No.1240  2012.10.29
人生は苦なり

「人生は苦なり」とお釈迦様が言われたそうです。有名な四諦(したい)は、お釈迦様が悟りに至る道筋を説明するために、現実の様相とそれを解決する方法論をまとめた苦集滅道の4つを云うのでありますが、 その最初に苦がありますように、悟りに至る出発点を『苦』とされていることから、お釈迦様が「人生は苦なり」と申された、或いは考えられていたことは間違いはないと思います。なお、四諦は簡略形であっ て、四聖諦(ししょうたい)が正しいそうであります。

ただ、私たちは「人生は苦なり」とは思えないのであります。ドラマ『水戸黄門』の主題歌の中に、「人生楽ありゃ苦もあるさ 涙の後には虹も出る」や「人生涙と笑顔あり そんなに悪くはないもんだ」と云う 歌詞がありますように、私たちは人生を「苦ばかりではない、また残念ながら楽ばかりでもない」と考えているのが本当のところではないでしょうか。だから、私たちは死にたくないのです。

親鸞聖人も死にたくはないご自身の心の裡を見詰めておられたのでしょう。歎異抄第9章に親鸞聖人の「浄土へ急ぎ参りたき心の無くて、いささか所労(患い、病気のこと)の事もあれば死なんずるやらんと心細く覚ゆる ことも煩悩の所為なり。久遠劫より今まで流転せる苦悩の旧里は捨て難く、未だ生れざる安養の浄土は恋しからず候こと、まことによくよく煩悩の興盛に候にこそ。名残惜しく思えども、娑婆の縁尽きて力失く して終わる時に、彼の土へは参るべきなり」と云うお言葉が紹介されています。

親鸞聖人のように自分の煩悩に気付いていない私たちは、苦しい時は人生が嫌になりますが、善いことがあると人生は楽しいと思い死にたくないと思ってしまうものです。その一方で、「これからは絶対に 良いことは起こらないだろう、今の苦しみがずっと続くに違いない」と思わざるを得ない境遇になった時は、「死んだ方が楽だ」と自死を選ぶこともあると云うことなのでしょう。

ただ、実は「人生は苦なり」と云う言葉を親鸞仏法では仏様の御心だと受け取ります。仏様の眼からこの世をご覧になった時に心痛められて悲しい想いをされていると考え、「仏様の大いなる悲しみ」と云う 意味で『大悲(だいひ)』と申しますが、「人生は苦なり」は『大悲(だいひ)』から発せられた言葉だと受け取ります。そして、何とかその苦しみから解脱して欲しい、解脱せしめたいと働き掛けられるその 「慈しみの御心」を『大慈(だいじ)』と申します。

苦しみから解脱するには、「人生には苦もあれば楽もある」と云う受け取りから「人生は苦なり」と云う私たち自身の心の転換がなければ、本当の菩提心(ぼだいしん;解脱を求める心)は私たちの心に芽生えません。

お釈迦様は、樹の枝の上で小鳥が虫を啄(ついば)む様子を見られて、ご自身も無数の〝いのち〟を奪わねば生きられない存在であることに気付かれ、〝いのち〟が〝いのち〟を奪い合うこの世を想い、「人生 は苦なり」と観じられたのだと思います。そして、「苦の原因」から「苦」が生じ、「苦の滅を実現する道」から「苦の滅」に至るというように苦の原因(集)とそこから生まれる苦と、解脱に至る道を『苦集 滅道』の四聖諦・八正道の教えに至られたのだと思います。

素晴らしい教えでありますが、親鸞聖人は四聖諦・八正道の教えに忠実に従われ比叡山で20年間のご修行をされ、またご師匠の法然上人は同じく比叡山で30年間のご修行をされた後に、修行ではなく、本願 他力の教えによって廻心されたとお聞きしています。
多分、「人生は苦なり」と徹底出来ないご自分と、「その原因が我が煩悩にあるのだが、どうしても自力では煩悩を滅することが出来ない」と途方に暮れられた時に、善導大師の著書『観経四帖疏』(かんぎ ょうしじょうしょ)の中にある「一心に弥陀の名号を専念して、行住坐臥に、時節の久近を問はず、念々に捨てざる者は、是を正定の業と名づく、彼の仏願に順ずるが故に」の特に〝彼の仏願に順ずるが故に〟 に依って廻心されたそうであります。

私も「人生は苦なり」とは思えませんし到底、親鸞聖人のようなご修行も出来ません。でも、「人生は苦なり」と云うお釈迦様の言葉を出発点にして、親鸞聖人の辿られた道をその書物から思索し続けたいと 思っております。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1239  2012.10.25
(完)本願他力のすすめーiPS細胞発明から学ぶこと

人類が〝いのち〟を全て人工で造り出すことは出来ないと私は考えておりますが、ips細胞発明に依り、遠い遠い将来、遺伝子を選別して、戦争が全く起こらない地球、地球を平和な星に変え得る、 格別に進化した新人類の時代を迎えるかも知れないと思ったりします。

〝いのち〟を産み出し、環境変化に対応させて何が有っても〝いのち〟を繋ぎ続け、考える能力を生き物に与えて現代人ホモサピエンス(Homo sapiensは「知恵のある人」という意味)にまで進化(?) させたのは、宇宙の意思(私はこれを他力とも、仏様とも考えております)だと考えております。従いまして、人類が核エネルギーを発見して、核兵器を作り出したために核戦争に依って人類自身が滅 亡する事を懸念する向きがありますし、また、原発を造り続けて福島原発事故以上のダメージを人類自身が蒙ることがあっても、最終的には〝いのち〟を繋ぎ続けるに違いないと考えております。
5億年の昔、〝いのち〟が海から陸へと、〝生き物大上陸作戦〟(JT生命誌研究館、中村桂子さんの表現)を敢行したと同様に何億年後かに、ひょっとしたら太陽系に限らず宇宙への〝生き物大脱出作 戦〟を敢行するのかも知れません。

ips細胞発明に依り、私の身体から取り出した細胞を初期化し、精子も卵子も造り出せるそうですから、将来、結婚して家族を持つと云うことが無くなるかも知れません。今の私の想像力では、胎児は 子宮でしか育て上げられないと考えますので、男の私では無理としても、一人の女性が結婚はしたくないが、子供は欲しいと云う時、自分一人で自分だけの遺伝子の受精卵を体外で造り、自分の胎内で 10月10日育て上げて、子供を得ることは決して不可能ではない時代が来るかも知れません。他力は人間の想像力を超えた力です。ですから、その超えた力である他力を想い、親鸞仏法では「なむあみ だぶつ」するのだと思います。

他力が何を起こすかは誰も予想出来ません。でも、縁に依って何でも起こす〝他力〟を知れば、核燃料サイクル技術の目途が立っていない段階での原子力発電所の建設を現代人は思い止まったと思います。 そうすれば、東日本大震災がこれ程までの被害を齎すことは無かっただろうと思われます。従って、この反省に立ち、ips細胞発明を医療に役立てるにしても、取り返しのつかない事故・被害が起こら ない様、十二分な検証を行うべきだと思います。ただ、〝他力〟を知らず〝本願他力〟を信じず、自分を信じている現代の人類は、まだまだ手痛い目に遭うのかも知れません。、

本願他力は人間にとって嬉しいことばかりを演出する訳ではありません。個体に依っては、悲劇とも思える状況や事故・事件に遭遇することさえ有り得るものだと私は考えております。そして、親鸞聖人 が、歎異抄第13章の中で『卵毛羊毛のさきについている小さな塵ほどのものといえども、そのつくられる罪は、宿業によるものであって、そうでない罪はないと知ることが肝要です。』と云う件(くだ り)がありますが、私たちが私たちにとって悪いことでも、また良いことでも、それがたとえ卯毛羊毛の先に付いた小さな小さなチリのようなことも、他力の働きに依らないものは無いと云うことであり ます。全ては他力の働きだと云うことであります。
私も極最近やっとその様に思うようになりました。「すべては他力だ」と。「他力ならざるは無し」だと。

全ては他力に依ると考えてしまうと、「自分は何もしなくて良い」、それこそ「他力本願で生きればいいのだ」と考えてしまうのではないかと思われる方がいらっしゃると思います。実は私もそのように 捉えていました。でも、違うと思います。
〝他力〟とは繰り返し申し上げましたように、文字通りの〝他の力〟ではなく、「自分だけの力ではない」と云う意味の〝他力〟でありまして、「自分の身口意の業(為したこと)を含めて他の全ての働 きが無数に寄り集まった働き」でありますので(無数ではありますが、その中の一つでも欠ければ結果は全く違ったことになります)、自分も〝じっとして〟はいられないのです。出来る限りの事をした いと云う気持ちになるのではないかと思います。そうでなくては、本願他力にお任せする事にはならないと思いますが、そうなるのも、そうならないのも、また他力に依るのだと思います。

私は30歳代の頃に加藤弁三郎師に、「母が称える念仏を、私は称えられない。称えたい気持ちが起こらないのは何故でしょうか?」とお尋ねしたことがあります。その時のお答えが、「あなたは賢き思 いを具していらっしゃるからだ。私もそうだった時がある。」でした。でも、私は自問自答して「自分では賢いとは思っていないのになぁー。でもやはり、全く愚かな人間だとも思えていないことも確か だし、加藤弁三郎先生や母とか白井成允先生、井上善右衛門先生、西川玄苔師のように〝なむあみだぶつ〟が自然と口に出るようになるには、自分を本当に愚かだと思うようにならないと駄目なのだろう なぁー」と考え、それ以来、30数年間悪戦苦闘を繰り返して参りました。それは、本願他力の身になりたいと自力の限りを尽くして居たことなのだと、親鸞仏法の要(かなめ)とも言える『三願転入』 のお話を読んでいる時に気付かされました。

でも、思い起こせば、西川玄苔師のご法話、井上善右衛門先生のご法話の中で語られた白井成允先生の思い出話、そして、米沢英雄先生の著作集8巻と「大きな手の中で」「信とは何か」、駒沢勝先生の 「目覚めれば弥陀の懐」「健康であれは幸せか」、星野元豊師の「親鸞と浄土」、白井成允先生の『歎異抄領解』に出遇えたことを特筆致しますが、その他の数多くの先輩方の法話と著書は勿論のこと、 その他私の社会生活上で出遇った方々、そして様々な出来事、楽しかったことも苦しんだこと等も、全てなくしては、「すべては他力」とは思うには至らなかったと思います。

でも、初めて「なむあみだぶつ」が何のわだかまりもなく、口に出るようになりましたことは間違いございません。勿論、それは未だ、自分が独りの時だけですが・・・。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1238  2012.10.22
(続)本願他力のすすめーiPS細胞発明から学ぶこと

京大の山中教授がノーベル医学生理学賞を受賞された〝iPS細胞〟は、日本語では人工多能性幹細胞(じんこう たのうせい かんさいぼう)と称するそうです。iPSは英文字(Induced pluripotent stem cells)の頭文字を並べたようであります。 因みに、英単語を調べてみますと、Induced (人工の)pluripotent(複数になる可能性を持つ) stem(幹;みき) cells(細胞)と云うことです。

よく目にし耳にする〝ES細胞〟(胚性幹細胞)は受精卵から取り出した細胞ですので、ES細胞は発見されたものであり、山中教授のiPS細胞は細胞に人間が手を加えて新しく造り出す細胞ですから発明なのです。勿論、〝ES細胞〟の発見にも 2007年に米ユタ大学のマリオ・R・カペッキ教授(70)、英カーディフ大学のマーティン・J・エバンス教授(66)、米ノースカロライナ大のオリバー・スミシーズ教授(82)の3人にノーベル医学生理学賞が授与されています【授賞理由 は「胚(はい)性幹細胞(ES細胞)を利用し、マウスの特定の遺伝子を改変する基本原理の発見」であります】。
このES細胞の発見も素晴らしいですし、ES細胞の発見が無かったら、恐らくは〝iPS細胞〟発明の時期は数十年、ひょっとしたら数百年遅れた可能性さえあるものと思われます。でも、山中教授の素晴らしさと〝iPS細胞〟の素晴ら しさは、〝いのち〟を犠牲にすることなしに(〝ES細胞〟は受精卵から得るものですから、この世に生れるはずの一つの〝いのち〟そのものを犠牲にする技術です)、再生医療や創薬に貢献出来ることにあります。その点を研究の動機とされたこと を世界の技術者は見習う必要があると思います。

さて、〝iPS細胞〟の素晴らしさは理解して頂けたと思いますが、「本願他力とiPS細胞が何で関係があるのか?」と思われる方がいらっしゃるのではないでしょうか。それは、〝iPS細胞〟は確かに人類が発明したものですが、やはり、生き た細胞からしか得られないと云うことは、〝いのち〟は〝いのち〟からしか生まれないと云うことであり、〝いのち〟が他力に依るものである限りは、〝iPS細胞〟も結局は本願他力無くしては発明されなかったと申してよいと考察するからであり ます。

〝いのち〟は地球誕生から約5億年も掛けて宇宙総掛かりの働きで生まれたものだそうです(でも、それはやっと単細胞の命です)。そして、私たち人類(ホモサピエンス)に進化したのは、それから40億年後の今から約20万年前程度だそうです。 一体誰が、一つの単細胞から我々のような複雑な身体を持ち、考える力や言語を持つ人類まで変化させたのでしょう?

仏教はその働きを『法性法身(ほっしょうほっしん)』とか『仏様(ほとけさま)』と称します。親鸞仏法では『仏様』とも『阿弥陀仏』とも、そして『他力』とも申すのだと思います。

〝iPS細胞〟も山中教授の能力と努力で発明されましたが、元はと言えば、上述致しましたように生きた細胞がなければ出来ませんから、他力に依って生まれたものです。第一、山中教授自身も無数の他力に依ってこの世に生まれられ、研究者にな られるまでには無数とぃっても過言ではない先生・先輩のお蔭があり、そして今も宇宙に支えられて生かされて生きられているのですから。
その山中教授自身も申されています。「自分一人で発明出来た訳では無いし、また、これから多くの研究者の並々ならぬ研究努力に依らねば、本来の目的である〝病気で困っている何万、何百万人の患者さん達を救う事〟にはならない」と。

もう少し付け加えますと、事は〝iPS細胞〟だけに限りません。私たちの身の回りのものは全て、人間が発明して出来上がっているものですが、元はと言えば、全て一つ残らず他力に依って生み出されて自然に存在する資源を応用したり、利用し変 化させて造り上げた物ばかりですし、また繰り返しになりますが、それを加工し創造した人間自体が他力に依って生れ、生かされ生きている存在であることを誰も否定することが出来ないと思います。そこが、私たちが目覚めなければならない最も重 要な点だと思います。

ではありますが、残念ながら人々全て(人類)は、否、私も、自分の努力や能力で生きているとしか思えないでおります。現実は、努力出来るのも能力さえも全ては遠く宇宙が誕生してから今の瞬間に至るまでの無数無限の他力に依ってしか有り得ない と云うのが、真実・事実だと思うのです。この〝他力〟と云う考え方そのものも、勿論私の考え方ではなく、お釈迦様、そしてお釈迦様以前の先哲達も含めて無数の先師・先輩が気付き、無限の時間を掛けて思量して、今、現代に生きる私たちに無数の 他力に依って受け継がれている考え方であります。

長くなりそうですので、次回の『(完)本願他力のすすめーiPS細胞発明から学ぶこと』に譲ります。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1237  2012.10.15
他力本願のすすめ

「他力本願では駄目だ」と世間でよく耳にします。これまで政治家達が度々使い、浄土真宗の方々の顰蹙(ひんしゅく)をかっていますし、プロ野球の優勝が秒読み段階になる首位争いの試合の際に解説者達が使っているのも耳にします。
「他力本願では駄目だ」は何かを成し遂げたい時に他人の力を当てにして自分で努力しない様子が見られる時に批判的に使われる言葉になっているようですが、実は『他力本願』は私たちが生きて行く上で大切なキーワードなのです。ただ、仏教用語 としては『他力本願』と云う表現はなく、正しくは『本願他力』なのです。親鸞仏法は『本願他力』の教えなのです。

私は元々仏教用語である〝他力〟とか〝本願〟の意味と異なる意味で〝他力本願〟が使われていることを遺憾なことだと思っていますが、どちらかと言えばむしろ、〝他力〟よりも〝本願〟を「本当にお願いします」と云う意味位でしか捉えていない 現代日本人の余りにもお粗末な知識レベルをこそ遺憾なことだと思っております。

それは兎も角として、今日のコラムの表題を『他力本願のすすめ』と致しましたが、正しくは『本願他力のすすめ』なのです。
実は、『他力本願』と云う熟語は親鸞仏法には見当たりません。見当たりますのは、一般の人々もご存知の歎異抄の第三章に「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや善人を や。この条、一旦そのいわれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆえは、自力作善のひとは、ひとえに他力をたのむこころかけたるあいだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれ ば、真実報土の往生をとぐるなり。」に使われている『本願他力』なのです。

阿弥陀仏の〝根本の願い〟を『本願』と云い、その『本願』が私たちに働きとして感じられるのが『本願力』であり、また『他力』とも称するのです。阿弥陀仏の本願からの働きとして『本願他力』と歎異抄では表現されたものと思われます。

世間一般では、「他人の力を当てにしてはいけない、自分の力を信じて頑張らねばならない。」と訓示ます。競争社会・修羅社会の娑婆世間ではそれが当たり前でしょう。でも、親鸞仏法で言う『他力』は「他人の力」ではなく、『他力』とは、私は『縁』のことだと思います。お釈迦様が 「この世の物事は縁に依って起こる」として『縁起の道理』を説かれた、その『縁』を浄土門では『他力』と言い換えたのだと思っております。

この世のことは全て〝縁〟に依って起こっているのです。すなわち、この世のことは全て〝他力〟に依って起こっているのです。歎異抄第十三章に「故聖人のおほせには、卯毛羊毛のさきにゐるちりばかりもつくるつみの宿業にあらずといふことなしと しるべし」とあります。宿業は悪い意味で捉えられがちですが、過去・現在・未来を含めた縁と云うことでありますから、親鸞聖人は、この世のことは全て縁に依らないものは無いと仰っているのです。即ち、全ては他力に依ると仰ったのです。そして その他力は一つではありません。無数の他力が寄り集まって、物事は生じるのです。無数の他力が寄り集まって現在の私が存在し、そしてまた無数の他力に依って今の瞬間生かされているのです。このことにはっきり目覚めるのが他力の信心、親鸞仏法 の信心だと思います。仏教に出遇うのも、親鸞仏法に出遇うのも、その信心に目覚めるかどうかもまさに唯〝他力〟に依るのです。〝自力〟では無いのです。

私は、最近、駒沢勝内科医の著書『目覚めれば弥陀の懐』や、星野元豊師の『親鸞と浄土』、白井成允先生の『歎異抄領解』夫々の『三願転入』に関する件(くだり)を読んでいる時に、浅原才一翁の『他力には自力も他力もなし、ただ一面の他力なり。な むあみだぶつ』と云う言葉を思い出し、親鸞仏法の真髄に近付いたような気が致しました。それで、あらためて、本願他力の教えを勧めさせて頂く次第であります。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ

昨日(17日)目が醒めた時に首が重たく寝違えたかも知れないと思っていたところ、段々痛くなり、作夜寝る頃には首をすこしでも動かしますと痛くて痛くて堪りませんでした。そして殆ど眠れないまま朝を迎えました。身体を少しでも動かすと痛みが 激しい状態は変わりませんでしたので、食事の用意は何時も私の担当なのですが、妻と選手交代せざるを得ませんでした。痛み止めの薬を飲むしかないと思いまして、最近世話になり出した近くのお医者さんに電話して症状を説明したところ痛み止めの薬 を出して貰えることになり、妻に取りに行って貰って痛み止めの薬を飲みますと、徐々に効いて来たようで、夜にはやっと何とかパソコンに向かえるようになりました。
そう云う事情で、今日は遅いコラム更新となりました。


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No.1236  2012.10.15
葉っぱのフレディと親鸞仏法

岡山県備前市の小児科医師駒沢勝先生は、楓(かえで)の木と葉っぱのフレディの関係を阿弥陀仏と私たち衆生との関係として捉えられ、親鸞聖人の教えを考察されています。 阿弥陀仏は勿論キリスト教の神様とは全く別の概念で、宇宙全体に漲(みなぎ)っている〝いのち〟を含めた『働き』のことであります。駒沢勝先生は阿弥陀仏を『ただ一つの統合生命体』と言われています。そして、 私たちは自分を独立した生命体と勘違いしているけれども、統合生命体と一体化した〝いのち〟そのものだと考えられているのだと思います。

葉っぱのフレディを読まれたことが無い方に、駒沢先生が纏められた〝あらすじ〟を転載致しますと。
『一本の大きな楓の木があって、それに何千枚もの葉っぱがついているが、その一枚がフレディである。同じように葉っぱであるダニエルやベン、クレアらとともにフレディは春に芽が出た。つまり誕生した。夏には 青々とした立派な大人の葉っぱに成長する。太陽の光を浴び、さわやかな風を浴びてダンスを踊り、楽しく過ごす。そして秋が来ると他のどの葉っぱとも違う、フレディらしい美しい黄金色に身を染めて葉っぱの人生を 謳歌する。しかしいよいよ秋が深まるとともに、自分の死期が迫っている事を察知し、行く先を心配し不安に思うようになる。友達の葉っぱで物知りのダニエルが、「落葉した後、また木の栄養となって翌年の葉っぱを 支えるのだ」と諭してくれる。そして冬の到来と共に、友達の葉っぱは次々と落葉する。つまり死んでいく。そして雪の多い冬のある日、フレディは雪の重みに耐えかねて、ついに落葉して一生を終える』という物語で あります。

葉っぱのフレディは楓の木そのもので、楓と一体であるのに、楓の木を離れて存在している訳ではないのに、自主独立した生命体だと勘違いして、冬に楓の木から離れ枯れ落ちること(死)を心配するのです。でも、フ レディは、地面に落ちてから初めて楓の木のがっしりとした全体の姿を見て、楓の木は永遠に生き続ける事を確信し、自分は土に溶け込んで、楓の木を育てる力となり、〝いのち〟は変化しつつ永遠に生きていくことを 納得します。

私たち衆生(人間だけではなく、生きとし生けるもの全て)も、眼で見る限りは自分の〝いのち〟も他の〝いのち〟も独立した存在のように思ってしまいますが、決して独立した存在ではありません。全ての個々の〝いのち〟は、親 から子へと〝いのち〟を繋げて現在があるのです。そして、他人と思っている他人とも過去のどこかの時代に共通の親に至るのです。しかも、私たちは他の〝いのち〟から生きる栄養分を貰うしかなく、〝いのち〟に囲 まれ、他の〝いのち〟と無関係に生きている訳ではないのです。
ですから、全ての〝いのち〟が繋がっていることを誰も否定出来ないと思います。否、駒沢先生の仰る通り、元々〝いのち〟は一つだと思います。そして、それを浄土門では阿弥陀仏と称するのではないかと思います。

童話『葉っぱのフレディ』には、〝いのち〟は変化しつつ循環するのだ。死んでもまた新しい〝いのち〟となって生まれるから心配しなくてもいいと云うメッセージが込められているのかも知れません。でも、それで 以って、私は阿弥陀仏(宇宙でただ一つの統合生命体)と一体の〝いのち〟、つまり阿弥陀仏の〝いのち〟を生きていることを頭で理解は出来ても、それで死への不安が払拭出来たかと問われれば、私はどうしても不安 を払拭出来ません。どうしても他人は他人であり、一体の〝いのち〟とは思えません。特に無差別殺人を犯した極悪人や、自分を貶(おとし)めるような人間を同じ阿弥陀仏の〝いのち〟を生きているとは到底思えそう に有りません。そして私はそんなことを思える人は居ないとも思っています。

実は親鸞聖人も私と異ならず、ご自分の事を罪悪深重・煩悩熾盛の凡夫と嘆かれているのであります。それでは親鸞聖人は仏法に依って救われなかったか、信を獲られなかったのかと言えば、そんなことは無いと思い ます。歎異抄の9章に「私たちが阿弥陀仏と一体の〝いのち〟を生きているとは到底思えない事を仏さまはとっくの昔にご存知で、だから煩悩具足の凡夫よと呼ばれていらっしゃるのだから、他力本願は私たち凡夫のた めであることが明らかであり、実に有難いことではないか」と仰っています。

聖道門では修行に依って、自我・煩悩を無くし、宇宙と一体の自己を証ることを求めるのかも知れませんが、難行苦行の修行が出来ない私たち在家の者の為に、自ら僧でありながら在家生活を実践されつつ、人間が救わ れる道を開拓されたのが親鸞聖人であります。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1235  2012.10.11
〝いのち旅〟番外編:これも〝いのち〟iPS細胞

三日前に、京大の山中伸弥教授(1962年9月4日生まれ)がノーベル医学生理学賞に選考されました。難病の患者さん達に生きる希望を与える意味でも、実に素晴らしい発見でありますので、心から祝福したいと思います。

また、特定部位から採取した細胞に或る処理を施してどの部位の細胞にも変化させることが出来る(初期化と申します)iPS細胞の可能性を、山中教授ご誕生の今から50年前に予見し発表された英国ケンブリッジ大学のガー ドン博士(79歳)が共同受賞したことには、ノーベル賞選考委員の高度で詳細な見識を示すものとして感銘を受けました。また、その共同受賞をこの上ない喜びとされている山中教授の人間性にも感動させられました。

ただ、私たちが忘れてはならないのは、私たちのこの体(頭脳・心も含めて)の元は受精卵と云うたった1個の細胞が分裂・分化してあらゆる器官が仕上がると云う仕組みは人間が造った訳では無いと云うことです。また、私た ちを赤ちゃんの身体から大人の身体に成長させたり、私たちが寝ている間にも呼吸出来ていたり、心臓を動かして血液を体全体に行き渡らせていられるのは、親鸞仏法で〝他力〟と称する、全宇宙に漲(みなぎ)っている生命力 であり、また太陽系を存在せしめて地球を自転公転させている万有引力等の、私たちには解き明かせない全宇宙に働いている力で有る事を忘れてはならないと思います。
むしろ、今回のiPS細胞の知識を、「〝いのち〟とは何か?、自分とは何か?」を問い直し、人類が本当の意味で救われるキッカケにしなければならないと深く深く思いました。

人類が〝いのち〟そのものを化学反応などで作り出すことは出来ません。〝いのち〟は〝いのち〟からしか生まれません。初期化されたiPS細胞と言えども、その細胞内のDNA(遺伝子)には20億年にも及ぶ固有の〝いのち〟 の歴史が書き込まれており、宇宙で唯一つの〝いのち〟であることを忘れてはならないと思います。

山中教授の言葉を借りるとしたら、iPS細胞の発見・発明は真理を覆い隠しているベールの1枚をめくり取ったもので、これで人類が救われることにはならないと思います。むしろ今回のノーベル医学生理学賞を〝いのち〟に対 する謙虚さを人類が取り戻すキッカケにしたいものであります。山中教授も多分そのような東洋的謙虚さを以って研究と若手研究者の指導に当たられていると思っております。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1234  2012.10.08
浄土に付いてー②

『浄土』と云う言葉を一般の方々も理解出来る現代語に言い換えますと、どうやら『真実の世界』と云うことになりそうです。

人類は生き物としては初めて言葉を使うようになりました。それは勿論、考える器官として他の動物よりも進化した頭脳を与えられ、その上に運よくも声帯も併せ持つようになったからでありましょう。 そのお陰で飛躍的に文化を発展させ、今日の便利な世界が有る訳でありますが、一方で、私が六感(眼、耳、鼻、舌、身、意)で捉える物事全てに〝名〟を付けて、区別・識別する〝能力〟、と云うより も〝習性〟を身に付けてしまいました。その身に付けた能力を、仏教哲学の言葉で言いますと『差別智』或いは『分別智』と云うことになるのではないかと思います(以後、分別智に統一します)。

『分別智』の反対語は『無分別智』です。こうして今私が『分別智』とか『無分別智』とかと言っていること自体どうしょうも無い『分別智』そのものなのです。区別・識別・差別・分別しなければ気が 収まらないのです。私の今目の前に在るパソコン、プリンター、机、本・・・、そして窓の外に感じる太陽光、眼に見える庭の木々、眼には見えない空気も、そして概念である仏教、哲学、親鸞仏法も人 間の分別智から現れ出たものであります。更に、私が明らかにしようとしている『浄土』そのものが分別智そのものであります。

仏教哲学が生み出した『浄土』を私は『真実の世界』と云うことになりそうだと申しましたが、私たちが『世界』と認識しているのは、人間が人間として認識出来る世界であって、限定された世界だと仏 教哲学は考えて来たのだと思います。大胆に申しますと、私たち一人一人が思っている世界は全く同じではありません。極端な例を申しますと、言葉を沢山知っている私たち大人が思っている世界と、生 れたての赤ちゃんが感じて居る世界は全然別物であることは間違いありません。生まれたての赤ちゃんは綺麗・汚いも、美しい・醜いも区別出来ません。いわゆる『無分別』の世界を生きていることは想 像出来ます。分別が進んで、経験や知識が増えて、幼児、小学生、中学生、高校生、大学生、社会人になるに従い、認識する世界は変化して行きます。しかし、それは分別智が認めた世界です。

仏教哲学は、人間が分別して思っている世界ではない、分別智が生まれる以前の『無分別の世界』があるはずだと考察しているのだと思いす。人間の言葉で説明した時点で、それはもう『分別の世界』に なってしまい、人間の言葉では言い表せないと考えます。そして、ギリギリの表現として『真実の世界』、『鏡に映った世界』『ありのままの世界』と表現します。そして、仏教の用語としては、ありの ままと云う意味の如(にょ)を使って『如の世界』『一如の世界』と言い、人間の分別智等が混じらない〝純粋な世界〟とか〝浄らかな世界〟と云う意味で『浄土』と申すのだと思います。

私たちは、『浄土往生』とか「死んだら浄土へ参る」と云う間違った分別智を身に付けていますから、『浄土』を死んでから行く世界と思い込んでいる場合があるのではないでしょうか。私自身、永らく そう云うニュアンスを否定し切れずに居ました。

『真実の世界』すなわち『浄土』では、私たち個人個人は別ものでは無く『阿弥陀仏』と云う一つの命を生きているのだと学び、自分自身が考察し、本当にそうだと確信した時、私たちは『真実の世界』 に目覚めると考え、それを『浄土に生れる』とか『浄土往生』と親鸞仏法では考えるようです。ようですと申しますのは、私には未だ確信が無いからであります。

昨日の『こころの時代』は哲学の世界的権威である故中村元博士(1912年11月28日~1999年10月10日)の世界を語る番組でありましたが、番組の最後の方で、中村師が至られた世界を墓 碑に記されたブッダの言葉が紹介され、生前その墓碑の前で撮られた写真がありましたので、下記に掲載いたします。



『真実の世界』では、生きとし生けるものは一つの〝いのち〟を生きているのだと云う確信をブッダが詠われたものであり、それに共感された中村師が見事に現代語に意訳されたものでありましょう。

                 ブッダのことば
                        「慈しみ」
                     一切の生きとし生けるものは
                  幸福であれ 安穏であれ 安楽であれ
                  一切の生きとし生けるものは幸であれ
                  何ぴとも他人を欺いてはならない
                  たといどこにあっても
                  他人を軽んじてはならない
                  互いに他人に苦痛を与える
                  ことを望んではならない
                  この慈しみの心づかいを
                  しっかりと たもて
                          東方学院院長 中村 元 譯
                                    中村洛子 書

浄土に付いて③に続きます。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1233  2012.10.04
浄土に付いてー①

私は親鸞仏法に共感を覚えています。しかし、浄土に付いては今一つしっくり受け止められていません。はっきり申しまして、浄土を信じるに至っていません。従いまして、私は浄土真宗の信者では無いと自覚しています。 でも、私が教えを請うた先生方(白井成允先生と井上善右衛門先生)はそのご法話やご著書の文言から浄土を信じて居られたと思われますので、私も先生方の様に信じたいと云う焦りにも似た願望を持っていることも間違い とないところです。

しかし先生方は勿論、眼で見える意味での浄土の存在を信じて居られたのではないことも間違いございません。おそらく、親鸞聖人と全く同じ思いで浄土を信じておられたのでしょう。
また、『目覚めれば弥陀の懐』と云う本を出された岡山県備前市の小児科医師駒沢勝氏が、「この著作集で私は南無阿弥陀仏の教えに依って救われた」と仰る、その著作集の著者は故星野元豊師(ほしの げんぽう:1909年 ~2001年;元龍谷大学学長)ですが、私は極最近その中の一つの著書『親鸞と浄土』を読み始めたところです。その冒頭で星野師も「若い二十代の頃から、この龍谷大学に学び始めた頃から、浄土が人間として私たちが生きて 行く上において必要なものか不必要なものなのかと云う疑問をもって爾来数えてみればもう五十年の年月がたちまして、ようやく最近になって(七十歳)浄土というものはわれわれが人間として生きていく上においても欠く ことのできないものであると云う確信を得たような気がするのでございます。」と仰っておられます。

ですから、私も駒沢勝氏と同じ様に親鸞仏法に真の共感を覚えたいと思いますので、やはり浄土にも共感を覚えなければならないと思うのです。
ただ一方で、浄土と云う概念は、多分お釈迦様が亡くなられた四、五百年後に生れたものであり、お釈迦様のお考えでもありませんし、自然科学が未発達で、地球が丸い事も、地球が太陽系の中に在って、太陽の周りを廻っ ていることも分かっていない時代、勿論、宇宙のことが全く分かっていない時代のことですから、死んでから魂が行くところとして『浄土』を想像していた可能性があるのではないかと思っています。親鸞聖人の時代でも同 じ知識レベルにあった証拠に極楽浄土を想像した形として、11世紀に藤原氏が平等院を建立したかも知れないとも思うのです。

現代に生きる私たち誰しも、極楽浄土が実際に存在するとは思わないでしょうし、死んだ後に極楽か地獄に往くとも思えないのではないかと想像しています。

浄土に付いてー②に続きます。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1232  2012.10.01
学校教育を考えるー宗教と哲学

日本の国公立の学校教育では宗教教育が殆ど除外されているように思いますが、下記に昭和24年の文部事務次官通達から抜粋した規定がありますように、確かに特定の宗教のための宗教教育はよくありません。

● 各種の宗教の教理、歴史、哲学心理も客観的研究(比較研究あるいは特殊研究)を、新制高等学校における選択科目として設けてもよい、しかし特定の宗教のための宗教教育にならないように注意することが必要である。
● 学校図書館には、参考および研究のために、宗教に関する書籍や定期刊行物を備えつけてもよい。

でも、教育内容から宗教を除外せよとはなっていませんから、宗教がどういうものかを教える授業があった方がいいのではないかと思ってきましたが、昨今の日本と中国・韓国との領土領海問題や、政界の与野党間の議論 には程遠い口喧嘩そのものの争いを見るにつけ、この状況を生んだ根本要因には宗教教育が学校で為されていないことが影響しているのではないかと非常に気になりました。
ただ宗教教育と言いますと一般的には抵抗があるでしょうから、哲学教育を学校教育として公に取り入れてはどうかと云うのが現時点での私の結論です。

そこで一体宗教と哲学の違いはどこにあるのかが気になりました。インターネットで調べて見ますと、次の二つの見解が見付かり、これは妥当ではないかと思いましたので、下記に抜粋します。

見解①:
古来からの宗教の本質は「おしえ」ですね。この教えを分析すると、悟性と理性と感性の部分に分けられます。悟性の部分を強調すると「宗教」とよばれ、理性の部分を強調すると「哲学」と呼ばれ、感性の部分を強調す ると「芸術」と呼ばれるのではないかと思います。哲学にも悟性の部分は当然あるのですが、この部分は誰にもわかるような説明は不可能なので一般的には省略されていますね。例えば純粋理性とか、あるものはあるとし て、説明は避けているのです。
逆に宗教は説明不可能なものに切り込んでいるということでしょう。しかし、宗教にも特徴がありますね。仏教は理性的な部分が多いですから仏教哲学が存し、キリスト教などは、理性的部分よりは感性の部分が大きいの で哲学ではなく芸術的側面が大きいですね。以上のように、「教え」をどのように理解するか、あるいは教えるかということに帰着しますね。難しい教えはなかなか教えることも学ぶことも難しいので感性的な教えが多い ということは理解できますね。そういう意味で理性的な学問としての哲学が学問的には一番適当なのでしょう。でも哲学のもとには悟性の部分があることも事実ですよ。
そのような意味で宗教も哲学も芸術(質問内容ではないが)も教えの側面なのではないかと思います。理性的に見れば見えてくるのかもしれませんね

見解②:
宗教は生活、哲学は考え方 だと思ってます。私はキリスト教徒です。私たちは神様のいる人生を選んでいます。神様と共に生きる信仰生活のなかで、それに基づく自分や人の生き様・人生観などをキリスト哲学と呼ぶの でしょう。イエス様と共に生活する私たちと、仏様を信じて生きる人たちとでは人生観(生きる意味・死ぬ意味)が違います。これらの考え方の違いを○○哲学と呼んでいるのだと思います。

一方哲学とは私たちが〝分からない事〟についてあれこれと考えるのが哲学と言う人もいますし、また科学が解明できていない事柄について考える事も哲学だと云う意見もあります。
たとえば、次のように、答えが人に依って分かれ、色々な意見があるのが哲学のテーマなのでしょう。

・世界とはどういうものか。
・人間とはどういうものか。
・善悪とは何か。
・正義とは何か。
・人間はどう生きるべきか。
・自分であるためにどうすべきか。
・「知る」とはどういうことか。
・どうすれば幸福になれるのか。
・なんのために結婚するのか。
・精神とはなんなのか。

これらの哲学テーマに、一つの答えを用意しているのが宗教であって、しかも宗教に依って異なると云うものではないかと思います。

従って、哲学テーマに関する答えが宗教間でどのようにことなるかを比較しながら教えることが学校教育のあり方ではないかと思います。

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No.1231  2012.09.27
〝いのち旅〟番外編:人身受け難しー文化を考える

仏教徒なら誰でも一度は称えたことがある三帰依文は、「人身受け難し、今已に受く。仏法聴き難し、今已に聴く」と云う一句で始まります。お釈迦様も、生きとし生けるものの〝いのち〟は平等であると お考えになっていたでありましょうが、それでも一方で、人間に生れたことは特別なことだとも考えておられたものと思いますので、このような三帰依文がお釈迦様亡き後に生まれたのではないでしょうか。

何故人間が特別なのか。身勝手な答えをしてはいけない問いだと思いますが、私は一つの答えとして、言語を持ち得た点を挙げてもいいのではないかと思います。言語を持ち得たことで人間同士の意思疎通が 図れ、色々な情報を共有し拡げられ、そして、それに基づいて色々な道具を獲得し、科学的知識を含めた総合的な知識をどんどん増やして文化を造り上げる能力を持つに至ったことは実に驚くべきことだと思 います(文化が人類を滅亡させると云う意見もありますが・・・)。

私たちは日常何気なく言葉を喋って会話を交わしていますし、また、この無相庵コラムのように、文字を書いて情報を発信しておりますが、こんなことが出来るようになったこと自体、仏教的に申しますと、 『不可称・不可説・不可思議』としか言えないことだと思います。

人間に最も近い類人猿の代表であるチンパンジーは、簡単な音声は発しますが、言葉は持ちません。それは、チンパンジーの喉仏と声帯の位置が私たち人類の位置とは違うことに依るらしいのです。

インターネットからの引用―
チンパンジーはコンピューターや手話を使って、簡単な言語を操り我々とコミュニケーションをとることが出来ますが、言葉を明瞭に話すことは出来ません。なぜでしょう?
チンパンジーの喉仏と声帯(声帯は喉仏の裏にある)は、ヒトよりもかなり上にあり、位置的には頭の中にあるのです。そのため、口腔上部のくぼみが少なく声を変化させるための空間が狭く気道が短いので 音声言語を発声できないのです。
ではヒトは?ヒトは喉仏と声帯がクビにあるため、声帯で出した声をクビと口の広い空間を使って様々に変化させることができます。だから複雑な発音ができ、しゃべることができるのです。ヒトは進化し、 二足歩行をするようになった時、喉仏と声帯が段々とクビの方へと下がっていき、話せる様になったと考えられています。またヒトは今でも、赤ちゃんの時は、喉仏と声帯は頭の中にあり、段々と歩けるよう になるにつれて、徐々にクビのほうへ下がっていき、話せる様になるのです。
―引用終わり

ネアンデルタール人の頭脳は私たちホモサピエンスと同じかそれ以上だったらしいのですが、言語が喋れなかったのでホモサピエンスに追い詰められて絶滅したと云う説がありますように、言語が喋られるよ うにまで進化した私たち人類は、やはり特別の〝いのち〟と云うべきかも知れません。
そして、喋れるようになったことに加えて、私が最近読んでいる『胎児の世界』と云う本の中に、音声進化のこれまた『不可称・不可説・不可思議』と言うしかない歴史が述べられています。それは、私たちが発するマ行の 音が哺乳類にまで進化したからこその音声だと云うのです。

『胎児の世界』からの引用―
マ行の「マ・ミ・ム・メ・モ」は、一般に「唇音 labial」とよばれる。唇なしに出てこないからだ。従ってこれは、哺乳動物の象徴音ということにもなる。ネコの「ミャー」、ヒツジの「メェー」、ウシの 「モォー」とともに、人間の赤ん坊の原始の音声が「ンマンマ」であることは万国共通であろう。唇を持たぬ爬虫類では、だから、この唇音にかわるものとして、「口蓋音 gutteral」のカ行「カ・キ・ク・ ケ・コ」が出てくる。もし中生代の恐竜の発したであろう音声を再現するとなれば、このカ行の音を考えなければならないであろう。今日の鳥たちの啼声を聞くがいい。かれらは「栄光ある爬虫類」とよばれ ているのであるから、もちろん哺乳類にも、この口蓋音は、たとえば断末魔の絶叫においてその本性を表すだろう。しかし、この乳を吸う動物たちの日常を彩る象徴的な音声といえば、やはりこの吸乳から出 る唇音を措いてほかにはないと思う。このことは、人間の言葉の発生を考えるうえにおいても忘れてはなるまい。
―引用終わり

人類の文化(仏法も含めての文化)が成り立ち変化を遂げて来た所以・由来を言語を発する能力と云う面から考察致しましたが、勿論、言語を受け取る能力と云う面から考えますと、眼耳鼻舌身意あらゆ る私たちの身体の器官の総力、そして空気、水、植物のみならず、太陽系を含めた宇宙総掛かりの、しかも無限の過去を含めての働きがあったればこそであることに気付かされます。人間が窺い知れぬ世界であ ることを仏法は『不可称・不可説・不可思議』と無条件降伏し、「帰命尽十方無碍光如来」と拝み、『なむあみだぶつ』と感謝するのだと考察する次第であります。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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