No.1780  2019.01.14米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―名利の念を捨てる―①

●無相庵のはしがき
  これから2回のコラムのテーマは、『名利の念を捨てる』です。本文中に、「仏弟子になるということは、娑婆に対する名利の念を捨てたということです」とありますが、 そういうことでしたら、私は、未だ仏弟子ではないことになります。名利とは、社会的地位や名誉、そして、あれが欲しい、これがあったらという物欲を捨て去るということですから、 今の私には到底出来ないことです。朝起きた時から、晩に眠り就くまで、名利を得たくて算段していますから、仏弟子失格なのです。人に依っては、名利を欲さない人もいらっしゃるかも知れませんが、 如何でしょうね。

●米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―名利の念を捨てる―①

  十念の念仏というのがあるのです。
  浄土宗で、十念の念仏を授けるというのは、真宗でいう、おかみそりと一緒。
  禅宗でいう授戒、曹洞宗永平寺でも、春だろうと思う、授戒会というのがある。戒を授けるというこれは、形式的なもんです。
  おかみそりも形式的ですけれど、おかみそりというのは、頭を剃るだけでしょう。私は、おかみそりを受けたような頭ですけど、おかみそりというのは、かみそりをちょっとあてるだけでしょう。 形式でいっている。

  そういうことで一番大事なことは、「名利の念を捨てる」ということです。名利の念を捨てることは、おかみそりの本当の精神です。
  仏弟子になるということは、娑婆に対する名利の念を捨てたということです。あんまり名利の念は、捨てない方がええぞ。

  というのは、西行法師は、宮中警護の武士だったのが、一念発起して仏門に帰依した。そのときに奥さんや子供を捨てて、仏門に入ったというのです。
  皆さん、西行法師の真似せん方がええぞ、奥さんや子供の嘆きはいかならん。。

●無相庵のあとがき
  浄土真宗の教えがもし、「名利の念を離れよ」というものでしたら、私は仏法を人生の道しるべにはしなかったと思います。浄土真宗以外の仏法は全て、 「名利の念を離れよ」ということを求めているのではないかと思います。そして、倫理道徳を説く団体は、皆で朝起きして、共に励みましょうと説いているのかも知れませんが、 生身の身体で、この格差社会、この競争社会の娑婆を生きる限り、名利の念を捨てることは出来ないというのが、真っ当な見解ではないでょうか? 「名利の念を離れよ」それで無ければ、救われないということになりますと、名利の念を捨てられず、名利を得られない私は、救われません。 それを救って下さるのが唯一、親鸞聖人のお教えであり、この世に人間として生まれた意味に目覚めるという考え方だと思います。

なむあみだぶつ

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No.1779  2019.01.07米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―臨終往生―④

●無相庵のはしがき

  遅くなりましたが、新年、明けまして、おめでとうございます。

  今年の3月に74歳になる私は、未だ認知症ではないように思いますが、頭の働きと、いわゆる記憶力がかなり衰えていることを頻繁に感じる昨今で、無相庵コラムの更新も、 色々と難儀することが目立ってきました。おかしな内容にならないよう、気を付けてはいますが、自信はございません。そのようなことがありました際、ご容赦下さいますよう、お願い申し上げます。 出来るだけ頑張って、これからも続けたいと思います。どうか、宜しくお願い申し上げます。

●米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―臨終往生―④

  死にぎわに、阿弥陀さんが、迎えに来る話ではない。

  平生業成(へいぜいごうじょう)という。普段から聞いておったのが、死ぬときに初めて頭に浮かんできて、「叔父さん、おばさん、お世話になりました」その一言で、 一言を書いた者が人間になれる。犬や猫が死ぬときに「お世話になりました」なんて言わないでしょう。その一言が言えるということで、死後も人間になれるんです。これを臨終往生というのです。

  阿弥陀さんが迎えに来る話でない。阿弥陀さんが迎えに来るということを言ってきた者は、不届き者であると思う。浄土真宗の教えを聞いて、どうなるのかということがはっきりしてないから、 そういうごまかしを言ってると思う。
  本当の人間にする教えが浄土真宗であるということになると、「叔父さん、おばさん、お世話になりました」その一言が言えるために人間に生まれて来たということです。

  みんな、だから、普段は文句ばっかり言うてるでしょうけれど、死ぬときには、せめて死にぎわには、お世話になりましたと言ってもらいたいと思うんです。みんないうこと間違いないね。 死ぬ時には、枕元に集まった者に対してお世話になりましたって、ありがとうって、こういうでしょう。多分言うだろうと思う。

  私も、交通事故にでもあって、あっという間に死んでしまえば、言う間も何もないけど、普段から言っておくことが大事です。皆さん、言いなさいよ。お世話になってありがとうって。 実は、こういうことが言えるかどうかということで、こっちが人間になるかどうかの境い目ですから、大事なことです。「ナンマンダブ」いくら言ったって駄目です。

●無相庵のあとがき
  今日の法話の冒頭に、『平生業成(へいぜいごうじょう)』という言葉がございますが、これは、親鸞仏法の肝とも言われる考え方と申しますか、教えでもあります。

  しかし「平生業成」とは、「生きている今、救われる」ということではありますが、「救われる」ということは、「禅門でいう悟りを開いて、 苦しみも何もなくなり平穏な人生が始まる」ということでは無いと思います。

  では、親鸞仏法の救われるということは、どういうことをいうのでしょうか?試験問題に対する回答のように簡単な言葉で言い表せるものではないとも思いますが、私は今年も、 仕事や生活を通して、一般の人々にも分かり易く説明が出来るように勉強を続けたいと思っております。、

なむあみだぶつ

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No.1778  2018.12.27米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―臨終往生―③

●無相庵のはしがき

  今年も押し詰まりましたところで、漸く、パソコンが正常に働いてくれるようになりました。私はパソコンを使用出来る技能は少々持っていますが、 どのような仕組みで動いているか殆ど分っていません。丁度、自動車の運転と同じで、自動車が動く仕組みは知らなくても、運転は出来るというようなものです。 パソコンに何か異常が発生した時には、息子(46歳)か娘(44歳)に出動要請を致します。今回は、サラリーマンの息子は年末で忙しいと思いますので娘に依頼しましたが、 娘の子供二人がインフルエンザに罹りましたので、当然娘も菌を抱えていると思いまして、呼び寄せるにはタイミングが必要でした。従いまして、10日間も、 無相庵コラムを更新出来なかったと言う訳でございます。

  本日(12月27日)から、再開させて頂きます。無相庵へのメールも可能になりました(musouan@plinst.jp)。

●米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―臨終往生―③

  普段からきいているんです。人間というのは、人の世話になるものだと、そういうことを教えるのを善知識というのです。
  お寺さんが、善知識というのでないのです。「みんなのお世話になる」と、普段から聞いておるでしょう。死にぎわに思い出して、「叔父さん、おばさん、お世話になりました」これを書いたので、その子は人間になったのです。 叔父さん、おばさんは、普段世話をしておっても、その子の気に入らないことをしたこと間違いないのです。
  そういうことあるでしょう。みんな覚えがあるでしょう。その一言を書き残して置かないと、叔父さん、おばさんが、浮かばれないのです。

  しょっちゅう、一生気にしなければならないでしょう。自分に対して不足があって自殺したのでないかと、一生背負ってゆかねばならん。ところが、 「叔父さん、おばさん、お世話になりました」その一言が大事なのです。これが「ナンマンダブ」です。

  死にぎわに、阿弥陀さんが、迎えに来る話でない。

●無相庵のあとがき
  米沢先生は、臨終になってやっと自力無効を悟るのを臨終往生と仰ってたと思います。確か故田中角栄首相を例え話にされていたと思います。 ここでも、臨終往生とは、「死にぎわに、阿弥陀さんが、迎えに来る話でない」と仰っていますが、「お世話になりました」ということは、自力で生きて来たのではないということですから、やはり、 自力無効を認めたということなのでしょう。理屈っぽくなりましたけれども・・・。

なむあみだぶつ

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No.1777  2018.12.17米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―臨終往生―②

●無相庵のはしがき

  このコラムの〝はしがき〟は、パソコンの不具合で書けませんでした。 臨終往生がテーマですが、往生はしたいですけれども、臨終ではなく生きている今何とかしたいと思います。でも、考えてみますと人間以外の他の動物は臨終往生すら出来ないと思いますので、 やはり、人間の命を頂いたことを感謝しなければいけませんね。  

●米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―臨終往生―②

  そこで、私の言いたいのは、「臨終往生」です。

  三十年も前の話しですけど、私の近くに娘さんが一人自殺したのがおるのです。
  それは、その両親が病気で亡くなって、両親が病気で亡くなるのを、私は職業がら診(み)たことがある。両親が亡くなる前から大きな家でしたけど、この亡くなった主人の弟、 つまり叔父さん夫婦がそこへ入って来て、残された三人の子供を世話しておったわけてす。

  その長女が、バスガールになって、バスガールになった関係かどうか知らないけど、バスの運転手さんと恋愛して、それがうまくいかなかったか知らないけれども、睡眠薬飲んで自殺した。
  私は近所ですから医者であるということで、よばれて行きました。よばれて行きましたら、睡眠薬の空きがらが、枕元に置いてあった。
  ところが、私は死亡診断書を書くことができないのです。病気で死んだのなら、私は死亡診断書を書きますけれども、自殺となると、変死で、これは警察に届けて、 警察医が死体検査書という死亡診断書と違ったものを書かねばなりません。

  その叔父さん夫婦に、私死亡診断書を書けないから、警察に届けて、警察医に書いてもらいなさいといって、帰ったのです。帰りぎわに、何か書き置きか、 遺書がある筈だからさがしなさいというと、おばさんが言うには、遺書があると思ってさがすのですが、無いというのです。どっかに書いてあるはずだから遺書をさがしなさい。 あったら私のところへちょっと届けてくれと、こういい残して帰ったわけです。

  二、三日たってから、そのおばさんがきまして、遺書があったといいました。それは、日記帳にちょっと書いてあった。くわしく、どういう文句が書いてあったか覚えておりませんけれど、 とにかく「叔父さん、おばさん、お世話になりました」こう書いてあった。

  これで人間になったのです。つまり、お世話になりましたということがいえたので、人間になったのです。臨終往生というのは、こういうものですよ。

●無相庵のあとがき
  私たちは、多くの人のお世話になって生きています。そのことへの感謝の心を失ったら、最早人間ではないということですね。私の両親は30年以上前に亡くなっています。 仏間には、親鸞聖人の絵像と写真が残っている祖父と共に、両親の写真を飾っています。ついつい忙しさに紛れて忘れがちになる私ですので、感謝を忘れないための努力です。

なむあみだぶつ

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No.1776  2018.12.11米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―臨終往生―①

●無相庵のはしがき

  今日の本文の冒頭に、「本願は四十八あるけれど、その中で「十方衆生(じっぽうしゅじょう)」と言って、我われによびかけた本願が、十八、十九、二十の三願がある。」とあります。 この三願は、親鸞さまが『大無量寿経』を独自に解釈され『三願転入(さんがんてんにゆう)』と云われる論理として有名ですが、かなり難解な論理です。私は十八願にある『唯除(ゆいじょ)』の文が、 信心獲得の道筋におけるキーポイントではないかと考え、無相庵コラムに、『唯除の文』のカラクリという一文を残しておりますが、 未だ未だ不勉強です。 垂水見真会に、2度ご出講下さった故信楽峻麿師が『親鸞における三願転入の論理』という解説書を発表されていますので、ご興味を抱かれてるお方は、 お読み頂きたく思います。やはり、難解ではあります。  

●米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―臨終往生―①

  本願は四十八あるけれど、その中で「十方衆生(じっぽうしゅじょう)」と言って、我われによびかけた本願が、十八、十九、二十の三願がある。

  十九願は、「臨終往生」というか、死ぬときに阿弥陀さまがお迎えに来るということになっているのです。  それで、死にぎわに阿弥陀さまが迎えに来たって何にもならない。現代は死んでから金色の自動車が迎えに来るが、生きている間に、浄土というのはどういうことか、「浄土の中に生かされて生きている自分」ということを確認するということが、非常に大事なことで、それを親鸞さまは、「現生不退(げんしょうふたい)、現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)」といって、やかましくいわれたのでないかと思うのです。  そういうことが一番大事なことであろうと思うのです。 十九願というのは、「臨終往生」といわれて、死にぎわに阿弥陀さんが迎えに来ることになっておるのです。  これに対して、私は異議を持っている。というのは、我われを本当の人間にするという教えが、本願であります。無上仏にならしめる。本当の人間にさせたいというのが本願であります。  この十九願「臨終往生」の最適任者というのが、田中角栄だと思うのです。個人的な名前を出してまことに御無礼ですけれど、田中角栄というのは、角栄一人でない、こういう類(たぐ)いが沢山おるのです。この中にも名前の違う田中角栄がおられるだろうと思う。その田中角栄の代表的な名前でいう類いの人は、どういうのかというと、カネさえあればなんでもできると思っている人、これを田中角栄と称するのです。  カネさえあれば、なんでも出来ると思っている。ところが、あの人も、死ぬときに、死ぬことだけはカネでも買えなんだということになる。地獄の沙汰もカネ次第というけれど、死ぬことから逃げることは出来ない。  立派な葬式をするとか、そういうことはカネ次第です。だけと、死ぬことから逃げることは、カネではどうにもできなかった。「自力無効」ということを清沢満之が言っておられる。自力無効を悟ったのが人間です。 だから、田中角栄は、死にぎわに初めて自力無効を悟って、人間になれるであろうと思う。今は、人間でない、形だけの人間です。  あれは、カネさえあればということで、カネに取り憑かれている。ああいうのを亡者(もうじゃ)という。だから、田中角栄は、死ぬときに初めて人間になれる。  それは人間に無理やりにならしめられるということです。無理やりならしめられたんでは、どうにもならん。自分で進んで人間になるということが大事なことでないかと思うのです。

●無相庵のあとがき
  歴代首相の中でも特別な存在だった田中角栄氏に付いて、「あれは、カネさえあればということで、カネに取り憑かれている。ああいうのを亡者(もうじゃ)という。」と米沢先生はいわれ、 そして、「だから、田中角栄は、死ぬときに初めて人間になれる。」とも仰っしゃり、第十九願の「臨終往生」の見本だと説明されていますが、今の私は公私ともに借金地獄に陥っており、 朝、目が覚めると、先ず、お金の算段が浮かびますので、私も臨終往生出来たら、良い方ではないかと思っております。何とか浮かび上がりたいと思いつつも、無相庵コラム執筆で救われているところです。。

なむあみだぶつ

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No.1775  2018.12.10米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―本当の人間になる教えー②

●無相庵のはしがき

  今回は、来週月曜日更新予定分を前倒しで更新させて頂きます。
  本当の人間になるという『本当の人間』とは何でしょう。米沢先生は、本文中に「その本当の人間を仏という。」と仰っていますが、人間の私が仏というより、 私は、正真正銘、罪悪深重煩悩熾盛の凡夫でもありますが・・・?  

●米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―本当の人間になる教えー②

  仏法であり、浄土真宗であると申しましたが、親鸞という方は、仏法というと浄土真宗であると、こういうふうな見識を持っておられる。
  ですから親鸞さまにおいては、浄土真宗というのは、宗派でないのです。私は親鸞さまに〝かぶれて〟おりますので、宗派としての浄土真宗ではないのだと、 親鸞さまから教わった浄土真宗であると申しておる。

  皆さんは、浄土真宗というと、「正信偈」をあげて「ナンマンダブ」いうのが、浄土真宗だと思っておられると思う。そういうふうにお寺さんがしつけてきたというところに、 大きな間違いがあると思うんです。
  浄土真宗が形式的になっておるのです。形式的にしてきたところに、いかに今日までの教化の歴史の誤りがあるかということを、私は痛切に感ずる。

  浄土真宗を心得て、初めて本当の人間になれるということです。浄土真宗というのは、本当の人間にする教えである、こういうことが非常に大事なことです。 その本当の人間を仏という。本当の人間にする教えが、浄土真宗なんです。だから浄土真宗というのは、葬式することや、法事をすることでないんです。
  親鸞という人は、葬式をされなんだのです。お経をあげられなんだのです。お経は勉強はしておられたけど、お経をあげなんだのです。 親鸞さまがやらなかったことばかりやっているのが、今日の浄土真宗のお寺さんである。

●無相庵のあとがき
  米沢先生は、コラムNO.1740で、仏凡一体ということを仰っていますので、多分、それを踏まえての、ご見解だと私は思います。 また、米沢先生は「親鸞という人は、葬式をされなんだのです。お経をあげられなんだのです。お経は勉強はしておられたけど、お経をあげなんだのです。 親鸞さまがやらなかったことばかりやっているのが、今日の浄土真宗のお寺さんである。」と愚痴っぽい事を申されていますが、お寺さんも、我われと同じく、罪悪深重煩悩熾盛の凡夫だと、 見守るしか無いのかも知れませんね。

なむあみだぶつ

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No.1774  2018.12.03米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―本当の人間になる教えー①

●無相庵のはしがき

  米沢先生は、動物は精神界を持たないと仰いますが、精神界というのが、感情を含むものだとしたら、そんなことは無いと私は思います。飼主と他人の区別が出来るからです。好き嫌いではなく、 自分に危害を与えるかどうかの区別かも知れませんが・・・。先生の言われる精神界ということが、例えば自分が何者であるかとかの自覚する能力だとしたら、それを動物は持っていないかもしれません。 そういう意味で、「精神界を持つか持たないかということは、人間になるかならないかの境い目だ。」ということで、どうでも良い事では無いと思います。そして、 「我われ人間を、本当の人間にする教えが仏法であり、浄土真宗である。」ということで、やはり、聞法が大事なのですね。  

●米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―本当の人間になる教えー①

  親鸞さまも書いておられる、「無上仏にならしめんとちかひたまへる」、ちかひのやうは、無上仏にならしめんと、我われ一人ひとりを無上仏にならしめん、「無上仏」というのは、 この上無い仏、無上仏というのは、色も無く、形も無くおわしますと書いてある。

  我われは形を持ってます。形を持っておる者を、色も無く形も無い仏にさせようという、わしの身体を消してしまうのかという、そういうことではなく、形の無い世界を与えるということです。
  それを形の無い世界ではわからないので、浄土というのです。浄土というのは、形があるようで、形の無い世界。この浄土のことを、先程、皆さんが「絶対他力の大道」を読まれましたが、 あれを書かれた清沢満之という方は、精神界といわれた。精神界というのは、みんなわからない。何故わからないかというと、形が無いので、わからない。

  精神界を皆に持たせようということなんです。無上涅槃というのは、形の無い世界、精神界のことなんです。
  我われは、生物としての人間として生きておりますから、物を食わねば生きておられません。その点では、動物も一緒です。犬も猫でも、小鳥でも物を食べて生きておる。 しかし、彼等は、精神界というものを持たないでしょう。多分持たないだろうと思うんです。

  私は、あの犬の言葉、小鳥の言葉がわからないのですが、多分精神界というのを持たないだろうと思う。
  精神界を持つことが出来るのは人間だけです。だから、精神界を持つか持たないかということは、どうでもよいような問題でなくて、人間になるかならないかの境い目だと思う。 我われ人間を、本当の人間にする教えが仏法であり、浄土真宗である。

●無相庵のあとがき
  本文中に、「浄土というのは、形があるようで、形の無い世界。」とのお話があります。私たちには五感【眼・耳・鼻・舌・身(げん・に・び・ぜつ・しん)】があり、 形を認識出来る眼を持っています。死ぬということは、肉体が無くなりますから、眼が無くなり、形が人認識出来なくなり、行き先があるとしたら、形の無い世界ということになります。その世界を仏教では、 浄土と呼んでいるという訳ですね。形がありませんから、執着心もない、ゼロの世界です。面白くはありませんけれども、その分、苦労も悩みも無い世界です。それが死んでからてなく、生きている間に浄土へ 往き生まれようではないかというのが、親鸞さまの、現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)とも、現生不退(げんしょうふたい)とも云う教えだと思います。

なむあみだぶつ

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No.1773  2018.11.26米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―『自然法爾章』は親鸞思想の根本ー②


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No.1773  2018.11.26米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―『自然法爾章』は親鸞思想の根本ー②

●無相庵のはしがき

  「この自然法爾章』というのは、親鸞さまの晩年88歳のときに、書かれたということになっております。」と米沢先生が言われておりますが、88歳というのは、長男の善鸞を勘当した2、 3年後のことです。自分の名代として関東に派遣した長男が、関東の人々にご自分の教えと異なることを説き聞かせたことが分ったからですが、これは大変大きな出来事だったと思います。 そういう苦難を乗り越えられて後の『自然法爾章』ですからこそ、値打ちがあると思います。  

●米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―『自然法爾章』は親鸞思想の根本ー②

  私は今日まで、方々に引っぱられて、浄土真宗のことをお話してきた積もりでおりますけれども、私の根拠は、この『自然法爾章』にあるのです。

  『自然法爾章』というのは、親鸞さまの晩年88歳のときに、書かれたということになっております。晩年の思想の最も円熟した時に書かれた文章としては、非常に短い文章ですけれども、 親鸞さまの思想の根本的なところを説いてあると思うのです。私は、この『自然法爾章』を根拠にして、今日までお話ししてきた積もりであります。

  前回申したように、私は若い時に『歎異抄』を手にして、分りませんでした。はっきり言うと、清沢満之という方のお弟子(註、多田鼎師)が書かれた解説書を読んで分りませんでした。 だから、私は大抵の人が読んで、わからない場所はどこかということを蛇の道はヘビで、大体わかる。

  例えば、「弥陀の誓願不思議」、弥陀の誓願不思議というものは、どういうものであろうかと。「摂取不捨の利益にあずかる」、 摂取不捨の利益(りやく)にあずかるとどうなるかということは『歎異抄』には書いてない、摂取不捨の利益にあずかるとどういうことになるのか、私の問題でありまして、そういうことを、 長年かかって考え続けてきたということであります。この『自然法爾章』は、その点で非常に大事なものでありますが、自然(じねん)ということが書いてあります。

●無相庵のあとがき
  仏教では、聞・思・修(もんししゅう)という仏道修行の過程があると考えます。『聞・思』は、聞法をして、それを自分の頭で考えて理解するということだと思います。 通常、浄土真宗では、頭で考えるのは間違い、聞法あるのみということを言われることもありますが、それは如何かと私は思います。米沢先生も、「弥陀の誓願不思議というものは、どういうものであろうか」、 「摂取不捨の利益(りやく)にあずかるとどうなるかということか」と考えられたと仰ってます。聞きっぱなしでは駄目ではないかというのが常識的ではないかと私は思っておりました。 そして、「修」は、信心を獲得した後、それで終りではなく、日常生活の中で、色々な苦難に遭いながら、自分の信心を確かめるのが浄土真宗の修行であると考え方もあるようです。その通りではないでしょうか?

なむあみだぶつ

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No.1772  2018.11.19米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―『自然法爾章』は親鸞思想の根本ー①

●無相庵のはしがき

  今回は、自然法爾章の原文の後半、『自然といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。・・・』以降の内容を引用し、これから、自然法爾章に込めた親鸞聖人の想いを語ろうという、 米沢先生のお考えと思われます。  

●米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―『自然法爾章』は親鸞思想の根本ー①

  今年も生きて皆さまにお目にかかれるますことを、私のためにおめでたく思います。ひとはどうでもいい、自分が生きているということが一番大事なことです。
  前回は『自然法爾』の前半をお話したので、今回は後半をお話します。と申しても、自分勝手な解釈ですから、それをどういうふうに受け取られるかは、皆さんのご自由です。 私は別に強制はいたしませんので、ご自由に取捨選択をしてくださるようにお願い致します。

  自然といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひて、行者のよからんとも、 あしからんともおもはぬを、自然とはまふすぞとききてさふらふ。ちかひのやうは、無上仏にならしめんとちかひたまへるなり。無上仏とまふすは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆへに、 自然とはまふすなり。かたちましますとしめすときは、無上涅槃とはまふさず、かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめに弥陀仏とぞききならひてさふらふ。 弥陀仏は、自然のやうをしらせんれうなり。この道理をこころゑつるのちには、この自然のことは、つねにさたすべきにあらざるなり。つねに自然をさたせば、義なきを義とすといふことは、 なを義のあるべし。これは仏智の不思議にてあるなり。

  こういうことなんです。

●無相庵のあとがき
  自然法爾とは、縁ということを言い換えた言葉でもあると私は思いますが、果たして、それが当たっているのかどうか、私自身も勉強して参りたいと思っております。

なむあみだぶつ

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No.1771  2018.11.12米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―如来の警告ー④

●無相庵のはしがき

  今回の『如来の警告ー④』は、親鸞さまの教えの最も大切なところを述べられていると思います。「本願とは何か?」、「獲得(ぎゃくとく)とはどういう意味なのか?」、 「本当の自分に会うということはどういうことなのか?」、その問い掛けに、明確に答えられなければ、親鸞さまの教えに出遇えたということにはならないのだと、私は思いました。 私は未だ分っていなかったなあと思いました。無相庵読者の皆さまは如何でしょうか?  

●米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―如来の警告ー④

  だから、親鸞さまが謗法闡提、ここに自分がおると、いわれたのは、しょっちゅう飛び出しどおしの自分である、こういうことを親鸞さまは身にしみて感じられたのでしょう。
  感じられたればこそ、如来の五劫思惟の本願は、自分一人のために立てられたというて、普段も非常に喜んでおられたということは、飛び出しどうしの自分であるからこそ、 それを引き戻すために、如来大悲へ引き戻すための本願であった、と。

  本願というのは、我われの本当の願いです。それを我われが分らんから、阿弥陀仏がお前の本当の願いはこれやと、自分自身に会うことやと、自分自身に会うのには、阿弥陀仏の浄土に生まれて、 初めて会うことが出来るんですぞ、ということを教えられたんだと私は思う。

  自然法爾に付いては、後のほうでまだ申し上げねばなりませんけれど、私は今日、獲得(ぎゃくとく)ということだけについて、お話しました。
  人間に生まれるときにすでに、我が国に生まれんと欲(おも)えという願が、皆の中に埋め込まれておるのです。埋め込まれてる証拠があるかというと、私は今何もいうことありません。 もう今のままで満足ですといわれる人がありますか。何か不足があるわけ。不平不満がちょっとでもあったら、それが我国に生まれんと欲えという心が、人間にそういう形で表われるということです。
  私はそれをコップの中に水を入れて、そこに箸をつっこむと箸が曲がって見えるようなもんで、我われにおいては、欲生我国、阿弥陀仏の浄土に生まれたいと思う心なんかあると思うておらんのです。不平不満というものが、それだけが我われに見える。不平不満が少しでもあったら、 それが欲生我国の人間における表われであるということです。
  不平不満があるということが足を運ばせる。今満足ならばわざわざ、朝早う起きて雨の中をここまで来られるはずがないと思うんですね。欲生我国が皆さんの心の中にあったということが、 非常におめでたいことである。こうお世辞を言うて私の話を終わらせて頂きます。

●無相庵のあとがき
  「コップの中に水を入れて、そこに箸をつっこむと箸が曲がって見えるようなもん」というのは、『我われにおいては、欲生我国、阿弥陀仏の浄土に生まれたいと思う心』を本当は持っているのに、 それを『不平不満の心』としか見えないという理屈を説明されているのだと思います。そういう意味では、私たちに執拗な自己愛が『水が入ったコップ』ということになるのだと思います。親鸞さまが、 私たちに先んじて、今回の『如来の警告ー④』に気付いて頂いて、その理屈を米沢先生が、分かり易く説明されて、やっと本当の自分に遇えた時、本当に心の底からの『南無阿弥陀仏』が思わず口を衝いて出る、 そういうことではないかと思いました。

なむあみだぶつ

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