No.1859  2020.11.26まことの宗教―(1)人と宇宙―続の①

●無相庵のはしがき
  今回のテーマは、「驕(おご)り」です。井上善右衛門先生は、「自惚(うぬぼ)れ」とも、「自己課題評価」とも言い換えられていますところからしますと、少なくとも私は当て嵌まります。 人生を振り返りますと、この老後の極貧の生活は、間違い無く、自分を見誤って、事業に手を出し、その他色々と身分不相応な振る舞いをした結果として生じたものであることは間違い有りません。 自分はチャレンジして来たと思っていても、他のひとから見れば無鉄砲と見られていたのではないかと思いますし、その私の無鉄砲に依って、とばっちりを受けられた方も数人おられます。

  その汚名を挽回しようと、またしてもチャレンジしていますが、今回は国の制度(公的融資など)を利用して、個人に迷惑をかける事が無いように言い聞かせながらのチャレンジです。、

●まことの宗教―(1)人と宇宙―続の①

  科学は科学としての意味を持ち、価値を持っておりますけれども、その科学というものを私どもは正しく使わなくてはならぬ。ところが科学の進歩は結局、 人間に先ほど申した錯覚と一種の驕りを醸し出し、そしてその驕りがいつのまにやら幻想とでもいうべき意識を生じ、自己と宇宙との間に立ちはだかる障碍に姿を変えてきたのです。
  人間にとって、この、おごりというもの、これは恐ろしいものでございます。日本は今度のような悲惨な敗戦の結果を身にしみて喫したわけですが、日清、日露の戦争を通じて、 ほんのわずかな間に、日本の軍隊は負けないんだ、敗れることはないんだという、こういう一つのやはり軍部の驕りというものが、いつの間にやら大正年間に生まれてきておったのだと思います。

  そういうことが昭和の時代を迎えましていよいよつのって来た。どんな戦いをしても日本は勝つんだと、こういう幻想が、 とうとう日本の国を実に悲惨な敗戦にまで追いこむような出来事を生み出してしまったのだと思います。で、もう少し健全な目覚めというものを日本の軍部の人たちが持ち合わせていたら、 こんな事にはならなかったと思いますが、しかし今となっては、そういう事が我々日本国民に対して非常に貴重な反省・非常に貴い将来の歴史の指針、そういうものになったと思います。

  ともかく私は人間の驕りというものは恐ろしいものだと思うのです。
  仏陀のお言葉では「慢(まん)」という、自慢の慢という字を書くのですが、一言で申しますとこれは、「自惚(うぬぼれ)」でございます。誤った自分の過大評価であります。 そういうものが人間の命というものをいかに混乱させていくか、真実なるものに逆らわせていくか、そして身の破滅を招いていくか。こういうことを私どもに示して下さっておるのでありまして、 根本煩悩―迷い心の基本形態を根本煩悩と申しますがーその根本煩悩の中に「慢」という一つがございます。これはやはり人間の妄想からさまよい出る一つの姿でありますが、どうも今日の科学の底に、 そういうものがいつとはなしに生まれ出て来ておる。そしてそれを今日の科学主義教育という場で教育され、科学的知識を身につけることが始めであり、終りになっておりますような日本の教育の中で、 その幻想越えることが出来ないで、人間と宇宙との正しい関係を見忘れて、天地自然を相手に廻し、また少し極端な言葉をもってすれば自然に対して敵対的な意識をもって生きている、 こういう人間になっておるような気持ちがいたすのであります。

  そういうことになりますと、その結果、その妄想というものが人間というものをだんだんと非人間的な状態に追い込んでゆく、天地自然に対する態度もさることですが、 人間関係におきましても一つの妄想が根になって自己自身に対する正しい意識が失われ、それが人間関係そのものを攪乱していくような、今日の問題で申しますと、 平和ということを傷付けていくような執我の心の根が蔓延していく、そういう結果になるのではなかろうか。私ども人間にとりまして非常に厳粛なことは、真実の道に則(のっと)っておりますと、 その真実がいよいよ私どもを支えもり立てていくという結果をもたらしますし、反対に私どもが真実に背を向けておりますと、必ずその跳ね返りが人間の上に起こってくる。 そして人間が自己矛盾に陥って苦しみを自ら喫しなければならないようになる。まさにこれが自業自得ということと思われます。
  こうしたことを静かに振り返ってみますと、これは実に大切な今日的反省ではなかろうかと思うのです。

●無相庵のあとがき

  井上善右衛門先生は、昭和20年8月15日に敗戦が確定した戦争に参加され、戦争が終わってもシベリアに抑留され、昭和24年に帰還されたと云う体験をお持ちです。 私達には想像も出来ない苛酷な体験だったと思われます。その詳しい体験話は敢えてされなかったのだと思いますが、一言、「何故か石鹸箱だけは無くならなかった」と・・・。 今回のお話はそういうご体験からのお話でありますので、「しかし今となっては、そういう事が我々日本国民に対して非常に貴重な反省・非常に貴い将来の歴史の指針、 そういうものになったと思います。」と云うお言葉を戦争に行った事のない我々は、決して忘れてはならないと思います。

  

なむあみだぶつ

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No.1858  2020.11.16大丈夫きっと 全てはうまくいく

●無相庵のはしがき
  『大丈夫きっと 全てはうまくいく』と云うのは歌手の安室奈美恵さんが歌っている唄の題名です。安室奈美恵さんが作詞作曲した歌ではありませんが、 この唄の作詞作曲されたNao'ymtと云う方は、「上手く行くことが無い」事が多いことから、作られた唄ではないかと思います。
  これは、この20年間、上手くゆくことに恵まれなかった私の推察です。

●大丈夫きっと 全てはうまくいく

  歌手の安室奈美恵さんには、『大丈夫きっと 全てはうまくいく』と云う歌詞の一番の歌詞は、次のようなものです。

また巡る季節が 新たな予感をつれて 目を閉じたままじゃ分からない こんなにも世界は綺麗なのに 黒い感情 抑えられず 正義とすり替えてた Get myself back again 傷つくために 生まれてきたんじゃない

Oh Oh Oh Oh
Oh Oh Oh Oh
Oh Oh Oh Oh
大丈夫きっと 全てはうまくいく
 

●無相庵のあとがき

  傷つくために 生まれてきたんじゃない」と云うのは、世間的には作詞作曲界の成功者でありながら、傷つく事ばかりの人生を送っていると思われているNao'ymtと云う方ご自身が、 自分を励ます歌を作って、安室奈美恵さんに歌わせた応援歌ではないかと思います。

  私は今、これまで取組んだことの無い、一般消費者に使用される日用品の開発課題に出遇っています。私の人生の最後に巡り遇えた技術課題だと考えて取組んでいるところですが、 これまで何回も、色々な開発課題に出遇いながら、全てポシャって来ました。しかし今度こそは、安室奈美恵さんの「大丈夫きっと 全てはうまくいく」と云う歌詞に励まされて、 成功に向けて何としても頑張ろうと思っているところです。
  皆さまも、壁にぶち当られた時には、『大丈夫きっと 全てはうまくいく』と云う言葉を思い出されては如何かと存じます。 

  私は思っています・・・と言いますか、「大丈夫今度はきっとうまく行く!」と願っています。

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No.1857  2020.11.02続ー本願に救われて念仏を称えさせて頂く、親鸞聖人の教えこそ

●無相庵のはしがき
  罪悪深重煩悩熾盛「宿業の身」のままであると深く自覚する「機の深信」と、そういう私を阿弥陀仏の本願に依って必ず救われると信じる「法の深信」が信心の両局にあると云う考え方が、 「二種の深信」として古来から親鸞仏法の考え方です。親鸞聖人は、決して悟り澄ました方ではなく、本文にありますように、両極を行ったり来たりする私たちと同じく聞法生活者だったと思われます。

●続ー本願に救われて念仏を称えさせて頂く、親鸞聖人の教えこそ

  親鸞聖人は、自身の位相を「非僧非俗(僧に非ず俗に非ず)」と認識し、在家生活者のままで聞法生活に徹するうちに、 「いずれの行もおよびがたき身なれば・・・(本来、どのような努力によっても、仏になることのできない身であるから)」という自覚、すなわち、 罪悪深重煩悩熾盛「宿業の身」のままである「機の深信」を授かり、この親鸞においては「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よき人のおおせをかぶりて、 信ずるよりほかに別の仔細なきなり(ただ念仏によって実在を回復できるという如来の本願の道を法然上人からいただいて、それを信ずるのみである)」という、 いわゆる「法の深信」を授かり生かされて生きて往く仏教生活者であったのです。

  ゆえに親鸞は、浅ましい非情な現実生活から逃避しようとする出世間的な生き方を理想としても、 自身の宿業から発動する生活全体の現実を消滅させることはできないまま生命的存在として生かされて生きている絶対的な自己矛盾から目を背けず、 この両極を行ったり来たりする「宿業の身」の煩悶現象を機縁として、真実の智慧と慈悲のはたらきを発動する仏法を聞き信じ生かされて生きて往く聞法生活であったのであろう。

●無相庵のあとがき

  両極を行ったり来たりと申しますと、常に心騒がしくされていたように思いがちですが、そうでは無くて、しばらくは、 阿弥陀仏の本願を信じて心穏やかな生活をされる一方で、日常生活で経験する様々な問題が、自身の至らなさや我欲中心主義の根深い我執の迷妄性に依るものだと深く自覚されて、 「ああ、またしても」と思われる時もあったのではないかと思います。

  親鸞聖人は幸いにも、比叡山でのご修行をされた後に法然上人というお師匠に出遇われ念仏の道に転向されました。良き師匠の存在も必要なのだろうと思います。

なむあみだぶつ

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No.1856  2020.10.29本願に救われて念仏を称えさせて頂く、親鸞聖人の教えこそ

●無相庵のはしがき
  私は、これまで何度も申し上げましたが、赤ん坊の時から、物心ついた幼小年時代、(そして受験生時代、テニスに明け暮れた大学生の時は別として)、 社会人になってからも仏法、特に母の信仰していた親鸞聖人の浄土真宗の教えに親しみ、その教えを生きて行く上での精神的なバックボーンとして生きていましたし、 今もそれは変わっておりません。立派な禅の高僧の先生方からお教え頂きましたこともござますが、何故か聖道門の禅宗ではなく、自分が救われるとしたら、 親鸞聖人の歩まれた仏道だと考えて来ましたし、今も変わっていないと思っております。

   しかし、未だに救われた気持ちを味わった事が無いのは何故かと考えておりましたが、極最近目にした、以下にご紹介する、『洗心』と云う季刊誌に掲載されている文章に出遇い、 疑問が解けたように思いました。疑問は解けましたが、これからが親鸞聖人の仏道を歩む本番だと考えております。

●本願に救われて念仏を称えさせて頂く、親鸞聖人の教えこそ

  「聞法」(仏法を聞く)という「仏道」(仏法生活)によって成就する「機の深信」と「法の深信」は表裏一体であり、それは「宿業の身」(「凡夫」の「機」)のままで、 真実の智慧と慈悲のはたらきである阿弥陀仏の本願を信じて生かされ生きて往く「機法一体」=「仏凡一体」という救いの姿です。

  この「機法一体」=「仏凡一体」という信心は、宿業の身である人びとの心意識(「阿頼耶識」=「第八識」)のはたらきから発動するものでなく、 「仏」すなわち真実の智慧と慈悲のはたらきである阿弥陀仏の本願に出遇うことによってたまわる「廻向の信心」(人びとに差し向けられる信心)です。
  つまり阿弥陀仏の本願のはたらきを聞き信じ、「二種深信」(「機の深信」と「法の深信」)が成就し、「機法一体」=「仏凡一体」という信心の濃度が高まるとき、 宿業の身である人びとの貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚痴(ぐち)(「無明」・「渇愛」)のはたらきから発動する自我我欲中心主義の生き方は根底からひるがえり、 自力無効の目覚めを授かるうちに、みずからの罪悪行動(罪業)への懺悔・慙愧の心も起こるのです。 

  その懺悔・慙愧の心が起こるとき、阿弥陀の本願のはたらきを真実の(いのち)として生かされ生きて往く信心を授かり、その阿弥陀仏の〝はたらき〟に帰依する「念仏」を称える身となるとき、 根深い自我我欲中心主義の我執の迷妄性を打ち破られて、本来、すべての生きとし生けるものの〝いのち〟のうちに息づいている、自力によって育むことのできない真実清浄な「心」のはたらきである 「仏性」のはたらきを授かる身となるのです。

  いわゆる真実の智慧と慈悲のはたらきを〝いのち〟とする阿弥陀仏の本願に出遇う「聞法」という仏道によって、宿業の身である分際に目覚める「機の深信」の実現を授かり、 その宿業の身である生命的存在のうちに躍動している自我我欲中心主義の根深い我執の迷妄性を砕き突破させられて、阿弥陀仏の発動する真実の智慧と慈悲のはたらきを拠りどころとして生かされて生きて往く 「法の深信」という、痛切な自己内容と懺悔・慙愧がともなう「信心」を授かり生かされて生きて往く仏教生活が成立するのです。

●無相庵のあとがき

  親鸞聖人の教えを学んで来た私は、自分が「罪悪深重煩悩熾盛の凡夫」であることを認識しています。しかし、それは〝認識していると思っている〟だけで、本当に、 心底自覚出来てはいないと、私は、ふと思ったのです。何故そう思ったのかと、文章のどの部分によって思ったのかと読み返しましたところ、『自力無効の目覚めを授かるうちに、 みずからの罪悪行動(罪業)への懺悔・慙愧の心も起こるのです。』と云う文章のところで、私自身は、自力無効に目覚めていると思っているけれども、懺悔・慙愧の心が起こっていないのです。 それは何故かと考えた時に、自らの罪悪行動(罪業)を具体的に把握出来ていないことに思い至りました。そして、物心ついてからこれまでの人生の中で、恥ずべき行動、親族も含めて他の人に迷惑や、 不愉快な目に遭わせたりした事(今此処で発表すら出来ない事もあります)を出来るだけ思い出した結果、私は、自らの罪悪行動(罪業)を具体的に把握出来、懺悔・慙愧の心が起こりました。 でも、未だ徹底出来ていないと思いますし、この調子で生活してゆけば心底、自力無効に目覚める瞬間を迎え、自分の努力や力ではなく、ただ阿弥陀仏の本願力で、 自我我欲中心主義の我執の迷妄性を打ち破られて、本来、すべての生きとし生けるものの〝いのち〟のうちに息づいている、 自力によって育むことのできない真実清浄な「心」のはたらきである「仏性」のはたらきを授かる身となり、お念仏も無意識のうちに称えるようになるのだろうと思うようになりました。

  『洗心』と云う季刊誌のお陰様で、有り難いご縁を頂いたと思っています。 、

なむあみだぶつ

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No.1855  2020.10.26賢き思いの払拭に付いての考察

●無相庵のはしがき
  私は、No.1852のコラムにて、『賢き思いを払拭したいが・・・』と云う表題で「なかなか、賢き思いを払拭出来ない証拠に、私の口からお念仏が出ない」と申し上げました。 今も、それは変わっておりませんし、「賢き思いを払拭したい」と云う願いを抱いておりますので、新聞で他の方の書かれた中に、関係があると感じた記事は入念にチェックしております。 その中で、作家の倉本聡のお父上に関する内容の記事に感銘を受けまして、「成る程、本当に賢いとは、こう云う倉本さんのお父上のような方であり、私はその賢さも持っていないな」、と考えさせられました。

●賢き思いの払拭に付いての考察

  以下は、神戸新聞の<正平調>に掲載された記事です。

『小学校時代、担任の教師から平手打ちをくらった。なぜ怒られたか、理由は覚えていない。頬を焼くような瞬間の痛みと怖さだけが記憶に刻まれた◆この中学生たちの恐怖や痛みはいかばかりか。 宝塚市の中学校で起きた障害事件のことだ。「きつめの指導」と称し、柔道部顧問が投げ技などで2人に重軽傷を負わせ、障害容疑で逮捕された。帰宅した後も生徒は震えていたと、保護者は言う◆ それから10日、解けぬ疑問がいくつもある。これほど体罰は止めようと言われてもなかなか減らない。なぜだろう。兵庫教育界の規範が緩いのか。そう問う声も耳に届く◆脚本家倉本聡さんの話を思い出す。
  幼いころに万引きをしたそうだ。欲しかったビスケットを2枚、気付いたお母さんから事情を聴いて、お父さんは「出かけるよ」と倉本さんを外へ連れ出した◆向かったのはそのお店。 「ビスケットを全部下さい。在庫も」とお父さんは言った。そして大きな袋二つをかついで帰る間、説教はなし。でもビスケットがおやつに出るたび、倉本さんは後ろめたさを感じ続ける。 自伝エッセー「見る前に跳んだ」から◆力ではなく、言葉や姿勢で諭し、導く。難しいのを承知の上で期待する。教育に生きる皆さんの、プロの力。』

●無相庵のあとがき

  倉本聡さんのお父さんのような賢さは、努力では得られそうにないなと思います。お父さんの薫陶を受けた倉本聡さんはその賢さを受け継いでいるのかどうかは存じませんが、 脚本家の倉本聡さんは、俳優や歌手、ミュージシャン、脚本家などの昭和世代にテレビの世界で活躍した人物だけが入居する、東京近郊の老人ホーム「やすらぎの郷」を舞台に、 “家族の絆”・“友情”・“愛情”・“死”などをテーマに、現在のテレビの在り方に対する批判も盛り込み、ユーモラスかつシリアスに描かれたドラマ『やすらぎの郷』を脚本され、私も、 2016年から約2年間、月曜から金曜の昼の時間帯のドラマを視聴させて頂きましたが、ドラマ設定の時代が現実の時代と食い違いがないようにと詳細に調査された上での脚本だったと知り、 非常に感銘を受けた事を覚えています。
  しかし、それがお父さんから教育された事と関係するのかどうかは分りません。

ひょっとしたら、自伝エッセイー「見る前に跳んだ」を読めば分るのかも知れませんが。

なむあみだぶつ

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No.1854  2020.10.22まことの宗教―(1)人と宇宙ー続

●無相庵のはしがき

  初版の無相庵カレンダーの21日目のお言葉は、『なかなかに、信得る事の難きかな、我賢しと、思うばかりに』です。 以前、『賢き思いを払拭したいが・・・』と云うコラムを掲載致しましたが、私には厳しいお言葉で、身に沁みます。 やはり、自然科学を中心とした教育を受けた私はどうしても、頭でっかちの人間になっており、今回の井上先生のお言葉がそのまま、私に当て嵌まります。

●まことの宗教―(1)人と宇宙ー続

  大自然は我々の母体であるという、そういう感じがどこかへ薄れてしまいまして、私どもの対立者であって、これを我々の力で、 自分たちの都合のよいように造り変えていくんだという姿勢が自然科学の発達と共に人間の心を占めてきたのでありますが、これは如何なものでしょうか。
  よくそのことを反省してみますと、まず人間が独自の存在で自然を征服するというのは、あるべからざる人間の勝手な思いではありませんか。人間の勝手な思いであるならば、 それを迷謬(めいびゅう、迷い誤った考え)というのは言い過ぎであろうか。しかし正しさに反した意識ならばやはり一種の錯覚といわなければならぬでしょう。

  もともと科学というものは、現実の真実を見つめるものでありますけれども、その科学が心の底に幻想を生み、人間の欲するところに従って科学を用いるというような、 何かそうした奇妙な経緯を見せているという感じが致します。

  アインシュタインという亡くなりました世界的な物理学者が「科学のない宗教は盲目であるけれども、また、宗教のない科学は不具である」と、こういうことを言い残しておりますが、 さすが真実というものを深く見つめた人として、非常に深い警告を人類に残してくれている言葉であります。

●無相庵のあとがき

  この無相庵ホームページを開設したのは、2000年7月13日です。20年経っています。一昨日、故障していたアクセスカウンターを長男に復旧して貰いました。 これまでのアクセス数は、35万アクセスを超えております。この中には私が、更新出来たかどうかを確認したり、アクセス状況を確認した回数を含みますから、私以外の方々の実質アクセス数は、 多分25万~30万ではないかと思います。 最近は、かなりアクセス数が減っており、淋しい想いを抱くこともありますが、出来る限りは続けようと思っております。

なむあみだぶつ

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No.1853  2020.10.19まことの宗教―(1)人と宇宙

●無相庵のはしがき

  私が仏法に親しんで参りました中で最も影響を受け、時には直接ご指導を頂いたのが故井上善右衛門(明治41年~平成10年、元神戸商科大学学長)と云う、 学徳備わったお方です。その井上先生のお師匠である白井成允先生と共に、私の母共ども忘れられないお二人です(詳しくは、法話コーナーをご参照下さい)。 今回は、前回のコラムで申し上げた「賢き思いを払拭したい」と云う為にも原点に立返り、その井上先生のご著書『真実の泉』を読み返し始めました。 そして、冒頭の「人と宇宙」に書かれている、私たちが宇宙でどんな存在か、他の動植物と共に生きる私たち人間のあるべき姿を思い返す原点に立返らせて頂けると思いましたので、 皆さまのご参考になればとも思いご紹介させて頂きます。

●まことの宗教―(1)人と宇宙

    私ども人間は、申すまでもなく体と心から成り立っている存在であります。ところがその体と心というのは、全く一体的なものでありまして、体を離れて心もございませんが、また、 心を離れて体も無意味なものになってしまいます。そういう心と体の一体的な私どもの状態をひとつ「命(いのち)」というような言葉で言い表わしておきたいと存じます。

  私どものこの命というのは、申すまでもない事ですが、天地宇宙の中から生まれ出てまいりまして、そしてこの大きな宇宙天地に支えられ、且つ又、 見守られているものであるということは、これは何としましても疑いえないところだと思います。私どもは現在、その大いなる自然と通い合って、生命が維持されております。 空気を吸わなければ、一時も生きておられない。太陽の熱というものが存在しなければただちに、私どもの世界は凍てついてしまうでしょう。いろいろな点から考えましても、 この私どもの命というものがこの大きな宇宙・天地と常に通い合って、そして支えられておるという事、この事は平素私ども案外忘れておる事柄でございますけれども、 これは誰がなんと申しましても、動かないところかと思います。
  しかし、いま申しましたような、空気を常に呼吸しておるとか、太陽の熱によって生存し得ておるとか、あるいは大地と水の潤いによって生命が有り得ておるのであるとかは外面的な、 私どもの体と大自然との間柄なのでございますが、そういう切り離すことのできない関係、言わば、命の母体とでもいうべき宇宙と私との間柄が、一体の心に作用し、 心に影響を及ぼしその関係が何らかの形をとって心の上に現われて来ざるを得ないという事も、また間違いなく言い得ることではないかと思います。

  ではどのような形をとって心の上に影を投げかけてくるかといいますと、それは私どもの命に極めて自然な情感となって現われてくると申してよいでありましょう。 「情感」と申しますのは、決して理屈ではございません。何とはない、心底の感情であります。私どもの生命は、この情感というものと離れて存在しておるものではございません。 人間の命の底の一番自然な流れの波動が情感です。その情感の中に私とこの大いなる宇宙との間柄が影を投じてくる。これは避け難い出来事であると申さなければなりません。

  では、一体、どういうような、情感として現われてくるかという事でございますが、まず昔の人達は、この大きな宇宙に対して畏敬の念を感じました。何かしら、 私どもを超え優れたような大きな神秘的な力、この私を産み、且つ支えておる、その大いなる天地宇宙に対する畏敬の念、それはある意味では敬いですし、またある意味では、 それに逆らってはならぬと云う畏れ慎む心、そういう情感が畏敬と言い表わされるところかと思います。これは極めて自然な人間の生命と共なる感じようだと思うのです。

  ところがご承知のようにここ数百年来、人類には自然科学というものが成立しまして、その自然科学は日進月歩で進歩して参りました。その結果いつとはなしに、人間が人間の力で、 あるいは人工で、何でも人間の思うように出来るという考えを持つようになりまして、そういう思いが今度は、いつとはなしに、人間がこの大宇宙から離れて、人間が単独で、 独自で存在しておるものであるかのような、気分を持つようになり、そしてその人間が人間の欲望を充足するために、自然を利用するという程度はまだよろしゅうござますけれども、 支配し、征服するんだというような姿勢を人間は示すに至りました。
  しかしそうなってまいりますと、これはもはや、親子関係ではなしに、自分に対する相手、自分がそれを切り刻んでいく、あるいは処理していく対立者という、 こういう意識が人間の中に生まれ出てくるようになりました。現在の常識というものにはおそらくそういう意識が定着していると思います。

●無相庵のあとがき

  先生は、法話を話される時も、私たち聴衆に言い聞かせると云うのではなく、ご自分も一言一言正しい事を話しているだろうかと確認されながら話をされていましたが、 この著書も講演記録を纏めたものですので、そのあたりが能くお分かりになるものと存じます。これからも、時折ご紹介させて頂ければ、と思っております。

なむあみだぶつ

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No.1852  2020.10.12賢き思いを払拭したいが・・・


●無相庵のはしがき
  私は今も私の口から、無意識のうちのお念仏が出ません。今もと言いますのは、昭和56年(1981年)9月11日に、 母が主宰していた垂水見真会にご出講頂いた、当時は協和発酵株式会社の会長だった加藤瓣三郎師に、葉書で「私の口から無意識に念仏が出ませんが、 如何したものでしょうか?」とお問い合せしたのに対して、「それは、貴方が賢き思いを具していらっしゃるからです」とお答を頂いた経緯があるからでござます。 それ以来私は、賢き思いを払拭出来ないままなのです。

●賢き思いを払拭したいが・・・

  加藤瓣三郎師からのお葉書の内容は下記の通りでござます。

   『葉書拝見いたしました。先日の私の拙いはなしをお聞き下さいました由ありがとう存じます。まだお念佛を称えるお気持ちがわきません由よくわかります。 私がそうであったのですから。ただ、申し上げておきたいのはそれは、あなたが、「かしこき思いを具して」いらっしゃるからでござましょう。 やがていつの日には、その「かしこき思い」に限度のある事にお気づきになりましょう。 宿縁の開発をお待ち申し上げます。敬具』

  今も、賢き思いを払拭出来ていませんが、私は自分自身が、「自分は賢いんだ」とは思っていません。本当に賢いなら、仕事で苦労することなく、上手く人生を渡って来れた筈ですが、 現実は、正反対です。これはどういうことでしょうか?

  それは、本当に賢く無いのに、賢いと思っているのではないか、否、賢く無い現実を受け止められていないのだと思いました。賢く無い自分を認めようとしていない事なのだと考えました。 表向きは、七帝大の一つである大阪大学を卒業していると云う自負も持っているのかも知れません。そして、技術者としも、特許権を取得し他社から今も引き合いがございますので、 技術者としてもそこそこの自信を持ってしまったのだと思います。でも、大阪大学を卒業し特許権も取得したと言いましても、現実としては、財産も名誉も得られていないのです。

●無相庵のあとがき

  それに引き替え、私の母は常念仏の人でした。無意識にお念仏を口にしていました。私の母は、1906年(明治39年)生まれです。島根県の大社町に生まれましたが、当時としては珍しく、 東京の女子高等師範学校(現お茶の水大学)に留学した才女でしたが、キャリアウーマンだけに、色々と苦難に遇い、祖父の影響もあり、仏法の道を歩むことになり、最終的には常念仏者になったのだと思います。 恐らく、自分の愚かさが身に沁みて自覚したに違いありません。 母の事を思いますと、私は未だ、自分の愚かさが身に沁みて自覚出来ていないのだと思います。

  賢く無いから、賢き思いを払拭出来ると思っているのだと思いますが、75歳です。未だ未だこれからだと思っております。

なむあみだぶつ

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No.1850  2020.10.08暁烏敏師の『わが歎異鈔』のご紹介を中止させて頂きます。

●無相庵のはしがき

  私は、暁烏敏師の『わが歎異鈔』の上、中、下の3巻を買い求め、1年間はそれを教材として、無相庵コラムを続ける考えでしたが、 暁烏敏師の講話は下記にご紹介する第一章だけでも50頁に及びます上に、かなり学問的な内容で、それを解釈して皆さまにお伝えするには、私の力量が不足している事が分りました。

●『わが歎異鈔-上巻』ー第一章

  弥陀の誓願不思議に助けられまひらせて、往生をばとぐるなり、と信じて、念仏申さんとおもいたつこころのおこるとき、 すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。 そのゆへは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします。しかれば、本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、 念仏にまさるべき善なきゆへに、悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆへに、と。云々。  

●無相庵のあとがき

  私は幼い時から仏法に親しんで育ちましたので、考え方の根底には仏法的なもの、特に親鸞仏法の教えが流れていると思っています。競争が激しく、 ビジネスの世界で生きる私は、時として、損得感情に埋没してしまうこともあり、そのような事が無いように、この無相庵コラムの更新が役立ってくれたようにも思っていますし、また、 心の支えとして続けさせて頂いたことも確かであります。

  暁烏敏師の『わが歎異鈔』のご紹介を中止させて頂きますが、無相庵コラムの更新は、不定期ではありますが、続けさせて頂きます。

なむあみだぶつ

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