No.1790  2019.03.25米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―天上天下唯我独尊―②

●無相庵のはしがき
  お釈迦さんが、七歩あるいてから、「天上天下唯我独尊」と言われたがどうかあやしいものですが、何故七歩かということは、この法話の中で、 六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)を超えるということであるという米沢先生のご説明が一番大切だと思います。六道を超えるというのは、 なかなか人間には難しいことですが、人間に生まれたからこそ、可能性はあるという仏教の考え方なのかも知れません。

●米沢英雄先生の『自然法爾(じねんほうに)』(光雲社出版)―天上天下唯我独尊―②

   応身仏というのは、始めがあって終りがある。

  オギャーと生まれたときがあって、80歳で入滅するという終りがある。いまオギャーと生まれてといったけど、お釈迦様は、オギャーといわなかった。
  ご承知でしょう。

   お釈迦さんは、生まれたときに、七歩あるいたという。「天上天下唯我独尊」といったという。こんな赤ん坊というのは、聞いたことがないな。だからお釈迦さんというのは、 既熟児(きじゅくじ;米沢先生の造語だと思います)じゃないかと、私はいうんです。
  未熟児ということは聞いているけれど、既熟児というのは、あまり聞いたことない。弁慶も既熟児だ。ヒゲはえて生まれてきたという――だから既熟児や。お釈迦さんいったって、 これは既熟児や。

  動物は、生まれてしばらくたつと、自分の足で立つでしょ。人間の子は、自分の足で立たれんでしょう。だから、ある生物学者は人間は、一年早く生まれていると、いっている。 「あんよは上手」っていってやっと歩けるようになるのは、満1歳過ぎてからでしょう。だから一年早く生まれているといわれるのも、まことにもっともだと思う。

   動物は、生まれてしばらくたつと自分の足で歩くのだから、お釈迦さんは、動物みたいな人で、七歩歩いたという。「天上天下唯我独尊」といったという。オギャーといわなんだという。

   これはおかしな話だと思うけど、七歩歩くということは、六道(註、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)を超えるということです。六道を超える道を教えるために生まれてきた人である。

●無相庵のあとがき
  前回の法話の〝無相庵のあとがき〟の繰返しになりますが、「天上天下唯我独尊(てんじょうてんがゆいがどくそん)」という意味は、大宇宙で、唯一私独りが尊いということではなく、 大宇宙の中に頂いたこの〝いのち〟は、大宇宙が総がかりで生み出した、とても、とっても尊いものであるから、大切にしましょうという意味だと解釈したいです。

なむあみだぶつ

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No.1790  2019.03.25米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―天上天下唯我独尊―①

●無相庵のはしがき

  『天上天下唯我独尊(てんじょうてんがゆいがどくそん)』は、お釈迦様が、生まれてから7歩、歩いてから仰った言葉だとも言われますが、そんなことがあろうはずが有りません。 でも、何時の日か仰ったのでしょう。この意味は、私たちの漢文読みからしますと、「天上天下、つまり、大宇宙で、ただ私だけが尊い存在である」と受け取られるものと思いますが、勿論、 そういう意味ではありません。『我』というのは、〝いのち〟と受け取るべきでしょう。つまり、〝いのち〟は、宇宙と引き替えにする位に尊いものである、或いは、宇宙全体に支えられて生きている 存在である、そういうふうに受け取りたいと思います。

●米沢英雄先生の『自然法爾(じねんほうに)』(光雲社出版)―天上天下唯我独尊―①

   無為自然というのが、法身仏のことなのです。法身仏のことを、真宗があまり言っておらないために、真宗の教えが不透明になってきたのでないかと、私は思う。

  親鸞様は、『愚禿鈔(ぐとくしょう)』の中で、仏に四種ありと言っている。仏に四種類あるのですぞ。

    法身仏(ほっしんぶつ)
    報身仏(ほうじんぶつ)
    化身仏(けしんぶつ)
    応身仏(おうじんぶつ)

  この四つあると。こういうことを言っておられが、これは非常に大事なことなんです。
  禅宗では、法身仏と応身仏。応身仏というのは、肉体を持った仏、お釈迦さんです。
  お釈迦さんは、伽那城(がやじょう)でオギャーと生まれた時があって、沙羅双樹の下で80で入滅されるという終りがある。

  だが、法身仏は、無始無終といって、始めもなく終りもない。つまり真実だから始めもなく終りもない。無為自然だから、始めもなく、終りもない.無為自然だから、 始めも無く終りもないというのは、まことにもっともです。

●無相庵のあとがき
  「法身仏は、無始無終といって、始めもなく終りもない。つまり真実だから始めもなく終りもない。無為自然だから、始めもなく、終りもない.無為自然だから、 始めも無く終りもないというのは、まことにもっともです。」という意味が分り難いです。「応身仏」というのは、お釈迦様のことで、私たちと同じ人間ですから、初めがあって、やがて消えて無くなると。 しかし、「応身仏」を生み出したのは「法身仏」です。「法身仏」は、大宇宙そのものですから、始めもなく終りもないという事だということかも知れません。

なむあみだぶつ

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No.1788  2019.03.11米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―無為自然―②

●無相庵のはしがき

  『無為自然』というのは、人間の〝はからい〟を超えて生じる自然の道理と言えます。米沢先生は、この『無為自然』の法話を締めくくるに際しまして、 日頃声を大にして仰りたかった浄土真宗が衰えた原因を語っておられます。禅宗のお坊さんは悟りに付いて語られるけれども、どうすれば悟れるのか、 その道筋を私たちが分るように語るお坊さんは少ないのですが、米沢英雄先生に言わせると、浄土真宗のお坊さんも同じであると。
  「浄土真宗の教えは、そんなものとは違う。種を明かされれば、明かされる程面白い。毎日の生活の中で、確かめてゆくことができる」と仰っておられます。それはどういうことかと申しますと、 日常生活がそのまま修行の場だということです。日常生活では、自分の思うようにならないことに遭遇します。その場合、浄土真宗の教えは、仏教の基本である「縁起の道理」と共に、 その自分の思う通りにゆかない原因が自分の側にもあることに気付かされるからだと思います。

●米沢英雄先生の『自然法爾(じねんほうに)』(光雲社出版)―無為自然(むいじねん)―②

  そのテレビに出た臨済宗のお寺さんが、これを言わないんです。種明かしをすると、値打ちが下がると思って。隻手音声と言っただけで、種を明かさないのです。 私の話は浄土真宗種明かしと称しておる。

  普通、手品なんていうのは、不思議なことやるけど、種を明かされると、「なんじゃー!」というようなものだ。しかし、浄土真宗の種明かしは、そんなものとは違う。種を明かされれば、 明かされる程面白い。毎日の生活の中で、確かめてゆくことができるので、浄土真宗の種明かししても、決して損にならない。
  手品は、種明かしすると、損になる。臨済宗のお寺さんも、手品師と一緒で種明かしせんのだ。種明かしすると、値打ちが下がるように思う。情けない奴やと思う。 名利の念にとらわれているんです。名利の念にとらわれておらんような、おるのかも知れないけど、おらんような顔せんならん。

  種明かしをすると、その種が分れば分る程、非常に面白いというのが、浄土真宗の教えなのです。
  今、面白いという言葉を使ったけれども、面白くない説教してきたことが、浄土真宗を衰えさせた原因であると思う。

●無相庵のあとがき
  米沢英雄先生は、能く、日常生活は仏道の応用問題を解く場だと仰ってます。お念仏を称えるのが、浄土真宗の教えではないのです。 浄土真宗の宗祖は、親鸞聖人ですが、その親鸞聖人を見習って、日常生活の問題に真剣に取り組むことこそが、法話を聴くことでもあるということだと思います。 私は私生活において、多くの難問に遭遇し続けておりますが、全ては縁に依って起こるということを含めて、親鸞聖人の法話に助けられていることは間違いないと思っています。

なむあみだぶつ

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No.1787  2019.03.11米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―無為自然―②

●無相庵のはしがき

  「一寸先は闇」という言葉もありますし、「なるようになる、なるようなっていく」という言葉もあります。今日の『無為自然』も『隻手音声』も、難しい言葉ですが、 そのようなことを言っているのだと思います。

●米沢英雄先生の『自然法爾(じねんほうに)』(光雲社出版)―無為自然(むいじねん)―①

  「自然といふは、もとよりしからしむる」、無為自然というのは、何もしないということです。何もしないということは、無限の可能性を秘めているということですよ。 無限の可能性を秘めているのを無為自然という。

  何時か、亀井君(亀井 鉱、かめい ひろし、1929年 - 浄土真宗の在家信徒、仏教評論家)がテレビに出るので、私は見とったのですけれど、臨済宗のお寺さんが、 隻手音声(せきしゅおんじょう)、片手の声を聞けという。これは白隠という徳川中期に出た臨済宗のお寺さんが考えた公案です。
  公案をさずけて、それをとかねばならん。隻手音声。片手の声を聞け、片手の声なんて聞こえないがな。(柏手を打つ)両方合わせると音が出る。しかし片手の音を聞けというのは、 無理なことですけれど、無為自然のことをいうてるのです。これは、合わせれば鳴るという可能性を持っている。
  無為自然というのは、無限の可能性を持っているということなんです。

  この中に女性の方が大部おられるが、女性の方は多分、お子さんを持っておられると思う。お腹の中にいるときに、どういう子供が生まれるかは、わからんがな。無為自然。 それが、生まれてみると初めて、顔、かたちを持っているから、「あ、こういう子やったか」と、はっきりわかる。迷子にでもなると、親は本当に自分の子だということがわかるでしょう。 それは何か見慣れている。

  無為自然、お腹の中にいるときには、どんな子やわからん。それが生まれてみると、ちゃんと顔、かたちを持って子供がはっきりわかる。生まれるまでわからない。
  無為自然、隻手音声とはそういうものです。鳴らせば鳴るけど、片手ではわからん。ちょうど、お腹の中にいる子供みたいなもんで、わからん。しかし、生まれてみるとはっきりわかるように、 合わせば鳴る。これは、無為自然ということを、白隠がいうために、隻手音声ということを言った。

●無相庵のあとがき
   本文に『公案(こうあん)』という言葉が出て来ましたが、公案とは、禅宗において雲水が修行するための課題として、老師(師匠)から与えられる問題であり、 昔から多くの公案が作られてきているそうですが、その中でも、有名な公案の一つが、『隻手音声』です。いわゆる「禅問答」的なもので、私たちには、どう答えてよいものか、何年考えても、 師匠から「それで良し!」と、修行の終了を告げられないと思います。

なむあみだぶつ

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No.1786  2019.02.25米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―仏恩報謝―②

●無相庵のはしがき

  引き続き、仏恩報謝のお話です。仏恩報謝の心を持っていましても、四六時中、仏恩を思って感謝するということは、とても出来無いというのが、正直なところです。そういう私で有りながら、 色々なお陰を被って生きていられることに偶には気付く人間でありたいですね。

●米沢英雄先生の『自然法爾(じねんほうに)』(光雲社出版)―仏恩報謝―②

  その男が何かお礼のつもりか、お米を持ってきた。
  お米持ってきたときに、「この米は、あんたが買うたんじゃあるまい、お父さんが買うたんだろうけれど、お米も作る人のご苦労があるし、それをあなたのところのお父さんが手に入れるには、 お父さんが働く。働くと言ったって、一人で働くわけにはいかない。みんなのお陰をこうむって働くのや」。

  お陰さまということが分ると、何かせずにおられないということになる。その何かせずにおられないでするのを仏恩報謝というのです。自分がお陰をこうむっているのを、 何とか自分の出来る範囲で、精一杯つとめさしていただきたい。これを仏恩報謝というのです。
  「ナンマンダブ」いうのが仏恩報謝無いのです。自分の出来る限りをつくさしていただきたいと、心からやるのを仏恩報謝という。

  ノイローゼの息子にいうたのは、それなんです。
  毎日つまらん掃除をやっているうちに、もっと自分に能力の発揮できるような仕事をしたいという意欲がだんだん湧いてくる。意欲が湧いてきたか、岐阜県に勤めているようで、 職場へ帰ったらしいですわ。その後、来ないから多分帰ったんだろうと思う。

  人のことは、どうでもいい。働く意欲を起こさせることが非常に大事なことです。皆さんは、仕方なしにやってるのでないですか。
  ここにご婦人が沢山おられるが、朝起きると仕方なくご飯炊くのでないですか。それを進んでやるかどうかということです。進んでやる場合は、これは仏恩報謝になるのです。 仕方なしに「いやあ、またご飯炊かんならんか」と愚痴をこぼしながらやってるでしょう。これは、仏恩報謝でないんですよ。

  愚痴こぼしながらやっても、みんな喜んで食べてくれるから、向こうさまに助けてもらっているのですぞ。自分で人を助けると思ったら大きな間違いです。 喜んで食べてくれる人によって、あなた方の心が報いられる。愚痴をこぼしながらやっても喜んでくれるということは、ありがたいことでないですか。  

●無相庵のあとがき
  奥さま方は、毎朝家族より早起きして、朝食を作ったり、弁当を作ったり、大変だと思いますが、米沢先生が仰せの愚痴はこぼされないと思いますが、嬉々として、毎朝。 台所に立たれる方は、そんなにいらっしゃらないでしょう。しかし、一度、地震等の災害に遭い避難所生活をされますと、朝起きて朝食や弁当を作っていた普通の生活が送れていた日常生活の有り難さに 気付かれるのでは無いでしょうか。

なむあみだぶつ

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No.1785  2019.02.18米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―仏恩報謝―①

●無相庵のはしがき

  仏恩報謝という言葉を聞きますと、仏壇の前に坐って、お念仏を称えることのように思ってしまいますが、米沢先生は、「そうじゃない」と仰います。そのお念仏を称える心の中に、 「全てのお陰様で今の私がある」という感謝の心と、その感謝を行動に表わしてこそ、本当の仏恩報謝であるということです。私たちは、日々の忙しさに感(かま)けて、 仏恩報謝しているとは、とても申せません。

●米沢英雄先生の『自然法爾(じねんほうに)』(光雲社出版)―仏恩報謝―①

  「弥陀の名号となえつつ、信心まことにうる人は、憶念の心つねにして、仏恩報ずるおもひあり」こういうことを皆さんが唱和されました。   仏恩を報ずるとは、どういうことか?
  仏恩報謝の念仏ということを蓮如さんは言っている。

  だから「ナンマンダブ、ナンマンダブ」いうのが、仏恩報謝と思ったら大きな間違いですよ。こういうことをいうからには、根拠があっていうのです。

  私の近所に、歳のことは聞かなかったけど、ノローゼになった若い男がおって、それは、会社勤めをしておったのだけれど、働く意欲がなくなって、家へ帰ってきて家でブラブラしているのです。
  紹介する者があって、私の所へやって来た。

  ノイローゼで、何もしたくない。働かねばならんのだけれど、働きたい意欲が出てこない。働きたい意欲を出すには、どうしたらいいかという相談です。働きたいという意欲をおこさせるに、 どうしたらいいか、皆さんも考えてみて下さい。皆さんのお知恵借りたい。

  皆さん笑うでしょう。私は知恵がないものですから、「家の掃除せえ」と言うたんです。
  親も他県から越してきてアパートに居るらしいので、親元へ帰って来て、アパートの掃除せよと、私の出る知恵というのは、こんなものです。

  掃除くらい皆さん毎日やっておられるでしょう。毎日、部屋の掃除をするのです。部屋の掃除をしてるとですぞ、部屋の掃除だけでは、つまらないと思うのです。そうなってきたときに、 働きたいという意欲が出てくるんです。だから、働きたいと意欲を出させようと思ったって駄目なのです。毎日つまらないことをやっても、つまらないというのでないですよ。その男にとって、男は、 もっと大きいことをやりたいのです。総理大臣でもやりたいかも知れませんが、毎日掃除をしている。

●無相庵のあとがき
  仏恩報謝出来ないのが、凡夫たる所以でありますが、せめてお念仏を称える時には、今回の法話を思い出して、仏恩報謝の真似事でも、致しましょう。

  仏恩報謝で思い浮かべまたのが、日本に古くから使われている言葉に「お陰さま」があります。日常の挨拶言葉で、「お元気ですか」に対して、「お陰さまで」と答えます。これは、 「あなた様のお陰さまで」ということではなく、あらゆる〝事物〟のお陰というニュアンスが込められています。他国にはない、日本の美しい国民性ではないでしょうか。

なむあみだぶつ

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No.1784  2019.02.11米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―弥陀の本願―③

●無相庵のはしがき

  法話本文に、「人間に生まれたすべての者に、人間に生まれてよかったと、こういうことを思わせたいといって本願を立てたんです。そうすると、 本願と我われと非常に密接な関係になってくると思う。」と、米沢先生は仰っておられます。つまり、本願は、この人は救うけれども、あの人は救わないというものではなく、いわゆる悪人も善人も、 残らず全ての人に、人間に生まれてよかったと思わせたいということは分りますが、それがどうして、本願と我われとが非常に密接な関係になると、米沢先生は仰るのでしょうか。 何か大事なことを示唆していらっしゃるのではないかと私は思いました。

●米沢英雄先生の『自然法爾(じねんほうに)』(光雲社出版)―弥陀の本願―③

  だから弥陀の本願は、私はよくいうのですけれど、阿弥陀仏が立てたということになってるけれど、阿弥陀仏がヒマで何かせんならんなと思って、本願を立てたのでない。 道楽で本願立てたのでないのです。

  人間に生まれたすべての者に、人間に生まれてよかったと、こういうことを思わせたいといって本願を立てたんです。
そうすると、本願と我われと非常に密接な関係になってくると思う。

  皆さんは、人間に生まれてよかったと思っていられますか。
ごちそうを食べたときだけでしょう、人間に生まれてよかったと思うのは。情けないもんです。家でごちそうにあたらないと、なんでこんな者と一緒になったんだろうと思うでしょう。 料理上手の奥さんと一緒になると、こういう人を女房にしてよかったと思うか知らんけれど、料理の下手な奥さんに会ってみなさい、なんでこんな者と一緒になったんだろう、こう思うでしょう。

  なんでこんな者と一緒になったんだろうと思ってる者に、人間に生まれて良かった、ちょうどいい加減の者と一緒になったと、そういう喜びを持たせたいというのが、本願のねらいというものです。

  そうすると、だんだん我われに近づいてくるのでないですか。

  本願というのは、そういうものですよ。人間に生まれて良かった。私が、私に生まれて良かったという声をあげさせたいというのが、本願のねらいです。

●無相庵のあとがき
  私たちの日常生活において、煩悩有るが故に苦しみや悩みを抱えますが、案外四六時中苦しむわけでも有りません。また悩みも消えることはありませんが、朝から晩まで悩み続けることはなく、 生活の忙しさに紛れて、抱えている悩みを忘れてしまうことだって有ると思います。そういう私たちですが、大きな悩みを感じないものの、例えば夫婦間で、ちょっとした不満を覚える瞬間があると思います。 それは悩みという程のものではなく、些細なことですので、心の中で相手を責める程の自分でもないという反省心も生まれるのではないでしょうか。そういう反省心が、やがて「人間に生まれて良かった。私が、 私に生まれて良かったという」穏やかな心を生み育てるのではないかと思います。法話を聴いて、本願に気付くのではなく、日常生活の中で、しんみりと本願に出遇えることを米沢先生は、 「本願と我われとが非常に密接な関係になる」と表現されたのではないかと思ったことでした。

なむあみだぶつ

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No.1783  2019.02.04米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―弥陀の本願―②

●無相庵のはしがき

  無為自然とか、法身仏とか、難しい仏教用語が書かれていますが、法話の中に「我々の生まれて来た元なのです」、と有りますように、私たち人間、そして地球という星はもとより、 全宇宙を生み出している『力』と申しますか、『法則』、『法』、『真理』と考えれば良いと思います。そこから生まれた私たちは、一人一人、姿、形、性格・資質が異なりますし、担うことになった仕事、 役割も異なり、従って、抱える苦しみも悩みも異なります。そんな私たちは、何に依って救われるのでしょうか?その答えが示されています。

●米沢英雄先生の『自然法爾(じねんほうに)』(光雲社出版)―弥陀の本願―②

  無為自然(むいじねん)というのは、法身仏(ほっしんぶつ)のことです。

  無為自然というのが、我々の生まれて来た元なのです。
  無為自然というのは、何もせんということ。そこに松が生えてるけれども、松は松になりたいと思って生まれたのでなくて、無為自然から、松として生まれてきたのです。 この松は、別院の松になりたいと思ってなかった。

  しかし、何代か前の輪番かなんか知らんけれど、その方がその松をここに植えたので、仕方なしに生えてるんですよ。
  あの松に、心があればですね、あの宮城の松になりたかったかも知れん。

  みんな仕方なしに生まれて、生きてるでしょ。仕方なしに生きてるのでは申し訳ない。自分で進んでこのために人間に生まれてきたというものを、つかまねばならんです。
  それは、皆さんは、つかんでいるでしょう。金儲けるために生まれてきたと思う人は、金儲けに精出している。この不況の中では、どうもなりませんが。

  だから縁によって、いろいろ変わるのです。総理大臣になろうと思ってもなれない者もあるし、松下幸之助になろうと思っても、なれない者もある。
  だから全部の人間が、人間に生まれて良かったと言わせたいと、本願があるのです。

●無相庵のあとがき
  答えは、『弥陀の本願』です。米沢先生は、「全部の人間が、人間に生まれて良かったと言わせたいと、本願があるのです。」と言い切っておられます。それは、「お金さえあれば、幸せになれる」、 と思っている者も、「あの、私を虐める人さえ居なければ」と思っている者をも、「総理大臣になれたら幸せになるのに」と思っている者をも、全ての人に、人間に生まれて良かったと思わせたいとという、 『弥陀の本願』の中に、私たち皆が包まれているからです。それは、真剣に悩み、苦しむ人のみが出遇える『弥陀の本願』だと思います。

  と、ここで、この『無相庵のあとがき』を終えてしまえば、米沢先生が禅僧の言葉を批判的に表現されて仰る、『種明かしをしない手品』になってしまいます。 私なりに考えた『種』を披露致しますと、「真剣に悩み、苦しむ自分の心の(頭の)中に湧き起こっている嘘偽り無い煩悩の数々を自分のこころ の中にある〝まな板〟の上に乗せ、 しっかり認識したら、自分さえ良ければ良いという、醜い真実の自分をしっかり自覚出来、そんな自分でも生かされて、生きていることに気付き、 自分も何にかで他の人の役に立たねばならないと云う気持ちが初めて芽生え、それが行動になり、やがて、結果として「人間に生まれて良かった」と、本願への感謝が生まれるのだと思います。

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No.1782  2019.01.28米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―弥陀の本願―①

●無相庵のはしがき

  浄土宗の開祖である、法然上人のお名前の由来である、『自然法爾』。その『自然』には三つあるとそう言われて、米沢先生が分かり易く説明されております。

●米沢英雄先生の『自然法爾(じねんほうに)』(光雲社出版)―弥陀の本願―①

  「自然といふは、もとよりしからしむるといふ言葉なり」。自然というのは、非常に大事なことです。自然に三つある。

   無為自然
   業道自然
   願力自然

  この願力自然(がんりきじねん)というのは、浄土真宗の教えなのですけれど、無為自然(むい)と業道(ごうどう)自然、これは宇宙中が無為自然と業道自然というものです。
  業道自然に皆さんが生きておられることは、間違いない。女に生まれたとか男に生まれたというのは、業道自然です。

  誰も自分で女に生まれたいと想い、男に生まれたいと思って生まれた者は一人もない。私も男に生まれたいと思って男に生まれたのでない、女に生まれた方がよかったかと思う。というのは、 現代は、女がいばっていて、男の方が駄目なのです。

  私のとこ、医者やっているのでよくわかるんですけど、赤ちゃんが病気で来る場合、赤ちゃんを抱っこして母親がはいってくる。その亭主が、オムツのはいった袋下げて後からついてくる。 そういうのを見ると、やっぱり女に生まれた方がよかったなと思う。

  後悔先に立たずというのはこの事です。いくら女に生まれた方がよかったと思っても、もうすでに手遅れですが、これを業道自然というのです。

  業道自然というのは、端的に申すと、おしっこしたくなったら、話どころでない。えらい面白いこといっても、聞きたいと思っても、おしっこの方が先だ。電車乗って来たら、 急行と特急がある。この次の先発は云々といわれても、おしっこの方が先発です。腹減ったらメシを食べることが先決。業道自然の世界というのは、そういうものです。

●無相庵のあとがき
  私の拙い説明は必要ないと思いますので、皆さまが、ご自身で、実生活でのご経験を例えとして、納得して頂きたく思います。

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No.1781  2019.01.21米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―名利の念を捨てる―②

●無相庵のはしがき

  「名利の念を捨てる」ということは、煩悩を捨てるということです。しかし、親鸞聖人が『正信偈』の中で、 「不断煩悩得涅槃(ふだんぼんのうとくねはん;煩悩を断たないで、涅槃を得る)」と詠まれていますから、「名利の念を捨てる」というのは、浄土真宗の教えではありません。従って、 米沢先生も、本文の中で、浄土真宗でいう涅槃とは、「名利の念を捨てる」ことではなくて、「人間に生まれてよかった、 とこういうことが言えて、初めて、それを成仏というのです。」と仰っているのだと想います。

●米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―名利の念を捨てる―② だから、ああいう形式的に仏門に帰するのでなくて、その執着を絶つ、執着はなかなか絶てんですよ。絶てんですけれど、執着していけないということだけは、心掛けておるべきだと思う。
  執着を絶つというのが、南無阿弥陀仏というこです。
  なかなか絶てんけど、絶たざるを得ない。死ぬときには、いくら心残りがあっても、執着を絶たなくてはならないでしょう。

  だから、死んで仏になるということは間違いない。それは間違いないけれど、生きながら仏になるということは、真宗では、無いと言うてあります。言うてありますけれど、本当の人間になる、 執着の心が薄らぐというのか、薄らぐ筈はないけれど、執着しているなという自分に気が付く、気が付くのと、つかないのとでは、大きな違いがあると思う。

  田中角栄は気が付いてないのです。あの気が付いてないから、いいかげん引退していいのですけれど、まだ執着してるでしょう。執着がいかに人に迷惑を及ぼすかという実例です。

  皆さんも、生きててもさしつかえないから、執着せんことです。現状維持を続けたいとか、人間は何時なんどき、どうなるかわからん。どうなっても、 それをどんな境遇に落ちてもそれを引き受けて、生き抜くということが、どんなに大事なことであるかと思う。

  だから、現状に執着することもいかん。どうなるかもわからん。どうなっても、生きてることだけ間違いないから、ただ生きているだけでなしに、人間に生まれてよかった、 とこういうことが言えて、初めて、それを成仏というのです。

  それを教えたのが浄土真宗です。

●無相庵のあとがき
  名利と云えば、親鸞聖人が『教行信証』の中で、「悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して」」と、ご自身を歎いておられます。そういう偽らざる表白は、 他の高僧、名僧のお言葉は、私は出遇ったことがございません。本当の自分に出遇われ、そして、それは阿弥陀仏と、その本願に出遇われた証(あかし)じゃないでしょうか。

なむあみだぶつ

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