣り甲斐からほど遠いものだったのであろう。彼は人生を哲学した上で50代半ばから歌作りに専念したのであろうか。そして、70歳を前にして、人生を賭けた作詞作曲活動を真剣な〝遊び〟 だと言ったのである。その言葉を聞いて私は、彼が生まれ甲斐を追及して歩んだ人生を総括した言葉だと思った。歌作りに価値は無い、しかし自分は真剣に取り組んだ、その真剣に取り組んだことに人生の意味を見出した いと云う総括であろう。
その心境を昨年だと思うが、橋幸夫に歌わせた『生きて、悔いなし』なのだと思う。「その時その場で懸命に生きて来たから人生に悔いは無い」と云う歌詞である。

彼は私よりも一学年上の同世代であるので、彼の死亡年齢の予感や、生前葬コンサートを思い付いた気持ちが分かる。彼は「死ぬことは僕自身は怖くはないが体の方が生きたがっている」と云うような意味不明なことを言っていたが、 恐らく、死を何とか超越したいと云う気持ちからであろう。生前葬コンサートも、死をしっかり認めることで、死を怖れる気持ちを和らげたいのではないかと私は想像している。
彼は歌作りに人間として生まれた何らかの値打ちがあったとは言えなかったがしかし、単なる時間潰しの〝遊び〟とも言いたくなかったのであろう。〝真剣な遊び〟と云う作詞家らしい意表を衝く造語で、自らをも納得さ せたのだろう。

小椋氏と同様、『人生の意味』、『人生の遣り甲斐』や『生まれ甲斐』を私も考察するのであるが、恐らく、その答えを差し出すことは出来ないと最近思う。色々と便利な品物を生み出しても、その便利さには便利と言う以外にどんな具 体的価値があるかと聞かれれば答えられないのである。今や猫も杓子も携帯電話を歩きながらも覗き込み、打ち込んでいるが、寸暇を惜しんでやる程に重要なことなのかとフト思うのである。と云うことになると、生活の有り様を劇的に 変えたと神様のように言われているパソコンや携帯電話、スマーシフォンを発明したスティーブ・ジョブズ氏も、人として生まれた値打ちを追及していたとは言えないとも思う。また、常に権力闘争に明け暮れている政治家達も、何か重要 な仕事、人間として生まれた意味のある仕事をしているかと冷静に考えると、人としての生まれ甲斐のありそうなことは何もしていないように思う。

そう考える時、小椋佳氏のように自分の人生を賭けた仕事を『真剣な遊び』と総括出来ることこそが人間として生まれて来た値打ちではないかと思う。自分の人生をゴミのように簡単に捨て去りたくない、その姿勢に価値 があると思うのである。一方、今の政治家達の中に自分達の権力闘争劇を『真剣な遊び』と第三者的に総括すると云うような、真摯に人生に向き合っている人間が居るとはどうしても思えないのである。

考えてみれば、お釈迦様にせよ親鸞聖人にせよ、人生の意味を考え続けて一生を送られた人生の先輩だと思う。社会生活を送りながら、人生の意味を考え続けることが、人として生まれた意味なのだと考えたいと思います。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1202  2012.06.04
「うつ病と宗教は関係ない」・・・だろうか?――(完)

勝ち負け、損得、正邪を争う世間を生きている私たちは何時〝うつ病〟になってもおかしくないと思います。むしろ〝うつ病〟にならない方が異常なのかも知れないと思ったりもします。

自分に対する他人の評価が気になったり、自分に対する評価が、自分と他人との間に思った以上の差があったりすると、納得出来ないまま、そして何故かを確認出来ないまま悶々とするうちに、何時かしら、 〝うつ病〟になっていたと云うケースも多いかと想像します。

世間は厳しい世界です。曹洞宗の禅僧の西川玄苔師は、禅の修行よりも在俗生活を送る世間の方が厳しいと仰っていたことが思い出されます。実際、殆どの時間を煩悩が渦巻く社会生活に身を置く私たちは、 その社会生活の不具合を何とか解消しようと一方で仏法を求めていると云うのが現状だと思います。それはやがて心の中に矛盾と葛藤を生じるに違い有りません。理想と現実の落差は激しく、如何ともし難 い状況が続くに違い有りません。

斯く云う私も、理想と現実の違いをひしひしと感じざるを得ない日々なのです。そして、何とかして現実を理想そのものにしたいと願いつつ、毎日を繰り返しています。
でも、何故か〝うつ病〟にはならないで済んでいます。何故かを考察して見ました。

今の私は多分、以下のように考えて理想と現実の矛盾を解決しているのだと思います。
世間を生きるには世間を生き抜く法があり、世間を仏法で生きようとすること自体、真理(仏法)に逆らっているのではないかと・・・。仏法は一如平等を説きますが、世間は差別(さべつ)・区別のみの 世界です。世間は自己中心同士の突っ張り合いですが、仏法は自己中心主義を戒めよと説きます。でも、私たちが聞きかじった仏法で世間を生きようとするのが正しいかどうか・・・。例えば今世間(世界) は領土・領海問題で揺れていますが、譲り合いの精神は通用しません。虎視眈々と領土領海の拡大を狙っている相手に隙を見せれば、相手の思うつぼで、やがて全ての領土領海を失ってしまいます。

昨日の『こころの時代』で、人間が知り得るのは人間の持っている五感と意識、つまりは般若心経で云うところの『眼耳鼻舌身意(げんにびぜつしんい)』に依って覚知し得る範囲のことだけだと真言宗のお坊さん が仰っていましたが、私たちは生れる前からの遺伝子として持っている感覚・本能と、生れてから教えられたり経験したことから物事や真実を把握するしか有りません。犬猫は、宇宙を知らないけれど、人 間は宇宙を犬猫よりは詳しく知っています。しかし、人間の知っている宇宙も、宇宙の真実の1%も無いかも知れません。

仏法も人間のお釈迦様が気付かれた真理です。その仏法にのみ寄り掛かって、この世間を渡ろうとするところに問題があるかも知れません。聞きかじった仏法だけに寄り掛かるのを『仏魔』『法魔』に襲わ れているとも言うそうであります。

真理・真実を私が私の心身を以って追求して行くのが仏道であって、お釈迦様のお言葉(経典)や、親鸞聖人の仰せを金科玉条として生きるのが仏道を歩むことではないのではないかと思っております。
私は「もう〝うつ病〟にはならない」とは考えておりません。むしろ、〝うつ病〟になったら、それをチャンスとしてその自分の心の有り様をしっかり勉強して、〝うつ病〟とは何か、〝うつ病〟からの良い 脱出方法がないかを追及してみたいと・・・ミイラ取りがミイラになるやも知れませんが考えております。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1201  2012.05.31
「うつ病と宗教は関係ない」・・・だろうか?――(3)

仮にお釈迦様や親鸞聖人がうつ病だったことが明かされたら、お釈迦様の教えにやはり疑問を抱くだろうと思います。渡辺和子シスターがうつ病に罹ったのはインターネットでは30歳と云う情報もあり、 また50歳の時と云う情報もありますが、現在は85歳ですからうつ病だったのは2回あったとしても数十年前のことです。むしろ、その過去のうつ病経験は法話の説得力になっていると思われます。しかし渡辺シスター が今も尚時々うつ病になると云うことになりますと、やはり人々は渡辺シスターの言葉に耳を傾けなくなるのではないでしょうか。

「うつ病と宗教は関係ない」と云う主治医の言葉は、シスターのうつ病の病状を正しく見極めた名精神科医の離れ業では無かったかと思わざるを得ません。

私は「うつ病は信仰の有無とは関係なく罹る」けれども、「うつ病は正しい宗教を身に付ければ罹らない」と考えたいです(脳神経・脳器官の疾病に依るうつ病は別ですが・・・)。私の云うところの 〝宗教〟とは科学的思考に依る哲学・思想であり、信仰とは崇拝する対象(人、物、書物、架空の存在等)を持つことを意味します(これは私の独断的な宗教と信仰の区別です)。

うつ病とは異なり、自然災害、病気、交通事故や事件に遭遇するのは宗教や信仰の有無とは関係無いと思っております。世間一般では災難に遭った人に対して罰があたったんだと蔭口を叩くことが有りますが、 論理的に考えれば見当違いであることは明らかです。
私が仏法の師匠として尊敬する故井上善右衛門先と西川玄苔師は大きな交通事故に遇われましたし、東井義雄先生に至っては交通事故死されましたが、宗教を信仰までに高められ、体 現された方であっても、縁に依っては災害・事件・事故に遭遇することを免れ得ないと云うことであります。縁に依って何に遭遇するかは分からないと云う釈尊の『縁起の道理』そのものです。

現在日本のうつ病人口は7~8%と言われています。おそらく毎年3万人を超すと云われる自殺者の中にもうつ病と診断される人も含まれていることでしょう。うつ病は現代・近代と云われる私たち人 類が抱える時代を表すキーワードかも知れません。これを解決するのには今こそ宗教が必要ではないかと思っています。私に言わせて貰えるならば信仰では無くて宗教です、宗教哲学だと思います。も っと具体的には仏教哲学だと思います。これまでの仏教は『悟り』とか『回心(えしん)』とか言いまして、何か特別な宗教体験の瞬間に出遇うことを重要視して来た傾向がありますが、私はもっと科 学的論理的に私たち人間を哲学する方が、これまで『悟り』とか『回心(えしん)』とか言われて来た心の安心状態に多くの人々が成れるのではないかと思っています。

これまでの仏教は、「愚者になりて往生す」とか、「一切の計らいや人間の知識を手放して悟りを開け」と説いて来ましたが、他の動植物には無く人間にのみ与えられた脳力(能力では無く・・・)を 生かすこと無く本当の人間には成れないと思います。法然上人も親鸞聖人もアラユル仏典を読み切った学者です。その他の祖師方も皆勉強家です。勉強をすればする程に己の勉強不足と無知に気付かさ れることを「愚者」と称したのだと思います。

受験勉強でも、勉強すればする程に不安になります。不安になるからますます勉強します。成績の悪い者は何が分からないかが分かりませんから勉強しないのが世の常です。これは仏道を歩む私たちに も言えることではないでしょうか。

死ぬまで仏道を考え考え考え抜いて、正しい宗教を身に付けてうつ病に罹らないようにして人生を全うしたいものです。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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