No.1800  2019.06.03米沢英雄先生の『自然法爾(じねんほうに)』(光雲社出版)―身辺の一切の物から真実を教わる―②

●無相庵のはしがき
  前回のコラムの米沢先生の法話の最後は、「我われは、それに比べると、文句ばっかり言っている。」で終わりました。しかし、私は、今も経済的に不遇でありますが、文句を言う前に、 私自身が為さねばならないと思うことが先ずは頭を占領していまして、一切文句は浮かびません。「何とかしなければならない」という気持ちが強いんです。それは恐らく、 文句を言う余裕が無い位に追い詰められているということだと思います。そう思いながら、今回の法話を読みました。

●米沢英雄先生の『自然法爾(じねんほうに)』(光雲社出版)―身辺の一切の物から真実を教わる―②

  我われは、それに比べると、文句ばっかり言っている。

  ミミズに対しても、松に対しても恥ずかしいのでないか。人を羨(うらや)んで、あのようになりたい、このようになりたいという文句ばかり言っているのが我われ。松に対しても恥ずかしい。 松は、梅になりたいとか、桜になりたい、そんなことは言わない。梅、松、桜というと、何か芝居みたいですけれど、松は人を羨まん。我われは、人を羨むでしょう。

  だからそういう心が起こったら、松やミミズに恥ずかしいということです。
  我われの身辺のもの一切が仏法を語っているのです。それを仏法として聞く耳を持つかどうか。この耳は、心の耳。心の耳をひらくのが聞法というものですね。
  日常生活の中で、仏法が真実であるということを、我われ自身が確かめていかなければ、なんにもならないと思う。

  確かめるべき材料は、身辺に満ち満ちておる。我われは、それを上っ面しか見ていないということですね。自分に間に合うか、間に合わないかで見ているのです。『歎異抄』でも、 主題の一つは、「悪人成仏」ということで、善人、悪人ということが出てくる。その善悪というのは、自分を基準にして自分が好きか嫌いかで善悪を決めてるんですね。

●無相庵のあとがき
  「日常生活の中で、仏法が真実であるということを、我われ自身が確かめていかなければ、なんにもならないと思う。確かめるべき材料は、身辺に満ち満ちておる。我われは、 それを上っ面しか見ていないということですね。」という米沢先生の示唆は、仏教徒が耳を傾けたいお言葉だと思います。お寺の座敷で聞法するだけでなく、日常生活の色々な場面、 特に自分にとって好ましくない場面で自分の心の中に浮かぶ様々な煩悩に、自分の真実を見つめ、人生の真実を確かめたいものです。

なむあみだぶつ

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No.1799  2019.05.27米沢英雄先生の『自然法爾(じねんほうに)』(光雲社出版)―身辺の一切の物から真実を教わる―①

●無相庵のはしがき

  私は毎日ウォーキングで8000歩以上、歩くことにしていまして、近くの自然の中を歩きます。 その時に、土の無い歩道の裂け目から野花が顔を出して咲いているのを見ることがありますし、また、とてもエサがあるとは思えない歩道を、エサを求めてせわしく歩き廻る鳩たちの姿を見ることもあります。 恵まれない環境に負けずに自分の花を咲かせたり、生きるためにエサを探す生きものの賢明さに、命の厳しさを教えられています。

  今回、米沢先生は、法話の中で「松は、松に生まれたいと思って生まれたのでない。しかし、松に生まれて、松の宿業を引き受けて、松として生き抜いている。」とか、 「ミミズは、ミミズとしての宿業を引き受けて生き抜いている。」と仰っておられますが、ご法話はお寺に坐って聴くだけのものではなく、日常生活の中でも耳を澄ませば、目を見開けば、 佛様のお教えが聞こえて来るではないかということだと思いました。

●米沢英雄先生の『自然法爾(じねんほうに)』(光雲社出版)―身辺の一切の物から真実を教わる―①

  願力自然というのは、無為自然から生まれてきておるもので、無為自然が南無阿弥陀仏を教えくれているということです。
  これは我われの身辺の一切の物から、真実を教わってゆくということが、非常に大事なことでないかと思う。

  私はいつも言っている。お寺で聞くのは、幾何学で言ったら定理とか公理を聞くのであって、それを日常生活の中で応用して、確かめて自分のものにすることが大事なことです。 そういうことを怠ったら仏法(ぶっぽう)でも鉄砲(てっぽう)でもないわけですね。

  そこに松の木がある。松は、松に生まれたいと思って生まれたのでない。しかし、松に生まれて、松の宿業を引き受けて、松として生き抜いている。 それが松の南無阿弥陀仏である。
  ミミズは、地面にもぐり込んでおる。誰が好き好んで地面にもぐり込んでおるかね。地面にもぐり込んで、地面を食ってそれを吐き出して、仏恩報謝をやっとるのです。 地面を清浄にする一つの働きをなしておるのです。
  ミミズは、ミミズとしての宿業を引き受けて生き抜いている。ミミズの南無阿弥陀仏、立派なものです。

  我われは、それに比べると、文句ばっかり言っている。

●無相庵のあとがき
  この世に生まれたからには、宿業を引き受けて生き抜かねばならない私たちですが、我が可愛さから、なかなかその宿業を「はい、はい」とは引き受けられないのもまた私たちです。 こうして、自分の宿業に気付かされ、そしてまた、仏法を聴くことになるという繰返しを有り難いと思わねばならないと思う次第であります。

なむあみだぶつ

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No.1798  2019.05.20米沢英雄先生の『自然法爾(じねんほうに)』(光雲社出版)―願力自然ー⑥

●無相庵のはしがき

  今回で『願力自然』の章は終わりまして、次回から、『身辺の一切の物から真実を教わる』という章に移りますが、今回の法話の末尾の方で、 「その事実を通して、真実をみつけたのは釈尊である」と述べられていますが、この見付けられた真実とは、私は、仏法の基本原理である、「物事は縁に依って生じる」ということを言われていると思います。  

●米沢英雄先生の『自然法爾(じねんほうに)』(光雲社出版)―願力自然ー⑥

  「持っている手を放すと、コップは落ちる/それを教えてくれたのは 人ではない/落ちたコップは いくつかに割れる/それを教えてくれたのは人ではない」 事実が教えくれたのです。

  「コップの中の水は とびちる/それを教えてくれたのは 人ではない」/この世のはじめから 手をとるようにして/教え続けてくれているのは  人ではない/つきない不思議をこれからも/えいえんに 教え続けてくれるのは/ああ ひとではない」

  事実が教えるのです。その事実を通して、真実をみつけたのは釈尊である。釈尊という人は、我われにとって、非常に尊い人であるのは、釈尊があらわれて、 事実から学びとって教えて下さったということです。

●無相庵のあとがき
  願力自然ー③で、本願力に付いて、「我われは願いを持っているだけで、それを実現する力を持っておらない、本願というのは、我われを本当の人間にする力を持っている。 願力自然、無理につけたものでないというのが、自然といわれるゆえんですね。」と、米沢先生は仰っておられます。これが、この「願力自然」の章のポイントではないかと思います。

なむあみだぶつ

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No.1797  2019.05.13米沢英雄先生の『自然法爾(じねんほうに)』(光雲社出版)―願力自然ー⑤

●無相庵のはしがき

  私たちは往々にして、人から知識を得て色々と考え、判断を下しているのではないでしょうか。その姿勢に対する警告が、 まど・みちおさんの「人ではない」という詩から学ばれた米沢先生の今回の法話だと思います。
  考えてみますと、ニュートンも、お釈迦様も、歴代のノーベル賞受賞者も、自分が観た事実を不思議だと思い、 それを解明した人たちではないかと思いました。  

●米沢英雄先生の『自然法爾(じねんほうに)』(光雲社出版)―願力自然ー⑤

  まど・みちおさんという人は、事実をみて、事実から学んだのです。その事実から学んだ人が、どういうことをいってるか。「人ではない」という詩です。

  持っている手をはなすと コップは落ちる
  それを教えてくれるのは 人ではない
  落ちたコップは いくつかに割れる
  それを教えてくれたのは 人ではない
  コップの中の水は とびちる
    それを教えてくれたのは 人ではない
  この世のはじめから 手をとるようにして
  教え続けてくれているのは 人ではない
  つきない不思議をこれからも
  えいえんに 教え続けてくれるのは
  ああ 人ではない

「持っている手を放すと、コップは落ちる」 実演してもいいのですが、水がこぼれる。
「それを教えてくれたのは 人ではない」
  コップを放すと落ちるのは、地球の引力によると、私たちは人から聞いて理解している。
  だが、万有引力を発見したニュートンは、枝から落ちるリンゴから教わったのであった。自然現象、つまり事実から教えられたのである。 事実そのものはニュートン以前からあったのだが、それを不思議と驚き、事実を解明しようとしたのが彼だったのである。

●無相庵のあとがき
  我われも、日常生活に於いては作り話を話さず、事実だけを相手に伝えるように努力したいです。データーの改ざん、公文書の書き替えが頻繁に報道されました。 他人事ではありません。信頼出来る人格でありたいと思います。

  一つお知らせがございます。この無相庵コラムの中から一般の方々向きと思えるコラムを選び、表現を少し平易にして、私のFB(フェイスブック)に転載し、 一般の方々に紹介し、仏法に関心を持って貰えれば有り難いと思い、今週あたりから、始めたく思っています。

なむあみだぶつ

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No.1796  2019.05.06米沢英雄先生の『自然法爾(じねんほうに)』(光雲社出版)―願力自然ー④

●無相庵のはしがき

  まど・みちおさんは仏法を一度も聴いたことがないのに、まど・みちおさんの詩は、仏法にびしっと合っているという米沢先生の言葉を私たちは注目すべきだと思います。 まど・みちおさんの詩は、因縁果を詠っておられると思います。まど・みちおさんの詩といえば、私は青山俊董尼が紹介されている、『水は、うたいます』という詩を思い出します。 その詩と、青山俊董尼の説明は、下記の通りです。

      水は  うたいます
      川を  はしりながら
      海になる日の  びょうびょうを
      海だった日の  びょうびょうを
      雲になる日の  ゆうゆうを
      雲だった日の  ゆうゆうを
      雨になる日の  ざんざかを
      雨だった日の  ざんざかを
      虹になる日の  やっほーを
      虹だった日の  やっほーを
      雪や氷になる日の  こんこんを
      雪や氷だった日の  こんこんを
      水は  うたいます
      川を  はしりながら
      川であるいまの  どんどこを
      水である自分の  えいえんを

『海になる日のびょうびょうを 海だった日のびょうびょうを 雲になる日のゆうゆうを 雲だった日のゆうゆうを』というように、過去形、未来形、過去形、未来形と織り成しながら、一つの水が、 同じ液体であっても、川の姿をとるとき、海の姿をとるとき、雨の姿をとるときがあり、或は、条件が変わる事によって、気体になります。その気体も、さまざまな雲の姿をとったり、 夢を見るような虹の姿に変わってみたり、一つの条件が変わることで、雪や氷というような固体になったりとさまざまに変わります。

たった一つの水が、縁に従って、液体となり、気体となり、固体となる。そうした具体的に姿をいただくと、初めがあり、終わりがある。たとえば私という具体的な姿をいただくと、必ず初めがあり、 終わる日があります。

しかしながら、なくなってしまったのではなく、変わりつつ永遠のいのちを生き続けているんです。条件次第でさまざまな姿に変わりますが、無限の展開をしたに過ぎないんです。 水からいただき水に帰るいのち、仏からいただき仏に帰るいのち、『帰命』という言葉はそれですね。どこへも行きはしない、変わりつつ永遠のいのちをいただいているという受け止め方、 これを、まどみちおさんの詩にたとえると、仏性と悉有のかかわりというものを理解する助けになる気がします。  

●米沢英雄先生の『自然法爾(じねんほうに)』(光雲社出版)―願力自然ー④

  非常に大事なことは、まど・みちおさんという人は、仏法を一度も聞いたことが無いということ。ところがまど・みちおさんの書いている詩が、仏法にびしっと合っている。 そういうところが大した事で、釈尊みたいな人だ。

  釈尊も無為自然を悟ったのです。法身仏を悟ったのが釈尊で、その悟りを我われにわかるような形で教えられたというところに、我われと釈尊の深い因縁があるわけですね。

●無相庵のあとがき
  水が縁に従って、液体となり、気体となり、固体となるように、私たち人間は、命を貰った固体でありますが、縁に従って、違う固体の動植物になったり、千の風になったり、 星になったり、変化するのでしょうか、そんなことを、ふと、考えました。
  そして、水といえば、私たちの汗、尿、血液も大半が同じ水なんですね。水で全ての存在と繋がっている、全ての存在は一如なんだなと、 そんなことを考えますと、日常の色々な悩ましいことも、私一人だけでどうにでもなるような事では無く、縁に任せるしか無いと思ったことです。

なむあみだぶつ

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No.1795  2019.04.29米沢英雄先生の『自然法爾(じねんほうに)』(光雲社出版)―願力自然ー③

●無相庵のはしがき

  まど・みちおさんの詩は、皆さんに愛されています、例えば、『ぞうさんの詩』。

  ぞうさん
  ぞうさん
  おはなが ながいのね
  そうよ
  おかあさんも ながいのよ

  ぞうさん
  ぞうさん
  だれが すきなの
  あのね
  おかあさんが すきなのよ

  この詩は、象の子供が、自分を肯定して生きていることを表わしているということだそうです。今日の法話の、仏恩報謝とも重なります。

●米沢英雄先生の『自然法爾(じねんほうに)』(光雲社出版)―願力自然ー③

  仏恩報謝の念仏というのは、少し恩にきせた念仏でないかと思うな。

  みんな何気なしに毎日仏恩報謝やってる。ご飯炊くのも仏恩報謝、洗濯するのも仏恩報謝、それから職業をもっておられる方は、みんな仏恩報謝だ。それで世間が成り立っていくのですから、みんな仏恩報謝してる。  仏恩報謝と思ってやってるかどうかということが問題です。仏恩報謝と思ってやれたら、愚痴をこぼさずにやれる筈です。そういうことが非常に大事なことです。

  我われは願いを持っているだけで、それを実現する力を持っておらない、本願というのは、我われを本当の人間にする力を持っている。願力自然、無理につけたものでないというのが、 自然といわれるゆえんですね。
  「南無阿弥陀仏」というのは、願力自然なのです。

  というのは、みんな南無阿弥陀仏しとるのです。そういうことをわかってもらうのに、まど・みちおさんという人の詩を紹介します。
    まど・みちおさんの詩は非常にいいので、何べんも「心の詩」(中日新聞連載)に引用させてもらいました。

●無相庵のあとがき
  昨日の日曜日、私が小学校二年生の時から大学卒業するまで住んでいた、神戸市垂水区の五色山古墳の近くの元実家、実家から歩いて1分のテニスコート、そして、 通っていた垂水小学校、霞ヶ丘小学校、歌敷山中学校を訪ね歩きました。実家は勿論他の人の立派な建物に変わっておりましたが、近所の建物も、学校の佇まいも、全く変わっており、 全く知らない街に来たような感覚でした。それにしても道幅は狭く、歩道も全くなくて歩き辛く、今住んでいる街が何と快適さに恵まれていることかと、改めて感謝しました。 家に帰り着く前に、近くのお店で、数年振りの外食をして、平成最後のお出かけを締めくくりました。

なむあみだぶつ

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No.1794  2019.04.22先師が行着かれた他力信仰の心境

●無相庵のはしがき

 私が指導を受け、今もなお敬愛している3人の先生方が、五七五の詩(うた)に遺されている詩こそが、私たちが目指すべき他力信仰の心境ではないかと思うのです。 その歌は、無相庵カレンダーのの中に収録している下記三つの詩です。

   慈しみ 汝がその胸に徹るまで 悲しみ堪えて 立たすみ佛(11日)
 奈(な)が奈(な)がの 月日をかけて み佛は そのみ心を とどけたまえり(16日)
 いつの日に 死なんもよしや 弥陀佛の み光の中の 御命なり(15日)

●米沢英雄先生の『自然法爾(じねんほうに)』(光雲社出版)―願力自然ー②

   「慈しみ・・・」というお詩は、井上善右衛門先生のもので、なかなか安心が得られない自分だからこそ、見捨てずに見守って下さるのが阿弥陀佛なんだなぁ、と云うお気持ちが偲ばれます。

「奈(な)が奈(な)がの・・・」は、曹洞宗のお坊さんでありながら、浄土真宗の白井成允先生にお出遇いになり、安心(あんじん;浄土真宗のお悟り)を得られた西川玄苔老師が、 井上善右衛門先生と全く同じ心境を詠まれた詩だと思います。

「いつの日に 死なんもよしや・・・」は、他力の安心(あんじん)を得られたであろう、そのご心境を期せずして詠まれた白井成允先生ならではの尊いお詩ではないかと思っております。 そして、この道を進めば、自然(じねん)に至るのだと思います。

●無相庵のあとがき
  白井成允先生も、井上善右衛門先生も、倫理学の学者さんですが、倫理学を究められたれこそ、親鸞聖人の教えに依って心の納得と安心を得られたのではないかと思う次第でございます。

なむあみだぶつ  

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No.1793  2019.04.15米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―願力自然ー②

●無相庵のはしがき
  米沢先生が、本文末尾で、『みんな、自分の財布の中にいくらあるのか覚えているでしょう。しかし、「宇宙中の働きによって、生かされて生きているのだ」ということを聞いても、「ああそうなのかな」と、 なるほどと思っても、次の瞬間忘れてしまう。』と仰っています。私たちがいつも大事にしているのは、仏法の教えではなく、本当は、お金や財産ではないかと云う問い掛けでもありますが、 米沢先生ご自身の反省を込めた慚愧のお言葉だと受け取りたいと思います。実は私の正体も、全くお恥ずかしい限りでして、自己中心でお金を追い求めている地獄・餓鬼・畜生・修羅の身ではないかと、 指差れたら、どきっとするに違いありません。

●米沢英雄先生の『自然法爾(じねんほうに)』(光雲社出版)―願力自然ー②

  人間は忘れる動物であればこそ、聞法を続けなければならないと言われるのです。一生聞法といわれるのは、人間は忘れるんです。

  皆さんに、宇宙中とかけ合う程の〝いのち〟だということをいったけど、そのことが「天上天下唯我独尊」といったけど、それを聞いたときは、なるほどと思ったけど、 はきもの履いてこの会場を出ると、もう忘れる。
  忘れた方がいい。家に持って帰ると困るのです。「わしは、宇宙中で一番尊いんだぞ」と家に帰って威張ったらどうだ。「こりゃ、ちょっとおかしい」というようなもので、 座敷牢に入れられるぞ。だから忘れるのも結構や。

  しかし、忘れるからこそ何べんでもいわねばならん。来年また私がいのちあって引っぱられると、また同じこというでしょう。
  その時分には、皆さんも忘れているから、大事なことは、何べんでも聞かねばならんということです。信心の溝をさらえるということは、そういうことです。

  みんな、自分の財布の中にいくらあるのか覚えているでしょう。しかし、「宇宙中の働きによって、生かされて生きているのだ」ということを聞いても、「ああそうなのかな」と、 なるほどと思っても、次の瞬間忘れてしまう。

  財布のカネがいくらはいっているかを覚えているほど、これを覚えていられたら、もう大したもんです。そういう人は、私に代わって、ここで話してもらいたい。私が聴かしてもらう。

●無相庵のあとがき
  米沢先生は、「財布のカネがいくらはいっているかを覚えているほど、これを覚えていられたら、もう大したもんです。そういう人は、私に代わって、ここで話してもらいたい。 私が聴かしてもらう」とも仰っていますが、これも冗談や謙遜ではなく、本当にそう思っていらっしゃるに違い無いと思います。親鸞聖人は、和讃に慙愧の言葉を多く遺しておられますが、 これも謙遜されての言葉ではなく、本当にご自分の心の底を抉(えぐ)り取られて、ため息交じりに吐かれた言葉だと思うのですが、米沢先生も全く同じ立場ではないかと、私は受け取っております。

なむあみだぶつ

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No.1792  2019.04.08米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―願力自然ー①

●無相庵のはしがき

  私たちの願いは、家族皆の幸せ、子供が勉強して、有名な大学へ進み、良い職業に就き、幸せな生活を送って欲しいとかが一般的です。しかし、思い通りになりません。それを米沢先生は、 「願いだけあってカがないんです」と本文中で仰ってます。それに引き替えて、仏さまの願い(本願力のことだと思います)は、力があって、私たちを必ず往生させる、つまり「夫れ夫れ一人一人が、 自分は自分に生まれて良かった」と悟らせる強い本願力なのであるということではないかと思います。

●米沢英雄先生の『自然法爾(じねんほうに)』(光雲社出版)―願力自然ー①

   願力自然というのが「ナムアミダブツ」です。非常に大事なことは、これが自然であるということ、願力。
  皆さんも願いを持っておられると思う。皆さんの願いは、どういうのかというと、子供さんが元気でおるように、子供さんが幸せでおるように、そういう願いを持っておられること間違いない。 しかし、そういう願いは、実は無力なんです。願い通りいくかどうか、わからんのです。

  親の願いというのは、「這えば立て、立てば歩けの親心」というか、そういう願いを持ってるけれども、思い通りにいくかどうかという保証はないのです。願いだけあって力がないんです。 我われは願いを実現させる力を持っておらんということです。

  皆さんのお子さまは、皆さんの願い以上のお子さんである。こういうことです。お子さんを大事にしてください。自分の願い以上のものが与えられているということですね。
  皆さんは、子供さんに恐らく「勉強せえ、勉強せえ」とハッパをかけなさるだろうと思う。私も昔PTAに関係しておった時分に、よくPTAに引っぱられて話をさせられた。
  皆さんは、子供さんに「勉強せえ、勉強せえ」といわれるでしょうけれど、あんまりいわない方がいいと。放っておいても皆さんくらいにはなるで。それ以上を望むのは、欲が深すぎる。こういうことを言ったらあいた口がふさがらないと思う人がいるかも知れんが、これが本当や。

  もう一つ付け加えていうと、皆さんも学校へ行かれたでしょうけれど、学校で教わったことを今は覚えているかというと、みんな忘れてしもうた。 覚えているのは、小学校一年生のときに習った、算数だけだ。というのは、カネ勘定だけだ。カネ勘定できれば、世渡りができるがな。
  だから、覚えているのは小学校一年生のときの算数だけであとは、忘れるために覚えてきたといっても、過言でなかろう。

●無相庵のあとがき
  私は74歳でも、未だ現役の化学技術者です。これは自慢ではなく、脱サラ起業して築き上げた多額の借金を何とか生きているうちに返済しなければならないだけの話なんです。 高校の時に頑張って、そこそこ、まあまあの大学に進学はしましたが、正直なところ、勉強は役にたっていません。ですから、米沢先生が、子供さんに「勉強せえ、勉強せえ」と言わなくてもよいという意味は、 よく分ります。生きてゆくのには別の勉強が必要です。私は算数は出来ましたが、カネ勘定が出来ませんでしたから、年老いてお金に苦労しているなと思っております。
  しかし、縁という教えを説く仏法に依って、苦労が心身を育ててくれていると思っております。祖父と母から引き継いだ有り難い財産であります。

なむあみだぶつ

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No.1791  2019.04.01米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―天上天下唯我独尊―③

●無相庵のはしがき

  学校教育の現場で、先生方が「命の大切さ」を教えていると聞きますが、何故大切なのか、ちゃんと教えられているのでしょうか。 コラムで連載してきた「天上天下唯我独尊」の意味するところを、子供達に分かり易く説いて頂きたいものです。

●米沢英雄先生の『自然法爾(じねんほうに)』(光雲社出版)―天上天下唯我独尊―②

  お釈迦さんは、宇宙で自分が一番尊いということを教えるために生まれてきた人であり、生まれて直ぐに七歩あるいて、「天上天下唯我独尊」と言ったと、 こういうふうに伝えておるんだろうと思うのです。

  お釈迦さんも、生まれてきたときには、皆さんと一緒に「フギャーフギャー」と泣いたことは間違いなかろうと思う。これを客観的世界という。超常識の世界を説いたのがお釈迦さんで、 超常識というのは、非常識とは違うのです。
  非常識というのは、変わったことをやるのを非常識という。私なんかが、非常識の見本です。超常識というのは、天上天下唯我独尊ということ、宇宙中で自分が一番尊いという、 お釈迦さんだけが尊いのでないんですよ。皆さんお一人、お一人が尊い。

  なぜ尊いかというと宇宙中が、皆さんお一人お一人を生かそうとして、全力をあげて働きづめに働いておる。宇宙中と、かけ合う程の〝いのち〟を皆さんが生きておられる。
  だから「天上天下唯我独尊」です。自分が一番尊いのです。つまり空気から太陽から、雨から、そういうものが、皆さんを生かそうとして、一生懸命働いているのです。

  このコップの水も雨が元でしょう。私を生かそうとしている。どうもすみません、ありがとう(水を飲む)。

  宇宙に存在する一切のものは、皆さんお一人お一人を生かそうとして、全力をあげて夜昼休まず働き続けていてくださる、ということです。 だから皆さんのお一人、お一人の〝いのち〟は、 宇宙全体とかけ合うほどの〝いのち〟、そういうことを初めてみつけた人を釈尊というのです。

  天上天下唯我独尊、六道を超えることを、皆さんに教えるために、生まれてきた人であると、こういうことですね。

●無相庵のあとがき
  この日常生活の忙しさに、ついつい、空気の有り難さ、水の有り難さ、太陽の有り難さを忘れ、お金の有り難さばかりを追い求めてしまっている私自身を深く深く反省するしかございません。 正直なところを申しますと、空気、水、太陽の存在にすら気付けない私なんです。今日からもう4月です。私は3月8日生まれで、74歳になりました。年老いて、少しは枯れてきても良いはずですが、 むしろ、自分の罪悪深重煩悩熾盛の凡夫ぶりが、はっきりしてきました。これで、仏法に出遇っていなければ、どんな老後になっていたかを思いますと、それこそが、まことに有り難いな、とつくづく思います。

なむあみだぶつ

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