No.1400  2014.08.11
安心を頂けない悩みに付いて

先ず、表題のご説明をさせて頂きます。

『安心』を「あんじん」と読む場合の意味は、辞書で調べますと、仏教用語として、下記の通りです。
1 仏法の功徳によって、迷いがなくなった安らぎの境地。
2 阿弥陀仏の救いを信じて、浄土往生を願う心。

一般の方々に分かり易く言い換えますと、『安心(あんじん)』とは禅宗で云うところの『悟りの境地』と言っていいと思います。従いまして、禅宗で云うところの「お悟りを開く」を、親鸞仏法では「ご安心を頂く」と申します。

苦しみや悩みを抱えた私たちは、通常、その解決・解消を宗教に求めます。数ある宗教の中で、それを仏法に求められる方は「法話を聴いたり、坐禅をすれば、解脱する事が出来て、安らかな心になれる」と思い、仏道を歩み出すのではないかと思います。 私も永年、そのように考えまして、法話をお聞きし、仏教書も沢山読んで参りました。今も、尚、仏法を求める心は強いものがあり、何とか親鸞聖人の「ご安心を頂きたい」と励んでいると言ってよいと思います。

しかしなかなか、「これでよし!」「これで分かった!もう何も怖いものは無い。もう、苦しみも悩みも私には関係無い」と云う心の状態にはなれないと云うのが現状でございます。
そして、「まだまだ、私の法話の聴き方が足りない。私の聴き方が間違っているのではないか?」と反省しつつ悩みつつ前に歩を進めているところです。 坐禅で『悟りを開きたい』と考えておられる方々の場合は、「まだまだ、坐禅する時間が足りないのかな?坐禅だけでは無く、書物も読破しつつ坐禅をしなければならないのかな?」と 、私と同様自問自答し、更に努力を重ねられるのが一般的ではないかと想像致します。

この様に私自身が安心を頂けない悩みの最中(さなか)に居ます、否、最中に居ましたが、井上善右衛門先生の『実相と云う法話を読ませて頂き、そんな悩みを持たなくていいのだと少し心が軽くなりました
つまり、仏法を求め続けている事そのこと自体が、既に安心(あんじん)を頂いていることなのだと、少し安心(あんしん)致しました。 考えてみますと、あの親鸞聖人も90歳で亡くなられるまで本願を頼りにされ、法を求め続けられたのですから、私はこの世だけに限らず、あの世に参っても求め続けたいと思う次第であります。

私と同じ壁に行き当たって居られる方がいらっしゃいましたら、是非、井上善右衛門先生のご法話『実相』をお読み頂きたい思います。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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