No.1420  2014.11.22
色即是空の浄土(あの世)と空即是色の穢土(この世)

私はこの世は地獄(穢土)だと考え、地獄に居るから浄土を求めるのだと考えました。この世が何故地獄なのかと考えますと、色々な場面で、「自分の思う通りにならないから」だと思いました。何故、自分の思う通りにならないか。 それは、私中心に世の中が動いてくれないからです。自己中心の人間同士が暮らす〝この世〟で、自分の思う通りにならないのは当たり前です。

人間と言っても、他人なら、思う通りにならないのは当たり前だと思いますが、家族でさえ自分の思い通りにならなくて困っている人も多いと思います。子供が言う事を聞かないと虐待が多発しています。 夫が、妻が自分の期待とは違うと云うことで離婚が頻発しています。自然環境、端的には、天気も思うようには成りません。

浄土は、争いの無い世界です。苦しみも無い世界です。一切が差別も区別も有りません。多分、その代わり、楽しい事も無い世界です。色の無い世界です。つまり『色即是空』の世界です。
そうすると、逆にこの世は、『空即是色』の世界だと言えるのではないかと考えました。苦しみもあるが、楽しいこともある。この世は、苦しい事が多いから、逆に、ちょっとした事を楽しいと思えるのかも知れません。 苦しい事しか無いならば、それを苦とは思わないとも言えるのではないでしょうか。地獄だからこそ味わえる楽しい事があるから、生きて居られる。そして、苦しい、苦しいと言いながら、死にたくないと思っているのが、私たちなのかも知れません。 ですから、逆に、楽ばかりの浄土なんて、何の楽しみもないところかも知れません。

以前、ご紹介した、『舎利子見よ、空即是色、花盛り』と云う歌、これは、日本海海戦で東郷平八郎の副官だった人で、小笠原長生(ながなり)という人が詠んだ歌だそうですが、私が地獄と思っているこの世は、 実は、色々な人や物が有って、実は変化に富んで楽しい世界なのかも知れないです。浄土の真実を知れば、地獄と思っているこの世が、本当の浄土だと思えるのかも知れません。

そんな事を考えていると、安倍首相が、〝アベノミクス解散〟だとか言って、昨日、衆議院を解散しました。暮れが押しつまる、12月14日(日)に総選挙です。まさに政治家先生が走り回る、師走の選挙です。 想定しなかった色々なことが起こるのがこの世。偶には『色即是空』を思い出して、そして現実の『空即是色』の妙味を楽しもうでは有りませんか?

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1419  2014.11.15
浄土とは?往生とは?―親鸞聖人に聞く

さて、前回のコラム『今、私が居る地獄で浄土を想像してみますと・・・』で、死ぬ事に付いてや、浄土に付いての私の現在の考え方を申し述べましたが、コラムをアップしてからも、ずっと、考察を続けています。 今のところ、前回のコラムの内容を見直したり、一部訂正することにはなっておりませんが、浄土と云う考え方無しでは成り立たないであろう浄土真宗、つまり、親鸞聖人は、どのように考えておられたのかを復習しておきたいと思います。

無相庵読者の皆様にも、自分の問題として、浄土とか往生と云う事を考察して頂き、本当の生まれ甲斐と生き甲斐とは何かを掴んで頂きたいと思います。
それには、これが親鸞聖人の浄土に付いての考え方だと思われる、細川巌(ほそかわいわお)師の『ここが浄土の南無阿弥陀仏ー浄土についてー』(難解且つ長文です。 読み終わるのに数時間かかりますので、このコラムを読み終えられてから、あらためてお開き下さい。)を熟読して頂くのが一番だと思います。
私も更に熟読したいと思いますが、親鸞聖人自身は、浄土と云う処を宇宙の何処かに在るが如くにイメージするのではなく、或る境地、或る心境とも言べき〝世界〟として考えて居られたようです。それは、細川巌先生が、 星野元豊と云う宗教哲学の学者の言葉を借りられて、次のように、私たちに浄土を説明されている事から、私はそう考えました。

『浄土は死んでからの世界ではない、信心決定して正定聚の位に住する、そこが浄土である、と繰り返し申しておられる。星野先生は、「浄土はこの人生の逆接的世界である」という言葉を使っておられる。これはちょっと分かり難い。 つまり遠いところにあるんじゃない、この世の迷いが翻(ひるがえ)されたそこに浄土がある、と云う事を申しておられる。』

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ

追記:
『ここが浄土の南無阿弥陀仏ー浄土についてー』は、平成7年11月14日、細川巌先生が入院された、細川先生のお弟子さんであった田畑正久先生が院長をされていた、大分県国東半島に在る東国東広域病院近くの杵築市のお寺での ご講演を文章化され、細川先生が添削されたものだそうです。細川先生は、その翌々月の翌年、平成8年の元旦に、田畑先生の病院で亡くなられたと云うことであります。


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No.1418  2014.11.12
今、私が居る地獄で浄土を想像してみますと・・・

今年、古希を迎えた私は、今年6月の脳内出血発症や、8年位前から患って5回程の手術を受け、得意なテニスのプレーを断念させた緑内障、そして耳が聞こえ難くなって感じる老人性難聴も有り、 昔、軟式テニスの選手として目一杯活躍していた頃を思いますと確実に身体の衰えを自覚させられ、人生の終焉を意識するようになりました。そうしますと、遠く感じていた『死』が現実味を帯びて来たような気がすることがあります。

そうしますと当然、「どんな死に方をするのだろうか?」、「死の瞬間はどんなものだろうか?」とか、「死ねば、どうなるのか?」とか、未だ私の中で解決していない命題に答えを求めようとしたりしています。 また、〝いずれ死ぬ〟と云う間違いなく現実となる不安を未だ払拭出来ていませんので、「これでは仏法に出遇えた意味が無いではないか!」と反省したり、焦ったりする自分が居ます。

そうなりますと、仏法が説く『地獄』や『浄土』と云う言葉が頭に浮んで来るのは自然の成り行きでありましょう。
そして思う事は、死んでから往くとされている『浄土』は、私たちには知覚出来ませんので、宇宙の何処其処(どこそこ)に在るとは誰も言え無いことです。 一方の『地獄』はどうだろうかと考えます時、私たちの周りで頻発する傷ましい事故や事件、平気で関係の無い市民を殺し合う戦争やテロが絶えない世界を思う時、 また、津波や土石流で一瞬に街が流され、そして一瞬に否応なく多くの命が奪われる自然災害を思う時、この世こそ地獄ではないかと思ってしまいます。

自己中心の凡夫同士のこの世だからこそ起こる自殺、離婚、イジメ、高齢化社会で増え続ける認知症、介護が必要な老人が病気になっても受け容れてくれる医療機関が無い老人漂流社会を報道で知る度に胸苦しくなりますし、 それが何時、我が身に起っても不思議は無い事実を考える時、地獄は今の我々の世界そのものだとする考えを私たちは容易に共有出来るのではないか、 否、仏教、特に浄土門は元々、この世を『苦の土(くのど)』、即ち、地獄だと言って来たではないかと、私は考察するようになっていました。

地獄は自他や善悪、損得、美醜等の区別・差別が或る世界を言うのだと思います。浄土は、そのような区別・差別が一切無い世界、仏法で言う『一如の世界』を言うのだと思います。そして、それは〝いのち〟の世界だと思います。 私たちは、両親から受け継いだ身体に〝いのち〟の大海からの〝いのち〟が宿り、人間になったと考えます。死ねば身体は消え、個々の〝いのち〟は〝いのちの大海〟とも言うべき世界に還るのだと私は考え始めています。 丁度、大海の水が太陽に温められて水蒸気となって、雲になり、雲が雨になって地上に降り注ぎ、やがて、どの雨粒も、河川を通って、大海の水と一味になるように、〝いのち〟は元の故郷に還ると考えたいです。 そう考えると、死ぬ事は、それ程辛いことでは無くなるのかも知れません。実際、この世が地獄だと認識しますと、区別や差別が無く、一切の苦悩が無い、穏やかな浄土に往きたいと願うのは人情だと言えます。

しかし、もう少し考えてみますと、浄土は区別・差別が無い(無分別とも申します)世界ですから、苦悩を感じることが無い代わりに、楽しいと感じる事も無くなる事を忘れてはなりません。 また、地獄であるこの世は、確かに苦悩が満ち満ちていますが、一方で、瞬間的に楽しいこともある訳であります。逆に、私たちは楽しいこともある故に、愚痴を言いながらも、生きていられるとも言えます。

さて、そうなりますと、凡夫の私は、楽しいことも在るこの世もまんざらでは無くなります。そして、イザと云う時は、浄土も在るのだと云う自己中心的な考えになりそうです。 私は、それはそれで良いのではないかと思いますが、一方で、考える能力が有る人間と云う〝いのち〟を賜ったことに感謝し、今この世に存在している自己の現実・真実をお釈迦さまや親鸞聖人等の先師方や先輩方の遺された考え方に学びたいと考えています。

今回は、これまで学ばせて頂いた知識と経験に私の想像力を加えて、地獄と浄土を考察したところをコラムと致しましたが、また、学びを深めまして、この続きを後日書き加えれば幸いだと思っております。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1417  2014.11.5
『まなざし仏教塾』を紹介します。

11月2日(日曜日)のNHKテレビ番組『こころの時代』は、「第二の誕生」と云うテーマで、沖縄県うるま市の〝しげま小児科医院〟の志慶眞文雄(しげまふみお)医師の親鸞仏法(細川巌師)との出遇いをお聞きするものでした。示唆に富むお話でしたし、開設されている仏教サイトは、とても感動させられるものですので、これは是非とも、無相庵コラムの読者方にもご紹介させて頂かねば、と思い、早速、紹介させて頂く次第です。

私がご紹介したく思った理由は、私があれこれ拙い言葉を並べるよりも、ホームページ『まなざし仏教塾』を直ぐ様お開き頂き、直接、志慶眞師に触れて頂く方が良いと考えます。

また、『第二の誕生』の意味する処は、ホームページ『まなざし仏教塾』内の、「生死を超える道へー前半」をお読み頂ければ、殆ど同じ内容で、金光寿郎師との対話が掲載されていますので、お分かり頂けます。

そしてまた、同じくホームページ『まなざし仏教塾』内の「今月の言葉」の中の、アメリカ先住民の酋長がアメリカ大統領に提示した詩文『父は空 母は大地 』は、私たち現代人に宛てた訴えでもあり、とても感動致しました。これも是非お読み頂きたいと思います。

志慶眞先生のご経歴:

1948年沖縄県に生まれる。前原高等学校卒業後、愛媛大学工学部に入学。広島大学大学院に進学し素粒子物理を研究。32歳で広島大学医学部に再入学。歎異抄の会で細川巌師に遇い聞法を始める。 医学部卒業後、琉球大学医学部小児科に入局。1992年沖縄で小児科医院を開業し、病院の二階に浄土真宗の「まなざし開法道場」を開く。2004年NHKラジオ深夜便「こころの時代」に出演。現在、生死の問題を中心に仏教読書会、仏教講演会を開催。機関誌『 まなざし 』発行(不定期)。まなざし仏教塾代表。

 著書:『沖縄から親鸞へ』(真宗大谷派常讃寺:石川県)、『信道 2009年度』(真宗大谷派名古屋別院)、『お念仏の開く世界」(真宗大谷派光照寺:埼玉県)、『ビハーラ医療団 ー学びと実践ー』(共著、自照社出版)、『掌を合わせて生きる』(共著、在家仏教協会)、『「穢土」の看取りと「浄土」の看取り』(共著、自照社出版)など


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No.1416  2014.10.28
事実・真実を知ることの難しさ

私たち人間は、五官【ごかん;眼耳鼻舌身(げんにびぜっしん)の五つの身体器官】で物事を感じ取り、『意』即ち『心』で認識し記録します。眼耳鼻舌身意(げんにびぜつしんい)は六根(ろっこん)と称され、般若心経に出て来る有名な熟語であります。

テレビをみている時は眼と耳で情報を感じ取りますから、「視聴(しちょう)する」と申しますが、私たちは自分の眼で見た物、耳で聞いた事には絶大な信頼を置きます。目で本を読み、様々な知識を得ますし、人の話を耳で聞いて、やはり色々な情報を得ます。眼と耳は私たちが一番頼りにしている大事な器官です。しかし、少なくとも眼はそう当てにはなりません。

何かを判断したり、選別するのには、どうしても眼と耳の力を借りなければなりません。しかし、その眼で見た物事が真実かどうか、疑ってみることも大切です。特に人物・人柄を判断する時、私たちは、往々にして外観(特に顔形)や、分かり易い肩書や経歴に頼らざるを得ない訳ですが、見損ないをする事が多発しがちである事は、私に限らず、皆さんにも覚えが有るのではないでしょうか。

それは、人間と云うものは、どうしても事実、真実を徹底して追求する時間的余裕も経済的に余裕も持っていませんから、どうしても見た目だけで判断してしまうからだと考えます。例えば、私たちが感じている太陽と真実の太陽とは大きく異なります。私たちの眼に見える太陽は、地球と較べると、大して大きくは見えません。小学校に上がる前の子供に「地球と太陽とどちらが大きいか?」と聞けば、「地球が大きい」と答えるでしょう。

しかし大人は、学校の理科で太陽と地球の関係を習っていますから、「太陽は地球から凄く遠いから小さく見えるけれど、本当は地球よりも何倍も大きい」事を知っています。しかし、その大人たちも真実の太陽が地球に比べてどれ位大きいかを知りません。私は宇宙に興味が有りますので、太陽の重さが10の30乗の2倍(2の後に30個の0が並びます)kgで、地球の33万3千倍の重さ、そして太陽の大きさは、太陽の直径が140万kmで、地球の109倍もある事を数値として知っています。 しかし、これでも、どれ位の大きさかを私たちは実感出来ません。でも、私たちの眼の30m先に在る2.5mmの小石を地球に見立てた時、私たちの顔(約30㎝としましょう)が太陽の大きさだと申しますと、太陽と地球の大きさの関係を実感出来ると思います。また太陽は、地球のような固体(液体部分もありますが・・・)ではなく、99.9%(92%が水素、7.8%がヘリウム)が気体です。

無相庵の読者様方も、太陽が地球に比べて、極めて圧倒的な存在であることを実感された事と思いますと共に、私たちにとって、事実・真実を知る事はなかなか難しいことも実感されたのではないでしょうか。そう云う謙虚さを持つ事が八正道を歩む一助となるのではないかと思う次第です。


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No.1415  2014.10.22
何故仏法を求めるのか?

私は、母親が仏法を聞く会(垂水見真会)を主宰していましたので、物心つく小学校1年生の頃には既に仏法の話を聞くようになっていました。 勿論何も目的無く、ただ母に付いて行くと云うことでしたが、そんな経緯から、仏法を聞くことが特別な事では有りませんでしたから、仏法を第三者的に、良いことであるとか、意味の無いことであるとか等を判断することなく、学生から社会人になりました。
従いまして、言うなれば、動機無く仏法を聞き始めて、今日に至っていると申して良いと思います。それ故に、仏法の教えに特別感動することが無かったことは、或る意味、不幸なことかも知れないと考える時もございます。

そこで、私は今になって「何故仏法を求めるのか?」と自己を問い直すのであります。私はお寺の子供として生まれ育った人と同じ位に、日常に於ける考え方は仏法に洗脳されていると思います。 そして、私はお寺の有り方には批判的でありますから、お寺の子として育った方々よりも寧(むし)ろ、洗脳され具合が重いかも知れません。

そうかと言って、いわゆる悟りを開いた訳でも、信心を獲たわけでもありません。ただ私は、何故か、「私たち庶民は親鸞仏法でしか救われないのではないか」、と強く思うようになっています。 そして、それを仏法を求める人々に伝える為には、私自身が、お釈迦様が到達された境地や、親鸞聖人が至られたお心、井上善右衛門先生や白井成允先生が獲られた他力の信心を我が心に感じなければ、決して為し得ないと思うようになりました。 そのために、今も法話を聞き、先輩方の仏教書を勉強したりしているのだと自己分析しているところであります。

そして、私は正に、八正道を歩み始めているのだと思っています。正しい見解、考え方を得るために、正法とは何かを勉強し、正しい生活の有り方を日々反省し、実践しようとしているのだと思っています。 親鸞聖人は90歳まで生きられました。私は来年の3月に満70歳になります。親鸞聖人が亡くなられた90歳までには20年もあります。歩み続けて、上述した目標を達成したいものです。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1414  2014.10.15
自分が選んで来た人生―5年間の大学時代

私が入学したのは、大阪大学基礎工学部合成化学科です。特に科学や技術に興味を持っていた訳では有りませんでしたが、サラリーマン家庭に育っていましたから、漠然と自分の将来のサラリーマン姿を想像していましたし、 サラリーマンなら技術者だった父(私が小3の時に亡くなりました)を思ってか理系学部学科に落ち着いたのだと思います。そして、兄が進学していた機械工学科は避けて、これからは石油化学の時代だと云う世間の雰囲気を小耳に挟んで、 何となく化学系の学部学科を選んだのだと思います。

でも、私は、今思うと大変甘い考えをしており、兎に角中学時代に中断した軟式テニスの腕を磨いて有名選手になりたいと云うのが、最も重要な大学での目的でしたから、私は、大阪大学テニス部軟式テニス科に入学した積りになっていたのでした。 従いまして、いわゆる教養過程(2年間)と言われる、専門課程(2年間)に上がるまでの2年間は、軟式テニスに没頭する積りでしたから、同級生達が出席する講義(授業)には殆ど出ず(講義に出たのは年間で10回位でした)、 出欠を取られる体育の授業にだけ出て、その他は、いわゆるサボりをしていました。 サボって、朝から夕刻まで、軟式テニスの練習に励みました。最初の頃、練習は何を目標にしたかと言いますと、自分自身が大きな大会で優勝したいと云うことでしたが、直ぐに大学対抗のリーグ戦で、阪大を上位校にしようと云うことを目指すようになりました。 リーグ戦と申しますのは、近畿に数十校ある大学を、強い順に、6校ずつに分けて、1部リーグ、2部リーグ、3部リーグ、4部リーグ、5部リーグ、6部リーグとし、各部の6校でリーグ戦を春、秋の2度戦い、 上部リーグの最下位校と下部リーグの優勝校が入れ替え戦をして、順位を決めるのです。 私が入学した時の阪大は、過去数年間、ずっと2部リーグで戦い、歴史上一度も1部リーグに昇格したことが無かったので、何とか、私が居る間に、1部リーグに昇格させたいと云う夢を持った次第です。 1部リーグは関学、関大、立命、同支社、近畿大学、大商大の6校が占めていたと思います。そして、2部リーグには神大、京大、大経大、神戸商大、和歌甲南大、そして阪大でした。

しかし、そのリーグ戦に出て試合出来るのは、いわゆるレギュラーに成らねばなりません。
レギュラーチームは5チームです。軟式テニスは、ダブルスが主戦場でしたから、レギュラーは2×5=10名です。そして、入部した時から後衛と前衛のどちらかを選ぶのが普通で、私は背も小さいので、後衛を選びました。 4学年の中に20人位居る後衛の中で、5番目以内の腕前にならなくてはなりませんでした。

大体レギュラーは経験を積んだ3、4年生が殆ど。3年生だった私の兄は既にレギュラーになっていましたし、しかも同期に、中高の6年間部活を続けて、インターハイにも出た選手もいましたから、並大抵のことではレギュラーには成れない状況でした。
私は私なりに、腕前には相当の自信を持っていました。何故かと申しますと、高校三年生の夏休み以降、受験勉強に目途が付いたと考えた私は、私の家の近くに個人所有のテニスコート(このテニスコートで、私は、 46歳まで社会人としても練習し続けました)があり、そこに練習に来ていた六甲工業高校(現、神戸市立工業高等専門学校)の軟式テニス部の練習に参加させて貰い、神戸市の大会で優勝するような選手達と互角の戦いをしていたからです。

でも私は、1年生の時にはレギュラーになれませんでした。高校時代にインターハイに出たことのある同じ1年生がレギュラーに選ばれるのが非常に悔しかった事を覚えています。 リーグ戦の始まる前に出場するレギュラーの名前をキャップテンが部員全員の前で発表するのですが、部内の練習試合で、彼に負けることが無かったのですから、全く納得がいかなかったのでした。
悔しくて腹が立って退部まで考えましたが、兄に説得され辞めずに済みました。そして、腕を磨くために、母校の中学に軟式テニス界では有名な人が赴任している事を知り、教えを乞いに行きました。言葉に依る指導ではなく、 ラリーの相手をして貰うとか、シングルスゲームをして貰うとかをしながら、手本を見せて貰うことに依って、多くの技を習得したのだと振り返っています。また、区の選手権に、 ダブルスを組んで貰って(大学時代は前衛として活躍されていた先生だった)3連覇させて貰い、区の代表として神戸市の区対抗の試合に出場する等で、テニスの技術も然ることながら勝つための試合度胸や試合運びも身に付けられたと思っています。

そのように武者修行を密かにして、2年生になってからは、レギュラーになり、かなりの活躍が出来ました。しかし、軟式テニスはダブルスが主体です。技術の上の前衛と組めるのは、上級生です。 そして、2年生の私は相手校の中でもエースとかの強い相手に当てられます(捨て駒って奴です)。従ってなかなか勝てませんでした。

当時の軟式テニスは、前衛と後衛が分業で、大体は中学時代にラリーの上手い子が後衛になるのが一般的でした(ボールを扱う頻度が高いからです)。でも、強豪チームの場合、勝負を決めるのは前衛です。 私は、阪大が強くなり1部リーグに昇格するのには、前衛を強化する必要があると考えるようになっていました。自分が強豪チームになるのにも、腕の良い前衛と出遇わねばならないと考えていました。

軟式テニスに打ち込んで、私は予定通り(?)、専門課程に上がれず留年(落第)しました。
そして、その留年した年にキャップテンを務めました。自ら手を挙げたのです。阪大を1リーグに上げる為です。その為に取り組んだのは、私立大学並みに規律を重んじる事、そして前衛の強化です。 私がキャップテンの時には、1部リーグに上がれなかったのですが、次の年に史上初めての1部リーグ昇格を果たしました。運よく高校の時に前衛としてインターハイを経験した新入部員が入って来たことと、 その他の前衛もレベルが上がっていたからだと思っています。その年は、3つの団体戦でも優勝し、その年最も活躍したスポーツクラブに与えられる学長賞も取りました。 残念ながら、個人(ダブルス)の成績は、近畿六大学や、京阪神13大学の小さい大会での優勝はありましたが、府県、近畿、関西、西日本等の学生選手権で優勝を果たすことは出来ませんでした。メジャーな大会での優勝は、社会人になってからの大きな目標となりました。

テニスの自慢話はこれ位にしまして、大学時代の学問の取り組み具合の実際話です。留年したのは、専門課程に上がるのに必要な単位が不足していたからです。 単位数は覚えて居ませんが、主要科目、ドイツ語、フランス語、数学、物理、化学の単位が全く取れませんでしたから、留年の1年間は、午前中は講義に出て、昼からは軟式テニスのキャップテンとして部活動と云う毎日を過ごしました。 神戸市の自宅から大阪府池田市に在る阪大に通うのですから、片道で2時間弱掛かります。早朝家を出て、テニスを終えて家に帰るのは、午後9時近くになり、ハードな一年でした。 それに2年続けて留年(落第)するのは、何と言っても面目ないことですから、受験勉強に劣らぬほど必死で勉強しました。何とか、そして、留年1年で専門課程に進級出来ましたが、 半世紀経った50年後の今でも、単位が足らずに進級出来なかった夢を見ます。総て、自業自得ですので、私はそう受け止めましたが、 留年中の授業料を工面しなければならなかった母には凄く心配させた事は後になって知り、とんでもない親不孝者だったと親や祖父になった今、後悔しております。

専門課程に入りますと、5つある研究室(それぞれに教授の名前が付いています)に所属します。自分の意思で選べますが、定員オーバーした場合は抽選で決めます。 私は一番人気のM研究室に抽選で決まりました。M教授は学科主任教授的立場で、いずれは学部長、学長にもなるかも知れない人物で、 4年前にクロスカップリング反応でノーベル化学賞を受賞した鈴木教授、根岸教授を指導したアメリカのHCブラウン教授とも親しく、クロスカップリング反応の先達を担った教授でした。 この教授は私たち夫婦の頼まれ仲人をして貰った方でもありますが、就職先のチッソ株式会社も、そのチッソ株式会社を辞めて、大阪大学の文部技官になって研究室に呼び戻してくれたのも、 第二の就職先のバンドー化学株式会社を世話してくれたのも、そのM教授でした。私の今日に大きく関わって下さった、忘れられない教授となりました。

チッソ株式会社入社は、私が他の同級生達と同様に留年せずに卒業(昭和42年)していたとしたら有り得なかったことです。何故かと言えば、その昭和42年には、チッソは大卒の正社員募集をしていなかったからです。 また、チッソ株式会社の中央研究所の所長とM教授が懇意にしていたからこそのチッソ株式会社就職でもありました。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1413  2014.10.10
神様も仏様も居らっしゃいません。でも・・・

イスラム教やキリスト教等の一神教(いっしんきょう)の神様とは、宇宙を創造して歴史を司る、全知全能の絶対者であり、人知を超えた絶対的存在と言われています。 また、私たちの地球を含め、私たち人類も含めて、宇宙の総てを創り、宇宙を思うように動かしている絶対者と云う存在だとも言えるでしょう。 私たち人間の個々人の運命さえも、その神様が決めていると云う事ではないかと思います。
しかし、私たち人間にはその存在を感知することは出来ません。感知出来ないのですから、信じるしかないと云うのが現実ではないかと思います。そして、一般の人々にとりましては、仏様も同じような位置付けではないかと推察致します。
神仏を心底信じられる人は、それでその人の人生に何も問題は生じ無いと思いますが、そのように神仏の存在を心底信じ切れる人の数はかなり少ないのではないかと思います。 否、皆無とは言えないまでも、千人に一人、万人に一人位しか居ないと言うべきかも知れません。

神仏の存在を信じていると云うこと、つまりは信心とか信仰を持つと云うことは、自己中心の煩悩が無くなり苦悩が無くなると云うことだと言っても良いでしょう。仏教で悟りを開くと云うことは、苦悩が一切無くなると云うことでなければならないと思います。 少なくとも、仮に苦悩が生じるような事があっても、苦悩を苦悩と思えずに済むと云うことでしょうか。しかしそれは、神や仏に総てを任せられることに依って、初めて成り立つのだとも思います。

でも、本当に総てを神様や仏様に任せ切れるかどうかです。私自身は、神様や仏様を信じ、その神仏に総てを任せていないのが現実です。何故かと言いますと、宇宙を支配すると言われる神様や仏様の存在を信じていないからです。 しかし、私は皆様と同じ様に、宇宙の存在や、私の見える範囲の事物、現象は事実であり、真実であると(信じていると言いますか、)認識しています。 それは、学習や見聞から得た科学的知識と持ち合わせた想像力も働かせて考えますから、見えない宇宙の果てや星空の世界の存在も信じています。しかし、その想像力を以ってしても神様や仏様の存在を信じる事は私には出来ません。

一方で私は、苦悩自体も人が感知できる範囲で生じるものだと考えますので、その苦悩の存在を信じます。
しかし、他人の苦悩を感じられなかったら、それは私の苦悩にはなりません。また、私の眼に見えない、中近東と云う遠い世界の国々の見知らぬ人達が戦火で苦しんでいる苦悩は感知出来ませんので、私の苦悩にはなりません。 でも、それをテレビニュースと云う映像で苦悩している姿を見れば、場合にも依りますが、それは私の苦悩に成ることも勿論ございます。
いずれにしましても、自分が苦悩に思えたら、それは苦悩となりますが、思えなければ苦悩になりません。それは、当たり前のことですが、でも、他の人の苦悩が分からなくて、色々と問題が起こっていることも事実でございます。

科学と云うものは、人間の感知能力の範囲内での必要で且つ正しい知識と知恵だと思います。私は自分が得た科学力に依って、宇宙は無常と無限と無数の世界だと考えます。
宇宙に存在する存在や現象は常に変化しています、端的には星も、私自身も、生まれ死んで行きますから、宇宙は無常であることを信じます。
宇宙の果ては限りないと言われますが、実際に果てがあるなら、その果てを突き破れば、果ての先に何かがあるはずだと考えますから、宇宙は無限であると信じます。
宇宙に星が無数にあることを望遠鏡で見れます。そして地球に在る砂粒も無数にあります。生物の種類も数も無数だと認識しています。ですから、宇宙には無数の存在があることを信じます。
従いまして、宇宙は無常と無限と無数の世界だと信じることが出来ます。

その宇宙の無常と無数の存在と宇宙に果てが無い事をしっかり理解し納得していれば、神様や仏様を信じているのと同じように、すべてを受け容れられ、苦悩も無くなると考えるのが科学的宗教ではないかと考え始めています。 そして、考え方としては、宇宙の無常と云うことは、科学的に考察しますと、常に変化させようとする力が宇宙中に漲(みなぎ)っていると云うことでしょう。ですから、私たち人間は生れもするし、死にもすると云うことだと思います。 無常を演出する『力』と言いますか『働き』をですね、私たちは神様と呼んだり、仏様と呼ぶのではないでしょうか。また、その『働き』を〝いのち〟と言っても良いと思います。 その『働き』が個体としての私の〝いのち〟を生み出し、また、滅しさせる(死なせる)のだと考えます。

もし、その宇宙に漲っている、その『働き』を擬人化して神様とか仏様と呼ぶならば、私は神仏を信じられます。その代わり、神様や仏様は決して慈悲深い方では無くなります。自然災害と云う名の火山噴火を起こし、津波を起こし、土砂災害を起こして、 知恵も無く、か弱い存在の私たちを瞬時に大量に殺すからです。でも、『無常』を演出する『働き』である神様も仏様も、ただ無感情に淡々と自然に働き続けているだけではないかと受け止めるべきではないかと考えているところです。

そして、親鸞聖人が大切にされた末尾のお名号とお念仏、『帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ』は、「何に遮(さえぎ)られることなく、宇宙一杯に遍満(広くいっぱいにいきわたること)する宇宙の真実真理を有難く思い、信じます」 と云う意味だと受け取っています。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1412  2014.10.06
科学絶対主義と宗教

私が生きる現代は、と言うよりも、私はいつの間にか科学絶対主義者になっているように感じる時があります。浄土と云うことも、念仏と云うことも、往生と云う言葉にも、何処か、何故か、抵抗を覚えてしまう時があるからです。 それでいて、勿論、私の人生に宗教は必要だと云う考えも消えることはございません。

現代社会に生きる知識人の多くも、正月には神社に初詣し、お賽銭を投げいれて、家内安全を祈り、商売繁盛を切に願い、お彼岸には先祖の墓参りをする人も少なからずいる、にもかかわらず、それでいて、公の集いや、友人達との議論においては、 「私は不信心(ぶしんじん)で・・・」とか、「私は無神論者です・・・」と、信仰を持つとか特定の宗教団体に属することは知識レベルの低い者がすることだと言わんばかりのような態度が見られることがあります。

宗教と科学(哲学を含む)は別物のようになっているのが現代社会ではないかと思うことさえありますが、そのような状況にあることに懸念を持つ或る方の文章に出会いました。それは下記する内容です。

引用文ー
宗教と科学とがそれぞれ独立の意味をもって共生しうるような、広い全体的な基盤が新しく求められなくてはならない、それは、従来のように宗教の側に立って科学の攻勢から宗教を防衛しようとすることでも無ければ、その逆でもない。 つまり、両者の間に限界を定立する試みではない。そうではなく、科学が示しているような世界の認識を全面的に受け容れながら、しかも宗教的な見方を全面的に貫徹しうるような、そういう見地の探求である。 そのためには、宗教の根本観念である絶対者(神とか仏とか呼ばれるもの)についての新しい見方がどうしても必要になってくる。

一方、自然科学は、人間存在を含めたすべての事柄を、単なる物質性とか数量の次元へ還元して捉える。そういう科学的な解明は、本来的には仮説的な性格をもつにもかかわらず、その妥当性がその都度、客観的事実として実証されてきたわけである。 そこに、科学と云うものの力や権威に対する人間の期待や信頼が生まれ、そのことが科学的研究をさらに進展させるという形になって居る。 しかしながら、科学がもし、世界の中のすべての出来事が科学的に見られた以外の在り方をしていないということを主張するならば、これはもはや科学ではなく、科学的であることを自称している独断的な哲学ということになるだろう。 物事が科学的に説明されうる一面をもっているということは真理である。例えば、人間の身体の構造や機能が、医学的に解明出来るということは認めないわけにいかない。 しかし、人間はそういう身体以外ではないという考え方は、決して医学(科学)ではなくて、科学主義とか科学的世界観という人間の独断的な意見なのである。 このような科学主義もしくは科学的世界観が、いかなる科学でもないことは明らかなのである。

―引用終わり

上述した内容のポイントは、「科学は、飽くまでも、真理・真実を求める人間の行為なのだ」と云う考え方からの批判だと私は思い、大いに共感致します。 また、『科学がもし、世界の中のすべての出来事が科学的に見られた以外の在り方をしていないということを主張するならば、これはもはや科学ではない』と云うことに付いても、頷けます。 この文言の意味するところは、お分かりだと思いますが、『世界中の出来事、物、事柄、現象の総ての成り立ちの経緯、原因等を科学で説明したり、予測は出来ない。もし、それが出来ると云うなら、それはもはや科学では無い』 と云うことだと思います。この考え方を成程と思うのは、『〝いのち〟を人類の科学力で以って、人工的に生み出せる事は出来無いだろう』と云う科学の限界です。 これまで、無数の科学者が〝いのち〟を人工的に生み出そうと様々な研究が為されて来ましたが、未だ、細胞一つ生みだせていません。iPS細胞でさえ、既に〝いのち〟として在る動物(人間を含む)の細胞を変化させたものに過ぎないのです。 死体の細胞からはiPS細胞は出来ないのです。
そしてまた、私がこの世に生れて来た理由や、私の寿命や死に方を科学的に断定出来そうにはないことからも明らかだと思う事からも、上述の或る方の発言に全面的に同意する訳でございます。

そして、『宗教の根本観念である絶対者(神とか仏とか呼ばれるもの)についての新しい見方がどうしても必要になってくる。』と云う発言者の結論にも同意するのですが、無相庵読者の皆様は如何でしょうか。
このコラムの続編として、後日、絶対者(神とか仏とか呼ばれるもの)についての新しい見方に付いて、まだ纏まってはいませんが、私の考察を申し述べてみたいと考えております。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1411  2014.09.29
自分が選んで来た人生―高校進学、そして受験勉強

高校の入学試験は無事合格し長田高校へ通うようになりました。初めての電車通学でした。山陽電鉄の垂水駅から長田駅まで、垂水駅→東垂水駅→滝の茶屋駅→塩屋駅→須磨浦公園駅→須磨駅→須磨寺駅→月見山駅→東須磨駅→板宿駅→西代駅→長田駅と、 確か約30分位の通学だったと思います。入学試験の受験者総数は覚えていませんが、合格者が411名、各中学校で受験者数を制限していますから、不合格者は極めて少なく、10数名だったと思います。

私が高校入学した年は、昭和35年(1960年)です。東京オリンピック、東海道新幹線の開通を4年後に控え、時の内閣総理大臣、池田勇人首相が、所得倍増論をぶち上げ、日本は正に高度経済成長期に向かおうとする時期でありました。
従いまして、日本の将来に夢と希望を予感していたであろう当時の親達は、我が子が良い会社に就職することが子供の幸せであり、自分の幸せでもあると云う考えであったでしょうから、その為には、我が子が良い学校、つまりは有名大学、 特に国立大学に進学する事こそが幸せな家庭への近道だと考えていたのではなかったかと思います。

しかし肝腎の私の成績は、入学後最初の実力考査で、411人中の104番でした。この成績は、市立大学、県立大学にはギリギリ進学出来るかも知れない成績だったと思いますが、家から通える国立大学の神戸大学や大阪大学への進学はとても無理な成績でした。 しかし、母から、もし現役で国立大学へ合格したら、その時は大学で思う存分テニスをやってもよい、たとえ留年しても良いと云う約束まで取り付けていましたから、高校での部活動(軟式テニス部)を諦めて、 番付(当時の長田高校では、実力考査の結果の上位30番位までを番付として廊下の一隅に貼り出していました)に載るまで、つまり、30番以内に入るまでは頑張ろうと決心しました。 (この決心をした事情の一つに、二つ年上の兄(長田高校の高校三年生)が学年でトップを争う番付常連者でしたので、弟としては頑張らざるを得なかったのです。実際、授業中に3年生にも教えていた先生が、君はあの大谷の弟やろ、 頑張らなあかんやないか、とクラスの皆の中で叱咤激励されたのですから・・・)。

でも実は、もう一つ頑張らねばならない事情がありました。

それは、私の家の近所に同じ長田高校1年生の女生徒が居まして、その女生徒は私が104番だった時の番付で、何と24番でした。この事もかなり大きい発奮材料になったと考えています。 何故なら、私はその女生徒に少なからぬ好意を持っていましたので、自分を情けない男と見られたく無く、実力考査の成績で負ける訳にはいかないのでした。それで、夏休み明けに予定されていた次の実力考査では、24番より上位の番付に載る事を目標に、 その1年生の夏休みには、それまでもそれからも決してした事の無い位に勉強しました。特に点数で大きく差が付く数学は、解けない問題が無い位まで勉強した記憶が残っております。

そして、その結果は何とその目標ギリギリの24番でした。そして、彼女は私よりも下の順位でしたので、目標を達成したのでしたが、ただ、目標を達成した事よりもこの事が大きな自信になり、それからもなお頑張れたことの方が大きく、 それからは番付の常連になり、最高位は12番まで上り詰め、望み通り、兄も進学していた国立大阪大学(以下、阪大と称します)の基礎工学部合成化学科に現役で入学する事が出来たのだと思っています。

今にして思います事は、生来(せいらい;生まれつき)然程(さほど)の努力家では無かった私を国立の阪大にまで進学させたのは、国立大学指向の家庭の雰囲気と、勉強の出来た女生徒の存在、そして成績が抜群に優秀だった兄の存在等、総てが重なったからに違いありません。 この阪大への進学は、大学卒業後の就職先になったチッソ株式会社に繋がり、その最初の赴任地の熊本県水俣市に繋がり、それが水俣市に生れ住んでいた妻との縁に繋がり、そして子供、孫に繋がっていることを何かしら必然の出来事として振返っておりますが、 一方で、それら現在の総てが中学の部活に選んだ軟式テニスと大きな関係があることは、次の阪大時代を読んで頂ければ、「そんな事情だったのか・・・」と、お分かり頂けるものと思います。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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