No.1640  2017.03.06他力浄土門の教えで救われた人々が遺された言葉

『歎異抄ざっくばらん』詳細解説をひとときお休みさせて頂き、私がこれまで出遇えた、これが他力浄土門の教えで救われた人のお言葉なのだろうと思うお言葉を紹介させて頂きます。
   お言葉をご紹介して、読者の皆さまにお伝えしたいことは、「救われるとは、どういうことなのか」ということと、「救われるのは決して何か突然にインスタントに起こることではなく、 これまた縁に依って、それなりに年月がかかる」ということであります。しかし一方で、「私たちの自我を砕き破る強い本願力に依ってのみ、必ず救われるのであろう。」ということでございます。
   今回は私の注釈を付け加えずに羅列させて頂きます。

源信僧都(親鸞聖人の挙げた七高僧の一人、日本では源信僧都、法然上人のお二人)

   『妄念はもとより凡夫の地体なり。妄念のほかに別に心はなきなり。』 

親鸞聖人

   『弥陀の本願信ずべし 本願信ずるひとはみな 摂取不捨の利益にて 無上覚をばさとるなり』 

親鸞聖人

   『弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずればひとへに親鸞一人(しんらんいちにん)がためなりけり』 

白井成允師

         ―招喚の声―
      業風吹いて止まざれども
      唯聞く弥陀招喚の声
      声は西方より来りて
      身をめぐり髄に徹る

      慶ばしきかな
      身は娑婆にありつつも
      既に浄土の光耀を蒙る
      あはれあはれ十方の同胞
      同じく声を聞いて
      皆倶に一処に会せん

            南無阿弥陀佛

井上善右衛門師

   『浄土真宗の教えは、白井成允先生の召喚の声に尽きると思っております』

白井成允師

   『いつの日に 死なんもよしや 弥陀仏の みひかりの中の おんいのちなり』

西川玄苔師

   『奈がながの 月日をかけて、御佛は、そのみこころを とどけたまえり』

井上善右衛門師

『私は多くの恩師に恵まれました。その恩師方にもまたそれぞれに恩師が居られ、ことある毎に恩師を懐かしみ見上げながら語られていました。 親鸞聖人のお教えは、そうやって、今日に生きているのだと思います。』

米沢英雄師

『生きてますと問題が起こってくるんや。生きてる間の問題に答えられなかったら、仏法でもなんでもないと思うんや。 生きてる問題に答えられんというところに、長い間眠ってきた浄土真宗があるということです。生きてる問題に答えられなければならん。』

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No.1639  2017.03.02『歎異抄ざっくばらん』詳細解説―(11)法身仏をさとる

●無相庵のはしがき
   「法身仏をさとる」という表題ですが、どういう意味かということは、私たちにはピンと来るものではないと思います。取りあえずは、無視されてもいいと思います。
   今回の法話で注目したいと思いますのは、『親鸞は死後の浄土を説いてるはずがない。現生不退といい、現生正定聚というからには、死後の浄土でなくて、生きておる今、 浄土におる自分自身を確かめる、それが親鸞のいのちであったと思うのです。』と、『私は、人間は考えるために頭を持って生まれてきて、頭が与えられておると思うので、 生きている間になるべく頭を使って、考えさせていただいた方が、いいんじゃないかと思うんです。仏法とは信ずるもので、考えるものでないと、こういわれるかもしらんけれども、 信知(しんち)というて、やみくもに信じるのではなく、信知。その筋道がはっきり分かって信ずるものであると、こう思う』の米沢英雄先生のお言葉だと思います。

●『歎異抄ざっくばらん』詳細解説―(11)法身仏をさとる

   それから西洋の思想と仏法の思想と、どこが違うかというと、身体に重きをおいとる。西洋の思想てのは頭ばっかりやね。頭で考えることばっかりや。科学というのは皆そうなんや。 だから仏法だけが、身体というものを主に考えている。 禅と真宗とくらべると、真宗の方が、より「この身は現に是れ」というて、善導大師が押さえているように、身体というものを押さえながら、身体と離れぬ心というものを押さえているところに、 真宗のひじょうにすばらしいところがあると思いますね。善導という方は、そういうところを押さえた、非常に心憎い人である、と。 同時に親鸞という方も、身をもった人間というものを、本当に押さえている人であると思いますね。だから親鸞のいわれたことは、我々の心を打つんだろうと思います。 『歎異抄』というものが、ひじょうに尊重されるのも、「身」というものを押さえているところにあると思います。その身というものを、法性法身のところで押さえている。その法性法身に対して、 どうして方便法身といわれるかというと、この法性法身のなかに生きとるんやけど、それが分からん。それを何とかして分からせるために、方便というものがある、と。

   で、方便というものが、非常に軽蔑されますけれども、方便なくして、我々が法性法身にいきなり突入するということはできん。だからあの南無阿弥陀仏は、無上方便といわれるはず、 この上ない方便といわれるはずです。南無阿弥陀仏することが、南無法身仏と同じことになるんですから。そういう点で南無阿弥陀仏の功徳というんか、南無阿弥陀仏のはたらきという、 そういうものは大したものだと思うのです。 そういうことを自らに教えてくれるのが『歎異抄』であると思います。『歎異抄』というのは、これもご承知のように、親鸞を身近に感ずることができる。

   私は,親鸞という人は、信仰上我々が陥りやすい落とし穴に、自分で落ちてみて、そしてそこから這い上がってきて、どうしたら這い上がれるか、 そういうことを見きわめた人だと思うのですね。 先程、第九章が分かったということを申しましたけれども、あれは唯円が一度念仏に触れて、「まあこれは大したことや」と、そういう体験をした。体験したけれども、日がたつにつれて、 念仏の心がうすれていく。そういう時、そういう疑問を親鸞にぶっつけた。 「浄土というものに急ぎまいりたき心がない」――そういうことをぶっつけた。この、そういうところを親鸞が自分自身経験しているからこそ、それを唯円に教えることができたと思うですね。

   皆さんご承知かと思いますが、浄土教が日本へ入ってきて、広まった時に、西方極楽浄土へ生まれたいというので、今の大阪ですか、 難波の海へ身を投じて自殺する者がたくさん出たんですね。西の方の極楽浄土へ生まれたいというので、投身自殺する者がひじょうに多かったという。 天台宗に真盛上人という人が出て、この方の書かれたものを読むと、私は昔読んだ時に、親鸞と同じことをいうとるなと思って、感心したことがあるんですが、この人が福井県に来て、 ひじょうに教化力があったそうですな。これは、鯖江にもこの人が建てた寺があるんですけれど、この真盛上人の教えを聞いた者が、皆、川へはまって死んだちゅうや。やはり、 西方極楽浄土に生まれたいということで。こういうことは、間違いであろうと思うけれども、どうしてそれを真盛上人が止めなんだかというんで、私は不思議に思う。 早く死んで極楽浄土へ生まれられるなら、真盛上人がまず自殺せないかんのでないか。弟子たちが自殺するのをちゃんと見とって、自分は自殺せずに、そういう教えを説いておるのはずるい、 こう私は思うんやね。私の思うのが違うかもしらんけれども。

   浄土というのは死後の浄土でない。いかに浄土教が死後の浄土を説いておったかということの、証拠になると思うんです。親鸞は死後の浄土を説いてるはずがない。現生不退といい、 現生正定聚というからには、死後の浄土でなくて、生きておる今、浄土におる自分自身を確かめる、それが親鸞のいのちであったと思うのです。 ところが、自然の浄土というのは、法身仏の世界を自然の浄土というので、その自然の浄土という考え方が、『歎異抄』にわりに薄いのでないか、そういうことを思うのです。

   そういうことを申しましたら、「いそぎ浄土のさとりをひらきなば」という言葉が『歎異抄』にあるといわれた方があります。ありますけれども、 「浄土のさとり」とはどういうことなのかということは書いてない。つまり法身仏をさとるということが、浄土のさとりであるんですけれど、そういうことが『歎異抄』に述べられておらんので、 私はまあ親鸞の本当のところを『歎異抄』が伝えておるかどうか、そういうところを疑問に思う。私の疑問に思うのはどうでもいいけれど、こういうことを手掛かりにして、皆さんがお考えくださって、 親鸞の真精神はどういうものであったか、そういうことをさとっていただくということが、一番大事なことで、『歎異抄』は、その道案内をしてくれるものである。

   『歎異抄』を真受けにできる人はそれでいいのです。吉野秀雄のように、真受けにできる人はそれでいいんだけれども、真受けにできない人は、これを手掛かりにして、 自分で考えるということが、大事なことやと思うのです。で、私は、人間は考えるために頭を持って生まれてきて、頭が与えられておると思うので、生きている間になるべく頭を使って、 考えさせていただいた方が、いいんじゃないかと思うんです。 仏法とは信ずるもので、考えるものでないと、こういわれるかもしらんけれども、まあこれは曽我量深先生もいうておられるけれども、信知というて、やみくもに信じるのではなく、信知。 その筋道がはっきり分かって信ずるものであると、こう思う。だから、やみくもに信じるのを罪福信というたんだろうと思う。親鸞の真精神というのは、よく納得して信じると、 こういうものでないかと思うですね。

   私はひじょうに『歎異抄』に対して、失礼なことを申したことになるかもしれませんけれどもこういうことをきっかけにして、皆さんに真実信心というものを、 親鸞は伝えたかったんですから、こういうことに気づいていただくことができれば、けっこうであろうと思います。

●無相庵のあとがき
   米沢英雄先生は、『歎異抄』は浄土宗的だというお考えですが、『歎異抄』は親鸞聖人が書かれたものではなく、唯円が親鸞の真実信心を後代に伝え遺そうと考えて書かれたものです。 ですから、私たちは、『歎異抄』が親鸞聖人の教えを伝えているものかどうか等を問題としないで、自分なりに頭を使って、真実信心とは何かに気づきたいものです。米沢英雄先生は、それを願われて、 この『歎異抄ざっくばらん』を遺されたのだと思います。

なむあみだぶつ


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No.1638  2017.02.27『歎異抄ざっくばらん』詳細解説―(10)身体で分かる―後編

●無相庵のはしがき
   「身体は正直、心は不正直」という米沢英雄先生の名言から、前回と今回の表題『身体で分かる』が生まれたものと思います。確かに、身体が正直なことは、夜眠ろうとしても、 眠れないのは、身体が睡眠を要求していないからだと思います。眠らないで起きておこうとしても、心身ともに疲れていれば、眠ってしまいます。トイレを我慢しようと思いましても、限界がありますよね。
   そして、不節制すれば、身体は悲鳴を上げて、病気になります。ただ私思いますのに、心も本当は正直だと思うのです。心に芽生えている本当の気持ちを抑え込み、外には体裁を繕って 隠している、というのが私たちの心を穏やかに出来ない原因ではないかと考えたりしています。

●『歎異抄ざっくばらん』第一章詳細解説――(10)身体で分かる―後編

   分かるというのに、頭で分かるのと、身体で分かるのとでは、違いがあります。分かるということを今まで軽蔑してきました。仏法が分かるとは、頭で分かる話ではないけれども、 身体で分かる話である、と。身体を持っておるものは、皆分からねばならんと、こう私は思うております。身体で分かるとはどういうことかというと、これは私自身が体験したことで、 名古屋でもこういうことを申して、皆に笑われたけれど。というのは、私は愛知県の西尾というところの寺へ、去年の十二月に呼ばれていって、話をさせられた。

   ご承知のように私はよく水を飲むんですわ。で、帰りに特急電車に乗ると、北陸線の「しらさぎ」に間に合うといわれて、名鉄の特急に乗ったんですね。ところが電車に乗る前、 トイレへ入っておくとよかったんですけれども、特急に乗って早く「しらさぎ」に乗らねばならんと、そういうことばかり頭にあって、トイレへ入るのを忘れたんや。
   で、名鉄に乗ったんや。名鉄というのは私鉄電車で、これには便所がない。ところが特急ですからあまり駅に止まらないけれど、三つほどきたらオシッコがしたくなったんや。 そしたらね、もうナンマンダブが間に合わんのや。ナンマンダブが間に合わん場所が、本当の念仏の場所なんや。ナンマンダブいうてる時は、のんきなもんや。オシッコがしとうなったら、もう間に合わん。 肩書き持ち出してもあかん。「わしゃ勲一等やぞ」というたってあかんのや。それが、身体がもとやということやね。

   それでひじょうにおもしろいのは、「神宮前」というところで停まったんや。そこで降りて改札口を出て、用をたして、いそいでタクシーで名古屋駅へかけつけるつもりで、 電車を降りたんや。それで階段を上がったら、改札口を出るまでもなく、トイレがあった。そこで用をたした後どうなるかというと、考えが変わる。はからいが出てくるんや。まだ切符持っとるんや。 それなら次の電車でいっても、「しらさぎ」に間に合ったらいいんですけど、間に合わんと、責任を皆になすりつけるようになる。私のことでない。皆そんなもんや。

   だから、我々ははからいで生きとるのや。はからいで生きとるということが、いかに間違いであるかということを、単にオシッコしたいという、そういうことが教えてくれるんやね。 だから仏法とは遠いことのようであっても、実に身近なことであると。こういうような、身体で分かるという、実に身近なことであると思うんですね。
   それと、身体はひじょうに正直である、と。心だけが不正直である。心の不正直なのを親鸞は、「虚仮不実」といわれたんであります。 「虚仮不実」とは特別な人のように思うたら大きな間違いなので、みんな虚仮不実な心を持っている。それを裏切るものが身体であると、こういうことですね。そういうことをまあ、私は体験しました。

   もうひとつ若い時に体験したことをいうと、東京におる時分に、私は謡いを習いに行っていた。その謡いの先生がね、能楽のタダ札を私にくださるのや。学校が済んで、 能楽堂に駆けつけにゃいかんので、ご飯を食べずに行くんですね。そうすると,幕合いで、腹空かしてそこへ駆けつけて、先生の隣に座っていると、胃がグゥーと鳴るんや。正直やな、身体はグゥーと鳴る。 で、こっちははからいがあるから、隣におる先生に、「聞こえはせんかなあ」と思うんや。身体はそんなことかまわんのや。腹減るとグゥーと胃が鳴る。
   で、そういう点でも、ね、身体は正直やなあということを、しみじみ思って、いかに我々がていさい構うてごまかしておるか、身体の正直なのをごまかしておる。 だから「仏法というのは、身体で聞く」というのは、そういうことやろうと思うですね。

●無相庵のあとがき
   法話を聴いていても、心は別のことを考えたりするのが、私たちの常であります。授業を受けていても、放課後の予定を思案したりしますし、国語の勉強をしていると、 数学の勉強が気になったり、今している事と別のことに気持ちがいってしまうことは、誰にも身に覚えがあるはずです。仏法を身体で分かるということは、大事なことでありますが、 それが出来るくらいなら、もう仏法は必要ないかも知れません。

なむあみだぶつ


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No.1637  2017.02.23『歎異抄ざっくばらん』詳細解説―(10)身体で分かる―前編

●無相庵のはしがき
   今回と次回を合わせた表題が、『身体(からだ)で分かる』でありますが、今日の前編では、「浄土真宗の救いと何か?」が語られています。そして、後編で、「身体で分かるとは、 どういうことか?」が説かれています。

   米沢英雄先生は、「救いというものは何でもない。法身仏によって生かされて生きておる自分やと、そういう自分の本当の正体というか、 姿というものを再認識せしめられる。それが真宗の南無阿弥陀仏の目的というか、南無阿弥陀仏が教えようとするのは、そういうことであろうと思うですね。」と仰っておられますが、『法身仏』は、 宇宙を動かしている〝はたらきそのもの〟と考えれば、頭の中では分かりますが、それで、救われた気分にはなれないと思いますので、真宗は難しいということになります。 坐禅して悟りを開く禅宗の方が分かり易いと思われがちですが、これまた、悟りを開くまで行き着く人はかなり稀だとなりますと、結局、仏教は難しいと云うことになって、倫理の団体や、 新興宗教に人が集まるというのが、現状でしょうか。それを何とかしなければと、米沢英雄先生は頑張って下さったのだと思います。有り難いことだと思っております。

●『歎異抄ざっくばらん』第一章詳細解説――(10)身体で分かる―前編

   もう一つ大事なことは、南無法身仏ということで――近頃私は・・・、はたらきそのものによって我々は、生かされて生きているにもかかわらず、 それを忘れて自分の自我を先に立てて生きておる。だから法身仏によって生かされておりながら、「おれが」という考えで生きておるから、法身仏から飛び出しておると、こういうんです。 この、飛び出しておるということを、我々に注意してくれるのが、阿弥陀仏であると。南無阿弥陀仏と南無法身仏と同じやということをいいましたけれども、南無阿弥陀仏の阿弥陀仏のはたらきは、 我々に向かって、「お前ははたらきそのものによって、生かされて生きておるにもかかわらず、自分の力で生きているように思って、ここ(浄土)からとび出しておるでないか」と。 それを従来の言葉であらわしますと、「罪悪深重煩悩熾盛の凡夫」と、こういうことです。「罪悪深重煩悩熾盛の凡夫」という言葉はむずかしいから、私は「とび出し注意!」である、と。

   「お前は法身仏によって生かされておりながら、自分の力で生きておるように思うて、とび出しておるのでないか」、そういう注意を与えるのが、阿弥陀仏のもうひとつのはたらき。 で、我々にとび出しておるでないかと注意することにおいて、法身仏のはたらきそのものの世界に帰らせる、そういうことが弥陀の誓願というもののはたらきでないかと思うんです。 それで法身仏とひとつになって生きておるのが、これが浄土という、浄土の生活というものであって、それが救いというものであって、『歎異抄』を読んだだけでは、今の第一章を読んだだけでは、 救いというものがどういうものであるかということも分からんのでないかと思う。救いというものは何でもない。法身仏によって生かされて生きておる自分やと、そういう自分の本当の正体というか、 姿というものを再認識せしめられる。それが真宗の南無阿弥陀仏の目的というか、南無阿弥陀仏が教えようとするのは、そういうことであろうと思うですね。 救いというのは何でもない。法身仏によって、生かされていきている私であるということが分かるのが、真宗の救いであるし、それを我々に教えたいというのが、 弥陀の誓願がたてられなければならなかった理由であると、こう私は思うんですね。

   で、そういう点で浄土真宗というのは、禅宗とくらべますと、ひじょうにすぐれたところをもっているものであると、こういうことがいえると思うんですね。 浄土真宗のすぐれているところは、そういうごく身近な、単純なところにあるのでないか。そういうことをひじょうにむずかしく表現する人もありますけれども、表現はどんなにむずかしくても、 我々が分からねば何にもならんのでないかと思うんです。表現というのは、単純直截簡明でも、我々にそれが分かるということが、大事なことであろうと思うんですね。

●無相庵のあとがき
   頭で分かって、身体でも分かれば、それが悟りだと思いますが、身体で聞いて身体で分かるということを米沢英雄先生が仰る意味は、次回の後編でお分かりになると思います。、

なむあみだぶつ

 

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No.1636  2017.02.20『歎異抄ざっくばらん』詳細解説―(9)自我に気づく

●無相庵のはしがき
   米沢英雄先生は、自我を我執ともいわれていますが、自我に気づけることが、仏法を聞いた功徳と仰っています。功徳ということは、自分の得になること、 良い効果があるいうことでしょうか。
   また文中に、「我執には限界があるということが分かるだけで、救いというものがあるんだろうと思います。」というお言葉がありますが、〝我執には限界〟とは何かなと考えました。 我執に気づく限界なのか、我執を無くす限界なのか、明確には分かりませんが、本分の前半部分は、『我執は無くせないが、気づくことは出来る』ということを仰りたいのだと思います。

●『歎異抄ざっくばらん』第一章詳細解説――(9)自我に気づく

   よくいわれます、「汽車の中で走っておる」と。汽車の中で走っておるというのは、我執があるということやね。身体はまかしておるけれど、我執がまかしておらんということでしょう。 その我執の限界が分かるというのが、仏法を聞いた功徳というものであろうと思うんですね。我執には限界があるということが分かるだけで、救いというものがあるんだろうと思います。
   我執を全然なくすということは、人間としてできるものでない。できるものでないが、「また我執が出たな」と気づくことだけは、できるのであろうと思うですね。

   これも皆さん、ご承知かもしらんけれども、善太郎という、これはどこの人やろ、岐阜かな、妙好人といわれた人がいる。それが嫁さんに「早う家へ帰って風呂をたいとけ」というた。 ところが嫁さんは家へ帰っても、いろいろすることがあったんでしょうね、風呂たくのが遅れたんや。で、善太郎が帰ってきたら、まだ風呂がたいてないというので、割り木ふりあげて、 嫁さんなぐろうとした。その時、はっと「また自我がでたな」ということが分かったんでしょう。そこでまあ、昔の人やから、仏壇の前へ行って、「また善太が出ました」というて、謝ったというんや。 気がつくかつかぬかということが、ひじょうに大事なことであろうと思うわけです。
   気がつくということが、仏法を聞いた功徳というものになるのであろうと思います。まあ『歎異抄』では、「摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」という言葉を、文字通り解釈すれば、 何というか、本来救われておる。あの、念仏もうさんと思いたつこころのおこる時、初めて摂取不捨のなかに入るんでない。始めから入っておるのや。入っておったて気がつかん。 それが念仏もうすというところに、初めてそれに気づかしめられることがあるんだろと思うんですね。

   で、南無阿弥陀仏というのは、これは私がよく申しておりますけれども、これに対しては絶対に抵抗できんというのを、「南無」と、こういうのだろうと思うんですね。
   私は法身仏のことをひじょうにやかましくいう。というのは、法身仏のことを今まで真宗ではいうておらん。阿弥陀仏のことばかりいうて、法身仏のことをいうとらんから、 いろんな間違いがおこるんではないかと思うので、法身仏のことをさかんに私はいうんです。

   そうしたら金沢の奥さんが私に手紙よこして、「法身仏のことは、はたらきそのものによって生かされているということだとよく分かった。 それならばなぜ南無法身仏」といわんのやという、抗議を申し込まれた。
   で、南無法身仏というのと、南無阿弥陀仏ということと同じなんや。それは南無阿弥陀仏ととなえることによって、法身仏のはたらきによって、 生かされて生きておる私やということが自覚できるので、南無法身仏というのやったら、弥陀の誓願というのは必要ない。弥陀の誓願というのはなぜ必要かというと、法身仏のところへ我々を届ける、 届けてくれるはたらきをするのが、阿弥陀仏の誓願であって、それがどういう形で届くかというと、我々から南無阿弥陀仏という言葉が出るという形で、 法身仏の世界へ我々が届いたということが証明されるということですね。だから南無阿弥陀仏ということと、南無法身仏ということと同じものやと、こういうことをいうた。

●無相庵のあとがき
   後半の『南無阿弥陀仏』、『南無法身仏』の理屈に付きましては、仏法を学問的に理解出来ていない私は分かりませんでした。
   私は、仏法を聞く功徳は、やはり、自分の自我・我執に気づくことと、更に大切なのは、他の人も同じ自我・我執を持っていることに気がつくことだと思います。自分も我執を持ち、 その自我を無くせないが、相手も我執を持ち、お互いそれをどうすることも出来ない者同士である事を認識すれば、許し合える場面も出て来るように思います。
   そうは申しましても、相手が我執をそのままぶつけてくる来る場面も多々あります。極端な例は世間の犯罪がそれです。それを法律で何とか片付けようというのが、人間の知恵ですが、 無くなるどころか、ますます件数が多くなり、且つ凶悪化しているように思えます。

   犯罪でなくとも、お互いに気まずい思いを抱き合うのは、しょっちゅう起こっているのではないでしょうか。それが、親子間、夫婦間、兄弟姉妹間、隣家同士でのものならば、 かなり深刻だと思います。どうすれば、未然に防げるのか、また、修復するには、どうすれば良いのでしょうか。
   飽くまでも、私の経験からですが、相手の言動に相容れられない気持ちが湧いた時、直ぐには反応せず、つまり、相手の言動に、瞬間的に腹が立つことがあっても、 その気持ちをその時直ぐに言葉や顔の表情、態度には表わさないことが先ずは大切だと思います。少なくとも、数時間か、日にちをおいて、それでも、気持ちが変わらなければ、 冷静に率直に意見を言えばよいと思いますが、大抵は、腹立ちの気持ちはおさまって、相手に意見を言う必要もなくなるものだと思っています。これは、どんな時も、どんな相手にも、 そうすれば、決定的な気持ちの断絶には至らないのではないかと思いますし、そのような積み重ねをして行くことで、自然と良好な人間関係を保てるコツが身についてゆくのではないかと思っています。

   我執・自我は、人間に悩みをもたらしますが、我執があればこそ、犬やネコには無い救いがあるのだと思います。犬やネコに心があるかどうかを確かめることは出来ませんが、犬もネコも、 我執がありませんから、身体も心も自然の働きにおまかせの生活を送っているように見えますので、悩みは無いと思われます。悩みがないから、喜びも無いでしょう。しかし人間は、我執があるから、 悩みます。しかし、悩みがあるから仏法を求める菩提心が生じ、最終的には、「自分は自分でよかった」と、心の底から喜べる瞬間があるのだと思います。
   我執がない犬やネコも、また我執のまま生きる人間には、そのような、喜びを得られない事を思えば、我執もまた有り難しと思うのです。ただ、我執は有り難いと思えるようになるには、 真実を説く宗教に遇わなくてはなりません。我執につけ込んで、信者を募り、自分の我執を満足させる教祖が運営する新興宗教に迷いますと、人生を台無しにさせられることは、芸能人のスキャンダラスな例に、 見てとれます。                                     

なむあみだぶつ

                    

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No.1635  2017.02.16『歎異抄ざっくばらん』詳細解説―(8)なき人を拝むー後編

●無相庵のはしがき
   亡くなった人(特に家族、父母、夫婦、子供、孫)が成仏しているかどうか、気になさる方も居られるものと思います。今回の法話で米沢英雄先生がその考え方が示されています。
   米沢英雄先生は、人間は死ねば、煩悩の元となる肉体が無くなるから、成仏しているという考え方をされています。殺人犯人も成仏するのかという極端な話はしておられませんが、 多分,娑婆世界の悪人、善人の区別なく、誰でも成仏するというお立場ではないかと思います。

   私も、そう思いますが、「じゃぁ、何をやったって成仏するなら、宗教、倫理・道徳は要らないんじゃないか?」という疑問を持たれる方も居られるかも知れません。しかし、 それは違うと、私は思います。
   親鸞聖人も体失往生というお立場でだと思いますが、生きている間に、浄土往生が確定する身になろう、なりたいというお立場でもあると、私は考えております。

●『歎異抄ざっくばらん』第一章詳細解説――(8)なき人を拝むー後編

   それから人間というものは、生きている間はいやなことばっかりですけれども、死ぬというと、いいところばっかり思い出して、 まあそういうところが人間のいいところやろうと思うですね。

   これはまた、話が変わりますけれど、私が以前に桑名別院の暁天講座に呼ばれた時、ある歳のいった奥さんがいうてました。主人がガンでなくなったんやて。それから息子が戦死して、 靖国神社にまつられている。息子は靖国神社におるし、主人はいっぺんも、仏法を聞かなんだので、死んで息子と会えるかどうかということを、心配しておるのやね。 「そんな心配せんでもよかろう」と思うのは、実はそういう体験をもたない人のいうことで、自分の身内のことになると、やっぱりそういうことが心配になるんやろうと思う。

   で、ご主人はいっぺんも仏法を聞かずになくなったので、まあ極楽へ行ってないのでないか、という心配。私はまあいいかげんな男やから、「そんなもん、心配ないんや。奥さんは、 ご主人がなくなられて、どういう事を思うか」と。ふつうの人間ならね、主人がなくなると主人のいいところばっかり思い出すのやね。それに対して、自分がいかにいたらぬ人間であったかという事を思い、 「もっと尽くせばよかった」と、こう思うんですね。「こういうところに、ご主人を心から拝むことができる。あなたが拝むことによって、ご主人は仏になるのや」と。

   で、この「拝む」ということは、そういうはたらきをするもんやね。あなたが拝むことによって、ご主人は仏になるんや。あなたも拝むことによって、仏に近くさせられる。 生きながら仏にはなれません。生きながら仏になるのは、真言(宗)でいうのかな。我々は生きながら仏になることはできん。しかし拝むということで、仏に近くせしめられる。 そういうのを菩薩というんだろうと思う。

   まあ、菩薩という、そういうところまではいわなんだ。昔のことやから、分からなんだでいわなんだけれども、そういうことをいうたことがありますが、もうひとつ、 ひじょうにおもしろい――。

   去年、鹿児島別院へ行ったんや。そうしたら、六十近い男の人で、自分の娘がなくなったんや。娘がなくなったので、それはお気の毒やと、私はいわざるを得ません。 で、手紙を書いてきて、ひまな時に読んでくれというてよこされた。それで帰りの飛行機の中で、それを読んでみたらね、その十八でなくなった娘さんというのは、脳性小児麻痺で、 生まれながらの身体障害者だった。

   それで、自分が外から帰ってきて、その娘の顔を見るのが、一番の楽しみやったし、娘も待っとった、と。娘は音楽が好きで、レコードをかけてやると、ひじょうに喜んでおった。 ところが、『歎異抄』にも出ているけれども、「本願を信じ、念仏もうさば仏になる」(十二章)と、こう書いてあるのですね。それで娘さんが小児麻痺で、理解力もないし、 本願念仏を聞かせたって分からんし、念仏を申さずになくなった。それで娘さんは成仏しておるであろうか、ということが、父親としての心配でね。そういうことをお寺に相談した。

   そしたらお寺さんは、「娘さんは救われておらん」と。「本願を信じ、念仏もうさば仏になるんやから、本願も信じもせんし、念仏もいっぺんももうさなんだら仏になれん」と、 こうお寺さんがいうた、と。「あなたが仏になって、娘を救わないかん」と、こういわれた、というんやね。 で、私は帰ってから、そのご主人に手紙を書きました。「娘さんは救われとる。というのは、脳性小児麻痺でね、自我ってものは全然ない。おまかせ。生きながらおまかせや。父親まかせで、 自分の意思でどうこうということ全然ないんですから。あの生きながらおまかせしておるものが、死んで仏になれんはずがなかろうと、こう私は思うたんや。私はそういうじだらくな考えをしとる。」

   生きているからこそ、肉体を持っているからこそ、我が身がかわいいという心があって、我執がはたらいて、人を傷つけ、自分も傷つけるんですけれども、 死ぬとその我執の元がなくなるから、皆仏になること間違いない。まして脳性小児麻痺で自分の意思表示もできない。生きながらおまかせして生きとるものに、 死んで仏になれんはずがないというてやったら、そのお父さん、ひじょうに喜びましたね。だから「本願を信じ、念仏もうさば仏になる」――こればっかりを後生大事につかんでいると、 ひじょうに迷惑するのでないかと思うですね。 これはやはり、法身仏が分からんとあかんのやと思う。はたらきそのものによって、生かされて生きておるのや。だから皆おまかせしておるわけで、まかせておらん心があるだけで、 身体は任せておると私は思うのや。次の瞬間どうなるか分からんけれども、身体はとにかく一所懸命生きとるんやで。息の出る間だけは、一所懸命生きとるんや。私が寝ておっても、 身体は一所懸命生きとるんや。ところが、それに宿っておる心が、我執ばかりでありますと、身体にまかせておらんということがあるんでないかと思う。

●無相庵のあとがき
   私は、亡き人を供養するとか、拝むと云うことは、亡き人の想いを汲んで、亡き人が慶ぶであろう生き方をすることが一番だと考えております。私の祖父は、明治から大正にかけて、 島根で鉱山事業を手広く営みながら、親鸞仏法を説く僧侶を会社に招き、従業員にも聞かせていたと聞いております。また、私の母は、仏法が広まることを願い、30年にわたり仏教講演会を主宰し、 大きな足跡を遺しました。そして父は、技術者として神戸の製粉会社の粉を神戸スイーツのブランド品に育て上げる一方で、母の仏教講演会活動を支援していました。
   今、私は二歳上の兄(私とは別の会社の取締役技術開発部長)と二人で、世界の大発明となるであろう研究開発テーマに取り組んでいます。祖父も父母も、陰ながら慶んでいると思い、 成功に向けての背中を押してくれているとも思い、何としても成功させたいと思っているところであります。

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No.1634  2017.02.13『歎異抄ざっくばらん』詳細解説―(8)なき人を拝むー前編

●無相庵のはしがき
   今回の第一章詳細解説のテーマは、仏様の心と重ね合わせて親心を語るものだと思われます。私は10歳の時に父親(行年51歳)を交通事故で亡くし、 母は私が41歳の時に行年80歳で亡くなりました。
   亡くなって、そして自分が父の年齢を超え、母の年齢近くになり、孫(5人)も、下は10歳、上は成人を迎える年齢に成って初めて、 父母の親心の有り難かった事を心底有り難く振り返るようになったと思っています。ただ、仏教で、親心よりも大きい慈悲心と考えられているのが、阿弥陀仏の御心だと思います。親心は、他人の子に、 我が子程の愛情を持つことは出来ないと思うからです。でも、私が今こうして生かされて生きていられるのは、父母の犠牲的愛と、阿弥陀仏の見守りの慈悲心の両方があってのことだと思っているところです。

●『歎異抄ざっくばらん』第一章詳細解説――(8)なき人を拝むー前編

   名古屋の別院におった若い人で、九州に養子に行った人。柿本謙誠という人ですが、今、三十代だと思うんやけど、学生時代に船員になりたくて、商船大学に入ったという。 その時に病気が出たんや。ちょっと珍しい病気で、神経鞘腫(しんけいしょうしゅ;手足のしびれ原因で、良性腫瘍)という。我々の神経は、座骨神経とかいろいろありますが、 神経に鞘(さや)というのは、蔽(おお)いがあるんですね。その神経鞘、神経の蔽いに腫瘍ができる。これは珍しい病気ですな。そういう病気になった。それで首のところがはれてくるし、 手のところまではれてきたんだな。それで、手術したり、それからコバルトかけたりして、入院して、えらい治療やって、それで引っこむかと思うと、また再発してくる。そういう病気になった。 これはやっかいな病気やと思うですわ。

   それがやっぱりお寺の息子でね。お寺の息子やけれども、仏法なんて今まで聞いたことがないんや。それがもう手がきかんようになったもんやから、 結局船員さんになれぬと見切りをつけて、そこを出て、大谷大学へ入り直したというんかな。 大谷大学へ入ってみて、仏教を学んで初めて、自分が思っていた仏教と全然違うということに気がついた。だから、先に専門大学の悪口いうたけれども、専門大学でも間に合うこともあるんや。その人は、 仏教が自分の想像していたものと違うと、こういうことに気がついて、そして、今自分が病気になったおかげで、その神経鞘腫という、ひじょうに再発をくり返す病気らしいですけれども、 自分の病気を縁として、仏教に触れた経過を書きましてね。送ってくれましたが、その人に実際会ってるもんやから、その人のことがよく分かるわけや。よくそういう病気を縁として、 こういう仏法の真実義を、よう分かってくれたなあと思うんですが、その人の、お父さんというのが、肺がんになって、これは亡くなっておられるんですけれども、肺がんになったお父さんと、 その神経鞘腫で外科手術を受けているその人と、父子同じ病室に床を並べて入院したこともある、と。 ところがお父さんが重症になったので、個室へ移された。その父親が、肺ガンになって、だんだん悪くなっていくんだけれども、それが起きてね、息子の病室に来て、何もいわずに黙って座っているという。 それで帰りには、母親――つまりお父さんの奥さんやね、奥さんが来たり看護婦さんが来たりして、ようやく助け出して自分のベッドへ連れて帰るんやけど、それが毎日息子の部屋へ来て座っている。 黙って座っているわけや。それがその息子には「何のためにくるんか」と、腹が立ったという。初めは、腹を立てた、と。

   それが自分が仏法に触れて、やっぱり親心というんかな、そういうことが分かったといって、書いてましたね。だから父親の心、自分も病んでいるんだけれど、自分なんか問題にせずに、 自分の子どものことを問題にしとる。そういうことと、何というか、仏の心というのと重ね合わせて、こういうふうに受け取っておるようです。だから父親が自分の病室にくると、 「何のためくるんか」というて腹を立てたけれども、今になってみると、父親の心がわかるというのやね。 そういう意味で、父親と子どもとは、生きとる時には心を交わすことができなんだけれども、父親がなくなって初めて、父親の心とその子どもの心が交流するようになる、 こういうことが書いてありましたが、こういうところなんか、ひじょうにおもしろいと思うですね。        

●無相庵のあとがき
   重症の父親が、難儀な病で寝ている息子の病室を訪ねて、ただ黙って座っている状況の描写には、切なくなりましたが、私にも息子がありますから、分かるような気が致しました。 親は、息子や娘になにかあれば、何とかしたいものです。でも自分が何とも出来ないことを認識していたその父親の心を思いますと、実に切ないものがあります。

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No.1633  2017.02.09お陰忘れて、ないものねだり

昨日から、今年に入ってからずっと研究開発中の実験が重大な局面を迎えており、無相庵コラムの更新に取り掛かれない状況です。 嬉しい結果が得られそうですので、決して悪い状況ではございません。 いずれ、良いご報告が出来ればと思っております。 私の人生は、常にないものねだりの生活で、お陰さまが頭をかすめるのは、ホンの瞬間です。凡夫故なのでしょう・・・。

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No.1632  2017.02.06『歎異抄ざっくばらん』第一章詳細解説―(7)ないものねだり

●無相庵のはしがき
   この『歎異抄ざっくばらん』第一章詳細解説は、この後、(6)の念仏は生きている、(7)ないものねだり、(8)なき人を拝む、テーマと詳細解説の内容が、 明確に一致していませんので、テーマに沿った詳細解説の内容と成るように、前後つなぎ合わせて紹介させて頂くことと致しました。勝手な編集し直しをしますことを、出版社の柏樹社と、 亀井鑛先生にお詫び申し上げます。
   〝ないものねだり〟、経済的に困窮している我が家は、プロ野球選手の新人選手達の数千万円~1億円の契約金や、レギュラー選手の契約更改の推定金額の報道を見ますと、 毎年末には、いつも何か割り切れない思いに駆られるというのが、正直なところでございます。その私は、米沢英雄先生が詳細解説の中で仰っておられる「ないものねだりをやっておると、 自分に与えられたものまで、見えなくなってしまう。」というお言葉に、ハッと致しました。〝ないものねだり〟している私は相対的生活を送っている証拠であり、米沢英雄先生の更なる、 「自分は自分でよかったと。こういう生活ができるのは絶対的生活というもので、それこそ、仏法というものが与えてくれる功徳であろうと思うんですね。」というお言葉に、 土下座するしかありませんでした。

●『歎異抄ざっくばらん』第一章詳細解説―(7)ないものねだり

   この四月二十日に、私は東京へ行きました。そして話させられたのですが、そこへ来ておられたらしい(来ておったということが書いてありました)、――茨城県の主婦が、 手紙をよこされました。この手紙を読んだらね、ひじょうにおもしろい、深刻なんや。そんな深刻な人の悩みを、おもしろいというのは失礼になる。深刻な悩みなんです。 それはどういうことかというと、その奥さんはひじょうに内気で、人見知りをする性格(たち)で、高校のときに登校拒否をしたこともあると、こういうことが書いてあるんです。 それが縁あって、その内気な、人見知りする人がですよ、結婚して子どもさんが二人ある。で、ご主人は神さまのような人やと、こう書いてある。神さまのような人やろな、 そんな人見知りする奥さんを大事にしとるんやから、間違いなく神さまみたいな人なんでしょう。 で、その悩みというのは、自分が人見知りする性質なので、近所の奥さんとお茶を飲みに行ったり来たり話をしたりするけれども、自分はその人見知りする性質のために、交際ができんというので、 それでこういう性格をどうしたら直すことができるかという相談なんです。
   確かに本人としては深刻な悩みなんでしょうけれども、私は「それは東京で話をした時に、私がいうとるはずや、あんたは何を聞いとったんや」と。

   それは、相対的生活と絶対的生活というんかな、こういうことを東京で私がいうたはずや。まあ、仏法聞いてどうなるかというと、絶対的生活ができる、人をうらやまん、 自分は自分でよかったと。こういう生活ができるのは絶対的生活というもので、それこそ、仏法というものが与えてくれる功徳であろうと思うんですね。皆、相対的生活をしておる。例えばその奥さんが、 自分は内気で困った、と。他の人は行ったり来たりして、お茶飲んで楽しそうにしていると。これは他をうらやむので、相対的生活をしとるわけです。

   で、私はひじょうに皮肉な人間やから、その返事を書いた時に、「あなたは他の奥さんが、行ったり来たりしてお茶飲んでひじょうに楽しんでおると思うとるが、あんたもやってみると、 ガッカリすること間違いない。つまり、おたがいに行ったり来たりしてお茶飲んで,何を話しとるかというと、近所の奥さんの悪口や」と。こんなくらいなら、 別に出てくるんでなかったと思うこと間違い無いんや。初めは着物の話くらいしてるかしらんけれど、終わりになってくると、人の悪口になってくるんや。そんなことせん方がええんや。 それより絶対的生活をしなさい、と。あなたもご主人があって、子どもさんがおるからには、ご主人の会社の友だちが来るやろうし、子どもの友だちが遊びにくる。その時あなたは放っときはせんと思う。 それだけができれば上等でないの。

   ないものねだりというのがあるんやね、ないものねだり。その奥さん、ないものねだりしてるんや。自分の性格にそれがないから、それがあってほしいと思うんやね。 そういうように、自分にないものねだりをやっておると、自分に与えられておるものに気がつかん、ということがあるんですよ。そういうことが、ひじょうに大事なことやと思うんです。 その奥さんひとりの問題でなくてね、誰にでもある問題でね。ないものねだりをやっておると、自分に与えられたものまで、見えなくなってしまう。 そういうことがあるのでないかということを書いてやったのですが、その奥さんが分かったかどうか、まあ分かりませんけれども。

   その相対的生活から、絶対的生活をするかどうか。その絶対的生活とは、「自分が自分に生まれてよかった」と、こういう生活を絶対的生活というので、奥さんに書いたのは、 内気な性格とか、人見知りする性格というのは、そういう性格そのものは、別に悪いもんでない。そういう性格に生まれてきたということは、悪いことでない。 それを悪いことだと思うコンプレックスが問題なのだ。そのコンプレックスというのは、相対的生活をしたいというところから生まれてくるので、仏法というのは、 そういうコンプレックスをどうして除くかというと、「私が私に産まれてよかった」という絶対的生活ができる――。

   私はえらいなまいきな話やけれど、親鸞の教えをひじょうに喜んではおるけれど、親鸞のようになりたいと思わん。なろうたってお前がなれようかと、こういわれるかもしらんけれども、 そうでない。皆、あのようになりたいとかこのようになりたいとかいうのを、迷いというので、それが相対的生活であって、自分はこのままでけっこうだと、こう自分に落ち着くことができるのが、 絶対的生活というものだと思うんですね。その奥さんは、私が手厳しく書いたんで、怒ったかもしらんけれども、怒ってもかまわんのや。怒ってもかまわんけれども、そういうことが、 根本的なことが分かるということが、ひじょうに大事なことやと思うですね。 それで、みんな相対的生活に引きずりまわされておるのでないかと思うのです。

●無相庵のあとがき
   ないものねだりする心を、自分ではどうすることも出来ませんが、ないものねだりの心が湧き上がった時、自分に与えられているものを具体的に指折り数えてみれば、 前を向いて行けるかも知れないと思いました。

   私は現在、会社の借金(社長個人として連帯保証しています)と、17年前に建てた自宅を売却した場合、負債が残り、私が亡くなれば公私合わせて、 数千万円の借金が残り、遺った妻子に大変な迷惑がかかります。何とかしなければと焦っており、まさに〝ないものねだり〟状態が続いているわけであります。 そんな自分にも与えられているものがあるはずだと思い、実際に指折り数えてみますと、下記の通りでした。

①厚生年金制度のお陰で、そこそこの年金が二ヶ月に一回、間違い無く支給されている事
②夫婦ともに老齢ですが、老々介護状況にはなく、夫婦ともに今のところ自分のことは自分で出来、介助を必要としていない事
③子供達(40歳以上)は世間に迷惑をかける状況には無く、経済的にも自立しており、子供の事で悩まされることが無い事
④1年先の事は分からないけれども、明日明後日等、当面の衣食住を心配する状況には無い事
⑤これまでに縁を頂いたA社、P社の様々な協力のお陰で世の中に役立つと思える特許技術を得て将来に夢・希望を描ける事
⑥大自然の大きな働きに依って命を恵まれ、自分の命が生かされている事は勿論の事

   こうして、米沢英雄先生に教えられた、自分に与えられているものを、改めて認識致しますと、頑張らねばならない、と、少し前向きになることが出来ました。 〝ないものねだり〟をする自分に気付いた時、この作業を繰り返しやってみようと思います。

●追記
   コラムを更新し終わり、眠りに就いて4時間後、ふと眼が覚めまして、私に恵まれていることの一番目に挙げるべきなのは、 この娑婆世界でかなり厳しい状況の中でも、夫婦二人、自暴自棄にならずに暮らせているのは、全ては縁に依って起こるという教えに出遇っていること、 特に、親鸞仏法に出遇えている事ではないかと思い直しました。
   ただ、信教の自由が認められているとは言え、自らの信仰を自身が肯定して発信することは、あまりにも主観的ではないかと躊躇致しました。 しかし、仏法を発信するホームページ『無相庵』を開設している者として、仏法のお陰を思ったことを伝えるのが、自然の流れではないかと思った次第であります。

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No.1631  2017.02.02『歎異抄ざっくばらん』第一章詳細解説―(6)念仏は生きている

●無相庵のはしがき
   今日の米沢英雄先生の法話の中に、『念仏もうさんでも、皆たすかっておるのや。それを再確認するというのが念仏のはたらきと思う。』という、大切な言葉がございます。 「念仏もうさんでも、皆たすかっておるのや」ということは分かり難いかも知れません。それは「たすかる」ということが世間一般の考えでは、「危ないところ、命が助かった」とか、「思わぬお金が入って、 助かった」という時に、使う言葉だからと思うのです。仏法では、我々は生かされて生きていることは間違いないですから、生かされていることが、既に助けて貰っていることだと考えるからだと思います。 娑婆世界で毎日毎日生活をしていて、色々な人々に助けて貰って、生きていることを実感することは実に難しいことだと思います。自分だけの努力で生きられている訳ではないことは、理屈では分かりますが、 それは、お金を払っているから食物も手に入るし、お金を払うから電車にも乗れる、バスにも乗れる、自家用車にも乗れる、そして、お金を稼いでいるのは自分が会社に勤めて働いているから、 当たり前だという無意識的な感覚が頭にこびりついていますから、なかなか感謝の心は湧いて来ないのも致し方無いのかも知れませんね。
   そういう事を見越した上で、米沢英雄先生は、「再確認するというのが念仏のはたらきだと思う」といわれているのだと思います。

   また、『人間を超えている』という言葉がございます。「超えるってどういうこと?」と私は思いましたが、「人間の手や頭脳・能力では及ばないはたらき」の事なのではないかと解釈致しました。

●『歎異抄ざっくばらん』第一章詳細解説―(6)念仏は生きている

   それから、「信じて、念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」。これは文章で書きますと、どうしてもこういうふうに長くなる。 長くなるところが問題であると思うんですね。本当いうと、皆たすかっておるのや。たすかっておるってことは、法身仏によって生かされて生きておるのやから、皆たすかっておるのやけれども、 たすかっておると皆が思わんというところに、問題があると思うんです。
   だから「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき」――念仏もうさんでも、皆たすかっておるのや。それを再確認するというのが念仏のはたらきと思うですね。 念仏の教えから、さて、たすかったと、こういうことになって、まあ、ちょうど今日、ここにもおられるが、竹部勝之進さんが、

タスカッテミレバ

タスカルコトモイラナカッタ

   といわれるはずや。もともとたすかっておるんや。たすかっておるのをたすかっておらんと思うて、あらぬ方を探しておるのを、迷いというんでないかと思うんですね。 このたすかっておるということに気がつくということが、大事なんです。これが念仏のはたらきであろうと思うんですね。

   この念仏は、大行といわれております。大行といわれるのは、人間を超えておるということで、まあ例えばここにコップがありますけれども、これは、 コップを作った人がこのコップを作ったんでしょうけれども、これ、できてしまうと、その人と別ものになるんでないか。つまり、その人を超えておると、こういうことでないかと思うんですね。 で、ここにある草や木でも、皆人間を超えておるものやと、私は思うんです。この人間を超えたはたらきというものを、大行というのですから、どんなところにでも、大行ははたらいておる。 南無阿弥陀仏ははたらいておると思う。

   私は、そんなこというとだらしないと思われるかもしらんけれども、私は宇宙が南無阿弥陀仏に満ち満ちておると、こう思うんです。太陽は太陽として南無阿弥陀仏しとるし、 松の木は松の木として南無阿弥陀仏しとるし、そういうふうに一切は南無阿弥陀仏しとる。だから教えを聞くだけでなくて、日常生活の中に一切のものが南無阿弥陀仏しとるなと、 こう気づくために仏法を聞く、と。仏法と日常生活と別になっておっては、これは仏法でも何でもないんじゃないかと思うんですね。
   仏法に聞くことにおいて、日常生活の中に南無阿弥陀仏が生きとるなと、こういうことを感ずるということが、大事なんではないかと私は思うんです。

   で、この大行というのは、人間を超えておるはたらきです。行というのははたらきなんですけれども、人間を超えたはたらきである。我々のやる行というのは、大したことないので、 人間を超えたはたらきであるというのを、大行という。
   そうすると、存在する一切のものは、人間のはたらきを超えておるのでないかと、こう思うんです。草一本、雑草にしても雑草を人間は作ることできませんから、 これは存在する一切のものは、人間のはたらきを超えておるので、大行ということがいえるのです。

   南無阿弥陀仏というのは、南無阿弥陀仏という固定したものでなくて、南無阿弥陀仏は生きとるものやと、私は思う。この、生きているものでないと、 生きている我々の役に立たんのでないかと、私は思うんです。死んだものなら、生きている我々の役には立たんと、私は思うんですね。南無阿弥陀仏は生きとるもんやと思う。で、 この南無阿弥陀仏が生きとるということを我々が毎日の生活の中で確かめるということが、大事なことでないかと、こう思うんですね。

   安田理深先生という方が、チャブ台ひとつあれば仏法が語れると、こういうことを座談会(注―中日新聞紙上連載後「不安に立つ」として刊行)でいうとられた。 チャブ台ひとつあればというのは、安田理深先生は『浄土論』とか聖教の講演をされますから、その聖教をのせるチャブ台というものが必要になるんだろうと思うんですね。

   私は、ひじょうにだらしない人間やから、私の仏法は縁側仏法や、というんです。縁側仏法というのは、縁側で腰掛けながら、日常起こる問題を仏法に聞くと、こういう立場です。 日常起こる問題を、日常問題と見過ごさずに、それを仏法に聞いていく。仏法がどう答えるか、そういうことを確かめていくと――そうでないと、仏法と日常生活と離れてしまうのでないか、 こう思うんですね。

   この四月二十日に、私は東京へ行きました。そして話させられたのですが、そこへ来ておられたらしい(来ておったということが書いてありました)、――茨城県の主婦が、 手紙をよこされました。この手紙を読んだらね、ひじょうにおもしろい、深刻なんや。そんな深刻な人の悩みを、おもしろいというのは失礼になる。深刻な悩みなんです。 それはどういうことかというと、その奥さんはひじょうに内気で、人見知りをする性格(たち)で、高校のときに登校拒否をしたこともあると、こういうことが書いてあるんです。 それが縁あって、その内気な、人見知りする人がですよ、結婚して子どもさんが二人ある。で、ご主人は神さまのような人やと、こう書いてある。神さまのような人やろな、 そんな人見知りする奥さんを大事にしとるんやから、間違いなく神さまみたいな人なんでしょう。 で、その悩みというのは、自分が人見知りする性質なので、近所の奥さんとお茶を飲みに行ったり来たり話をしたりするけれども、自分はその人見知りする性質のために、交際ができんというので、 それでこういう性格をどうしたら直すことができるかという相談なんです。
   確かに本人としては深刻な悩みなんでしょうけれども、私は「それは東京で話をした時に、私がいうとるはずや、あんたは何を聞いとったんや」と。

●無相庵のあとがき
   法話の最後の〝内気な奥さんの悩み〟に対する米沢英雄先生が、奥さんに対して「あんたは何を聞いとったんや」という根拠(東京での法話内容)は、次回のコラム、 『歎異抄ざっくばらん』第一章詳細解説―(7)ないものねだりの冒頭に、「それは、相対的生活と絶対的生活というんかな、そういうことを東京で私がいうたはずや。」という文言がありますが、その奥さんは、 相対的生活、絶対的生活という言葉を聞いた瞬間、難しい言葉に拒否反応が出て、その後の米沢英雄先生の説明を聞き分けられなかったのではないかと思います。

   私は、解散騒動で揺れたSMAPの、誰でも知っている有名な、『世界に一つだけの花』の歌詞を思い浮かべました。 皆さんも改めて、歌詞をお読み頂きたいと思います。私も今回歌詞すべてを確認させて頂きましたが、良い歌詞ですね。親鸞仏法の心を詠った歌だと思いました。

   そして皮肉を込めて言えば、SMAPは、素晴らしい一つの花束でしたけれど、5人がそれぞれに才能豊かなオンリーワンの花とはなれなかったのかな、と惜しい気が致しました。
   次回の『ないものねだり』、期待して頂きたいと思います。

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