No.1901  2021.09.09仏道―(3)八正道―①

●無相庵のはしがき
  井上先生は、平成10年5月3日ご逝去(90歳)にお亡くなりになりましたが、生前、平成2年5月8日までの垂水見真会の383回の講演会の中、62回もご出講頂きました。 学者様でしたからと云うこともありましょうが、聴衆の方々は、分かり難く難しいと云う感想を述べられる方が多かったようです。今、振り返りますに、話の内容が難しいと云う依りも、 多分、聞き手が、井上先生の信心の域に達してないからだったのではないかと振り返っております。今の私が「これは、自分が未だ未だ信心が深まっていないから、 井上先生のお話の意味する本当のところを分っていないからだろうな」と思うからです。

●仏道―(3)八正道―①

  では今まで真実に背を向けていたものが、その真実への方向転換をして、妄法からまことの実法に私どもが立ち戻ってゆく道、そういうものが切実に求められてくるわけでございます。 その道筋こそが、妄法より実法に向かってゆく道、それがご承知の八正道というとして示されておるところでござます。こういう順序は先ほどから申しましたように、外から眺めている時は、 ああも言えようが、こうも言えようというような理屈沙汰が起こってまいりますけれどもそれを人事ではな我が子ととして受け取り、位置付けて、これを味わってみますと、 そこに動かすことのできない必然性が自覚されてくるのであります。

  さてこの八正道ということ、これをどういうふうに私どもの身の上に味わってゆくかということですが、この私の上に正法と申してよろしい、或いは実法と申してもよろしい、 或いは今日の言葉では少し抽象的ですが、真理と申してもよろしいかと思いますが、そういう正法という今まで迷妄に覆われていた真実が、雲を破って月が水に影を宿すように、 私どもに映じて来るとき、それを「正見」という言葉で示されておるのであります。正見というのは、今日の言葉で申しますと、正しい見解、誤ったものの見方ではなく、 あるべきものをあるように見る正しい認識、虚妄なるものを払って真実なるものの光を受け取ったという、そういう私どもの状態、 そういうものが正見という言葉で示されてこの正見という光が私どもの上に道を開いてまいりますと、必ずそこに、これは自然のきまりでございますが、「正思」という働きが現われ成立してくる。  

●無相庵のあとがき

  八正道は下記の図の正しい道筋と云う事だと井上先生は、言われております。

  「正見」⇒「正思」⇒「正語」⇒「正業」⇒「正命」⇒「正精進」←「正念」                               ↑                             「正定」

  この八つの道の詳しいご説明を次回のコラムから転載させて頂きます。先ずは正しい見解と云う「正見」を次回に。

なむあみだぶつ 

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No.1900  2021.09.02親鸞仏法についての考察

  『苦』には、「生老病死」の四苦がありますが、この「生老病死」も、お釈迦様の生きて居られた3千年近く前とは比較に出来ない位の違いがあると考えるべきであります。 「生」を寿命と捉えれば、お釈迦様が生きていた時代の寿命は30歳以下、現在の寿命80歳とは大きな違いがあります。長生きになった「老後」に関しましても、 医療が進歩した現代とお釈迦様の時代とは大きく捉え方が異なると考えるべきでありましょう。また、「病」も予防方法も治療方法も進歩していますから大昔と比較すらすべきではないでしょう。 「生」を人生の在り方と捉えるなら、何もかも変わった現代社会と科学的考えも技術も無かった大昔のとの違いは想像すら出来ません。 この考え方に立てば、親鸞聖人の生きて居られた頃の「生老病死」と、現代の「生老病死」もまた、大きく異なり、人々の煩悩・欲望そのものが、当時と現代では大きく異なると考え、 親鸞仏法の説き方も時代に合った説き方が必要ではないかとさえ思う次第です。               

  親鸞聖人の時代は、飢饉あり、内戦あり、火災もあって、日常生活を営む場で、人々の野垂れ死の姿や、焼死体をも目の当たりが日常ではなかったかと思いますので、 人の死を目撃する事が殆どなくなっている現代社会とでは、『死苦』は、テレビの報道番組でしか感じることは無くなっていると考えます。そう言う意味では、 『死苦』を出発点とする仏道への誘い効果は期待出来無いと思います。つまり、現代人は、親鸞聖人の生きておられた時代に比べれば、幸福になり過ぎたとさえ言えると思います。と言いますか、 昔の人々が問題にもしなかった、ちょっとした不幸を〝大きな不幸〟と考えてしまう傾向にあるとも言えると思います。

  京都女子大学の前身、顕道女学院の創始者である甲斐和里子師(かい わりこ、1868年(慶応4年)6月15日 - 1962年(昭和37年)11月27日)に、「悲しみは 皆うち捨てて よろこびの  数の限りを 数えてぞみる」と云う詩があります。甲斐 和里子師は、母の主宰していた垂水見真会にも昭和28年と29年に2回出講して頂いた親鸞仏法を説き続けられた有名なお方です。 そのお方の考え方を私たちはこの現代に於いては、不幸を数えるのではなく、恵まれている事を数えて、「生きている事に感謝しようではないか」と云う法話を社会に届ける役割を果たすことの方が大事では無いかと。 今、東京パラリンピックの最中ですが、失ったものより、今あるものに感謝して精一杯頑張ろうと云う精神こそが、今の社会、これからの社会に必要ではないか考える次第であります。

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No.1899  2021.08.26仏道ー(2)苦諦と集諦ー⑦

●無相庵のはしがき
  私が未だサラリーマン時代だった40年前、未だ母が存命で、仏教を聞く会の垂水見真会を元気に続けていた時、 共に編集し作成した初版の無相庵カレンダーの20日目のお言葉が、『煩悩即菩提』です。その解説文は、井上善右衛門先生にお願いしたものと記憶していますが、その解説文は、 「煩悩は、私たちを苦しめる嫌なものではありますが、この煩悩あればこそ、仏教が存続し、数多くの祖師方が世に 出られ、私たちも会いがたき仏法に今遇う事が出来ました。」であります。今日の井上先生の法話内容そのものであることに、今になって、気付きました。

●仏道ー(2)苦諦と集諦ー⑦

  ことに浄土門におきましては、先ほど申しましたようにね、人間という実に 迷いの塊が、阿弥陀仏のやるせな慈悲に出あうとい道筋でございますから、煩悩というものが、非常に大きな契機になる。今日の言葉で申しますと、あるものからあるものに翻る転機になる。 そういうような意味あいで、煩悩と云うものが、これはよきものてはないけれども、この煩悩というものの故にこそ、仏の慈悲が私どもに振り向けられ到り届いて下さるという有り難さ、 そしてまた大いなる仏の慈しみを仰ぎまつるという深い宗教感情のあらわれ出る源泉ともなるのであります。それとはまた趣きが違いますが禅宗なんかでは、 やはり煩悩というものに深い意味と評価を与えております。

  煩悩即菩提というような、煩悩というものがそのまま菩提と表裏するということになってまいりますと、煩悩というのは決して単なる仇というのではなしに、 それがそのまま一転するとそこに菩提の世界が開き現わせてくる、そういう全く違うものが、一つに結ばれるという世界の体解が禅なんかでは現われるようでございます。 とにもかくにも私どもにとりまして、この「集聖諦」というのは私ども自身の問題として承らなければならない。そういたしますと、こんどは私どもはその集諦と取り組み、 それを解決するという道に向かって進まざるをえないということになってまいります。

●無相庵のあとがき

  仏法は、お釈迦様が人間の苦しみに焦点を当てて、「如何に苦しみを克服するか」を命題にして、『縁起の道理』に目覚められた上での教えです。『煩悩即菩提』は、 象徴的な教えの一つと云ってよいでしょう。仏法は、世間一般には、『苦』とか『死』とか、人間に取って嬉しく無い、ネガティブなイメージがあるように思いますが、それは、間違った捉え方であり、 『煩悩即菩提』は、煩悩は嫌なものではなく、「煩悩があるからこそ、悟りに到る事が出来るのだ」と、ポジティブな考え方であることを強調したいものです。

なむあみだぶつ

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No.1898  2021.08.19仏道ー(2)苦諦と集諦ー⑥

●無相庵のはしがき
  煩悩というのは、一つだけではなく、煩悩が寄せ集まって苦が生じると云うことですが、 煩悩には、『六大煩悩』と言われて、六つあります。今回の井上先生はその中の『慢』を代表として挙げておられます。 言われてみれば、自分を過大評価している私ですが、それだけでは無く、六つ全部揃っているではないかと云う事です。

●仏道ー(2)苦諦と集諦ー⑥

  つまり苦というものを起こしてまいります根本原因、その原因力が煩悩の集まりに外なりません。 だから仏教ではこれを「集」といいます。集(じゅう)と読ますのですが、原語もやはり集まるという字です。集まるとか集めるとか、それはその苦悩というものを生起してくる原因が一つではない、 迷いの業や煩悩が群がり集まって苦の原因力となるという意味が、この集(じゅう)と字で示されている訳であります。そしてこれを『集聖諦(じっしょうたい)』と申します。

  ここにもまた集と共に聖という字が使われておる。この「集」というのは苦の原因力でございますから、一言で申せば煩悩と業といってよい。 そういう私どもの苦を引き起こしてくる原因である迷いと煩悩というものに、私どもが気づかされるということ、これはやはり非常に深い意味を持つと思います。 真実の自己認識というものの根本だと思うのです。私どもは自分というものが清らかなものであり、穢れたものでないという思いがございますところに、人間が昂ぶる、 或いは自己の過大評価を起こして「慢(まん)」というような誤りの上塗りに転げ込んでいくということが起こりますが、それに対して、人間の現実の苦の原因は、 私自身の中に抱き込んでいる煩悩と業という迷いそれは真実の生き方に背を向け逆行する原動力ということですが、そのことに私どもが気づかされてくる時、 初めて私どもは謙虚に慎んで真実への方向転換をなさしめられる姿勢が生まれ出ると申してよいと思います。

  従って集(じゅう)ということ、これは迷いでございますから、厭うべきもの、決して結構なものではない。しかし、迷いを迷いと知らしめられるのは真実に照らされて可能となるのである。 煩悩を煩悩と知る正しい認識に達することは、まことに尊い神聖なることであります。また私どもはその迷いをただ厭うべきものと客観視するのではなく、自分が仏道に進む、 それが寄る方(よるべ)であったと気づかされてまいりますと、そこには真実の自己認識という、今までなかった道の開かれてくる尊さが感じられるのではありますまいか。

●無相庵のあとがき

  六大煩悩を認識する事によって、初めて仏道に進む身となる、否、用意されていると考えるのが、親鸞聖人のお考えであり、井上先生のお受け取りだと思います。

なむあみだぶつ

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No.1897  2021.08.12仏道ー(2)苦諦と集諦ー⑤

●無相庵のはしがき
  前回のコラムのあとがきに、「誰しも苦は出来れば避けたいものですが、しかし、その誰しもが苦を免れないと云う現実がございます。苦を真実に出遇うキッカケとして、有難くは無いけれども、人生の必須科目として、 受けとめようではありませんか。」と強気の言葉を残しましたが、常に強気で居られず、強きと弱気が交互に起きていると云うのが私の実態です。何故そうなるのか。 その答えか今回の井上先生の法話の中にありました。

●仏道ー(2)苦諦と集諦ー④

  さてその苦に、ただいま申しましたように正しく取組んで参りますと、いったいこのような、苦の現実が現われてくるのは何によってそうなるのかと、ここへその思いがゆかざるをえません。 何か苦というものが、天から降って湧いたように、わけもなく現われてきたのであろうか。いや、決してそうではない。そこには隠された、今まで自分では気づいていないかったような、 そういう苦の根本原因というものを、人間が深く宿しているのだということに着眼せざるをえない。そういうふうに導かれてまいるのだと思います。そういたしますと、その苦というものが起こってくる源には、 あるべからざる己れを、己れだと執着して、そこから出てくる欲望を直向き(ひたむき)に追っかける。そこからいわゆる煩悩が群がり起こってきます。

  煩悩というのは、自らより生じて自らを苦しめる妄情を申します。迷いの本質をもって発露する感情、意志、判断、そういうものは正しく煩悩であり妄情でであります。その煩悩によって迷いの業を深め、 真実をふりかえろうとしない。なるほどそういうところに原因があったと気づかされる。つまり苦というものを起こしてまいります根本原因、その原因力が煩悩の集まりに外なりません。 だから仏教ではこれを「集」といいます。集(じゅう)と読ますのですが、原語もやはり集まるという字です。集まるとか集めるとか、それはその苦悩というものを生起してくる原因が一つではない、 迷いの業や煩悩が群がり集まって苦の原因力となるという意味が、この集(じゅう)と字で示されている訳であります。そしてこれを『集聖諦(じっしょうたい)』と申します。

●無相庵のあとがき

  苦というものを起こす原因力が、煩悩の集まりに外ならないと云う事を大乗仏教は見越して、 『集聖諦(じっしょうたい)』を含む『四聖諦』と云う考え方を後世の私たちに遺してくれていたのだと思われます。 話は全く変わりますが、8月6日には広島で、8月9日には長崎市で、原爆の犠牲になられた方々の慰霊の催しが執り行われましたが、 そのニュース番組と共に、 『原爆小頭症』と云う私が全く聞いたことも遭遇したことも無い、原爆が齎(もたら)した苦というよりも悲劇と云うべき人生苦があることを知り、私なんかの苦は物の数ではないと思った次第です。 私の苦は、自分の努力で解消出来る〝恵まれた〟苦なんだと思い直した次第です。

なむあみだぶつ

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No.1896  2021.08.05仏道ー(2)苦諦と集諦ー④

●無相庵のはしがき
  私は、1892番の無相庵コラムで、尻枝神父と云う方の、「私が苦しみから救われるのではなく、苦しみが私を救うのである」と云うお言葉を紹介致しました。 今回のコラムの中にある、「その苦というものがあればこそ人間はその苦をきっかけとして、今まで真実に背を向けていたものが真実にたち返えざるを得なくなる」と云う井上先生のお言葉と、 尻枝神父のお言葉は、キリスト教と仏教という宗教の違いを超えて、この世を生きる私たち人間に真実を語っているのだと思う事であります。

●仏道ー(2)苦諦と集諦ー④

  苦という聖なる諦とは、尊い真理という意味であります。よくこの苦聖諦という言葉を、人生は苦であるという真相をいうのだとあっさり言われる方がありますが、どうもそれですと、 なぜ苦という現実が尊ばねばならぬ聖諦なのだとかその意が十分にわかりません。私はやはりこの苦聖諦と言われておる言葉の中には、 苦を正しく知ることが聖なる覚りへの道になるという意味が含まれていると思います。これを私どもから言えば、その苦というものがあればこそ人間はその苦をきっかけとして、今まで真実に背を向けていたものが、 真実にたち返えざるを得なくなる、そういう道が開かれてくるという意味合いが言葉に盛られておると思うのです。言い換えると、人生の苦というものを経験せぬ人はない、その苦と正しく取組んでまいりますと、 必ず真実の道が開けてくるというところが、苦聖諦という言葉の中に語り示されている、それが仏陀のお心であると追うのです。

●無相庵のあとがき

  誰しも苦は出来れば避けたいものですが、しかし、その誰しもが苦を免れないと云う現実がございます。苦を真実に出遇うキッカケとして、有難くは無いけれども、人生の必須科目として、 受けとめようではありませんか。

なむあみだぶつ

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No.1895  2021.07.29仏道ー(2)苦諦と集諦ー③

●無相庵のはしがき
  そもそも、『苦諦』とは、『苦聖諦』と云う「苦を聖なる諦」更に言い換えますと『苦を聖なる悟り』に導くと云う事でございます。決して苦しみ堪えて頑張ると云う事ではなく、 その苦しみを通して、悟りに向かって欲しいと云う事でありましょう。私たちは、どうしても苦に押し潰されてしまったり、或いは、一時的な快楽で自分を慰めたり、苦から逃げ回ったりしがちですが、 「苦から救われるのではなく、苦に救われることであって欲しい」と云う仏陀の願いと受け止めたいと思います。井上先生も、色々なご体験を通して、この法話を語られたのてはないかと、想像しています。

●仏道ー(2)苦諦と集諦ー②

  苦という状態は、それに止まっておれない状態が苦でございます。その状態にいたたまれないというのは、何とかせずには済まされないということでありましょう。だから、 その苦の現実に立ってそれを正しく解決しようとする心、そういう心が本当の人間として起こらざるを得ない心根でありましよう。その苦を、出て来たとたんに酒を飲んで忘れて、 目先それを逃避して暮らすというような人も世の中にはございますけれども、これこそ阿片で己れを麻痺さすようなもので、実に己れを思わないことも甚だしいと言わねばなりません。 根本の〝けり〟をつけずに、ただそれを避けて逃げ回っても、とうとう最後にはその苦の中に埋没してしまわざるをえない時が来る。ですから、どうしてもその苦の現実に立って、 それを正しく解決しなければならぬ。その心を私どもに起こさせるのが、この苦という現実であり、それに即する仏陀の導きであります。そういうところから、「苦聖諦」という名前がついておるのてあります。

●無相庵のあとがき

  私も、76歳にして漸く、井上先生も為された一人前の苦労をする人間になれたと思っています。仏教に出遇わなければ、いわゆる苦労知らずにこの世を去ってしまうところでした。

なむあみだぶつ

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No.1894  2021.07.22仏道ー(2)苦諦と集諦ー②

●無相庵のはしがき
  『苦』は無常故に起こりますが、無常だから『嬉しい目』にも逢うと云えるのでしょう。考えて見ますと、『苦』は、『苦』に逢う前に、それを恐れて苦しむのではないかと経験的に思います。 やって来るか来ないか分らないのに苦しんでいるようにさえ思います。
  『取り越し苦労』という言葉がありますが、まさに、取り越し苦労をして苦しいのてはないかと思います。
  これは動物達には無い苦ではないかと・・・。「苦しくなったら苦しめば良いのに、苦しい目に遭いそうだから苦しむ」と云う、我が身可愛さ故の人間だけの苦なのだと思います。

●仏道ー(2)苦諦と集諦ー②

  苦と申しましても、怪我をして痛いとか、あるいは物に圧迫されて苦しいとか、そういう苦をお釈迦様は、単純に申されておるのではない。 そうではなしに、もっと人間の本質というものの中に喰い込んでおりますような矛盾、それを離れて人間がありえないような、そういう問題を取り上げて指摘しておられるわけでございますが、 そうした苦は具体的に、いろいろ考えられるでありましょう。

  例えば誰しもおもうようにならん、おもうようになる人なんて恐らくこの世の中にはございますまい。それを仏陀は「求不得苦」、求めて得ざる苦しみと、こういうふうにおっしゃっておる。 そういう場合、自分の中には、ああなって欲しいという強い欲求があるわけです。ところが、そうなってはくれないという反対の出来事が生じて、矛盾の中に立たざるを得なくなる。そうなりますと、 その矛盾葛藤の中で私どもの心が統一を失うて、引き裂かれるとでも申しますか、そういうような状態に陥る。それがいわゆる人生苦というものではありませんか。 そういう矛盾の中に立ってそれを処理することができないのです。ついには自殺するというような悲劇さえ、人間には起こってくることがございます。 そういう抜き差しならぬ人間存在の本質的問題が私どもに突きつけられている。そういう苦という事柄を仏教では、非常に重んじたのであります。これこそが、 今まで真実に背を向けていた私どもを、真実にたちもどらせる大切なそして的確な手がかりとなるからであります。 、

●無相庵のあとがき

  では「苦しい事になる前に苦しむ必要が無い」と自分に言い聞かせれば、苦しみから解放されるかどうか・・・。それも出来そうにもない相談だと思います。 では私はどうすればよいのでしょうか・・・。

  そこで、こう云うことでも悩まれましたのが親鸞聖人だと思いますので、親鸞聖人の教えに聞いてみました。

  歎異鈔九条に、歎異鈔の著者とされている唯円房と親鸞聖人の問答に有名な一節があります。『親鸞もこの不審ありつるに唯円房おなじ心にてありけり・・・中略・・・煩悩の所為なり』、 と云うものです。さらに第一条に『そのゆゑは罪悪深重(ざいあくじんじゅう)・煩悩熾盛(ぼんのうしじょう)の衆生をたすけんがための願にまします』とありますので、親鸞聖人は、常にご自分の事を、 『罪悪深重煩悩熾盛の凡夫』ともうされていたのたと思われます。そして、同時に「なむあみだぶつ」とお念仏されたとお聞きしています。

なむあみだぶつ

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No.1893  2021.07.15仏道ー(2)苦諦と集諦ー①

●無相庵のはしがき
  前々回のコラムno.1891(仏道―(1)体験と真実―④)で、私が苦境にある事を申し述べました。申し述べた後に、 以前『苦境』を乗り越える為に考察した無相庵コラムを〝ひもとき〟ましたが、私は昔から常に『苦境』に出遇っていたのだなと思いましたが、一方で、『苦境』で無い時もあったように思いますが、 それが、この世が無常と云う事なのだなと・・・。

●仏道ー(2)苦諦と集諦

  仏法というのは、架空のものから決して出発はいたしません。もっとも私どもに否応のいえない現実の事実、その事実の中に問題を押さえてゆく。 そういうことに気づかしめられるのでございますが、私どもにとって非常に大事な見のがしてはならぬことは、誰一人として人間に生まれて苦という経験をもたぬものはない。この苦というものは、いろいろな形で、 私どもに現われ起こってまいりましょうが、前にも申しましたように無常ということ、これは私どもの現実世界の争うことのではない事実でございます。総ての物は遷り変わって一時も止まらない。 その無常ということが現に、私ども自身の事柄になって現われます姿が死というものでございますが、それが当然の事でありながら苦として現じる。

  人間というものは、なかなか〝なまくら〟なものでありまして、春になって芽が吹き、秋になって葉が散ると云う外側の変化、遷り変わりは認めましても、 しかし何かそれを我がこととは思わないのですね。ところが無常ということは内と外を問いません。それが私自身の上に現われ出てまいります状態がまさしく死という厳しい現実である。 誰一人としてこれを回避できない。必ずやってくるものです。他の事柄は成るか成らぬか分りませんが、こればかりは間違いのない現実なのです。 しかもなお私どもは無常という現実に対して何かそれを他人事のように感じるという癖がございます。

  一休禅師がいわれた言葉だということですが、「人が死ぬと思うていたのに儂(わし)が死ぬ、これはたまらん」ということを言われたというのです。ああいう方は、 理屈めいたことはおっしゃらない。仏法の真実というものをなんとかして各自の身に受け取らしたい。どう言えばよかろうか、どう語れば頷いてくれようか。 こういうことを常に考え念じていてくだすったお方だと思います。ところが、私どもには人が死んでも自分は死なんというような気持ちがどこかにある。 その私が「人が死ぬと思うていたのに儂が死ぬ」となったとき「これはたまらん」となって来る。その時こそ初めてその人に問題が生きて現われてきた時でございます。そこにこそ無常という事がある。 それを気づかせようとされた一球禅師の言葉でありましょう。なぜか知らんが私どもには生きておりたいという強い執着がある。ところが「儂が死ぬ」という事態が迫ってくる。そうなりますと、 その矛盾したものの中に挟まれて、私どもの心が置き場を失うて、葛藤の中で苦悶するんです。それがすなわち「苦」という、私どもの人生における出来事でございましょう。

●無相庵のあとがき

  誰しも死にたくはありません。その『死ぬ事』に付いて、正岡子規が、「余は今まで禅宗のいわゆる悟りという事を誤解していた。 悟りという事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思っていたのは間違いで、悟りという事は如何なる場合にも平気で生きている事であった」と云う言葉がございます。正岡子規は、 夏目漱石等とも交流があったようですので、「平気で死ぬこと、平気で生きること」に付いて議論をしていたのだろうと想像するのですが、彼等も又、生老病死の4苦の『苦境』に翻弄されていたと思い、 『苦境』は私だけが遭遇しているのではないと、逆に救われた想いがしました。
  そして、井上善右衛門先生もまた、人生を振り返られて人生の無常を命題にされたのだろうと思った事です。

なむあみだぶつ

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No.1892  2021.07.12苦しみが私を救う

●無相庵のはしがき
  私は、前のコラムで、苦境にある現状を申し述べました。しかし、どなた様も経験されているように、逆境と順境は形を変えて繰り返されるものでございます。私も大学を卒業し社会人なって、 母親の庇護を受けなくなってからは、何回かの苦境に出遇いました。それらは今回と同じく経済的苦境も何回かございましたし、対人関係も何回かありました。
  しかし、自分が何かして苦境を脱出したと云うことでは無かったように思います。振り返りますと、私の思いが及ばない縁、つまり陰に隠れているお陰様という縁に依って、挫折することなく、 今日ただ今まで生きて来られたように思います。

  何とか生きて来られたのは、苦境に在るある時、『私が苦から救われるのではなく、苦しみが私を救ってくれるのだ』と云う以下の青山俊董先生の法話に励まされたからではないかと思います。 今回、そのご法話の事を思い出し、「今は、自分が出来る事をやるだけやって、成りゆき任せ、縁任せにしよう」と、思い直しました。 そして私が出来る事は、技術力を尽くす事と、取引き先との協力関係を大切にする事に尽きると思い直しました。

●苦しみが私を救う(青山俊董尼の法話から)

  『どういうご縁で、わざわざ私を呼んで下さったのですか?』 兵庫県の山中で牧場を経営しているK氏の熱心な要請で、講演に出かけたときのこと、現地で初めてお会いしたK氏にお訊ねした。 『牛が逃げましたんや。それを捕まえようとして、"九死に一生"というほどの大怪我をしてしもうて。その入院中に先生の書かれた「美しき人に」という本を見舞いにもらいましてな。 その中の"南無病気大菩薩"という言葉に、えろう共感しましたんや。怪我したお陰でこの言葉と出会い、先生とのご縁も結べて、病気さまさまや』
  K氏の答えに、私も感激して言った。 『牛が逃げなかったら、またあなたがそれで怪我をなさらなかったら、私たちのご縁はなかったのですね。
  怪我の苦しみのお陰であなたの中にアンテナが立ち、同じ波長の私の病気のお話のところと電波が交流し、それが今日の講演に繋がり、 さらに聴いて下さる大勢の方々との出会いへと輪を広げることができたのです。私も病気をしていなければ"南無病気大菩薩"の文章は書けなかったでしょうし、やっぱり病気さまさまですね』と。

  ローマ法王の側近としてバチカンにおられた尻枝正行神父と、作家の曽野綾子さんの往復書簡『別れの日までー心に奇蹟を起こす対話』(新潮文庫)の中で尻枝神父は、 失明の危険も強い両眼手術にのぞむ曽野さんに、次のように書き送っておられる。

  『病いや苦しみをそのまま神の贈り物として積極的に肯定し、引き受けることが出来るのは、奇蹟でなくて何でしょう。
  この心の転換は、物質的病の治癒よりも遥かに重大なことです。(中略)「私が苦しみから救われる」のではなく、「苦しみが私を救う」のです』 どんな素晴らしい人に会い、その言葉を聞き、あるいは読んでも、受けとめる側の心にスイッチが入っていなければ、その人に会うこともできなければ、その言葉も右から左へと通過してしまい何も残らない。 病気のお陰で、病気の苦しみに導かれて心にスイッチが入り、一冊の本、一つのお話の中でも、同じ波長のところ、同じ苦しみのところで火花が散り、出会いが成立し、そこが道へ入る門となり、 鍵となるのである。まさに「私が苦しみから救われるのではなく、苦しみが私を救うのである」。

  お釈迦様は長いご修行の果てに、天地のまことの道理に目覚められ、その最初にお説きになったと伝えられているものに、苦・集・滅・道の四諦(したい)の教えがある。 諦というのは真実というほどの意味で、四つの真実といったらよいであろう。苦諦は苦しみの自覚、集諦(じったい)はその苦しみの原因の究明、滅諦は苦しみや煩悩の炎の消えた安楽の世界、 道諦はその安楽の世界に至るための具体的な生き方と考えたらよい。

  求める心をおこし、そういう生き方をするようになるためには、教えが聞けなければならない。教えが聞けるようになるためには、アンテナが立ち、スイッチが入らねばならない。 そのアンテナやスイッチは苦に導かれて入ると言うのである。求道心(ぐどうしん)をおこせと説く前に、求道心をおこす原動力となる苦の自覚をお説きになったところが素晴らしい。

  お釈迦様はよく医者と病人にたとえられた。健康ならば、また、たとえ病気を持っていても病人の自覚がなければ医者にもゆかず、薬も飲もうと思わないであろう。病気の自覚のお陰で、 それも病苦がきびしいほどに、まったなしに医者へとびこみ、その言葉を聞き、薬を飲もうとする。これが求道心である。まさに苦に導かれて私が救われるのである。

●無相庵のあとがき

  「私が苦しみから救われるのではなく、苦しみが私を救うのである」は、尻枝正行神父様のお言葉ですから、この考え方はキリスト教の教えだと思われますが、これは、 大乗仏教の『煩悩即菩提』の教えと共通するものだと考えてよいと思います。
  そして、苦しみとは、「自分の思い通りにならないことが苦しみです」から、苦しみは私だけでは無く、すべての人が常に遭遇する事だと思います。

  従いまして、常に苦と向き合っている日常生活ですから、尻枝正行神父仰せの「病いや苦しみをそのまま神の贈り物として積極的に肯定し、引き受けることが出来るのは、 物質的病の治癒よりも遥かに重大なことです。」の言葉を心に刻み、たとえ絶望的な苦に遭遇しても、その時点で自分が出来る事が何かを突きとめながら、苦から逃げる事を考えずに、 苦と向き合いたいと思う次第です。

なむあみだぶつ

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No.1891  2021.07.08仏道―(1)体験と真実―④

●無相庵のはしがき
  私は、昨年(2020年)の4月から、大きな収益が期待出来る開発テーマに取組んで参りました.約15ヶ月になりましたが、未だ量産開始に至っていない上に、 かなりの開発資金を投じて来ました。コロナ禍の中でもありますので経営的には苦境が続いています。そんな中、本日のコラムの井上善右衛門先生の法話が、私をその『苦』から救って下さいました。 救済された言葉は、全文に散りばめられていますが、中でも、「まことにその人が死ねばどこかへいってしまう。跡形なく失せてしまうようなものを追いかけるのに、人を傷つけ自ら苦しみ、 何かそこに夢中になってゆく人間の姿」は、私の現在を言い当てられておりまして、「ハッ!」といたしました。

  これまでも数十年に亘ってこのようなお諭しは聞きもし、読みもして参りましたが、井上先生が末尾に「現にただいま苦というものを経験しておるではないかということであります。」と、 仰せの通り、本当の苦の意識こそが、私を「ハッ!」とさせてくれたのだと思います。 、

●仏道―(1)体験と真実―④

  では一体、私どもの追い求めておるものは具体的には何なのかということになりますと、次のことに尽きるのではないかと思います。それは「名利と愛欲」です。俗な言葉で申しますと、 色と物欲と名誉です。これがどういうわけか人間には非常に強い魅力をもっておりまして、そして我識らず人間というものは、それを追求するのにあくなき執着をもつ。 そしてその結果がどうなるかということは、案外考えてはいない。ですからお釈迦様の最も古いお言葉の記録といわれているあの『スッタニパータ』には、「これは我がものだと思っているものも、 その人が死ねばどこかへいってしまう。我がものにするために、夢中にならぬがよい」というお言葉があります。非常に平易なお示しでございますが、まことにその人が死ねばどこかへいってしまう。 跡形なく失せてしまうようなものを追いかけるのに、人を傷つけ自ら苦しみ、何かそこに夢中になってゆく人間の姿が指摘されております。「夢中にならぬがよい」といわれておるところに、 そのむなしいものを追う心を翻して背を向けていた真実に、心を振り向けてみなければならぬぞという切なるお心が私どもの胸に響いてまいるような思いがいたすのでございます。 やはりまずこういうところから、求道心というものを我が身の問題としてみなければなりません。

  菩提心は決して単なる理屈ではございません。捨てておくことのできない問題意識、自己の根本問題に関わるやむにやまれない思い、そういうところに自己を立たしめ位置づけるところに、 真の宗教的要求という意味があるかと思うのですが、そのことに関連いたしまして、私どもにとって非常に貴重な事柄が現存しております。それはどういうことかというと、いかなる人間も否むことのできない事実として、 現にただいま苦というものを経験しておるではないかということであります。  

●無相庵のあとがき

  お釈迦様の教えには、『苦集滅道(くじゅうめつどう)』が説かれています。その一番目に『苦』がありますように、『苦』の認識がスタートと申しても良いのだと思います。 「苦を苦と思わない、思えない」人々には必要の無い、そして縁の無い教えだと申して良いと思います。 私は、改めて、仏道の歩をスタート致します。

なむあみだぶつ

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