No.1830  2020.02.22続ー試練は佛様からの慈悲のお手紙

●無相庵のはしがき
  コロナウイルスは、感染が全国に広がり、ウイルス肺炎に依って亡くなる方も現時点で3名になっております。 オリンピックの開催すら心配になりますが、何とか聖火リレーの始まる(3月26日)までには治まって欲しいものです。

  私は、前回のコラムの〝無相庵のあとがき〟で、「ビジネス社会はお金儲けが出来るか否かが最も重要です。他の企業や、 他の企業のサラリーマンの誠意やコンプライアンス意識を頼りにしていては、残念な結果や、悔しい結果に終わることがありますので、 これからは、相手に得もさせない代わりに損もさせないし、私も損は絶対にしない事を旨にビシネスを続けることにしました」 と申しました。ひょっとしたら、私の真意が伝わらないかも知れないと気になりましたので、私の発言の背景を付け加えることに致しました。

●続ー試練は佛様からの慈悲のお手紙

  私は1999年に事業の発展に有用だと考えた技術を開発出来ましたので、特許出願をし、幸いにも特許権を取得出来ました。 特許出願をしても、特許庁に特許権を認めて貰わないと、他社に無断で真似られても、文句も言えませんし、損害賠償も請求出来ません。 しかし、損害賠償を求めるには、裁判に持ち込む必要があり、私の会社のように零細企業の場合は、裁判に必要な費用も年数もかかり、 諦めねばなりませんでした。特許の取り方(何を権利として主張するか)は大事で、もし金儲け主義の特許事務所に依頼してしまったなら、 特許出願費用(1件あたり20万円以上)が、無駄になります。
  そう云うことも含めて、私の取引先の一社に特許技術を盗まれ、今もその会社は大儲けしていますが、出願を依頼した特許事務所の 権利化の為の内容が不充分だった為に、裁判に持ち込むことを諦めざるを得ませんでした。

  特許法を能く勉強した上で、特許出願をしなければならなかったと、反省しているところです。ビジネスでは、相手に得をさせた場合、 相手に依ってはその見返りを必ずしも得られないのです。個人と個人の物のやり取りでは、何か品物を貰ったり、お祝い金を頂いた時は、 必ずお返しをするものですが、ビジネスではそのような事は期待出来ないものなのです。特に、ビジネスは、品物はサービスをする代わりに、 それに見合ったお金を貰えるのですが、お金を支払う方(大企業)が強く、お金を貰う方(中小零細企業)が立場は弱いのです。
  最近、楽天が店側に送料を負担させることにしようとして問題になりましたが、ビジネス社会の隅っこでは、能く見られる図式なのです。

  以上のような経験から、少し激しい「相手に得もさせない代わりに損もさせないし、私も損は絶対にしない事を旨にビシネスを続けることにしました」、 と云う表現を致しました。

●無相庵のあとがき
  結論と致しましては、私の特許法勉強不足が今日の経済的に悔しい状況を招いたと反省しています。無相庵ホームページの無相庵カレンダーに、 『天下無敵』という24日目のお言葉をご紹介しております。これは、何事も自分の煩悩が災いを招くのであって、煩悩が無くなれば、恐れるもの無しということであります。 しかし、この世の娑婆世界、特にビジネス社会では残念ながら「ビジネス界は敵ばかり」と思う位で無いと惨めな結果になると、反省を込めて申し上げます。
  近々また、今度こそは弊社を再興出来るであろう特許出願を考えておりますが、これまでの失敗を繰り返さないようように、 慎重の上にも慎重を期したいと思っているところです。

なむあみだぶつ

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No.1829  2020.02.16試練は佛様からの慈悲のお手紙

●無相庵のはしがき
  中国で発生したコロナウイルスに依って、日本は勿論、世界の各国がその猛威に苦しんでおりますが、これは米中貿易摩擦、香港、台湾と中国の軋轢が、中国の共産党一党支配、 習近平主席の独裁政治、そしてそれを見て見ぬ振りをしてきた人類への、天からの(佛様からの)慈悲のお手紙だと考えて、日本は米中を巻き込んで世界平和に貢献する道を歩むべきではないかと思います。
  翻って私自身も今試練の渦中にいますが、やはり「試練は佛様からの慈悲のお手紙」と捉えて乗り越えようとしています。

●試練は佛様からの慈悲のお手紙

  私は、46歳の時に脱サラ起業致しました。脱サラに至った理由は色々とありますが、根本的には私が、両親のお陰でお金の苦労をしないまま大学まで出して貰い、 テニスに明け暮れた学生時代を過ごし、そして順調に社会人になり、お金の無い苦しさを知らないまま、サラリーマン生活がどんなに恵まれた身分かも分らないまま〝ノホホン〟と暮らしていたからだと 振り返っています。

  「金が無いのは首がないのと同じだ」、「金の切れ目は縁の切れ目」、「金持ち喧嘩せず」等、お金に纏わる言葉を聞いたことはありましたが、それがこの世間をどれだけ言い当てているかを 知らずに聞き流していました。
  しかし今は、身に沁みて、その通りだと思うようなっております。それは、このまま私をあの世に送ってはならないと云う、佛様のお慈悲から来たお手紙だと受け取り、何とか乗り越えて、 これまでお世話になった方々への恩返しをしなければならないと考えました。

  人間は誰しも試練に遭遇します。その試練を乗り越えられる人、乗り越えられずに挫折してしまう人がいると思います。ただ云える事は、人生を全うした、いわゆる人生の成功者は、 必ず試練を乗り越えた人ばかりであるということを励みとして、これから踏ん張る積もりであります。

●無相庵のあとがき
  「これから踏ん張る積もりであります」と申しましたが、コロナウイルス問題と同じく、世界の政治家のリーダー達が考え方や国同士のあり方を変えないと、何も変わりませんし、 今後も世界が不幸な事態に見舞わられるものと思いますので、私も、これまでの日常の生活のあり方、他企業との有り方を変えます。
  例えば、ビジネス社会はお金儲けが出来るか否かが最も重要です。他の企業や、他の企業のサラリーマンの誠意やコンプライアンス意識を頼りにしていては、残念な結果や、 悔しい結果に終わることがありますので、これからは、相手に得もさせない代わりに損もさせないし、私も損は絶対にしない事を旨にビシネスを続けることにしました。

なむあみだぶつ  

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No.1828  2020.02.07丸2ヶ月振りのコラム更新ですー④

●無相庵のはしがき
  今回も、無相庵カレンダーのお言葉の中から、14日の『あれを見よ、明日は散りなむ、花だにも、生命(いのち)の限り、ひと時を咲く』(九条武子師) を選び、ご紹介致します。ただ、この詩に誤りがありました。「あれを見よ」ではなく、「見ずや君」であり、『見ずや君、明日は散りなむ、花だにも、生命(いのち)の限り、ひと時を咲く』 と云うのが正しいようです。

  この詩を最近社業の不振で経済的苦境に陥っている私の受け止め方を申し述べたく思います。

●丸2ヶ月振りのコラム更新ですー④

  一つは、励ましの言葉として、「明日散ることが決まっている花でさえ、散る事を忘れて、今一瞬の〝いのち〟を懸命に咲いているだろう。君もあのように、今出来ることを真剣に一生懸命に 為せば良いではないか。」と。人間誰しも、自分が可愛いが故に明日の〝いのち〟が散ることが気になり、目の前のことになかなか集中出来ないのでありますが、そうは申しましても私たちの頭は、 明日の〝いのち〟の事だけしか考えないと云うことも有り得ません。ついつい今見ているテレビ番組に知らず知らず引き込まれていることもございます。
  従いまして、この『見ずや君、明日は散りなむ、花だにも、生命(いのち)の限り、ひと時を咲く』を頭の片隅に置いて、瞬時瞬時の目の前の事にのみ集中することを習慣付ける努力をすれば、 何時しか、自分が可愛いという自己愛、つまり煩悩に支配されない日常が送れるのかも知れないと考察した次第であります。

●無相庵のあとがき
  私の頭は、「お金、お金」の言葉が離れないと思っておりますが、やはり、研究開発の作業中は、例えば、重量(0.01g単位)測定に集中していますので、 意識せずとも、お金という言葉は頭から消えています。そういうものでないでしょうか。

なむあみだぶつ

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No.1827  2020.01.31丸2ヶ月振りのコラム更新ですー③

●無相庵のはしがき
  今年も、もう1月から2月へと日めくりが変わります。今回も、無相庵カレンダーのお言葉に付いて考察したいと思います。そもそも現在トップページに掲げている無相庵カレンダーは、 私が未だサラリーマンの時(46歳位)に絵を描くのが得意な同僚の協力を得て作成したものです。確か、私の母が亡くなってからの事ではなかったかと思います。今日のお言葉は、 その母が一番気に入っていた〝31日のお言葉〟『花に蝶々 衆生と佛 はなれられない わけがある』ですが、「はなれられないわけ」とは『煩悩』ですね。 私たちは煩悩に支配されているばっかりで、煩悩を支配することは出来ません。私の母も、一生、煩悩との闘いではなかったかと思います。闘いというよりも、煩悩に支配されている自分に気付きながらも、 煩悩に支配されてしまう自分をどうする事も出来ず、慙愧の念仏を称えるしかなかったのではないかと思いますが、今となって尋ねても、あの世の母は答えてはくれません。

●31日の無相庵ンレンダーのお言葉に付いて

  このお言葉の解説文は、「花と蝶々、親と子は離れられない因縁の糸で結ばれています、有り難い事に、私達衆生と佛様とは、 逃げようとしても離れられない因縁の糸で結ばれています。」 でございますが、それに加えて、私は、「この詩は、この世で仏教に出会った感謝と歓びの想いを表現したものです。そして仏教に出会った事 が偶然ではなく、必然であったと言う感動を、 花と花に群れる蝶々の関係として捉えたものと思います。例は適当ではないかも知れませんが、親と子も同様です。子は親から離れて行くものですが、親 は、いつまでも、何処までも追いかけて行きます。 親は子を見捨てられない訳があります。子の幸せ を願うからです。佛様も、私達衆生の幸せを願っております(これは他力本願と言う言葉の願と言う事でもあります)。」

  と、その時の感想を書いておりますが、46歳の時の私と今の、孫を5人も持った74歳の私とでは、子や孫の幸せを願う想いには深さの違いがあるように想います。

●無相庵のあとがき
  しかし、今の私も、煩悩があるからこそ、こうして、無相庵ホームページを更新している、佛様に再開させられている身だと思います。身が無くなるまで、煩悩のお陰で、 仏様との縁は切れないということだと思います。

なむあみだぶつ

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No.1826  2020.01.24丸2ヶ月振りのコラム更新ですー②

●無相庵のはしがき
  24日の無相庵カレンダーのお言葉は、『天下無敵』です。この解説には、「私には自我があるから敵ばかりに囲まれる。 一つ自我を無くせば一人の味方が出来る。すべてを捨て れば、私の周りは味方ばかりの広い世界。本来、天下無敵の私なのです。」と、認(したた)めております。 自我とは煩悩とも言い換えられます。煩悩がある限り、恐いものに取り囲まれます。

●天下無敵

  26日のお言葉には、『災難に逢ふ時節には災難に逢うがよく候、死ぬる時節には死ぬがよく候、是はこれ災難をのがるる妙法にて候』という良寛禅師のお言葉を引用させていただいております。 そして、「仏様の『安らぎ』の世界をわが住み処としている人は、苦も楽も、生も死も、悲しみも喜びも、順縁 も逆縁どちらとも、合掌礼拝で受け取る人なのです。」と解説させて頂いております。 つまり、全てを受け入れて往くということですが、それは、私の経験上、簡単なことでは無いと思っております。全てのことを、樹木希林さんの「一切なりゆき」と捉えれられましたら事は簡単ですが、 過去を振り返れば、「一切はなりゆきだつたなあ・・・」とおもえるのですが、これから近未来に起こることを、「一切なりゆき」だとはなかなか思えず、私何かはどうしてもネガティブな結果を想定し、 色々と自分好みの良い結果を得るべく、色々と策を練ってしまいますから、それだけで疲れ果ててしまいます。それで、誰しもこの世を辛いと思ってしまうのではないでしょうか・・・。 少なくとも、私は、この世を〝シンドイ〟(関西弁)と思っているのだと思います。

●無相庵のあとがき
  樹木希林さんも、決して、「一切なりゆきと考えなさい」とは言ってらっしゃらないと思います。「一切なりゆき」と云う言葉は、仏様が凡夫に諭す言葉だと思います。 その仏様のお言葉に逆らって、何とか自分の思い通りにしたいアクセクしているのが私なんだと最近つくづく思います。

なむあみだぶつ

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No.1825  2020.01.21丸2ヶ月振りのコラム更新ですー①

●無相庵のはしがき
  無相庵コラムの更新をFB(フェイスブック)に移行すると申し上げていましたが、なかなか実行に移せないまま、2ヶ月が過ぎてしまいました。 更新手順も忘れかけておりますので、手探り状態での更新処理を始めましたので、とんでもない間違いがあるかも知れませんが、ご容赦下さい。

●丸2ヶ月振りのコラム更新に付いて

  かなり前になりますが、樹木希林さんの著書『一切なりゆき』のご紹介と、その内容に付きましての感想をコラムに認めましたが、これまでの2ヶ月間に私は様々な出来事に遭遇し、 私自身がなかなか一切なりゆきと云う考え方に成れないと云う反省や、樹木希林さんがどういう思いで『一切なりゆき』という本を遺されたのだろうかと、考え続けた2ヶ月を振り返りたいと思い、 コラムとして残そうと考えた次第です。

●無相庵のあとがき
  この『丸2ヶ月振りのコラム更新ですー①』は、これからの更新作業のウォーミングアップとして受け止めて頂ければ有り難いです。定期的にでは無く、 気の向くままに更新させて頂きたいと存じます。、

なむあみだぶつ

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No.1824  2019.11.21無相庵ホームページをFB(フェイスブック)に移行する事付いて 

無相庵ホームページをFB(フェイスブック)に移行しようと考えた一番の理由は、更新手続きには結構注意力が必要であり、記憶力が衰えた私には負担が重くなり過ぎたことにあります。
  その点、FB(フェイスブック)は、更新は手軽に行なえますし、そして何よりも、仏法に関心が無い一般の方々にも幅広く見て貰えるからです。
  仏教用語を使わないで、仏教を発信することは、かなり困難な作業であり、その面で逆に負担が大きくなるかも知れませんが、これまで得た仏教の知識を駆使して、 一般の人々に仏法を届けられることに喜びが得られると考えている次第です。

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No.1823  2019.11.18無相庵のホームページの更新に付いて 

『無相庵』ホームページを普通一般の人々にも読んで頂けるFB(フェイスブック)に移行する事を考えており、一旦、開店休業とさせて頂きます。 実に、勝手ながら、準備が出来次第、そのようにさせて頂きますので、ご了解頂きたく、お願い致します。

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No.1822  2019.11.11今回の無相庵コラムを以て、一旦、開店休業とさせて頂きます。

●無相庵のはしがき
  前回のコラムで、『「生まれ付きの性分も、努力すれば、治ることもある」と証明出来るか、それともやはり、「生まれ付きの性分は、努力しても決して、治るものではない」ということになるか、 これからの日常生活の場面場面での結果を以て、検証したいと考えております。』と述べ、また、『結論は何時出せるか予想は出来ません。しかし、私にとりましてもっとも大切なことは、 今の私が〝ゆっくり〟をモットーの成り行き任せという意識を保てるかどうかだと考えております。』と申し上げました。

  しかし、私は、〝ゆっくり〟をモットーの成り行き任せという意識を保てませんでした。その結論と、これからの日常生活のあり方を申し述べたいと思います。

●続々ーこれからは、〝ゆっくり〟をモットーに生きて参ります。

  結論を出すという事は、既に〝ゆっくり〟をモットーに生きては行けそうにないという事になり、従いまして、結論は「生まれ付きの性分は、 努力しても決して、治るものではない」ということでございます。

  これまでの日常生活で、例えば、信号のある交差点に近付きました時、以前、青信号の時には、赤信号に変わる前に横断歩道を渡り切ろうとして、小走りしていましたが、 〝ゆっくり〟をモットーにしてからは、小走りしないように致しましたが、それは行動としてそうはしましたが、気持ちとしては、やはり小走りしたい気持ちを抱いていましたし、 ビシネス上のメールを貰った時に以前は、直ちに返信していましたが、〝ゆっくり〟をモットーにしてからは、直ぐに返信することは止めましたが、弊社へのクレームニュアンスのメールで、 しかも不当な理由と考えられるメールに対しては、即対処しようとする気持ちを抑えることは出来ませんでした。それも決して1、2回でありません。それらの時、私は「生まれ付きの性分は、 努力しても決して、治るものではないな」と、思わざるを得ませんでした。

●無相庵のあとがき
  結論は、「生まれ付きの性分は、努力しても決して、治るものではないな」ということで、これからは、努力して治す努力はもう致しません。ただ、ここで焦っても、自分の為にも、 誰の為にもならないと瞬間的に思うことがあれば、5分位は冷静に考え、対処することにしようと思いました。これからも、多分、 あの10月22日の『即位礼正殿の儀』で感じた反省は消え去ることはないとは思っていますが、ゆっくり対応出来ない自分を否定してしまうことは止めようと思ったことです。

なむあみだぶつ

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No.1820  2019.11.04 続ーこれからは、〝ゆっくり〟をモットーに生きて参ります。

●無相庵のはしがき
  前回のコラムで私は、〝ゆっくり〟をモットーに生きてゆく為には「早くしたい、早く結果を出したい」と云う私の煩悩の燃え盛りを如何にして制御するか、と云う仏法の根本問題の壁に ぶち当ることになったと申し上げました。それに対してまして、私の生活態度・姿勢を熟知している家族の一人である長女から、「難しい課題やなぁー。治るかな・・・(笑い)」という感想が寄せられました。

●続ーこれからは、〝ゆっくり〟をモットーに生きて参ります。

  セカセカ、イライラの私の生活態度と姿勢を傍で見て育った長女の感想は、素直に受け入れざるを得ません・・・。私自身がそれを一番知っているからこそ、あの『即位礼正殿の儀』を見ていて、 刺激を受けた訳だとも考えていますが、「難しいからこそ、セカセカと治そうとせずに、〝ゆっくり〟をモットーにし、死ぬ迄に治れば良いという位で歩んで参ります」と言いたいところです。

  そう言いたいところですが、なかなか、このセッカチ性分は、難敵でございます。
  私の言い訳ではありますが、生まれて10日目位の時に、一家が住んでいた神戸市(須磨区)に焼夷弾が投下され、私は母に抱かれて、近くの若宮小学校に避難したそうです。 これは、調べて見ますと、昭和20年3月17日の神戸大空襲だった事から事実だと知りました(私の誕生日が昭和20年3月8日ですから)。そして直ぐに一家は、 母の実家の島根県出雲市大社町に疎開したそうですが、其処も母の姉一家が満州から帰還してきたことから、同じ大社町の出雲大社近くの父の実家にうつらざるを得なかったとか・・・。兎に角、 生まれたての1ヶ月以内に、彼方此方連れ回された私ですから、落ち着きが無く、セカセカとした性分になったのは、必然ではなかったと・・・。私の姉兄4人は、 その時は3歳から11歳になっていましたから、私とは性分がまるっきり異なっていたのも、頷けます。 、

●無相庵のあとがき
  はっきりとした自信を抱けませんが、「生まれつきの性分は、なかなか治らない」とも言われますので、難敵であります。 難敵ではありますが、実体験として、「生まれ付きの性分も、努力すれば、治ることもある」と証明出来るか、それともやはり、「生まれ付きの性分は、努力しても決して、 治るものではない」ということになるか、これからの日常生活の場面場面での結果を以て、検証したいと考えております。

  結論は何時出せるか予想は出来ません。しかし、私にとりましてもっとも大切なことは、今の私が〝ゆっくり〟をモットーの成り行き任せという意識を保てるかどうかだと考えております。

なむあみだぶつ

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