No.1570  2016.06.02
『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第五章』詳細解説―(3)自然(じねん)を知らせん料

●無相庵のはしがき
     私たちは、『浄土』と云う言葉を聞きますと、ついつい、何処かにそのような世界があるとか、場所があるように考えてしまいますが、 今私たちが生きている世界が『浄土』であるのですが、私たちの自我が、浄土の反対の『穢土(えど)』と思ってしまっていると云うことを親鸞さまも、 米沢秀雄先生も仰っています。そう云うことに気付くことが自覚であり、悟りでもあると云うことであります。信仰とか、信心と云うものは、仏像を拝んだり、お寺や神社に お参りして、手を合わせることと思いがちでありますが、それは大きな考え違いだと云うことであります。

●『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第五章』詳細解説―(3)自然(じねん)を知らせん料
     言葉を使う場合に、今、仏と云う言葉を使いますと、使う場合に難しく言うと概念規定というか、 仏と云う言葉は紛らわしい使い方があるので、自分は仏と云うのをどう云う意味で使うか、そう云う概念を決めて言葉を使うと云うことが非常に大事なことですね。 私は四十三年にNHKテレビの宗教の時間に引っ張られた時に、詩を題材にしてくれと云うことだったので、宗教と云う言葉をどうしても使わねばならんので、 宗教と云うのは色んな意味内容を持って皆が使ってるので、私はこの場合、どう云う意味で宗教と云う言葉を使うか、概念規定をして使うことが大事なことや。 皆、宗教と云うのを、自分の受け取っている宗教観で考えることが多いものですから、私は宗教と云うのは、永遠と今の関係 ――そう云うことを宗教の概念規定に使ったと思うんですね。

     永遠と云うのは、真宗の言葉を使うと、無量寿無量光と同じことなんです。永遠と云うことがあって我々が存在する。 我々が存在しなければ永遠もないと云うことが言えるんですよ。「弥陀を助けに行かねばなるまい」と云う歌を詠んだ人があるのは、自分が無いと阿弥陀さんも要らんのや。 自分が居ると云うことが、無量寿無量光がある。永遠があると云う証拠になる。

     私は、自分の存在と云うものは永遠の出口やと言うたことがあります。私が無いと永遠がないのや。 私は永遠に依って支えられて此処に存在しておる。こう云うことが言えるので、無量寿無量光の中に生かされて生きておる私やと云う、 自分の位置を永遠の中に占めておることを確認する、それが信心と云うものであるし、自覚と云うものであるし、自覚と云うのは、 自分の存在の本当の姿を確かめると言うか、それを自覚と言うので、それが自覚されたのを救いと言う。それでなければ、念仏成仏是れ真宗と云うのは成り立たんし、 親鸞さまは、救われる、助かると云うのは自覚であると云う意味でつかわれた。そう云うことが、書かれたものをみると承認せざるを得ないと思うんですね。

     私は一番初めに申し上げたと思うんですけど、唯円が親鸞さまの幾つ頃の時にお話しを聞いたのであろうと―― と言うのはここに『歎異抄』の終わりの方に出て来るんですが、「凡夫の身をもってさとりを開くということもってのほか」やと唯円が書いている。ところが親鸞さまは、 晩年の『和讃』の中に「弥陀の本願信ずべし、本願信じる人はみな、摂取不捨の利益にて、無上覚をばさとるなり」――この上ないさとりをさとるのであると、 親鸞さま自身が言うておられる。「凡夫の身をもってさとりを開くということもってのほか」や、とは非常に矛盾すると思うんですよ。そう云う矛盾をどうして解釈するのか。 それで私は『歎異抄』に付いて疑問を持つと云うのは、今申したことも一つの大きな手がかりになってるわけです。だから、親鸞さまは晩年になられる程、 考え方が変わってきていると言うか、深まっておると言うか、親鸞さまの考え方に火をつけたのは、師匠の法然ですけれども、 それを親鸞さまは深めていかれたと思うんですね。例えば、最晩年に書かれた『自然法爾章』ですか、あれは簡潔な文章ですけれども、素晴らしいものやと思いますが、 あれと『歎異抄』を比べましても、『自然法爾章』は短いけれども、素晴らしいものだと思います。『歎異抄』よりももっと素晴らしいと思う。と言うのは、 あれに弥陀の誓願不思議はちゃんと書いてあるんや。

     自然のようを知らせん料なり――弥陀仏と云うのは自然のようを知らせん料なり。材料である。 自然と云うことは私がいつも申し上げる法身仏のことを親鸞さまは晩年に自然と云う言葉で表しておる。これは真実崇拝と言うか、我々は自然の中に生かされて生きておる。 自然のようを知らせん料なり――材料である、阿弥陀仏は。だから弥陀仏も自然のようを知らせるはたらきに過ぎない。はたらきに過ぎないと言うと失礼だけど、 このはたらきが非常に大事なんで、だから奈良平安の仏教のように、仏像を拝んでおったって御利益があるわけでない。さとりと云うものはそれで開けるもので無い。 蓮如が言われたように、南無阿弥陀仏のいわれを知ると言うのか、そう云うことで初めて我々が助かると言うか、自覚と云うものが生まれてくるんだと思うんですね。 そう云う点で、第五章と云うのは、日本人が在来もってる民間信仰、それを痛烈に批判しておられるところが非常に大事なんですね。 親鸞と云う方はものを誤魔化して通り過ぎることの出来なかった人で、信仰と云うものを厳密に批判されて、他のものと区別して、純粋な信心と云うものはどう云うものか、 そう云うことをはっきりされた方やと思うんです。

     ついでに申し上げると、ある所に「この世に浄土を作りましょう」と書いてあった。それで私は、 これは親鸞さまと全然考え方が違うのでね。この世で我々が浄土を作るのでない。浄土の中に生かされて生きているのや。 自然の浄土と云うことを親鸞さまが言うておられる。自然の世界が浄土であって、そこに我々が生きておる。我執を持って生きておる。自我を持って生きておる。 自我を持って生きておるから、自分の目で見て、自分の感情で見て、穢土を作っておる。浄土の中に居りながら、穢土を作ってるのが我々であると云うことを、 その寺のスローガンのかかってるところで言うたんやから、その寺から私は、しばり首になるんやと思うんやけど。 本当のことを言わねばならんと思うんや。妥協してはいかんと思うんや。親鸞と云う人は妥協しなかった人なんですね。 妥協しなかったから一生貧乏したのかも知らんけれども。

●無相庵のあとがき
     親鸞さまは、何ごとに付きましても、誤魔化して通り過ぎることが出来なかった人だと申されていますが、言い換えますと、真実のみを 追及された方だったと思います。
     私は最近思うのですが、真実と云うことは、難しく考える必要はなく、私たちの周りで生じている、あるいは起こっている事実、 現実だと思います。その現象や物事を自分勝手な推察・推量を加えずに観ることが、真実を追及することだと思います。何故かと言えば、現実・事実は、縁に依って生じて いるからです。(私たち人間が知り得ない)色々な条件、経緯、環境が全て揃って、結果として生じていることばかりだからであります。そう云うことになりますと、 受け容れるしかなくなります。否、受け容れて前に進むだけだと思います。それを般若心経では、『無有恐怖』、親鸞仏法では『無碍の一道』を歩むと云うことだと思います。

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No.1569  2016.05.30
広島でのオバマ演説の素晴らしさと問題点

●無相庵のはしがき
     5月27日に広島でアメリカの現職大統領として初めて被爆地広島を訪れたオバマ大統領の演説は、ある部分哲学的な考察も有って、 格調高い内容だったと、私は思っています。智慧のある人類だと思っている私たち人類が、実は自分の能力を弁(わきま)えられていないのではないかと 訴えている演説ではなかったか、そして、その事実を人類が、全世界の国々が共有する困難さを訴える演説だったと思っています。そして、世界中の政治家の中に、 これ程の哲学的自己分析を出来る指導者は、他に見当たらないとも思っており、任期が切れて、世界をリードする役割を担うアメリカ大統領の座を去るオバマ氏を 惜しむ気持ちでいっぱいです。

     ただ、無相庵としては、演説の一箇所に、私たち日本人、特に仏教徒が果たすべき役割と責任がある事を痛感致しました。 それは、下記の訳文中の『どの偉大な宗教も、愛や平和、正義への道を約束します。にもかかわらず、 信仰こそ殺人許可証であると主張する信者たちから免れられないのです』と云う部分です。
     その役割と責任と理由に付きましては、〝無相庵のあとがき〟にて申し上げたいと思います。

●オバマ演説(和訳)
     神戸新聞に、英文と和訳が掲載されていまして、それを一字一句、何時ものように、キーを叩いて掲載しようと始めましたが、 時間切れでギブアップです。 このオバマ演説の詳細を御覧下さいますよう、 お願い申し上げます。

●無相庵のあとがき
     オバマ大統領が申された〝どの偉大な宗教〟には、一般的に世界3大宗教と言われる、キリスト教、イスラム教、 仏教を指すのだと思いますが、キリスト教とイスラム教が絶対創造主の『神』を立て、その神の思し召しとして、宗教戦争をして来ましたし、ご承知の通り、 昨今のテロ、テロリストの背景には『神さま』の存在があることは否定出来ないと思います。が、しかし、仏教が立てる『仏さま』は、『神さま』とは全く異なる概念です。 オバマ大統領に、今回の言葉を言わしめた責任は、オバマ大統領には無く、私たち仏教教団関係者と仏教徒の説明不足・怠慢にあると私は考えております。
     過去にも現在も、鈴木大拙多師を含む多くのお坊さんや学者が、海外に出掛け、努力をされて来られたことも事実ですが、 今回のオバマ大統領の発言に至ったことは、仏教を布教する有り方に、大きく抜け落ちた何かがあることを示唆していると受け止めたいと私は思っております。 今の私には、それが何か分かりません。ただ、忘れずに、気に掛けて参りたいと思っております。

なむあみだぶつ


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No.1568  2016.05.26
『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第五章』詳細解説―(2)氏神さまの否定

●無相庵のはしがき
     歎異鈔第五章の原文の中に、「一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。いずれもいずれも、この順次生に仏になりて、 たすけそうろうべきなり。」と云う言葉がありますが、この中の『順次生(じゅんじしょう)』と云う仏教語の解釈を私は永らく間違っておりました。 今回の詳細解説の末尾に示されている米沢秀雄先生のご説明で、すっきりと納得出来ました。おそらく読者方も同じく納得されるものと思います。

●『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第五章』詳細解説―(2)氏神さまの否定
     この章は親鸞の思想を知る上で非常に大事なところだと思うんです。と申しますのは、日本の民間信仰を、ここで否定してるわけや。 民間信仰と云うのは、先祖供養なんですね。つまり自分が今日あるのは先祖のお陰であると云うので、供養する。おまけに支那から儒教が入ってきて、 儒教でも父母を大切にするとか、先祖の供養を怠らんとか、そう云う思想が儒教にあって、儒教が補強工作したために、先祖供養と云うことが、 日本の民間信仰に定着しております。 これも真宗が奈良平安の仏教に戻ったと云うことで、浄土真宗も先祖供養を現にやっております。命日にお経あげると云うことが、それなんです。 私はそれを悪いとは言わん。それをすることにおいて、お寺の人が生活できるのやで。人間と云うのは霞を食ってるわけにいかんから、泥棒するわけにいかんから、 皆の要求に応えて、そう云う先祖供養をすると云うことは、今日われわれがあると云うことも先祖のお陰やから、それに間違いない。 だから先祖供養をすると云うことは悪いことではない。けれども、一面やはり、親鸞さまが私たちに教えたかったことを、一般に伝えることも大事なことであろうと思う。

     先祖供養することを、寺門経営と云うのや。大谷派の坊守(ぼうもり;住職の奥さんのこと)さんの研修会で、今日私が話することは、 寺門経営と全然関係ないことを申し上げると言うておきましたが、寺門経営と云うことも大事なことなんです。これをせんと生活出来ませんから、 寺門経営を決してバカにしてはいけないし、それから門徒の人のお陰で生活出来てるんやから、門徒を大切にすると云うことも、大変大事なことと思うんですね。 今までお寺と云うのは、身分が違うような錯覚を持っておりまして、門徒をバカにするふうがあるわけですね。そう云うことは間違っておる。 ことに民主主義になった現代の時代には、そう云う考えは通用せんだろうと思うんですね。

     「親鸞は父母の孝養のためとていっぺんも念仏もうしたること、いまだそうらわず」と云うのは、先祖供養を否定しているんです。 つまり、お宮さんがあるでしょう。お宮さんが氏神と言われるのは、私は米沢ですが、私の代から米沢になったんでないから、昔から米沢の祖先があるわけだけど、 これはだいたい明治になってから名前をつけたんやで、それまでは苗字は無かったんですよ。皆さんのうちでも、有名な、藤原とか、平とか源とかそう云う有名な家なら、 昔から名前がありましたけれども、一般庶民には苗字がなかったんです。個人個人の名前だけあったんです。 昔、私は、手紙をどうして届けたかなあと不思議に思うんや。苗字が無いんやから。今は苗字持って名前持って、表に表札出してあるから間違いないけど、 昔は苗字なかったんやで。どういう風に手紙配達したか、不思議に思う。知り合いに頼んで届けてもろうたこともあろうけれど、 飛脚と云うのは手紙や小包を運ぶのが専門の職業ですから、どうして苗字がないのに探し当てたかと、不思議に思うんですね。今でも田舎へ行きますと、 屋号が残っているが、その屋号が苗字の代わりしたんでないかと思うんです。こんな呑気なことを考える者もあまりなかろうけど、苗字があるのが当たり前と思うと間違いだ。徳川時代に手柄のあった人に、苗字帯刀を許されるのは庄屋かな。一般庶民でも特に手柄のあったものを、勲章代わりに名前に苗字をつけることを許されることがあったんです。明治時代になってから、一般の者が苗字を持つようになったんです。だから苗字には、似たのが沢山あるでしょう。田中とか加藤とか非常に多いのは、明治時代になって急にあの名前がいいなぁと云うわけで、真似してつけたと云うことがあるわけですね。 たとえば、米沢と云うのは明治になって慌ててつけたのかも知らんけども、昔からあったとしますと、氏神は米沢氏の氏神、或いは平氏の氏神とか、藤原氏の氏神とか、 氏神と云うのは氏の神さま、そう云うのがあったんです。今はそう云うことがなくなって、○○神社の氏子と云うのが別に、 初めからの子孫ではないけれども氏子と言ってる。そう云うふうに現在ある名前がどうして出来たかを調べることは、 日本人の思想を知る上で大事なことであろうと思うんです。

     氏神は氏の神様やから、氏神を親鸞が否定したと云うことでしょう。父母孝養(ぶもこうよう)のためいっぺんも念仏せんと云うことは、 氏神を否定したこと。だからそこで親鸞の思想が、世界的になっている。宇宙的と言ってもいいかな。この第五章がそれを物語っている。 皆が世々生々の父母兄弟(ぶもきょうだい)や、と云うことを言うてるんやから。氏だけが大切なんでない。 氏神と云うのはエゴです。自分の子孫が繁盛するようにと云うのはエゴや。親鸞はそう云う考え方を否定して、世々生々の父母兄弟ではないかとして、 皆、手をつなぐ世界を、ここではっきり言うたと云うところに、親鸞の思想が宇宙的である、世界的である――宇宙的であると云うのは、 仏法ではご承知のように十方衆生云うて、虫けらも植物も全部入るんですから、これ位広い考え方と云うのは無いのですね。それを日本へ持って来て、 日本的に表現したのが、父母孝養のためいっぺんも念仏せず――、世々生々の父母兄弟や、血のつながりがあるんやと、親鸞が言うとるわけやね。 もう一つ言うなら、我々が死ぬと、土になるでしょう。いずれ焼いて灰になって、土に混じる。そうすると、物質不滅の原則と云うのがあって、 元素と云うのか原子と云うのか、細胞がくずれても、細胞の中でなくならない。それが地面の中で肥やしになって、ネギになるやら、大根になるやら分からん。 我々の体も、いつか大根やネギになったりするんや。そう云うことになると、世々生々の父母兄弟と云うのが広くなってきた、宇宙的になると思うんですね。 そう云うところに、親鸞の思想があると云う。これはそう云う点で非常に大事なことで、日本民族とか日本の国とか、そう云う〝けちくさい〟考えを、 親鸞が否定しておる。この位広い世界観はなかろうと思う。

     「一切の有情はみなもって世々生々の父母兄弟なり。いずれもいずれも、この順次生(じゅんじしょう)に」――順次生と云うと、 自分が死んで先の世に考えられる、自分が死んで生まれ変わる話でなくて、生きてる今生まれ変わる。回心して、自分の家だけ子孫が繁盛すればいい。 そういうけちくさい考え方を捨てる、そして阿弥陀仏の無量寿無量光の〝いのち〟を一人一人が生きてるんだ、と云うところで、広い世界観を持ったことを、 生まれ変わったと言うわけや。この順次生に仏になりて――金ピカの仏さんになることでなくて、自分の存在が、無量寿無量光の広大な世界の中に、 確かに生きて座を占めていると云うことが、自分で納得できる。こう云うのを仏になったと云うわけや。「念仏成仏是れ真宗」と云うのは、 そう云う意味であろうと思いますけれども。

●無相庵のあとがき
     念仏と云うのは、亡くなった人に対して称えるものではなく、〝自分の存在が、無量寿無量光の広大な世界の中に、 確かに生きて座を占めていると云うこと〟に気付いた瞬間、或いは目覚めた時に、有難いなぁーと云う気持ちから称えたり、また、日常生活の中での自分のとった言動や、 心の中に湧いた自分の煩悩(自己中心さ)に気付かされた瞬間に思わず〝罪悪深重・煩悩熾盛、煩悩具足の凡夫〟の我が身を振り返って称える念仏もあります。そうして、 そんな我が身が仏法に巡り遇えた縁を喜んで称える念仏もあり、それを米沢秀雄先生が、 「念仏成仏是れ真宗(ねんぶつじょうぶつこれしんしゅう)」と申されているのだと思います。

なむあみだぶつ


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No.1567  2016.05.23
『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第五章』詳細解説―(1)奈良平安の真宗

●無相庵のはしがき
     仏の教え、仏法の教えは、何か尊いものを拝むことでも、死者を弔うことでもありません。でも、現代の日本国民の殆どは、 仏教を、その拝む宗教だと受け取っていると米沢秀雄先生は嘆いておられます。そして、その責任は、本願寺や、真宗の学者さんたち、 そして末寺のお寺さんにあるとお考えだったと思います。この一般世間の考え方を、是正し、親鸞聖人が説き伝えたかった「本当の自己を知り、 本来の自己に目覚めよう」と云う、お釈迦様の教えに回帰するには、親鸞仏法に縁を頂いた私たちの役目だと思いますし、またそれが、 米沢秀雄先生や井上善右衛門先生、その他縁を頂いた先生方がお喜びになられる、恩返しする道でもあると私は思っております。

●『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第五章』詳細解説―(1)奈良平安の真宗
     私、近頃変なことを思いついて、それは八月の終わりに金沢の西別院に引っ張られた時ですけど、そこでうっかり、 真宗は奈良平安の仏教に戻ってしまったのでないかと言うた。奈良平安の仏教と云うのは、お寺さんは教学を勉強している。一般の庶民はお寺の本尊を拝むのや。 本尊を拝んでご利益を貰う。それで、その本尊はどなたですかと聞くのが、庶民のすることやね。薬師如来やとか、如意輪観音やとか云うのを拝んでおった。 その中に阿弥陀さんもあるんや。阿弥陀信仰もあって、本尊の阿弥陀さんを拝んでおったんです。

     そうすると、ご承知のように親鸞さまは、帰命尽十方無碍光如来と名号を書いて拝んでおられたんやから、違うでしょう。 そう云う点をはっきりしておかにゃいかんし、先月やけど、大谷派の北陸連区の坊守の研修会が芦原のホテルであったわけや。
     ホテルの日本間の広間であったんやけど、舞台の上に屏風を立てまわして、そこに阿弥陀さんの絵像がかけてあった。 その時も、日本の仏教は、奈良平安の仏教に戻った。帰命尽十方無碍光如来と云う名号を、親鸞さまは拝んでおられたにも拘わらず、そう云う肖像、仏像を拝むのは、 奈良平安の仏教に逆戻りでないかと、私は思うんです。

     私はこんなこと言うたって、僧籍剥奪される心配もないもんやから、勝手なことを言うわけやね。 それで親鸞さまが我々に教えたかった本質は何かと云うことを考えるのが、一番大事なことでないかと思うんですよ。
     助かる、救われると云うことはどう云うことか、と云うことがあまりはっきりしておらんのでないか。信心と云うものは、 そう云うことをはっきりさせておくことが非常に大事なことだと思うんです。 たまたま、中日新聞と清話会館と云う財団法人が主催して「一日出家の集い」と云うのが毎年一回行われておるのですが、今年は十三、十四、十五日、 鎌倉の光明寺と云う浄土宗の本山であったんです。私もそれに引っ張られて、禅宗の方では松原泰道と云う、これは臨済宗のお寺さん。 もう一人は永平寺の名古屋別院の一番上の人で、渡辺月正と云う人で、私はどうもそうなると、真宗の代表みたいなもんやないかと思うんだけど、話をさせられましたが、 その浄土宗の本山と云うのはまことに大きいんや。山門があってまことに大きいですよ。

     ところがその、初めてその寺を建てた人は北条経時と云う人やそうや。時頼のお父さんになるのかな。経時と云う人やと聞いた時、 だいぶ戦争で人殺しをした人で、その罪障消滅のために、このでかい寺建てたなと思うたんや。大きい寺建てて戦争で亡くなった人の菩提を弔う。 そう云うことが当時の習慣ですね。寺と云うのはそんなことで出来ておるんです。

●無相庵のあとがき
     次回の『氏神さまの否定』をお読み頂けば、米沢秀雄先生の真意と、親鸞聖人のご真意がお分かりになられると思いますが、私は、 もし拝むとしたら、この私と云う人間と言いましょうか、私と云う人間の命を拝まねばならないと考えます。
〝命の大切さ〟と云う言葉がよく使われますが、私の命そのものが尊いのではなく、この世に生み育ててくれた両親の様々な苦労と、私に注いでくれた大きな希望と期待、 そして愛情を拝まねばならないと思いますし、また、大した頼りにはならない私ではありますが、夫、父親、祖父として何某かをアテにしてくれている妻子、孫達の存在を 思います時、我が命に頑張れよと拝まざるを得ません。また、飛び切り上等な才能がある訳ではないですが、遠い遠い祖先達が私に譲り遺してくれた、 能力にも感謝しなければなりません。

私の命を拝むことそのものが、神さま、仏様を拝むことでもあると、米沢秀雄先生のご法話から学ばせて頂いたことであります。

なむあみだぶつ


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No.1566  2016.05.19
『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第五章』詳細解説―原文

●無相庵のはしがき
     私たちの慈悲は末通るものではないと云う第四章から、念仏は、親兄弟の供養にはならないと云う第五章に移ります。 世間一般で人々が念仏を唱えるのは、葬儀の時か、墓参りの時位でありましょう。親鸞さまが、今日の状況をご覧になられたら、嘆かれること、間違いありません。 何とか致しませんと申し訳ないことであります。

先ずは、原文と、高史明師の現代語意訳をお読み頂きたい存じますが、米沢秀雄先生の第五章の詳細解説は、下記の小題で構成されています。

          (1)奈良平安の真宗
          (2)氏神さまの否定
          (3)自然を知らせん料
          (4)寺門経営の必要
          (5)不安に立つ人間
          (6)身障者のあくび
          (7)わが身をおさえる
          (8)親鸞は露悪家か
              露悪(ろあく)とは、物事の欠点や悪い・醜い部分を意図的に表現することである。

●『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第五章』詳細解説―原文

               親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうし
          たること、いまだそうらわず。そのゆえは、一切の有情
          は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。いずれもいず
          れも、この順次生に仏になりて、たすけそうろうべきな
          り。わがちからにてはげむ善にてもそうらわばこそ、念
          仏を回向して、父母をもたすけそうらわめ。ただ自力を
          すてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道4生の
          あいだ、いずれの業苦にしずめりとも、神通方便をもっ
          て、まず有縁を度すべきなりと云々。

●高史明師の現代語意訳
     親鸞は、父母の供養のためということでもってしては、一遍も、念仏を称えたことは、いまだありません。その故は、 一切の生きとし生けるものは、みなもって、生まれかわり生きかわるそのいのちの縁からすると、すべて父母、兄弟であります。 (そのあるがままの自分を覆い隠しているものは、人間の無明であります。その自分が中心となって、念仏を供養の手段としているような供養が、 本当の孝養と言えましょうか。まず、あるがままの自分に目覚めさせて頂くことこそ肝要であります。そうすれば、それがそのまま本当の孝養になりましょう。 それはまた、順をおっていただく次の生には、仏にさせていただくことになるのでありますから)どなたにあっても、その順次生には、仏となって、 父母をお助けできると言うものであります。(念仏が)わがちからでもって励むわが善でもありますものならば、その念仏を差し向けて、 父母をもお助けできましょうが、念仏とは、私のものではなく、阿弥陀仏の智慧であります。(よかれと思ってすることであっても、私達が、 自分を中心にして、念仏を自分の善きこころがけにしているようでは、供養しようと思っても、それが、かなうことはないのであります。 自分を中心とする自力を捨てることであります。)ただ自力を捨てて、念仏の一心において、瞬時に開かれる浄土の覚りがいただけますなら、 地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天人という六つの迷界、また胎生・卵生・湿生・化生という四種の生まれ方とそれによる生のあり様のいずれにあって、 どのような苦しみに沈淪(ちんりん)することになりましょうとも、私共衆生を導いて下さる、方便という名の阿弥陀仏の巧みな手立てと神通と呼ばれる超能力によって、 何よりもまず、もっとも縁の深い身近な者を助けあげていくことができるのであります。

●無相庵のあとがき
     昨年に引き続き、今年もツバメさんが我が家に来てくれました(確か、4月19日)。そして、5月12日には、卵の殻が愛の巣の真下に 落ちていましたので、孵化(ふか)したのだと思い、ずっと雛の鳴き声が聞こえるのを待っておりましたが、 今日(5月18日)に鳴き声を妻には聞こえたようです(私は難聴故に聞こえません)。

     7年前の5月に初めて我が家に巣作りしようとした一代目の太郎と花子夫婦は、 糞の汚れを気にした私たち夫婦が必死で撃退し気の毒なことをしましたが、その後は大いに反省して、ツバメさん夫婦の到来を待ち侘びていました。
     6年間は全く姿を見ることは出来ませんでした。そして、やっと昨年、二代目の太郎と花子がちゃんと、 真新しい愛の巣を玄関のポーチに作ってくれ、卵まで産んでくれましたが、何ものかに、巣を荒らされ、卵は壊され、雛の鳴き声を聞くには至りませんでした。
     しかし、今年の三代目の夫婦がついにやってくれました。

     縁と云うものでしょう。上述の原文にあります、「一切の生きとし生けるものは、みなもって、 生まれかわり生きかわるそのいのちの縁からすると、すべて父母、兄弟」と云う思いで、巣立ちの日を迎えられることを祈る次第であります。

なむあみだぶつ


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No.1565  2016.05.16
『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第四章』詳細解説―(8)誰の力でハナかめる

●無相庵のはしがき
     鼻をかむ、トイレに行って大小便をする、食事の時に焼き魚を食べる、これら日常、当たり前にしていることが、全て、親から、 母親から教わって出来たこととは、私たちは思わないのですが、もの心つく前に母親から教わって出来たことが殆どです。そして、呼吸することも、睡眠をとることも、 体中に血液を循環するのも、別に自分の努力でしているわけではありません。夜眠っている時も、何故か、呼吸をし、安らかに眠っていられます。年老いますと、きっと、 眠っている時も、尿意、便意を催すはずですが、粗相をしなくて無事目覚めることが出来ます。これって全て他力のお蔭です。

     私たちは、全て他力のお蔭で生活していることは間違いありませんが、否、そうではない、自分もそれなりの努力をしている、 だから生きていられるんだと思っています。全て他力だと云うことに諸手を挙げて賛成出来ません。
     よくよく考えれば、今、こうして生きていられることは、空気の存在も含めて、太陽の存在を含めて、 全て他力のお蔭である事を認めざるを得ません。そしてまた、それが私の人間の実態でもあると思うのです。ただ、他力信仰は、過去の様々のことを振り返った時に、 「あれは、自分の力不足でもなく、自分の手柄でもなく、色々と多くの縁によるものだった」、「こうして今私が在るのは、これまでの無数無限の他力のお蔭、 人間社会の歴史の総力の結果、すなわち、因縁なのだ」と我が身の今に気付くことであり、これから一寸先の未来、将来を他力だと信じる事では無いと思います。 一寸先の未来、将来を他力だと思うのは、他力信仰ではなくて、他力依存ではないかと、米沢秀雄先生の詳細解説をお聴きしながら思ったことであります。

●『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第四章』詳細解説―(8)誰の力でハナかめる
     私は、字を書かされると、自分が考えた言葉を書くことにしておるんですが、 その中に「如来大悲の恩徳の中に生かされて生きている私であった」と、こう言うと懺悔になるであろう。であったと言うと、今初めて気が付いたと云うこと。 気が付く以前から摂取不捨の中におったと云うことで、気が付くと云うことが大事なんです。現在形にすると如来大悲の恩徳のただ中に生かされて生きている私である。 しかもそれを忘れている私であると云うところに、機の深信があるであろうと思う。如来大悲の恩徳のただ中に生きておる私であると云うところに法の深信がある。 法の深信とか機の深信とか言うと、大変難しい。難しいがごく分かり易く簡単な言葉で言いますと、こう云う表現になるんでないかと思うんですね。
     『歎異抄』の第一章に摂取不捨、「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたもうなり」と云う言葉がありますけれども、 あれはもともと摂取不捨の中におるので、念仏申さんと思い立つ心のおこる時、その時初めて摂取不捨の中に入るんじゃない。初めから摂取不捨の中におったんや。

     念仏申さんと思い立つと云うのは、自分はそう云う摂取不捨の中におりながら、それに気が付かなかったなあと思うのを、 懺悔と言うのであろうと思います。皆、摂取不捨の中におるのや。その摂取不捨に気が付かん、自分のやったことばっかり鼻にかけてるのを、十九願と言うのや。 少し分かって自分の努力もあるけれども、お蔭もあると考えるのを、二十願と言う。如来のはたらきもあるやろ。しかし、自分の努力もしなければ生きておられぬ、 と考えておるのをこれを二十願と言う。
     その例をあげますと、桑名の本派の寺に引っ張られた時に、住職が前以て、こう云う質問が来てる、と手紙よこして、真宗は他力他力と言うけれども、 自力も必要なんでないか、と質問が来てますと、住職が手紙よこした。
     そこへ行った時に言うたんや。実際に言うた。「ちょっとハナかんでみてくれ」。ハナかむ位何でもない。「あなたは生まれた時から、 自分でハナかめたか」と聞いたんや。だいたい子どもが、じぶんでハナがかめるのは五つか六つになってからや。それまで、母親がハナ紙を鼻にあて、 「フンしなさい」とやって、何べんも失敗した挙句、自分でハナかめるようになる。ハナがかめるようになると、生まれた時から自分でハナかめたような顔しとるのや。 母親と云うのは一つの他力です。母親のお蔭で、自分でハナかめるようになる。自分がハナかめるようになった時、手がはえたかと言う。手は生まれながらはえている。 親が手をはやしたんでない。親は生んだだけや。手をはやすとか足をはやすとか、心臓が博動(拍動とも書く)する仕掛けになっとるとか、それは親がやったんでない。 親もそう云う〝はたらき〟を受けとる。
     親にも子にもそう云う〝はたらき〟を与えたのを、他力と言うのや。他力他力と言うが、自力も必要でないかと言うけれども、 そう云うのこそ他力の中の自力である。 他力の〝はたらき〟を受けながら、何か自力でやった少しのことを鼻にかけているのを、他力の中の自力と言うんだろうと思うんです。 皆、他力の中に生かされているのでないか、と云うことがはっきり分かったのを、至心信楽欲生我国と、十八願と言うんだろうと思うんです。 十八願を真宗では真実信心と言うて、こう云うふうにならねばならんと言われておりますけれども、なる、ならんに拘わらず、そうであることは間違いはない。 そうであることを再認識するのを、信心と言うのだろうと思います。信心と云うのは別に特殊なものでなくて、我々が他力の中の自力を励んでおったなあと気が付いて、 自力も他力の中であったなあと気が付くことが信心であろうと思うんです。そこで仏の真実心が、我々に届くと云うことであろうと思うんです。 真実心、仏の心と云うものは私たちが有難く思おうが思うまいが、常にはたらいておったなあと気が付くのを信心と言うのである。 気が付くのを回心と言うのであると思うんです。

     回心とか信心とか非常に難しく考えていらっしゃるかも知れませんけれども、私はそう難しいものでなかろうと思う。 少し、考えてみれば分かる話である。気が付く話である、と私は思う。

     本願と云うものは十八、十九、二十と三つあるようですけれども、 これで人間の有り方を全部尽くしておると云うことは素晴らしいことだと思うんです。人はどうでもいい、人が十九願におろうがどうでもいい、 自分も昔十九願におって威張っていたなあ、仏法を聴聞してから二十願におったな、二十願におったと云うことは仏の力を借りてると、 しかし自分も努力しておると自分の努力が残存しておると言うか、自分の努力を忘れんと云うところに、二十願と云うものがあると思うんです。 だから親鸞の三願転入によりますと、三願転入は番号を打ちかえねばならんように思われるけれども、真実信心の経過から見ますと、この通りでいい。 十八願に帰して初めて十九願におった、二十願におったと云う過去の自分が分かって来るのである。過去の自分が分かると同時に、色んな人がどの位置におられるか分かる。 十九願におっても軽蔑することは出来ん。自分も昔はそこにおったんやから。あの人がそこにおったなら、早く十八願に帰せられるといいなあと願うことは出来ても、 決して軽蔑することは出来ない。この、「子ども子どもと笑うな大人、昔通った道じゃもの。年寄りを笑うな、やがて行く道じゃもの」と云う言葉がありますけれども、 決して十九願におる者を笑うことは出来ん。自分もあそこにぉったと、自分と一緒のご苦労をなさっておるなと云うことであります。

     我々が日常遭遇している色んな苦悩は法蔵菩薩の兆戴永劫のご修行である。 それを五劫思惟兆戴永劫のご修行で法蔵菩薩が南無阿弥陀仏を成就して下さったと言うて、全部法蔵菩薩にかこつけて、こちらが楽になって、 それが易行であると思うのは、ちょうど、キリストが十字架にかかって、我々の罪を荷(にの)うて下さったから、キリストを信じるだけで、我々は助かると言うてるのと、 同じことではないかと思うんです。キリスト教を軽蔑することはできない。キリスト教と同じことを、昔の説教では法蔵菩薩と云う名前で言ったんでないかと思います。 自分の苦労を法蔵菩薩のご苦労として戴くところに、真実信心が目覚める、そう云う機会が与えられるんでないかと、思うんです。

●無相庵のあとがき
     井上善右衛門先生と米沢秀雄先生は、お人柄も夫々の師匠も異なるようで、法話の表現は随分異なりますが、 そのお二人の先生に同時にお出会い出来たこと、そして、禅門の西川玄苔先生、青山俊董尼(あおやま しゅんどう、昭和8年(1933年) - )、 山田無文老師、柴山全慶老師にお出会い出来たこと、親鸞聖人のお言葉通り、「遠き宿縁を喜ぶ」のみであります。

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No.1564  2016.05.12
『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第四章』詳細解説―(7)恩に着せぬ大自然

●無相庵のはしがき
     3年前にアメリカで製作されて、2013年度アカデミー長編アニメ映画賞受賞作品に選ばれた『アナと雪の女王』と云うアニメの主題歌、 「レット・イット・ゴー〜ありのままで〜」(日本語版:松たかこさん)の中に、「ありのままの」と云う言葉があります。 知らない人がいない位大変有名な言葉になりました。
     歌詞の中から抜粋し、下記に転載致します。

          ありのままの姿見せるのよ
          ありのままの自分になるの
          何も怖くない 風よ吹け
          少しも寒くないわ
          悩んでたことが嘘みたいね
          だってもう自由よ なんでもできる

     松たか子さんが、仏教の『あるがまま』と云う言葉を知っているかどうかは分かりませんが、上述にしめした歌詞は、 本日の米沢秀雄先生の『(7)恩に着せぬ大自然』の結論みたいな内容だなと思いました。。

●『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第四章』詳細解説―(7)恩に着せぬ大自然
     南無阿弥陀仏は自力無効だと清沢満之師が言うておられますから、それに違いない。自力無効、死ぬ時に初めて気が付く、 それを臨終往生と言うんだろうと思う。この世で何を信じておろうと、摂取不捨の中におることは間違いない。 ただ、摂取不捨の中におりながら、今まで自分の努力でやってきたと思ったが、やらせて頂いておったと気が付くのが、臨終往生。他の宗旨も、 仏教もキリスト教も全部十九願の中に入る。政治家も経済家も、十九願に入ると言えるんです。それが分かるのは、十八願に帰して初めて分かる。二十願と云うのは、 阿弥陀仏の浄土のことは分かってるのやけど、それが自分と阿弥陀仏の浄土に距離がある。距離があると云うのは、自分の考えか、自分の思いが混じってると云う訳です。

     実は阿弥陀仏の浄土と云うのは、唐木順三さんも、『自然法爾章』と云うのは、親鸞の書いたものの中で、 一番素晴らしいと言っておりますが、親鸞もずっと年をとると云うことにおいて、思想、考えが深まって来てると云うことは言えるんですわ。 『自然法爾章(じねんほうにしょう)』で、自然法爾と云うことを強調している。「阿弥陀仏は、自然(じねん)のようを知らせん料(りょう)なり、 料と云うことは材料で、方便と云うことですが、自然と云うことが我々にとって一番大切な事や。その自然(じねん)の中に生かされて生きとる私や。 私の本当の姿に会わせたいと云うのが、阿弥陀仏の本願である、と。

     だから、阿弥陀仏と云うものは方便、阿弥陀仏は本願を立てられたと云うことになってるけれど、阿弥陀仏の浄土と云うのは、 皆その浄土の中におるのや。自然の中におるのや。自然と云うことが我々分からんから。自然と云うことを私はいつも、法性法身(ほっしょうほっしん)とか、 法身仏とか云う言葉で言うとりますけれども、自然と云うことと同じことなんですね。何故かと言うと、この世に存在する一切のものが重々無尽の因縁によって、 生かされて生きていることは間違いない。 ところが我々には知覚に入るものしか目に入らない。太陽とか月とか星とか、そう云うものは目に入りますけど、そう云うものがあるお蔭で我々は生きてる。 虫けらも生きられる世界であればこそ、我々も生きておると考えられる。そう云うことを我々は普段考えたことがない。自然と云うのは、 この世に存在する一切のものがそのままあるのを自然と言うので、そのいちいちを目に止めることは出来ない。感覚と云うのは、不完全なものですから、 我々の知らないどれくらい多くのものがあるかも分からん。みんな関係し合ってそのお蔭をもって、我々が生きて行ける。そう云う自然と云うことを、 親鸞が教えたんや。そう云うことが親鸞の晩年に到達した思想であると思う。

     阿弥陀仏と云うのは、「自然のようを知らせん料なり」で、材料であると云うことになると、覚如が阿弥陀仏を本尊として、 これを拝まないかんと言うたのとはだいぶ違う。この方便と云うのは非常に大事です。阿弥陀仏の本願と云うのが大切なので、阿弥陀仏と云う仏が実体的にあるのではない。 阿弥陀仏と云うのは、心の底から感動し南無阿弥陀仏を言うた時には、阿弥陀仏は立つことが出来るんや。そう云う点が、 法然が言うた口称の念仏とは違うところであると云うことを申し上げました。十七願に「咨嗟(ししゃ)して」――心の底から感動して、憶念と云うことを言う。 「憶念の心常にして、仏恩報ずる思いあり」と云うことが、親鸞の『和讃』にもありますけれども、憶念と云うのは一度得た深い感動が、心の底から感動したその感動が、 心の底にこびりついて、離れんと云うのを憶念と言うのであろうと思う。憶念と咨嗟と云うのと別にあるのではなくて、咨嗟と云うのは「回心ということ、 ただひとたびあるべし」と言われるあれで、心の底から感動した、南無阿弥陀仏あればこそと感動した、その感動が心の底にこびりついて離れんのを、 憶念と言うんだろうと思う。

     昔の人は、上手いこと言うたんです。俗に言うと、「思い出すよじゃ惚れよがうすい。思い出さずに忘れずに」。これが憶念や。 上手いこと言うてる。親鸞の信心の境地と云うのは、そう云うものであろうと思うんですよ。念仏を称えねばならんと云うようなもんでないんや。 念仏を称えねばならんと云うのは、自分に課したものであるし、法然上人は南無阿弥陀仏を称えねばならぬと云う意識からでなく、自然(しぜん)にナンマンダブ、 ナンマンダブが出たんでしょうけれど、念仏は称えねばならんものでなくて、称えずにはおられん。もう一つ言うたら、「思い出すよじゃ惚れよがうすい。 思い出さずに忘れずに」、こう云う憶念の心で生きることが、大切であろうと思うんですね。 憶念の心で生きてるとどうなるかと言うと、何かしてもそれを恩に着せずに済む、と云うものではないかと思うんです。どうしてこう云うことを考えついたかと言うと、 還相廻向(げんそうえこう)と云うことがある。還相廻向と云うのは浄土に生まれたものがこの世に還って来て、人を教化することである。本願の二十二願かな。 そう云うふうに言われて来ましたけれども、私はそう云う点に疑問を持っておった。還相廻向のことを誰か的確に言うておらんかなと思ったら、 金子大栄先生が書いておられたものの中に、還相廻向と云うのは、「無為無作無相(むいむさくむそう)」と云うことが書いてあって、 「なるほどな、これだな」と私は思いました。 無為無作無相と云うことは、何もせんと云うことではないですよ、決して。したと云う意識が残らんのや。われわれは人に親切にすると、いつまでも、 してやったと云うのが残ってるんや。それは無為ではなのや。無作と云うのはなさないと云うこと。なさないことでない。しとるんや。しとるんやけど、 それが意識に残らんと云うのが無作。無相と云うのは、形がない。形が無いと云うことは、我々、形があるものは形が無いと分からんのや。 しかし形がなくてもその心が有難いと言いますが、その心は形がない。無為無作無相と云うのは、形がない心で人に尽くすとか、人に尽くしたと云うことを意識に残さん、 それが無為無作無相、それが還相と云うものだろうと思うんですね。 還相廻向、往相廻向――こういうのは浄土に生まれることが出来て、初めてそう云う無為無作無相の還相廻向の生活が出来るのであろうと思う。

     何故かなれば、如来と云うのは我々に恩を着せておらんからや。恩に着せておらんところに如来があると思うんですね。 如来は恩に着せておらんと言うたってピンと来ませんから、具体的な例を上げるとしますと、生まれてからこの方、空気を何リットル、何百リットル吸うたから、 いくら払えとは、空気は言わん。太陽も、「お前は日光のお蔭で出来た野菜やお米を食べて生きて来たから、太陽の光熱料をいくら払え」とは言わん。 我々に一番大事なことを尽くしながら、それを無為無作無相、少しも恩に着せていない。 そう云うことが如来大悲と云うもんだろうと思う。大きな悲しみ――これがなくては人間生きて行かれんにも拘わらず、それを有難いと思わん。思わん者に、 無償で与えているところに、如来廻向があると云うことです。これが一番大事なことやで、一番有難く思わねばならんのやけど、思わんと云うところに、 如来の大きな悲しみがあるだろうと思う。しかし、如来大悲はどんなものにも与えられます。真宗の悪口を言うもの、創価学会は真宗の悪口を言いますが、 しかし、そう云うものでも生かされて生きている。摂取不捨の中におることは間違いない。私らは幸いに浄土真宗に会い得たので、 摂取不捨の中におる自分であったなと云うことに気が付く。

●無相庵のあとがき
     私の家の玄関に去年ツバメの巣が作られましたが、残念ながら何モノかに卵が破壊されて、雛を見るには至りませんでした。 そして、今年もつばめさん夫婦がやって来てくれまして、古い巣を宿としています。今年の夫婦は、夕方になりますと、夫婦共に巣に帰って来て、朝まで居座ります。 夜の間は、私たちが玄関にでましても、逃げ出すことは有りませんが、昼間、巣に戻って来た時には、私たちが玄関に出た時には、スッと逃げ出します。

     昼間、ちょくちょく、巣に戻って来て、また出掛けますが、あれは、他のツバメ夫婦に巣を横盗りされないように、 確認に来ているように思います。多分、昼間は、腹ごしらえの為に、何処かに昆虫を啄(ついば)みに出掛けているのだと思いますが、 巣のことが気になって戻って来ているのだと思います。その様子を見ていますと、本能と言いますか、天から与えられた通り〝ありのままに〟子孫を残す事と、 生きる為に必要な食生活を営んで、やがては、また南の国に戻って行くんだなぁーと、人間以外の、生き物は、〝ありのまま〟を生きているのだとおもわされます。 人間は、我執があるからなのでしょう、なかなか〝ありのまま〟生きられないものです。策略を廻らしたり、嘘をついたりします。 厄介なものですが、そうかと言って、私はありのままに生きる他の動植物にはなりたくありません(これは私のありのままの気持ち)。

     他の動植物は、先々のことに不安を抱いていないようです。しかし、人間だからこそ、先々の事を考えて、幸せを求めて努力致しますし、先々の事を考え て不安にもなります。でも、それも人間の〝ありのままの〟姿です。
     人間としての〝ありのままの〟嘘の無い生活を過ごしたいものだと、最近は、自分の心の奥底の気持ちをよーく吟味して、 嘘が無いことを確認してから行動に移すよう、努力しています。そして、日常生活に於いては、ビジネスでも、私生活でも実に色々な事が生じますが、 生じたことは現実であり、事実であり、真実で〝ありのまま〟が現われただけだと考えるようにしています。これがいつまで続くか分かりませんが、今は、 冒頭の〝ありのままで〟の歌詞にある、『何も怖くない 風よ吹け』と云う心持に近いような気がしています。

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No.1563  2016.05.09
『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第四章』詳細解説―(6)人間を包む三願

●無相庵のはしがき
     本日のコラムでご紹介する内容は、親鸞仏法の要(かなめ)と申しても良い、『本願力』と『易行にして難信』、『三願転入』に関して 説明されています。そして、米沢秀雄先生ご自身の言葉として語られている、「至心と云うのは仏の心やと思う。真実心、我々には真実心なんかありはせん。 親鸞でも、――親鸞でもと云うのは悪いけど、心は虚仮不実やと、こう言うてるやで。ましてや我々は虚仮不実です。我々には真実心なんかありはせんのや。 格好良く見せる心はあるかも知らんけど、真実心なんかありはせん。真実心は仏の心だと思います。」は、〝十八願の念仏に帰された〟 先生ならではのお言葉であろうと思うのであります。

     『我々には、格好良く見せる心はある』、これは私にとりましては非常にキツイ言葉でありますが、強弱はあるにしましても、 誰しも持ち合わせている心ではないでしょうか?
大した金持ちではないのに、脱サラして間もない私は、自動車は、5ナンバーのクラウンに乗り、やがて3ナンバーのクラウン、そして最終的には、ベンツにも乗りました。 すべて、私の現実、事実、真実に合わない虚勢でした。持家もそうです。今の我が家は。零細企業の社長が住める家ではありません。 自己の真実を偽って格好付けの生活を私はして来ました。「私たちに真実心はありません」と仰る米沢秀雄先生のお言葉に、今はうなだれるしかございません。

●『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第四章』詳細解説―(6)人間を包む三願
     本願力と、力と云う字が付いておるのが、非常に大事なことや。本願だけでは我々の希望みたいなもので、希望だけではあかんのや。 希望や理想と云うものは無力なもので、本願と云うのは、力(りき)と云う字が付いているところに、それは必ず成就する力を持ったものであることが、 非常に大事なことだと私は思うんですね。この前も申したんですけど、今まで五劫思惟兆戴永劫の修行をゴッチャにしておったんでないか。 それをみんな法蔵菩薩にかこつけて、我々はそれを頂くだけだと、これは確かに易行や。楽なもんや。しかし、それが信じきれるかと云うことになると、 そこに問題があると思いますね。

     易行にして難信。あの難信と云うのは、信じ難いと言われるのは、逃げ口上ではないわね。確かに易行や。けれど、難行と云うのは、 信じ得た者が、容易に信じることが出来ないものだなと感じるんであって、初めから、「はい」と頂くと言われても、とっても頂けません。難信や、 と逃げる言葉とは違うと云うことだ。本当に念仏が頂けて、初めて「難信であったな。ようこそこう云う信じ難いものに出遇うことが出来た」、 それで親鸞が遠く宿縁を喜べと、こう言われたであろうと。我が力やとなったら、これは自力や。他力の中の自力と云うことになって、「我が力でなかったな。 如来廻向であるな」と初めて分かって、本願の念仏が私のもの――私のものと言っても、独占物と云うことではないですけれども、 私を立たしめる力のもとになるのであろうと、こう思うんです。

     これは「十方衆生」と言うて、我々に呼びかけた本願が三つある訳です。十八、十九、二十、これはご承知の通りです。 親鸞は「三願転入」と云うことを言うている。親鸞の三願転入を読みますと、十九願から二十願まで入って、そして十八願に入ると云うふうになっている。 そうなるなら、初めから順番を変えたらいいんではないか。十九を十八にもってきて、それから二十、それから十八と、内容から言うと、 十八願を一番後に持ってくるべきではないかと思う。十九願をやって二十願やって、それから十八願へ入るなら、順序を変えればいいではないかと思うですね。

     ところが私が考えてみて、至心信楽、欲生我国――富山の梅原真隆氏の『教行信証』の解説を読むと、欲生我国と云う、 我が国と云うのは阿弥陀仏の浄土です。阿弥陀仏の浄土へ生まれんと、「至心に信楽して」――心から喜んで、阿弥陀仏の浄土に生まれたいと思え、 と阿弥陀仏の命令になってる。阿弥陀仏の浄土に生まれたいと心から思うでしょうか。我々は、あんなことより昼寝した方が楽やし、ご馳走食べられる方がいいし、 阿弥陀仏の浄土に生れたいと、心から喜んで思う者はありゃせんと思うんですよ。この至心と云うのは私の考えでは、人間が心から、 我々が心から喜んで何することなんかありゃせんのや。 至心と云うのは仏の心やと思う。真実心、我々には真実心なんかありはせん。親鸞でも、――親鸞でもと云うのは悪いけど、心は虚仮不実やと、こう言うてるやで。 ましてや我々は虚仮不実です。我々には真実心なんかありはせんのや。格好良く見せる心はあるかも知らんけど、真実心なんかありはせん。真実心は仏の心だと思います。

     仏がこの世に我々を送り出した時に、阿弥陀仏の浄土に生まれるまでは、我々は満足出来ないんだと云う、そう云う心が欲生我国と云う心。 我が国に生まれんと思え――これは阿弥陀仏の命令になってるけど、我々は阿弥陀仏の浄土に生まれている自分自身と云うものを自覚するまでは、 到底満足出来ないように人間が仕組まれておる。これは以前にも申し上げたと思うんですけど、愛知県に70歳で巨万の富を築いた後家さんがおる。 一万円札をちり紙と言うてる位だから、よっぽど金を持っている。その金を持っておっても、これで満足やと云うことはついになかった。それが本願の念仏に会うて、 これを聞くために人間に生まれてきたことが分かった。そう云う極端な例が本願の念仏の真実性と云うものを表明している。我々のような中途半端な人間が、 本願の念仏を喜ぶのと違って、一万円札をチリ紙と言うほど金を持ってる人が、本願の念仏を聞く為に人間に生まれてきたと云うところで、 本願の念仏が真実であると云う証明になると思うんです。

     至心と云うのは仏の心で、人間の心でない。仏が我々を人間世界に送り出した時に、浄土に生まれるまでは満足出来ん、 そう云う心を我々に植え付けておると云うことです。仏の真実心と、我々に埋め込まれた欲生我国―― 阿弥陀仏の浄土に生まれるまでは満足出来ん。 阿弥陀仏の浄土を知りたい、そう云う心と仏の心が通じた。仏の真実心が我々に通じた。信楽と云うのは、至心と欲生我国が握手したのを言うのであると思うんです。 この三願の中に皆入るんやね。この順番なんてのは、仏の心と欲生我国が無事通じ合うて、信楽のその時になって初めて、自分の過去を振り返ると、 あの時分には十九願に居ったな、あの時分には二十願に居ったなと云うことが、分かるんだろうと思う。

     親鸞を例にとりますと、親鸞は比叡山で色んな修行をしておった。修行をしておったと云うことは、 十九願の立場に立っておったと云うことです。修行して仏になると云うことを考えておったんや。だからあれは十九願。ところが比叡山におっても、 南無阿弥陀仏称えて、常行三昧堂の堂僧をしておったと言うから、念仏称えておったんでしょう。念仏称えておったけれど、その念仏は二十願の念仏と言うか、 そう云うものであって、本願の念仏で無かった。それが法然の門下になって初めて、本願の念仏と云うのが分かったのだろうと思う。 その分かった時が十八願の念仏に帰したと云うことであって、至心信楽欲生我国が分かって初めて、十九願に居ったな、二十願に居ったな、 そう云うことが分かって来るのやと思う。

     十八、十九、二十と云うのは、浄土真宗で言う信心の上の問題であろうと思われるかも知れませんけれども、 十九願と云うのは人間のやってる全ての事が包含されていると思う。政治家がやっておる事も、どうにかして日本中が幸せになるように発願して、工夫してやってるから、 あれは人間の努力で日本人が幸せになることを考えてるんやから、あれはヒューマニズムと云うものです。いろんな宗旨があるけれども、 これによって人間が幸せになると確信しておる。これは皆十九願であると思う。 十九願と云うのは、臨終往生と言うて、臨終に阿弥陀仏の浄土に生まれることが出来ると、こう云うことになってる。何故、臨終になって生まれることが出来るかと言うと、 臨終になって初めて自力無効、我が力で無かったと云う事が分かるんだろうと思うんですね。死ぬことに対してだけは、絶対に誰もどうする事も出来んのや。田中角栄でも、 人を騙して金を集めることは出来るかも知らんけれども、自分が幾ら金積んでも、死ぬと云うこと、地獄の沙汰も金次第と言うけれども、免れることは出来ん。 だから死ぬ時に初めて、我が力でなかったなと気が付くと思うんですね。

●無相庵のあとがき
     『三願転入』は昔から何を言ってることなのか、私には難しいことでした。多分、今も本当のところは分かっていないと思います。 ただ、大無量寿経の本願の順番は、第十八願、第十九願、第二十願になっていますが、私が辿る信心の道すがらは、第十八願、第十九願、第二十願、 そして再び、第十八願へと帰らざるを得ない、智慧の仕掛が隠されていたのではないかと思っています。
     『三願転入』は、いずれ、井上善右衛門先生の、御師匠であられる白井成允先生のご著書『歎異鈔領解』から引用して、 ご紹介したいと思います。

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No.1562  2016.05.05
『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第四章』詳細解説―(5)名もない菩薩

●無相庵のはしがき
     今年のGW(ゴールデンウイーク)も終わりが近付きましたが、今年の日本のGWは、 九州熊本・大分の余震発生速報がテレビで流れない日は無く、どことなく重苦しさを感じながらの日々です。それは、平成に入ってから、阪神淡路大震災、東日本大震災で、 地震の怖さ、辛さを経験した私には、他人事ではないからだと思います。
     私たちの人生は、夫々様々な苦難、苦労、悲しみに出遭います。一切出遭った事が無いという人は居ないと言っても過言では有りません。 テレビに映る幸せそうに見える有名人たちも、人には見えない、人には見せない苦悩、悲しみがあるものです。人間の歴史は、苦難、苦労、悲しみの歴史でもあり、また、 それを背負い乗り越えて来た歴史でもあります。それ故に哲学も宗教も生まれ、その長い歴史もあるわけです。

     今回の米沢秀雄先生の法話では、仏法は、偉い祖師方が伝えて来た訳ではなく、 私のような名も無い人間の苦労の積み重ねに依るものだと仰っています。苦労から逃げる事は出来ません。逃げようとしても逃げられません。 苦労を背負って乗り越えさせられます。だから、私は名も無い菩薩の一人だと云うことだと思います。

     『仏様』『阿弥陀様』『法蔵菩薩』と云う言葉に、仏教徒以外の極普通一般の現代人の多くは、「実際に居もしない、有りもしない」 偶像崇拝だと無関心を装うのだと思います。それは科学教育を受けて来た私も同じです。そんな私たちに科学技術者であるお医者さんだった米沢秀雄先生は、 『仏様』『阿弥陀様』『法蔵菩薩』は、〝地球を含めた大宇宙〟を演出する『はたらき』を言い表した人間の智慧の所産であると、 色々と表現を変えられて説き表して下さっているのだと、私は感謝しております。
     私は米沢秀雄先生の全ての法話から、イスラム教とかキリスト教の『神さま』は、『仏様』とは反対に、 人間の煩悩が生み出した正しく偶像ではなかろうかとさえ思うようになりましたが、テロと独善のバックに神様が見え隠れする、 数十億人の世界の人々が信じるその教えの詳細を知らない私が間違っていて欲しいものだと思っています。

●『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第四章』詳細解説―(5)名もない菩薩
     先ほど、聖道の慈悲と云うのはヒューマニズムと云うことを申したんですが、ヒューマニズムと云うと、訳して人道主義と言うのですか。 お互いに人間同士助け合って生きて行こうと、こう云うのがヒューマニズムです。ヒューマニズムには間違いはない。間違いないし、これに異論のある人は一人もない。 しかしこれが実行出来るかどうかとなると、限界があると思う、と云うことが大事なんですね。 阿弥陀の本願と云うのは、人間のヒューマニズムには限界があると云うことを見通したところに、 阿弥陀の本願が立てられねばならなかった所以があるんだろうと思うんです。

     ご承知のように、法蔵菩薩が四十八願を立てて阿弥陀仏の浄土を建立したと云うことになってる。 法蔵菩薩は浄土真宗で、あるいは浄土宗では、やかましく言いますけど、他の宗派では法蔵菩薩はやかましく言わんのです。観音菩薩とか勢至菩薩とかなら、 他の宗旨でもやかましく取り扱っておる。不思議に思うのは普賢菩薩、文殊菩薩と云うのは必ず動物がついておるんやね。普賢菩薩は象に乗ってる。 文殊菩薩は獅子に乗ってるのか。そう云うふうに動物に乗ってると云うことは、座があると云うことか。そう云うことで絵にも描かれるし、大変有名なんです。 ところが法蔵菩薩を絵に描いたのはないやろと思う。法蔵菩薩の彫刻と云うのはないやろと思う。観音さんは、絵に描いたものも彫刻も沢山ある。 しかし、法蔵菩薩を絵に描いたものはありゃせんのです。ただ法蔵菩薩は浄土真宗や浄土宗ではやかましく言うけれども、仏教一般からみると、 法蔵菩薩と云うのはあるかなきかと云う存在と言えるんでないかと思うんです。 ところが『法華経』と云う経典がありまして、釈尊のお弟子で『法華経』を聞いた人たちが非常に『法華経』を讃嘆しまして、 こう云う法を我々は責任を持って後世に伝えなければならんと言うと、釈尊はそう云う心配はないと言われ、地湧(じゆう)の菩薩と言うて、 地面から湧き出てきたと、『法華経』に書いてあるんですね。つまり、仏法と云うのはそう云うエリートによって伝わるものでなくて、 地湧の菩薩によって伝わっていくのである。釈尊の弟子たちはエリートでしょうから、お前たちは心配せんでもよい。地面から沢山の菩薩が現われてくると。

     地湧の菩薩と云うのは、真宗の法蔵菩薩でないかと私は思うんですね。法蔵菩薩は仏教一般から言うと、有名な人ではない。 それで暁天講座でも言うた、第十八願を考えたのは我々やと。我々の代表が法蔵菩薩、我々は名もなきものである。 その代表が法蔵菩薩であると云うことであろうと思うんです。 名もなき我々の代表が法蔵菩薩であると云うことは、我々一人一人が法蔵菩薩でないかと思うんです。我々が毎日苦労しておる、その苦労は自分の苦労と思うか知らんが、 それが法蔵菩薩のご苦労と云うものであろうと思うんです。苦労の無い人間と云うのは無いと思う。しかし、苦労を背負えるか背負えんかと云うことになると、 問題が起こりますね。苦労を逃げたい、安きにつきたい、そう云う心が我々にありますから、苦労を背負う心にはなかなかなれん。人が背負えん苦労を自分が背負う、 その背負わしめる力が本願力と云うものであろうと思う。暁天講座の時、悪口言うたはずです。昔の説教では、法蔵菩薩が、五劫思惟兆戴永劫の修行を為さって、 南無阿弥陀仏を成就して下さったから、南無阿弥陀仏を「はい」と頂くだけやと。「はい」と頂くだけやと言われて、誰が「はい」と頂けるか、と私は思う。

     法蔵菩薩のようなご苦労しない限りは、法蔵菩薩のご苦労が頂けるはずは無いと、私は思うんですよ。私は子どもが5人おりますが、 一人も死なしておらんのや。子どもを失った人の悲しみと云うのは、さぞかし悲しいだろうと思うても、切実にそれを感じる事は出来ん。 だから子どもさんを亡くした人にお悔やみに行く時には、えらい気の毒やと。私は子どもを亡くした事が無いから、 あなたの悲しみはあなた程私には痛切には分からんと言うて、謝ることにしている。経験の無い事は分かるはずが無いです。 だから法蔵菩薩のご苦労は、我々が苦労してみて、これは自分の苦労やと思ったが、法蔵菩薩のご苦労であったと云うことになると、 その苦労を背負うて行けるんでないかと私は思うんです。法蔵菩薩とは名もなき我々の事であると思う。名もなき我々のことであればこそ、 本願と云うものが我々の為であったと云うことになるのではないかと思うんですね。

●無相庵のあとがき
     米沢秀雄先生の「我々が苦労してみて、これは自分の苦労やと思ったが、法蔵菩薩のご苦労であったと云うことになると、 その苦労を背負うて行けるんでないかと私は思うんです。法蔵菩薩とは名もなき我々の事であると思う。名もなき我々のことであればこそ、 本願と云うものが我々の為であったと云うことになるのではないかと思うんですね。」と云うお言葉は、今の私の心に力強く響きました。

なむあみだぶつ


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No.1561  2016.05.02
『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第四章』詳細解説―(4)真の親の責任

●無相庵のはしがき
     第四章原文には、『慈悲に聖道、浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、 おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。念佛まふすのみぞ、すえとをりたる大慈悲心にてさふらうべき』とあります。この中の最初の『慈悲に聖道、 浄土のかはりめあり。』の解釈を、「お慈悲には、聖道門と浄土門では違いがあるのだ」と云うふうに説明されている先生方が居られますが、米沢秀雄先生は、 聖道門の慈悲は、自力の慈悲行であり、今回の詳細解説の中にヒューマニズムと云う言葉に言い換えられておりますが、「ヒューマニズムには限界がある。限界が来た時に浄土門 の慈悲に変わらなければならない」と云う意味で、〝変わり目あり〟を捉えておられるように思いました。それは、次回の詳細解説の中に『阿弥陀の本願と云うのは、 人間のヒューマニズムには限界があると云うことを見通したところに、阿弥陀の本願が立てられねばならなかった所以があるんだろうと思うんです。』、 と述べられていることからも分かります。更に、無相庵のあとがきに続きを申し述べます。

●『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第四章』詳細解説―(4)真の親の責任
     しかし、お寺さんの中には、寺門(じもん;お寺のこと)経営ちゅうことをバカにする人もある。寺門経営をバカにするなら、 月忌(がっき)参りも止めるべきやと思う。寺門経営と云うことは大事なんや。何故大事かと言うと、霞食って生きとるのでないからです。だから門徒を大切にすると云うことは、 当然だと思う。医者と違うんや。患者がこの医者はあかんと云うことになれば他の医者へ行けばいい。ところが門徒はこの住職あかんと思うても、 他へ変わることでけんのや。余程の決断を要する訳です。だから門徒を大切にすることは大事なことやと思う。寺門経営と云うのは霞食って生きてるわけでなし、 家族を養わねばならんから、これは一つの職業として、当然であろうと思う。

     と言うのは、先祖供養の悪口を私は言いましたけども、絶対になくならん、日本では。そう云う民間信仰、習俗――習慣風俗ですね。 習俗と浄土真宗の行事と云うものは非常に密着しておりますから、これは絶対に無くなりません。が、無くならんからと言うて、 その上にあぐらかいておってはいかんと思う。だから、今の年寄が生きてる間はお寺を大事にするでしょう。若い者が経済力を握るようになると、分からんと思う。 お寺から寄付を言うて来る。お寺へ寄付する金がある位ならヨーロッパ旅行に行くと、割り切った考えをする若い人が出て来ることは間違いないと思う。 もっと文化的な意義のあることをやったらいいと思うとか、そう云うふうになってきますから、寺門経営と真実法、親鸞が生涯かけた真実法を伝えると云う事と、 両面作戦と私は言うんやけど、両面作戦をやっていかんことには、これからの浄土真宗のお寺は立っていかんのでないかと。
     だから、これからお寺を継ぐ人は、ご苦労さんだと思うんです。親鸞自身もこういう片一方で聖道の慈悲と浄土の慈悲とかわり目がある、と言うておりながら、 死ぬ間際になって、子供たちのことを頼むと云う時には、非常に心苦しかったであろうと思う。本音と建前が違うではないかと、突っ込まれる危険性もある。 私のようなツムジ曲りが、当時生きておったら、親鸞に楯突(たてつ)いたと思う。あんたは本音と建て前と違うのかと、こう言ったと思うんですね。 それでこの遺書と云うのは悲痛なものであると思いますね。
     私はかねがね、親鸞の一生は失敗やったと口にもし、そう思うてるけど、これも明らかに親鸞の失敗であると思う。

     それから、親鸞のどこが本音やと云うことになると、親鸞も困るんでないかと思うんですね。 ここが親鸞の人間らしさが現われておるところでないか、と。

     聖道の慈悲と云うのは、現代の言葉で言うと、ヒューマニズムと言いますか、ヒューマニズムでは行き詰まりが来るわけなんで、 三部経を千遍あげようと思ったのはヒューマニズムや。非常に困っている民衆を見て気の毒で、自分では何もしてあげることはない。 経済的にも援助が出来んから、せめて三部経を千遍読んで、その功徳で何とかならんか、と考えるのはヒューマニズムです。ヒューマニズムは悪い事ではない。 今の娘や息子の生活を心配して、関東の弟子たちに頼むのもヒューマニズムです。だから悪いことではないけれども、それがあてになるかならんかと云うことは分からん。

     ヒューマニズムで思い出すのは、禅宗で言う、「婆子焼庵(ばすしょうあん)」と云う公案にもなっておるんですけども、 婆子焼庵と云うのは中国の話で、悟りを開いたお婆さんが居って、禅宗のお寺さんの面倒を見ておった。ところが、そのお寺を、庵と言うんですから、小さなものでしょう、 建ててあって、そこにお寺さんを住まわしておった。で、お寺さんの悟りがどの程度のものか試験する積りで、その娘さんをお寺さんところへ使いにやったんやね。 その娘さんが婆さんから言い含められておったんでしょうけれど、そのお寺さんを誘惑するんや。ところが、その禅宗のお寺さんはこう云う事を言うた。
     「枯木寒巌に倚って三冬暖気なし」――あなたがいくら誘惑しても、 自分は枯れ木が岩に寄りかかっているようなもんで、私の中には人間らしい温かい血は流れておらんのやと、こう言う。そしたらお婆さんは怒って、 こんな者を世話するんでなかったと言うて、そのお寺さんのために建ててあった庵を焼いてしもうたと言うので、婆子焼庵と言う。

     誘惑にのっていいのやら悪いのやら。誘惑にのると、こんな坊主と言って焼かれてしまうやし、そのへんが難しいので、 婆子焼庵と云う公案になるはずやと思うんです。
     親鸞がもし晩年子どものために生活を心配して、こう云う手紙を書かなんだのなら、婆子焼庵と一緒やろうと思う。 だから、ヒューマニズムと云うものは行き詰ると云うことを承知の上で、関東の弟子に頼んだのでないかと、親鸞の気持ちを善意に解釈するわけなんです。 これ、お前らどうにでもなれと言うて、子どもの面倒見んのやったら、不人情も至れるものである。それよりはむしろ親鸞は結婚妻帯せずに、 独身で一生終わるべきであったと思う。で、妻帯して子どもを一人前に育て、子どもが一人前に生活出来るまで育てるのが、親の責任であると思うんですね。

     昔から我々言うてますわ。子供を学校に出して職業につける。それで親の役目は一つ済む。それで子どもに息子なら嫁をとる。 娘なら嫁にやる。こう云うことで親の二つの役目が終わる。世間的には親の役目はこの二つでした。
     一番大事なのは本願の念仏を伝える。これは親としてよりも、先輩として本願の念仏を伝えることが、一番大事なことであろうと思う。 何故大事かと言うと、今の南無地獄大菩薩みたいなもので、子どもがいつ逆境に落ちるか分からん。そう云う時に耐え抜く力と云うものを与えておくと云うことが、 金を残すことよりも、もっと大切なことであろうと、私は思うんですね。

●無相庵のあとがき
     また、次々回の詳細解説の中で、『至心と云うのは仏の心やと思う。真実心、我々には真実なんかありません。 親鸞でも、――親鸞でもと云うのは悪いけど、心は虚仮不実やと、こう言うてるんやで。ましてや我々は虚仮不実です。我々には真実心なんかありはせんのや。 格好良く見せる心はあるかも知らんけど、真実心なんかありはせん。真実心は仏の心だと思います。』と述べられておられますが、この「虚仮不実の、真実心の無い自分」に 気付かしめられることこそが本願の念仏に遇うと云うことであって、浄土の慈悲心とは、目の前に居る困窮者に慈悲心を振り向ける(お金を差し出したりする) と云うことではなくて、この苦労が尽きない娑婆世界で逆境に喘ぐ人々を救えるのは、 自分が本願の念仏を称える人間となる事でのみ実現出来ることであると云う考えであろうと私は思いました。

●無相庵のただしがき
     今日のコラムを書き終えて、どうしても、但し書きをしておかねばならないと思いました。
     米沢秀雄先生も仰ってますが、ヒューマニズム(人道主義)は、悪くありません。この度の熊本地震は、阪神・淡路大震災、 東日本大震災に並ぶ災害で、数多くのボランティアの方々が熊本に駆けつけておられます。親族を亡くされた方、家を失われた被災者の方々を元通りなるまでお助けする ことは出来ないかも知れませんが、人間は、駆けつけなければ気が済まない優しい心を持ち合わせています(これも事実であり真実心であります)。
     私の妻が熊本県(水俣)出身で、もう近しい親族は居ませんが、幼馴染の親しい友がいます。電話をかけて状況を尋ね、また、 励まし心を表す食品をお送りせずには居られませんでした。浄土の慈悲で念仏を申すだけで事足れりとは参りません。聖道の慈悲と浄土の慈悲の区別なく、助け合う人間 社会、娑婆世界に生きているのだと云う事に改めて念仏を申しつつ、今日もまた、私もこの娑婆世界を生きて参りたいと思います (親鸞聖人もおそらくそうではなかったかと思うことでございます)。

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