No.250  2003.1.20

阿含経(あごんきょう)を訪ねて ―2―

●今日の阿含経:『夫を見てその妻を知るなり』

●まえがき:
木曜コラムで『仏教の四つの真理』について勉強しています。次回(1月24日の木曜日)は苦諦(くたい)・集諦(じゅうたい)の次に来る、三つ目の『滅諦(めったい)』を勉強しますが、それに先立つ今日の阿含経は、たまたまなのですが、滅諦の一つを表現しているものと考えます。即ち、煩悩が滅した心境で観る世間模様、この世の真実を表わしているのだと思います。

法句経(ほっくぎょう)にしましても、阿含経にしましても、滅諦を指し示している句が多いように思います。
滅諦は理想像、理想境地でありますから、『成る程、そうでなければなぁ』と、すっと心に沁み入ります。しかし、直ちに自分に実践出来るかと言いますと、現実生活ではなかなか出来るものではありません。

キリスト教の『隣人を愛せよ』と言う教えと同様、滅諦は実践・実現する事はなかなか難しいものです。隣人を愛する事が出来るのは、たまたま自分と相性が良く、たまたま気心を知り合った隣人の場合だけです。境界を越えて伸びる木の枝やピアノの練習音を無神経に放置する隣人を愛する事は出来るものではありません。私は条件付きで隣人を愛せるに過ぎません。
勿論、隣人とは、文字通りの隣人だけではなく、縁のある人々すべて、生きとし生けるものすべてと言う事でしょうから、とても、今の私には無条件で愛することは出来ません。

しかし、理想に向う事が信仰生活でありますし、仏道を歩む事ですから、理想はしっかりと知っておかねばなりません。そう言う意味から、滅諦は仏教四つの真理の一つとして極めて重要であります。
そう言う観点から、この阿含経を味わいたい思います。

●阿含経(雑阿含経36):夫を見てその妻を知るなり

幢蓋(はたおい)を見て車を知り、煙を見て即ち火を知り、王を見て国土を知り、夫を見てその妻を知るものなり。

●現代意訳:
車のホロや飾り付けを見れば車の値打ちが分り、火の勢いを知りたければ煙りを見れば分り、王様を見れば、国土・国民がどのような状況かは想像が付き、夫を見ればその妻がどんな人か分るものである。

●あとがき:
似た者夫婦、親の顔が見たい、社長を見れば社員が分る、社員を見れば社長が分ると言う世間の教訓にも似たこの阿含経のお言葉を遺されたお釈迦様の真意は何処にあるのでしようか。 どう言う『滅諦』を指し示されたのでしょうか。

恐らくは、仏教的の根本的な考え方『物事は、すべて関わりあって存在し、単独で成り立つものではない』と言う『この世は不二(ふに)の世界』、表現を変えると『ものの底に一切がつらなり合っている』と言う『この世は一味(いちみ)の世界』であると言う真理を示されたのだと思います。

今日の阿含経で、夫婦の関係を例に挙げられて、夫婦も一味であると言われているのですが、 夫婦のあり様は、それぞれが独立してあるものではないと言う事です。これは決して、夫婦は一味一体だから、仲良くせよと言う教訓ではありません。

離婚する夫婦、離婚の危機に曝されている夫婦について考えますと、お互いの言い分は、元々の原因は先方(妻或いは夫)にあり、当方(夫或いは妻)には無いと言うものではないでしょうか。妻は『私と言うものがありながら、夫が浮気をしたから許せない』と言い、夫は『家に帰っても、お前の膨れっ面(ふくれっつら)を見ても何も楽しくないから、こうなったのだ』と……。冷静に考えますと、妻に膨れっ面をさせる原因は夫の思いやりの無さにあるかもしれませんし、夫の思いやりの無さは妻の家事の不行き届きにあるかも知れません。いや、目に見えない、さまざまな要因と、知り合って以来の経緯があるでしょう。他人から見れば、どっちもどっちではないかと感じられるものです。どちらに原因があると言う事ではなくて、お互いに影響しあって、離婚に至る夫婦になったとかんがえるべきだと思います。夫の今は妻なくして有り得ない、妻の今も夫なくして有り得ない。この事を夫婦一味だと言うのだと思います。

逆に、仲睦まじい夫婦にも言えます。あの夫にしてあの妻ありと思える好ましい夫婦もあります。夫唱婦随、やはり、これも夫婦一味と言うことでありますが、世間的に素晴らしい夫婦とは言えない泥棒夫婦もあります。これも夫婦一味です。夫を見れば妻が分り、妻を見れば夫が知れると言うのは真理ではないでしょうか。

また、一味と言う真理は、世界の情勢に付いても言えることであります。現在世界の問題となっているイラク、北朝鮮の核問題、査察問題も、イラクや北朝鮮だけに一方的な原因や問題があるのではないはずです。目に見え、耳に聞く経緯だけを見ても、核保有国の横暴と独断先行があり、富の不均衡があります。宗教の違い、価値観の違いもあるのでしょう。数百年、数千年の歴史・経緯もある事でしょう。そして、人間には知り得ない様々な要因もあるのだと思います。そう言う、世間のものごとは、色々と関係し合って生じていると言う一味の世界に気が付けば、必ずや平和的解決方法が見出せるはずであります。また、日本の活躍場があるはずですが、これまた、戦争が人類の共業(くごう、もともと人類も闘争本能を持つ動物と言う宿業)によるのかもしれません。

しかし、私達人間には他の動物には与えられていない智慧と言う力を与えられているわけですから、一味の世界と言う真理を知って、人類の平和に向うべき事を仏様からは願われていると思います………。


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No.249  2003.1.16

四つの真理−1−

私は、真理に明るく無いから、常に苦しい人生を送っています。仏教で言う四苦八苦が一度に襲って来ることは無いに致しましても、入れ替わり立ち代わり、諸々の苦がやって来ます。今は、会社の危機から来た求不得苦(ぐふとくく、お金が無いために欲しいものを手に入れられない)と向き合っています。そして、そう言う境遇にあるために、親しくしていた人の中には離れて行く人もあり、人間への信頼感を失い、そう言う人に出会う怨憎会苦(おんぞうえく)にも出遭っています。

これらの苦に遭遇しない人はいないと思います。しかし、こう言う苦に遭いながら、苦を苦としない世界があります。それは、お釈迦様が説かれ、親鸞聖人が至られた信心の道を歩むことによって、辿りつける世界だと確信しています。

私は、仏教の話を幼少から聞いて参りましたが、しかし、真剣に仏教を求めては来ませんでした。今回、大きな苦に遭うことによって初めて、その道を歩んでみようと思うようになりました。

そして、仏教の入り口であり、ゴールでもある四つの真理について、改めて勉強したいと思いました。

法句経に聞くシリーズの最終回で、仏教における四つの真理の第一番目の真理、苦諦(くたい)に付きまして、長々と説明させて頂きましが、この木曜コラムで、引き続き、四つの真理について、考察して見たいと思います。

苦諦(くたい)は、苦を諦める(明らかに観る)と言う事で、『真理に目覚めなければ、結局、人生は苦なりと分る事である』と説明させて頂きました。

そして、二番目の真理として、集諦(じゅうたい)が示されていますが、集は色々な要因が集まると言う事を意味しているそうです。従いまして集諦は、苦の原因を明らかにしようと言う事です。

法句経の解説では、苦の原因は、私達の無知・無明にあると申し上げました。人間の中には賢い人もいるようにも思えますが、所詮、人類は大宇宙の埃(ほこり)と言ってよい様な地球上で生命を受けた存在ですから、宇宙全体の真実・真理を知り得るかと言うと、知らない事ばかりだと言って良いと思います。

極論ではありますが、一番重要問題である自分の死の予測すら出来ないのですから、無知・無明と断定されましても、『はい、その通りです』としか言えないと思います。しかし問題は、そう言いながらも私自身が、なかなか無知・無明だと思えない事です。成る程、宇宙全体を取上げて説明されれば、無知・無明さを頭では理解出来ますが、自分が無知・無明であるとはなかなか自覚出来ないのです。

無知・無明と自覚する事は、親鸞聖人が『煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫』と自覚された事と同じです。煩悩具足とは、すべての煩悩を抱えていると言う事ですが、『煩悩具足の凡夫と自覚する事』は、即ち、自分の心の実体が、大宇宙の真理に照らし出された(目覚めさせられた)と言う事です。

私は、自分が凡夫だと、感じる事は確かですが、根っ子では、自分を結構、上等な人間と思っています。もしも自分が煩悩具足の凡夫と自覚したならば、常に一番下座に座らねばなりません。恥かしくて面を上げて街を歩けないかも知れません。しかし、私は、自分も凡夫だけれど、あの人と比べれば、あの人よりはましな、上級の凡夫だと思ってしまいます。それ程に、自分を高く評価する心はしぶといものです。それ程に無知・無明なのです。

苦の原因は、無知・無明にあるのですが、それは煩悩即ち自己愛(欲望の満足)と言う厚い雲に覆われて、智慧の光りとも言うべき月の光が見えない状況であると喩える事が出来ます。

原因が分れば、原因を取り除けば、問題は解決致します。私達の苦も苦の原因が分れば、解消されると思いますが、そんなに簡単なものならば、お釈迦様も6年の苦行を必要とはされなかったでしょうし、達磨大師の面壁9年の座禅も無いし、親鸞聖人も20年間のご修行は必要無かったと思います。

原因が分ると言う事と原因を自覚する事の間には大きくて高い山か、深い谷があるのではないかと思います。この山か谷を越える方法に、禅門あり、浄土門があるのではないかと考察する次第です。

この続きは、次回の木曜コラムとさせて頂きます。


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No.248  2003.1.13

阿含経(あごんきょう)を訪ねて ―1―

●今日の阿含経:『弓師はよく角(つの)を調う(ととのう)』

●まえがき:
私は、浄土真宗を信仰する家に生まれ、親鸞聖人のお作りになった正信偈(しょうしんげ)と言うお経を家族全員で毎朝夕にあげていました。しかし母は、浄土真宗の信者としては珍しいと思いますが、浄土真宗の本山である本願寺が制定した経典に固執するだけではなく、禅宗の経典、そして仏教の原点であるお釈迦様が語られた言葉が伝承されたと言う法句経や阿含経にも関心持っていました。それは母が遺した蔵書から分ります。

今回、法句経に引き続きまして阿含経を勉強しようと思いますが、これも、母が遺してくれた友松円諦師の著書『阿含経講義』を拠り所と致します。阿含は、梵語の?gamaを漢語に音訳したもので、原語は、来れるもの、伝え来ったものと言う意味で、従って、今日的に言いますならば、お釈迦様の伝集、文集と言ったものと考えて良いようです。

阿含経は全部で183句から成り立っているようですが、今回は友松円諦師が選ばれた14句で、阿含経のエッセンスを訪ねてみたいと思います。

●阿含経(増一阿含経31):弓師はよく角(つの)を調う(ととのう)

弓師は能く角を調え、水人(かこ)は能く船をととのう。巧匠(きづくり)はその木を調え、智者は自らその身を調うものなり。

●現代訳:
弓矢を造る職人は熟練した腕で見事に矢先の角を磨き調え、水夫・船頭達も、巧みに舟を操る。大工職人も確かな技術で木材を加工するものであるが、心あり、智慧ある者は、自分自らの身をも調えるものである。

●解説:
当初、この句だけを読みますと、私は、『色々な職人が、それぞれ極めた技で自分が扱う品物を調え、統御するように、仏道を求める者は、心身を調えなければならない』と言う風に解釈致しましたが、友松円諦師の註釈から、もっともっと深い自省の心から来る、教訓である事を知りました。

即ち、今日の法句経は職人の技術の上手さ、巧みさを誉められているのではなく、職人技を見詰め観察されながら、『ただ、上手だからそれで結構』と言っておられるのではなく、『智あるものは自らその身を調えるものなり』と、最後に反省的な一句を添えられてたのだと言う事です。

平易に解釈致しますと、仕事さえ出来ればそれで良いと言う事ではなく、仕事を通して、精神も磨き、言動を含めて、自らを向上させねばならないと言う事だと思います。もっと言いますならば、職業・仕事或いは日常生活と仏道を求める事が離れ離れではいけないと言う事をおっしゃっているのだと受け取らねばならないと思います。

スポーツの世界でも、『心・技・体』と言う表現で、単に技だけが優れているだけでは、名選手ではないと申します。社会人としても尊敬される人格を併せ持った選手だけが名選手と評価されています。技術、学問、芸術の世界におきましても同様で、夫々の取組み方が、単に生活の糧を獲得する手段としての職業的なものに陥ってしまいますと、たとえ卓越した技とか実力を持っていたと致しましても、輝きを失ってしまい、評価されないと思います。

最近では、古臭いと言われてしまうのだと思いますが、自分の毎日の職業、その生業(なりわい)の一歩一歩のうちにこそ、人生の尊い修行があるのだと言う事を、お釈迦様は、『心あり、智あるものは、一切の職業の上に、その仕事の中に、自分みずからの身を調えるものである』と申されたのだと思います。

現代の私達が遂々忘れがちである『所在是道場』(しょざいこれどうじょう)、即ち生活そのものが修行の場であり、仏道を行じる事であると言うを指摘された想いが致します。

友松円諦師も自戒されている事でありますが、仏法を説く者も(私がこのコラムを世間に発信することも含みます)、説く技術を研鑚する事も、仏教の知識を広く深くする事も大切ではあるけれども、自らの身と心を調え、仏法に適い、世間的にも批判されない(賞賛されるとまでは言わなくても)人格と生活態度を身に付けなければならないと、この阿含経で叱咤された想いが致しました。

怠け者で、意志の弱い私には難しい事ではありますが、この句を想い浮かべて努力したいと思います。


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No.247  2003.1.9

イラク問題について

私達、アメリカサイドからの情報しか入らない国の人間にとりましては、イラク問題と言うと、イラクに問題があるようなニュアンスとして受け取ってしまいますが、イラクの国民の立場から言えば、アメリカの帝国主義が問題であると言う事のようです。

お互いに、相手の非を責め立てている限りは、最終的には問答無用の戦争に突入するしか無いと思われます。言葉を持ち、聞く耳を持っている人間であるのに、直接コミュニケーションが取れずに、相手の非を世界に訴えるしかない現状は悲しいものです。バレスチナとイスラエルの自爆テロとミサイル攻撃の果てしない報復合戦は更に悲しい人類の姿を現していると思います。

北朝鮮とアメリカそして北朝鮮と日本もどうやら同じ様な道を辿りつつあるように思います。

こう言う国と国との関係は悲しい事ですけれども、批判は出来ません。私自身も、コミュニケーションが断絶したままの相手があります。私だけではなく、世の中の人々も、多分、顔を合わせたくない相手や、コミュニケーションを取ろうと思っても、なかなか議論が出来ない関係を経験されていると思います。

こちらから一方的に謝ろうと言う気持ちも持ち合わせているのですが、それで関係が良くなるかどうかの自信も無く、遂々先を読んでしまい、結局は謝れないまま、時が過ぎてしまうものです。

親子関係でも、嫁姑関係でも、隣近所との関係、職場の同僚、上司との関係でも、イラクとアメリカの関係と同じ悲惨で解決の糸口が見付からずに苦しい日々を送っている方も多いと思います。

先ずは、こう言う関係に至らないように、コミュニケーションが途切れるような言葉や行動を慎む事に気を配ると言う事だと思いますが、『和を以って尊しと為す』と17条憲法に示された聖徳太子がおっしゃった『我必ずしも是にあらず、彼必ずしも非にあらず、共にこれ凡夫のみ』と言う土俵の上で日常生活を送る事でしか、忌まわしい関係から抜け出せないと思います。

大変難しい事ではありますが、『私の方が間違っているかも知れない』と言う謙虚さと慎重さを持って、人間関係を生きて行きたいと思います。

イラク問題、北朝鮮問題がトップニュースとなっているテレビを見ながら、人間の業(ごう)を思いつつ、我が日常生活のあり方を反省致した次第であります。

一旦失われた信頼関係は、第三者の仲介では修復不可能である事を歴史が語っております。此処に至りまして、イラクとアメリカの仲介を日本が出来る可能性は低いと思いますが、せめて、アメリカだけに加担せず、仲介の努力を放棄しないで欲しいとおもいます。

そして、北朝鮮に関して、小泉首相は直ちにピョンヤンに金正日総書記を訪ね、ピョンヤン宣言の核に関する約束の遵守を直接求めるべきだと思います。おかしいと思った時に、おかしいと伝えて相手の言い訳と真意をお聞きする姿勢が無いと、やはり、コミュニケーションは断絶し、拉致被害者、そのご家族の不幸が現実のものとなりかねません。

聖徳太子を祖先に持つ日本政府には、アメリカでは出来ない政治スタイルを取って貰いたいと思うのは、私だけではないと思います。


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No.246  2003.1.6

法句経(ほっくぎょう)に聞く―最終回―

■今日の法句経:『四つの真理と八つの道』

●まえがき:
今日の法句経191は、前回の法句経190『三宝に帰命したてまつる』に続くもので、190と191は、一体の法句経と考えて良いものでありますと共に、お釈迦様の教え、即ち仏法の要点とも原点とも言えるもので、これから仏法を学ぼうとする人が先ず学んで欲しいものでありますが、既に仏法を学び始めた人、そして実践している人にとりましても、常に立ち返るべき大切な法句経だと思います。

いいえ、仏法と言う事に限らず、人生において本当の幸せを得たいと思う人は、お釈迦さまが示された、この四つの真理と八つの道を確認する事から始めなければならないと思います。 そして、四つの真理でお釈迦様が『苦を明らかにすること』を第一番目に掲げられた意味を今日の法句経を味わいながら考察してみたいと思います。

私は前述で本当の幸せを得たいと思うならばと申しましたが、本当の幸せとは何かと言う事は、実は価値観の転換であり、仏法で言うところの悟りの世界が分ったと言う事であり、四つの真理の第三番目の『滅諦(めったい)』【苦が滅した心境と生活態度・姿勢】が明らかになったと言う事ですから、それは、少し後の問題とさせて頂きます。

苦からの解放を求める人に仏法は門を開きます。それには先ず『苦』を認識しなければなりません。苦を認識すると言う事は、病気で言えば、先ず病気である事を自覚しようと言う事です。自分が病気である事を自覚しないとお医者さんの門を叩きません。病気を治すには、先ずは自分が病気である事を自覚する事が出発点となります。そしてお医者さんの診察を受けて、色々と検査して貰って、病んでいる箇所を見付けて頂き、病気の原因が分ります。原因が分れば、もとの健康な体に戻す治療方法も確定致します。

苦からの解放も、病気を治すのと同じ道筋で達成されます。それが、四つの真理と八つの道です。

今回で法句経に聞くシリーズは一応完了です。次回は、法句経と並んで、原始経典と言われる『阿含経(あごんきょう)』について、やはり友松円諦師のお力を借りて、学びたいと思います。

●法句経191:四つの真理と八つの道

くるしみと
くるしみのおいたちと
くるしみの
離脱と
くるしみの
滅盡(めつじん)に導く
八つの聖道

●友松円諦師の註釈:
四つの尊い真理とは、人生の苦しみなること、その苦しみが何によって起ってきたかと言うこと、次にはこの苦しみの離脱、次には苦の滅盡に達する八種の尊い形式である。

●私の意訳: 本当に幸せな人生を得るには、次の四つの尊い道理に従う事である。

  1. 人生には楽しい事もあるけれども、欲望を追い求める人生である限りは、私達は結局、苦から逃れる事がないと言う事実に気が付かねばならない事。
  2. その苦がどこから生じているのかと言う事を知る事。
  3. 苦が滅したら、どんな心境になるかを知る事。
  4. その苦を無くすためには八つの正しい道がある事。

●あとがき:
世の中には、宗教に関心が無いと言う人も沢山います。関心が無いと言うよりもむしろ、宗教を持つ人を心の弱い人であるとか、非合理的・非科学的な思考の持ち主であると蔑(さげす)む人もいます。

確かに、そう思われても仕方が無い信仰を旨(むね)とする宗教団体もありますし、正統派の仏教徒と言われる信者さんの中にも、お釈迦様の教えから外れた信仰に陥っている方もおられますから、宗教を否定される方のお気持ちも分ります。しかし、本当に幸せな人生を求めるならば、宗教に拠り所を求めるしかないと私は思います。特に、お釈迦様のお教えに答えを求めなければ、本当の幸せには至らないと言う事を認識しなければならないと思います。

その実証と言いますか、説得力ある言葉が、190と191の法句経です。そして、その言葉の中でも、『人生は苦だ』と言う、四つの真理の第一番目の真理(苦諦、くたい)を押える事だと思います。これを出発点としなければ、仏法は始まりませんし、これを外してしまっては、仏法は私達に何も教えてくれませんし、本当の幸せ感には至る事が出来ないと断言しても良いと思います。

四つ真理と八つの道の詳細に付きましては、今後の木曜コラムに譲ると致しまして、今回は、仏法への入り口は、苦の認識と、苦からの解放を求めるころにある事を強調しておきたいと思います。

●人生は苦なり
『人生は苦なり』と言うと、『所詮、人生は苦労・苦難しかないのだ』と、徳川家康の有名な言葉、『人生とは、重き荷物を背負いて、坂道を登るごときなり』と同じ悲観主義の文言に聞こえると思いますが、そうではありません。言葉を尽くして申しますと、『真理に目覚めずに送る人生には結局は苦しか待っていないのだ。欲望の満足を求めてひた走る人生には、瞬間的な幸せは有り得ても、苦から解放される事はない』と言う事だと思います。

徳川家康と同じ様に『人生は、所詮自分の思う通りにはならないものだ、人間と言うものは、そう言う事を元々背負って生まれて来ているのだ』と達観した事を言う人がいます。こう言う考えの人は、本当は苦と感じるべきところを逃避して、欲望の満足と言う幸せを次々と追い求め続けて努力致します。そして、他人の苦にも関心を払う事もありません。他人の苦は、その人の努力が足りないからと断定致します。

こう言う人にはお釈迦様の声は永遠に届きませんし、永遠に苦からの解放もありません。自分の力ではどうする事も出来ずに、死ぬほどの苦しみに遭遇した時に初めて『こんなはずではなかった』と言う事になるのだと思います。それでは、他の動物と何ら変わるところが無く、真に残念な人生です。

お釈迦様は、自らがそう言う決定的な苦に至る前に、皇太子と言う世間的には幸せな地位を捨て、苦からの脱出、解放を求めて出家され、苦と言うものが何処から生じているかを洞察され、すべての苦は真実・真理に無知なるところから生じていると自覚された訳です。

私達は、自分が無知であるとは自覚していません。知らない事もあるけれど、世の中の道理はある程度知っていると思っています。自分が努力すれば、自分の思う通りになると期待し希望して生活しています。また、明日死ぬとは思わないで生活しています。この事自体が無知であり、無明(むみょう、出口が分らない暗闇の中に住んでいる)であります。

無知・無明である事を自覚する事が悟りであると言っても良いと思います。自分が無知・無明である事を知る事と真理に目覚める事は同時ではないでしょうか。真理に目覚める入り口は、苦を自覚し、苦の原因を自己の心の中に求めるところにありますが、先ずは苦を認識する事が第一だと思います。では、お釈迦様が言われる苦とはどう言うものでしょう。

●苦とは?

仏教では、苦を四苦八苦として、生老病死の四苦と、愛別離苦(あいべつりく)、怨憎会苦(おんぞうえく)、求不得苦(ぐふとくく)、五蘊盛苦(ごうんじょうく)の四苦を合計して人間として感じる苦を八つの苦に集約致します。すなわち、苦とは、生きる苦しみ、老いて行く苦しみ、病の苦しみ、死なねばならない苦しみ、、好きな人と別れなければならない苦、嫌いな人と交わらねばならない苦、欲しいものが思う様に手に入らない苦、その他肉体と心を持っているが故の苦の八つの苦であります。

これらの苦を苦として認識し、この苦から解放されたいと思わなければ、仏法を聞き違いしてしまうと思います。『人間は何れは死ぬものだよ』と達観していても、それは死を自分に起る問題として捉えていないから言える事です。いざ、自分が死の宣告を受けたり、配偶者や子供の死に遭遇しますと私達はパニックになってしまいます。

『人生は糾(あざな)える縄の如し、苦があれば次には必ず楽がある、そして楽あれば苦あり』と言う教訓もあります。確かに人生には苦楽があります。苦だけではありませんし、楽だけで終わるものではありません。しかし、人生はそう言うものだと達観出来るでしょうか。出来る人もいるかも知れませんが、それでは、犬やネコなどの動物と変わらない一生だと思います。

『苦は嫌だ、苦の無い、常に楽しく安らかな気持ちで人生を送りたい』と一念発起する事が、仏法で言うところの、『菩提心(ぼだいしん)を起こす』と言う事ではないかと思います。人間として生まれて来た価値に気が付いたと言う事ではないかと思います。

●菩提心について
『人生は苦しいと感じない人はいないよ』と言う声も聞こえてきます。確かにそうだと思います。苦を認識しているのに何故真剣に仏法を求めないのかと言う疑問は、私は自分自身についても感じて来ました。

結論としては、本当の幸せを知らないから本当の幸せを求めない、だから仏法を求められないのだと考察しています。
言い方を変えますと、人生は苦だけでなく、欲望を満足させてくれて、非常に楽しく、幸せを感じる時もあるからです。正に糾える縄のごとしで、人生は苦ばかりではなくて、人を迷わせる楽しい事が一杯あるのも事実です。そして、その楽しさは麻薬の様なものではないかと思います。

一旦麻薬を知ると、なかなか麻薬の誘惑から離れることは出来ないと言います。私達は、欲望の満足と言う麻薬の患者と言えると思います。

麻薬患者は、自分自身から麻薬を断とうと言う決心はなかなか出来ないと言う事ですが、私達も、麻薬患者と同様に、自分の力では欲望の満足を求める心をなかなか捨て切れません。だから、いつまでも苦からの解放が実現しません。

これまでの人生の生き方では、苦からの解放は永遠に有り得ないと言う事に気が付くことが第一段階の心の転換であり、仏法の扉を叩いた事になるのだと思います。

それが、四つの真理の第一に示されている『苦諦(くたい)』【苦を明らかにする】だと思います。


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No.245  2003.1.2

年の始めに

皆様、明けましておめでとうございます。

平成15年、西暦2003年は、どう言う年になりますでしょうか。私個人も、私の会社も 行き詰まるか、行き詰まる寸前で奇跡の復活がなるか、大変重たい年を迎えましたが、日本も世界も、イラク問題、北朝鮮問題の成り行きによりましては、日本を、そして世界をどん底に落とし込める事態になるかも知れません。

中国も、今は独り勝ちの様相を呈していますが、共産主義と市場経済が両立する訳がありません。既に、沿岸部と内陸部の格差が大きく、何れは、人心の乱れが生じるのは必至だと思われます。

インターネットと携帯電話の普及で国境の意味がなくなり、それが逆に、世界の同時不況、同時災難、同時テロを演出するようになりました。良い意味でも、悪い意味でも、世界は一つと言う21世紀となりました。

思えば、お釈迦様、キリスト様が亡くなられて二千年から二千五百年になりますが、古代から人類全体が抱える『苦からの脱出』と言う本質的課題は、解決されないまま、今日に至っております。

苦には、人間苦と生活苦があります。人間苦とは、人間に生まれたが故の苦悩です。動物では感じられない苦悩で、お釈迦様がまとめられた四苦八苦がそれです。一方、生活苦とは、人間として生きる上で最低限必要な衣食住が確保出来ない、生命の危機に感じる苦を言います。

現代日本は、高度成長期に身に付けた豊かな生活水準を希って(こいねがって)いるが故に、求不得苦(ぐふとっく)と言う、求めるものが得られないと言う人間苦に陥っています。

世界では、餓死する難民、テロで死ぬ人々、エイズで死んで行く人々に見られるように、生命の危険に曝(さら)され、そして尊い命が無造作に失われているのが実状であります。

人類は、生活苦と人間苦が入り混じった苦難の世紀を迎えているわけですが、誰にも出口は見えていません。

この苦難の世紀を乗り越えるには、武力では決して為し得ないと言う事は、前世紀で実証済みであります。対立から共存・寛容の精神で対話をして行くところにしか、平和な世界は実現しないと思います。

その為には、聖徳太子と言う立派な政治家によって、唯一大乗仏教が根付く事になった日本の役割は大きいものがあると思います。時間はかかるかも知れませんが、聖徳太子のような政治家が生まれる土壌を取り戻すべく、教育に正しい仏教が生かされるように、微力を尽くしたいと思います。

今年も、宜しくお願い申し上げます。


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No.244  2002.12.30

法句経(ほっくぎょう)に聞く―14―

●今日の法句経:『三寶(さんぽう、三宝)に帰命したてまつる』

●まえがき:
今年も、いよいよ明日の大晦日を迎えるだけとなりました。公私共に色々と状況変化がありましたが、兎にも角にも、家を引越しすることなく、年越しとなりました。

縁が尽きれば、今の家とも別れるだろうし、縁が尽きなければ、縁が尽きるまで、引越しする事は出来ないと考えていました。引越しを覚悟しても、条件が整わないと、引越しと言う事態には至らないと言う事を実感致しました。

デフレ経済と、金融機関の事情等をはじめとして、工場の移転に支援・協力して頂いた取引先企業、生活支援して下さった知人・ご友人、そして仕送りしてくれた娘夫婦のお陰で、今年も、先ずは路頭に迷う事もなく年越し出来そうです。すべてに感謝しながら、年越しを致します。

来年がどう言う事になるかは、誰にも予想が付きません。予想しても、予想通りになった事もございません。結局は、なるようになっていく、あるがままを受け取っていくと言う心境で来年を迎えたいと思います。

今年最後の法句経は、お釈迦様の、実に単純明解なお言葉です。私は、時として、宗教を、或いは仏教を、或いは親鸞聖人の浄土の真宗を、少し難しく、哲学的に捉えたり、科学的、論理的に考えてしまうのですが、もっともっと初心に帰って、お釈迦様のお言葉を味わう必要があったと、叱咤された想いが致しました。

●法句経190:三寶(さんぽう)に帰命(きみょう)したてまつる

さとれるものと
真理の法と
和合(ひじり)の集まりとに
帰依するものは、
正しい智慧をもって
四つの聖なる真理を見る。

●友松円諦師の註釈:
仏陀と達磨(だるま)と僧伽(さんが)とに帰依するところの人は、正しい智慧を持って四つの尊い真理を見る事が出来る。

●私の意訳:
仏法僧(ぶっぽうそう)に帰依する者は、同時に、無上の智慧を身に付け、そして苦諦(くたい)、集諦(じゅうたい)、滅諦(めったい)、道諦(どうたい)の四つの真理を知るに至るのである。

●あとがき:
帰依(きえ)と言うのは、仏教語としては、帰命(きみょう)と言い換えたりします。心の底から信頼し、尊重すると言うことです。南無阿弥陀仏と言うお念佛の『南無』が、インドの『ナマス』と言う単語を音訳したものですので、南無は帰依すると言う意味です。

お釈迦様は、この法句経で、宇宙の真理(法)と、それを悟った人(仏)、そして、それを体得しようとして努力する修業仲間(僧伽、さんが)を信頼し、尊重して行く事が、幸せな人生を得る唯一の道だと説かれています。

しかし、何も知らないまま、盲目的に何がなんでも仏法僧を敬えと言われたのではないと思います。先ずは、『法』を知りなさいと言われたのだと思われます。『法』即ち『仏法』、即ち四つの真理(四諦、したい)を知る事だと、今日の法句経で言われているのだと思います。この四つの真理を知ると同時に、仏法僧に帰依する心が生まれるのは必然であると言う事ではないでしょうか。

お釈迦様は、非常に論理的なお方だと思います。四つの真理も、当時のインドの論理的形態を取っているようです。

四諦(したい)の諦は、『あきらめる』と読みますが、今日意味するところの『どうしょうもないから放置する、受入れるしかない』と言う意味ではなく、『諦』は『明らかに観る』と言う事で、『事の真実を把握する』と言う意味です。

お釈迦様は、苦(く)・集(じゅう)・滅(めつ)・道(どう)と言う順序で説かれていますが、これは、私達の人生を悩ましくしているのは、であると言う事実を先ず認識し、そして、その苦の原因()を知りなさい。そして、苦がしたらどう言う素晴らしい精神状態になるかを知りなさい、そして、苦を滅するその方法()を知りなさいと言う論法だと言われています。

この論法は、医療の見地から捉えますと、苦諦とは病気の状況を知る診察学、集諦とは病気の原因を知る病理学、滅諦とは病気が治った状態を知る健康生理学、道諦とは病気の直す方法を知る臨床学であると言えます。

四諦と、そして、その最後の道諦と言われる、悟りに至るための方法として、八正道(はっしょうどう)として正見、正語、正定、正業、正念、正思、正命、正精進が説かれていますが、次回の法句経(四つの真理と八つの道)の解説で、勉強したいと思います。

今年、何とかコラムを続けられましたのは、コラム読者さまからの、度々にわたるお励ましのお陰です。どうか、来年も宜しくお願い申し上げます。
皆様、良いお年を!


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No.243  2002.12.26

リセット

12月24日のNHK教育テレビでのETV2002と言う番組で【『失敗に学べ』吉野家社長が語る企業改革、値下げの裏に涙の体験】と言うテーマの45分番組がありました。
私は自らが失敗した経営者として、興味深く見せて頂きました。
『リセット』とは、その吉野家の社長の改革に関する説明の中にあった言葉ですが、私達の人生においても、キーワードとして極めて重要だと思いましたので、コラムテーマとさせて頂きました。

ご存知の方もあると思いますが、吉野家は、一昨年末のある1週間、1杯400円の牛丼を250円に大幅値下げして試験販売しました。外食産業の競争相手であるハンバーガーに危機意識を感じての挑戦だったと思います。

この挑戦は消費者にアピールしまして予想を超える顧客が殺到し、表向きは成功しましたけれども、食材が間に合わず、止む無く店を閉めたり、持ち帰り弁当を中止したりと、最前線の店従業員には大変な精神的負担をかけ、最終的にはキャンペーン後半には顧客も離れて行く結果となったようです。そして、多分、採算面でも大きなマイナスだったのだと思います。

現在、吉野家の最もポビュラーな牛丼並盛は1杯280円だと思いますが、一挙に3割ダウンさせても品質を落とさず、且つ利益も落とさないようにするためには、血の滲むような努力があった訳です。

実際、仕入れ、食材配送、そして、店での従業員の作業行動を秒単位で測定し、改善して行った様子が放映されていました。

一般の企業も、サークル活動などで作業改善を行います。私が以前勤務していた企業でも、トヨタOBの指導を受けて、吉野家と変わらないと言える改善活動をしていましたし、現在もしていると思います。製造現場ではリセットと言うに相応しい作業改善をしていたと思いますがしかし、その企業の社長は、吉野家の社長のように、社長が先頭に立って改善すると言う悲壮感はありませんでしたので、アピールはありませんでしたから、やはり中途半端だったと思います。

リセットと言うのは、『ゼロ払い』とか『白紙に戻してやり直す』と言う事です。これまでのやり方を一切否定して、初めから作業方法も、レイアウトも、すべて目標価格を実現するためにはどうしたら良いかを考え、試行し、新しいシステムを構築する事です。場合によっては、店長の資格基準、従業員の資格基準を見直す事も含んで改革し、小泉流に言いますと、
聖域無きシステム改革を称して『リセット』と言う訳です。

リセットと言うのは、『言うは易く行うは難し』です。高度成長期の約40年を過ごした私は、このデフレ下でも、なかなか意識を変えられません。絶対にリセットが必要であります。人間は保守的ですから、どうしても過去のやり方を捨て切る事が出来ませんが、思い切ってリセットすれば、案外と、物事は良くなって行くのだと思います。

世界も、絶好調だったアメリカさえ、不景気風が吹いています。世界同時不況の様子です。そして、イラク問題、北朝鮮問題、ロシアのチェチェン問題と、物騒な戦争モードも現実化しつつあります。

私達地球に生きる人類も、数百年存続した物質文明向上プログラムをゼロ払いして、人類の恒久平和を実現するべく、精神文明向上と、宗教の原点に立ちかえって、すべての命の尊さを認識し、命の尊さを守る事を基本とした国際ルールを構築するよう、リセットしなければならないと思いました。

吉野家の社長の言葉でもう一つ『何処にも問題はある、問題は問題ではなく、それを隠そうとか、避けるとか、解決へと向わないのが一番の問題だ』と言う意味の発言がありました。これは全く同感です。私も、そう言う気持ちで過去の従業員にも伝えて来た積もりですが、なかなか、そう言う社風にはなりませんでした。従業員同士がかばい合うと言う感じが拭えませんでしたが、これは、私に問題があったのだと思います。

個人の人生にも色々と問題は次から次へと発生します。問題を隠蔽せず、無視せず、表に出して、小手先だけの解決ではなく、リセットして、根本的な改善をしていかねばならないと、改めて思った次第です。


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No.242  2002.12.23

法句経(ほっくぎょう)に聞く―13―

●今日の法句経:『心けがれて何ぞ黄衣(けさ)をまとはん』

●まえがき:
袈裟(けさ)は、お坊さんが着る衣装の事ですが、元々『ケサ』と言うのはインドの言葉で、黄色と言う事だそうです。今日でも東南アジアのお坊さんは黄色の衣(ころも)を着ているのをよく見掛けますが、昔のインドでは、一般民衆は白い衣服を纏い(まとい)、修行僧は黄色の衣服を纏っていたようです。

今日の法句経は、修行僧に対する戒め(いましめ)のようですが、私達一般人に対しても、外見と内面が異なってはいないか?と言うお釈迦様からの投げ掛けであると受け取りたいと思います。

●法句経9:心けがれて何ぞ黄衣(けさ)をまとはん

こころなほ、けがれを除かず
ただ袈裟衣(きいろきころも)を
まとはんとす。
されど、心ととのはず、
業(わざ)、真理(まこと)にそわはずば、
彼は袈裟(けさ)をまとはんに
ふさはしからず。

●友松円諦師の註釈:
心の汚れを払い捨てずに、ただ、修行者の制服を着たいと願っても、もし自制と真実とにおいて、欠けているならば、彼にはその修行者の制服を纏う(まとう)資格がない。

●私の意訳:
心が穢れた(けがれた)ままなのに、衣(ころも)を身に纏う(まとう)ような事をするが、自己を整える事無しには、衣を着る資格はないのである。

●あとがき:
お坊さん、警察官、自衛隊員、お医者さん、看護婦さん、スチュワーデスさん等は、一目見ればその職業が分る制服を着ています。しかし、すべての人が、その制服に恥ずかしくない技術・技能・人格を持ち、相応しい(ふさわしい)役割を果たしているかと言うと、そうではありません。わいせつ行為で逮捕されたお坊さん、犯罪者に捜査情報を流して金品を受け取っていた警察官、単純ミスで患者を死に至らしめた医師の報道が新聞に載らない日が無いと言ってよいくらいです。

政治家も、制服ではないけれども、金バッチを胸につけています。金バッチに相応しく、国民の為に働いてくれている政治家は、一体何人位いるのでしょうか。

制服を着ていなくても、私達も、大学教授であるとか、社長であるとか、公務員であるとか、タレントであるとか、職業や役割を看板にしています。お父さん、お母さんと言うのもやはり、一つの看板です。

その看板に相応しい能力と責任感、自覚と人格を持っているかどうか、お互いに反省が必要であります。

『宗教とは自己を問い直す事から始まる』と言われた方がいますが、自分の看板と中味の食い違いの真実は自分が一番知っているものだと思います。私も、10年間社長をやって来ましたが、社長として本当に相応しい努力をして来たかと振り返りますと、恥ずかしいと言う事に尽きます。夫として、父親として、本当に責任感を持って30年間を生きて来たかと言うと、これも甚だ(はなはだ)慙愧(ざんき、恥かしい)の念に駆られます。

浄土門で有名な善導大師が『外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐ければなり』と言う言葉を遺されていますが、『外見を如何にも善人であるかのように振る舞う事があってはならない、自分の心の中には嘘と偽りしかないではないか』と言う、深く自己を見詰められてのお言葉です。

昔、水前寺清子の歌の中に『ボロは着てても、心は錦』と言う文句がありましたが、私の真実は『錦を着てても、心はオンボロ』と言う善導大師の自己懺悔であります。


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No.241  2002.12.19

お浄土の科学的思考について

12月12日(木曜日)の朝日新聞『声欄』に、広島県呉市の栗栖哲男さんと言う83歳の方の投稿が掲載されていました。浄土と言うテーマでありましたが、特定の宗教に組しない朝日新聞にしては珍しい選稿と思い、興味深く読みました。下記の内容です。

11月で83歳になった。小学校や旧制中学などの親友を、ことごとく亡くしてしまった。
社会に出てからは、学校時代のように親密な友達は得られなかった。老人の悲哀は色々あるだろうが、私には友を失ったことが、大きな悲しみだ。
先日、病院の待合室でこんな事があった。私と同じ位のおじいさんが、私と同じような悲しみをもらしていた。すると、一人の老婦人が、こんなことを言った。『そんなことを悲しがることはありません。お浄土に行けば、すぐ会えますよ。私は、友達と色々と話が出来る日を楽しみにしていますよ』
全く疑いを含んでいない。率直で確信に満ちた老婦人の言葉に、そのおじいさんは『そんなこともあるでしょう』とつぶやくように答えていた。
私は、『迷いというものは、疑念から生じる』と言うある宗教家の言葉を思い出しながら、その老婦人の心境をうらやましいと思った。

投書されたご老人が引用されている『迷いというものは、疑念から生じる』の言葉から、かなり宗教知識に深い方だと推察致します一方、老婦人は、所謂『真宗門徒』(本願寺の僧侶のお話しをよく聞いて来られた信者さん)なのだと思います。

私の立場はどうかと申しますと、ご老人に近いと思います。私は、老婦人以上に浄土真宗の法話を聞いてはいないかも知れませんが、私の心に浄土は未だ確信として宿っていませんから、心境はご老人と殆ど変わりません。私も老婦人の心境を羨ましく思いました。

しかし一方、『お浄土に行けば、すぐ会えますよ』と言う老婦人のご信心に危さを抱いたと言うのも事実でございます。お浄土は、そんな夢物語でもないと思うからです。

さて、一般の方々は『お浄土』と聞けば、どう言う想いが沸き上がるのでしょうか。

地獄・極楽の極楽の事を浄土だと思われる方、死んでから行くところと思われる方、架空の世界と思われ一笑に附す方、色々だろうと思います。

前述の老婦人のように、別世界として実在するかのように思われる方もいるのかも知れませんが、私達が勉強した科学的知識から致しますと、実在するとは到底考えられません。しかし、完全に否定も出来ないような気もするのです。それは人間の知識の浅さを知っている者にとりましては、完全否定はし難いものであります。従いまして、お釈迦様も、あの世の存在とか、自分に前の世があったかどうかに関しましては、『無記(むき)』と言われました。現代的表現では、『ノーコメント』と言うものでしょう。

しかし、親鸞聖人はじめ、私が存じ上げ、尊敬申し上げる浄土門系の先生方は、浄土が実在するとか虚構のものであるとかの観点ではなく、『お浄土は私が帰る命の故郷であり、今現にお浄土が目の前に開けている』と言うような想いを持たれているように感じます。死んでからの世界ではなしに、既に今、この世にお浄土の風光が感じられると言うものであるように思われます。心の中には浄土が実在するかのような趣きであります。

私は昭和20年の生まれです、私が経験した教育のあり方は、科学的真実を大切にして為されて来たように思います。私達人間を超えるものの存在、即ち宗教心と言うものは、むしろ排除して教育されたように思います。ある人は、科学万能の教育と言われており、危惧されています。

私は幸か不幸か、物心付いた時には、毎朝夕、母親と家族全員でお仏壇の前に座り、お経をあげておりましたから、学校で受ける科学絶対の教育と宗教を基本とする家庭教育を同時に受けて育ちました。

ですから、今もそうですが、信心と言うもの(阿弥陀仏の誓願を信じてお念佛を称える)に憧れる一方で、信心と言うものを、科学的と言いますか理論的に解き明かした上で、自分のものにしようと言う想いがあります。勿論、信仰心は、頭の中で理解する事とは異次元のものである事は分っておりますが、私と同年代、それ以降の年代、そして現在の子供達も含めまして、科学的思考を埋め込まれた者にも受け容れられるように、親鸞聖人のお教えを解き明かしたいと言う野望を持っているのです。

ですから、私は安易にお念佛を称える事が出来ません(勿論、仏前では称えていますが)。従いまして、お浄土に関しましても、未だ説明する事が出来ません。お浄土を憶念するのと、お念佛を称えるのは、恐らく私にとりましては、同時に生じる事ではないかと考えたりしています。

お念佛は、如来(真実世界)から賜りたるものですから、粗末に扱う訳には参りません。法然上人、親鸞聖人と同じ信心を得て、お念佛を申したいと思います故に、私には、もう少し時間が必要だと思います。

浄土真宗では『ただ念佛して』、曹洞宗では『只管打坐【しかんたざ】』(ただ座禅をする)と言う事を申します。何れも、何も考えずに、ただお念佛すべし、ただ座るべしと言う事であります。何も考えずにと言いましても、そんな事は出来ません、妄想・妄念が去来する訳ですから、それが自己を見詰めるスタートになると言う事では無いかと思います。

今思えば、私の母は無意識の中に『なまんだぁー、なまんだぶつ』と称えていました。慙愧 (ざんき)と御恩報謝(ごおんほうしゃ)の入り混じったお念佛だったと、今思います。母の父親、即ち私の祖父も常念仏の人だったそうです。私がその域に達するには、まだまだ研鑚が要りますが、何故か、何れはそう言う瞬間が来ると言う確信めいたものがあります。

アインシュタインと言う既に亡くなられた世界的物理学者が『科学の無い宗教は盲目であるれども、また、宗教の無い科学は不具(かたわ)である』と言い遺されているそうです。
科学の無い宗教と言うのは、どう言う事でしょうか?私は、宗教が科学的に説明出来る事を求められているのではなく、万人が等しく真実であると認められる宗教と言う事だと思います。私は世界の宗教の中では仏教だけが、そう言う可能性を持っていると考えています。お釈迦様は架空の事には一切触れられず、宇宙の真理を説かれているからです。

親鸞聖人も、自己を徹底的に見詰められ、人間の心の真実を明らかにされましたが、阿弥陀仏であるとか本願とかお浄土と言う事になりますと、現代の教育を受けたものには、若干抵抗感がある事は否めません。私は、浄土真宗がそう言う世界的な宗教として多くの人々に受け容れられる時が来るように、私自身が、お浄土を確信し、お念佛を称えられるようになり、21世紀に通用する説明が出来るように励んで行きたいと考えております。


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