No.1730  2018.02.05青山俊董尼法話集第四巻『生かされて生かして生きるー空間的縁起』⑥「支え合って存在するいのち」

●無相庵のはしがき
   今回の法話の中で、最も大切な教えは、鉱物、植物、動物と、(私たち)人間との違いだと思います。人間が一番優秀な存在だということではありません。全ては平等というのが、 仏教の考え方です。しかし、平等ではあるけれど、夫れ夫れの役割は異なるというところが仏教の科学的なものの考え方だと思います。そして、私たちがはっきりと自覚すべきは、人間には、 「〝いのち〟の尊さを自覚する力をもっている」ということです。私たち人間にその自覚がなければ、地球を壊し、全ての〝いのち〟が失われるということです。

●青山俊董尼法話集第四巻『生かされて生かして生きるー空間的縁起』⑥「支え合って存在するいのち」

   地球と太陽を結ぶ一億五千万キロの距離がちゃんと保っておれるのは、土星や水星や金星という太陽系惑星相互の引力のバランスのお陰であり、 太陽系惑星相互の引力のバランスが保ち得ている背景には、宇宙空間に限りなく広がってゆく他の銀河系惑星たちとのバランス、星雲たちとの引力のバランスがあるという話を聞かせてもらいました。

   気づく気づかないにかかわらず、私どもが安らかに地球上におれる背景には、銀河系惑星までもの、宇宙の限りなく果てまでの総力をあげての働きをいただいて、 今こうして生きておれるのだといいます。すごいことでございます。

   さらに、地上における存在の働きは次のように分類されるといいます。鉱物は物質だけ。植物は物質プラス〝いのち〟、動物は物質プラス〝いのち〟、プラス喜び悲しみなどを認識する力。 人間は物質プラス〝いのち〟、プラス認識する力、プラス天地いっぱいのお働きをいただいて今ここを生きるという、〝いのち〟の尊さを自覚する力をもっているというのです。  

●無相庵のあとがき
   人間が、他の動植物と異なるのは、〝いのち〟の尊さを自覚する力をもっていることにあるという言葉は、逆にとても凄い言葉です。〝いのち〟の尊さを知ろうとは言っておられない。 〝いのち〟の尊さを自覚したなら、自分の〝いのち〟も、他の人の〝いのち〟も、大切にしないではいられません。そこが、神さまを絶対視する他の宗教と仏教が大きく異なる点です。従って、 自分の〝いのち〟も、他の人の〝いのち〟も大切にしない教えを説く団体は、仏教とは無関係の教団であると言わねばなりません。そのことを世間一般の人々に伝えていく努力をしたいと思っております。

なむあみだぶつ

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No.1729  2018.02.01青山俊董尼法話集第四巻『生かされて生かして生きるー空間的縁起』⑤「支え合って存在するいのち」

●無相庵のはしがき
   私たちが地球上で、生きておられる背景に付きまして青山俊董尼が法話の中で詳細に語っておられますが、その情報は、 前回コラムの中でご紹介した岡山大学の名誉教授でいらっしゃる水原舜爾(しゅんじ)先生からのものです。私は早速、水原先生のご著書、『科学時代の佛教』をアマゾンから古書を購入致しまして、 読み始めたところですが、生化学者の先生の、仏教に対する思いに非常に共感致しまして、先生の一番最初に仏教に付いて書かれた『科学から佛教へ』の古書も注文致しました。もう、先生は亡くなられており、 非常に残念ですが、先生の志は、微力ながら、引き継ぎたいと思いました。
   『科学時代の佛教』の序文に米澤秀雄先生が寄稿されていますが、無相庵のあとがきの後に転載させて頂きましたので、お読み頂きたいと思います。

●青山俊董尼法話集第四巻『生かされて生かして生きるー空間的縁起』⑤「支え合って存在するいのち」

   地球と太陽を結ぶ距離は一億五千万キロだそうです。この距離の間隔をちゃんと保っておれるから、われわれの〝いのち〟あるものは、こうして地球上にいられる。 太陽にちょっと近づけば、摂氏五百度ぐらいになり、とても〝いのち〟は存在できません。逆にちょっと離れるとマイナス何百度となり、液体は凍ってしまい、〝いのち〟は存在できません。 一億五千万キロという、ちゃんとした距離が保っておれるお陰で、われわれは地球上で安らかに存在することができるんだといいます。

   さらに、大気が二十キロの厚さで地球を包み、温暖の調節をしてくれているから、こうしておられる。
   太陽と地球の距離が一億五千万キロであろうとも、二十キロの厚さで地球を包む大気がなければ、太陽が出るとタチマチ摂氏百四十度ぐらいに上がって、 やはり〝いのち〟は存在できません。一度(ひとたび)太陽が沈むとマイナス百四十度になって、これも生きておられません。一億五千万キロというちょうどよい距離のうえに、 さらに温度調整してくれる大気が二十キロの厚さで地球を包んでくれているお陰だということです。 

●無相庵のあとがき
   水原舜爾(みずはらしゅんじ)氏の略歴

   大正4年(1915年)8月,岡山県玉野市に生まれる。
   昭和6年(1931年)3月岡山医科大学卒業
   昭和29年(1954年)4月,岡山大学医学部生化学教室教授
   昭和49年度(1974),日本生化学会会頭
   平成20年(2008年),ご逝去
生化学者であられたから、〝いのち〟に関する探究心を持たれたのだと思いますが、惜しい方を失いました。

●米澤秀雄先生の寄稿文
   序
   著者が本書の原稿のコピーを送って来られたので、その目次を見て驚いた。唯識の前五識・未那識・阿頼耶識があげられている。私も唯識に関心をもっているので拝読した。

   現代は科学の時代である。科学というのは独断を排し、最も謙虚な思索方法と考えられる。仏教は最高の真理であると居丈高に呼号しているだけではいけない。 現代は科学の試金石にかけて、その真理性が証明されなければならない。本書において著者がその作業を遂行して下さった。大脳生理学・生態学その他、 現代科学の最先端の知識を駆使して仏教の真理性を証明されたのが本書である。

   なお著者は各編に、自分はこう思うが、まだ断定はできないといわれている。科学の謙虚性というものはこういうところに現われている。 科学はその方法として実験的観察を採用し独断推理を排除しているので、生化学者としての著者の思索態度にも当然これが現われる。当然のことながら畏敬せざるを得ない。

   科学はものを対象化して考察研究する。仏教の本領は主体の確立であって、この主体、真の主体というのは対象化できないものである。 対象化できない真の主体にどこまで迫ることができるか、あるいはそこらに科学の限界があるのかもしれない。ものとなって知るというようなことが言われるが、 これは科学を絶した世界かも知れない。科学の発達していなかった昔に、悟りを開いたとか、信心を得たという人があるのはもっともな事実であろう。

   著者の一層の考究精進を念じて序とさせていただく。
   昭和58年秋

                           米沢英雄

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No.1728  2018.01.29青山俊董尼法話集第四巻『生かされて生かして生きるー空間的縁起』④「支え合って存在するいのち」

●無相庵のはしがき
   「私たち人間は、地面や地面近くに生息する微生物のお陰で生きて生活出来ているんだよ」と言われても、ピンと来ませんね。私たちが生きている背景には、 私たちが全く気付けていない事実があるようです。それを、今回と次回に青山俊董尼から教えて頂きます。

●青山俊董尼法話集第四巻『生かされて生かして生きるー空間的縁起』④「支え合って存在するいのち」

   私が尊敬申し上げております科学者の一人で、岡山大学の名誉教授でいらっしゃる水原舜爾(しゅんじ)先生にこんなお話を聞きました。この地球上に存在する、 〝いのち〟あるものの配役を分類すると、一番底辺に微生物がいて、地上の清掃係をしてくれています。微生物の働きがなかったら、地上はたちまちゴミの山になるだろうとおっしゃっています。 あらゆるゴミを分解して土に返す大地の清掃係、これが微生物だというのです。

   この微生物が大地を調えてくれるお陰で、植物も育つことができます。落ち葉の姿のまま、卵の殻の姿のままでは、植物が肥料として吸うことはできません。 微生物がそれぞれに分解してくれるお陰で、植物は肥料としてこれを吸い上げ、繁茂することができ、その植物をいただいて動物が生き、両方の〝いのち〟をいただいてその上に人間がいるんです。 この微生物、植物、動物、人間が、どれ一つ欠いても存在できない、緊密なかかわり合いをもちながら地球上に存在することができます。 この生態ピラミッドが地球上に安らかにいることができる地球環境をつくってくれている背景はどうなっているのでしょうか。

●無相庵のあとがき
   微生物、植物、動物、人間、全ての生き物が存在出来ている背景に付きましては次回に譲らせて頂きます。

なむあみだぶつ

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No.1727  2018.01.25青山俊董尼法話集第四巻『生かされて生かして生きるー空間的縁起』③「支え合って存在するいのち」

●無相庵のはしがき
   第四巻の題名にある『空間的縁起』は一般の方々には耳慣れない言葉で、難しいと敬遠されると思いますが、青山俊董尼が懐中時計が数百個の部品の組み合わせで動いている事を例として、 説明されています。

●青山俊董尼法話集第四巻『生かされて生かして生きるー空間的縁起』③「支え合って存在するいのち」

    少し視点を変えて、百分の一センチのピンが、どんなに健やかに動ける状態でも、時計を公正しているたくさんの部品のどれか一つが故障を起こしたら、動きたくても動けません。 百分の一センチのピンは、時計全部の〝いのち〟が総力をあげて 百分の一センチのピン一つを動かしてくれている。

   こういうあり方を、仏教の専門の言葉を使いますと、「一即一切。一切即一」といういい方をします。一つが全部を背負って、百分の一センチのピンが、 時計全部の〝いのち〟を背負って今ここを生きる、一即一切。時計全部の部品が、総力をあげて百分の一センチのピン一つを動かしてくれている、一切即一。

   生かされて、生かしてという〝いのち〟の姿は、時計の話だけではありません。私どもの〝いのち〟の姿を、時計にたとえただけの話です。天地宇宙が総力をあげて、 私一人を生かしてくれている、一切一即。このような横のかかわりの姿、相寄り相助け合って存在している姿、これを「空間的縁起」と呼ぶわけです。

●無相庵のあとがき
   仏教の専門用語は難しく、その上、キリスト教やイスラム教のように、「神様を信じればいい」という単純明快な教えでは無く、「自己に目覚めよう!」とか、哲学的でありますので、 本当の仏教は敬遠されがちです。また一方で、葬式や法事と強く結びついているため、暗いイメージが根付いており、これまた人気の無さになっています。「何とかしなければ・・・」と、 私の祖父と母が明治・大正・昭和と仏法の灯を点していました。その努力を昭和・平成と、私は引き継ぎたいと思っているところです。

なむあみだぶつ

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No.1726  2018.01.22青山俊董尼法話集第四巻『生かされて生かして生きるー空間的縁起』②「支え合って存在するいのち」

●無相庵のはしがき
   次回のコラムに出て来るのですが、「1人は皆のために」、「皆は一人のために」という仏教の考え方を表わす、「一即一切(いちそくいっさい)」、 「一切即一(いっさいそくいち)」という四字熟語があります。この世の人間関係をも表わすものですが、それを青山俊董尼は、数百個の部品からなる時計の動きを例に挙げて説明されています。  

●青山俊董尼法話集第四巻『生かされて生かして生きるー空間的縁起』②「支え合って存在するいのち」

   ずいぶん昔のことになりますが、少し過労も重なり、二度立て続けに転んだことがあります。両足捻挫のうえに、腰までひねってしまい、寝ていても寝返りがたいへんということになり、 たくさんの気づきをさせていただきました。健康なうちは何とも思いませんが、くしゃみをしても足まで響く、あくびをしても腰まで響くということを通して、くしゃみ一つ、あくび一つとっても、 体全部が総力をあげて手伝ってくれているということに気づかせてもらったのです。

   もう一つ別のことに気づきました。全部が一つのことを助けてくれて、初めて成就できるのですが、かわってはもらえないんだということです。あくびは口でしかできません。 腰ではできません。くしゃみも足ではできません。かわってもらえないことに、気づかせてもらいました。

   この二つは大事なことです。全部が助け合い、手伝い合うというあたたかい一面の裏打ちは、絶対にかわれないんだという〝いのち〟の姿です。親子であろうと、兄弟であろうと、 夫婦であろうと、指一本すらかわることもできない厳しい裏打ち、この両面があって、人生はいいんですね。

   一つの背景に全部が、というあり方が横の縁起なのです。たとえば、私は古風な懐中時計を愛用しておりまして、一、二、三、四、五という文字盤を、長短二つの針が巡っています。 この長短二つの針を押さえているピンは、百分の一センチだそうです。百分の一センチなんていう小さな目に見えないお役、つまらないからご免こうむりたいと、 この百分の一センチのピンがストライキを起こしたら、時計全部が止まってしまいます。百分の一センチのピンは、時計全部のいのちを双肩に背負って、百分の一センチのお役を務めている。 そういうことですね。

●無相庵のあとがき
   青山俊董尼の時計の話から思いましたのは、私が今こうして生かされて生きていられるのは、この世のあらゆる仕組みと、あらゆる存在 あらゆる人々が在っての故であることと、それに少しでも恩返しする為に、自分が今日為すべきことを懸命に為すことだと思いました。

なむあみだぶつ

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No.1725  2018.01.18青山俊董尼法話集第四巻『生かされて生かして生きるー空間的縁起』①「支え合って存在するいのち」

●無相庵のはしがき
   今回から当分の間、青山俊董尼法話集第四巻『生かされて生かして生きるー空間的縁起』を紹介させて頂きます。

   先ずは、①「支え合って存在するいのち」からご紹介致しますが、続いて、②「天地いっぱいのお働き」、③「いのちの方向づけを大事に」と続きますが、 最近はFB(フェイスブック)でも紹介して、一般の方々にも仏教が葬式や法事の為にあるのではなくて、「私たちが生きていくための指針を示している教えであること」、 「私たちが何のために生まれてきたかを共に考えるためのヒントをくれる教えであること」を分かって頂きたく、青山俊董尼の法話を出来るだけ、細かく分けておりますので、 この第四巻だけで20話に分けますので、3ヶ月位要するものと思われます。
   ご了承の程をお願い申し上げます。 

●青山俊董尼法話集第四巻『生かされて生かして生きるー空間的縁起』①「支え合って存在するいのち」

   お釈迦さまの見つけ出された、天地宇宙の真理というものを、縁によって起こる、「縁起」という一言で申し上げています。この「縁起」には、二つの柱があります。一つが「時間的縁起」、 それを「無常」という言葉で表現します。もう一つの「空間的縁起」、これを「無常」に対して、「無我」といういいかたで表現します。

   お釈迦さまの十大弟子の一人で、智慧第一と呼ばれた舎利弗(しゃりほつ)尊者に、ある日、お釈迦さまのお弟子の一人が「お釈迦さまの教えが、なかなか難しくて理解ができません。 何とかわかりよく説明してくれませんか」と頼みました。その問いに対して、舎利弗が「友よ、たとえば、二つの葦束(あしたば)は互いに相寄りて立つ」と一言で説かれたのです。 葦の束は一本では立たないけれども、二本で相寄り相助け、支えつ支えられつつ、立つことができる。このような姿で、「空間的縁起」の説明をされました。

   文字というものはよくできておりまして、「人」という文字がまさにそうです。二本の棒からできている「人」という文字、支えつ支えられつつと、一方的に支えられるだけでなくて、 積極的に相手を支えながらという姿が表現されています。生かされて、生かして、生きるという姿が、「人」という文字に表現されているような気がするんです。

●無相庵のあとがき
   仏教の最も基本的な教えであり、他の宗教と根本的に違うのが「縁起」という考え方であり、教えであります。 「縁起(えんぎ)」という言葉は仏教徒でなくても、「縁起が悪い」という言い方をされますが、「縁起」に付いて正しい意味をご存知の方は稀ではないかと思っております。 「縁起」を訓読にしたがって読むとおりに仮名混じり文にしますと「縁によって起こる」、となりますが、「縁(えん)」は分かっているようで、お分かりになっていないかも知れません。 「縁」は、人と人との出会いだけではなくて、固い表現を致しますと、「物事が起きるための諸条件」の事で、天候も、時間・時刻も、場所も、日本の経済状況も、世界の情勢その他、 人間が感知出来ない無数の条件の事を意味します。「お陰様で」という言葉は、「陰に隠れて、私たちには分からない無数の条件の恵みに依りまして」という意味でございます。

   それを簡単に説明して下さったのが、お釈迦さまの十大弟子の一人で、智慧第一と呼ばれた舎利弗(しゃりほつ)尊者であり、古来から「人」という文字を例に上げて、 「文字というものはよくできておりまして、「人」という文字がまさにそうです。二本の棒からできている「人」という文字、支えつ支えられつつと、一方的に支えられるだけでなくて、 積極的に相手を支えながらという姿が表現されています。生かされて、生かして、生きるという姿が、「人」という文字に表現されているような気がするんです。」と聞いて参りました。

なむあみだぶつ

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No.1724  2018.01.15青山俊董尼法話集第三巻『釈尊の見つけ出された真理―縁起』⑦「会えてよかったね」

●無相庵のはしがき
   仏教は、『縁起の道理』を説く宗教です。キリスト教、イスラム教とは全く立場が異なる宗教です。キリスト教、イスラム教は、 絶対者の神様が全てを決めているという立場ではないかと思います。神の命令なら何でも従う、従って良いという教えではないかと、私は考えております。仏教の仏様と、 キリスト教の神様は全く異なる概念です。仏教は、『因縁果の道理』を説きます。「物事は、因があって、縁が働いて、結果が生じる」という考え方です。これは、道理という依りも、 『真理』そのものと言えると思います。この真理に気付かれたのが、お釈迦様だったのです。

   縁というのは、環境、自然界の現象を含む無数の要因の事で、結果をもたらす要因全てを私たち人間が全てを感知することは出来ない、隠れている要因ということで、 仏教では『お陰様』とも申します。  

●青山俊董尼法話集第三巻『釈尊の見つけ出された真理―縁起』⑦「会えてよかったね」

   「無常だからよい」。お釈迦さまが天地の姿から見つけだした、時間的縁起というもの、これは、生滅の縁起であり、無常の縁起です。この無常というのは、とどまらないということ、 移り変わり続けていくということで、これをいろいろな姿で、教えとして頂戴することができます。

   いつ死んでもよいように、今を大事に生きていこうではないかということ、あるいは今ここをどう生きるかによって変えていくことができるということ、そういういろいろな学びが、 日本の仏教や、文化の一つの根底になっています。それが無常を見据える文化、一期一会という教え、そういうような姿に展開してきているような気がします。

   縁起には、横の縁起ともいえる空間的な縁起と、縦の縁起ともいえる時間的な縁起があり、この二つの、ちょうど十文字にあたる一点に私どもが生かしていただいているということです。

●無相庵のあとがき
   『縁』を空間的な縁と時間的な縁に分けて、それぞれを横線(空間的縁)と縦線(時間的縁)とされ、横線と縦線の交わった一点が、今の私だと考えるのが、 仏教のとても大事な教えではないかと思います。

   横線と縦線は、1人一人異なっています。例えば、縦線は祖先から受け継いだ遺伝子も含めて、1人一人異なっていますし、横線も、育った環境、 出会ってきた人間関係も一人一人、兄弟姉妹の間でさえ、同じではありません。一人一人異なった縦線と横線が交わった一点にある私という存在は、とてつもなく長い歴史を持つ宇宙の中でさえ、 唯一無二の存在です。私という命がどれ程掛け替えのない命であるかが分かります。

なむあみだぶつ

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No.1723  2018.01.11青山俊董尼法話集第三巻『釈尊の見つけ出された真理―縁起』⑥「会えてよかったね」

●無相庵のはしがき
   今年の1月4日(木曜日)に、星野仙一氏が亡くなられた。70歳でとは、昨今では少し早いです。私よりも2歳年下。すい臓癌と闘っておられたそうなので、 覚悟はされていたかも知れませんが、そういうことを知らなかった私たちは突然の英雄の死にショックを受けました。
   知っている方が亡くなられた時、私たちは「ご冥福をお祈り致します、安らかにお眠り下さい」と申しますが、それで、私たち自身が安らかな気持ちになれますでしょうか。 亡くなられた方をお見送りする時の心得るべきことを、青山俊董尼に教えて頂きましょう。  

●青山俊董尼法話集第三巻『釈尊の見つけ出された真理―縁起』⑥「会えてよかったね」

   私はよく、葬儀を終えた後のお話で、次のようなことを申し上げるのです。先に往かねばならなかった人が、後に残った者に残す、最後の言葉があるとしたら、 「死ぬんだよ、あなたがたも」、その一言ではないでしょうか。「必ずこの日が来る。しかも予告なし、待ったなしに来る。いつ来てもいいように、毎日を大事に生きていきなされ」というのが、 死者が後の者に残す遺言ではないかと思うのです。

   お葬式の一つの意味は、普段忘れている、あるいは忘れようとしている死というものを見直すことではないでしょうか。そして、それを我がこととして、我が生き方へと照らし返し、 死者が最後のいのちを懸けて語り残す遺言を聞き、実践していく、これが亡くなった人への本当の供養になる。そう思うのです。

●無相庵のあとがき
   青山俊董尼の一言一言が胸に鋭く入り込んでまいりました。死者自身は遺言を語りませんが、死者の存命中の言動から私たちが感じ取るであろう『死者が後の者に残す遺言』に耳を傾け、 実践していくことこそが、本当の供養になるということを、この際、しっかりと胸に刻み込みたいです。

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No.1722  2018.01.08青山俊董尼法話集第三巻『釈尊の見つけ出された真理―縁起』⑤「会えてよかったね」

●無相庵のはしがき
   正月三ヶ日も終り、世の中は正月気分も覚めかかりつつあるのではないかと思いますが、明日から第3学期が始まる小中学校や、 長い年末年始の休暇が終って、明日仕事始めを迎える大企業のサラリーマンのご家庭もあり、本格的には、1月9日(火曜日)から日常に戻るということになりましょう。

   斯く言う私は、新しい製品の開発会議を6日(土曜日)に行い、また、公私共に、弁護士の助けを借りねばならない問題を抱えており、既に戦闘モードの日常に戻っております。
   心安まらぬ日々ではありますが、今日の青山俊董尼の法話の中にある、「人生の目的は、長生きすることではなくて、よく生きることだ」に励まされ、解決すべき課題に出会って、 新しい知識と知恵を授かることに感謝しつつ、〝よく生きる〟日々を過ごしたいと思ったことであります。  

●青山俊董尼法話集第三巻『釈尊の見つけ出された真理―縁起』⑤「会えてよかったね」

   章子さんは、たくさんのすばらしい詩を残して亡くなられましたが、その中の一つにこのようなものがあります。

       癌は
      私の見直し人生の
      ヨーイドンのgunでした
      私 今 スタートします
      注) 「gun」は、「ガン」で、陸上競技のスタート合図の銃声のことのようです。

   癌は終着点ではなく、出発点だというんです。「人生のやり直しはできないけれど、見直し、出直すことはできる」と章子さんはおっしゃいます。死を見据える眼が深いほどに、 朝を迎えることができたことの喜びは大きく、今日一日いのちをいただくことが出来たことの、〝ただごとのなさ〟と〝いのちの重さ〟とが分かります。死を見据える眼が深いほどに、どう生きたらよいかの、 生きるべき方向づけもできます。「死は終着点ではない、出発点だ、よしやるぞ」、これが章子さんの詩の心です。章子さんは、すばらしい生き方をして、四十七歳の生涯を閉じられました。「人生の目的は、 長生きすることではなくて、よく生きることだ」とおっしゃった人がいましたが、癌をいただいたお陰で、わずかな月日であろうとも、こういう深い生き方ができたのはすばらしいことです。

●無相庵のあとがき
   難問を抱えて、勿論私は、自分のこれまでの生き方の是非を問い直しまして、反省すべき点に気づかされました。しかし、「人生のやり直しはできないけれど、 見直し、出直すことはできる」という鈴木章子さんのお言葉に依って、私に残された人生は短いですが、それでも、見直し、出直そうと思えたことは、まことに良かったと思います。

なむあみだぶつ

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No.1721  2017.01.04新年明けまして、おめでとうございます。

平成30年、明けまして、おめでとうございます。
   平成時代も、来年の4月30日で終り、5月1日から新しい年号になりますので、実質的には、今年が最後の平成の年というところでしょうか。

   そういう意味で今年は、私にとりましても人生の一つの区切りをつける年になりそうです。 それも1月~3月の間に、経営する会社に大きな変化が起きる出来事が昨年末に生じましたので、緊張感を持って今年の正月を迎えましたが、昨年の9月頃の青山俊董尼の法話の中に、 次のような一節がありました。

   『明神池へ着くことだけを目的に歩いておりますと、途中で何かが起きて引き返さねばならないことがあれば、全部が無駄になりましょう。そうではない。
   どっちを向いて歩いてもいいというわけではないので、明神池へ向かうという方向づけだけはちゃんとしていなければなりませんが、目的と方向づけは違います。目的は、今、この一歩。 ここに目的をおいて、 一歩一歩に全力投球する。一歩一歩を大事に勤め上げてゆく。この一歩を十分に味わい、楽しんでゆく。そういう歩みをしてさえいれば、どこで終わってもいい。 そんなふうに気づきました。

   一歩一歩に変化していく穂高の峰の景色。川の流れ、足元の高山植物。いろいろと、一つ一つが楽しい。十分これを楽しんでいたら、くたびれもしませんし、遠いとも思いません。
   これならいつ終わっても、途中で終わってもいいわけなんです。そのプロセスを大事にする。一歩一歩を大事にする。人生の歩みのうえでも大事なことです。』

   私も緊張感を持ちながらも、ビシネスの上で遭遇する場面・場面を一歩一歩と考えて、その一歩一歩を楽しみながら全力投球しようと考え直した次第でありました。 私がもし、目的地に着いたような気分になりました時に、ご報告をさせて頂こうと考えております。

なむあみだぶつ  

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