2001.12.31

歎異鈔の心―第12條の2項―

●今年最後のコメント
今年も色々な事件がありました。今週の木曜コラムで、同時多発テロはアメリカ的資本主義の限界が来たと受け取るべきでは無いかと申し述べましたが、テロに走るビンラディンも極端、直ぐに報復するアメリカも極端です。極端は危ういものです。思想の極端は、世界を、一般人民を不幸に致します。21世紀は、お釈迦様が説いた『中道を歩む』事で人類の平和への第一歩を標す世紀としなければならないと思います。21世紀の最初の年に発生したテロを、人類の平和を促す天からの強烈メッセージとして受け取らねば、テロの犠牲者は浮かばれない。
  以前のコラム(NO.054)で説明しましたが、中道とは極端と極端の真ん中を歩む事ではありません。両方の良いところを取捨選択しながらジグザグと、しかしまっしぐら目標に向かって歩む事だと思います。 皆さん、良いお年を!

●まえがき
  私は、仏教徒ですが、浄土真宗門徒ではありません。ですから、歎異鈔も客観的に読んでいる積もりです。歎異鈔の中では聖道門と言われ、どちらかと言いますと批判的に語られている禅宗の方のコメントを紹介して、公正公平を図りたいと思います。また歎異抄が親鸞聖人の本意とは少しずれていると言いますか、異なる事を嘆くあまり、誇張された表現とならざるを得なかったと解釈しなければならないとも考えています。下記に、妙心寺派管長を勤められた現代の名僧と言われた故山田無文老師のある本での一節を紹介し、親鸞聖人の他力信心も、禅宗の高僧名僧の悟りの境地も、全く同じだと言う事をお伝えしたい。

わが国の歴史上、宗教がもっとも切実に求められたのは、鎌倉時代であります。天下は源平二氏の大反目、大闘争の渦中に巻き込まれ、やがては、同族相食む修羅の巷と化し、民心は極度の不安に陥れられたのであります。財産も所領も地位も、身分も眷族も生命さえも、なにひとつとして信頼出来ぬ絶望の淵にかりたてられたでありましょう。その時、干天の慈雨のごとく民心を潤し、燎原の火のごとく、一世を風靡したものは、法然上人の唱えだされた、浄土宗であります。学問も要らない、貴賎男女のへだてなく、ただ南無阿弥陀仏と唱えさえすれば、必ず極楽浄土へむかえとられると言う、簡単にして安易な教えは、上は公卿の上臈衆より、熊谷直実のごとき武将から、下は巷の遊女にいたるまで、あらゆる階層に渇仰されたのであります。
  禅宗もそのころ、栄西禅師が入宋伝来されてから、彼我の往来ようやくしげくなって、大いに勃興したのでありますが、朝廷武家等の知識層、指導階級に、多くの信仰を得たのでありました。そこで禅宗は、学問が要る。修行が要る。根気が要る、禅宗は自力宗だと良く言われるのでありますが、この自力他力と言う言葉は、浄土門の方から自宗を宣伝するために唱えだされたことで、禅宗の方から、みずからを自力だと名乗ったことはないのであります。道元禅師も、『仏法をならうというは、自己をならうなり、自己をならうというは、自己をわするるなり』と、いっておられますとおり、仏法がわかるとは、真実の自己がわかることであり、真実の自己がわかるとは、自分と言うものをすててしまってこそ禅であります。強いて自力他力という言葉をみとめるならば、自力とは、自力をすてるまでの自力であり、他力とは、他力をすてるまでの他力でありましょう。禅で自己をわすれたところと、念佛で、はからいをすてたところは、おそらく同じところへ帰入するのでありますまいか。そこは自他の区別のない無心という境地であります。

臨済宗で山田無文老師ほど、親鸞の言葉を引用される方はいないのではないかと思われる位に、講演の中でも、すらすらと引用されました。上の文章は、『白隠禅師、座禅和讃講話』と言う本の中の一節ですが、この本の中でも、かなり沢山の引用文があります。   親鸞聖人は多分、禅宗を難行とは公には仰せになっていないのではないかと想像しております。

●本文
一文不通にして、経釋のゆくぢもしらざらんひとの、となへやすからんための、名號におはしますゆへに、易行(いぎょう)といふ。學問をむねとするは聖道門なり、難行となづく。あやまて、學問して(名聞利養のおもひに住するひと、)順次の往生いかがあらんずらんといふ證文もさふらうぞかし。

●現代解釈
文字ひとつわからず、お経の筋道も分からない人のために、唱え易ように工夫して下さったお念佛ですから、その念佛を唱えて救われる浄土門を易行と言います。学問を大切な条件とするのは、聖道門であり、難行と名付けます。浄土門に帰依しながら、間違って学問して、名聞利養を追い求める人は、この次の世で往生する事は難しいと言う文章もあります。

●あとがき
  山田無文老師の『強いて自力他力という言葉をみとめるならば、自力とは、自力をすてるまでの自力であり、他力とは、他力をすてるまでの他力でありましょう。禅で自己をわすれたところと、念佛で、はからいをすてたところは、おそらく同じところへ帰入するのでありますまいか。そこは自他の区別のない無心という境地であります』と言うご表現は、けだし至言ではないかと感動致しました。
  お釈迦様は、中道を歩む事を大切にされました。極端を嫌われました。多分、自力と他力とを区別されないでしょうし、学問する事を否定はされないでしょう。また学問をことさら奨励もされないでしょう。
  著者は、当時浄土宗に対して投げられたであろう、『浄土門は、学問の無いものが帰依する賤しい教えだ』と言う中傷に対して、反論を試みたのだと解釈したいと思います。


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2001.12.27

痛みの正体

  今年の木曜コラムはこれが最終回。振り返りますと、今年は嘆きの木曜コラムになってしまったように思いますが、最後も決定的な嘆きコラムとして、締めくくりたいと思います。
  小泉首相の発した言葉の多くは、今年の流行語大賞に選ばれました。『痛み』もその中の一つであったと思います。この『痛み』と言う表現には、何処か誤魔化しがあると思うのは私だけではないと思います。『痛み』と言う言葉には決定的なものでない様に思わせるニュアンスがあり、少し辛抱すれば乗り越えられるように受け取ってしまいます。経済的困窮も、単に減給、売上減と言う程度の意味に受け取ってしまいます。小泉首相は、この『痛み』以外にも『三方一両損』『米百表精神』『抵抗勢力』『聖域無き』とか多くの言葉を政治の表舞台に登場させ、今も国民の支持率は70%を超える状況です。また、言葉以外にも、人を感動させる演出をして見せる。貴乃花の優勝の表彰式に自ら出て『感動したぁー』とざっくばらんな挨拶をして見せた。またアメリカ大統領とキャッチボールをして見せたり、ブルーのシャツを着て、歴代の首相とは違う事を印象付けました。だから、小泉首相が痛みはあるが構造改革を断行しなければ日本の再生はないと演説すれば、国民は将来に希望を抱いた訳である。確かに小泉首相の言う通りだろう。政治・行政・経済のシステムを根本的に変えなければ、日本の再生はないだろうが、それに至るまでの『痛み』は、はっきり言って、最終的には個人の経済的な破綻だと思います。具体的には失業、自己破産です。自殺も多くなるでしょう。『痛み』は決して辛抱出来る痛みではないと思います。
  小泉さんが『構造改革無くして景気回復無し、だから、国民の皆さんの中には失業や自己破産と言う目に遭う人も出て来るだろうし、中小零細企業は倒産するところもあるだろうが、しばらくは我慢して欲しい』と言って総裁選を闘っていたら、総裁にはならなかったし首相にもならなかっただろうと思います。『痛み』は、与党・野党を問わず、決して国会議員を襲わない。政治評論家、経済アナリスト、そして不景気をネタとして景気知らずのマスメディアで働く人達を襲うことはありません。『痛み』は、国民の90%を占めるサラリーマン、そしてそのサラリーマンの90%が働く中小零細企業の経営者をもろに直撃するのです。いや、既に直撃しているのです。
  零細企業経営者の私は、来年この『痛み』が現実のものとなる可能性を否定出来ません。『痛み』が現実的になっていなくても、『痛み』が来るのでは?と言う不安も、結構痛いものです。今多くの人々が『痛み』と『痛みの前兆』に耐えかねているはずです。
  痛みが単なる痛みでは無い事は間違いありませんが、この痛みは、小泉首相が創り出した痛みではありません。前のコラムで『歴史のひとこま』と言う表現を使いましたが、私は時代の大きな変わり目に向かう痛みだと考えています。
  ベルリンの壁崩壊は、1989年11月ですが、あれは共産主義社会が崩壊した象徴でした。共産主義では人類に平和・繁栄は来ないと結論付けられたのでした。あれから12年、アメリカの世界貿易センタービルがテロによって崩壊しました。資本主義経済社会の象徴であった建物が崩壊したのです。テロリストの仕業だから突発的、テロリストを徹底的に撲滅すれば良いと言う問題ではないと思う。あの9月11日から3ヶ月経過して、世界は漸く冷静さを取り戻しつつある。今回のテロは、アメリカの間違った政策が原因で生じたものであると、アメリカ以外の国々の政財界トップの58%が考えていると言う。アフガン軍事作戦も過剰反応だったと言うのが40%とも言う。アメリカ国内のトップの意見は、それぞれ18%、0%だったと言う。
  テロは勿論いけないが、テロでしか表現出来ない状況をアメリカを代表とする自由主義社会の陣営が作り上げ、貧困に喘ぐ国々が自らの主張すら出来ない世界を構築してしまったのではないか。
  『いかなる理由があろうとも、無差別テロは許されない』と力強いブッシュ大統領の宣言を聞いて、『確かに!』と思ってしまったが、いかなる理由かを謙虚に聞く耳とバランス感覚こそ必要である。アフガニスタンでも、アメリカの空爆によって一般市民が亡くなったと聞く。3000人を殺したテロは犯罪で、100人を殺した戦争(?)は、許されると言う論理は、誰が考えても成立するはずが無い。
  私達は、世界貿易センタービルの崩壊を機に、アメリカ的資本主義・自由主義の在り方・仕組みを見直さねばなら無いと考えなければならない。世界の貧富の差、情報量の差は、あまりにも大きい。地域を選べば、100:0と言っても良いのではないか。富の偏在がテロを生んでいる事は確かである。共産主義は、平等・公平な社会を目指したものであろうが、結局は豊かで平等な国は実現しなかった。1989年以降、共産主義は敗北し、やはり資本主義だと考えた向きもあるが、そうでは無く、資本主義も結局は人々に安心な国家・世界を実現するものではない事に思い至らねばならない。でなければ、あの約3000人の犠牲者は浮かばれないだろう。
  今日本人の多くが感じている『痛み』も、資本主義の矛盾が生み出したものだと考えねばならない。競争・競争と突っ走って来た道を静かに振り返り、21世紀は、資本主義社会の矛盾点を改良し、節度を持った自由主義世界を構築する出発点としなければならない。小手先の構造改革では、自殺者を増やすだけで、富の偏在は増え、治安すら失われて行くに違いないと思う。
  共産主義の理想は素晴らしい。しかし人間の自由な発想・独創性を育て難いものである事が分かった。資本主義も競争によって切磋琢磨して科学は進歩し、人々は豊かさを享受した。しかし貧富の差を生み、テロ・戦争を撲滅する事は出来なかった。この100年で人類は勉強した訳である。
  弱者の『痛み』を致し方無いものと見過ごすアメリカ的資本主義は、根本的に間違っていると思う。アメリカ的社会を理想として追随する日本の政治の在り方そのものを変革する必要があると思う。そうしないと、いずれ日本でもテロに訴えるオサマビン・ラディン氏の日本版が出現するに違いない。
  私も、こんな事を考えながらも、自分の力でどうする事も出来ないもどかしさで一杯である。10年間一緒に働いてくれた従業員を守る事が出来ないのである。
  明日は皆との最後の忘年会である。


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2001.12.24

歎異鈔の心―第12條の1項―

まえがき:
  現代は情報社会である。先進国で、知識は一般市民に平等にしかも豊富に入って来ている。現代はこの歎異鈔が書かれた時代(1200年代後半)とは市民の知識量においては雲泥の差があると言える程に溢れている。人間の外側について言えば宇宙に関する知識、内側に関しては遺伝子(ゲノム解析)に関する知識、親鸞の生きた時代とは隔世の感があるのである。更に日本の識字率は100%に近いと思う。こう言う現代と800年前では所謂、時代が違うのであるが、信仰の世界では、どうであろうか。幾ら経典や聖書を徹底的に勉強しても、暗記しても信心を得る(平穏なる境地、悟りの境地)には至らないと思うし、哲学と信仰は全く異なると言っても良いと思う。信じるか信じられないかの世界である。だから浄土真宗では、古来、妙好人と言って、小学校程度の勉強しかしていないけれども、信心の面では奥深い心境に至った人がかなり出現しているである。しかし、現代は、なまじっか知識が多く、信心を得ると言うのはなかなか難しいと思う。哲学的考察だけでは信心を得られないとは思うが、ただ誓願を信じて念佛を唱えれば良いと言うお説教だけでは、現代人は信心の世界に入られないのではないかとも思う。
  そんな事を考えながら、この條を読みたい。

本文:
経釋をよみ學せざるともがら、往生不定のよしのこと。この條、すこぶる不足言の義といひつべし。他力眞實のむねをあかせるもろもろの聖教は、本願を信じ念佛をまふさば佛になる、そのほか、なにの學問かは往生の要なるべきや。まことに、このことはりにまよへらんひとは、いかにもいかにも、學問して本願のむねをしるべきなり。経釋をよみ學すといへども、聖教の本意をこころえざる條もとも不便のことなり。

現代解釈:
経典を読まない人は、往生出来ない等と言う人がいるようですが、これはとんでもない言いがかりです。他力の教えは、本願を信じて念佛すれば救われると言う以外に、何も学問などは必要ありません。
この事が信じられない人は、経典を勉強して、本願の意味を能く勉強して知れば良いと思います。経典を読んで学問的に研究しても、本願の本当の意味が分からない人は、本当に気の毒なことです。

あとがき
  親鸞も、その師匠の法然も、漢訳経典はすべて勉強したと聞いております。また私が実際にお会いし講演を直接お聞きした現代の親鸞とも道元とも言われる方々も、等しく学問的にも深く深く研究されて、且つ信心を得られた(悟りを開かれた)方ばかりです。故山本空介師、故井上善右衛門先生(元神戸商科大学学長)、故加藤辨三郎師(協和発酵社長、在家仏教会会長)、山田無文老師(臨済宗妙心寺派管長)、柴山全慶老師(臨済宗南禅寺派管長)、西川玄苔老師(曹洞宗宋吉寺)が、その方々です。何れの方も、著書も多く、哲学者としても、大学の学者も及ばない位に研究され尽くしておられます。
  信心は理論面だけの追求では得られない事は間違いないと思いますが、現代では、ただ信じなさいと言うだけでは駄目でしょうし、この條ではどちらかと言いますと学問を否定的に論じているように感じますが、現代人は、学問的、即ち哲学的にも深く勉強し尽くして、信心とはどういうものであるかを充分頭でも理解し、その上で信心の世界に入ると言うステップを経ると言うのが、道筋ではないかと思う。
  これは飽くまでも、今の私の心境レベルでの発言です。信心を深めれば、大きく変わるのかも知れませんね。


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2001.12.20

歴史のひとこま

  西暦3000年の日本の子孫達が西暦2000年の頃を歴史的に振り返る時が必ず来ると思うが、その時はどんな時期として評価するだろうか?2000年を挟む10年間は、それまでの高度成長期から低成長期への過渡期として、土地神話の崩壊、サラリーマン受難時代、大企業の倒産、大企業同士の合併、初めてのデフレスパイラル、工業の空洞化などの言葉で語られるかも知れないが、それは極々限られた歴史家しか知らないほんの歴史のひとこま程度のものではなかろうか?勿論、小泉改革なんて事は、一切語られる事はないだろう。現在を生きている私達にとっては、今が、歴史的にも特筆すべき時代のように思ってしまうが、長い歴史の中では、そう注目される時期ではないのかもしれない。むしろ、明治維新や太平洋戦争・原爆投下、そして今年のアメリカ同時多発テロの陰にかくされてしまう程度の、歴史のひとこまとなるだろう。
  私達が今、西暦1000年の事をどの程度知っているだろうか?多分殆どの人は、歴史書を紐解いて始めて、未だ源平の時代でも無い、勿論親鸞も生まれていない、藤原道長が太政大臣として全盛の頃であり、枕草子、紫式部が源氏物語を書いた頃である事を知る程度の事である。
  何が言いたいかと言うと、凄い時期に遭遇したとか、不運だとか思わずに、歴史のひとこまとして冷静に乗り越えるべきではないかと。私達の祖先も、それぞれの時代で大変な目に遭って来ているのである。今の私達だけが、特別に苦しい目に遭っている訳ではないと、第三者的にこの時代を見る余裕を持つ事も大切だと思う。そして、乗り越える工夫をする事に全力を注ぎたいと思う次第である。


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2001.12.17

歎異鈔の心―第11條の3項―

まえがき:
  仏教は科学的な宗教です。空と言う考え方も、科学的に言い換えて説明しますと、この地球上、いや宇宙に存在するものは、すべて素粒子から出来ており、素粒子の集まり方で、たまたま土になったり、水になったり、はた又人間になったり、植物になったりしているだけであり、いずれ変化して行くのであり固定的な存在ではない。だから、今目で見ているものは確かに見えているが、今たまたま見えているだけで、これと言う実体がある訳ではないと。
  素粒子の事を紀元前の昔から、仏教では極微と言う言い方をしています。太古の昔からですから、極めて科学的であると思います。
  この條での誓願についても、科学的に説明するならば、地球を動かし、宇宙を動かしている大きな力の事であると考えて良い。人間とは本来清浄な心を持っており、良い人生を送りたい、もし生まれ変わる事があるとしたら、更に良い人生に生まれ変わりたいと思うものである。天国へ生まれたい、浄土に往生したいと願うのが正常だと思う。こう思わされるのは、そう言う力が私に働きかけているのだと考えるのである。それが誓願だと考えて良いでしょう。そして念佛(名號)も、単に誓願を心で信じるだけでは、心もとないだろうと言う、やはり誓願の不思議な働きによって、人間が口に出して唱えられる念佛を作り出して下さったと考えるのが、素直な受取り方だと思う。
  これを疑うならば、それはもう仕方無い事だと思う。親鸞が申されましたように、後は念佛を取ろうと、どうしょうと、それは皆様のおはからいによるものだと。

本文:
つぎに、みづからのはからひをさしはさみて、善悪のふたつにつきて、往生のたすけさはり二様におもふは、誓願の不思議をばたのまずして、わがこころに往生の業をはげみて、まふすところの念佛をも自行になすなり。このひとは、名號の不思議をも、また信ぜざるなり。
信ぜざれども、邊地懈慢(へんちけまん)、疑城胎宮(ぎじょうたいぐう)にも往生して、果遂の願ゆへに、ついに報土に生ずるは名號不思議のちからなり。これすなはち、誓願不思議のゆへなれば、ただひとつなるべし。

現代解釈:
そして次に、自分のはからいを差し挟んで、善悪の分別に拘泥し、善は往生の助けになり、悪は妨げになると区別して考えるのも、誓願の不思議を信じないで、自力に頼って往生しようとしており、唱える念佛も自力の念佛であると言わなければなりません。そして、この人はまた、名號の不思議も信じていないことになります。
しかし、有り難いことには、たとえ自力にしても、名號を唱える者をお捨てにならず、誓願の不思議も名號の不思議も信じてはいないけれども、邊地懈慢(へんちけまん)、疑城胎宮(ぎじょうたいぐう)という仮の浄土に往生させてくださる。これは何とかして真の浄土に往生させようと言う慈悲が働いているから、往生出来るのです。これは名號の不思議な力によるものであり即ち必ず往生させたいと言う誓願の不思議にもよるのです。だから誓願の不思議と名號の不思議は別にあるものではないのです。

あとがき
  浄土宗も禅宗も、はからいを嫌います。素直な心を尊びますし、素直な心でないと、仏には成れない、即ち成仏(往生)出来ないと言います。
  『幼子が次第次第に智慧付きて、仏に遠くなるぞ悲しき』と言う古歌がありますが、赤子には、はからいがありませんから、周りの人は、喜んで世話します。お腹が空いたら、ただ泣いて訴える、嬉しい時は屈託の無い笑顔になります。何も策略や僻みもありません。大人になると、お腹が空いても我慢をしたりします。人の顔色を窺います。『あの人はどうも私の事が気に入らないのではないか』『あの時こうすれば、こんな事にならなかったのではないか』と色々とはからいます。この條では、誓願の不思議を信じるか名號の不思議を信じるか等と言うのは、はからいであり、そう言うはからいからはなれなさいと言うのです。
  大人は赤子のようには生きられない、世間には常識と言うものがあると、私達凡人は思いますが、赤子のように生きた人がいます。江戸時代の良寛和尚です。いずれは良寛についてコラムで取り上げたいと思いますが、はからわないで生きる事は簡単そうで、実はなかなか出来ない事なのです。四六時中はからっているのが私達凡夫なのです。


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2001.12.13

日本の病(やまい)

   先日、大量の人員削減に踏み切った大手電機メーカーの社長が『雇用は経営の目的ではなく手段だ』と言ったと新聞記事で読んだ。ショックであった。遂に日本はここまで堕落したかと言う想いであった。
   そう言いながら、私も来年1月末に十数人の従業員を路頭に迷わせる事になっているから結果的には、同じ事をする訳であるが、決して『雇用は経営の目的ではなく手段だ』とは思っていない。雇用も一つの重要な経営の目的だと思っている。
   最近は、ビジネスの世界では妙に合理主義がもてはやされている。『利益を上げないと企業ではない。人材の育成よりも利益が大切だ』と冷徹な経営を、さも現代的経営手法であると言う考え方が大勢を占めている。義理・人情を言う経営者は、古い経営者と断じられている。
   確かに人を育てると言って、会社が倒産してしまえば、何にもならない。先ずは会社が継続するための努力をしなければならないが、『雇用は経営の目的ではなく手段だ』とまで言い切るとなると、行き過ぎだと思う。グローバルスタンダード(国際標準)とかで、日本の文化をすべて放棄して、アメリカナイズされてしまった事の象徴的発言であり、情けない想いがしたのは、私だけだろうか。
   戦争に負けると言う事は、こう言う事なのかも知れない。戦後55年ですっかり日本は、精神文化面でも、アメリカの占領国になったのだと、改めて戦争の恐ろしさ・悲惨さを知った想いがしている。
   私も、その渦に巻き込まれ、何も成すすべなく、事業を諦め、雇用を放棄しなければならないのが目前に迫っている。今、音を立てて日本が日本的社会が崩れ落ちようとしている気がする。
   これを押し留めるためには、どうすれば良いだろうか?構造改革無くして景気回復無しと言う小泉さんにお任せしていたら良いのだろうか?この痛みが、日本を再生するための痛みなのか、『雇用は経営の目的ではなく手段だ』と言う日本を代表する経営者の言葉を聞いて、疑問に思えて来た次第である。
   日本の病の原因は、他のところにあるのではないかと思う。


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2001.12.10

晩節を汚す(ばんせつをけがす)

  この言葉は、人生において功なり名を遂げた人が、第一線を退く最後になって、不祥事、或いは事件を起して、それまでの名誉を一挙に失うに至った時に称する文言である。
  つい最近、阪神タイガース監督を辞任せざるを得なくなった野村克也氏がこれに当て嵌まると思い、この文言を思い出した次第である。セクハラ訴訟で退任した前大阪府知事の横山ノック氏、資産隠し訴訟で係争中のそごうデパート水島会長などの場合は、社会的な要職にはあったものの、晩節を汚すと言う程、名誉・尊敬を集めていなかったと思う。
  野村氏の場合は、本人が不祥事を起した訳ではないと推察されているが、主としてご自分の所得の税務処理に関する事件であり、まして妻が容疑者として逮捕された訳であるから、夫婦一心同体と言う感覚からして、間違いなく晩節を汚しており、しばらくは浮世の表舞台を離れて蟄居(ちっきょ)する事になるだろう。
  野村氏は、選手時代は戦後初めての三冠王に輝き、そしてホームラン王と言えば野村と言う輝かしい時代(8年連続)を築いた選手である。監督としても、南海ホークス(現ダイエーホークス)時代に一回のパ・リーグ優勝、セ・リーグのヤクルトスワローズの監督としては、3回日本一の監督に輝き、名監督の地位を築いた。名選手であり且つ名監督と言うのは、あの読売巨人ジャイアンツの不動の4番打者、そして読売巨人ジャイアンツの監督として日本シリーズ9連覇を成し遂げた川上哲治氏以来ではないかと思う。
  ヤクルト監督を辞任した段階で、功なり名を遂げての球界引退のはずであったが、しかし3シーズン前、大きな期待を背負って、最下位に低迷する阪神タイガースの監督に就任した。誰もが選手掌握術、人間管理能力に長けた人物として尊敬し、自身も自分の選手育成手法、戦法に自信を持ち、著書も多く出版され、自信満々のタイガース入りだったと思う。そして多分、野村監督自身も、自分の手法に付いて自信を確信にしたいが為に、敢えて最下位のタイガースの監督を引き受けたに違いない。そして1シーズン目の夏までは、確かに野村・野村の時代であった。純金製の野村監督像すら販売された程である。誰もが、前シーズン最下位の阪神タイガースが、ひょっとすると優勝するかもしれないと期待したものである。実際、夏前までの前半戦には、一度首位に立ったのである。恐らくは野村自身も、その時が最高に高揚した瞬間ではなかったろうか。
  私は幼い頃からの巨人ファンであるが、この年ばかりは阪神タイガースファンになって応援した。巨人のライバル阪神タイガースを応援する事情があったのである。それは私の学生時代のテニス部の3年先輩(高田順弘氏)が、阪神タイガースの球団社長に野村監督と同時就任した年でもあったからである。野村を招聘したのが高田氏であったかどうかは今もって分からないし、問い詰めても真実は語られないと思うが、兎にも角にも我々テニス部OB会は、揃ってタイガースを高田社長を応援もし、鼻も高かった時期であった。
  しかし、首位に躍り出る頃に、野村沙知代の色々な醜聞が新聞紙上やテレビワイドショーを賑わし始めた。その後は、一度も盛り返す事もなく定位置の最下位に転落して行った事は衆知の通りである。野村監督の人間性にも?が付くような前妻に関する昔話も取り沙汰されたものであるから、私は正直、野村監督にはもう組織の統率は取れないと危惧したものだった。その後は、タイガースの長期低迷と、野村監督の暗さ、口の悪さも手伝って、イメージは悪化の一途を辿った。そして今回の野村沙知代逮捕となった次第である。
  そして、12月5日の深夜の辞任記者会見となり、正に晩節を汚しての球界引退となった。
野村監督は、自らあの長嶋茂雄氏をひまわり草、自分を月見草に喩えて、卑下しつつ、勝負を挑んできたのであるが、今年奇しくも両雄同時引退となった訳であるが、その引退の仕方、セレモニーこそ、野村の自嘲する喩通り対照的になってしまったのは、野村自身痛恨の極みであろう。
  痛恨の極みではあろうが、私は、野村氏自身、今回の結果(晩節を汚す事に至った事)は、それまでの人生の色々な局面で、晩節を汚す種を自らが蒔いていた或いは芽が出掛かっていたのだと言う考察をして欲しいと思う。
  一般的に晩節を汚す行為は、お金に関する事であるか色欲に関する事で、その人の価値観・人生哲学に起因するものだと私は考察している。
  お金が一番の価値観で一番大事ならば、死ぬまでお金のためなら何でもするだろう。誰でもお金は欲しいし、大切なものだ。しかし、名誉とお金と比べる時、人間性が分かれる。お金が大切な人は、犯罪すら怖くないのである。一方家族や人への責任感と自分の欲望の満足感のどちらを選ぶかと言う場合に、自分の満足感を大事にする人は、色欲で晩節を汚すに違いない。
  私は、野村克也氏に追い討ち掛けて非難する積もりはない。ただ自分の蒔いた種は自分で拾うしかないし、その責任もあると言いたいのである。氏を球界の偉大なる先輩としてだけではなく、人生の師匠として尊敬している選手も多いと思う。66歳、未だこれからの人生も長い、名誉挽回の奇手を練って欲しいと思うのは私だけではないだろう。


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2001.12.06

幸せ所感

  仏教は、積極的に幸せとは何か、幸せになるためにはどうすれば良いか、と言う問には答えていない。苦を滅すれば幸せになれると言う。苦を滅すれば悟りの世界に入り、それが本当の幸せだと言う。
  これも間違っていないが、現代人には如何にも消極的見解と受け取られているだろう。仏教の言葉に『少欲知足(しょうよくちそく)』と言う文言がある。これも、『欲を少なくして、足る事を知りなさい、そうする事でしか満足感は得られない』と言う事であるが、何か修業僧的な雰囲気があり明るくない。一般の人には受け容れ難いと思う。
  仏教講演会で、幸せと言うテーマで何回か次の様な喩え話を聞いた事がある。『1時間の幸せを感じたかったら、レストランへ行って好きな料理を食べなさい』『1日幸せを感じたかったら、新しい服で身を飾ってお出かけしなさい』『1週間の幸せを得たかったら、新車を買いなさい』『1ヶ月間の幸せに浸りたかったら、結婚しなさい』『1年幸せを持続したいのなら、家を新築しなさい』。何か分かるような気がするが、幸せはそう長くは続かないよと言う事を言いたいのだと思う。そして、『一生幸せでいたいなら、信仰を持ちなさい、信仰を共にする友を持ちなさい』と言うのが講師の結論である。
  私は何回も聞かされて来たし、正しい見解だと思うが、私の兄が、兄は私と違って仏教講演を1回とて聞いた事は無かったと思うが、ある時『どうも仏教の話を聞いている人は暗い、何処か晴れやかではないなぁー』と私に言った事がある。その時は、『確かになぁー』と思いつつ、仏教徒もこう言う印象を持たれる様では困ったものだと思った記憶がある。確かに四苦(生老病死)を苦としない様に信仰を深める努力も大切であるが、一方積極的に幸せを求めて、明るい人生を送りたいものである。
  私のこれまでの人生経験で、幸せを満喫出来るのは、良き人間関係の中で生活する事に尽きると思う。積極的に良き友人を求め、良き友人との接触時間を積極的に持つ事だと思う。
  勿論、仏教でも、怨憎会苦(おんぞうえく)と言って、人間はどうしても嫌な人間関係に遭遇するものだと言われ、四苦八苦の八苦の中の一つとして数えられているが、極力そう言う方々とは距離をおけば良い。わざわざ悪い人間関係に身を置く事はない。良き人間関係に身を投じる努力をすべきだと思う。そしてやはり布施を忘れない事だ。ギブアンドテイクではなく、ギブアンドギブの精神で、良き人間関係を更に良き人間関係に育て上げれば、これに優る幸せはないと思うが…………どうだろうか?


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2001.12.03

歎異鈔の心―第11條の2項―

まえがき:
  阿弥陀仏、本願、誓願、名號と言う文言を聞いたり見たりすると、どうも末香臭くて、自然科学の知識を学ぶようになった現代人は、敬遠してしまう。神懸かり的と言うか、架空の世界の事、非科学的と感じるに違いありません。私もそうです。俄かには信じ難い事です。
  親鸞の生きていた時代は1200年代、源頼朝、義経の時代ですから、地球を遠くから見た映像も見た事もない、まさか月に人間が降り立つ事も想像すら出来ない時代です。遺伝子的に見れば、人間も他の動物、バクテリアも植物さえも、そんなに変わらない事も分かっていない時代です。天気の移り変わりも今では予測が出来る理屈も仕組みも分かっていますが、当時は、何か大きな力によって、例えば神様と言う存在が、天気を支配しているように感じられたとしても、不思議ではありません。
  そういう時代と現代とでは大きく知識の深さ・幅広さが異なっている訳で、親鸞の教えも、表現を変えないと現代では受け容れられないなと思います。
  しかし一方、この自然界に付いての知識が深まり、幅広くなるにしたがって、人間の思い上がりと言うか、自力に頼る傾向は、親鸞の時代と比較にならない位になっています。それだけに自力を否定し他力にすがり難くなっている訳ですが、現代の人間の知識にしても、宇宙の真実・真理の深さと幅広さからすれば、1%も理解していないと考えるべきではないかと思います。
  そういう謙虚さに戻らなければ、とても阿弥陀仏の事を信じられないと想いながら、この條を読んでいるところです。

本文:
誓願の不思議によりて、やすくたもち、となへやすき名號を案じいだしたまひて、この名字をとなへんものを、むかへとらんと御約束あることなれば、まづ弥陀の大悲大願の不思議にたすけまひらせて、生死をいづべしと信じて、念佛のまふさるるも如来の御はからひなりとおもへば、すこしもみづからのはからひまじはらざるがゆへに、本願に相応して實報土に往生するなり。これは誓願の不思議をむねと信じたてまつれば、名號の不思議も具足して、誓願名號の不思議、ひとつにしてさらにことなることなきなり。

現代解釈:
  阿弥陀様の本願の不思議な力によって、私達のような愚かな者にも覚え易く、唱え易い名號を考え出して頂き、この名號を唱える者を救ってやろうと言うお誓いがあるのですから、、この阿弥陀仏様の大悲大願の不思議に助けられて、迷い流離う世界から解脱するのであると信じて念佛を唱えるさせて頂くのも、自分の力ではなく阿弥陀仏のお力のお陰であると思えば、決して自力のはからいが混じったことにはならないのであります。そうですから、念佛を申しながらね阿弥陀仏様の本願にによって往生させてもらうのです。これと言うのも、誓願の救いの不思議を信じさえすれば、自ずから名號の不思議も備わっていていると考えられるからです。ですから、誓願の不思議も名號の不思議も一つであって、決して別にあるものではないのです。

あとがき
  不思議と言うのは、不可思議(ふかしぎ)と言う事で、人間の智慧・知識が及ばない事を言います。だからどんな事でも人間の力で解決出来る、解明出来ると言う探求心は大切ではありますが、それが思い上がりになってしまいますと、信仰の世界には永遠に入れないと思います。


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2001.11.29

苦しみの正体

  NO.125のコラムで『何故、この苦しい世の中を生きなければならないのですか?』と言うテーマで苦を取り上げました。お釈迦様は苦しみについて洞察され、苦しみから解脱する道を四諦と言う形でお示しになられました。後の人々は、六波羅蜜と言う悟りの世界へ生まれるための努力について、まとめました。四諦の中に道諦として八正道があり、六波羅蜜の一つに布施行がある訳です。
  私は、私の経験に基づき、別の観点から苦しみについて洞察してみたいと思います。勿論お釈迦様の注目された苦しみも、本文の苦しみも精神的苦しみ、心の苦しさを対象と致します。
  私は、苦しみとは近い将来(精々1年以内)、自分の状況(資産、地位、人間関係、健康、生命)が現在よりも悪化するかも知れないと言う不安から来るのだと思います。私は今会社の経営危機を迎えており、半年以内に個人の資産・地位・人間関係を失うかも知れない不安が現実となっています。今の状況が苦境なのだと思います。本当にそれが現実になった時は、私は苦では無くなっていると思います。現実を受け容れるしかない訳で、もう失うものが無い状況ですから、葛藤は無いと思うのですが如何でしょう。億万長者になったら、お金の苦労がなくなるかと言うと、そうでは無いと聞きます。5憶円が4憶円に減るのが苦しみになると言います。地位に関しても、横綱になるまでも苦しい修行が必要ですが、横綱になった方が、その地位を失いたくないと言うプレッシャーとの戦いの方が数倍苦しいと聞いた事があります。今年大リーグでMVPと言う最高峰を極めたイチロー選手も、私達から見れば、幸せの絶頂だと思いますが、本人は既に様々なプレッシャーとの闘いが始まっているに違いありません。人間は、どんなに財産があっても、どんな高い地位にあっても、満足はしないどころか、やはりそれを失う不安即ち苦しみから解放される事はないのです。マイナス変化が苦しみなのです。仏教で言う四苦(生・老・病・死)も、生まれて生きる事自体が苦しいのではなく、将来の幸せが確定していない不安が苦しいのだと思います。老いも老いそのものが苦しいのではなく、この老いが進行してもっと不自由になるかもしれないと言う不安が悩ましく、その先には確実に死が待ち受けているからこそ苦しいのだと思います。病も然り、治る確約が無い、治るとしても何時治るのかが確定していないから悩み苦しむのだと思います。
名誉欲・財産欲・食欲・性欲・睡眠欲の5欲が満たされない事が苦だと言いますが、マイナス変化が現実的な苦ではないでしょうか。
  このマイナス変化と言う観点を転換して、単に変化と捉えれたら、苦ではなくなるのではないでしょうか。マイナス思考を止めてプラス思考にと言う意味ではありません。世の中は変化するものだ、人間社会は常に変化するものだと言う、極々当たり前の考えです。マイナスは人間が勝手に感じているもので、マイナスは見方を変えればプラスかも知れない訳です。
財産や地位を失う事で、別の幸せ(例えば良き人間関係)が到来するのかも知れません。
  こうなると、仏教の無常観(常無し)と言う事に帰結してしまう訳ですし、般若心経の一切空と言う視点になる訳です。苦から解放されるには、やはり空を体観しなければならないのですね。
  それでは上述で言及しなかった死は、何故苦なのでしょうか?『死ぬよりはまし』『死んだ方が良い』と言う死の瞬間がどんなものか分からないのに、何故か一番怖くて最高の苦と言えます。多分全く想像も予知も出来ない世界に飛び込む底知れない不安に恐怖を覚えるのだと思います。この世との別れがはっきりした瞬間にどんな事を想うのか、どんな苦しさなのか、更に死んだらどうなるか誰にも分かっていません。それこそ死ぬまで、いや死んでも分からないのでしょう。私も死ぬのはやはり怖いです。毎日眠りに着いて、この世を意識しない時間を経験しているわけで、死とはそのまま眠りから醒めないままだから、死んだとも生きていると言う意識すらないのだから、どうと言う事はないのではないかとも言い聞かせては見るけれど、やはり何だか怖い。死は、経験者が存在し得ないだけに、永遠に分からないままですから、不安はひとしおです。自分も空の対象なのだと言う事を体観出来たら、死も受け容れられるはずですが、自分以外の事象は、案外と空と認識出来ても、自分自身も空そのものだと認識出来るには、相当の苦しみを経験して、乗り越えて、色即是空・空即是色と言う境地に到達出来た瞬間なのでしょう。また、自力の限りを尽くし果てて、宇宙の真理(宇宙を動かす力、浄土真宗では絶対他力と言う)に我が身を委ねて、思わずお念佛が口から出た瞬間が、自分も空だ、自分が宇宙そのものだ、自分と自然は一体だと言う、禅の悟りの世界に入った瞬間だと思います。


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