No.1710  2017.11.27青山俊董尼法話集第三巻『釈尊の見つけ出された真理―縁起』①「死を思えばこそ生が輝く」

●無相庵のはしがき
   明日、私は大腸癌の内視鏡検査を受けます。昨年の検査で小さなポリープが見付かり、それが1年経って大きくなっていないか、癌化するおそれはないかを調べて貰います。 昨日から繊維の多い食材を制限したり、検査1日前の今日は、素うどんかお粥だけという制限があります。明日の午前中に、2リットルの下剤を飲み、大腸の中を空っぽにし、午後からの検査を受けます。
   「もし、癌の告知をされたら・・・」と、あまり気持ちのよいものではありません。「死を思えばこそ生が輝く」というような、冷静な気持ちで居られない私と向き合っています。  

●青山俊董尼法話集第三巻『釈尊の見つけ出された真理―縁起』①「死を思えばこそ生が輝く」

   毎年暮れに、お歳暮などで豪華な洋蘭をいただきますが、この洋蘭は三ヶ月以上咲き続けます。
   いく鉢かを部屋に置きますと、雲水たちが私の部屋に入ってきて、初めの頃は「まぁ、きれい」といいます。そのうち何もいわなくなりまして、 三ヶ月も経つと「いつまで咲いてんでしょ」などとひどいことをいいだす人もいます。そういう私なども「造花じゃあるまいし」というような、もったいないことを頭に浮かべたりします。

   そんなとき、千利休(せんのりきゅう;1522年~1591年、戦国時代から安土桃山時代にかけての商人、茶人)さんが、「散るからいいんだ」とおっしゃった逸話を思い出します。 利休さんは、出陣を前にする武将たちを迎えての茶事の席で、床の間に、はらはらと散る桜を、武将たちを前にしてあえて生けるんです。枝を動かすたびに、桜がはらはらと散ります。 これから戦地に赴く武将たちにとって、散る桜を生けるというのはやり切れません。思わず「散りて候」というのです。そのとき利休さんは「散ればこそ、散ればこそ」、そう答えたといいます。

       散ればこそいとど桜はめでたけれ
、      浮き世に何か久しかるべき

   という古い歌があります。それを背景にしたお言葉でしょう。散るからいいのだといっているのです。潔く散る桜を愛する日本人の心も、そのような背景にあるのではないでしょうか。

   東井義雄先生の詩だったと思いますが、「落せば壊れる茶碗だから、茶碗のいのちが愛しい」というような詩があります。壊れやすい茶碗に、もろい自分のいのちを重ねて、 壊れやすいいのちだからこそ、このいのちが愛しいのだと受け止めるのです。落しても、ひん曲がった残骸を残し続けなければならないプラスチックの皿や茶碗でなくてよかったという受け止め方。 無常だからよいのだ、壊れるからよいのだという、積極的に無常を喜んでいこうという姿ですね。

●無相庵のあとがき
   無常だから、この世に生まれ出た私なのです。このまま死なずに生き続けたら、無常だから、心身ともに変化して行き、衰え続けます。それも、やはり嫌だなと思います。 「癌にはかかりたくない」けれども、癌を告知されたら、逃げ隠れは出来ません。告知を受け入れるしか有りませんので、「縁」に任せるしか無いと、開き直って検査を受けようと思います。

   そして、いずれ消えゆく命だからこそ、残り少ない人生の最後に、世の中の役に立つ、世界初の仕事に挑戦し、輝きを放ちたいと思います。

なむあみだぶつ

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No.1709  2017.11.23青山俊董尼法話集第三巻『釈尊の見つけ出された真理―縁起④「すべてのものは縁によって起こる」

●無相庵のはしがき
   私たちは、自分の力で人生を切り開かねばならないと思っています。振り返ってみれば、誰しも、自分の思い通りにいったことが殆ど無いにも関わらず、 目前の目標(希望や問題・課題)が生まれた時には、自分が何とかしなければならないと思い、あれやこれや考え、時にはマイナス思考になって、 不安で落ち着かない日々を過ごすことになっているのではないかと、自分を振り返って私は思ったりしています。しかしそれは、釈尊が見つけた『縁起の道理』が自分のものになっていないからだ、 と私は反省しています。

   『縁起の道理』が身に付けば、自分の努力と、自分がコントロール出来ない縁が整うことによって、初めて、自分の願いが叶うし、たとえ願いが叶わなくとも、その叶わなかった現実自体が、 因や縁になって、また、別の展開が生まれることもあるのだという、精神的余裕も持てるようになり、八方塞がりにはならないと思うのです。「すべてのものは縁によって起こる」という『縁起の道理』は、 そういう効用もあるとも思っております。
   その『縁』に付いて、例え話として、前回は、信楽焼の釜の温度によって、仕上がりが全く異なると言うことを説かれ、今回は、染め物の工程の条件に依って、 仕上がりの色が異なることで説明されています。  

●青山俊董尼法話集第三巻『釈尊の見つけ出された真理―縁起』④「すべてのものは縁によって起こる」

   染め物には、化学染料で染める方法と、山野の草木の色を頂戴して染める草木染めというのがあります。私の弟子たちもこの草木染めをして、お袈裟などを縫ってくれます。 帰りますと草木染めをした作品が並んでいて、その説明を聞くと深い興味を覚えます。

   たとえば、すすき、桜、あるいは桃、蘇芳(すおう;マメ科ジャケツイバラ亜科の小高木。インド、マレー諸島原産)と、染める材料があります。また、 媒染(ばいせん)というのがあって、繊維を媒染剤の液体に浸して、媒染を染み込ませることによって染料と結合させるという染め方なのです。この媒染を換えると色が変わります。 もとの材料は一つでも媒染を換えると、結果として違った色になってきます。たとえば、蘇芳という木があります。この蘇芳を材料として染めるとき、灰を溶かして媒染として使うと、 蘇芳自身がもっている赤の色を出します。しかし、この媒染を換えて、鉄を溶かした媒染にすると紫色に変わります。たいへん興味深いですね。

   注)媒染とは、染色の過程において、染料を繊維に定着させる工程のこと。染料に漬ける前に繊維を処理する先媒染と、染料に漬けてから処理する後媒染、 染色と同時に媒染処理する同時媒染の方法がある。媒染を要する染料を媒染染料、媒染に使う薬品を媒染剤という。

   因は一つでも、「縁」を変えると、結果が変わります。出会いは人生の宝といいますが、私どもの人生そのものについても、よき師、 よき教えという縁に出会うことで変わってゆくと思うのです。

   もう一つ、「因」と「果」、「因・縁・果」と変わっていくことから学ぶことがあります。 

   仏教の教えで、仏教の深層心理学などといわれている「唯識(ゆいしき)」というものがありますが、千年以上も前に成立したものです。 この唯識学の大家である太田久紀(おおたきゅうき)先生は、こんなことをおっしゃいました。
   「仏教は因果論というけれど、われわれが発言権をもっているのは『因』のみ、『果』に発言権はない」。結果がどう出るかわからないというのですね。「結果を問わず、ただ、 今ここにおいて限りなく、よき師の導きのもとに、よき因を積みつづけるのみ」。
   結果を問わないことを「無所得行(むしょとくぎょう)」といいます。「所得」というのは、自分のものになるというような、何かを欲しがるというような、結果を欲しがる姿です。 そういう結果を問わない、欲しがらない、これが「無所得行」です。これはすばらしい人生のあり方でございます。これがただやるということなんですよね。そのとき、よき師のもと、よき教えのもと、 これが「縁」ですよね。

   こういう無常という教えのもと、今ここを、どう生きるかによって、変えていくことができる。変わることができるんだ、変えられると積極的に受け止めて、 無常だからよい、と展開できたらすばらしいことです。

●無相庵のあとがき
   仏教の深層心理学と言われる唯識学の大家の「仏教は因果論というけれど、われわれが発言権をもっているのは『因』のみ、『果』に発言権はない」。そして、 「結果を問わず、ただ、今ここにおいて限りなく、よき師の導きのもとに、よき因を積みつづけるのみ」というアドバイスを頂きましたが、結果を問わず、今やるべき事を懸命に為すということは、 なかなか出来るものでは有りません。私は、スポーツテレビ観戦が好きですし、自分も40歳半ばまで、兵庫県の選手権を争うテニスプレーヤーをやっていましたが、結果を考えると、 良い結果には成りませんでした。今、大相撲は九州場所の最中ですが、大一番に弱い関取がいます。これは絶対に勝たなければならないという一発勝負の場面は、プロ野球の投手にも打者にもあります。 そして、勝負に強い選手と弱い選手がいます。「後先の事を考えず、向かい合っている今の勝負に集中して、自分の弱い心と闘わず、相手と闘う」。結果から、 また学べばよいという『縁起の道理』を身につければ、実力もアップしてゆくのではないかと思っています。

なむあみだぶつ  

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No.1708  2017.11.20青山俊董尼法話集第三巻『釈尊の見つけ出された真理―縁起』③「すべてのものは縁によって起こる」

●無相庵のはしがき
   「無常」という言葉は、皆さんもご承知のように、平家物語の冒頭の「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘(かね)の声、諸行無常(しょぎょうむじょう)の響(ひび)きあり。」という、 平家の栄枯盛衰を詠った言葉から、「悲しさ、儚さ」というイメージを抱かれているものと思います。しかし、無常というのは、「常に変わる」ということを意味するものであり、 幸せが不幸に変わることもあるけれど、不幸が幸せに変わることもあるという意味なのであります。

   そして、仏教が説きますのは、原因が有って、結果が生じるという因果論ではなくて、印と果の間に,「縁」があるからこそ、人間には、予測出来ないということです。 その説明を青山俊董尼がご説明されています。とても、大切な仏教の教えです。  

●青山俊董尼法話集第三巻『釈尊の見つけ出された真理―縁起』③「すべてのものは縁によって起こる」

   もう一つ、言葉を変えれば、生きている証です。無常だから、子どもも大きくなる。無常だから、年もとる。それを自分たちが勝手に喜んだり悲しんだりしているわけです。 無常だから病気にもなれば、病気が治りもする。無常だから、一生懸命努力すれば成績も上がるし、怠ければ落っこちもする。無常だから、愛が憎しみにも変わる、無常だから、 憎しみを愛に変えることもできる。

   結婚早々の頃は、「愛は永遠なれ」などといいますが、永遠であるはずがありません。変わっていくのは当たり前です。それが無常ということなのです。凡夫は、愛するときは、 愛しか見えない、憎しみに変わったときは憎しみしか見えないものです。でも、そうじゃないんですね。愛は深いほど一つ間違えば憎しみも深くなります。一つの裏表です。憎しみの最中にあって、 これほどに憎らしいのは、これほど愛していた証拠なんだなあと、両方が見えるといいですね。しかし、私どもはなかなか一方しか見えません。

   無常でないということはどういうことか、言葉を換えていえば、時が止まったということです。時が動かなかったらたいへんですね。子どもは子どものまま大きくなれませんし、 病気は病気のままで治りません。不幸になったら不幸のままになってしまいます。無常だから、子どもも大きくなるし、病気も治る。無常だから、不幸を幸せに転じていくこともできる、 これは無常だからですね。

    仏教ではよく因果論といいますが、「因」と「果」、原因と結果だけではなく、その間に「縁」が加わると、結果が変わります。原因は一つでも、それに加わる「縁」が違ってくると、 おのずから結果が変わってくるのです。だから、「縁」を大事にしようということです。

   たとえば、焼き物で信楽というのがありますが、この信楽の作家をお訪ねしたことがあります。登り窯に作品がつめられて、これを信楽の場合は、十昼夜焚続けるのだそうです。 一日十二時間単位で二人が交替して、火の色を見ながら、千把以上の薪を投げ込み続けます。この千把もの薪を、普通の温度で焚いたら、灰は途方もなくたくさん出ると思うのですが、 それがたった一握りの灰しか出ないというのです。お聞きしましたら、この灰は千百度を越えると液状になって、作品に付着して、釉薬(うわぐすり)となって作品の美しい景色をつくってくれるのだそうです。 このように液状に変化するというのは、千百度の温度を超えることによって変わる、つまり、この「縁」によってかわるのです。それ以下の温度では灰のままというのですから、面白いですね。

●無相庵のあとがき
   「縁」というのは、「環境」とか「諸条件」ということであり、それを人間は全て知ることも出来ませんし、コントロールも出来ません。ですから、 例え自分としては最善の努力を致しましても、自分の希望する結果が得られないということです。ですから、もし幸いにも希望通りになりました時は、「お陰様」、つまり、 陰に隠れていた「縁」のお陰様だと申します。私たちは無意識に「お陰様」という言葉を使いますが、本当は、これは仏教の大切な教えなのですね。

なむあみだぶつ

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No.1707  2017.11.16青山俊董尼法話集第三巻『釈尊の見つけ出された真理―縁起』②「すべてのものは縁によって起こる」

●無相庵のはしがき
   「縁起」を「時間的縁起」と「空間的縁起」に分けて、「時間的縁起」を「無常」と言い換え、「空間的縁起」を「無我」と言い換えられての青山俊董尼のご説明には感服させられますが、 「無常」ということは、人生を長く過ごして来た者には、実感として納得出来ます。瞬間・瞬間では変化を感じられませんが、1年前の自分と今の自分の置かれている状況には、 かなりの変化があることに気付くことが出来ますし、ましてや、60年前の自分(小学6年生頃)と今の自分となりますと想像出来ない変化ですので、「無常」を実感致します。

   しかし、「無我」ということは、「我というものに、これという実体が無い」ということだと説明された記憶がありますが、「無常」に比べて、ピンと来ません。皆さんは如何でしようか  

●青山俊董尼法話集第三巻『釈尊の見つけ出された真理―縁起』②「すべてのものは縁によって起こる」

   一般的に私どもは「縁起がわるい」などと、あまりよいほうに使っておりませんが、非常に深い意味で、一切のものの存在のありよう、かかわりようというものを、 「縁起」の一言で表せると思うのです。
   この縁起には「時間的縁起」と「空間的縁起」の二本の柱を立てることが出来ます。「時間的縁起」を耳慣れた言葉に直すならば「無常」です。常ではない、 「無常」という一言で表現できましょう。一方、「空間的縁起」は「無常」に対して「無我」、我がないという言葉で表現できると思うのです。

   私ども日本人は、この「無常」という言葉を、とかく悲観的な角度からしか受け止めていないような気がします。「無常」というのは本来、悲しいことではありません。 「とどまらない」ということ、「働き」ということ、「生きている証(あかし)」でもあります。

   こんなことがありました。ある会合でお集まりの方がたの一人が私のところへやってきて「靑山先生でしょうか」とおっしゃるので、「はい」といいましたら、 「先ほどから靑山先生でないのかなあと、ためつすがめつ眺めていたのですが、あまりに年をとられたので、人違いではいけないと思って声をかけられませんでした。しばらくお目にかからないうちに、 ずいぶんふけられましたね」とおっしゃいました。あまりいい気分ではありませんね。「お変わりなくて」といってもらいたい、「いつもお若くて」といってもらいたい、それが人情でございます。

   人は、「しばらくお目にかからないうちに、大きくなられましたね」というのは喜ぶのですが、「年をとられましたね」「ふけられましたね」というのはうれしくないというように、 上り坂の無常は喜ぶけれど、下り坂の無常はうれしくない、というところがあるわけです。
   しかしながら,無常というのは上り坂も下り坂もない、とどまらないということ、常に変りづめに変わっているのだということです。

●無相庵のあとがき
   「無我」とは、人に関して考えれば、「私一人では存在し得ない」と言えるかも知れません。「空気があっての自分、地球があっての自分、太陽があっての自分、多くの人々があっての自分、 妻があっての自分」。水に関して考えれば、海の水、雲、霧、雨、川の水と、環境が変われば、私たちには別物に見えます。しかし、何れも、分子として考えれば、H2Oです。

   日常生活に於いては、「無常」である事を忘れ、「無我」であることも忘れて、四苦八苦しているのが私の実体です。

なむあみだぶつ

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No.1706  2017.11.13青山俊董尼法話集第三巻『釈尊の見つけ出された真理―縁起』①「すべてのものは縁によって起こる」

●無相庵のはしがき
   前回のコラムで私は「縁」に付いて私の経験を例え話として説明致しました。皆さんにはそれこそ「縁」の薄い例え話になってしまい、分かり難かったものと思っています。 今回の青山俊董尼の法話は,偶々「縁」に付いての、詳細且つ分かり易いものです。私は第三巻が「縁」を説かれていることを覚えておりませんでしたので、この不思議な「縁」に驚いております。

   お釈迦さまの教えは、「縁によって起きる」に尽きると青山俊董尼も言っておられますが、無相庵カレンダーのお言葉、『自然法爾』を始めとして、殆どのお言葉は、 「縁」を説いているものではないかと、私は思うようになりました。  

●青山俊董尼法話集第三巻『釈尊の見つけ出された真理―縁起』①「すべてのものは縁によって起こる」

   「ご縁をありがたく思います」、「ご縁を大切に」あるいは「縁は異なもの味なもの」という諺もありますように、私どもは「縁」という言葉をよく使います。
   お釈迦さまの最初のお弟子さんを五人の比丘という意味で五比丘といいますが、その一人にアッサジという方がおりまして、あるとき、托鉢をしていました。その托鉢姿を、非常に感動して、 遠くから見つめていた一人に、のちにお釈迦さまの智慧第一といわれた舎利弗がいました。その頃は、別の宗教の統率者でしたが、一つの宗教の統率者的存在でありながらも自分の信仰に納得できず、 仲間である目連(もくれん)と、自分たちよりもすばらしい教えを説く人に出会ったら、ともどもに手をたずさえていこうではないかと語り合っていました。この目連も、のちに、 お釈迦さまのお弟子さんの中で非常に力のある一人になった方です。

   舎利弗は、若いアッサジの托鉢姿を見て非常に感動したのです。さすがに智慧第一といわれた舎利弗尊者ですね。アッサジが立派というのではなく、 アッサジのついているお師匠さまが立派だと、こう感じたのです。托鉢中に声をかけてはいけないからそっと邪魔をしないように遠くからついていき、托鉢が終わったところで初めて声をかけました。 「あなたのお師匠さまはどなたで、どういうことをお説きになるお方なのですか」と聞くわけなんです。

   アッサジは、「私の師匠は、仏陀釈迦牟尼です。師匠について日の浅い私がお伝えできるのはたった一言『すべてのものは縁によって起こる』。 私の師はそのようにお説き下さいます」と答えました。まだ、お釈迦さまについて日の浅いアッサジが、たった一言で伝えることができた言葉は、この「縁によって起こる」だったわけです。 しかし、さすがに智慧第一といわれた舎利弗尊者ですから、この一言を聞いて、お釈迦さまの教えのすばらしさに眼が開くわけなんですね。

   早速、舎利弗は、目連と語り合って大勢の弟子たちとともにお釈迦さまの弟子になり、初期仏教教団を形成しました。ここからお釈迦さまの教団が大きくなっていくわけですが、 きっかけになったのは「縁によって起こる」というこの一言なんですね。お釈迦さまの教えをたった一言で表わせといわれると、この「縁によって起こる」、つまり「縁起」なのかも知れません。  

●無相庵のあとがき
   一日の『一期一会』も「縁」の尊さを詠ったものだと思います。凡夫の私には、今出遇っている、不運と思うしかない出来事も、飛び上がりたいと思う喜びも、「縁」に依って、 つまり、「無常」に依って、いずれは「不幸」が「幸せ」に、「幸せ」が「不幸」に変わっていくこともあるのだという、この世の現実・事実を冷静に受け止める心も大事なのかなと思うことです。

なむあみだぶつ  

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No.1705  2017.11.09お釈迦様の教え、『すべての物事は、縁に依って起きる』

●無相庵のはしがき
   今年の9月以降、私の身の回りに、3件、どうにも解決が出来そうにもない問題が起こりました。そして現時点でも続いております。 2件が仕事上のこと、1件が私的な問題です。この三つの難題が、常に頭から離れず、重苦しい気持ちが続いてきましたが、 やはり、心の落ち着きどころは、お釈迦様の教えである『縁起の道理』でしたので、一般の方々にも少しは分かり易い表現の、 『すべての物事は、縁に依って起きる』という表題に致しました。

●『すべての物事は、縁に依って起きる』

   私は昨年の9月から人工臓器の開発に取り組んでいますが、共同して開発を進めて来た企業と方向性が合わずに、3ヶ月前から 協力関係を取り止めました。しかし人工臓器は、臓器を損傷された人々にとって、命を守るために、無くてはならないものです。その人工臓器を造り得る基礎技術を弊社に期待している医師もいます。 技術者として、また、仏法者として横目で見ている訳には参りませんが、開発には莫大な開発資金が必要でありまして、何とかして資金提供をしてくる関係者は居ないものかと、 現在、苦心しているところです。

   そもそもこの開発話は、弊社の技術を知っている親族の一人からの、一本のメールでした。十数年前に、雑談の中で、私がやっている仕事の話をしたことがキッカケ(要因)となって、 現在の状況がございます。しかし、そのキッカケ(要因)も、或る企業からの要請で開発した技術があったからこそなのです。そして、その技術も、私が25年前に勤務していた企業の中央研究所に所属し、 シャチハタタイプの印鑑を開発していたからであります。そのように、過去を遡り始めますと、限りなく縁は縁を呼び、無数の縁に依って今日に至っていることが実感出来ます。 そして、多くの人たちとの縁があったからだとも思います。

●無相庵のあとがき
   私的な問題も全く同じことでありますし、その他、どんな問題も、多くの人々も含めて、多くの要因という縁に依って生じるものです。 往々にして、他人の所為にしがちですが、他人の考えや姿勢を変えることは私には出来ません。相手の言動も縁に依ってのものであります。他人の所為にせず、 自分が出来る対策を次々とやっていくしか無いと、改めて考えているところです。 「やれることをやって、後は縁に任せる」、縁と仲良く人生を渡ると云う知恵をお釈迦様は示されたと思うのです。

なむあみだぶつ

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No.1704  2017.11.06青山俊董尼法話集第二巻『宗教とは天地悠久の真理』の③「違いを尊重し合うこと」

●無相庵のはしがき
   今回の③「違いを尊重し合うこと」は、途中で区切ってしまいますと、青山俊董尼の真意をお伝え出来ないのではないかと思いましたので、少し長文になってしまいました。結論は、 生まれた国、地域が変われば、宗教も異なりますし、体の中を流れる『血』が先祖から引き継いだ何百年という歴史が異なることで、切り口の違いに現れる。その切り口の違いを、学び合い、尊重し合うことで、 お互いに精神を高め合うことが出来るのではないかということだと私は思いました。

●青山俊董尼法話集第二巻『宗教とは天地悠久の真理』の③「違いを尊重し合うこと」

   私はそのおばあちゃんの姿を見ながら、自分の生まれ育った国の姿というものが、こんなに心深く染み透っているものかと、この一つの切り口の姿、 これを大事にせねばならないと思いました。

   同じようなことが、もう一つございました。それは、「プレム・ダン」といいましたが、もう一度立ち直ることができる人たちが収容されている場所でした。そこへまいりましたら、 やはりこちらも、中国の方でしたが、六十代ぐらいの男の方が、向こうから一生懸命、私を手招きして呼ぶんです。私の手をとっておいおいと泣きながら、「会えてうれしい」と、いうんです。 「何をおっしゃって泣いているのか」と、通訳の方を通して聞きましたら、「あなたと私は同じ黄色人種だ。日本と中国は隣同士だ」というんです。

   考えてみましたら、インド人というのはアーリア系ですから、みんなヨーロッパ系の彫りの深い顔をしていらっしゃる。その中で、東洋の中国人、日本人は平べったい、 凹凸の少ない顔をしています。同じ黄色人種だというそれだけで、大の男の方が声をあげて泣くほどうれしいんです。こういう心情は、理屈ではありません。こういう姿も、おのずからにして、自然が育み、 育てていく違いというものといえるでしょう。この違い、切り口を大事にしていかねばならないと、しみじみ思います。

   このことで、もう一つ思い出すことがあります。二十年も前になりましょうか。キリスト教の二千年の歴史の中でも、大きなできごとですが、 諸宗教と対話しようということが打ち出されたんです。それまで堅く閉ざされていたキリスト教が門を大きく開いて、あらゆる宗教と対話しようじゃないかというのです。「東西霊性交流」といいまして、 経済や文化という枠ではなくて、深い宗教的立場において交流をしようじゃないか、というものです。一ヶ月単位で向こうの修道院の人たちとともに生活をしながら、互いに学び合っていこうじゃないか、 あるいは向こうから、神父さまやシスターを日本の禅の道場に迎えて学び合おう、そういうような交流対話が行われてきました。

   私も何度か、禅の代表としてヨーロッパを訪ねる機会がありまして、フランスの修道院、ベルギーの修道院などでシスターたちと生活をともにしたり、あるいは、最後はローマに出まして、 ローマ法王や代表的な枢機卿(すうききょう;カトリック教会で、ローマ法王に次ぐ高位聖職者)といった多くの方がたとセミナーをするというたいへんさいわいな機会を得ました。また、 日本へやってこられたシスターたち、神父さまたちを私どもの道場にお迎えして、ともに坐禅をするというような機会も、しばしばもったわけでございます。

   その一環で、ベルギーで一日を過ごさせてもらいましたとき、向こうの神父さまやシスターたちに、禅のお話をしたり、禅文化としてのお茶やお花を紹介する機会がありまして、 一日一緒におしゃべりをしたり、坐禅をしたりしたわけでございます。そのとき、私の通訳にあたってくれました日本のシスターが、「日本の文化が、日本の言葉が、こんなに美しいと思いませんでした。 訳す言葉がありません」というんです。また、次のようにもおっしゃいました。

   「カトリックのシスターとなり、この地に骨を埋めようと思って、すでに三十年が経ちました。しかし、年をとるほどに、仏法の話を聞いたり、お経の声を聞いたり、 坐禅などをさせていただいたりという機会を与えられて気づくことは、私の中に流れる血が休まるということです。何百年と流れてきた先祖の血が、私の中に入っています。その先祖が、仏法の話を聞いたり、 お経の声を聞いたり,あるいは、坐禅をした人もいるのかもしれません。そういうものが私の中にも流れていて、今この年になって、仏法の話を聞いたり、お経の声を聞いたりすると、 血が休まるということを感じさせてくださるんでしょう」と、そんなことをしみじみと話してくださいました。

   この理屈以前でいただいてきた深いもの、これが、切り口につながるものであり、この切り口の違いをお互いに大事にし合い、学び合い、 尊重し合っていかねばならないのでないかと思います。
   私ともが常に忘れてならないことは、一番もとは何なのだろうということです。さまざまな宗教が長い歴史の中で現れ、いろいろな説き方がされますが、 人類の本当のあるべき姿は何なのだろうという、一番もとを見据えていこうじゃないか。常に根元を忘れずに生きる、そういう生き方をしたいものです。

●無相庵のあとがき
   青山俊董尼は、『理屈以前でいただいてきた深いもの、これが、切り口につながるものであり、この切り口の違いをお互いに大事にし合い、学び合い、 尊重し合っていかねばならないのでないかと思います。』と仰っていますが、「切り口の違いをお互いに大事にし合う」事は、なかなか出来ません。昨日、アメリカのトランプ大統領が来日されました。 日米の緊密な関係を中国とロシアに見せ付けながら、北朝鮮に圧力をかけるのが目的だとメディアは伝えております。言葉の脅し合いは限界があります。対立している間柄では、 言葉は武力以上に相手を激高させ、結局は武力衝突を起こすことになると思います。それは、日常生活の人間関係で、私たちは経験しているはずです。無視、絶交は、言葉の使い方から生じます。 切り口の違いを認め合うことは理想ですが、現実的には、せめて、相手に思いを伝える時、言葉を選ぶという努力をしたいものです。

なむあみだぶつ

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No.1703  2017.11.02青山俊董尼法話集第二巻『宗教とは天地悠久の真理』の②「違いを尊重し合うこと」

●無相庵のはしがき
   「違いを尊重し合うこと」が出来たら、争いは起こらないのではないかと思いますが、人間は言葉を持ち、言葉でコミュニケーションをとりますので、 駆け引きとして嘘偽りを利用することもあり得ますので、却って、争いが激しいものになっているというのが、現在の世界の様相になっているのかも知れません。 人類に本当の知恵があれば、違いを尊重し合い、問題解決が出来るはずですが、嘘偽りの国連の仕組みがある限り、争いは決して無くならないのでしょうね。

●青山俊董尼法話集第二巻『宗教とは天地悠久の真理』の②「違いを尊重し合うこと」

   マザー・テレサ( 1910年 – 1997年、1979年にノーベル平和賞受賞)を訪ねて、インドへ行ったときのことです。マザー・テレサの活動の中で、 大きな仕事の一つに「死を待つ人の家」というのがあります。平等を説くお釈迦様の国でありながら、インドほど階級差別がいまだに激しいところはありません。路上生活者として生まれたら、生涯、 路上生活者から立ち上がることはできません。厭われようと何であろうと、「バクシーシー」、「お恵みを」といって、人びとのお恵みを受けて、物乞いをして生きていかねばならない。それができなくなったら、 犬や猫のように行き倒れになって死んでゆく。この人たちを、人生の最期の、せめて一週間でもいい、人間らしく看病して天国へ送ってやりたい。この願い、働きの一つが、 マザー・テレサの「死を待つ人の家」というところでした。お手伝いにもならぬ、邪魔をしただけでございますけれども、私はホテルから毎日通ったわけでございます。

   その合間をぬって、教会のミサに出たわけですが、インドは限りなく多くの民族が雑居しておりますから、ヒンズー語のミサがあり、ベンガル語のミサがあり、あるいは英語のミサがあり、 というように一時間おきにいろいろな言葉でのミサがあります。

   インドはご存知のように、着る着物の色で宗教の区分けをしておりまして、仏教徒は黄色です。今私どもが着ているような黒で行きますと、回教徒に見られます。 たった一人のインドの旅でしたから、全部黄色の衣装にまとめていったので、たいへん目立つわけなんです。ミサが終りましたら、私に会いたいという人がいると、呼び出しがあるんです。 インドで私に会いたい人って、いったい誰なんだろうと思っていきましたら、中国の家族でした。

   おばあちゃんが、「私は仏教徒なんです。インドへまいって、仏教のお参りをしたいと思ってきましたが、お坊さんに会いたくてもいない。やむを得ず、息子とカトリックの、 この教会にお参りをさせてもらっております。大勢の中で、あなたの姿を見て、どうしてもお会いしたかったんです」と泣いて私の法衣に取りすがるんです。インドはお釈迦さまの国でありながら、 仏教の遺跡こそあれ、仏教自身は滅びた格好で、今はほとんど生きた働きをしておりません。おばあちゃんは、漢字で「転法輪(お釈迦さまの教えを説く事)」と刺繍されている私の頭陀袋を撫でて、頬ずりをして、 「これは、私の国の文字なんです」と、懐かしそうにおっしゃったんです。

●無相庵のあとがき
   争いがなくならないのは、私たちの人間関係も同じですね。特に親しいはずの夫婦、兄弟姉妹の関係でさえそうですし、もっと、親しい親子関係でも、親が子を殺し、 子が親を殺すことさえ、珍しく無いと言ってもよい位、世間を騒がせています。親子でも、夫婦でも、兄弟姉妹でも、「一人一人、互いに知り得ない違いがあること」を前提に、 言葉を選ぶ必要があるのかも知れませんね。

なむあみだぶつ

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No.1702  2017.10.30青山俊董尼法話集第二巻『宗教とは天地悠久の真理』の①「違いを尊重し合うこと」

●無相庵のはしがき
   先週の木曜コラムの更新を忘れてしまいました。こんなことは記憶に無い初めてのことでした。月、水、金、土と技術開発に関係する来客が続き、 その準備の方に頭と気を使っていたからだと考えています。

   一方で、FB(フェイスブック)にも無相庵サイトを立ち上げまして、この青山俊董尼の法話の紹介を開始致しました。「無相庵のはしがき」と「無相庵のあとがき」の内容を、 これまで仏法に触れて来られていない世間一般の方々にも通じる内容に変えることを意識しております。今日の表題「違いを尊重し合うこと」を教訓とし、偶々仏法に縁を頂いた私たちと、 仏法に触れる縁に出遇われなかった方々との違いが、ただ単に、生まれ育った環境が偶々違っただけであると思い、一般の方々と積極的に縁を結べればと考えた次第であります。  

●青山俊董尼法話集第二巻『宗教とは天地悠久の真理』の①「違いを尊重し合うこと」

    もう一歩進み、切り口の違いは必要あってのものであり、学び合い、尊重し合っていこうじゃないか、こういう姿勢が大事なことではなかろうかと思います。

   中国に「南船北馬」という言葉があります。中国は広いですから、南半分はモンスーン地帯の農耕文化で、菜食が中心、これは船の文化です。水の文化であり、 温暖な曲線の文化といわれます。「母なる太陽」というように、母という姿が表に出てきます。
   一方、北馬と喚ばれる北半分は山岳と砂漠で、遊牧民族、騎馬民族の文化です。厳しい、小麦と肉の文化で、南船の曲線に比べて、直線の文化と呼ばれます。 おのずから違った姿が出て参ります。

   インドもモンスーン地帯といっていいでしょう。インドで育った仏法が、中国の南半分を経由して日本に入ってきます。この中国の南半分で育ったのが、「道教(どうきょう)」です。 仏法は、この道教に影響を与えながら、また、道教の使う言葉を仏教の言葉として消化しながら、中国的展開をして、日本へやってまいります。日本も、間違いなく温暖なモンスーン地帯の農耕文化で、 緑の文化の世界です。

   その反面、キリスト教もイスラム教も、砂漠の宗教です。同じ太陽も、「父なる太陽」と呼びます。「父なる宗教」、ローマ法王が、パパさまという由縁です。直線の宗教、 厳しい宗教の姿をとります。

   このように、育った環境により、見つけ出した人により、違った性格が与えられる、これはやむを得ないことでしょうし、これはまた、必要あってのものですね。自然環境が、 そこに生きる人たちの感性を育て、あるいは文化を育てていく。決して、地理的環境、自然的環境と無縁ではありません。

   四季の変化の豊かな日本の大自然が育てた日本の文化では、たとえば、桜や梅は「散る」といい、椿は「落ちる」といい、牡丹は「崩れる」といいます。萩などは「こぼれる」といい、 朝顔などは「しぼむ」といいます。たった一つの「花が散る」というのにも、これだけのきめ細やかな言葉の使い分けをしていきます。これは花の咲かない砂漠では育ちようのない文化です。 この自然環境が育てた文化というものは、それぞれに、その土地に必要あって生まれたもの。まったく違った環境にもっていったら、要するにそこでは理解ができない、理解のできないものは、 そこで生きた働きもできない、そういうようなことがありましょう。

●無相庵のあとがき
   私は、キリスト教、イスラム教と縁が無かった訳ですが、それは、私が生まれたのが、モンスーン地帯の日本に生まれたからである事を、青山俊董尼のお言葉で認識しました。 キリスト教を独善的であると、イスラム教を唯一神を崇めるものでテロを生み出す宗教になったと批判していた私ですが、そんな考えを改めねばならないと思いました。
   そしてまた、単に宗教の違いだけでなく、私たちの日常生活に於いて出会う様々な人びと(親族や近隣の人びとを含めて)に関しましても、 一人一人が微妙に異なった環境で育った事と共に、現在の一人一人の置かれた環境・状況も知り得ないことを忘れないでおこうと思ったことでした。

なむあみだぶつ

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No.1701  2017.10.23青山俊董尼法話集第二巻『宗教とは天地悠久の真理』の「切り口しか見えない謙虚さを」

●無相庵のはしがき
   昨日の日曜日、3年振り(2014年12月14日)に総選挙がありました。前回はアベノミクス解散と称されましたが、自公で、326議席獲得の圧勝に終わりましたが、 今回は、野党にとりましては、首相の解散宣言の日(9月25日)から、公示日(10月11日)まで約2週間という不意打ち解散だった事と、 台風を追い風(?)にして投票率は過去最低だった52.7%よりも低くなるものと思われ、安陪さんの思惑通り、自民単独で過半数という圧勝に終わりました。

    私は、今回の選挙で一番気になったのは、各政党の党首達が、自らの党の理念、政策を語るよりも、与党は野党の選挙姿勢を批判し、野党も安陪首相の個人攻撃に終始するという、 批判の応酬が目立った事でした。今日の青山俊董尼の法話の末尾にある、「みんな違った人生を歩み、違った経験の中で、違った角度からものを見ています。 たった一つのものを同じに見ているつもりですが、違うんですね。それを間違いないと思って、相手に押しつけ合うところに、争いやいがみ合いが起きます。そうではなくて、一生懸命見ていても、 一分(いちぶん)しか見えない、切り口しか見えないんだという謙虚さがあれば、争いにはならないと思います。」という考え方に立って、他を誹謗中傷せず、自らの政党の理念と政策を主張し合う、 正々堂々とした大人同士の闘いをして欲しかったと思うのです。  

●青山俊董尼法話集第二巻『宗教とは天地悠久の真理』の「切り口しか見えない謙虚さを」

    次に大事なことが、「切り口しか見えない」という、この謙虚さを忘れないでほしいということです。先ほど、余語老師の茶筒の例をあげたときに、 茶筒全体の姿が見られるかどうかは分からないけれども、と申し上げましたが、ここで、全体を見ることができないのだということを考えてみましょう。

   私どもの小さなものの見方では、切り口しか見ることはできないんだという、この謙虚さがあれば、自分の切り口を押しつけることはありません。相手と私の切り口が違っても、 私の切り口を押しつけて、相手の切り口を間違いと否定することもありません。違った切り口を大きく受け止め、耳を開く、このゆとりもできてまいりましょう。

   面白いことがございました。化粧品会社から講演を頼まれてまいったことがございます。その会社の化粧品を売ってくれている小売店の店主を集めて、 年に一回行われる講演会だったんですが、お話は「美しき人に」という題でした。
   私のおしゃべりは、アメリカのホイットマンの詩を引用して始まりました。

   女あり 二人ゆく 若きはうるわし
   老いたるは なおうるわし

   しみがなくて美しいのでも、白髪がなくて美しいのでもありません。どなたの人生にも山坂がありましょうけれども、その山坂をどう生きてきたか、どう越えてきたか、 その生き方がしわに光る、白髪に光るのです。中から底光りのようににじみ出る人格の輝きが、「老いたるはなおうるわし」ということであり、染めたり、塗ったり、洗ったら矧げるものではございません、 そんな話を二時間ばかりしたわけでございます。

   私のおしゃべりが終わりましてから、質問の時間になりまして、何人かが手を上げました。その中の二三人までが、「先生はどういうお手入れで」という質問をなさるんです。 手入れではないと話したのに、この人たちはいったい何を聞いていてくれたのだろうと、大変残念に思いましたけれども、考えてみましたら、生涯を、 お手入れということを商売として生きている人たちにとっては、「どういってみても、やっぱり先生もお手入れしているだろう」という角度からしか聞けなかったのだなあと、 これも私の一つの学びでございました。これはお互いさまで、自分の生きてきた角度、もっている貧しい経験の範囲内でしか、話も聞けない、判断もできない、そういうものなんです。 これが切り口ということなんです。

   もう一つ、笑い話がございます。信州の山の中で、毎日炭焼きをしている方と、佐渡の海で、漁をして暮らして居る方が、浅草の観音さまにお参りをして、一緒の宿をとったというんです。 「太陽はどこから出る」という話題になって、毎日山で炭焼きをしているお方は、「山から出て山に入る」といって聞かず、毎日海で漁をしている人は、「海から出て海に入る」といって聞きません。 どうしても話がまとまらす、宿の番頭さんに仲介を頼んだら、「屋根から出て屋根に入る」と答えたと、こういうお話を聞いたことがあります。
   私どもは、とかくこうしたことをしているのです。しかも、そのことに気がつきません。みんな違った人生を歩み、違った経験の中で、違った角度からものを見ています。 たった一つのものを同じに見ているつもりですが、違うんですね。それを間違いないと思って、相手に押しつけ合うところに、争いやいがみ合いが起きます。そうではなくて、一生懸命見ていても、 一分(いちぶん)しか見えない、切り口しか見えないんだという謙虚さがあれば、争いにはならないと思います。

●無相庵のあとがき
   今回のご法話は、私たちの日常生活に於ける、人間関係(夫婦間、親子間、兄弟姉妹間、近隣の付き合い)にも言えることではないかと思いますし、更には、世界の平和にも、 実に大切な教訓だと思います。アメリカと北朝鮮の指導者のみならず、周りの国々の指導者、国連安保理のメンバーに気付いて貰って、人間にしか出来ないコミュニケーションに依る解決方法を編み出し、 どの国の市民からも死者が出ないような仕組み作りに頭を使って貰いたいものです。

なむあみだぶつ  

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