No.1700  2017.10.19青山俊董尼法話集第二巻『宗教とは天地悠久の真理』の③「切り口の違いで争わぬ」

●無相庵のはしがき
   「切り口の違いで争わぬ」ということはその通りだけれども、「切り口の違いを見る側の目が、人間の目と他の動物(たとえば犬とか猫)の目では異なるということも考えねばならない」、 ということを仰りたいのが、今回の青山俊董尼のご法話だと思います。そして、同じ人間の目でも、「自我に囚われた目」と、「生まれたまんまの、本来の自己の目」でも異なるではないか、 その本来の自己を取り戻す姿が、坐禅の姿だと青山俊董尼は説明されています。

   日常生活で、苦難に遭遇した時には、「私というものを遠く客観的に突き放して見る」ということだと思いますが、実際に「苦」にもがき苦しんでいる時に、客観的に自分を見詰め直すことは、 正直なところ難しいものだというのが、今の私の実感でございます。

●青山俊董尼法話集第二巻『宗教とは天地悠久の真理』の③「切り口の違いで争わぬ」

   私は寺に猫を飼っておりまして猫を抱きながら、猫の目に人間はどう映るんだろうな、などと思っております。夏目漱石が『我が輩は猫である』を書いておりますけれども、あれは、 そういうことではなかったのかな、と思います。人間をやめにして、人間の外に出てみて、初めて人間の姿が見える、こういうものの見方が大事じゃないでしょうか。

   中国の禅僧で南泉(なんせん)と趙州(じょうしゅう)というたいへん傑出した方がたがおりまして、この二人の物語には、よく犬や猫がでてまいります。「南泉斬猫」というのは、 猫に仏性があるか、ないかというような問答です。あるいは、「狗子仏性(くしぶっしょう)」というのは、犬に仏性があるかないか、あるいは牛が出てきましたりと、動物がよく出てまいります。 この趙州の言葉に、「異中来他、還って明鑑」、という言葉があるんです。「異中来」とはいうの、動物の世界とか、異なった世界からやって来たという意味で、 人間世界からやって来たわけではないということです。だからこそ、かえってよくわかるんだよ、という言葉なんです。

   また、私が生涯の師と仰いでまいりました内山興正老師がよく、「床の間に棺桶を置いといて、頭へカッときたら、ときどきその棺の中に入り、 そこから人生を振り返ってみよ」とおっしゃいました。要するに死にきって振り返れ、自分の人生の外に出て、振り返れ、ということなのでしょう。

   私というものを遠く客観的に突き放して見る、このことを道元さまは、「自我」と「自己」というような言葉で表現されました。この、もう一人の目というもの、これが坐禅だと思います。 「自我」の自分が死にきって、そして、もう一人の「自己」の私が目覚め、「自己の私」で「自我の私」を冷静に眺める、そういうのが坐禅の一つの姿といえるでしょう。

●無相庵のあとがき
   私だけに限らず、どなたにも苦難は押し寄せて来るものだと思います。それは、勿論、「自分の思い通りになることを願う」煩悩(自我)を持っているからであることも間違い無いと思います。 また、そう説くのが仏法でもあります。でも「自我」を無くすことは多分、それを目的として坐禅しても一挙に失すことは出来ないと思います。
   「縁に依って生きて来た自分、縁に依って生きていく自己」に思い当たりますと、「縁に従う、縁に任せる」という結論に導かれるのではないかと自問自答しているところですし、 そのように自問自答しているのも、遠い過去からの無数の縁に依るのだとも思っています。この縁の道理を見つけて下さったのが、そもそもお釈迦さまでした、感謝です。

なむあみだぶつ  

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No.1699  2017.10.16青山俊董尼法話集第二巻『宗教とは天地悠久の真理』の②「切り口の違いで争わぬ」

●無相庵のはしがき
   立花隆氏の著書『宇宙からの帰還』の単行本は、10月11日(水曜日)の夕刻に届き、早速読みにかかりましたが、内容は、気楽に読めるものではなくて、早々に、熟読を諦めました。

   『宇宙からの帰還』は、「宇宙からの帰還」、「神との邂逅(かいごう;思いがけなく遇うこと)」、「狂気と情事」、「政治とビジネス」、「宇宙人への進化」と、大きく5話に分けられております。 そして、「神との邂逅」の冒頭部分に、「宇宙飛行士たちの宇宙における認識拡張体験の話をくり返し聞いているうちに、私は、宇宙飛行士とは、神の眼を持った人間なのだということに、 思いあたった」と、立花氏は書かれていました。

   それは、私たちにも想像出来ます。たとえば、私は約30年前のサラリーマン時代海外出張で東南アジアの国々、アメリカ、韓国に行ったことがありますが、その時は、 確かに視野が広がった気が致しました。これを、地球を遠く離れた宇宙から地球を見れた時のことに置き換えますと、宇宙飛行士の気持ちを想像出来ますので、立花氏のご主張は大いに理解出来ます。 そして、私たちが宇宙から地球を見た時のことを想像すれば、今なお宗教の違いで紛争を起こす世界の現状を思うとき、「切り口の違いで争わぬ」という青山俊董尼のお言葉にも頷けます。

   私は取り敢えず、立花隆氏の著書『宇宙からの帰還』の熟読を先延ばしにしましたが、中身には私が知らなかったことが沢山書かれていますので、とても勉強になりそうです。 たとえば、私たちが息をして酸素を血液内に取り込めるのは、大気圧があるからだということを説いています。『呼吸というのは、肺の中にある肺胞の膜を酸素が通過して血液の中に溶け込んでいく現象である。酸素に圧力がかかっていないと、 酸素は肺胞膜を通過できない』との説明があります。

   また、アメリカのアポロが月へ着陸した回数が、1969年のアポロ11号を含めて、合計5回あると書かれていますが、私はその回数までは知りませんでした。 そして、アポロ計画で、1960年代中に、人類を月に立たせるという目標を掲げたケネディー大統領(享年46歳;1917年5月29日 - 1963年11月22日、大統領の任期は、 1961年1月20日 – 1963年11月22日)の決意は、アメリカが当時のソ連に、宇宙開発において大きく遅れていたからであり、ソ連の宇宙飛行士のガガーリンに、「宇宙に神は居なかった。 地球は青かった」といわれたことに、「神は宇宙に居る」と信じていたアメリカのクリスチャンとして認められなかったことも大きな動機の一つだったとのことは、私は初めて知りました。
   お時間に余裕がお有りの方は、お読みに頂けば如何かと存じます。

●青山俊董尼法話集第二巻『宗教とは天地悠久の真理』の②「切り口の違いで争わぬ」

   考えてみますと、仏さまとか神さまとかいう存在を宗教の世界ではよく「光明」つまり、光にたとえます。たとえば、奈良・東大寺の大仏さまは、「ビルシャナ仏」とお呼びします。梵語です。 サンスクリットとも呼ばれるインドの言葉です。これはあまねく一切のところに満ち満ちているお姿、お働き、光にたとえて「遍一切処(へんいっさいじょ)」と訳されています。

   ビルシャナは、インドでは「太陽」の事を意味するのだそうです。お寺の卍(まんじ)の紋がありますが、インドへ行きますと、ヒンズーのお寺でもどこでも、あの卍模様がついております。 あれは、めくるめく太陽の光を象徴したものだと、聞いたことがございます。天地宇宙の真理の姿を、あるいは、神とか仏と呼びたい姿を、光で象徴している一つの形です。

   この奈良朝のビルシャナ仏は、平安朝になりますと、真言宗の「大日如来(だいにちにょらい)」になります。大日如来は、「光明遍照(こうみょうへんしょう)」といい、 やはり光明があまねく照らす姿にたとえます。私どもが、親しく「阿弥陀如来」と申し上げる、この「阿弥陀」というのも梵語です。漢訳しますと、「無量寿光如来」となります。「無量」は、 限りなく量り知れないということ、「寿」は、いのちひさしと読み、「光」は空間を表わします。いつでもどこでも無限の時間と空間の間に満ち満ちているお姿をたとえた呼び方で、やはり、 光にたとえています。

   私の自坊でございます信州の寺は、まことにおおらかといいますか、キリスト教の方もいれば神道の方も来ていらっしゃるというように、いろんなお方が信者さんになっています。 中でも、神道の方が結構おられまして、その方がたのお葬式の会場に、私の寺を使っていただくことがあります。神道ですから、神主さんがいらっしゃって、お葬式をなさるのですが、この神主さんが、 楽しいお方で、私の寺でお葬式をされるときは、質問したい項目などを、書いてもってらっしゃるんです。

   あるとき、「お宮さんに大日如来さまがときどき祀(まつ)ってあるんですが、あの大日如来はどんな仏さまですか」と聞かれるんです。たいへん乱暴なお返事に近かったんですけれど、 「神道の方がたの神さまである天照皇大神(てんしょうこうだいじん)さまと思っていただければいいんじゃないかと思いますよ」と申し上げました。神主さんは納得という顔をしておられましたけれども、 考えてみましたら、別じゃないんだなと改めて思うのです。

   地球を遠く離れてみて、初めて本当の地球の姿が見える。人類を遠く離れてみないと、人類の姿も見えない。だんだん小さくしていきまして、私の人生というものも、 私の人生を遠く客観的に突き放して、外から眺めることができて、初めて自分の人生そのものも見えてくる、そういうものではないでしょうか。そこのところをよく禅の世界で、 「父母未生以前(ふぼみしょういぜん)」、「両親も生まれない、そのまた昔」というような表現でいわれます。あるいは、もっとわかりやすい言葉にいい換えれば、 「人間の分別を外した外まで出て見ろ」ということ。そもそも人間の是非善悪の価値判断というのは、人間というものさしを中心においた、人間の都合による見方でしかないのであって、このように突き放し、 客観的に眺めて、初めて本当の姿が見えてくるというものでございます。

●無相庵のあとがき
   青山俊董尼は、『そもそも人間の是非善悪の価値判断というのは、人間というものさしを中心においた、人間の都合による見方でしかないのであって、このように突き放し、 客観的に眺めて、初めて本当の姿が見えてくるというものでございます。』と仰っていますが、日常生活に埋没している私たち世間一般の者は、なかなか客観的に自己を見れないものだと思います。 どうしても主観が残ると思います。しかし、だからこそ、休日には、身の置き所を日常から離れたところに置く努力をした方がよいのだと思います。山歩き良し、山の頂上に立って、 市街地を眺めるのもよし。東京スカイツリーの最上階から、大東京を見下ろすのもよし、ではないかと思います。

なむあみだぶつ  

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No.1698  2017.10.12青山俊董尼法話集第二巻『宗教とは天地悠久の真理』の①「切り口の違いで争わぬ」

●無相庵のはしがき
   青山俊董尼の法話とは直接関係の無い話題ですが、10月8日(日曜日)に、ノーベル賞作家のカズオ・イシグロ氏のトーク番組(再放送のようでした)がありました。録画をしておいて、 今週ゆっくりと視聴致しました。その番組名は、『カズオ・イシグロの文学白熱教室』というものでした。 昔は小説を読んで居た時期もありましたが、特に最近は全く小説を読みませんので、ノーベル賞作家がどんな考え方をして小説を書いているのかを知りたくて、ついつい、長い長い番組でしたが、 最初から最後まで視聴致しました。一番心に残っておりますのは、小説は事実を書くのではなく、真実を書いているものだということ。そして、その真実とは、人間の心情のことであるということです。 初めて聴いた考え方で、とても新鮮であると共に、我田引水になりますが、仏教的だなと思いました。引用した『カズオ・イシグロの文学白熱教室』は、 前編ですが、後編も続けて読めるようになっておりますので、是非とも、通しでお読み頂けたら、と思います。  

●青山俊董尼法話集第二巻『宗教とは天地悠久の真理』の①「切り口の違いで争わぬ」

   私の尊敬申し上げてまいりましたお方に余語翠厳老師(1912年 -1996年;元曹洞宗師家会会長)という方がおられました。この余語老師がよくおっしゃった言葉に、「真理は一つ、 切り口の違いで争わぬ」という一言がございます。 たとえば。円筒形の茶筒があるとします。横に切れば、切り口は丸くなり、縦に切れば、矩形に、斜めに切れば、楕円になるというように、切り口は違います。 たった一つの真理をそのとおりに見ることができるかどうかは別として、真理がいくつもあっては困ります。時とところを越えて変わらぬものが真理です。たった一つの真理。しかし、 見つけ出した人や、その人を育てた環境が違うために、違った姿、違った切り口になっただけのことです。

   私はよく、アメリカやヨーロッパなど文化圏の違ったところへも出かけます。あるいは、国内でも宗派の違ったところ、お茶の世界でもお流儀の違ったところにまいりますが、 いつも「真理は一つ。切り口の違いで争わぬ」と、自分の心に言い聞かせてまいるわけです。

   評論家の立花隆さんというお方が、『宇宙からの帰還』という本を出しておられます。宇宙飛行士たちへのインタビュー記事をまとめたものですが、遠く地球を離れて、宇宙空間から、 あるいは月の世界から、母なる地球を振り返った宇宙飛行士たちの言葉が、極めて宗教的なんです。

   「今、お釈迦様のお生まれになったところを通り過ぎたと思うと、何秒も経たないうちにキリストの聖誕地を通り越す。 あるのはたった一つのものを見つけ出した人が違うから違った名前がつけられただけなんだ」、そういうことを等しく言っておられます。
   その宇宙飛行士たちのインタビューを終えて、立花隆さんは、「宇宙飛行士たちというのは、神さまの目を持った人たちだと、 気づかせてもらった」というような結びの言葉を述べておられたのが、たいへん心に残っております。

●無相庵のあとがき
   今回の青山俊董尼のお話は、「真理は一つ」というもので、極論すれば、「世界には仏教、キリスト教、イスラム教という三大宗教というものがあるが、 教えは一つだ」と、青山俊董尼は仰りたいのだと私は思いました。そのために、立花隆氏の著書『宇宙からの帰還』を紹介されたのだと思います。 私は、その本を読みたくなって、今週の火曜日に注文しましたが、水曜日の夕方遅くに届き、この木曜コラムに間に合いませんでした。単行本ながら、三百頁以上ありますので、次回か次々回に、 その読後感想を申し述べたいと思います。

   カズオ・イシグロ氏の小説は真実を表現するものだということですが、多分これは、写真報道、マスコミ報道、そして、音楽歌曲芸能にも言えることではないかと、私は考えました。 東日本大震災の時の津波が押し寄せる映像は、事実を映し出していましたが、映し出す場面を淡々と映し出すだけでは、津波の恐ろしさは視聴者に伝わりません。津波の恐ろしさの真実を伝えるには、 それを映し出すカメラマンの心情を映像を通して伝える表現力が必要だと思います。それは、カズオ・イシグロ氏の小説が心情を大切にして成り立っているというところに一致するのではないかと思いました。 また、昭和の歌手の第一人者美空ひばりの唄は、心情が伝わってきます。それは声の美しさや音程の確かさとは関係なく、聞き手の心に訴えてくるものがあります。

   そのようなことを考えているうちに、私が今書いている無相庵コラムも、ただ単に先師方の法話をご紹介するだけでなく、先師方の法話一つ一つに込められたご心情を、 読者の皆さまと何とかして共有したいと思いまして、〝無相庵のはしがき〟と〝無相庵あとがき〟を蛇足しているのでありますが、それこそ、これからは心して記さねばならないと思ったことであります。

なむあみだぶつ

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No.1697  2017.09青山俊董尼法話集第二巻『宗教とは天地悠久の真理ー本当の宗教とは」ー②「天地悠久の真理とは」

●無相庵のはしがき
   私は前回の〝無相庵のあとがき〟で、「仏教が人類を救う宗教になる可能性は高いと私は思っています」と申しました。仏教にも色々な宗派がありますし、教えを説くお坊さんが、 全て同じ言葉で仏法を説明していないと思いますので、胸を張って言えるわけでもありません。それは、イスラム教にもキリスト教にも言えることでありましょうが、仏教が最も大切にするのは、 青山俊董尼が仰せのように、〝天地悠久の真理〟です。そして、その〝天地悠久の真理〟を「仏」と擬人化していると言ってもよいと思っています。

●青山俊董尼法話集第二巻『宗教とは天地悠久の真理ー本当の宗教とは」ー②「天地悠久の真理とは」

   「法」という文字は、よくできております。「氵(さんずい)」に「去る」と書きますが、水が流れる姿で天地の姿を表わそうとしています。引力のある地球上に流れる水は、 高きから低きに流れる。これは人間の約束事ではなく、天地の約束事です。真理というものを表現するのに、「法」という文字で表わしているのは、たいへん面白いと思います。昔は、 水は高きから低きに流れたが、今は低きから高きへ流れる、そんなことはありません。時とところを越えて代わらぬものを「真理」と呼びます。天地宇宙の道理でございます。それを、 仏法と表現したわけです。その法を踏まえたうえでの教えを仏教と呼び、そして、今ここでどう生きるか、具体的な実践道のうえにおいて、仏道という言葉にいい換えておられます。

   具体的な実践ということになると、ローカル色が出てきます。私が尊敬申し上げておりました沢木興道という方が、こんなことをおっしゃったことがあります。「飲み方に流儀はあっても、 胃の消化の仕方に流儀はない」。つまり、お茶の飲み方には、表流とか裏流という流儀がありますけれども、胃が表流に消化するとか、裏流に消化するということはないわけですね。 この「胃の消化の仕方」という言葉で表現しているのが、天地宇宙の真理にあたります。

   と、その運転手さんに、このような話をいたしました。そして、次のように申し上げました。
   「あなたは、本当の宗教というものを確かめもせずに、自分が勘違いをしていた宗教にこだわって、宗教など大嫌いだなどとおっしゃる。でも、そうじゃない。発見したものであり、 つくり出したものではない。天地宇宙の真理そのものが宗教の一番もとで、そこをみつめなければならないのです」。
   そうしたら、この運転手さんは、「ああ、そうですか。つくり出したものじゃなくて、見つけ出したもんなんですか」とおっしゃってから、「実は僕は、 A市のあるS宗のお寺の息子なんです」というので、私は、「残念でしたね」と申し上げました。

   「せっかく、すばらしい仏法を人びとにお伝えする、そのお寺の息子として生まれながら、本当の宗教とは何なのかを確かめもせずに、反発をして、出てしまったんですね。 二千五百年という、長い時間を越えて伝えられてきたということは、仏教の教えそのものが間違いのない教えである証拠です。永い風雪を越えて生き続けてきたといえるでしょう。ただし、長い時間の中には、 垢(あか)もつきます。よい意味では、方便といえるかもしれませんけれど、垢という一面にもなるわけです。その垢の部分だけを見つめて、本当の宗教というものを見つめようとせずに、宗教は嫌いだ、 仏教は嫌いだなんて、とんでもないことです。せっかくお寺に生まれたら、本当のところ何であったかろうかなと、極めてみるほうが良かったね」。

   そんなおしゃべりしているうちに目的地に着いて、車を降りようとしましたら、この運転者さんが、「もう少し早くこの話を聞いていたら、俺も坊主になっていたかな」とおっしゃるので、 「今からでも、遅くはない」などといって、一冊の本を渡して降りたことでございます。

   このように、常に私どもが、忘れてならないことは、一番もとを見据えていくことです。そこから派生した先のほうだけを見ていると、違いが気になったり、 それに縛られて重荷になったりするけれど、宗教の根元は、宇宙の真理そのものなんだということを忘れないようにしなければいけません。

●無相庵のあとがき
   青山俊董尼の「常に私どもが、忘れてならないことは、一番もとを見据えていくことです。」というアドバイスを私たちは忘れないようにしなければならないと思います。そのアドバイスは、 政治家の人たちに噛みしめてもらいたいものです。 明日公示の総選挙、既にテレビでは、党首同士の激しい論戦が始まっておりますが、全ての論戦は表面的な内容に終始しています。 本当に国民にとって何が何故必要かという議論をしていないことを残念に思います。 一票でも多くの票を集めたいという一心からだと思いますが、主張する政策は殆どが中途半端です。政党の党首と云えば、国の行く末を一番考えている人達でなければならないと思いますが、今回の総選挙で、 一番問うべきは日本の国の有り方だと思います。しかしそれを国民に問う積もりがあるとはとても思えません。例えば。

   北朝鮮の暴発に対して、どう対処するのかを明確に発言している党はありません。核抑止力を頼りにするのか、その場合、アメリカの核の傘の下でなのか、自前の核抑止力を備えるのか、 その上で、国連を中心とした外交力で抑止するのか、或いは、核抑止力に頼らず、日本国民は座して死を待つ覚悟を共有するのか等を国民に問う必要があると私は思います。 国民がそういうことに関心を持たないから、政治家たちは中途半端な甘い公約しか出さないのではないかと思っております。

   消費税の件も同様です。8%から10%に上げるのか上げないのか。そして、使い道を国の借金返済にあてるのか、他のバラマキに回すのか。2017年6月末時点の国の借金は、 1079兆円です。これを更に増やしてもよいのかどうかは、かなり重要な問題です。後々の日本国民に借金を残してよいのかどうか・・・。これも、理由と共に、 自らの政策の是非を国民に問い掛ける必要があります。その問い掛けに、国民一人一人が見解を持てる思考力が必要ですが、ちょっと心許ない気がしております。マスコミの思考レベルはかなり問題ですが、 その影響もあるのでしょうが、政治家の思考レベルを問題にする前に、国民の思考レベルを上げる手だてが必要だと思いますが、その為には、政治家と官僚達の思考レベルを上げる必要があるということになり、 簡単に解決出来る問題ではないですね。

なむあみだぶつ

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No.1696  2017.10.05青山俊董尼法話集第二巻『宗教とは天地悠久の真理ー本当の宗教とは」ー①「天地悠久の真理とは」

●無相庵のはしがき
   今回から、予告させて頂いていた青山俊董尼法話集の第二巻『宗教とは天地悠久の真理』のご紹介を始めます。あらためて、 この青山俊董尼の法話集『天地いっぱいに生かされて』に付きまして説明をしておきます。この法話集は、株式会社ユーキャンという、日本の通信教育、出版業者が発行している青山俊董尼の、 CD法話集の全12巻から引用しているものです。法話の一字一句を筆録した書物がありまして、その書物から引用しております。この十二巻を紹介し終わりますのは、 おそらく来年末位になるのではないかと思われます。辛抱強く、お付き合いをお願い致します。  

●青山俊董尼法話集第二巻『宗教とは天地悠久の真理ー本当の宗教とは」ー①「天地悠久の真理とは」

   先日、名古屋の駅でタクシーを拾いましたところ、運転手さんが私の顔を穴の開くほど覗き込みながら、「坊主、やってるんですか」って、大変強い口調で聞いてまいりました。 私も思わず、「坊主は、職業じゃない。生きていく手だてではない。誰しもが、たった一度のいのちを最高に生きたい。悔いなく生きたい。その、どう生きたらよいか、どう生きたら一番幸せなのかという、 最高の生き方、最後の落ち着き場所を求めて最後に行き着いたところ。それがこの姿になっただけのことで、坊主は職業ではない」と、強く答えをいたしました。

   そうしましたら、運転手さんが、「ああ、坊主は職業じゃないんですか」という、続けて、「私は、宗教なんて大嫌いです。宗教なんて、人間がつくったものでしょ。 人間がつくったものに人間が縛られるなんて、そんなばかなことはない」とおっしゃったので、私はまた、次のようなことを話しました。

   宗教は、人間がつくったものではありません。人間が、見つけ出そうと、出すまいとにかかわらず、行われている天地悠久の真理です。そのことに、気づき、目覚め、 その中で私どものいのちは、このように生かされている、だから、こう生きていこうじゃないかと教えられた、それが宗教というものであって、誰かがつくり出したものではありません。 ないものからつくり出したものならば、どんなにお釈迦さまがご立派でも、あるいは、キリストさまがご立派でも、二千五百年前という時代的制約、あるいは、インドとかイスラエルという地理的制約から、 一歩も出ることはできなかったでしょう。誰かが見つけ出そうと、出すまいとにかかわらず、発見しようと、しないとにかかわらず、行われている天地悠久の真理そのものが、 「宗教」の一番もとになっているものです。

   地球ができて四十六億年といわれていますが、この地球の歴史を一年にたとえてみますと、いのちらしきもの、微生物が誕生したのは、四月か五月なんだそうです。そのいのちを育み続けて、 やがて、人類が誕生するのは、十二月三十一日の夜の十時過ぎだということになります。つまり、人類は地球上において、ついこの頃生まれたばかりの一番の新参者だということです。 そしてこの人類が地球上に生まれて四十五万年、その人類の歴史の中で、文化らしきものを持ち得たのは、ようやくにして一万年だといいます。

   現在、世界をリードしている三大宗教と呼ばれるものも、たとえば仏法は二千五百年、キリスト教は二千年、マホメット教(イスラム教)は千四、五百年の歴史があります。 四十五万年の人類の歴史の中で、わずかに二千五百年、二千年、千四、五百年といいますと、ついこの頃ということです。

   天地悠久の真理を見つけ出して、こうなっているんだよ、とお説きになった教えというものは、ついこの頃のものであり、その教えの一番もとになったのは、発見する、 しないにかかわらず行われてきた天地の姿です。そういう天地の姿を、お釈迦様が見つけたものを「仏法」と呼んでいます。そして、天地の姿は、こうなっている、その中で私どもの命は、 このように生かされている。だからこう生きていこうじゃないかと、人間の言葉を借りて説いてくださいました。そこに教えが生まれ、それが「仏教」という言葉で表わされています。 その教えが人の道でもあり、私どもの毎日の、今ここで生きる実践道でもあります。それを、今度は「仏道」と読みかえられました。

●無相庵のあとがき
   天地悠久ということは、この宇宙全体の百数十億年の永い歴史上で起きている事、狭く短く言えば、地球の四十六億年の歴史上で起きている事だと思うのです。様々な現象が起きていますが、 『地球カレンダー』というサイトを見つけましたので、どんな歴史か、皆さまもちょっと覗いて見て頂きたいと思います。 地球の四十六億年を1年365日に置き換えた場合、私たち人類が、文化を持ち、農耕牧畜が始まったのは実際は1万年前ですが、それを、 1年365日に置き換えた場合12月31日の午後11時58分52秒だというのです。

   人類が如何に地球の新参者かが分かりましたが、1万年前に農耕、牧畜を始めたということは、1万年前に煩悩を持った人類が誕生したということでもあります。そして、この1万年間で、 煩悩を限り無く育て上げてきたことも事実で、それが地域間、国同士では戦争を生み出し、個人の人間関係では不和、不満、不信を育ててしまいました。そうすると、人間は、 この世が、「自分の思うようにならないこと」、「常に変化していくこと」に気づかされたと思うのです。これは、地域的制約も時間的制約もない、この世の真理となり、それを解消する文化を求め出しました。 しかし、今もなお、人類はそれを解消出来ていない状況です。それを解消してくれそうなのが、宗教だと思うのです。そして、それを解決してくれるのは、イスラム教でもなく、 キリスト教でも無いことは、イスラム国のテロや、キリスト教国である欧米諸国の「我が国第一主義」を見れば、明らかだと思うのです。

   「和を以て貴しとなす」を国の憲法に謳った聖徳大師の考え方には仏教思想が大きく影響しております。仏教が戦争を巻き起こしたことはございません。 仏教が人類を救う宗教になる可能性は高いと私は思っています。

なむあみだぶつ

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No.1695  2017.10.02青山俊董尼『天地いっぱいに生かされて』第一巻⑨「一歩一歩を積極的に楽しむ」

●無相庵のはしがき
   今回で、第一巻『今ここをどう生きる』は完了し、次回から、第二巻『宗教とは天地悠久の真理』に移りますが、第一巻の締めくくりに青山俊董尼は、 『私どもの人生は何が待っているかわかりませんが、どんなことも「さいわい」と受けて、転じていこうじゃないか。これが闇から光へという生き方ではないでしようか。毎日毎日の、 一日二十四時間、一年三百六十五日の一刻一刻を大事に、その一刻一刻が心に叶うこともあれば、できれば逃げ出したいこともある。どうにもならないことも、一生のうちにはいくらでも出てくる。 そのいかなることにも、ぐずらず、逃げず、追わず、姿勢を正して、四つに組んでゆこうじゃないか。さらには、そのことのお陰で、こんな人生が展開できたと、積極的に楽しみ、あるいは、 光へと転ずる一つ一つ、そんな生き方の積み重ねができていったらよいと思うのです。』と述べられています。
   これは、青山俊董尼ご自身が、八十有余年の人生で「どうにもならないこと」に幾度か遭遇された上で至られたご心境であると思います。

   私は、仕事を含めての日常生活にあっては今も、一歩一歩を積極的に楽しむことは出来ておりませんが、現実に向き合い、事実から眼を背けず、ぐずらず、逃げず 追わずに生きて行けるのは、青山俊董尼のみならず、多くの先生方を通して、真実の宗教、本当の仏法に出会えたからであると確信しております。これからも、仏法と共に生きていくことは、 間違い無いとも思っております。

●青山俊董尼『天地いっぱいに生かされて』第一巻の⑨「一歩一歩を積極的に楽しむ」

   考えてみたら、両親が元気でいてくれたら、僕なんか今頃、暴走族になっていたか、ろくな人間になっていなかったと思います。もし、両親が金を残していたら、 今の僕はなかったと思います。幼い妹がいなくて、僕一人だったら、寂しくてグレていたと思います。両親がいない、金はない、幼い妹がいる。僕は本気にならざるを得ませんでした。 僕を本気にしてくれ、大人にしてくれたのは、両親が一緒に死んでくれたお陰、金を残してくれなかったお陰、幼い妹をつけてくれたお陰、家主が追い出してくれたお陰、と感謝して、毎日、 感謝の線香を両親の位牌にあげております。何もいうことはありません。でも、妹がよいご縁をいただいて、花嫁衣装を着けたときだけは、泣けました。両親に見せたかったと。今、僕は、 両親に一つだけ頼むことがあるんです。自分の子どもが一人前になるまでは、いのちをくださいって、頼んでいるんです。

   そんな話をしてくれました。私は運転手さんに「どんなすばらしいお方のお話より、すばらしいお話をありがとう」といってタクシーを降りました。

   私どもの人生は何が待っているかわかりませんが、どんなことも「さいわい」と受けて、転じていこうじゃないか。これが闇から光へという生き方ではないでしようか。毎日毎日の、 一日二十四時間、一年三百六十五日の一刻一刻を大事に、その一刻一刻が心に叶うこともあれば、できれば逃げ出したいこともある。どうにもならないことも、一生のうちにはいくらでも出てくる。 そのいかなることにも、ぐずらず、逃げず、追わず、姿勢を正して、四つに組んでゆこうじゃないか。さらには、そのことのお陰で、こんな人生が展開できたと、積極的に楽しみ、あるいは、 光へと転ずる一つ一つ、そんな生き方の積み重ねができていったらよいと思うのです。

●無相庵のあとがき
   第二巻『宗教とは天地悠久の真理』は、「本当の宗教とは」、「切り口の違いで争わぬ」、「切り口しか見えない謙虚さを」、「違いを尊重し合うこと」、 等の各章に分けて語られて居られます。どうか、お付き合い下さい。

なむあみだぶつ

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No.1694  2017.09.28青山俊董尼『天地いっぱいに生かされて』第一巻⑧「一歩一歩を積極的に楽しむ」

●無相庵のはしがき
   青山俊董尼は、よくタクシーをご利用になられて、運転手さんとの会話が法話に出てまいります。これも、青山俊董尼が、目的地に到着するまでの一歩一歩を大切にされているご姿勢が、 運転手さんに伝わるから会話が弾むのでしょう。私などは、目的地に着いた後の用件の目的を首尾良く果たす為の手立てを考えたり、運転手が目的地までの道を違わないか等、そんな余裕は持ち得ません。

   今回の運転手さんのお話は、私には堪えました。私は小学三年の時から母子家庭で育ちましたが、母親の苦労も知らず、大学ではテニスに一生懸命で、留年までした親不孝者です。 お金の苦労をしなかったばっかりに、年老いた今、お金に苦労しています。誰の所為でもなく、全て、自分の生き方がもたらした結果です。母親に申し訳無い、若くして亡くなった父親の期待に沿えず、 申し訳無いと思いつつ、何とか、正しい生き方に戻らねばならないと考え直している最中です。そこに、この運転手さんのお話です。
   「人間、そういうところにおかれたらやるものですね」。私もやらねばなりません。

●青山俊董尼『天地いっぱいに生かされて』第一巻の⑧「一歩一歩を積極的に楽しむ」

    これもまた、思い出すお話です。

   京都駅でタクシーに乗ったとたんに、運転手さんから「ご出家さんですね。お話させていただいてもよろしゅうございますか」と話しかけられ、運転手さんはこんな話をされました。
   「私は、高校二年のときに、両親を一緒に亡くしました。」というのです。町会でフグを食べに行き、その毒にあたって、一晩で両親が亡くなってしまわれた。借金こそなかったけれど、 一銭の貯えもなく、ずっと年の離れた五歳の妹さんが1人いた。高校三生生と五歳では、家賃が取り立てられないと家主から追い出され、妹を連れて最小限の荷物を持って、安い六畳の一部屋を借りた。 とにかく、両親にかわって妹を育てなければならないと、夢中になって働いたそうです。
   その方のお話は続きます。

    さいわい、高校三年生の三学期で、就職は決まっていたから、朝は新聞配達、昼間は勤め、夜はアルバイトと一生懸命働いて、二十三、四歳のときには、安いアパートを買うほどのお金をつくりました。 しかし、その間、僕は働くことしか考えませんでしたから、洗濯も掃除も食事の準備も、すべて五歳の妹がしたことになります。NHKの番組で「おしん」というのがありましたが、 僕の妹だって、やりました。人間、そういうところにおかれたらやるものですね。妹に勉強机の一つも買ってやりたかったけど、六畳一部屋に食卓と勉強机があったのでは寝るところがなくなるので、 かわいそうだけど、食卓を勉強机に兼ねてもらった。狭い家に育ったので、散らかすと寝るところがなくなるため、妹は整理の名人になって、今は大きな家にご縁をいただいておりますが、 きれいに整頓されています。

●無相庵のあとがき
   この運転手さんのお話は未だ続きますが、青山俊董尼が感想として、『私は運転手さんに「どんなすばらしい方のお話より、 すばらしいお話をありがとう」といってタクシー降りました。』と述べられています。何回かお聞きしたことでもありますが、忘れられない運転手さんのお話です。

なむあみだぶつ

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No.1693  2017.09.25青山俊董尼『天地いっぱいに生かされて』第一巻⑦「一歩一歩を積極的に楽しむ」

 

●無相庵のはしがき
   私たちが苦悩を抱えるのは、大部分の人がネガティブ思考だからではないかと私は考えています。私もその仲間です、と言うか、代表選手だと思います。 中には、生まれ持ったポジティブ思考で生きてゆける人も居るかも知れません。あのプロ野球界のスーパースターの長嶋茂雄さんがそうかも知れません。選手時代のプレーは勿論、 ポジティブ思考の為せるプレーだったと思いますが、それ以上に、脳梗塞からでしょうか、右半身を思うように動かせない体に成られながら、懸命にリハビリをされ、 しかもその様子をマスコミに公開される等ということは、まさに、ポジティブ思考の方だとしか思えません。

   私は間違い無くネガティブ思考の持ち主ですが、しかし、片方で誇りも高いです。状況の悪さに負けたく無い気持ちが強いと思っています。ただ、この背景には、 縁に依って生きている自分だという仏法の教えがあるのではないかとも思っています。しかし、仏法の中でしか生きて来なかった私ですから、確かにそうだと申せないのが残念でもあります。

●青山俊董尼『天地いっぱいに生かされて』第一巻の⑦「一歩一歩を積極的に楽しむ」

   私どもは、なかなか一景には競えません。愛のときは愛しか見えない、憎しみに変ったらまた憎しみしか見えない、というように、老いの日は老いしか見えない、 若き日は若さを謳歌して老いる日を忘れる、というように。そうではなくて、全体の景色を見渡しながら、どういう状態になろうとも、同じ姿勢でそれを受けとめてゆこうじゃないか、と。 あるいは、積極的に楽しんでゆこうじゃないか、景色として楽しんでゆこうじゃないか、と。病むからいいんだ、失敗だからよかったんだ、と景色として楽しんでゆこうじゃないか、という積極的な姿。 これが道元さまのおっしゃる「四運を一景に競う」という言葉になってくるんであろうかと思うんです。

   前後裁断して今ここに全力投球して、積極的に立ち向かってゆこう。それがたとえ自分の思いに叶うことであろうとなかろうと、ぐずらず、追わず、逃げずに、積極的に取り組んで、 楽しんでゆこう。そういう生き方が、言葉を換えれば、最初に申し上げた四種類の人の、闇から光へという生き方になるのではないでしょうか。 一歩一歩を闇から光へ転じてゆこうという姿勢が大切だと思います。

●無相庵のあとがき
   私は、9月21日(木曜日)に東京の或る医科大学を訪ね、現在開発中のテーマのパートナー企業を紹介するという教授と面談しました。朝11時前に家を出て、 夜の11時過ぎに家に帰り着きました。3年振りの東京、しかも初めての大学病院です。教授室まで辿り着くのに迷いに迷って面談した挙げ句、何の手違いか、紹介は出来ないと、 上から目線の有名教授の対応に、不快感と無念さに打ちひしがれて、東京駅から新神戸駅行きののぞみ号に乗りました。
   新幹線の中で、今日の青山俊董尼の法話の一節、「一歩一歩を闇から光へ転じてゆこうという姿勢が大切だと思います。」を思い出しながら、頭はポジティブ思考になっており、 次の一手を思い巡らせていました。その時、ああ、仏法はネガティブ思考をポジティブ思考にかえてくれるんだ、と思いました。しかし、

   私の場合、仕事に於いても、私生活に於いても、先々に不安を感じることがあった場合、不安が的中して現実になることを予測して、不安の中で次の一手を打ちます。次の一手は、必ず、 新しい縁を求めて、これまでとは異なる人脈(人、企業、組織体)にアプローチ致します。 これは、新しい縁を求めてという積極性ではなく、ただ、不安を取り除く為に無意識にやっている事かも知れませんが、マイナス思考の己(おのれ)に勝とうとする努力と言えるかも知れません。 〝無相庵まえがき〟に、長嶋茂雄さんをポシディブ思考の典型ではないか申しましたが、マイナス思考の己に打ち勝った努力の人というべきではないかと考え直しました。

なむあみだぶつ

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No.1692  2017.09.21青山俊董尼『天地いっぱいに生かされて』第一巻の⑥「一歩一歩を積極的に楽しむ」

●無相庵のはしがき
   「一日一日を積極的に楽しめ」と言われましても、なかなか出来そうに有りませんが、青山俊董尼がここで言われている「楽しむ」とは、私たちがレクレーションとかで、 「楽しいな!楽しいな!」という場合の楽しさでは無さそうです。「味わう」といった表現が合うと思います。「四運(しうん)を一景(いっけい)に競う」という道元禅師のお言葉が引用されていますが、 一景とは、「同じ姿勢で」という意味のようです。春夏秋冬の四季それぞれに趣があるという事で説明されていますが、納得出来ます。

●青山俊董尼『天地いっぱいに生かされて』第一巻の⑥「一歩一歩を積極的に楽しむ」

   道元さまの言葉に「四運を一景に競う」という言葉があります。四運は、「四季の運び」「春夏秋冬の運び」といってもいいかもしれません。 四季の気候の移り変わっていく姿。この言葉は道元さまの「典座教訓(てんぞきょうくん)」の中にある言葉です。
   「典座教訓」は台所をするものの心得です。料理の本ではありません。「人生をどう料理するか」という、お台所を通して、自分が今ここをどう生きるかということ。 台所の時は台所に取り組む姿勢。人生の旅路の中には、台所を当番するというひとときもあります。そのときは、どういう姿勢で台所に取り組むか、料理に取り組むかということです。

   「典座」という言葉は聞き慣れないかもしれませんけれども、禅門ではお台所のことを「典座寮」といいましたり、お台所をする人を「典座」というお役の名前で呼んだりします。 その、お料理をするものの心得と考えたらよろしゅございましょうけど、単なる料理の心得ではなくて、お料理を通して「わが人生をどう生きるか」という心得です。料理をするときの心構えを通して、 人生の生き方をお説きくださっている。これが道元さまですが、その典座教訓の終りのほうに「四運を一景に競う」という言葉が出てきます

   季節でいったら、春夏秋冬。人生でいったら生老病死。あるいは、愛情とか、損得とか、凡夫の私たちには追ったり、逃げたりしたい、いろいろなことが、出てきます。 心の叶うことなら追いたい、叶わんことなら逃げたい、そういういろいろなことがあるわけです。季節にたとえたら、これから芽吹いてゆく、開かれてゆく春のようなうきうきしたようなときもありましょう。 盛んな、活動的な夏のような時期もありましょう。だんだんとうらぶれてゆく秋の日も、寒風吹き荒(すさ)ぶ冬のようなときも、一生のうちにはあるわけです。

   そういう人生を春夏秋冬の季節の姿にたとえることもできましょう。雪の中、寒風の中にじっと耐えて、春をまたなければならないようなときもありましょう。 そういうさまざまなる人生の変転。それを、追ったり、逃げたりせずに、一つの景色として受け止めていきなされ。「一景に競う」というのはそういうことですね。

●無相庵のあとがき
   私が現在取り組んでいる研究開発に於きましても、思わぬ企業との協力関係が出来そうになって喜ぶこともありますが、協力関係を期待していた企業が期待外れとなる場合もあります。 しかしどちらも、また縁に依っては次の新しい縁が生まれるものです。縁を噛みしめると申しますか、縁を楽しむと申しますか、そんな姿勢でこれからも一日一日、目標に向かって進んで参ります。

なむあみだぶつ

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No.1691  2017.09.18青山俊董尼『天地いっぱいに生かされて』第一巻の⑤「一歩一歩を積極的に楽しむ」

●無相庵のはしがき
   青山俊董尼は、「旅に出た時、目的地だけをせわしなく求めないで、途中の一歩一歩を楽しもう、私たちの人生という旅も、同じ事が言えるのではないか」と仰っています。 私たちの人生という旅の目的は、年齢に依って、変ってゆくものだと、私は思います。若い時は短期的な目的であって、勉強して、いい大学に入って、いい会社に入るとか、スポーツで一流選手になりたいとか、 私の場合は、そうでした。でも、人生の旅の終りもそろそろ見え出した今、私の場合は、私を産んでくれた父母とか、祖父に褒められると申しますか、意味ある人生の旅だったと思って欲しいというような、 目的を持っているような気がしております。そんな目的となりますと、その大目的を達成するための、小さな目的と申しますか、下位の目的が一日一日の目的になっているように思います。ですから、 「一日一日を大事に、精一杯の努力をして、積極的に楽しむことだ」と、私は自分に言い聞かせているところです。

●青山俊董尼『天地いっぱいに生かされて』第一巻の⑤「一歩一歩を積極的に楽しむ」

   かたつむり どこで死んでも 家のなか

   という句があります。どこもかも、仏さまの御手のまっただなか。目的だけをせわしなく求めないということ。上高地を歩きながら、「ああ、 人生の生き方も同じだなあ」と思いましたときに若い時に読んだヘルマン・ヘッセを思い出しました。

   ヘルマン・ヘッセの詩に「旅の秘術」というのがあったんです。秘術とは、旅を楽しんでゆく、旅を非常に味わいのあるものにする心得といったらいいのでしょうか。 目的だけをせわしく求める日には、星の輝きも、森のきらめきも、何もかも見失ってしまう、というようないい方をしていたことを覚えております。
   旅の秘術は、途中を楽しむことだ、一歩一歩を楽しんでいきなされ、という事なんですね。目的地だけをせわしなく求める目には、途中のきらめきも何も目に入ってこない、 それではいけない、途上を楽しみなされ。それが旅の秘術なんだというような詩がヘルマン・ヘッセにあったことを思い出しながら、明神池への散歩を楽しんだことでございます。 人生という旅の景色もいろいろあります。
   それをすべて景色として楽しみながら、一つ一つを大事に味わってゆこうじゃないかということですね。

●無相庵のあとがき
   日常生活には、目的を達成する上で好ましいこともあったり、気に入らないこともあります。それが、途中の景色だと考えて、一日一日、目的地を忘れず、歩み続けることだと、 今私は思っていますが、人間はそんな簡単なものではなく、心配の先取りをしてしまうものです。しかしながら、私という人間一人が心配を先取りして打つ対応策では、 少なくとも明治元年以降の150年前からの縁に抗して新たな縁を作り出すことは、かなり難しいことだと思います。しかし私は、それを認識した上で、 今私が出来ることを一日一日やり続けたいと思っています。
   大相撲の力士が、「一日一番」という言葉を使って、「余計な事を考えずに、一番一番に集中したい」と、自らにも言い聞かせている取り組み後のインタービューを見ます。 その言葉を私の日常生活に置き換えますと、「一日一日」ということになるのだと思います。

なむあみだぶつ  

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