No.1320  2013.09.09
完―自己愛に付いて(真実の自己に遇うとは?)

自分を愛する事と自分の命を愛する事は全く違います。

自分を愛すると云うことは、自分がこの世に生れてから得た身体・家族・様々な所有物・知識・経験・能力・目標・希望・夢に執着することであります。
その自分を愛すると云うことは、自分の命が存在している所以即ち自分の命が周りの人々に支えられ、多くの生命の犠牲の上に成り立っている事実、地球そして宇宙全体に支えられている事実、自分の命を 遡れば数十億年間連綿と命のバトンタッチを繰り返されて来た事実を尊く思い愛すると云う自分の命を愛する事とは全く次元が異なります。

自分を愛すると云うことは、他人よりは先ず自分第一にならざるを得ませんが、自分の命を愛すると云うことは、命の尊さに気付くことであり、必然として他の命の尊さ、更には全ての命の尊さ、延(ひ)い ては、山川草木を含めて全ての存在を尊く思う心の目覚めだと思うのです。それが真実の自己に遇うと云う事だと思うのです。

以前、〝いのち旅〟と云うコラムシリーズに取り組んだことがありましたが、それは真実の自己に遇おうと云う一つの試みでありました。世間一般で云われる自己愛の自己が〝いのち〟の尊さに根差した無意 識の自己に転換する時、第二の誕生と云われる真の人間に生れたことになるのだと思いますし、それを仏法では『信心を獲た』とか『悟りを開いた』と云うことだとも思います。

他の動植物には多分自分と云う意識も自己と云う意識も無いと思われます。従いまして、決して第二の誕生は有りません。自己愛を持つのは人間だけだと思いますが、真実の自己に遇えるのも人間にのみ与えら れた恵みだと思うのです。真実の自己に遇う権利が有るとも、責任も有るとも言い得るのではないかと思います。

その恵み、権利、責任に気付く為にあるのが仏法だと私は思っています。
その事に世界のリーダー達が気付かなければ、国家間の紛争も戦争も無くならないだろうし、身近な人間関係で激増している離婚も離婚予備軍も無くならないだろうと思うのです。

帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま


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No.1319  2013.09.05
続々―自己愛に付いて(真実の自己に遇うとは?)

『自己』と云う場合、〝真実の自己〟と云われる自己と、〝自我〟と云われる自己の2種類があると前コラムで申し上げました。そして、『自己愛』は誰でも持ち合わせているものではあるけれども、 日常生活では呼吸と同様に無意識に働いているものだとも申し上げました。

無意識だから厄介なものであります。自分が気付かないうちに他人に不快な想いを抱かせたり、精神的に傷付けてしまい、知らない間に社会で孤立してしまう事さえ有り得るからであります。更には 犯罪まで引き起こして強制的に社会から隔離されることも決して少なくない事はマスコミ報道で日常茶飯事的に見聞きするところであります。
『自己愛』は誰でも持っている人間の心でありますから、私たちは誰でも犯罪者に成り得るだけに『一番大切な人生のテーマ』だと申しても過言ではないと思います。

道元禅師が「仏道を習うと云うは、自己を習うなり。」と仰ったのも、『自己』が『一番大切な人生のテーマ』だと思われたからではないかと思いますが、私たちは先ず、自分の〝自己愛〟を認識す ることからスタートしなければならないと思います。仏法を聴くと云うことは、自分の自己愛を聞き知ると云うことでもあると思います。

自己愛に気付きますと、自分の考え方も言動も全てが自己愛から出ていることに気付かざるを得ません。しかし、繰り返し繰り返し気付いても自己愛を葬り去ることは出来ません。その空しい努力を 続けられて、「浄土真宗に帰すれども 真実の心は ありがたし 虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし」、「悲しきかな 愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、 定聚の 数に入ることをよろこばず、真証の証に近づくことをたのしまず、恥ずべし、傷むべし」とご自分を悲嘆されたのが親鸞聖人であります。

後者のお言葉(教行信証からの引用)を現代の言葉では「ああ、情けない親鸞だなぁ。愛欲の広海におぼれ、名誉欲と利益欲に ふりまわされて、〝浄土へ往ける身になった(定聚数に入る)ことを よろこばず、〝仏のさとり(真証の証)に近づいていること〟も、たのしまないとは。どこどこまでも情けないなぁー、恥ずかしいことだなぁー、悲しいことだ」と訳されていますが、これは、親鸞 聖人が〝自己とは何か、自己とは何者か〟を徹底して追及され見詰め直された揚げ句(大死一番)に、『本来の自己(仏)』に出遇われたからこそ率直なお気持ちを吐露されたのだと思われます。つ まり、ご自分の自己愛を隠されることなく、卑下される訳でもなく、誇張されることも無く、『真実の自己』を語られた実に素直なお言葉ではないかと思いますが、如何でしょうか・・・。

次回、『完―自己愛に付いて』に続きます。

帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま


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No.1318  2013.09.02
続―自己愛に付いて(自己とは?)

先ず、「自己とは何か?」を仏教哲学的に考察してみましょう。
『自己』には2種類あります。〝本来の自己とか真実の自己〟と云われる自己と、〝自我とか己我〟と云われる自己です。私たちが「自分」』と言う時は〝自我とか己我〟の方の自己です。道元禅師が「仏道をならふといふは、 自己をならふ也。自己をならふといふは、自己を忘るるなり。」と仰った前者の自己は〝本来の自己とか真実の自己〟のことで、後者の自己は〝自我とか己我〟の事だと思われます。前回のコラムから使用している『自己愛』 の自己は勿論、〝自我とか己我〟の方の自己です。

この本来の自己と自我の自己との違いを、哲学者である山田邦男氏は下記のように説明されています(こころの時代『生きる意味を求めて ヴィクトール・フランクルと共に』より)。

山田邦男氏の説明―
例えば、いま「ゴーン」という音が聞こえたとしますね。その「ゴーン」と音が聞こえているその時は、私の意識なり感覚が「ゴーン」のところへ行っているわけですね。超越しているといいますか、・・・ただ「ゴーン」と 鳴っていて、そして0.0何秒かしてこれは鐘の音だとか。どこそこの寺の鐘の音だとか、これが鳴ったら何時だとか、あるいはその音を私が聞いているのだとかね・・・それが何であるか、そしてそれを聞いているのが誰である とかね、こういうことは全て「判断」と言いますか、考えているわけです。

その考える以前、「ゴーン」となっている以前只中では、自分は「ゴーン」になっているわけです。なっていると言うとおかしいですが、我も忘れてそうしてその音が何であるのかということもまだ判断する以前のところですね。
西田幾多郎の言い方ですと「主客未分」、主と客、私と鐘が未分、分かれていない。そこにあるのはただ「ゴーン」という音だけなんです。これは西田先生の場合でもそうですし、フランクルの場合でもそうなんですが、人間がも のを考えたりする場合でも、その考えるというそのこと自身も考えている只中では考えられないのです。

何かについて考えている場合には、その方へ自分の意識が全部行ってしまっているんです。このようにですね「ゴーン」という話から、まあ西田の言葉でいうと「色を見、音を聞く刹那」その瞬間、只中ですね。
そういう只中においては、自分はそのものへ出ていってしまっているわけですね。それを自己超越というふうに呼んでいるんですけれどね。自己を超越してそちらの方へ出ていってしまっていると・・・そういうことが人間の本 来のあり方なんだと・・・・。

―山田邦男氏の説明終わり

私は、生まれたての赤ちゃんの時の自己と、生れてから色々な知識・経験から自分なりの判断力を付けてしまった自己の違いではないかと思います。自己愛が未だ芽生えていない幼い子供達の言動を見て私たち大人は〝虚心〟と申しま す。綺麗な物を見れば、ただただ「きれい!」と云う表情をします。怖い目に遇えば、ただただ怖がります。真っ新な目で事物を有りのままに見ているのです。私たちは、直ぐに過去の知識経験から相対的に評価し、「大したことは無 い」とか、「こんなことで驚いては恥だ」とか、事物に遭ったとほぼ同時に所謂〝雑念〟で対応します。
山田邦男氏はその大人と子供の違いを念頭に置かれて説明されたのではないかと思います。幼い子供達は〝事物を有りのままに見る自己〟が前面に出て居り、私たち大人は〝事物を主観で見る自己〟が前面に出て居る訳だと・・・。

以上の自己に関する考察から、『自己愛』は事物を有りのままに見ることが出来ない自分を絶対視している無意識の心だと言えると思います。

次回に続きます。

帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま


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No.1317  2013.08.29
自己愛に付いて

自己愛は誰でも持ち合わせているものだと仏法は考えます。人間、自己愛が無ければ多分精神的成長も色々な技術・技能・知識の習得に努力はしないでしょう。でも、この自己愛が私たちに苦しみを齎す煩悩の源でもあるとも考えます。
なお、『自己愛』と言いますと〝自分をこよなく愛する〟と云う心持ちを表わすように受け取られかねませんが、哲学的・心理学的には『自我』とか『自己中心性』と云うものであり、「自分の考えに間違いは無い」とか「他人は自分にサー ビスして然るべきだ」と云う意識であり、それを男性の場合に当て嵌めますと、〝俺が俺が・・・〟と云う尖がった考え方を『自己愛』と申し、人間としてはかなり厄介な性質だと思います。

しかし、私たちは日常生活の色々な場面でこの自己愛を意識して言動することは通常殆どありません。私たちは無意識のうちに呼吸していますが、その呼吸と同様、自己愛は無意識のうちに常に私たちの全ての言動を決めているのだと思います。
ただ、人間生まれた時には自己愛は芽生えていないのではないかと思われます。赤ちゃんはお腹が空(す)くと泣いて母親に訴えますが、それは本能から来たもので自己愛から出たものでは無いと思います。しかし、その泣くとお乳が 飲めることが繰り返されることに依って、人間の赤ちゃんは与えられた脳力から、お乳が欲しい時には泣けばお乳をくれるはずと考えるようになります。嘘泣きもするようになります。そうなった時、自己愛が芽生えたと言えるのではない かと思います。

成長するに従って自己愛は強くなるのだと思います。そして幼い子は友達と喧嘩し始めます。これは自己愛と自己愛の衝突でしょう。喧嘩すると母親に叱られますし、自分も面白くないし仲間外れにされることも経験します。 そうしますと自分の好き勝手さ、つまり自己愛を表に出すことは決して得にはならないことを学びます。それは中学生から高校生に成長した頃でしょうか。その学びも実は立派な自己愛からの知恵でもあるのですが、その時点では 自分の自己愛に気付いては居ません。

そのようにして、私たちは学校を卒業して社会人になりやがて家庭を持ちます。その間に色々な人間関係を経験しますが、多くの人々はその人間関係の中で自己愛をストレートに出すことは決して得策では無いことを身を以って知り、セーブする ようになるのだと思いますが、セーブの仕方と具合は夫々個人差があるのは当然のことだと思います。

極端には『自己愛性人格障害』と云う歴(れっき)とした病もあることを最近知りましたので、今少し『自己愛』に付いて仏法の観点からも含めて考察しようと考えております。

帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま、なむあみだぶつ


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No.1316  2013.08.26
百不当のイチロー(一老)なり

無相庵コラムも永らく夏休みを頂いていましたが、今日から復帰させて頂きます。公私に亘って色々と難問に遭遇し未だ未解決のものもあります。読者の方々も遭遇する問題だと思いますので、追々に語ろうと考えています。

先週の8月22日、150年の歴史を誇るアメリカメジャーリーグで、これまでたった2人しか為し得なかった4000本安打をイチロー選手が記録した。アメリカでは日米通算と云うことから同レベルで評価するのは どうかと云う意見もあるようだが、それでも達成直後のヤンキーススタジアムでは、ヤンキースの選手達全員が一塁ベース上のイチローを取り囲み、次々と抱き合い、観客もスタンディングオベーションで祝福した。

イチロー選手は勝利した試合後インタビューで、4000安打の一方で8000回の失敗があると3割打者の現実を語り、その多くの失敗を繰り返した事を糧として成功と云う安打を積み重ねられて来たことにこそ誇 りを持っていると云うような彼らしいコメントを披露していた。
そのコメントを聞いていて、私は道元禅師の遺した言葉『今の一当は むかしの百不当の力なり百不当の一老なり』が思い浮かんだ。

『老』と云う漢字には、〝習熟する〟とか〝経験豊か〟と云う意味がある。仏道で悟りを開くには弛(たゆ)まない努力修行が要ると云う事を言い表したものだと思う。
親鸞仏法の信心も一朝一夕ではなかなか獲得(ぎゃくとく)出来ない。「分かった」と思うことが度々あるものであるが、また疑いが出て来るものである。その繰り返しが仏道だと思うのであるが、その中に、「なぁ~ だ。もともと救われていたのだ」と云う一老(イチロー)の瞬間があるのかも知れないのだと思ったことである。

なお、このコラムは、一般の人々にも見て貰いたく、『世辞雑感コーナー』にもアップ致しました、悪しからず。

帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま


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No.1315  2013.08.05
食べる為に生きているのか?

〝いのち〟の一日更新は恥ずかしながら三日坊主にもなりませんでした。先週の金曜の朝から月曜の今朝まで、目が覚めて先ず頭に浮かんだのは、〝いのち〟が有って目が覚めたことに感謝することよりも、 明日(8月6日)に予定されている取引先との交渉にどう臨むかと云うことでした。

結局、私の頭の中は「自分は死なずに明日も明後日も来週もずっと生きている積り」だと云うことが前提に有って動いています。仏法を聴いて読んで、先のことは縁に任せることだと頭では 考えているけれども、正直なところは、何とか自分の力で何とかしなければならないと焦りまくっているのが自分の正体だと云うことです。

「何故なのか?価値ある人生を生きたいと云う願いを持っていることは間違いないと思うけれど、結局は生きるために食べているのではなく、食べる為に生きている自分ではないか?どうしてこんなことにな るのだろうか?」自問自答したことでした。
明日の取引先との話し合いは、私(正確には我が社)が持つ特許を実施する権利を幾らの契約金で与えるかと云う交渉事ですから、まさに生活が懸っています。ですから、世間普通の考えからしますと、 無理も無いと云うところですが、その私の心の奥底には仏法が三大煩悩の一つとして説く〝貪(むさぼ)り〟と云う浅ましい心が見え隠れ、否、その煩悩をどうしても払拭出来ないからです。おそらくは、結論を出せないまま 、明日の交渉に臨むことになると思います。

私たち多くの者は、多分、過去の出来事を後悔したり愚痴るよりも、明日明後日等の近未来の事をアレやコレやと慮(おもんばか)って、精神的に疲れたり、むしょうに心配したり、不安になったりする ことで、人生を〝しんどいな、辛いな〟と思うのではないでしょうか。

私たちは計り知れない人間関係の中に有り、そして常に変化する宇宙や地球と云う自然環境の中に有って、自分の考えや努力が寄与出来るのは極々少ないとは知りつつも独り相撲を取ってしまいます。
おそらく親鸞聖人も私たちと同様に独り相撲を取られていて、結論は『罪悪深重・煩悩熾盛の凡夫』と自己の正体を見極められたのでしょう。その結論の後と言いますか、その結論と同時なのか分かりません が、お釈迦様や法然上人と同じく自分も縁(本願と他力)にお任せする、何でも受容すると云う想いが心の中に広がるのを感じられたのではないかと思います。

世界で最も信者の多いキリスト教は、神の存在と霊魂の不滅と云う二つの観念がなくなったら成り立たないと言われます。それを信じるキリスト教徒は、神様にお任せすると云うことで、近未来の不安を払拭出来るのかも知れませ んが、私は科学的に実在を確認出来ない神様や仏様を信じることは出来ません。
実在されたお釈迦様や法然上人、親鸞聖人が考察され遺された人生観や、私が実際に接触させて頂いた先生方が考察された人生観や生き甲斐を参考にして、自分の抱える人生の問題に悩み考察しつつ、本当の仏法を求め続けたいと 思っています。それは、食べる為では無い人生を生きたいからですし、今生きていることを喜びたいですし、最終的には生きてて良かったと思いたいからだと思います。

今週末から、孫5人が三泊四日で我が家に集合します。明後日以降、準備も含めて家事フル回転の生活が続きます。コラム更新はしばらく夏休みとさせて頂きたいと思います。

帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま


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No.1314  2013.08.01
〝いのち〟の更新

昨日、高校のミニ同期会に行って参りました。来年には古希記念の大々的な同期会が予定されていますので、皆68歳か69歳です。物故者もそれなりに増えておりますが、皆の子供が大体40歳前後ですから、子供を癌で亡くしたと云う人も居ました。 やはり年齢が高くなりますと、癌が最大の敵ですね。

実は、小中高と一緒だった友人の一人(ブラスバンドのスター的存在だった)が、昨日の同期会の感想メールをくれたのですが、メールの中で、「私も6か月更新のおまけ人生(6か月ごとに癌の再発・転移を検査しています)ですが、やり残した多くの交 響曲、合唱組曲、Bach のチェロ組曲を課題にし、時にはびわ湖ホールでのオペラなどに潜り込みながら結構、多忙です。これから荷造りし明日からマレーシア公演に行きます。」と、癌と闘っている事を知らされました。

〝6か月更新のおまけ人生〟と云う言葉と、それに挫(くじ)けずに得意の音楽に生き甲斐と遣り甲斐を持って頑張っている事に感銘を受けると共に、私もいつ癌告知されても文句は言えない年齢であることを改めて認識させられました。そして、私自身、 本当は『一日更新の〝いのち〟』を生きている事を忘れてしまっているんだなと反省させられました。

「今日しか無い、今しか無い」と云う気持ちを持ち続けることはなかなか難しいとは思いますが、「死を忘れた生は本当の生では無い」と云う言葉をどなたかの法話で聞いた記憶があります。毎朝目覚めた時に、〝いのち〟が更新されたとしてスタートして みようと思います。三日坊主で終わるかも知れませんが・・・。

帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま


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No.1313  2013.07.29
続ー浄土真宗の救いとは?

大阪府羽曳野市の明教寺住職の方のブログに『かくれ念仏』と云う下記のコラムがあります。

ブログから引用―

かくれキリシタンは歴史の教科書やマスコミで報道されよく知られていますが、かくれ念仏はあまり知られていません。南九州の薩摩藩・相良藩では長い間念仏が禁制され、見つかれば厳しい拷問にあう中、 かくれて山の中の洞に集まり念仏を守ってきました。熊本県球磨郡の山田村の伝助さんは、本山に懇志のお金を納めに行った帰り、密告され捕まりました。役人は「念仏を断ち仏像を焼けば許してやる」と転 宗を迫りましたが、伝助さんは「私は命に執着して御恩報謝の念仏をやめようなどとは思いもよらぬことです。私の称名念仏は阿弥陀さまのご方便によるもので、私一存のハカライではありません。念仏を断 ち仏像を焼いたところで、内心の信心を打ち消すことは出来ません」と答え、高らかにお念仏を称えるなか、斬首され、さらし首にされたそうです。 念仏とは、私が仏をよぶ声ではありません。仏が私をよ ぶ声です。仏が私の中に入り、私の口から出てくださるのです。私の口から出る称名念仏は、どこまでも御恩報謝の念仏です。信心とは私のハカライでつかむものではありません。自分でつかんだものなら、 握っているものなら放すことも出来ますが、仏さまが私の中に入って来てくださっているのですから、内心の信心は自分の都合で打ち消すことは出来ないのです。念仏はいのちなりです。私を支えるいのちそ のものなのです。

―引用終わり

法然上人と親鸞聖人が日本で開かれた念仏門は元々弾圧され易い体質を持っていたのだと思います。法然・親鸞のお二人とも京都で産声を上げた直後、土佐と越後に流されると云うものでした。江戸時代は、 地域の戸籍係りのような役割を与えられて、多くのお寺は裕福に栄え、お寺の数も増えたのだと思いますが、明治になって廃仏毀釈やらで『かくれ念仏』と言われるような弾圧された時期もあったのでしょう。

そう云う苦難を乗り越えて、他力浄土門の教えが今日まで届けられたこと自体には感謝しなければならないと思いますが、ブログの中に有る、「命に執着して御恩報謝の念仏をやめようとは思いもよらない」 「高らかにお念仏を称える中、斬首され、さらし首にされた」事を称賛するような雰囲気は、イスラム教徒がイスラム教を守る為には命を投げ出すことを躊躇わないとも言われるジハード(聖戦)精神に似通 ったものを感じさせ、私は非常に抵抗を感じました。

本来念仏は他人に聞いて貰う必要は無いと私は考えています。伝助さんも仏像を焼き払い、心の中で念仏を称え、日常生活を通して念仏の教えを伝えていく道を選んでも良かったのではないかと私は思いまし た。そして、〝かくれ念仏〟と言われるのは、念仏信者が人里離れた何処かに集まって念仏を称えるからでは無かったかとも考えます。それは念仏を称えることが目的化していたからではなかったかとも考え 、ブログ作者ご自身も親鸞聖人の教えからは相当遠いところに迷い込まれているのではないかとも思われ、残念でなりません。

大峯師も言われていますが、宗教には宗教意識の自己批判が大事です。信仰というものには思い込みに安住しようとする自己満足を絶えず砕いていくことが必要だと私も思います。
また、宗教と云うと、何か集団のことを思われてしまうが、やはり一人ひとりの自覚というところに帰って、自分が生きて死ぬとはどういうことかを考えるときに、では昔の偉い人はどう考えたのかなという ふうに自分で考えるという構えを持ちたいものだと、『君自身に還れー知と信を巡る対話』(大峯顯、池田晶子共著)の中で、大峯師と対談されていた池田晶子さんも言われています。

浄土真宗の、と言うよりも親鸞聖人の他力の教えの救いとは、阿弥陀仏の誓願を信じて念仏して往生浄土へ救われることではなく、駒沢勝先生の本の題名にある、「目覚めれば弥陀の懐」と云う自己が生 きている立ち位置に気づくことであって、必ずしも念仏を称えることが前提条件ではなく、生きている今、母親の懐に抱かれている気持ちそのものが救いだ云うことです。
誤解はないとは思いますが、駒沢先生が言われている〝弥陀〟とは〝如来〟のことであり、哲学的に言えば〝真実〟とか〝真理〟を仏法用語に言い換えたものです。従って、「目覚めれば弥陀の懐」と云うことは、真実 の世界に包まれて生かされている自分だったことに目覚めると云うことであります。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1312  2013.07.25
浄土真宗の救いとは?

今週もずっと『君自身に還れー知と信を巡る対話』(大峯顯、池田晶子共著)を読み返しています。
その対話の中で大峯顯師が、浄土真宗の救い(或は信心、或は悟り)に付いて、下記のように端的に述べておられます。

信心とは、「そうだったのか、もう救われていたのか」と気づくことです。われわれがこれから何かをやるんじゃない、もう済んでいたのかと気づくこと。今までそれに気づかないでいただけのことで、気づいたと云うことが、助かったことです。

そして、気づくって云うことに二つあります。われわれは絶望だと云うことに気づく。普通、我々は絶望だと思っていないわけですよ。なんとかなるだろうと思って生きている。ほんとうに絶望だと云うことに気づいたことが、もう救われたという ことです。

仏は一切の衆生は皆、絶望に気づくと言っているわけです。けれどもその前に、何が善いことで何が悪いことかも全然わからないという、そういう自分だということに気づくんですよ。救われることに気づくというんじゃなくて、救われないという ことにまず気付く。そのように、救われないということに気づくことが、救われることに気づいたということと同時だというのが、浄土真宗なんです。だから、そこがいわゆる合理主義的な考え方、救われるのか救われないのかどっちかはっきりし ろという、そういう合理主義の一筋縄ではいかないわけです。

ー引用終わり

少し難しいのかも知れませんので付け加えてみます。
例えば坐禅して、煩悩を断じ悟りを開いて、日常の苦悩から解放されたいと思うのは、未だ自分に絶望していないと云うことです。自分の力に頼っている訳です。頼りない自分に気づくことが親鸞仏法の本当の信心だと大峯師が仰っているのだと私は 思います。
浄土真宗の信心に関して実に明解なご説明だと思いますし、親鸞聖人の教えの要ではないかと思いますので紹介させて頂こうと思った次第であります。

帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま


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No.1311  2013.07.22
察しと思いやり

〝察しと思いやり〟は、『新世紀エヴァンゲリオン』と云うアニメの中で女性戦闘指揮官に「日本人の身上(しんじょう)は、察しと思いやり」と言わせているところから、有名になった惹句(じゃっく;キャッチフレーズ)です。

確かに、私たちの父母が生まれ育った明治から大正、そして私が大人になるまでの昭和40年頃までの日本人には〝察しと思いやり〟と云う心が働いていたように思います。しかし、高度経済成長期、そしてバブル崩壊とその後失わ れたと言われる20年をかけて、その〝察しと思いやり〟の心はかなり失われて来たように思います。

何故〝察しと思いやり〟と云うキャッチフレーズを思い出したかと申しますと、先週末、私達夫婦の友人(40歳代の女性、仕事で知り合って18年)から、〝離婚も考えているような〟SOSメールを受け取り、夫婦間の問題を考 察していて思い浮かんだからです。
人と人の間に〝察しと思いやり〟が無くなればその人間関係は薄くなると思います。特に夫婦関係で察しと思いやりが無くなれば離婚に発展するのではないかと息子の離婚を経験している私は考えていましたから、彼女のSOSメー ルを受け取って、直ぐさま〝察しと思いやり〟が浮かんだ訳であります。

そして、こうも思いました。
結婚した当初は殆どの夫婦は察し合い思いやり合った仲ではなかったかと。そして、離婚の危機を迎えた夫婦でも、どちらも〝察しと思いやり〟が大事だとは分かっているはずなのに、どうして、察し合いと思いやり合いが出来なく なってしまうのだろうかと。

そして、こう考えました。
親と子の間では、察し合いと思いやり合いは殆ど成り立っていません。察しと思いやりは大抵の場合は親からの一方通行です。特に乳飲み子と母親の間では0:100です。それでも、親子関係が破綻することは滅多に有りません。 でも、他人との関係では、此方が察しと思いやりの心で接しても、相手が同じように察しと思いやりの心で返してくれませんと、自分の察しと思いやりの心が段々失せてゆくのが私たち凡夫の正直なところです。

でも、だからお互いに察しと思いやりの心を持ち続けようではないかとは申しません。むしろ、そう云う、察しと思いやりの心を持ち続けられない自分の心、人間の奥底の心を見極め直すことが出来れば、相方の察しと思いやりの無 さを責め立てる心が多少は薄められるのではないかと考えているところです。
でも、私はSOSメールを寄こした彼女にそのようなアドバイスを今の処する予定はありません。色々と話を聞いて上げて心を寄せてあげるだけでいい段階だと考えています。

帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま


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