No.1910  2021.11.11仏道ー(Ⅳ)仏道―迷いと救いの(2)法執―② 

●無相庵のはしがき
  私たち日本人は、知り合った相手への挨拶として、「不思議なご縁で・・・」と云う言葉を口にします。この言葉を使う事こそ、不思議な縁に依って日本人しか使えません。 「お陰さま」も同じく何気なく口にしますが、「お陰さま」=「不思議なご縁で」なのです。

●仏道ー(Ⅳ)仏道―迷いと救いの(2)法執―② 

  この私どもの「有」の観念を砕かないと、世界の真実というものが、私どもにはいつまでたっても気づかれてはこない。その有の観念を砕くところに、皆さんもよくお聞きと思いますが、 「空」という言葉があらわれてくる。空という言葉を世界観として語りますのは、他には類がございません。世界中の宗教を尋ねても、空という世界の真相を語り明かし突き止める、そういう思想は、 他にないのでございます。これは仏教の根幹を成しておる大切な教えの源であり、要であるといわねばなりません。それは大変難しいことになって参りますが、 言葉を変えて申しますと一切よろずのものは動的な〝かかわりあい〟によって成り立っておる。その〝かかわりあい〟ということが「縁」という言葉でございます。

  西洋の学者は、縁ということを西洋的な思考から、どういう言葉で表わしたらいいのかと考え、条件(Bedingung)という言葉で語っておる学者がございます。あるものがあるためには、 その条件がなければ成り立たないというような意味合いから、条件という言葉が出てきたのかと思いますけれども、私どもはそれは、本当に釈尊が見届けられました、 あるいは大乗仏教によって闡明(せんめい;明瞭でなかった道理や意義を明らかにすること。)された縁という言葉を正しく言い表すには、なお不充分な言葉だという感じを持っております。

  縁と申しますのは只今も申しましたように、まず私どもの言葉で申しますならば、「かかわりあわせ」でございます。お箸を三つ寄せ合うと立ちます。しかしその立っておるのは、 三つの箸が関わりあって、相互に関係し有って、そこに立つという出来事が現われる。その箸一つをとりのけると、ただちにそれは倒れてしまう。こういう間柄がよく仏典にも喩えに使われておりますが、 ところが私どもは、箸が立っておるのはかかわりあいによって立っておる、それは解るけれども、箸というものがやはりあるではないか、こういう考えになります。

●無相庵のあとがき

  井上先生は「縁」を平たく「かかわりあわせ」とおっしゃっておられますが、外国の人々に本当のところを説明するのはかなり難しいと思われます。この「縁」と云う考え方は、元はと云えば インドから中国に伝わった釈尊の仏法の教えが源にあるのですが、共産主義の今の中国ではほぼ忘れられ果てているのは、本当に残念ですが、現代日本からも消えつつあるようにも思い、心配です。

なむあみだぶつ 

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No.1909  2021.11.04仏道ー(Ⅳ)仏道―迷いと救いの(2)法執―① 

●無相庵のはしがき
  社会一般では、『法』は法則の『法』と捉えられておりますが、仏教では、『法』とは「存在するもの」と云う意味なのです。従いまして、『法執(ほうしゅう)』とは、 「存在するもの」に執着する心とか意識の事なのですが、井上先生は、「私どもが「有る有る」と思っておるような、そういう世界ではない。動いている波に形はない。それを瞬間的に写真で静止させて、 形があるように思うようなものです。」と見事に分かり易く説明されています。つまりは、これも、私たちは『無常』であるのに『常』と考えてしまいがちだと云う事だと思います。

●仏道ー(Ⅳ)仏道―迷いと救いの(2)法執―① 

  それはどういうことかと申しますと、私ども人間と云うものの誰しもが、生まれながらに先天的にもっておる意識、意識というのは、あるいは心と申してもよろしいでしょうが、 その意識に気づかれていない狂いがあるのです。あるべきものをあるように正しく受け取っておる心であり意識であるならば、それは正しい心であり意識でございましょう。 ところがあるべきものをあるように受け取っていないのであります。言葉を変えますと、一種の錯覚あるいは誤認観念が私ども人間の心の中に気づかれずに潜み宿っておると聞かされますと、 さてどんなものがこの私の中に抱かれておるのかということを問いたださずにおれなくなります。

  その第一はどういうことかと申しますと、「何ものかがあるように思う意識」と申してよかろうかと思います。本当には無いものを有るように思う。私どもは現在ここに机に向かっておりますと、 この机というものは存在すると思っております。けれども机というのは、木で造ったものだから壊れれば机の形はなくなるであろう。その辺まではわかります。けれども、 その机をこまごまに砕いてみてもなおかつ何かが有るだろうと思う。これは人間には誰が教えたというのではない。人間が先天的に持ち合わせている心の性質というべきもので、 それを少し難しい言葉になりますが、「有の観念」と申してよろしいかと思います。

  有ると云う観念、それが西洋では、古くからアトムという思想になって現われている。アトムというのは今日に言葉で申しますと、元素とか分子とか、 そういう言葉に置き換えられるものでありますが、何かがあるという、そういうことを人間はいくら分析しても思わずにはおられない。しかしそこに、釈尊の根本的な悟りの眼(まなこ)からご覧になりますと、 人間の勝手な思いが存在しておるのでありまして、仏陀のお心の奥深く見届けられましたのは、私どもが何かが有ると思う観念は先天的であるけれども、一種の勝手な思いにすぎないのであって、 真実の世界は、私どもが「有る有る」と思っておるような、そういう世界ではない。動いている波に形はない。それを瞬間的に写真で静止させて、形があるように思うようなものです。

●無相庵のあとがき

  存在する物たけではなく、自分も含めて人間の心は常に変わってゆくにも関わらず、変わらないと考えてしまい、色々なトラブルを招くものです。離婚なんかも、その一例でしょうし、 ひょっとしたら親子関係の断絶も無関係ではないと思われます。ところが、日常生活で無常と云う考え方に立てない私たちですから、悩みを抱えて悶々としてしまうのではないでしようか・・・。

なむあみだぶつ 

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No.1908  2021.10.28仏道ー(Ⅳ)仏道―迷いと救いの(1)苦の生―③ 

●無相庵のはしがき
  NHKのEテレ番組に、司会が高瀬耕造アナウンサーで、美輪明宏さんが主演する『愛の相談室』(再放送)があります。悩みを抱えた女性が、悩みを打ち明けて、 美輪さんからアドバイを頂くと云う趣向です。一例を紹介しますと、不登校の息子(中学二年生)とのコミュニケーションが全く取れずに困っており、どうのように対応すればよいかと・・・。 それに対する美輪さんのアドズイスは、息子さんと母親とあなたの住む世界が違う、あなたはアナログの世界、息子さんはデジタルの世界(どういう意味かは分りませんが・・・)、結論としては、 「息子さんを何とかしたいと云うお母さんではなく、尊敬される一人の女性になる努力を為さったら如何でしょうか」と云うものでした。相手を変えようとするのではなく、 自分を向上させようと努力すればどうか、と云うことでした。成る程なと思いました。

●仏道ー(Ⅳ)仏道―迷いと救いの(1)苦の生―③ 

  苦とはどういうことかといえば、それをそのままてば受け取られないということです。受け取れなくても否応なしに、そのことは私に迫ってくる。 そこに私どもは大きな矛盾の葛藤が苦悩という内的な経験となって現われるわけです。生老病死は、これは誰しもにあてはまる具体的なものとして示されたものですが、 そのほかに私どもの人生苦というのは、その人その人によりまして、極めて千変万化と申しますか、いろいろさまざまな形になって、私どもの上にあらわれてくる。これは不思議といえば不思議ですが、 一人の人には避けられない深刻な事柄となって、その問題に悩まざるをえない。こういうような事実が私どもにございます。

  そういう苦という問題は、まず私どもによくわかる。それは苦の実感をもっておられるからでございます。ところがその苦が、何によって引き起こされるかという、集聖諦の問題になりますと、 更に踏み込んで尋ねてみませんと、なかなか明らかでないものが残っておるかと思います。集というのは苦悩の原因力、苦悩の原因になるところの諸要素、そういうものが決して一つではございません。 具体的に申しますと、私どもの煩悩によって引き起こされる迷いの業とか、そういうさまざまな苦の原因が集まり集まって、そうしてその結果、私どもの上に苦悩という現実が引き起こされてくる。 そういうようなところから、この苦悩の原因を迷いの集まりという意味合いで集(じゅう)という字をもって示されています。このことは前面に申し上げたところです。

  ではどうしてそういう迷いの集まりというわずらわしいものが、この私どもの中に動いてくるのか、こういう点はさらに、その奥を尋ねなければならぬと思いますが、 これが大乗仏教に至りますと、非常に鮮明になってまいります。煩悩とか業とか、そういうものがなぜ私どもの中にうごめいてやまないのかという、問題が非常に精細に示されてまいりますので、 その点を申し上げたいと思います。

●無相庵のあとがき

  苦と云うものは、相手を変えようとか、環境を変えたいとか、社会が悪いからと、己れと云うものには何も問題が無いと云う自己中心的な考えから、 色々な障壁にぶち当り囲まれるのではないかと思います。私自身の過去76年を振り返りますと、正に当っているなぁと思わざるを得ません。

なむあみだぶつ 

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No.1907  2021.10.21仏道ー(Ⅳ)仏道―迷いと救いの(1)苦の生―② 

●無相庵のはしがき
  今回のテーマは、「人生苦を手掛かりとして真実に出遇える」と云う事ではないかと思います。無相庵ホームページにこうしてお越しの方々も人生に何か問題を感じておられるからこそ、 今、無相庵コラム或いは法話のページをご覧になっているのではないかと云うのが、井上先生の見立てだと思いますし、斯く言う私こそ、もう丸21年も無相庵コラムを書き続けていると云う事は、 21年経っても問題は解決出来ていないと云う事だと思います。

●仏道ー(Ⅳ)仏道―迷いと救いの(1)苦の生―② 

  さてこの苦聖諦は、私ども人間の現実の事実として、誰しもが経験しておることですから、私どもにとって、いかにも受け取り易い。私どもによくうなずける。 そういう真実であり事実であることは申すまでもないと思いますが、この苦という現実が、尊い世界に私どもを辿りつかせる手がかりになるのであります。皆さんがこうしてお集まりになるのは、 やはり何かお心の中にあるからでございましょう。義理や体裁でおいでになっている人はいないでしょう。そうすると何か問題がある、生きるがために、もっと立派に自分は生きていきたい。 けれども何か矛盾するものがある。それをどうすべきであるかというような、今日の別の言葉で申しますと、生の問題意識というものを皆さまがお持ちであればこそ、 こういう場にご参集になっておるのでありますが、それが手がかりでございます。その手掛かりというものがあればこそ、そこに真実が、私どもに対して必然性の扉を開いてくるわけでございます。

  この苦という問題は細かく具体的に分析して示されております。四苦八苦というのがそれです。総ての人に生老病死という四苦がある。さらに愛別離苦(あいべつりく)とか、 怨憎会苦(おんぞうえく)とか、求不得苦(ぐふとっく)とか、五蘊盛苦(ごうんじょうく)とか、こういう苦を細かく具体的に示して、語られていますから八苦になります。生老病死というのは、 人間というものが誰しも出くわしてゆかざるをえない必然の出来事でございます。ところが、その当然の出来事が、私どもには苦として受けとられる。私どものこの人生において当然出て来る事柄なら、 あたりまえといっていいわけですけれども、私どもはそれをあたりまえで過ごせないものをもっておる。何かそこに、それらが苦となる根本原因があるわけです。

●無相庵のあとがき

  井上先生は能く「真実に遇う」と云う言葉をお使いになられていますが、この真実とは、自分の真実という事であり、「自分の真実」とは、「自分がこの世に生まれてきた意味」の事であり、 「真実に遇う」と云う事は、「自分がこの世に生まれてきた意味が分った」と云う事だと思います。真実に遇って、現実の自分の事も分り、真実に近付こうとする事を、 仏道を歩み出したと云うことではないかと思いますが、道は果てしなく続き、ゴールは甚だ遠いとも思います。
  しかし焦ら一歩ずつ歩もうと思います。

なむあみだぶつ 

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No.1906  2021.10.14仏道ー(Ⅳ)仏道―迷いと救いの(1)苦の生―① 

●無相庵のはしがき
  本論の『迷いと救い』に入る前に、井上先生は、お釈迦様の仏教と、現在の私どもが導きを受けている仏教、つまりは大乗仏教との関係に付いて述べられています。 お釈迦様は紀元前7世紀~紀元前5世紀の何れかの時代にお出になられた方、一方大乗仏教は紀元前後に起こり、1世紀末には完成されたと言われている仏教であり、相当年代に開きがありますが、 井上先生は、「大乗仏教は、お釈迦様の教えが時代を経て進化した」とはおっしゃってはいませんが、「歴史の上に移り代って展開していくというだけではなしに、やはり一貫した仏陀世尊の仏心が宿り、 それがより深く輝いてゆくのである」、と述べておられます。

●仏道ー(Ⅳ)仏道―迷いと救いの(1)苦の生―① 

  ご承知のように、お釈迦様がお亡くなりになりましてから以降、西暦の頃から大乗仏教という、新しい精神が開かれてまいりましたことは、どなたもよくご承知のところでありますが、 この大乗仏教と申しますのは、お釈迦様の正覚の中に含まれておりましたものが、精神的な時代の流れと共に、より鮮やかな姿をとって咲き出たものでございまして、譬えて申しますならば、 巻かれていた絵巻物が展かれてきたというふうにお考えいただくのが、当を得た事かと存じます。

  大乗仏教というのは、お釈迦様のお説きになったものではないから非仏説であるというような意見が、一時学者の中から出てまいりましたが、これは、極めて浅薄な説だと思います。 いかにもお釈迦様がご在世の当時にお説きになったのではございません。けれども、その源を訪ねますと、ただいまも申し上げましたように、 これは釈尊の正覚の中に含まれておりました内容がより鮮やかな形になって咲き出たものであるといたしますならば、それは決して別ものではない。 お釈迦様のお心のより深い顕現であると申さなければならぬと思います。学者はそれを、思想の展開というように言い表しますが、私どもは単に、 思想が歴史の上に移り代って展開していくというだけではなしに、そこはやはり一貫した仏陀世尊の仏心が宿り、それがより深く輝いてゆくのであるということを忘れてはならないと存じます。

●無相庵のあとがき

  井上先生のご見解を承って、ふと考えました事は、西暦538年に日本に伝わった大乗仏教も、伝来以来1500年にもなろうとしていますので、進化と申しますか、井上先生のお言葉を借りれば、 時代に応じてより深く輝いたと思える展開があっても良いのではないかとも思いました。

なむあみだぶつ 

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No.1905  2021.10.07仏道―(3)八正道―⑤

●無相庵のはしがき
  9月9日から一ヶ月続けて参りました井上先生の法話『仏道―(3)八正道』は、未だ続き、『正念』、『正定』を残していますが、今回を以て打ち切りとさせて頂きます。 それは、今回の『正精進』まで参りまして、私自身が精進出来ていない事に思い至り、次の、『仏道ー(4)迷いと救い』から仏道を学びたいと思ったからです。

●仏道―(3)八正道―⑤

  では具体的に、この精進というのはどういうことになってくるか。それは私どもが果てしない無限な真理の中に、いよいよ深く進み行き、その味わいを深めゆく活動であると申せましょう。 絶対というものは無限のもの、人間というものは限りあるもの、その限りある私が無限のものに触れさせられると、やってもやってもこれでしまいということにならぬのです。

  例えば具体的に仏法を聞けば聞くほど、聞かずにおられぬという願いと楽しみが湧いてくる。真実というのは、そういうものなのです。真実ならざる我々の欲望というものは、 すればするほど磨り切れていく靴の裏みたいなものです。ところが真実というものは、それに私どもが関われば関わるほど喜びといおうか、興味といおうか、意欲と申しますか、 いよいよその事柄の中の無限の真実を味わい進んでゆかずにはおられなくなる。そこに顕現する働きが精進となってくるのであります。今までつまらぬ日暮らしをして、 ただ自分の利益々々と閉じ籠もっておりました心が開かれ、無限に自己の真実を求める(自利)と共に、他のために働く(利他)活動をせずにおられなくなってくる。 そういう精進という発動が正命の次に必ずつながり起こって来るのであります。  

●無相庵のあとがき

  私たちは常に迷っています。私も齢76にもなりながら、仏道と仕事道の両立に迷い、終活に心惑っています。そこで、救いを求めて、 『仏道ー(4)迷いと救い』に心惹かれた次第でございます。身勝手をお許し下さい。

なむあみだぶつ 

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No.1904  2021.09.30仏道―(3)八正道―④

●無相庵のはしがき
  この無相庵にお越しの読者の方々の中で、「自分は果たして正しい仏の道を歩んでいるだろうか?」と思われる方がいらっしゃいましたら、 この八正道の『正精進(しょうしょうじん)』をチェックポイントにされたら如何かと思います。私は、生き生きと精進しているかと自問自答した時、「はい、しています」と、胸を張れません。

●仏道―(3)八正道―④

  正命といえば私どもの生活全体の正しさでありますが、人間というものは昔から社会的動物であるといわれておりますように、独りぼっちで生きているものではございません。 人間というのは人間関係の中で生きる。これは人間の約束でございます。ですから正命という言葉の中には、具体的な私どもの生活、社会生活、 人間関係を含めた生活活動全体の意味あいが正命というところで位置づけられておると申すべきであろうと考えます。

  正思、正語、正業ということになりますと、必ずそれが正命という全体的具体的な生活体として顕現してくる。やはりこれも、ただそういうふうに言葉を並べたのではなく、 そうなる必然性がございます。そして、私どもの命の全体が、正しさを得てくるということは、そこに一つの安定、先ほど申したような、矛盾、葛藤というようなような状態ではなしに、 極めて安定した、どっしりと落ち着いた、そういうよう生活世界が顕現してまいります。

  すると必ずその次には、「正精進」と云われておりますところの人間の本当の生き生きとした前向きの向上の活動が顕れます。ここにもまた強い必然性があると思うんです。 よく皆さまお聞きの、幼い子供が欲求不満に陥るという、親子の関係も機械化文明化されてまいりますと、子供の人間としての自然の欲求というものが阻害される。子供というのは親の肌に抱かれて、 その親の肌の暖かさを感じて、そして、スキンシップという言葉もございますが、親の乳房を口に含むという時、本当に幼児は幼児としての落ち着きを得るのです。

  それと同じように、幼稚園なら幼稚園の時代には、正しい人間としての欲求を満たしてやる用意をもたねばならぬ。過剰な欲求まで満たすというのは、あれはこの頃のお母さんの思い違いで、 決して欲求不満を解消する所以ではない。正しいあるべき要求を満たしてまいりますと、子供が精神的に安定する。安定すると活動がにぶって眠り込むかというと、決してそうではない。 人間というものが安定致しますと、子供は子供ながらに必ず正しい新しい経験活動道への意欲というものが生まれる。もりもりと活動力が起こってくるといわれます。こうもやってみよう、 ああも工夫してみよう。そこに本当の人間の正しい活動の根本姿勢と力とが発現してくるということを、幼児教育なんかの場でも申されます。人間にとって、やはり大人といえども同じだと思うのです。

●無相庵のあとがき

  仕事の研究開発では、前向きに努力していますが、それは、精進ではなく、お金を稼ぐ為に必死なだけであり、仏陀の説かれた正しい精進では有りません。ビジネス道と仏道は、どうも、 両立出来ないなと、常に思う事です。それが、修行なのかも知れませんが・・・。

なむあみだぶつ 

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No.1903  2021.09.23仏道―(3)八正道―③

●無相庵のはしがき
  「正見」から始まった八正道は、「正思」そして「正語」へと必然的に進まざるを得ないと云う論理です。そして、 「正語」、つまり正しい言葉遣いは、正しい生活態度となる「正命(しょうみょう」となると云うのが今回の結論となります。

●仏道―(3)八正道―③

  正語と申しますのは、これは私どもの正しさにかなった言葉でございます。荒々しい言葉を使ったり、突慳貪にものを言ったりしていた。 これは内なる邪な心が自ずと言葉に現われるのであります。即ちそれは実のない虚しい言葉です。それに対して,正しい言葉とは実の言葉です。言葉の働きに真実が滲んでくる。それが正語であります。 この正語には「正業(しょうごう)」が続きます。

  正業というのは、私どものいろいろ実際に身で行いますところの行為でございます。実践行為、行動であります。私ども人間というものの働きを眺めますと、心で意思するか、口で言うか、 身で行うかどれかです。これを身口意の三業と申しますが、これは確かによく見届けられた分析だと思います。正見という正法に照らされたるものが、私どもの命の中に顕れてて参りますと、 必ずそこに正思惟・正語・正業という人間の働きの全体が私どもの上に身口意の三業にわたって顕現してくる。そこに生活の全体が正しいものになってくるのを「正命」と申します。

●無相庵のあとがき

  反省しようと思えば反省し易いのは「正語」ではないでしょうか。人間関係のその場その場での言葉遣いが荒くなっていないか、振り返る必要がありそうに思います。

なむあみだぶつ 

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No.1902  2021.09.16仏道―(3)八正道―②

●無相庵のはしがき
  八正道と云うのは、極めて論理的な考え方ですね。紀元1~3世紀に確立した大乗仏教の考えであり、正しい考え方というのは、偏らない考え方を持つということです。 仏教の説く物事の正しい見方とは、自己中心的な考え方を捨て、この世の真理に照らし合わせて考えることです。「正思」「正思惟」と云うのは、正しい見解を持てば、 必ず正しい「思考」をするはずだ、そしてそれは自分中心の考えではないと云う事だと考察されたのでしょう。

●仏道―(3)八正道―②

  「正思」、或いは正思惟と申うしますのは正しい思考です。さらに広くいえば、思考を中心とした意識活動を表わすといってもよいでしょう。仏教では身口意(しん・く・い)の三業と言いまして、 意という字で心の作用全体を表わしますが、今はその意識活動を思惟を代表として表わしていると見ることができると思います。私どもが今まで邪なことを心に抱いていた。 そういう私どもに正しいことを意識し、思考する精神活動が開かれてくる。それを正思惟として示したものです。この正思という内面活動が生じると必ず次いで「正語」という働きが言葉の上に現われる。

●無相庵のはしがき

  しかし、自分の日頃の「身口意」を振り返りますと、すべて、自己中心の思惟から出ている事が分ります。これは、なかなか是正出来ません。出来た試しがございません。 そこで、私が努力していますのは、聖徳太子が十七条憲法でおっしゃっている、「我必ずしも聖ならず、彼かならずしも愚にあらず、共に是凡夫のみ」と云う事ですが、これとても、ついつい忘れてしまって、 心穏やかさを保てない次第なのです。、

なむあみだぶつ 

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