No.1770  2018.11.05米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―如来の警告ー③

●無相庵のはしがき
  『如来の警告』という表題は、今回の法話の中にある〝飛び出し注意〟という米沢先生の表現のヒット作品だと思います。私の家は、結構自動車の行き来がある、 住宅街の中にある幅5メートル位の片側一車線の道路(2メートル幅の歩道付き)沿いにありますし、約300メートル離れたところにあるスーパーに隣接して小学校と幼保連携型の幼稚園と保育園がありますので、 歩道に沿って植わっている街路樹に、〝飛び出し注意〟という警告板が何か所か見受けられます。子供達が飛び出す可能性があるからでしょう。

  6歳以下の子ども達は、危険を察知出来ません。親が付いていないと車に轢かれる可能性があります。

●米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―如来の警告ー③

  それを私は、飛び出し注意と言うとる。皆に分る言葉で、現代人の分る言葉で言わねばならんと思うので、飛び出し注意。飛び出し注意というのは町歩いていると書いてあるでしょう。 子供が飛び出す。すると車が危ないと言うんで、飛び出し注意や。謗法闡提というのは。飛び出し注意です。

  罪悪深重煩悩熾盛の凡夫というのも飛び出しとるのです。
  つまり如来大悲のただ中に生かされて生きておりながら、そこから飛び出しとるのです。我が身かわいさに、我が身の思うようにしたいという心が、飛び出しておる。 だから罪悪深重煩悩熾盛の凡夫という呼びかけは、おまえ飛び出しておるんでないかという警告が、罪悪深重煩悩熾盛の凡夫であり、謗法闡提という呼びかけです。

●無相庵のあとがき
  『如来の警告』は、道路添いにある「飛び出し注意」というような眼に見えたり耳に聞こえたりするものではありません。それは、私たち罪悪深重煩悩熾盛の凡夫が自分自身の心の中で、 頭の中で感じるものだと思います。又それは、法話を聴いたり、仏教書を読んだりして気が付けることではありますが、日常生活の中で自分自身が体験的に気付くべき「飛び出し注意」という警告だと思います。

なむあみだぶつ

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No.1769  2018.10.29米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―如来の警告ー②

●無相庵のはしがき

  米沢先生は、「色々なお陰で生きられていることを知らないことを謗法と言う。」、また、「息が出ていること、心臓が動いていることに無関心なことを闡提と言う。」と仰っています。 こう言われますと、朝起きて先ず仕事の事が頭を過(よ)ぎる私などは、謗法闡提(ぼうほうせんだい)そのものです。老いてなおビジネスに夢中な私、即ちはお金儲け、経済生活を第一に考えている私は、 仏法をこうして発信する身でありながら、実は、他力に依って生かされて生きていることに徹底出来ないでいる訳であり、謗法闡提から逃れられていない身を思い知らされているのが現実であります。  

●米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―如来の警告ー②

  それから、闡提(せんだい)というのは無関心。
  皆、今私が息が出ているということは大したことだと言うたので、その時は成る程と思うけど、此処をはきもの履いて出るともう忘れてしまう。それを無関心という。普段、 そんなこと考えたことないでしょう。心臓が動いていて下さることは有り難いんです。感じたことないんです。無関心でおるのです。自分の心臓なんか無関心でおる。それを闡提という。

  謗法闡提(ぼうほうせんだい)は私であると親鸞さまが言われたはずです。親鸞さまは別に心臓のことなんか気にしなかったかどうか知らんけど、謗法闡提というのは、 現代の言葉でいえばそういうことになる。息が出ていることを当たり前にしとる。心臓が動いていることが他力なんです。自分の力でない。絶対他力の、如来大悲を有り難いと思わん。 如来大悲のただ中に生かされて生きとるのが私である。こういうことです。

  そういうことを有り難いと思わんのを謗法闡提という。だから皆、謗法闡提から逃(の)がれることは出来んのや。

●無相庵のあとがき
  親鸞さまと自分を比較するのは実に畏れ多いことですが、愚禿悲歎述懐和讃という歌を遺されていますのは、ご自分の謗法闡提振りを見詰められていたからかと、私は、 謗法闡提から逃れられていない身を思い知らされている自分を少し慰めている次第であります。

なむあみだぶつ

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No.1768  2018.10.22米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―如来の警告ー①

●無相庵のはしがき

  謗法(ぼうほう)というのは、訓読みすれば、仏を謗(そし)る、或いは仏法の悪口を言うことですが、米沢先生は、色々なお陰で生きられていることを知らないことを謗法と言うのだと仰います。 仏さまは、自然の働きを擬人化したものだとも申しますから、その通りではないでしょうか。  

●米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―如来の警告ー①

  いつもいうのでまたかと思われるかもしらんけど、誰か空気のご恩を返せることができますか。空気を拝めん。空気のお世話になっとるんですけど、その空気をありがたいと思わん。 それを謗法(ぼうほう;仏法をそしる)というんです。仏法をそしっているというのは、お経の悪口を言うということでない。生きてる仏法を当たり前にして、ありがたいと思わんのを謗法というのです。 心臓が動いてくださるお陰で、生きとれるんですけど、心臓が動いてくださって有り難い、こう思う者はいない。

  自分が病気して初めて健康のありがたさがわかるように、うばわれてみんと、人間はわからんので、空気のありがたさも、息苦しくなると初めて、 ふだん平気で息ができたということがありがたいと思えるのです。あたりまえのことが、実にありがたいということ。それをあたりまえにして、ありがたいと思わんのを謗法というのです。

●無相庵のあとがき
  仏法に縁の無い人、善の欠片も無い人のことを、仏法では一闡提(いっせんだい)と申します。次回のコラムにて申し上げますが、 これも、米沢先生に言わせれば、他人のことではなく、自分の事なのだと思います。。

なむあみだぶつ

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No.1768  2018.10.22米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―自分自身をいただくー②

●無相庵のはしがき

  米沢英雄先生は能く、自力無効の南無阿弥陀仏と仰っておられます。でも、私は、いつも自力に頼っています。自分が何とか出来るという根拠の無い自信を抱いているように思います。 自分の人生を振り返れば、まさにその自信の所為で、転職とか脱サラ起業したりして、大きな過ちを続けて来て、家族には勿論、その他色々な方々に迷惑をかけて来てしまったことが、73歳にして、 能く分ります。それを何とか挽回しようと、またまた自力に頼っている私です。  

●米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―自分自身をいただくー②

  で、南無というのが大事なんでしょ。
  南無というのは、自力無効ということを南無と言う言葉であらわす。皆南無阿弥陀仏いうてるが、なんも南無しとらんのやな。南無阿弥陀仏というのは、 自分の力は何もならなんだと気がついたときに南無、それが南無です。

  だから皆がいうてる南無阿弥陀仏は、鼻歌念仏やで。私はよくいうのです。皆さんが南無阿弥陀仏いうてるときは、私はよくわかっている。自分もそういうときにでる。 いい湯加減の風呂へ入ったときの、ナンマンダブ。皆自然に出る。それと南無阿弥陀仏は、今は墓場も明るくなったんですれど、昔墓場というと、暗い恐ろしいところや。 そういうところを通るときにナンマンダブがでるんやな。

  自力無効。たよりになるものは何もない。そういうところが本当の南無阿弥陀仏の場所です。だからそういうものほど、南無阿弥陀仏の真相に迫ってゆくのであると。 自分の思うようになる積もりの時にナンマンダブが出るのは、本当に生きた南無阿弥陀仏でなかろうと思う。

  仏法どころでないというのは、さっきいうたけれど、仏法どころでない、そういうときが本当の南無阿弥陀仏の場所である。こういうことです。だから、 我われはいつも南無阿弥陀仏の場所に立たしめられておるということです。自分で知らんだけです。

  皆さんはここに縁あって集まっておられる。これが南無阿弥陀仏。縁がなければ、こういうところへこようと思わんでしょう。ああ桑名別院はあるんかというようなもんです。 縁がなければそんなもんです。桑名別院であろうがなかろうが、そういうことは日常生活にあまり関係がない。

  一番関係があるのが南無阿弥陀仏。これとは離れようと思っても離れられん。如来大悲の中に生かされ、生きとるということを短いことばで表わすと、南無阿弥陀仏になるんですから、 如来大悲の恩徳は身を粉にしても報ずべし、といわれるけど、身を粉にしたって、報じ切れるもんでない。  

●無相庵のあとがき
  結局、私は、臨終の時になって、やっと、自力無効に気付かしめられる臨終往生の身なのだと思います。喜んでお浄土に向かえず、 浄土のほとりでの修行が待ってる身だと覚悟を決めたいと思います。でもただそれだけでも、仏法に出遇ったお陰だと感謝致します。

なむあみだぶつ

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No.1766  2018.10.08米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―自分自身をいただく

●無相庵のはしがき

  今の生活に満足していない人は、「これさえ片付けば、これさえ手に入ったら幸せになれるのになあ」と考えて日々暮らしもし、それなりに努力しているのではないでしょうか。 多くの場合、例えば私のように経済的困窮にある者は、「会社の仕事が上手くいって、金さえあればなあ」と、ついつい考えてしまうものですが、「無いものねだり」なのでしょう。 お釈迦様は、王様の位が約束されている皇太子という地位にあり、耶輸陀羅(ヤシュタラ)という美しいお后もあって、羅ご羅(ラゴラ)という長男にも恵まれるにも拘わらず、城を出て、 山に入って出家の身になられました。何が物足りなかったのでしょうか。多分、物足りないということではなかったのだと思います。それが、今日の法話の中にある、『人間に生まれた喜び』であり、 且つ、自分だけではなく、民も含めて、人間に生まれ得た全ての人が、『人間に生まれた喜び』を感じられることを目的とされたのだと思います。  

●米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―自分自身をいただく

  何のために人間に生まれてきたか、何とかして、皆に自分自身を知ってもらいたい。そういう心から、阿弥陀仏の本願を立てられた。
  本願というと、自分の本当の願いは、金をもうけることだと想っている、総理大臣になることだと想っているバカが日本にもおるのです。金さえあれば、社会的地位さえあれば、 と思うているのが大きな間違いですね。

  もし、社会的地位に恵まれたら、それで人間が満足できるなら、法蔵菩薩が王様の位を捨てんというんです。法蔵菩薩がなぜ、王様の位を捨てたかというと、 そういうものでは人間は真の満足が得られんからです。どんな貧しい暮らしをしておっても、自分自身が見えて、人間に生まれた喜び、そういうもが得られれば人間は満足できるんです。 人間に生まれてきて善かったといえるんです。

  私自身をいただくことができるかどうか、そういうことが、人間に生まれた喜びというものであろうと想います。だから南無阿弥陀仏というのは、 自分自身を確かにいただきましたという領収書である。
  皆領収書というのは半を押すやろ、南無阿弥陀仏というのは、確かに自分自身をいただきましたという領収書です。領収書でない南無阿弥陀仏も氾濫しているのでないかと想うことがあるが、 それは生きとらんものです。生きとる南無阿弥陀仏というのは、確かに自分自身がいただけました、ようこそ人間に生まれさせていただきました。 そういう私自身をいただきましたという領収書が南無阿弥陀仏であると、こう思うんです。南無阿弥陀仏というのはそういう意味をもってるということを知らなければならん。

●無相庵のあとがき
  社会的地位も、お金も無ければ、本当の幸せでは無いのではないかと、ついつい思ってしまうのですが、それは、やはり、〝無いものねだり〟であり、それでは、永遠に幸せにはなれない、 「確かに自分自身がいただけました、ようこそ人間に生まれさせていただきました」という南無阿弥陀仏がついつい口から出る人間になるのが本当の幸せだという仏法の教えを忘れてはならないと思います。

なむあみだぶつ

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No.1765  2018.10.01米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―本当の親孝行


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No.1765  2018.10.01米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―本当の親孝行

●無相庵のはしがき

  「今にして知りて悲しむ、父母が我にしましし、その片思ひ」という窪田空穂氏(くぼた うつぼ、明治10年6月8日 - 昭和42年4月12日;早稲田大学国文科教授、 歌人)が80歳を過ぎてから詠まれた歌ですが、私は73歳で、その歌の気持ちは全く同じです。大学に入学した時、勉強もせずにテニスに打ち込み留年をして心配をかけましたし、 その後社会人になってからも、会社を辞めて、 大学に戻ったり、また、就職した会社でも順調なサラリーマン生活を送れなかったりして、ずっと心配をかけました。結局、母が亡くなってから、脱サラ起業したので、 母は草場の陰でさぞ心配していると思っています。その代わり、現実では、母の代わりに妻に心配をかけ続けています。

  そして、そんな私が仏法を聴いていますから、米沢先生に言わせれば、阿弥陀仏にも片思いをさせているに違いありません。  

●米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―本当の親孝行

  岐阜羽島で会うた奥さんが、何のために来られたかというと、自分の息子さんが、高校生ですけれど、暴走族になって、シンナーを吸う。
  自分は親孝行したのに、親孝行な自分にどうしてこんな子供が出来たろう。

  それで私は言うたんです。自分で親孝行したって言えるようなのは大したことないんです。本当に親孝行したんならば、親孝行の仕方が足りなんだと思うのが本当で、 自分で親孝行したって言えるような親孝行は大したもんでない。

  皆隙間があるんです。隙間を見んのです。
  親孝行しておらんところを見ずに親孝行したとこだけ継(つ)なぎ合わせて、親孝行したとこう言うとるんです。そういうものはあてにならんのです。

  それからみると、窪田空穂という歌人、その人は亡くなられて、その後を息子さんが継いで国文学の教師をして、歌の雑誌を主宰してるけれど、窪田空穂という人は、 早稲田大学の国文学の教授で、歌人です。

  その窪田空穂が80歳過ぎになっての歌に、

      今にして知りて悲しむ父母が
            我にしまししその片思ひ

  若い時に両親のいう事を聞かなんだろう。両親が折角自分の事を心配して、「こんなことしていかん」と言うてくれても取り上げなんだ。若気の至りでな。
  今になって初めてわかったということは、自分の息子も、自分のいう事を聞かんので、初めて自分は若いときに、あの両親のいう事を聞かなんだ。両親を片思いに終わらせた。というので、 「今にして 知りて悲しむ父母が、我にしまししその片思ひ」。こういう痛切な懺悔ができるということが、本当の親孝行じゃないかと思うんです。

  その歌をなぜとり上げて言うかというと、皆さま阿弥陀仏を片思いに終わらせてはならん、という意味でいうのです。我にしましし、その片思ひ。

●無相庵のあとがき
  阿弥陀仏に片思いさせている私ですが、その片思いのお陰で、人生の真実に出遇わせて貰うことになるのだと思います。
  これはどういうことかと申しますと、私は、小学校3年生で父親を亡くしました。当然、遺された母と私たち5人の子供の行く末は経済的困窮に見舞われるのは眼に見えていたと思うのですが、 色々な手助けがあって、私たちはお金に困ったことが無く、5人ともに大学まで出して貰い、何不自由なく、生長させて頂きました。生長させて頂いたお陰で、私はお金の大事さを知らないまま、 社会人となり、結婚もしました。そういう男が脱サラ起業した結果、お金に困る結末を迎え、四苦八苦の老後を迎えている訳です。社会の厳しさ、お金の厳しさを知らないで人生を終わらせてはならない、 と云う阿弥陀仏の片思いだと自分に言い聞かせているところです。

なむあみだぶつ

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No.1764  2018.09.24米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―邪見驕慢悪衆生とは私のことー③

●無相庵のはしがき

  今日の本文の中に、『謗法闡提(ぼうほうせんだい)』という一般の方にも、仏教に関心を持っている私どもにも大変難しい四文字熟語が出てまいります。 意味は、仏法を批判したり、仏法を批判はしないが仏法には極めて無関心な態度であるとか、そういう人々のことを指しての表現です。でも、親鸞聖人が、 自分がその『謗法闡提』だと仰ったということです。私は、仏法を批判したことはありません、関心があるかと言われれば、大いなる関心を持っていると思っています。おそらく無相庵読者の方々も、 私と同じ思いを持っておられるでしょう。 しかし、それは形だけのことだと米沢先生は自戒をこめて仰っているのだと私は思います。そして、成る程とも思いました。

●米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―邪見驕慢悪衆生とは私のことー③

  それから、謗法闡提という言葉がある。謗法というのは仏法をそしる。闡提というのは無関心。仏法に無関心なのを闡提といって、ここに私が居ると親鸞さまは言うとる。 皆さん、真似してもいいが、単なる物真似であってはいかん。自分がそういうものになり切るというのが大事なんです。

  謗法というのは、仏法をそしるというのです。皆、仏法そしった覚えないでしょう。仏壇を大事にしてますんで、毎朝仏壇のお清掃をして、お仏飯上げてお花を取り替えて、 朝晩「正信偈」称えて、仏さん大事にしてますと、こう言われる。
  それは仏壇を大事にしているだけなんです。仏壇はだいぶ金かけて買うたので、仏壇を大事にしているのであって、生きた仏さんは大事にしとらんのでないかと思うんです。

  ご絵像というか、ああいうものを大事にしていることが、仏法を大事にしていることのように間違えている者が、非常に多いということです。
  富山県も浄土真宗が非常に盛んなとこですけれど、井波教育委員会から引っぱられて、教育委員会がやっている事業の一つで、そこのグループ活動に参加している人達を集めて、 話をしてくれということで、そこで話しました。その井波にも中学校の校内暴力が起こっているんです。

  仏壇に向うて「正信偈」あげてナンマンダブいうのが浄土真宗やと思ったら大きな間違いだと、こういうたんです。ひどいことをいうやっちゃの。
  というのは、自分自身を見るのが浄土真宗。親鸞さまの教えです。
  だから親鸞さまの書かれた「正信偈」をいくらあげたって、そんなもん浄土真宗でないと思うんです。自分自身を見るということが、南無阿弥陀仏の教えですから、自分自身、 何のために人間に生まれたか、それを明らかにするには自分自身を見るということが非常に大切なことです。
  自分自身程分らんものはない。自分自身というのは見えんのです。

●無相庵のあとがき
  今回で、『邪見驕慢悪衆生とは私のこと』は終わりまして、次回から『本当の親孝行』をご紹介させて頂こうと思っています。

  今日の本文にある、井波教育委員会に呼ばれて米沢先生が講演でおしゃべりになったという「仏壇に向うて「正信偈」あげてナンマンダブいうのが浄土真宗やと思ったら大きな間違いだ」、 という意味は、中学校の校内暴力を解決するために先生方は何をしているのか、と。先生方も浄土真宗の門徒なら、先生方自身に問題があるんではないかという主旨の話をされたのではないかと、 私は想像しております。「自分自身を見ることなくして、生徒達の暴力を無くせないのだ」、ということをおっしゃったのではないかと思います。

なむあみだぶつ

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No.1763  2018.09.17米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―邪見驕慢悪衆生とは私のことー②

●無相庵のはしがき

  今日の本文の中に、「観経(観無量寿経の略称)」の中に書かれている韋提希夫人(いだいけぶにん)の物語が出て参ります。 その物語を読まれた親鸞聖人は、韋提希夫人の凡夫(邪見驕慢悪衆生)の心を自分も持っていると思われたのです。物語を第三者として読むのではなく、自分をその凡夫の主人公として読まれたのだと 米沢先生は仰っているのです。、  

●米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―邪見驕慢悪衆生とは私のことー②

  私にだまされた方がたくさんおるけど、これまで26歳の小学校の女の先生、それが私にだまされたので一番若い者だと思ってたんです。
  レコード破りが出てきた。25歳の娘さん。札幌でサッポロビールの会社に勤めている娘さんが、私の本を読んで、もう親鸞以外に誰も探す必要がなくなった。こう手紙で言うてきた。
  で、25歳の娘さんがレコード破りや。

  その娘さんが一作年だったかな、京都へ行った帰りに永平寺へ寄って、私のところへ来て、私に一度会いたいと思うて来たと言うて、色紙持って来て、これに何か書いてくれと言うたので、 わしはその色紙に「邪見驕慢悪衆生とは私のことでありました」と書いてやった。
  ところが、その娘さんはそのときには分らなんだんやと。

  昨年私は、旭川の先の士別というところへ行ったときに、その娘さんが札幌からやって来たんです。「近頃になって、やっと少し、 邪見驕慢悪衆生とは私のことでありましたということが分ってきた」と言う。分ってくれて嬉しいと思ったね。

  邪見驕慢悪衆生というのは、親鸞さまなら、これが私であると言われるであろうと思う。地獄一定といわれる人は、邪見驕慢悪衆生とは私のことですと言われます。親鸞さまは、 経典を読むときは自分のこととして読んでおられた。
  たとえば「観経(観無量寿経の略称)」を読まれても、韋提希夫人(いだいけぶにん)の居る所に自分がおると読まれる。韋提希夫人は女です。しかし、ここに私がおると親鸞さまが言われた。 韋提希夫人と同じ心を自分は持っとると、こういうふうに経典を読まれた。

●無相庵のあとがき
  仏法を聴くということは、「仏の心や眼を知り頂戴すること」だと思います。昔から、「自分のことを一番分っていないのが自分だ。」と申しますが、 仏眼を頂くと自分の正体が見えるようになります。親鸞聖人は、自分の正体が〝邪見驕慢悪衆生〟であると自覚されていたので、「観経(観無量寿経の略称)」を読まれた時、 韋提希夫人を他の人とは思えなかったのです。 自分の心の中にいつもお釈迦様が居る、親鸞聖人が居るという状態になりたいものです。

なむあみだぶつ

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No.1762  2018.09.10米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―邪見驕慢悪衆生とは私のことー①

●無相庵のはしがき

  『煩悩具足の凡夫』を言い換えますと、『邪見驕慢悪衆生(じゃけんきょうまんあくしゅじょう)』となるのですが、私たち凡夫は、仏法を聞法していても、 自分を凡夫だと名指しされていても、凡夫は隣の人だ、否、私を苦しめている、近所のあの人のことだ、職場のあの上司のことだと思っているものです。 そのことを米沢英雄先生が「邪見驕慢悪衆生とは私のことだと思いなさい」と、説いて下さっているのですね。「私は自分が凡夫だとは分かっているけれど、 あの人の方が私よりも凡夫だと思う」という私こそが、邪見驕慢悪衆生だと念を押されているのだと思います。

  なお、「邪見驕慢悪衆生」という言葉を難しく考えがちですが、「私は自分の力で生きている」とか、「私は誰の世話にもなっていない」と考えていることを「邪見驕慢」と言い、 「私はボランティア活動もしているし、悪いことは何もしていない」と考えている人を「悪衆生」というのだと思います。そうしますと、やはり『邪見驕慢悪衆生とは私のこと』だったと、 頭を下げるしかありませんでした。  

●米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―邪見驕慢悪衆生とは私のことー①

  函館の奥さんだったが、自分は信心を獲(え)るのに、1年と10日苦労したという。死んで御名仏になるんだったら、別に1年と10日苦労するんでなかったというのです。
  それは、仏になるということはどういうことか、信心というものはどういうものか、そういうことを明らかにするために聞法するのであって、(そういうことを)私は返事に書いたんです。

  親鸞さまも信心を獲られたら、「遠く宿縁を慶べ」といわれた。自分の手柄にせよとはいうておられん。自分の手柄にするのでは、信心を獲たということで驕慢になっておるので、 邪見驕慢悪衆生にひっかかるんです。そういうことが、(函館の奥さんは)わからんのです。自分の手柄にするのでない、「遠く宿縁を慶べ」。宿縁に恵まれた。こういうところが、本当に謙虚さというか、 そういうものを育てるのが仏法というものであります。信心を獲たというて、いばるんでない。

  中には自分が善知識だという人がおるんです。これは真宗の人でそういうことをいう。自分が善知識と、こういうとるんです。これが邪見驕慢悪衆生という邪見驕慢。 「正信偈」をいつも読んでいるのですけれど、邪見驕慢悪衆生は隣の人だと思っておる。邪見驕慢悪衆生というのは、私のことやということがわからんと、「正信偈」を読んだことにならんのですね。

  もう上の空で皆読んどるんや。朝早く「正信偈」を読んでしもうてご飯食べんならんと思うて、「正信偈」読んどるんや。だから心は、「正信偈」読みながらお膳に着いとるという。 人というのはそういう複雑なものです。おもしろいもんや。

●無相庵のあとがき
  私は5人兄姉の末っ子ですが、皆が全員学生(小学生~高校生)の頃(昭和30年前後)、私たち家族は母と共に毎朝、お仏壇の前で浄土真宗の門徒なら誰でも知っている「正信偈」というお経を読み上げていましたが、 学校に登校する前でもあり、「正信偈」が早く終わって欲しいと思いつつ、上の空だったことを思い出しております。まさに「正信偈」読みながらお膳に着いているという状態でした。

なむあみだぶつ

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No.1761  2018.09.03米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―生きながら我執のないのを仏というー②

●無相庵のはしがき

  「生きながら我執がないのを仏という」と云うことは、生きている限り、仏ではないということ。確かに、最近の私の心の中の闘いは、我が我執との闘いと申しますか、 我執に依る煩悩が満たされない〝悪あがき〟だと思いました。救い難い自分を認めざるを得ない、この最近の数週間です。  

●米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―生きながら我執のないのを仏というー②

  だからこの『本願を信じ、念仏申さば仏になる』という言葉は嘘ではないけれども、非常に危ないと思う。というのはその娘さんには、我執が全然ないのです。
  我が身が一番かわいいという心を我執という。皆さんはそれを持っている。私も持っているんや。私はよく言うでしょう。「今地震が来ると皆さんの頭を踏み越えて、 私が一番先に外へ出る」と。自信あるんや。それは我が身が一番かわいい、我執から来とる。そういう時に「どうぞお先に」というておられるか。

  ところがこの娘さんは我執がないのです。腹がへっても、腹がへったといわれんのです。家の者がご飯をくれるまで黙って待ってる。だから我執がない。
  生きながら我執がないのを仏という。だから生きながら我執がない仏が、死んで仏にならんはずがあるかと言ってやった。
  そしたらお父さん喜んだね。お父さん喜ばせるために私はわざと嘘をついたのでない。私は本当にそう信じてるから。だから皆さんも死んだら仏になること間違いない。 肉体あればこそ我執というのはそれに着いておりますけれど、死ぬと我執のもとがなくなるから、仏になること間違いない

●無相庵のあとがき
  「死ぬと我執のもとがなくなるから、仏になる」と言われましても、何の助けにもなりませんが、昔からこんなどうしょうもない『罪悪深重煩悩熾盛の凡夫』を救う為の本願の教えが、 親鸞聖人の教えだと聞かされてきたのを唯一頼りにして、これからも、仏法を聞き続けさせて頂くしかないと、改めて思った次第です。

なむあみだぶつ  

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