No.1906  2021.10.14仏道ー(Ⅳ)仏道―迷いと救いの(1)苦の生―① 

●無相庵のはしがき
  本論の『迷いと救い』に入る前に、井上先生は、お釈迦様の仏教と、現在の私どもが導きを受けている仏教、つまりは大乗仏教との関係に付いて述べられています。 お釈迦様は紀元前7世紀~紀元前5世紀の何れかの時代にお出になられた方、一方大乗仏教は紀元前後に起こり、1世紀末には完成されたと言われている仏教であり、相当年代に開きがありますが、 井上先生は、「大乗仏教は、お釈迦様の教えが時代を経て進化した」とはおっしゃってはいませんが、「歴史の上に移り代って展開していくというだけではなしに、やはり一貫した仏陀世尊の仏心が宿り、 それがより深く輝いてゆくのである」、と述べておられます。

●仏道ー(Ⅳ)仏道―迷いと救いの(1)苦の生―① 

  ご承知のように、お釈迦様がお亡くなりになりましてから以降、西暦の頃から大乗仏教という、新しい精神が開かれてまいりましたことは、どなたもよくご承知のところでありますが、 この大乗仏教と申しますのは、お釈迦様の正覚の中に含まれておりましたものが、精神的な時代の流れと共に、より鮮やかな姿をとって咲き出たものでございまして、譬えて申しますならば、 巻かれていた絵巻物が展かれてきたというふうにお考えいただくのが、当を得た事かと存じます。

  大乗仏教というのは、お釈迦様のお説きになったものではないから非仏説であるというような意見が、一時学者の中から出てまいりましたが、これは、極めて浅薄な説だと思います。 いかにもお釈迦様がご在世の当時にお説きになったのではございません。けれども、その源を訪ねますと、ただいまも申し上げましたように、 これは釈尊の正覚の中に含まれておりました内容がより鮮やかな形になって咲き出たものであるといたしますならば、それは決して別ものではない。 お釈迦様のお心のより深い顕現であると申さなければならぬと思います。学者はそれを、思想の展開というように言い表しますが、私どもは単に、 思想が歴史の上に移り代って展開していくというだけではなしに、そこはやはり一貫した仏陀世尊の仏心が宿り、それがより深く輝いてゆくのであるということを忘れてはならないと存じます。

●無相庵のあとがき

  井上先生のご見解を承って、ふと考えました事は、西暦538年に日本に伝わった大乗仏教も、伝来以来1500年にもなろうとしていますので、進化と申しますか、井上先生のお言葉を借りれば、 時代に応じてより深く輝いたと思える展開があっても良いのではないかとも思いました。

なむあみだぶつ 

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No.1905  2021.10.07仏道―(3)八正道―⑤

●無相庵のはしがき
  9月9日から一ヶ月続けて参りました井上先生の法話『仏道―(3)八正道』は、未だ続き、『正念』、『正定』を残していますが、今回を以て打ち切りとさせて頂きます。 それは、今回の『正精進』まで参りまして、私自身が精進出来ていない事に思い至り、次の、『仏道ー(4)迷いと救い』から仏道を学びたいと思ったからです。

●仏道―(3)八正道―⑤

  では具体的に、この精進というのはどういうことになってくるか。それは私どもが果てしない無限な真理の中に、いよいよ深く進み行き、その味わいを深めゆく活動であると申せましょう。 絶対というものは無限のもの、人間というものは限りあるもの、その限りある私が無限のものに触れさせられると、やってもやってもこれでしまいということにならぬのです。

  例えば具体的に仏法を聞けば聞くほど、聞かずにおられぬという願いと楽しみが湧いてくる。真実というのは、そういうものなのです。真実ならざる我々の欲望というものは、 すればするほど磨り切れていく靴の裏みたいなものです。ところが真実というものは、それに私どもが関われば関わるほど喜びといおうか、興味といおうか、意欲と申しますか、 いよいよその事柄の中の無限の真実を味わい進んでゆかずにはおられなくなる。そこに顕現する働きが精進となってくるのであります。今までつまらぬ日暮らしをして、 ただ自分の利益々々と閉じ籠もっておりました心が開かれ、無限に自己の真実を求める(自利)と共に、他のために働く(利他)活動をせずにおられなくなってくる。 そういう精進という発動が正命の次に必ずつながり起こって来るのであります。  

●無相庵のあとがき

  私たちは常に迷っています。私も齢76にもなりながら、仏道と仕事道の両立に迷い、終活に心惑っています。そこで、救いを求めて、 『仏道ー(4)迷いと救い』に心惹かれた次第でございます。身勝手をお許し下さい。

なむあみだぶつ 

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No.1904  2021.09.30仏道―(3)八正道―④

●無相庵のはしがき
  この無相庵にお越しの読者の方々の中で、「自分は果たして正しい仏の道を歩んでいるだろうか?」と思われる方がいらっしゃいましたら、 この八正道の『正精進(しょうしょうじん)』をチェックポイントにされたら如何かと思います。私は、生き生きと精進しているかと自問自答した時、「はい、しています」と、胸を張れません。

●仏道―(3)八正道―④

  正命といえば私どもの生活全体の正しさでありますが、人間というものは昔から社会的動物であるといわれておりますように、独りぼっちで生きているものではございません。 人間というのは人間関係の中で生きる。これは人間の約束でございます。ですから正命という言葉の中には、具体的な私どもの生活、社会生活、 人間関係を含めた生活活動全体の意味あいが正命というところで位置づけられておると申すべきであろうと考えます。

  正思、正語、正業ということになりますと、必ずそれが正命という全体的具体的な生活体として顕現してくる。やはりこれも、ただそういうふうに言葉を並べたのではなく、 そうなる必然性がございます。そして、私どもの命の全体が、正しさを得てくるということは、そこに一つの安定、先ほど申したような、矛盾、葛藤というようなような状態ではなしに、 極めて安定した、どっしりと落ち着いた、そういうよう生活世界が顕現してまいります。

  すると必ずその次には、「正精進」と云われておりますところの人間の本当の生き生きとした前向きの向上の活動が顕れます。ここにもまた強い必然性があると思うんです。 よく皆さまお聞きの、幼い子供が欲求不満に陥るという、親子の関係も機械化文明化されてまいりますと、子供の人間としての自然の欲求というものが阻害される。子供というのは親の肌に抱かれて、 その親の肌の暖かさを感じて、そして、スキンシップという言葉もございますが、親の乳房を口に含むという時、本当に幼児は幼児としての落ち着きを得るのです。

  それと同じように、幼稚園なら幼稚園の時代には、正しい人間としての欲求を満たしてやる用意をもたねばならぬ。過剰な欲求まで満たすというのは、あれはこの頃のお母さんの思い違いで、 決して欲求不満を解消する所以ではない。正しいあるべき要求を満たしてまいりますと、子供が精神的に安定する。安定すると活動がにぶって眠り込むかというと、決してそうではない。 人間というものが安定致しますと、子供は子供ながらに必ず正しい新しい経験活動道への意欲というものが生まれる。もりもりと活動力が起こってくるといわれます。こうもやってみよう、 ああも工夫してみよう。そこに本当の人間の正しい活動の根本姿勢と力とが発現してくるということを、幼児教育なんかの場でも申されます。人間にとって、やはり大人といえども同じだと思うのです。

●無相庵のあとがき

  仕事の研究開発では、前向きに努力していますが、それは、精進ではなく、お金を稼ぐ為に必死なだけであり、仏陀の説かれた正しい精進では有りません。ビジネス道と仏道は、どうも、 両立出来ないなと、常に思う事です。それが、修行なのかも知れませんが・・・。

なむあみだぶつ 

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No.1903  2021.09.23仏道―(3)八正道―③

●無相庵のはしがき
  「正見」から始まった八正道は、「正思」そして「正語」へと必然的に進まざるを得ないと云う論理です。そして、 「正語」、つまり正しい言葉遣いは、正しい生活態度となる「正命(しょうみょう」となると云うのが今回の結論となります。

●仏道―(3)八正道―③

  正語と申しますのは、これは私どもの正しさにかなった言葉でございます。荒々しい言葉を使ったり、突慳貪にものを言ったりしていた。 これは内なる邪な心が自ずと言葉に現われるのであります。即ちそれは実のない虚しい言葉です。それに対して,正しい言葉とは実の言葉です。言葉の働きに真実が滲んでくる。それが正語であります。 この正語には「正業(しょうごう)」が続きます。

  正業というのは、私どものいろいろ実際に身で行いますところの行為でございます。実践行為、行動であります。私ども人間というものの働きを眺めますと、心で意思するか、口で言うか、 身で行うかどれかです。これを身口意の三業と申しますが、これは確かによく見届けられた分析だと思います。正見という正法に照らされたるものが、私どもの命の中に顕れてて参りますと、 必ずそこに正思惟・正語・正業という人間の働きの全体が私どもの上に身口意の三業にわたって顕現してくる。そこに生活の全体が正しいものになってくるのを「正命」と申します。

●無相庵のあとがき

  反省しようと思えば反省し易いのは「正語」ではないでしょうか。人間関係のその場その場での言葉遣いが荒くなっていないか、振り返る必要がありそうに思います。

なむあみだぶつ 

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No.1902  2021.09.16仏道―(3)八正道―②

●無相庵のはしがき
  八正道と云うのは、極めて論理的な考え方ですね。紀元1~3世紀に確立した大乗仏教の考えであり、正しい考え方というのは、偏らない考え方を持つということです。 仏教の説く物事の正しい見方とは、自己中心的な考え方を捨て、この世の真理に照らし合わせて考えることです。「正思」「正思惟」と云うのは、正しい見解を持てば、 必ず正しい「思考」をするはずだ、そしてそれは自分中心の考えではないと云う事だと考察されたのでしょう。

●仏道―(3)八正道―②

  「正思」、或いは正思惟と申うしますのは正しい思考です。さらに広くいえば、思考を中心とした意識活動を表わすといってもよいでしょう。仏教では身口意(しん・く・い)の三業と言いまして、 意という字で心の作用全体を表わしますが、今はその意識活動を思惟を代表として表わしていると見ることができると思います。私どもが今まで邪なことを心に抱いていた。 そういう私どもに正しいことを意識し、思考する精神活動が開かれてくる。それを正思惟として示したものです。この正思という内面活動が生じると必ず次いで「正語」という働きが言葉の上に現われる。

●無相庵のはしがき

  しかし、自分の日頃の「身口意」を振り返りますと、すべて、自己中心の思惟から出ている事が分ります。これは、なかなか是正出来ません。出来た試しがございません。 そこで、私が努力していますのは、聖徳太子が十七条憲法でおっしゃっている、「我必ずしも聖ならず、彼かならずしも愚にあらず、共に是凡夫のみ」と云う事ですが、これとても、ついつい忘れてしまって、 心穏やかさを保てない次第なのです。、

なむあみだぶつ 

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