●無相庵のはしがき
  初心に立返って、私たちが仏教に何を求めるかと云うこと考えますと,私たちが人生に感じる苦しみや悲しみという悩ましさから解放され、心安らかに、心豊かに暮らしたい、 と云う気持ちからではないかと、私は思います。また或いは、死の恐怖から逃れたいのだけれども、位の高いお坊さんは、それを解脱しているように見えるので、 仏教にそのヒントがあるのではないかと思う気持ちから、法話を聞き出したという方もおられるかも知れません。そのような、仏教を求める心をどうやら、『菩提心』と云うのではないかと思います。 これからしばらくは、その『菩提心』ということを学びながら、私たち自身が何を仏教に求めているのか、また、求めて来たのかを顧みたいと思います。

●宗教へのあゆみ―(4)菩提心ー①

  私どものこの命は決して問題がないというような単純なものではありません。しかも一番大事な問題がどこかへ置き忘れられておるのですが、その根源の問題に私どもが立ち返って、 そして私のこの命のあるべき本当の在り方を求める、これを仏教では「菩提心」という言葉で強く訴えております。菩提心なくして仏道には入り得ない、これは仏教の鉄則であります。
  そういう点からその菩提心ということを、私、自らの根本問題という立場に立返って一つ深い関心を寄せてみなければならんと思いますが、 その菩提心を私どもの上に誘発する導きの決め手となるものを道元禅師は「無常」であると強く私どもに指し示しておられます。無常というのは私どもがごまかして通ることの出来ない、 最も直接にして生々しい現実です。この現実を私どもが見詰めることにおいて、必ずや私どもは菩提心の道に立たずにおれなくなるというのです。

  『学道用心集』という道元禅師の著述の中に菩提心というのは「無常を観じる心、即ち是れ其の一(はじめ)なり」といわれています。「一」と書いて、 そしてこの一という字を「はじめ」なりと読ましてあります。この一というのは、それを外すことの出来ない唯一のポイントという、そういう意味合いもございますし、 同時にそれは始めにして終りであるという、そういう意味が強調されていると思うのです。この菩提心は仏道に足を踏み入れ、進む、いわば関門であると申してよろしいでしょう。 如何なる仏典を繙(ひもと)きましても、菩提心ということが極めて厳格に説かれているのです。言い換えますと、菩提心を抜いた仏教はいわば描かれた絵になってしまう。頭の中の知識になってしまう。 こう申して憚らないと思うのであります。

  ところがこの菩提心というのは、私どもの思考をもって開くことの出来るものではない、菩提を求める心というのは切実な、かつ又、独自な私の避けられぬ命の要求として、 そこに目覚めてくる事柄であります。私どもの日々の生活は世間法の中に生きております。損であるとか、得であるとか、名誉であるとか或いは楽しみであるとか、 欲求であるとか悲しみであるとかまあ様々なことが人間の世界にはございますけれども、要するにそれらは人間世界の取り沙汰にすぎないのでありまして、 自己及び世界の究極の真実に私どもが踏み込んで行くという筋道は、世間法の中では閉ざされておると申してよい。 そういう私どもの通俗的な生活の中に何か今までなかった異質な問題意識が私どもの生活の中に起こってまいりました時に、その時初めて私どもは菩提心の問題に触れることが出来ると申すべきです。

●無相庵のあとがき

  菩提心と云うのを、いざ説明しようと思いましても、なかなか難しいです。私自身、『菩提心』も『無常』も分っているようで、何かスッキリしませんが、 この『菩提心』の章が終った後には、すっきりさせたいと思っております。

なむあみだぶつ

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●無相庵のはしがき
  私は正直なところ、新型コロナウイルスに感染することを恐れておりますし、また、以前、頭痛を感じた際、罹り付け医の即断で、一駅離れた大きな病院に救急車で行き、 心房細動という脳梗塞を起こしかねない病である事が分かり、即入院し、危ういところ助かった事がありましたので、最近でも少し頭痛を感じるとドキッと致します。つまり、「死にたくない」のです。、  

●宗教へのあゆみ―(3)死の問題ー②

  これは昔の話ですが、堺に吉兵衛さんという非常に仏法を真剣に求めた方がいました。その方の逸話ですが、常に口にしていた言葉は「私は死んでゆけませぬ」ということであったといいます。 これは非常におもしろい言葉、意味深い言葉だと思います。死ぬるも,死ねないも、死ぬ時が来たら死ぬより外ないんですけれども、しかし、「私は死んでゆけませぬ」というのは、 どうもそれが胸に閊(つか)えて、それが超えられないということでしょう。しかし本当にその死の処置がついて初めて私どもは立派に生きることが出来るのではないか。 その処置がつかない私どもの生き方というのは、それが出て来たら何もかも崩れてしまうという生でしかないのです。結局、それはなんと申しましょうか、実に危なっかしい生き方ではないかと思います。

  生に関わる死の問題の処置がつく、その時初めて私達は堂々と生きて行くことが出来る人間になりうるのではないか。そういう点から思いますと、吉兵衛さんという人が、 「私は死んでゆけませぬ」ということをいつも口にしながら良き師を訪ねて仏法を聞きに聞いたという心根に、私どもは胸打たれる思いがするのでございます。
  ところがこの世の中には「いや、そんな事を思い出したらかえって苦しうてならん。そんなことは忘れる事にして楽しく生きた方が得ではないか」、 こういうようなことをよくいわれる言葉にでくわすのですが、そのお気持ちは解らんではございませんが、これはやはり一種の逃避ですね。逃避し尽くせるならば逃避してもよろしいでしょうけれども、 逃げ切れないことを逃げようとする、そういう態度はやはり一つの〝ごまかし〟ではございませんか。その姿勢こそ私は一種の阿片だと思います。

  「宗教は阿片である」と西洋の唯物思想家が申しましたが、逆に人間の避けて通る事のできない問題を逃避して、そうしてなにか人生をただ目先、楽なようにという生き方、 そういう生き方こそが阿片と言うべき心情だと思います。それは結局、自身を憐れな、悲惨な状態に追い込んでいくことではありませんか。 生と死を超える命を己れの命の根本に打ち立てるべきではありませんか。

  もし、現在私の判断で自分の死に対する心の底からの解決が出来ているなればそれでよろしいでしょうが、それが出来ていない、やはりドキッとするより外仕方のないのが現状であるのだとするならば、 その死の問題を立派に超えることの出来るような世界をみつけてこそ、我が命を本当に大切にするといい得るのではないでしょうか。

  それを逃避し、回避して、目先の安易さに生きているのは結局、ごまかしであり、阿片を吸うておるようなものではないか。そういうことを一つ私どもが確かめてみる、 それが本当の意味での「自己点検」です。自己の点検を怠って、不完全な欠陥車のままで走っていると、いつどこでどんな゛しこが起こるかわからない。危険千万です。 我々人間というものは十分に自己点検をしておきませんと、どんなどんな躓きをお越し、どんな憐れな最後を迎えないとも限らない。若い人は死はずうっと遠い先のことだと思うのです。 人間の自然感情としてはそうでしょうが、実は遠いことではない。すべての人が現在、只今、その問題に関わっているんです。その証拠に人間は年の順には死にません。 誰の命も保証されてはいないということは確と自覚すべきことです。しかもそれに対して真実の落ち着き場所を持たず、ただ肉体としての自分がすべてであるという思いに住しておりますと、 実に最後は心細いものではないかと思います。

●無相庵のあとがき

  私は「誰の命も保証されてはいないということは確と自覚している。」と頭では分っていると思いますが、やはり、これからもずっと、ドキッとするに違いありません。 では、ドキッとしない為には、どうすればよいのでしょうか。それは、どうやら、次の章の『菩提心』に示されているようです。私は未だその内容を詳細に読み取ってはいませんが、 読むだけで、これまた「あっ、そうか!」と分るものではないんだと思います。何かの体験があってこそ、ハッと分る『菩提心』ではないてしょうか。楽しみにしてよませて頂こうと思っています。

なむあみだぶつ

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●無相庵のはしがき
  私は今週の月曜日に76歳の誕生日を迎えました(数え年では喜寿)。日本男子の平均寿命は81歳ですから、私は後5年の命ということになりますから、死は目前とまでは言えなくも、 はっきり〝死〟は見えていると言うべきだと思います。〝死〟は人生の一大事ですが、毎日の生活に於いてそれ程差し迫った課題ではなく、開発の仕事が一番差し迫られた課題になっているように思います。
  何故なんでしょうか?そのくせ、基礎疾患を持っているので、新型コロナウイルス対策には勤しんでいるのです。今日の井上先生のお話を読んで我ながら, 「何を考えて生きているのか」と思いました。

  そして、やはり、仏教を学び続けて来たのは、人生を苦しまないで生きて行きたいが為ではなく、人生の根本問題・人生の根本課題である「死」と向きあって生きねばならないと思いました。
  しかし・・・  

●宗教へのあゆみ―(3)死の問題ー①

  さて私どもの命がこれでよいのか、私どもの人生に問題はないのかと、こういう点に立ち戻ってみますと、そこには実に無限の問題が隠され、潜んでおります。 私どもはそれを今まで何か臭いものに蓋をするように蓋をして見えないようにしておっただけのことである。一度(ひとたび)その蓋を取ってみると、私どものこの命はきわめて種々様々な問題を抱えておる。 問題を抱えておるということは、解決しなければならぬ課題を背負うて、いま生きておるということです。もしそれを解決しなければ、私は虚しい、儚(はかな)い一生を終わるより他にない。
  そういうことに必ずなってくるのではありませんか。したがって根本の問題はいま申しますように、切実な己れの命に対する問題意識を持つということ、 それが宗教に立ち向かう根本的な私どもの立場であろうと思います。

  例えば、私どものこの命は常に死というものと繋がっているものです。ところが、この死という問題を私どもはどう考えているのか。なんとしてもそれはいやなことであり、 他人事の場合はさほど思いませんが、自分が病気になりましてそして医者からどうもこれは危険だというような、そういう言葉でも聞きましたら、誰しもドキッとする。 ドキッとするというのはどういうことでしょう。何かそこに解決していないものがあって、しかもそれが現われると総てのものが崩れてしまう。もはや目先が真っ暗だというような、 そういうものが奥に隠れておればこそ、ドキッとするのではありませんか。そういたしますと、この命という問題に立って死という誰しもが関わり、誰一人として避けることの出来ない必然の出来事を、 どう私どもは我が命の中でおさめをつけておるのかとういうことです。

●無相庵のあとがき

  仏法は、縁に任せ、成りゆきに任せて生き抜く教えです。『死』も勿論、縁に任せるべき課題だと思いますので、井上先生の『死の問題』の法話を心して読み学びたいと思っています。

  初版の無相庵カレンダー(昭和58年頃に製作したものと記憶)の9日目の歌に、『花びらは 散っても花は 散らない 形は滅びても 人は死なない』(金子大栄師)があります。解説文は、 「花びらは散っても、来年は又、新しい花びらを咲かす。花のように、私達人間も、永遠の生命を頂いています。」と38歳の時の私が書いております。多分、その頃の私は、仏法を学べば、 そのような心境になれると思っていたのだと思います。しかし今振り返れば、詠み手の金子大栄師も、ひょっとしたら、また僭越至極とは存じますが、その歌を詠われたご心境そのものではなく、 そういう心境で有りたいと云う願望を謳われたのかも知れないと、今の私は思っております。「縁に任せて生きられない」、樹木希林さんのように「一切成りゆき」に任せでは生きられない私自身としては、 一生、自分自身の煩悩と向き合いながら生きられた親鸞聖人のように生きて行ければと良いのかも知れないと思っています。

なむあみだぶつ 意識

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●無相庵のはしがき
  井上先生は、現代人が何故宗教に足を踏み入れないのかという考察をされているのですが、 それは、結局は「今生きている生活に何が役立つかという、こういうことが関心の的になっている」からではないかと、お考えになられたのではないかと思います。それは、振り返れば私自身が、 全くその通りでありましたし、今の私の一番の関心も、事業が成功して経済的苦境から脱出したいと云う一点にあるのではないかと反省するからです。  

●宗教へのあゆみ―(2)現代の意識ー③

  そういう現世主義とでも申しますような思いが心の根になってくると、結局は今生きている生活に何が役立つかという、こういうことが関心の的になってくる。 今の生活に直接役立つもの、こうした関心が言わず語らず現代人の中心となっておると思います。こういうのを実利主義と申してよいかと思いますが、実際、効果があって、 今すぐに身体の上で確かめられるもの、軟らかい蒲団を着て美味しいものを食べて、よい家に住むという、すぐに私どもの身体の上に確かめられるものに対する関心、 それに実利主義という言葉が妥当かどうかはしばらくとしまして、とにかくそういう思いが非常に強いものですから、宗教に関連いたしましても何かどこかで宗教も人生に役に立つ飾りである。 装飾というのはちょっと変であるかも分りませんが、そういうような意味合いで宗教をみておられる節があるのではなかろうか。宗教というものを持っておると人生がより豊に飾られて暮らされる。 そういうような思いで宗教を評価していらっしゃるとするならば、私はやはり人生に府加する飾り物として、即ち手段として宗教を価値づけている。そういう節がでてくるのではなかろうかと思います。

  そういうような、現世主義であり、合理主義であり、実利主義であるというような言わず語らずの姿勢が私どもの心に固まってまいりますと、 仏教を聞いてもどこかで心の〝しん〟に触れませんのですね。外観的な理解、そういうものは出来るかもわかりませんけれども、 自らの心の〝しん〟に触れない、そういうところに虚しい擦れ違いいが起こってしまうのではなかろうか。そういうようなことになると、 どうしても宗教に対する自己の直接的な緊迫した関心が薄れざるをえない。現代人が宗教に踏み込まないという原因の一端がこうしたところにあるといたしますならば、 私どもはさてどうすればいいのか。そういう問題点に立返ってこざるを得ない。そうなりますと、私はやはりもっと直接な、生な、己れの命というものの原点に返って、 人生における我が命の上に棄ておくことのできない問題として感じる、そういう切実な自己の問題意識をもってくるということが、 やはり最も根本的な宗教に対する人間の姿勢をととのえてくるのではないかと思います。そういう根本的な関門とでもいう道を飛び越しておりましては、結局いつまで聞いても頭の中の、 先ほども申した影に止まってしまう。そういうことになるのではないかと思います。

●無相庵のあとがき

  前回のコラムのあとがきに申し述べた通り、今の自分に役立つのはお金しかないと思っているとしか言えません。仏法を忘れ果てている自分を、 この無相庵コラムの更新作業が仏法の世界に引き戻してくれていると申しました。それは嘘偽りではございませんが、更新作業以外の時は、私の頭の中は、 やはり仕事のことばかり、お金を得る為の開発研究の事ばかりが、頭の中を駆け巡っているのが正直なところです。

なむあみだぶつ

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●無相庵のはしがき
  今回のコラム内容、特に「宗教的真理は人格を通して最も明らかに強く人の心をうつものです。如何に知性の枠に拘束されていても、 大きな人格に接することにより、今まで知らなかった真実に触れ新しい門出に立つという転機が訪れるものです。宗教は人格を抜いては語りえないと言っても過言ではありません。」というお言葉から、 井上先生の実体験からのものだと思います。井上先生は、白井成允先生との出遇いに依って、それまでも感銘を受けられていた親鸞聖人の教えを「やはり、 私は親鸞聖人の教えを人生の礎に」と確信されたのだと云う事が分ります。それは、西川玄苔先生もやはり白井成允先生に一目会われた瞬間に、「仏様にお会いした気がした」と、 言われていたところからも分ります。

●宗教へのあゆみ―(2)現代の意識ー②

  しかし、それにはさらに一つの理由があるように思います。それは宗教的真理を身に体した生きた人格に接する事が、現代人には非常に少なくなっているという点です。 言葉で説明できない偉大な働きを人格は果たすものです。宗教が体験として現存する以上、その宗教的真理は人格を通して最も明らかに強く人の心をうつものです。如何に知性の枠に拘束されていても、 大きな人格に接することにより、今まで知らなかった真実に触れ新しい門出に立つという転機が訪れるものです。宗教は人格を抜いては語りえないと言っても過言ではありません。

  現代にこの縁が欠けている事が人をしていよいよ自己の枠を超え難くしている原因ではないかと思います。そういう点になりますと、昔の人の方が真の人格に接触する機会も多く、 同時に知性の枠がそんなに窮屈に人を締め付けていなかったと思うんです。そういう点からむしろかえって宗教的なものに心を傾けるということが自然に出来たのでもあろうと思います。

  それに反して現代人は自分では気づかない大きな枠が私どもの心にガッシリとはまっている。 それが科学というものと非常に密接に結びつきまして宗教不在の人間にならしめておるのではないかと思うのです。

  それからもう一つ振り返られますことは、現代人には目で見えるもの、あるいは具体的に捉えられるもの、そういうようなものを確かだと思う心の姿勢が出来ておりますので、 この身体的自己が命の全てであるという思いがあまりにも固定しております。

  結局、人間は命ある間が全てだという、そういう思いでございます。ですから極めて現世的になりまして、此の身体のある間に楽しんでおかなければなんの生き甲斐があるか、 というような言葉がよく出てくるのであります。現代人は身体というものに命のすべてを閉じ込めていて、そういう無条件な観念が福祉の問題一つにしても非常に強く作用しておることを感じるのです。
  結局、生きておる間がすべてだと、こういう観念が感情の底の底まで根を張ってまいりますと、悠久な世界と自己との関係は忘れられてゆく、 これはやはり宗教的な世界に踏み込めない一つの原因になっていると思うのであります。  

●無相庵のあとがき

  私は今、昨年3月から取組んでいる或る開発テーマがあります、そして、その開発が成功して量産が現実のものになるかどうかの瀬戸際で、一週間後にはその結論が出ます。 もし、量産が始まれば、我が社の再興も夢ではなく現実のものになる可能性が高くなりますので、私の頭の中は、それを願う事ばかりになっております。この状態は、井上先生が仰せの、 「結局、生きておる間がすべてだと、こういう観念が感情の底の底まで根を張ってまいりますと、悠久な世界と自己との関係は忘れられてゆく」そのものなのです。 しかし、この〝無相庵コラムの更新〟と云う作業がある事で、仏法の世界から出っ放し,離れっ放しになる事が無いのは、本当に有難い事だと思っております。

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●無相庵のはしがき
  今回の内容の中に、ロシアの文豪のドストエフスキーという人の言葉として井上先生は、「人間というものはあたかも理性で生きておるように思っている、 少なくとも自分は理性を中心に生きておると。こういうふうに思っておるけれども、人間の理性というのは私どもの心のたかだか二十分の一ぐらいの領域を占めておるものにすぎない。 二十分の十九は理性の手の届かない暗黒の領域を懐いておるのだと、まあこういうようなことを申しておりますのですが、これは人間というものを非常によく見詰めた言葉だと思います。」を、 紹介されています。という事は、井上先生も、心の中に、理性の手の届かない暗黒を抱えておられるとの自覚を持っておられたのだなぁ、と私は安心致しました。

●宗教へのあゆみ―(2)現代の意識ー①

  そういうことになってまいりますと、今まで宗教を理解したとか、或いは宗教が必要であるとか、こういうような程度の知識人の評価は、 なお何か影を追っているという感じがせざるを得ないのです。翻って、ではどうして大切なものだと理解しながら、何故自らそれに踏み込まれぬのか、というところに、眼を注いでみなければなりません。 これはやはり、他人事ではなしに、私ども自身の問題として考えるべきでありましょう。「尊い」、「ありがたい」ということを頭の中で知っておりましても、 それが自らその尊さの中に己の命を見いだしておることにはなりません。尊いも有難いも、それは実感であります。 それがただの知識や理解に止まっているなら結局一つの影法師でしかありえないでありましょう。

  では今申したようにどうして自らそこに踏み込まないのか。こういう点を反省いたしてみますと、それはあまりにも現代人の上に、特に知識階級、あるいはインテリというような人々におきましては、 知性主義とでもいうものが座を占めておりまして、その理知主義、合理主義をなかなか容易に超えることが出来ない。そういうようなところに大きな踏み切れない原因があるのではないかと思います。
  もっと生な、己れ自身に返って、自ら自身に返って、自ら己れを開きゆく道に立ってみるべきではないかと思いますが、どうもそういう問題が取り残されておるような気がします。

  ロシアの文豪のドストエフスキーという人の小説の中にある一節ですが、人間というものはあたかも理性で生きておるように思っている、少なくとも自分は理性を中心に生きておると。 こういうふうに思っておるけれども、人間の理性というのは私どもの心のたかだか二十分の一ぐらいの領域を占めておるものにすぎない。二十分の十九は理性の手の届かない暗黒の 領域を懐いておるのだと、まあこういうようなことを申しておりますのですが、これは人間というものを非常によく見詰めた言葉だと思います。

  今日、学校教育を受けますと理性というもの、或いは知的思考というようなものが一方的に育てられてゆくことになりますので、 己れの生命の中に何が含まれておるのかというようなことは得てして気づかずに過ぎて行く場合が多いと思います。人間の心と申しますと、なお一面的になりますので、 むしろ私は人間の命といった方がより具体的なものに触れうるように感じますが、そういう命の中に何が含まれておるか、 それは決して合理主義というようなもので処置し尽くせるようなものではないのであります。理性よりもさらにさらに複雑な深い感情というものが私どもの心の底に根深く座を占めております。 そういう私どもであるのにかかわらず、只今申しましたように何か知的思考というようなものが私どもの心を縛っておりまして、容易にそれを踏み越えて奥に行けない。 こういうところに現代の知識人がいつも外から観察するという立場に始終して、実際自己の内にあるところの矛盾を解決しえない所以があると思います。信仰、仏教でいえば信心でございますが、 そういう体験的な問題になるとどうも足踏みしてしまうのです。

●無相庵のあとがき

  私も、自分の心の中で考えている事や思い描いた事を皆さまに知られたく無い思いを懐いています。もの心ついて以来の約70年を振り返りますと、様々な人を傷付けた事、不義理をした事、 期待を裏切った事に気付かされます。自分が亡くなって、もし、閻魔大王の前に立つような場面に遭遇するような事があると仮定する時、堂々と立つことが出来ず、黙って、 自ら進んで地獄の門に入ってゆくに違い無いとさえ思います。

なむあみだぶつ

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