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No.420  2004.09.06

蓮如上人御一代記聞書讃解ー第129条ー

『れんにょしょうにん ごいちだいき ききがき さんかい』と読みます。

表題―灯台もと暗し

まえがき.
蓮如上人御一代記聞書は1580年頃までに蓮如上人の子息や側近によって著された書物から抜粋され、江戸時代に刊行普及されたものですが、今日の表題でもあります『灯台もと暗し』と言う諺が江戸時代に入る前には既にあったことを知り、その頃既に灯台があったのかと驚かされました。船の航行を助ける灯台は、日本では遣唐使の時代に出来たと言う記録もあり、聞書に書かれた『灯台もと暗し』の灯台もいわゆる灯台かも知れませんが、しかし一方、『灯台もと暗し』に使われている灯台は『灯明台』のことを言い、部屋で使う灯かりのことだと言う見解もあるようです。実際はどちらが正しいか分かりませんが、いずれにしましても、この諺は「近くて却って見えないことがある」と言う意味であることに相違ありません。

今日の聞書では、仏法に馴れ親しめる環境にあるから、そこに仏法がある、信心があると言うことではないという意味で、『灯台もと暗し』が引用されています。お寺だから其処に仏法があるとは言えず、単にお葬式と法事のお経読みのお坊さんが住み、月極め有料駐車場があるだけかも知れませんし、仏法を説きながら、その人の生活に仏法が生きているとは言えないという厳しい見方であり、私自身大いに自誡させられました。

仏法は、飽くまでも、自分自身が人生の意味を悟り、煩悩・苦悩から解放される自由を得た確信(信心)を実感出来る事が目標の一つであると思います。そしてそれを求める心の強さが大切であって、お経をそらんじたり、人前で念仏を唱えることが目的ではありません。定期的に法座に通う、お寺にお参りする、法座の講師を務める事と信心を獲得(ぎゃくとく)することとは、直接的には関係しないという事です。どれだけ仏法を求める心が強いか、それが問題だという問題提起が、『灯台もと暗し』と言う諺の引用になったのだと思います。

●聞書本文
遠きは近き道理、近きは遠き道理有り。灯台もと暗しとて、仏法を不断聴聞する身は、御用を厚くかうぶりて「いつものこと」と思ひ法義におろそかなり。遠く候ふ人は仏法を聞きたく大切に求むる心ありけり。仏法は大切に求むるより聞くものなり。

●現代意訳
「遠きは近き」と言う道理、「近きは遠し」と言う道理がある。「灯台もと暗し」と言う諺もあるが、仏法の話を何時でも聞ける環境にあると、人間と言うものは、日常生活の多忙さを理由にして、法話は「何時もある事」として、どうしても聞きたいと言う気持ちにはならないものだ。それに引き換え、法話会が開かれる場所が遠かったりして簡単に仏法を聞ける環境に無い人は、逆に法話を聞きたいと言う気持ちが強いものである。仏法は何と言っても真剣に求める心があって始めて聞きたくなるものである。

●井上善右衛門先生の讃解
「灯台もと暗し」とは、まことに厳しく反省せしめられる諺であります。灯台の近くは却って暗い。法の場に近くいると、その法の光を自らさえぎるような陰を自分でつくり出す.「いつものことと思い法義におろそかなり」まことに然りであります。日常生活においても、いつでも出来ると思うことが最も出来にくい結果になるのと同じ道理です。「出来るときに出来る事を片付ける」これ程当然にして自然なことが、容易に出来ないのが人間です。さらにまた馴れ親しむことが反対に粗略になる。粗略になるとは大切なものを失うてゆくことです。

神にも仏にも馴れては手ですべき事を足にてするぞ、と仰せられ候
如来・聖人・善知識にも馴れ申すほど御心安く思ふなり。馴れ申すほど、いよいよ渇仰の心を深く運ぶべきこと尤もなる由仰せられ候
と蓮如上人は語っておられます。馴れるほどに弛緩(しかん、緊張感を失うこと)するのと馴れるほどに渇仰(かつごう、人の徳を仰ぎ慕うこと)を深めるのとは、その心の原点に問題の所在があるといわねばなりません。人間はわが心の気分にたよっていては結局流されるより外ないのでは有りますまいか。

また灯台の譬えについて「灯台は人を照らして己れを照らさず」という言葉もあります。これは家庭でも深く経験されることですが、法を語って自らは法の光に欲していない。何たる矛盾でしょうか。しかもこうした矛盾が人間にはつき纏(まと)うものです。灯台はまだしも光を放ちますが、法の光は自ら光に浴していない人からは、決して他に放たれるものではありません。自誡なきを得ましょうか。

さて、「仏法は大切に求むるより聞くものなり」と言う結びの句でありますが、大切に求めるとは、何ものにも先んじまさる重要な事柄と気付くことであり、それが同時に捨てておくことの出来ない問題解決の願いとなることであります。それがためには先ず自己自身が切実な問題を持つことでありましょう。たとえば何ものにもとらわれず何ものにも恐れぬ自己でありたいと願うこともその一つです。各自のもつ問題はそれぞれ異なるでありましょうが、帰するところは自己と人生の究極的解決であり、それは煩悩と生死から自からが解放されることでありましょう。救われたいということは自縄自縛(じじょうじばく)のわが身から脱したいという願いに外なりません。この願いを果たすためには真実そのものの働きに値遇(ちぐう)して、その真実の中に摂取される身となることです。しかもわが命は明日をも期し難いのであります。善導大師が『往生礼讃』の無常偈に、
煩悩深くして底なし、生死の海は無辺なり。苦を度するの船未だ立たず、云何か睡眠を楽しまんや。
と述べておられる心事を思わざるを得ません。聞法は、努力精進というよりも、むしろ求めずにはおられない切なる心根を先きとすべきです。であればこそ『和讃』には、
たとひ大千世界に みてらん火をもすぎゆきて 仏の御名をきくひとは ながく不退にかなふなり
と誦しておられます。この切なる心が一度び目覚め来るならば、順縁はいよいよかたく、逆縁もまたかけがえのない妙縁と転じてその人の上に道を開くでありましょう。それを「求めるより聞くものなり」といわれたのであります。

●あとがき
井上先生が讃解文の中で、次のように語っておられます。
「法を語って自らは法の光に欲していない。何たる矛盾でしょうか。しかもこうした矛盾が人間にはつき纏(まと)うものです。灯台はまだしも光を放ちますが、法の光は自ら光に浴していない人からは、決して他に放たれるものではありません。自誡なきを得ましょうか」
これは誰かを非難されているのではなく、ご自身を誡めておられる事は申すまでもございませんが、法を語ることが何時しか金銭を得る行為に堕落してしまったり、或いは名誉欲を満足させる対象となったりするのが人間には有りがちな迷妄です。

井上先生は、母が主宰していた仏教講演会(垂水見真会)に年に数回はご出講して頂いており、ご講演に対する謝礼をお受け取りになってはおられましたが、毎年の年末に謝礼の殆どを講演会に寄付されていました。自誡を言葉だけではなく身をもってお示しになられている事を私に伝え教えてくれる母の尊敬に満ちた顔と共に思い出します。

仏法がその人の身体に光り輝き、回りの人を照らすと言う事実を井上先生に感じることが出来たことは、仏法が夢物語ではないと言う確信を抱かせて戴いたのだと、今、改めて思う次第です。

仏法を求めて、聴聞を重ねますと、自分の煩悩がよく見えるようになる時が来ます。自己の煩悩はよく見えますが、煩悩が湧き上がる事自体を抑えることは出来ませんから、仏法を聞く前よりも苦悩が増えた、大きくなったと言う感じがすることも確かであります。そしてこの期間は相当長く続くものだと思います。私自身がその真っ只中にありますからこれは間違いないと思います。そしてこのもやもやとした期間を乗り越えるには、今日の聞書に述べられている、法を求める強い心、言い換えますと、煩悩に苦しむ自縄自縛状態からの解放を求める強い心(願い)を失わないことだと思います。その為には、生きた見本となる善き先師・先輩に出遇うことでしかないように思われます。更にその為には、結局は、数多くいらっしゃるご講師のご法話や先師のご著書を通して真実の法を学び続けることではないかと思います。

仏法を求める機縁は、殆どの場合、逆縁(不幸な出来事、苦難・困難、逆境)に遭遇したときではないでしょうか。幸せ一杯の人生、順縁のみの人生があると致しましたら、その人は仏法を必要としないと思います。しかし、そのような人は古今東西、誰一人もいないと言ってよいでしょう。最も幸せそうに見える皇太子と言う立場を捨てて、真の自由、苦からの解放を求められたのが、お釈迦様です。逆縁を自己の心の問題として、生き方を見直そう、本当の自由、幸せの青い鳥を捕まえたいという切実な願いを持ち得るかどうかが、仏法を求めるか否かの大きな分岐点だと思います。

私の場合も、仏法を真剣に求めて勉強しながら、その内容をこのコラムとして書き続けて丸4年を過ぎましたが、逆に経済的逆境が丸4年続いているということでもあります。この経済的逆境から脱出したいと言う願いも極めて切実でありますが、このような逆境を逆境と感じない、心の自由を求める気持ちの方がより切実だからであると自己分析しております。

ごく最近、ある著名な経済学者が女子高生に対するワイセツ行為で現行犯逮捕されましたが、誤認逮捕だと法廷で争う決意を記者会見で述べられていました。私は、テレビ番組で活躍するその経済アナリストでもある教授のファンでありましたから、誤認逮捕であることを切に望む一方、その方が真実の自己と向き合う"一生に一度の機会"を逃そうとしているのではいないかと懸念もしております。逆境を逆境として受け止め、自己の生き方を真実の法に照らされて見なおさない限り、生きながらにして地獄に住むと言う流転輪廻を繰り返すしかないのではないかと、我が身にも引き換えて、重苦しく心に引っかかっています。


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No.419  2004.09.02

貴方は悪い人?―A

前回のコラムで、親鸞聖人のお言葉として『邪見驕慢悪衆生(じゃけんきょうまんあくしゅじょう)』を紹介いたしましたが、邪見と驕慢とはどういうことかをはっきりさせておきたいと思います。

さて先ずは邪見について。邪見は、他人を邪険に扱うと言うジャケンではないことは申すまでもありません。邪見は、『邪(よこし)まな見解』をひとつの単語としたもので、間違った見解とか正しくない考え方を言い表します。それでは間違った考え方とは何をもって言うかと申しますと、仏教の根本的な真理である『縁起の道理』を無視した考え方を邪見と言います。広辞苑にも、「因果の道理を無視する妄見」と有ります。

縁起の道理に付きましては、再三再四これまでも説明して参りましたが、地球も含めて宇宙で起こる現象・出来事も、宇宙に存在するあらゆる物質や生物は、必ず何かの原因があって生じた結果のものであると言う真理を『縁起の道理』と言います。因果の道理と言ってもよいのですが、因がそのまま果を生じる事は極めて稀であって、詳しく言い換えますと「因に様々な縁が働いて果が生ずる」と言う考え方であります。そして、因も又、突然現れたものではなく、何らかの因に縁が働いての果であったはずであります。そうしますと、全ては因と縁と果の連鎖であることになり、要するに全ては「縁によって起こる」と言う事から『縁起の道理』と言っているのだと思います。

この『縁起の道理』は、私の外界に起こる事象を観察する限り、容易に受け容れられるものです。花は、種と言う因に土・水・太陽と言う縁(環境条件)の働きによって成長し綺麗な花を咲かせます。人間社会の現実現象に眼を移しても、イラクの現状も、見方は色々とあるにしましても、ある原因に様々な縁が働いた結果であると説明し得るでしょう。全ての縁を列挙することは出来ないに致しましても、縁によって起こったものであると説明されれば、納得せざるを得ません。

しかし、ひとたび、自分の事になりますと、縁によって起こった事であるから現状を素直に受け容れようとか、縁に依って起こるものであるから後の結果はお任せしようと言う具合には達観出来ません。過去と現在に対しては愚痴が出て来ますし、将来については要らぬ取り越し苦労も致します。人間誰しも自分は正しい考え方をしていると思っているのですが、殆どの場合、突き詰めれば、縁起の道理を無視した邪見であることが分かります。

さて次に驕慢(きょうまん)について考えて見ましょう。驕慢を広辞苑で調べますと「おごって人をあなどること」とあります。反対語は「謙虚」ではないでしょうか。世間でよく、直ぐに講釈を垂れると言われる人が居ます。何でも自分が一番知っていると思い込んで、人の発言を無視したり、長々としゃべったりする人は驕慢の見本みたいなものですが、実は自分の意志と努力によって現在の生活が成り立っていると思っている人も驕慢であると反省しなければなりません。

厳しい見方をしますと、物事を人様にお教えするとか教育するとか、或いはこのコラムを書くとか著書を出版するというのは、驕慢の精紳が宿っていると言えるかも知れません。ご批判を仰ぐと言う気持ちを忘れてはならないと思います。

考えてみますと、縁起の道理を無視している事自体、驕慢であるといわねばなりませんから、邪見も驕慢の為せるところと言えるかも知れません。

親鸞聖人が「名利に人師を好むなり」と自己を見詰めておられますが、人師と言うのは、人を教える立場を指し、私は直ぐに教えたがるのだと、名誉心と共に驕慢心をも慙愧されているお言葉だと思います。

邪見驕慢の悪衆生は、誰のことでもない、自分の事なのだと思わざるを得ません。

邪見も驕慢も、貪欲も瞋恚も愚痴も私達凡夫が例外無く持っている煩悩であります。そしてこれらの煩悩は全て、我執或いは自己愛と言う源泉から沸き出ているものであります。仏法を聞き進み、人生における苦難に幾度か遭遇し、苦悩を経験致しますと、この苦悩は、自分の我執から出て来ているな、とは自覚出来る様になります。自分が凡夫であることを自覚したように思えます。しかし、煩悩の源泉であり、苦悩の源泉でもある我執を取り払うことはどうしても出来ませんから、依然として苦から解放されることにはなりません。いくら仏法の話を聞きましても、堂々めぐりしているような、釈然としない気持ちをどうする事も出来ません。南無阿弥陀仏を称えてみても、所詮は我執を抱え、我執が称えている南無阿弥陀仏であり、安らかな気持ちにはなれません。

浄土真宗の信心、安心(あんじん)を求めている人は、一様に、上述の心境を経験するものと思います。私自身の現在が正にこの段階にあります。自分の心に湧き上がる煩悩を第三者的に見詰めることが出来、自分が悪人であることを自覚出来ているように思っています。我執が問題であることも理解しています。そして、肉体がある限りは、我執はとても取り払えるものではないのではないかと諦めの心境にもなることがあります。

しかし、白井成允先生、井上善右衛門先生も、西川玄苔先生も、青山俊董尼も、この壁を乗り超えられていることは間違いありません。私が現在、自分の我執、煩悩を自覚出来ていると思っているのは、我執の自己が頭で知覚している幻想の煩悩であって、仏法で言う本当の自覚ではないのだと思います。

昔、渓間秀典師(浄土真宗住職、元阪急ブレーブス球団社長)が、棒高跳びの競技に喩えられ、バーを飛び越えるには、棒が必要であるが、最後は棒を手放さないとバーを越えられない、棒は信心の壁を越えようとする際に手放さねばならない我執ではないかと思うと言われていましたが、渓間秀典師も壁を乗り越えるには随分と苦労されたのだと思われます。

恐らく我執は無くならないのだと思いますが、白井先生、井上先生、西川先生、青山先生と言う先輩がおられますから、我執を持ったまま、棒高跳びに喩えれば、棒を抱えたまま、バーを飛び越える方法があるのではないかと思います。この極意は、理論・理屈では捕まえられない、言葉で教えて貰えるものではないのだろうと思います。

私が自分の事を本当に悪人だと思える時は、私が心の底から南無阿弥陀仏と称えられる時でもあり、信心が得られた時だと思います。そしてそれはもう其処まで来ているようにも思えますが、ここからがなかなか険しい道が続いているのだと思います。明朝からアップする、井上先生の法話、『凡夫の自覚』も一つの手掛かりとしたいと思います。


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No.418  2004.08.30

蓮如上人御一代記聞書讃解ー第126条ー

『れんにょしょうにん ごいちだいき ききがき さんかい』と読みます。

表題―陰にても我が悪きこと言えかし

まえがき.
陰口という言葉は、人間の心を暗くします。何故かと考えますと、人間関係で悩む全ての人は陰口と言う人間の習性に自らが懊悩しているからではないかと思います。「私は陰口や悪口を一回も言った事は無いし、言おうと思ったことも無い」と断言出来る人は誰もいないでしょうし、また、「私は陰口悪口を言われるはずが無い」と言える人もいないと思います。

陰口は、面と向かって言うと相手との関係が確実に悪化することを知っているからこそ、陰口になります。そして、大抵の場合は、陰口は陰口で終わって相手には伝わりません。相手には伝わりませんから、相手の言動や考え方が改善される事はなく、ますます陰口はエスカレートすると言う厄介なものです。そして、もし自分の陰口を伝え聞くことがあれば、100%怒り狂うと言うのが私の現実の姿だと思います。それは、陰口には真実が含まれているからだと思います。根拠の無い批判・非難なら一笑に付すものだと思いますが、聞き捨てならぬと言うのは、陰口には真実があるからではないでしょうか。

今日の聞書は、その陰口悪口を伝え聞いてでも自分の悪い点を知って改めて行きたくなると言うのが浄土真宗の信心を得た人の姿勢であると示すものだと思いますが、私にはとてもそのような心境になれそうにありません。しかし、そのような素直な気持ち、謙虚な気持ちになれなければ、この人生は無碍の一道(苦難や障害の全く無い人生)にはならないだろうとも思います。

そしてよくよく考えれば、実はその無碍の一道を求めて仏法を聞いているはずなのです。

●聞書本文
順誓申されしと云々、常には我が前にては言わずして後言いふとて腹立することなり。我はさようには存ぜず候。我が前にて申しにくくば、陰にてなりとも我が悪き事を申されよ、聞きて心中を直すべき由申され候。

●現代意訳
法敬坊順誓こう言われていたと聞いています。「一般的には直接自分の前では言わずに陰で悪口を言ったと言うことで腹を立ててしまうのであるが、私はそうは思わない。自分の前で言い難いようであったら、陰でもよい、私の間違っている点や気付かぬ至らぬ点があったら言って欲しい、間接にでも聞いて改めてゆきたい」と言われたということです。

●井上善右衛門先生の讃解
さてこの一条の生命は何処にありましょうか。それは念仏の信が人をして脱皮せしめるところにあると思います。我執を核として成立しているのが人間の精神構造であります。そしてその上に常人の感情が動きます。だからその感情には通俗的な普遍性があり、それによってその感情の動きが当然のもの、当たり前のこととされます。そうした集積が常識をも形成するにいたるのです。その常識的な想いからすると、陰口に怒る感情を自然なものとして認めるのですが、実は当然なものではなく、その感情の底に気付かぬ執我の性が潜んでいるのであります。

無意識のうちに包蔵している我執は、人間の活動の原動力ともなるのですが、そこに狂うた業の流れを造り出していきます。その業のなかで人間はいろいろな矛盾や苦悩を喫しているのです。自分に間違ったことがあっても陰口を言われると、その陰口に怒りの感情が爆発するが、自分の間違いに対しては感情は黙して素通りするのです。怒りを受けた相手はそれで心がおさまるかと言えば、おさまらない。鉾先を変えてその人をなじるでしょう。かくて悪循環に悩むのです。

執自の心の中に脱自の光がさしそうと、そこに不思議な転換がきざします。順誓が「我はさやうには存せず候」といっているのがそれです。それは最早や理屈の域を超えています。信心の感情が本能の感情を洗うのです。それは信の精神次元の深さによるものといわざるをえません。浅い感情は深い感情に座を譲らざるをえないのです。我性の感情は信心の感情に克つことはできません。その時、本当の意味で人格感情の変革が現れるのです。

この一条を繰り返して拝読していると、何ともいえない清々しい気分になるとともに、広大無辺なひろびろとした世界に遊ぶ感じがします。それは無我真実の息吹きに触れるからでありましょう。執我の世界から解放されてみると、実は世界は広くして自由であります。その自由な世界を不自由にしていたのはこの自分であったと気付かれます。これが法の徳というものであり信の益というものであります。陰口をいわれてそれをよろこんできく心が開けるという事は、その人の前にあった障碍(しょうげ)がなくなるという事でしょう。それは即ち無碍道(むげどう)が現れるということであります。

では陰口とは反対に、面と向かって責める人に対してはどうでしょう。世に憤慨居士といわれるような人は案外清廉な人が多いようですが、その気難しさには迷惑せざるをえません。家庭にあってもそのような人があります。そうした人に何かが欠けていることは確かですが、それを言辞で正すことはおそらく不可能です。非難された人が自分を弁解すると、いよいよ相手の心を掻き立てるものです。やたらに非難する人に対しては、ただ受け流すということになるのが普通ですが、それがまた非難するその人のカンにさわる。

余りひつこく非難すると、ちと自分の事を思えと言いたくなりますが、しかし考えてみると、非難されるのはこちらにも何かがあるからでありましょう。それをさしおいて向こうの一方性をこちらが責めることになると、結局は責め合いという同じ態度の鉢合わせになり、いつまでいっても果てしのない事になります。たとえ向こうが一方的であっても、素直にその言い分をきき改めるならば自己自身の大いなる得分です。先ず真剣に自らを直すという素直さの真実がただ一つ相手の心をうつ力となると信じます。それより外にこうしたもつれを解く道はありますまい。

陰口も、面と向かっての非難も、執我より解放されゆく人には障碍とはなりえません。ただ自己向上の一路のよろこびに勇みを覚えます。真理の働きは有難くも尊いものです。その真実をこの身に全うさせて下さるのが念仏であります。それを思えば恵まれた宝を輝きあらしめずにはおられません。

●あとがき
陰口を言うのも、陰口を叩かれるのも、私の心が我執(自己愛)によって主導されているからだと思います。そして自分への陰口が自己の我執を厳しく暴くものであるからこそ腹が立ってしまうのだと思われます。

陰口でもよいから、自分の至らぬ点、人に不愉快な気持ちを抱かせている私の煩悩を教えて欲しいと言う謙虚な気持ちになれるのは、井上先生の「それは最早や理屈の域を超えています。信心の感情が本能の感情を洗うのです。それは信の精神次元の深さによるものといわざるをえません。浅い感情は深い感情に座を譲らざるをえないのです。我性の感情は信心の感情に克つことはできません。その時、本当の意味で人格感情の変革が現れるのです」というお言葉に尽きるものと思います。

煩悩も我執も信心によって消え失せるものではないと思います。信心とは、これまで自分では気付くことが出来なかった自分の煩悩と我執の実態を直視しようと言う心の大転換だと思います。それが無碍の一道の第1歩なのだと思います。その第1歩を踏み出すには、仏法の真理の言葉を聞き続けると共に、無碍の一道を歩む先輩の善き師にお出遇いするより外はないと思われます。


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No.417  2004.08.26

貴方は悪い人?―@

貴方は悪い人?それとも善い人?と聞かれたら、貴方はどう答えますか?おそらく殆どの人は、「悪いところも分かっているが、全てが悪い訳ではない、善いところもあると思っている」と答えられるでしょう。これは世間一般の表面的な倫理・道徳上の善悪について言えることであって、仏教的には、もう少し深い洞察が必要であります。

親鸞聖人は、ご自分の事を罪悪深重(ざいあくじんじゅう)の衆生とか、極重の悪人とか、はたまた、邪見驕慢悪衆生(じゃけんきょうまんあくしゅじょう)と言ったり、煩悩具足の凡夫と言われたりしています。そう言うところから、浄土真宗の教えは、自分を卑下しなければならないのか、前向きではない、後ろ向きの教えであると捉えられているようであります。

一般にもよく知られている歎異抄の第3条の「善人なを持て往生をとぐ、いはんや悪人をや」は悪人こそが仏様が救いたい正客だと宣言しておりますから、浄土真宗は悪人でなければ救われないと言う教えなのかと言う質問がちょくちょくございますが、前の文節の親鸞聖人の表現からして、そう言う質問が出て来るのは無理からぬことだと思います。

私も極最近まで、浄土真宗の教えはどうも暗くていかんと言う想いを抱いておりました。自己を責め続けると言うのが本当に救いになるのかと言う疑問も持っていたことは確かであります。 しかし、今は、親鸞聖人の教えは、やはり、自分が"どうしようもない、救いがたい悪人"であることを自覚出来て始めて救われると言うものだと確信しています。

しかし、親鸞聖人の教えは、仏様の前で自分の行いについて懺悔しなさい、懺悔すれば仏様が許してくれますと言うものではありません。むしろ、仏様の方が、『苦悩にもがいている私をなかなか掬い取れないこと』を懺悔されていると言ってもよいでしょう。それは、我々この世の衆生を苦から救うと言うのが、仏様の本願だからです。

仏様の本願と言ったり、他力本願と言いますと、一般の方々には抵抗があると思いますので表現を変えますと、仏様とは『地球上に生命を育み、30億年をかけて人間に進化させた宇宙に遍満している働き』のことを擬人化したものです。そして、本願と言うのは、私達を必ず幸せにすると言う宇宙の力が働いている方向のことです。人類の現状は、戦争とかテロの最中にあり、幸せには程遠いですが、しかし、一人一人は幸せを願っていることは間違いありません。人類が幸せに向って走り続けていることも間違いありません。

親鸞聖人は、邪見、驕慢、そして煩悩具足の凡夫だからご自分を極重の悪人と言われておりますが、この言葉は懺悔の言葉ではなく、この親鸞一人をなかなか救うことが出来なかった仏様の懺悔に気付かしめられた驚きの、そして悦びの心を表したものだと思います。それは丁度、親の深い愛情を本当に知るのは、自分の親不孝振りに気付いたときであることに似ていると思います。

私達は、自分のことをなかなか極重の悪人とは思えませんから、本当のところ仏様の願いも分かりませんし救われたいとも思えないのであります。煩悩に苦しみながらも煩悩に駆り立てられ、煩悩が生き甲斐にさえなっているというのが現状であります。

親は、親不孝な子供ほど不憫で、気にかかって、片時も忘れることが出来ません。はやく目覚めて、真っ当な人生を歩んで欲しいと思うのが親心であると思います。仏様も同じ片思いをされていると言うのが、親鸞聖人が一生をかけて気付かれたところです。そしてその仏様の片思いを他力と言ったり、他力本願と言ったりしています。

本当のところの悪い人とは、自分の悪に気付かずに、周りに迷惑をかけ、仏様の片思いを無視している私の事なのです。


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No.416  2004.08.23

蓮如上人御一代記聞書讃解ー第121条ー

『れんにょしょうにん ごいちだいき ききがき さんかい』と読みます。

表題― 一宗の繁昌とは

まえがき
今日の聞書の言葉は私が若いときからよく聞いて参りました。私はその言葉を、若い人達が寄り付かなくなった浄土真宗が、創価学会の繁昌振りを横目に見ながらの負け惜しみのように感じていました。
今もなお、浄土真宗の法話会には、なかなか若い人達の参加は少ないのではないかと思いますが、私も最近では、別に若い人達が集まることが良いとも思わなくなりましたし、多くの人々が集まることがそのまま宗派・教団の興隆でもないと思うようになりました。

宗教心は若い人々にも持って貰いたいとは思いますが、人生の本当の苦しみ、深い悩みに遭遇するのは殆どの人は中高年、老年になってからだと思います。特に仏教は、お釈迦様の説かれている通り、「人生は苦なり」と言うところが出発点であります。苦悩を抱き、それからの解放を求める人々が救われる道を示すのが仏教の役割ですから、華やかで賑やかな集まりは、むしろ目的にそぐわないと思うようになりました。

ただ今日のお言葉を吐かれた蓮如上人の立場は、むしろ逆で、当時の一向一揆も含めて、浄土真宗教団の勢いが盛んになり、他宗からの非難、権力側からの圧力がある中で、自分の想いと異なる方向に走り出している浄土真宗のあり方を憂いてのものであったろうと思います。

私達は得てして多くの人々が集まってくれることを目的としてしまいがちですが、仏教に関しては、本当の教えを一人だけでも相続してくれる人がいれば、目的を達していると考えてもよいと思います。

●聞書本文
一宗の繁昌と申すは人の多く集まりて威の大いなる事にてはなく候。一人なりとも人の信を取るが一宗の繁昌に候。然れば「専修正行の繁昌は遺弟の念力より成ず」と遊されおかれ候。

●現代意訳
世の中の繁昌とは異なって、宗教が繁昌するというのは、決して人々が多く集まるとか、勢いがあると言うことを言うのではない。真実の信心を得る人がただ一人でも良い、それこそ宗教が繁昌していると言ってよかろう。だから、覚如上人が『報恩講式』の中で「お念仏を専修正行とするこの浄土の真宗が繁昌するとは、親鸞上人をお慕いする私達がどれだけ真実の信心を求めているかと言うことに掛かっている」と言われている訳である。

●井上善右衛門先生の讃解
宗門の繁昌と世事の繁昌とは本質的に異なるものであります。生命の背負う究極問題の解決、そしてそこに新しく息吹き出る信心の生命力、その新しい生命力に結集されてゆく人々の活動、そこに真実の宗教の興隆があります。これに対して世事の繁昌とは、人間的欲望と経済的繁栄とが交互に作用しつつ活発化することでありましょう。

ところが、この本質を異にする二つの活動が、いつの間にか掏替(すりか)えられるという傾向と危険が常に存在しているのです。端的に言いますと、心的生命の問題が物的欲求の領域に転落してゆこうとするのです。さらに具体的にいえば、宗門が一個の経済単位として利害権勢の組織と化してゆくのであります。そうなればもはや真実の宗教教団としての存在価値を失うことは改めていうまでもありません。宗教の脱け殻となった教団、それは実にこの世に多い出来事であります。

もとより教団という現実の組織体が出来上がると、本来宗教にとって固有のものではない宗政というものが必要になります。それによって教団の社会における活動の統一性が保持されるのでありますが、しかし教団は同時に確乎たる内面的統一体でなければなりません。その内面的統一の基盤をなすものは信心の外にはないのです。その生命たる内なる信が軽視され空洞化することは、まさに教団の致命的問題であります。しかもそれが常に忘れられようとするのです。そしていつの間にか経済優先の因習が根を張ってゆきます。

こうした頽廃状態が教団に生じることは、決して今に始まった事ではありません。おおよそ人間存在そのものの底に、名利や権力の奴隷となる深い傾向性が潜んでいるのです。それは教団側のみのことではなくわれわれ門信徒一人一人の問題です。門徒の意識の総和こそが教団を動かす力であることに間違いはありません。生命の最も大切な根本問題の解決を忘れて名や財におぼれてゆく迷執、そこに悲心やる方ない如来の本願の喚び声に育てられ養われ、如来の願心に目覚める人こそ、教団の至宝というべきです。

●あとがき
この無相庵ホームページも4年が過ぎ、当初の1週間当たりのアクセス件数20件が、今では300件前後に伸びております。それはそれで嬉しく思っていますが、アクセス件数もさることながら、このホームページの内容がヒントになって苦悩から立ち上がり、仏教を人生の杖にして生きてゆかれる人がどれだけおられるかがより重要なことだと思います。
このホームページによって一人でもそのような方が誕生されれば、それがホームページの繁昌と思うべきだと自誡しつつ、これからも続けて参りたいと思っております。


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No.415  2004.08.19

銀・銀・金・金と金・金・金

2000年9月18日のコラム11号に『銀・銀・金と金・金』と言うコラムがあります。柔ちゃんと野村選手がシドニーオリンピックで揃って金メダルを獲得した事について感想を書きました(9月16日金メダル獲得でした)。あれから4年、そのお二人が今度も揃っての金メダル、一人の連覇さえ希有な事でありますから、お二人揃っての連覇は奇跡以外の何ものでもないと申しても良いでしょう。

ただ、この奇跡は、金メダルの連続獲得と言う結果に対する表現にとどまらせる訳にはいかないと思います。むしろ、金メダルに至るまでの心身両面にわたって8年、12年と続けられた壮絶な努力に対して奇跡と言う言葉を使わねばならないと思います。そして、金メダル獲得は、その結果として、奇跡ではなく必然であったと言い直す必要があると思います。

柔ちゃんが、オリンピック直前にテレビ出演されたとき、「勝つ事も大変だと知っているけれど、勝ち続けることの大変さと重要性を知っている」とコメントをされた言葉が非常に印象深く残っています。私の乏しい勝負の世界で生きて来た経験では勝負は時の運≠ナす。恐らく多くの人々もそう思っていると思います。しかし、柔ちゃんは、勝負を時の運として片付けられなかったのだと思います。

勝ち続ける為の技術と体力、精神面の鍛錬を人から見えないところでも続けられたに違いありません。「勝負は時の運で片付けたく無い」と思える心こそ奇跡と言えるかも知れません。今回の快挙を報じる新聞に柔ちゃんが1日3千回の腕立て伏せをしていたと言う記事がありました。一瞬、単位を間違っているのではないか、1ヶ月3000回か、1日300回の間違いではないかと思った位の壮絶な鍛錬です。

一方、野村選手はシドニーのオリンピック後一度は引退されていたようです。しかし、勝負の世界から離れた生活は安らかであっても、充実感を味わうことが出来ず、父親を始めとする周りの人々のプッシュもあって、2年前にオリンピック3連覇に向けて始動されたそうです。柔ちゃんも、2年前の2002年4月の国内大会で12年振りに日本選手、それも高校生に負けた時「もうやめたい」と弱音を吐かれたということであります。過程においてはお二人ともに順調な連覇ではなかった訳です。そして、お二人ともに配偶者を得ての連覇でもありました。

今回の柔道の勝負を見られた方は感じられたことと思いますが、勝負は一瞬でどちらに転ぶか分からないルールとなっています。残り時間1秒で逆転と言う勝負が2回ありました。それほどの厳しい勝負で確実に勝つと言う目標を立て、実行されたお二人の努力と実力は、元々他の選手を圧倒するものであったに違いありません。

私は、見方を変えまして、お二人は「勝負は時の運ではない」と言うメッセージを仏様から選ばれ託された方だとも思います。オリンピックに出場する事は努力だけでは無理だと思います。出場するには天与の素質に加えて多大な努力があって始めて適うことだと思いますが、さらに金メダルとなりますと、天与の素質と努力に加えて運もあると思いますので、金メダリストは仏様・神様から選ばれた人達だと思います。
しかし、さらに連続金メダリストは、天与の素質と、誰にも真似の出来ない壮絶な努力でしか得られないものだと思います。そしてこの壮絶な努力も、仏様・神様から与えられたスポーツ種目だったからこそ出来たものではないかと思います。

柔ちゃんがもし水泳選手になっていたら、体力的に考えてもオリンピックにさえ出場出来ていないでしょう。柔ちゃんが柔ちゃんにぴったりのスポーツに出会えたと言うことが今日の結果を招いたと思います。人夫々に天与の素質があると思います。スポーツだけではありません。素質と嗜好が重なった時、他の人々に感動を与えられる仕事が出来ると思います。それは仏様が念じられている事でもあるのではないかと思います。今回のお二人の快挙は、古い言葉ではありますが、多くの人に「為せば成る」と言う強烈なメッセージを送ったものと思いますが、これは仏様のメッセージでもあると思います。『神技(かみわざ)』とは仏様から凡人への励ましのメッセージだと思います。


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No.414  2004.08.16

蓮如上人御一代記聞書讃解ー第118条ー

『れんにょしょうにん ごいちだいき ききがき さんかい』と読みます。

無相庵カレンダーの中のお言葉6つ(4日、7日、12日、17日、19日、27日)を青山俊董尼が好んで揮毫される禅のお言葉に差し替えさせて頂きました。書も、俊董尼によるものです。 なお、解説文の挿絵は私の元勤務先の同僚が工場長と言う忙しい職責の中、小難しい注文(私は絵は全く苦手であるため、イメージ注文を出しました)にも関わらず筆を執ってくれたものです。

表題―土塔会を御覧ありて

まえがき
さて、今日の聞書に出て来る『天王寺土塔会』と言うものが何かが分かりませんと、この118条の意が全て不明になりますので、井上先生のご説明文を下記致しますので、先ずはお読み頂きたいと思います。

天王寺土塔会というのは『摂津名所図絵』に、「土塔の古跡天王寺南門土塔町超願寺にあり、世人土塔御坊と称す」と記されてあるのですから、古い土の塔の跡が天王寺南大門の南にあったのでしょう。伝えるところによると、牛頭天王を祀るといわれ、神宝に悪魔降伏の面があり、毎年四月の土塔会に舞楽が奉せられ、多くの人々がその神事に集って大いに賑うたとの事です。 牛頭天王というのはインド或いは西域より伝わった神であり、それが仏教と融合して本地は薬師如来といわれるようになり、日本に入っては神道と習合して種々の本地が説かれるようになりました。それはともかくとして、いろいろな起原による土俗信仰と結合しその地の習俗儀礼となっている例は非常に多いのであります。

簡単に申しますと、天王寺土塔会というのは商売繁盛のえべっさんや盆踊りの賑わいと言ったものと思えばよいでしょう。

今日の聞書を直訳してしまいますと、「神事に集う人々は地獄行きで、念仏信者は極楽行き」と云う我田引水的なお言葉になり、非常に具合の悪い事になります。ちょうど日蓮上人の「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」と他宗を非難したお立場と同じものになってしまいます。この聞書を記した人物も、或いはそう言う立場にあったのかも知れませんが、親鸞聖人のお考えや教えとは大きく異なるものだと言うことを申し述べておきたいと思います。

蓮如上人が今日の聞書の内容のことを本当に申されたのならば、極めて不用意なお言葉であったと思います。親鸞聖人は、決して他の人々、特に民衆の批判をされることはありませんでした。 親鸞聖人は、常に自己の心の有り様を問題にされていましたし、それが信仰の要点とされていましたから、自己の信心が他への批判に向かうことは決してありませんでした。

蓮如上人のお言葉も、後に続く121条の聞書の内容から考えますと、形式や儀礼、華やかさを求めがちな当時の浄土真宗を信仰する人々に向けた誡めのお言葉ではなかったかと私は考えたいと思います。

一般の方々に誤解があってはいけませんので、敢えて申し上げますと、親鸞聖人はお寺も持たれませんでしたし、仏壇もお持ちになりませんでした。歎異抄に「父母を供養するために念仏を称えたことはない」と言われていますように、法事や葬式などでお経をあげられることも一切無かったとお聞きしています。また、ご自分が亡くなったら、体は鴨川に流し、魚達の餌(えさ)にして欲しいとまで言われておりますから、儀式、儀礼、偶像崇拝とは程遠いお立場であられたと云う事を強調しておきたいと思います。

浄土真宗教団の基礎は蓮如上人が構築されましたが、蓮如上人以後の浄土真宗と言う教団は、蓮如上人が今日の聞書や121条で誡められ案じられた悪い方向に進んでしまった感が致します。 世間で誤用される「他力本願」も、浄土真宗教団内にある誤解・異議がその発端であると自戒せねばならないと思います。

●聞書本文
天王寺土塔会、前々住上人御覧候ふて仰せられ候。あれ程の多き人ども地獄へおつべしと不便に思召し候ふ由仰せられ候。また其の中に御門徒の人は仏になるべしと仰せられ候。是れまたありがたき仰にて候。

●現代意訳
天王寺の土塔会の賑わいを見られて、蓮如上人がおっしゃいました。「沢山の人で賑わっているけれど、あの人々は残念ながら地獄へ落ちることになるだろう」と憐れみを込めておっしゃいました。そしてまた同時に「それにひきかえ、浄土真宗の門徒の人々は仏になるに違いないのだ」ともおっしゃいましたが、有難いお言葉でありました。

●井上善右衛門先生の讃解
宗教という言葉の概念ほど広い内容をもったものはありません。宗教を広義に定義することはまことに困難であります。しかし広義に宗教といわれるものを私は大きく三つに分けてみることが出来ると思います。

その第一は「前宗教的なる情感」、第二は「原始宗教」、第三は「真実の宗教」です。「前宗教的なるもの」とは人間の本能的な原始感情に内在しているいろいろな心的諸要素を指します。これが生活行為の中で自然に発露するとき、未開民族に見られるような奇妙な習俗や行事となって現れます。

人類学者や宗教学者が指摘している原始宗教は、万物に生命が宿ると感じ、そこから精霊や霊魂に祈願するという観念をもつようになります。あるいは特定の事物に不思議な呪術的威力が潜むと感じ、それが恐怖に結びつくとタブー(禁忌、きんき)の観念を生みます。さらに精霊と交わるシャーマニズムとか、呪術性にもとづくフェティシズム(呪術崇拝)とか、さらに転じるとトーテミズム(種族の象徴となる呪物)が現れます。タブーが変化していろいろな「物忌み」の行為を生じるようにもなります。

このような人間独特の生命本能にもとづいて生じる素朴な情感は、われわれにも無関係ではありません。省みると現代人の心の何処かにそれと同じ理屈以上の感情が潜んでいることを省察することが出来ます。しかしそれ等が宗教と称ばれるためには、さらに一つの条件が加わらねばなりません。

それは人間自らの弱小を感じ、不安を意識し、それに対して何等かの超越的な力との関係を感じるということです。原始宗教といわれるものにはこうした意識と前宗教的な諸感情とが微妙に融合して、そこに様々の宗教形態や事象を現出するのです。しかしこうした段階では未だ人間の価値意識の要素は織り込まれておりません。恐怖と不安と利害と原始感情、それが軸になっているのであります。

原始宗教を擬似宗教と名づけることも出来ます。擬似宗教とは一応宗教の形態は備えているものの、未だ純粋な宗教ではなく、似てはいるが本当のものではない状態を言うのです。われわれにとって最も慎重に反省しなければならぬのは、この擬似宗教と真実の宗教の区別であります。われわれは幸いにして仏陀の教えを聞き親鸞聖人の真宗に遇い得たのでありますが、似て非なるものに陥っていることはなかろうか。偽物はいつの世にも横行するものであります。そうした状態では先に述べるような原始感情の幻想がまぎれ込み、それと同時に人間にとって最も執拗な現世の利害打算が知らず識らずわが心を操っているのです。このように人間に固有な感情や利害打算を拠り所とした新興宗教は大いに繁盛します。新興宗教でなくとも巧みに人間の弱点をとらえて神秘性と現世利益を説く宗教が如何に今日も多いかは改めて言うまでもありません。

「真実の宗教」とは人間の背負うている究極の問題を解決して、永遠なる生命の光に値遇(ちぐう)せしめる教えであります。真実に背を向けている生を迷いと言います。その迷いの自己を脱して真正の己れに達する道が仏道であり、ここに真実の宗教があります。人間は有限な存在であり、しかもその有限な自己に固執しますから不安は免れません。その不安と人間特有の原始感情が結び付いて種々な情感を引き起こし、さらに欲望がまつわりつくと、たとえ神聖感や道徳的要素を含んでいても擬似宗教的域を脱し得ないものとなります。

それは人間誰しものもつ傾向ではあっても真実への道ではありません。そうした傾向性から宗教が理性的に否定される事ともなります。しかしそれは理性が「真実の宗教」の何たるかを知らぬからです。理性が人間生命の究極の課題を解決しえないことは、現代の合理主義がその事実を証明しています。理性をもって感情の深みを支配し純化し生命の根本問題を解決することは出来ないのです。感情の底にわだかまる執我の心垢を洗除する力は理性にないのであります。

人間の感情に伏在する迷妄をそのままにしている生命の行く末は、闇の迷路という外ありません。地獄とはその闇のどん底にのたうつ迷妄の渦の世界です。生命を現世だけに釘付けするのは、今見えているものだけを世界と考えることにもとづいているのですが、生命とはそのように底浅いものでありましょうか。三世の生命に目覚めてこそ現世は真実を担いうるものとなるでありましょう。

●あとがき
鈴木大拙師が『禅とは何か』という著書の中で、「宗教というものは大体三つの要素から出来ている。すなわち一は伝統的、二は知的、三は神秘的、この三つに大別すれば宗教というものの本質を言い表しうるのではないかと思う。しかしこれに、もう一つ付け加えておきたい、すなわち儀式ということが、やはり必要でないかと思う。あるいはこれを美的分子といってもいいかも知れない。いろいろ殿堂を荘厳するということもあろうし、また、音楽などもその中にはいってくる。こういうものは宗教の美的方面と見てよい。この儀式がないと、本当の宗教の有難さが生まれてこないように思う」とおっしゃっています。

確かに一人山の中に篭り、座禅をして悟りを開くというのが本当の宗教とも言えないし信仰態度であるとは言えないと思います。やはり人間の宗教ですから、人々との関係を断ち切った状態は悟りとは異質のものだと思われます。社会性を失ったものは既に宗教ではないように思います。社会性ということになりますと、やはり儀式も重要な役割を担うものですから、儀式を完全に否定するべきではありません。

しかし、儀式そのものが目的になってしまうことは本末転倒であります。私達は往々にして、目的を忘れて習慣と言う惰性に流される傾向にあります。蓮如上人も、宗教の目的、信仰の目的を見失うことのないように、神事に集う人々を例にあげられて、お諭しになったものと理解したいと思います。

南無阿弥陀仏を称えるのも、形式的なものになっては真に残念であります。念仏は信心の中から自然に発せられるものであります。暁烏(あけがらす)敏(はや)師が、『わが歎異抄』の中で、『親鸞聖人は、念仏の本義を明らかにするために「真実の信心には必ず名号を具す」信心のあるものには南無阿弥陀仏が出で来る、が、南無阿弥陀仏を称えているものに信心のないものがある。名号には必ずしも真実信心を具せざるなり、こうおっしゃってある。蓮如上人もそれを相承して、「ただ何の分別もなく南無阿弥陀仏とばかり称ふれば皆助かるべきやうに思へり、それはおほきにおぼつかなきことなり」とおっしゃっています。ただ南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と称えておっては助からぬ。おたすけが身にせまって、信心がいただかれたものにのみ、憶念の称名が、いさましく出てくるのです』と申されています。

信心が固まってからでなければ念仏を称えてはいけないと言う事も勿論言い過ぎですが、何が何でも念仏と言う考え方も、誤解を招き易く、浄土真宗入門の入り口をかなり狭くしているのではないかと案じております。念仏は、その人その人の縁によって、時節到来すれば、自然(じねん)の理(ことわり)にて、念仏は出て参るものだと私は思っております。


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No.413  2004.08.12

父を語る

長女の赤ん坊が生まれて1ヶ月になりました。生まれたての赤ん坊の世話は30年ぶりの事であり、色々と考えさせられるところがあります。その一つは、血の継続と言うことから、今は亡き両親のことです。まずは赤ん坊にとっての曽祖父の一人である私の父について書き残しておこうと思います。

私の父は私が小学校4年生の時(昭和30年1月19日)、当時は未だ珍しい交通事故で亡くなりました。生まれたのが1903年ですから、今にして思えば、満51歳と言う若さでした。昭和30年と言いますと、戦後の復興期から高度成長期へと向かおうとしていた頃ですが、今も神戸市のJR兵庫駅の近くにある増田製粉所と言う会社の取締役工場長でした。会社の中で重要な地位にあり、かなりの貢献度があったものと思われ、専務取締役に昇格させて貰った上で盛大な社葬(神戸市平野の祥福寺)が営まれました。そして、私達遺児5名が育ち上がるまでの養育費として、かなり多額の死亡退職一時金と毎月の手当てを配慮して頂きましたから、それだけ立派な父だったのだと思っています。

父は、明治36年、島根県大社町の出雲大社のすぐ近くで生まれました。名前が四郎ですから、四男だったようです。どう言うことでそうなったか知る由もありませんが、父親が校長をしていたからでしょう、その父親の指導があったと思われます、当時としては珍しく、島根県からかなり遠い、横浜高等工業学校(現在の横浜国立大学)の機械科に進み、これも何故横浜から神戸なのかも聞いた覚えもありませんが、卒業後直ぐに増田製粉所に就職したようです。多分大正から昭和へと年号が変わった頃の事だったと思われます。

そんな父が結婚した相手も島根県、大社町から山を越えた日本海側の漁村で生まれ、これも当時としては大変なことだったと思いますが、東京の女子高等師範学校(現在のお茶の水大学)を出て、彦根で教師をしていた母政子(旧姓、塩田)でした。見合い結婚だったそうですが、見合いと言っても、当時は道をすれ違いざまに見ると言う程度のことだったそうです。昭和何年に結婚したのか分かりませんが、姉達の年齢から推測致しますと、昭和5年から7年の間となりそうです。

父が亡くなったのが、私の小学4年生ですから、父の想い出と言いましても、かなり断片的です。父は身長が175cmで当時としてはかなり背の高い人でした。子供の教育は母に任せて、仕事に生きている感じで、家にいる父の印象はあまりありませんが、プロ野球のラジオ放送を寝転んで聞いていた姿を覚えています。寡黙な人で、口やかましいことはありませんでしたが、未だ私が幼い頃、近所の子に石を投げたことに対して、真っ裸で家の外に放り出され、泣いて謝ってもなかなか許して貰えなかった記憶があります。また、一度だけ、兄と私を近隣の山だったと思いますがハイキングに連れて行ってくれた事があります。その途中、木に生(な)っていた柿を採ろうとした時にも、ひどく怒られましたから、厳格な父と言うイメージを抱いております。

父は昔の時代の立派な父親像と言った感じが致します。母からも父に対する不満を聞いた記憶がありません。むしろ、立派だったと言う話ばかりでした。一つは、亡くなる3年位前に借家から一戸建てを新築しましたが、本当は、会社関係の建設業者に頼めば色々と便宜を図って貰えたはずなのに、公私混同は駄目と言う考え方から全く関係ない業者に依託したと言う話を母から何回か聞きました。少し残念そうな口振りと、尊敬の気持ちが混じった口振りを思い出します。

また、父は母に「わしが死んでからの方が、豊かな生活が出来るだろう」と言っていたそうです。実際、父が亡くなって、大学4年生の長女以下小学4年生の私までの5人の子供を抱えていても、母は一回も働きに出る事なく一生を終えました。自分が死んでから家族が路頭に迷わない事を念頭に置いていた事も間違いありませんが、増田製粉所の取締役として持ち株を義務付けられていたのでしょう、毎月の給与の中からかなりの自社株を買わされていたとの事です。その株が、父が亡くなって数年経った頃、2度の買占め騒動があり、その都度株価が急騰したらしく、母が働かずに5人の子供を育て上げられたのはこのお陰だったと常々申していました。3人の娘を嫁入りさせるのにかなりのお金が必要だったらしく、お金が心細くなった時には不思議と株価の急騰があったと常々感謝しておりました。

父親の自慢話になりますが、もう一つの話は、父の人となりが最も表われたものだと思います。増田製粉所の部下の方達が、亡くなって20年も経ってもお墓参りに来られた事です。一人の方は、すでに増田製粉所を退職し、四国で別の仕事に就かれているにも関わらず、わざわざお墓参りに来られていた事です。普通、精々7回忌位までではないかと思いますが、単に部下の面倒見が良かったと言うだけでなく、人間的に尊敬と信頼を集めていたらしいです。「おったはん≠ェ腹を立てたのはたった1回だけ、会社の事を思って社長に何かの提案をした時に社長から、君の会社じゃーないと言われた時だけだった」と一人の方が述懐されていましたが、私とは正反対のおおらかな性格であったようです。

私は現在、妻や子に経済的な不安を抱かせており、私の父と比較する時、恥ずかしさで一杯になりますし、父親としての権威を失っている状況ですが、亡くなるまでには、孫達が誇らしく話せるように、何とか名誉挽回したいと思っております。でなければ、島根県から都会で学び、神戸に根を下ろした両親の折角のご苦労を台無しにしてしまい、孫、曾孫と続く子孫に誇らしい血を引き継ぐことが出来ないことになります。

来年の1月19日は、50回目の命日です。父から譲り受けた不正を断固拒否する姿勢を貫いた上で、事業の存続と発展の目途を立てたいと思っています。


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No.412  2004.08.09

蓮如上人御一代記聞書讃解ー第114条ー

『れんにょしょうにん ごいちだいき ききがき さんかい』と読みます。

パソコン通信のトラブルは、予期できない原因でした。NTT担当者の単純ミスでISDNフレッツを解除していたからです。まさかNTTがそんな過ちをすることは無いと思っていましたが、三菱自動車が世の信頼を裏切ったように、大企業と言えども、個人の不誠実やうっかりミスを事前に防止出来ないのだと言うことを改めて認識しなければならないと思いました。

ご参考までに、単純ミスの内容を公開致します。
7月初旬にISDNからADSLに切り替えるべくNTTに申し込み、担当者が受理してくれましたが、後日その担当者から私の住む地域はADSLが無理な地域だったと言う連絡がありました。それではと言う事でプロードバンドの光通信に申込みを変更致しましたが、担当者が、7月23日のADSLの工事指図を取り下げたものの、同時にISDNフレッツの解除指図をキャンセルしていなかったために、今回の事態になりました。

表題―身を捨てよそれはすたらぬ

まえがき
浄土真宗の宗派では、親鸞聖人が浄土真宗の開祖であるとされていますが、親鸞聖人ご自身は、一宗を立ち上げたいと言うお気持ちをお持ちではなかったとお聞きしています。親鸞聖人はあくまでも法然上人の辿られた、念仏によって救われる道を一人の仏法者として歩み続けられ、極め尽くす努力をされたのだと思います。勿論、近隣の人の求めに応じて世間話をするように仏法を語られることはあったとは思いますが、講演すると言った形とか、日蓮上人が為された辻説法のような形で仏法を語り広めると言うのではなかったと思われます。

浄土真宗を確固たる教団に仕立て上げられたのが、この聞書の主人公である蓮如上人であります。 私はこの聞書を読むまで、蓮如上人は一向一揆を陰で主導し、権力とも結び付いた野心家だと言う認識を持っていましたが、そうではなく、親鸞聖人の教えが民衆を救うものであると言う確信から、教化に知恵と工夫を凝らされた方であると思うようになりました。

「一宗の繁盛というのは多くの人が集まっていることではない」と121条(次々回のコラムのテーマ)で言われていますように、現在の浄土真宗教団が歩む道とは意を異にされていたようであります。

蓮如上人はむしろ一向一揆には眉をひそめられていたようであり、自分の意図から外れて勢力が拡大していく事に違和感を覚えられていたかも知れません。この聞書の条々を読み進むうちに、「身を捨てて」仏法興隆に東奔西走された蓮如上人に出会った思いがしております。

●聞書本文
一つ。同(おなじ)く仰せに、まこと一人なりとも信をとるべきならば身を捨てよ、それはすたらぬ。と仰せられ候。

●現代意訳
一つ、同じように仏法を教化する上で心得として、「一人でも真実の信心を得られるのなら身を捨てても良い、それは決して捨てることにはならないからだ」とおっしゃいました。

●井上善右衛門先生の讃解
この一条は仏法の真実を弘通(ぐずう、くつう)教化する僧俗、とくに僧に対して蓮如上人が述べられた言葉でありますが、それと通じる一連の行実が111条から117条まで録されており、本条は丁度その中間に位するのですから、前後の条々の根本精神がここに示されている趣きが感取されるのです。

しかし本条にある身を捨てるということは、この身を生きる拠処(こしょ、頼りところ)としている者の容易になしうるところではありません。生きる命の拠処が法に見出されるとき、それと表裏して現れる事柄というべきです。われわれの頼りとしているのは身と命と財とですが、それは真の頼り処となるものではありません。正法に眼の開かれるとき、身命財を超える働きが現じます。だから捨てるということは失うことではなく、新しい命と真実の徳を得しめられることです。それを今「身を捨てよそれはすたらぬ」と体験的な確信をもって語られたのであります。

「身を捨てよ、それはすたらぬ」といわれた意はすでに述べたところですが、その「すたらぬ」という具体的な現れには、捨身が変じて真実の法の顕現となるところにあります。一人なりとも真実信の人を生み出すということは如何に偉大な代償でしょう。それは人を育てることのように思われますが、実は大法の活動の場を開く事なのであります。その大法の働きが必ず教化する人をも潤してくる。『論語』に「徳は孤ならず、必ず隣あり」とありますが、それが真の徳というものの性質であります。徳は決して孤独に止まるものではない。身を捨てることが身を捨てることに終わるのでなく、必ずやそれ以上のものを生み出してくる。それが即ち「すたらぬ」といわれる事実であります。

もしこの時の「すたらぬ」ということをその人の利益となって還元されるというふうに読むならば、その意の正しさを失うでありましょう。そのように解するといつのまにか「身を捨てる」ということが手段として扱われることになります。身を捨てるということは、まことに捨て切るのであって、その後に期待するものは何も無い。もしありとすれば、それは大法をひたすら崇敬する心のみでありましょう。そのとき不思議にも至徳の顕現にあずかり、思いもよらぬ恩恵のよろこびを現実的にも経験することになる。それが「徳は孤ならず」と言う事実であり、「必ず隣あり」とは徳が徳をよび、互いに恩恵にうるおい合うということでありましょう。

●あとがき
蓮如上人が「身を捨てて」も「すたらぬ」と言われているのは、身を捨てた代わりに「見返りがあること」を婉曲的に言われているように思われます。ただその見返りで返って来るものは、世間的な利得ではなく、仏道を歩む上で感じる慶びを中心とした恩恵だと井上先生は説明されているのではないかと思いますが、「身を捨てて」仏法興隆のために働くということは、「自分の生活を犠牲にして」と言う事では無いと思いますし、「すたらぬ」と言う事も、「世間的な意味でも惨めな結果には終わらない」とか、更に「世間で言う利得の喜びとは質を異にする深い悦びが得られる」と受け取る方が自然だと思います。

私の母は、昭和25年に垂水見真会と言う仏法を聞く在家の会を立ち上げ、昭和61年に亡くなるまで、1ヶ月に1回のペースで法話の会を開いていました。常に50人前後の人々が来られていましたが、会場は私の覚えているだけでも、区立の公会堂、市場の集会室、農協の会議室、小学校の講堂等と変わって行きましたが、会場の確保には色々な事情があったのだろうと今にしてその苦労がしのばれます。会の運営費は、強制的に会費徴収すると言うものではなく、皆さんの志しと母の私財も投入されていたと思います。最終的には、自宅の6畳と8畳の和室が会場となりましたが、何とかして人々が仏法によってより良い人生を歩んで欲しいと言う願いからであったと思います。

会を立ち上げた5年後の昭和30年に父が交通事故で急死し、大学4年の長女を頭に5人の子供を育てる生活の中での活動でしたが、子育てで手を抜く事は全くなかった一方、母の人生に張り合いを与えていたのは、やはり仏法の事だったのではないかと述懐出来ます。今日の聞書の言葉を借りれば、母は「身を捨てて」仏法興隆の為に尽くしたと言えるのではないかと思います。そして「それがすたらぬ」証拠に、現在もその垂水見真会が存続し、また私に仏教コラムを書かしめているのではないかと考えます。

母は、48歳で未亡人になりましたが、80歳で亡くなる32年間、自らが働きに出ることもなく5人の子供を育て上げ、誰に迷惑を掛けることなく突然旅立っていったことを思う時、それこそが「身を捨ててすたらぬ」仏様からのご褒美ではなかったかと思います。


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No.411  2004.08.05

白井成允(しらいしげのぶ)先生のことー

無相庵カレンダーの15日のお詠「いつの日に、死なんもよしや、弥陀仏の、み光の中の、御命なり」を遺しておられるのが白井成允先生(1887年?〜1973年)です。

私は、一度もお目に掛かっていませんが、母が主宰していた『垂水見真会』には、昭和28年9月26日に『心の歩み』と言う講題で出講(当時、広島大学教授)されています。私が8歳の時ですので私は記憶にございませんが、お会いしたかったなぁーと思うことしきりです。

白井成允先生は、偶然にも、私が尊敬する西川玄苔老師(禅宗)と井上善右衛門先生(浄土門)の共通のお師匠である事からも、とても懐かしい気持ちがしております。

西川玄苔老師は、甲斐和里子女史(京都女子大の創始者)とのご縁から白井先生のご著書『歎異抄領解(たんにしょうりょうげ)』をお読みになられ、いたく感銘を受けられたことから、宗派的には相対する浄土門の白井先生を訪ねられたと言う経緯がございます。白井先生も勿論素晴らしい方ですが、宗派にとらわれずに、真理を求めて名古屋から広島まで足を運ばれた西川玄苔老師も稀有な方であると思っています。

歎異抄領解』に白井先生の経歴が記載されていますので、下記に転載致します。

『著者は、郷里盛岡中学校、第二高等学校を経、東京帝国大学文科大学哲学科で倫理学を専攻、大正二年同大学卒業後、愛知医学専門学校、第二高等学校、京城帝国大学教授の職を経て、広島文理科大学教授として倫理学講座を担当。なお昭和四、五年の間、欧米に留学し主にドイツに留まって倫理学の研究に従った。
著者は本書に窺われるように、学生時代から篤い信仰に生き抜いた倫理学者であると共に、故近角常観師、島地大等師の下に攻究された。仏教学の造詣も深く、殊に歎異抄研究の権威者である。昭和四十八年八月二十二日没。
主なる著書として、カント「道徳哲学」の翻訳、『プラトン初期諸篇の根本精神』『善の認識』『善の認識』『人格の理想』『聖徳太子の十七条憲法』等あるが、この外仏教関係、殊に聖徳太子の教学についての論著等すくなくない』
白井先生は、井上先生よりも多分23、4歳年長であったと思いますが、学問上でも同じ倫理学を専攻されたところを見ましても、井上先生が白井先生をお慕いされていたことが分かりますが、井上先生が白井先生の思い出を語られる時の何とも言えない、誇らしさと懐かしさが溢れたご表情は、今も忘れることが出来ません。法然上人と親鸞聖人のようなご関係だったと言えるのではないかと、密かに思っています。

井上先生からお聞きしたところでは、白井先生は広島で原爆に遭われ、また戦争でご長男をシベリヤで亡くされ、奥様を未だ子供さん達が成人になられる前に亡くされ、更に後添いの奥様も病の床に就かれると言う数多くの苦難に遭遇されたようであります。

それらの苦難を念仏一つで乗り越えられたと言う井上先生のご述懐ですが、念仏を称えて乗り越えられたと言う単純な事ではなく、苦難に遭遇される度に厳しく自己を問い直され、乗り越える拠り所として、自分の信心を見直されたようにお聞きしています。

それは、親鸞聖人が渡られた仏法と人生と重なると私には思えます。白井先生が遺された下記の詩に先生の仏法と人生が凝縮されているように思います。井上先生のお言葉を借りますならば、浄土真宗の教えは、この詩に言い尽くされていると思われます。

招喚(しょうかん)の声
業風吹いて止まざるに       唯だ聞く 弥陀招喚の声

声は西方よりきたりて       身をめぐり髄に徹る

慶ばしいかな       身は娑婆にありつつも

すでに浄土の光燿をこうむる

あわれあわれ       十方の同胞

同じく み声を聞いて       皆 ともに一処に会せん

南無阿弥陀仏


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