<TOPページへ戻る>


No.430  2004.10.11

蓮如上人御一代記聞書讃解ー第152条ー

『れんにょしょうにん ごいちだいき ききがき さんかい』と読みます。

表題―難中之難(なんちゅうのなん)とあること

●まえがき:
浄土系の宗派では、禅宗を自力聖道門(じりきしょうどうもん)と名付け、難行道(なんぎょうどう)であると言っています。そして、浄土真宗・浄土宗では、自宗を他力浄土門と表明し、易行道(いぎょうどう)と申しております。難行・易行という言葉は、2世紀の中頃のインドに出られた龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)が、『十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)』という著書の中で、「難行の陸路、苦しきことを顕示して、易行の水道、楽しきことを信楽せしむ」と説かれたところから始まっているようです。

龍樹菩薩の言われた難行・易行について、ある文献では下記のような説明が為されています。

仏教には八万四千の教えがありその目的は仏になるということです。そしてこれに至るのに難行易行のふたつの道があります。難行道とは、厳しい自力の修行によって長い時間をかけてさとりに至る道であり、それはちょうど山あり谷ありの厳しい陸路を歩くようなものであります。そして易行道とは、本願他力の法によってさとりに至る道であり、南無阿弥陀仏を船にたとえ、易行道とはの上を船で渡って行くようなものです。

船のたとえは、乗る人の自力は何の役にもたたないことの意味と同時に健康に修行ができるものだけでなく、身体が弱くて厳しい修行ができないものも、子どもも大人も、女性も男性も、一切分け隔てなく平等に救われていく旨をあらわしているようです。どんなに厳しい修行を行っても、死ぬまで消えない煩悩をかかえた私にとって、さとりに至るすべは全くありません。そのような人間の力の限界を知らせてくださるのもまた、易行水道であります。

―文献引用終わり

しかし、易行道と言われながら、本日の表題にもありますように、難中之難(なんちゅうのなん)、つまり、「難しい中でも最も難しいもの」と親鸞聖人も認められておられます。易行であるけれども難しいとはどういうことでありましょうか。

●聞書本文
凡夫の身にて後生たすかることはただ易きとばかり思へり。「難中の難」とあれば堅くおこし難き信なれども、仏智より得易く成就したまふ事なり。「往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきにあらず」といへり。前住上人仰に、後生一大事と存ずる人には御同心あるべきよし仰せられ候ふと。

●現代意訳
凡夫のままで救われると言う他力の教えは、何と容易い(たやすい)ことかと思われている。しかし、「難中の難」と言われている如く、信じることは甚だ難しいのであるが、仏様の方で我々が信を得易いように用意して下さっているから容易い(たやすい)と言うのである。「往生と言う一大事であればこそ、我々凡夫の計らいで解決するものではない」と言われているが、はからうから難しいのである。実如上人のお言葉に、「往生を後生の一大事と考える人とこそ心を一つにして語り合う事が出来る」との仰せがあるが、まことにその通りだと思う。

●井上善右衛門先生の讃解
人間は易きにつくという根深い傾向性を有しています。そこからいろいろな錯誤が生じ、宗教的機縁に恵まれながら、何時しか安易に誘われて極めて非宗教的な状態におちいっていることがあるものです。この点は十分に慎み、いましめねばなりません。

「凡夫の身にて後生たすかることはただ易きとばかり思へり」凡夫の身でも何の辛労努力もいらず易く後生のたすかる道があるとは結構なことではないかと、その安易さに腰をすえる様子がこの言葉の奥に窺われます。しかし易行道とは決して安易道という事ではないのです。それとは異質の世界といわねばなりません。『御文章』に

それ人間に流布して皆人の心得たる通りは、何の分別もなく口にただ称名ばかりを称へたらば、極楽に往生すべきやうに思へり。それはおほきに覚束なき次第なり(5帖11通)
とあるのも、ただ易きを好しとし安易に往生が果たせるものと決め込む心を指摘されたものでありましょう。そのとき期待されている極楽もまた何時しか人間の感覚的な対象となっていると思われます。

易行道とは、人間の安逸に利用されるような道をいうのではありません。信の開眼があって始めて易行の易行たる有り難さが仰がれます。しかしその信楽(しんぎょう)の開発(かいほつ)は決して容易ではありません。「難中之難とあれば堅くおこし難き信なり」と宗教体験の厳粛さを示されています。「難中之難」とは『大経』(大無量寿経のこと)に「若し斯の経を聞いて信楽を受時せんに難中の難、此の難に過ぎたるはなし」とあり、『正信偈』にも「難中之難無過此」と誦されています。

では何故「難中之難」なのであろうか。もしそうであるならば難行と易行の区別立たなくなるのではないかと思われましょう。しかしそうではありません。難行道というのは相対的な自力を以て絶対的な真実界に体達しようとするものです。意志的な努力を以って人間の人間の意志力を遥かに超えた世界に躍入しようとするのです。自我に立って無我の世界を開くことは如何に困難な事でありましょう。親鸞聖人が「自力聖道の菩提心こころもことばもおよばれず・・・」とその深刻悲痛な体験を『和讃』に語っておられます。この事は、自らがその体験に直面してよく知りうるところといわねばなりません。

特殊な人のみがたどりうる道ならば聖道門もまた可なりでありましょう。しかし仏心は特殊特定の人のみに対する慈悲でもなければ教えでもありません。「今この三界は皆是れ我が有なり、その中の衆生は、悉く是れ我が子なり」(『法華経』譬喩品)といわれてあるところにこそ仏心が輝いています。その絶対の仏心はわれわれに先立ってわれわれを見ぬき、総ての人々を摂め取る摂取不捨の大道を成就したまい、汝のための真実の寿(いのち)を受けよと喚び立たす御姿こそ南無阿弥陀仏であります。この事を「仏智より得易く成就したまふ事なり」と語られているのであります。

この大悲の仏智よりの成就に対してわれわれはただ「そうでありましたか、有難いことであります」とお受けするより外にはありません。こちらから差し添える一物もない仏心に対面するとき、まことに易行と仰ぐより外に言葉はないのです。それは勿体なさの易行であります。そこに安逸と怠心のいりこむ余地はありません。ただ身のひきしまる思いをもって本願力の照耀に謝したてまつるばかりです。

ところが仏智より成就された摂取の結晶たる南無阿弥陀仏を、容易に受け取ることの出来ぬ悲しい性向をわれわれはもっています。それは人間が有限な感覚に閉鎖され、より深い真実に眼をそむける疑心によるものです。しかし一方、身体的感覚生活だけで満足しているかというと決してそうではないのです。身体的自己の"はかなさ"を感じ、真の生命の落ち着きどころを求めずにおられないのが人間であります。別の言葉でいうと、われわれはその生命の母体である宇宙的真実と自己との間柄を確かと気付くまでは、安らうことのできない生命的要求をもっているのです。

●あとがき
禅宗の修行僧のように毎朝早く起きて、規則正しく質素な生活の中で、長時間の座禅をしたり、勤行したり、掃除をしたりするのは、肉体的にも精神的にも辛いものでありますが、易行道と言う浄土門は、そう言う心身に負担をかける難行・苦行は必要無いという立場です。

そして、易行だけれども難しいと言う難しいと言う意味合いは、信じることが難しいと言うことだと思います。「阿弥陀仏の誓願を信じれば往生出来る、即ち救われる」と聞いても、「はいそうですか」と私は素直に信じることが出来ません。当時の日本に伝わった総ての経典を読まれ、また比叡山で難行・苦行をされた法然上人や親鸞聖人が念仏一つで救われるとおっしゃっているのにも拘わらず、私はなかなかその言葉を信じられないのです。そしてまた直接教えを受けた多くの立派な先生方のお話も、結局は阿弥陀仏に総てをお任せすればよいのだと言う事でありますが、「はい、分かりました」となかなか頭が下がらない私であります。

親鸞聖人は、歎異抄第2条に「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべしと、よき人の仰せをこうむりて、信じるより外に別に仔細なきなり」と示されていますように、親鸞聖人にとって"よき人"とは法然上人のことでありますが、親鸞聖人はその法然上人の言われる事を信じて、念仏一筋に生きられましたが、そう言うお話を聞き知っても、私は念仏一つで救われると言うことをなかなか信じる事が出来ません。

何故信じられないかと言うと凡夫のはからいがあるからだ、とは今日の聞書でも示されていますが、では、この凡夫のはからいはどうすれば取り除けましょうか。井上先生が、「ところが仏智より成就された摂取の結晶たる南無阿弥陀仏を、容易に受け取ることの出来ぬ悲しい性向をわれわれはもっています」と、上記の讃解で述べられている"悲しい性向"はどうすれば解消できましょうか。

こうすればよいと言葉では説明できないところがあるからこそ、親鸞聖人も『難中の難』と言われたのだと思いますが、私は、一つのヒントとして、親鸞聖人でさえ、信じる事はそう簡単ではなかったと考えています。信じることが簡単ではなかったと言うよりも、信の深さが人生を渡るにしたがって深まっていったのではないかと思います。それは、85歳で詠まれた『和讃』に、次のような内容のものがあるからです。

弥陀の本願信ずべし、
本願信ずる人はみな
摂取不捨の利益(りやく)にて
無上覚(むじょうがく)をばさとるなり
この和讃が、ご長男の善鸞様を勘当せざるを得なかったと言う苦悩に出遭われた84歳の後のものである事から「弥陀の本願信ずべし」と言うのは、他人に言っておられるのではなく、ご自分に強く言い聞かしておられるものであると読めます。信が揺らぎかけると言うこともおありになったと推察されますが、それでも結局は、だからこそ、阿弥陀仏の本願をいよいよ仰ぐ心(信心)を深められたことが、この和讃から窺い知れると思うのです。

親鸞聖人は29歳で法然上人に出遇われて、法然上人を通して阿弥陀仏の本願を信じて人生を歩み始められましたが、その29歳で得られた信心は、その時点では未だ揺るぎ無い絶対の信心ではなく、人生の様々な経験を経るごとに信心を深めてゆかれたのではないかと思います。

ある時、ある瞬間に、絶対揺るがない信心が得られたり、悟りが開けると言うのは、それこそ凡夫のはからいであり、驕慢と言う我執から出た妄想ではないかと思われます。私は、歎異抄にある「念仏申さんと思い立つ心の起こるとき」というのは、素直に念仏を称えることが出来ない私でも、念仏を素直に称えたいと思う心は芽生えていますから、もう私は既に仏様の御手の中にあり、抵抗する私を掴まえて離されないことなのかなと思い直しているところです。そう考えますと、易行道と言うことが素直に頷けますが・・・・・?


[ご意見・ご感想]

[コラムのお部屋へ]


No.429  2004.10.07

道元禅師と他力

私は最近、仏教の本を読む時には異なる著者の本2冊を併行して読むようにしています。色んな意味でよいことが沢山あるように思います。考え方、受け取り方が偏らなくなると言うことは勿論、これまで気付かなかった新しい発見もあり、大変気に入っています。

今は、鈴木大拙師の『無心ということ』と井上善右衛門先生の『真実の泉』を併行して読んでいるのですが、たまたま、お二人とも道元禅師のお言葉を引用され、道元禅師の至られた境地は親鸞聖人の他力本願と同じものであると考察されている箇所に出遇い致しました。以前にこのコラムでもそのようなことを申し上げましたが、この度、更に理解が深まりました。そして、道元禅師の禅に限らず、いわゆる禅の悟りと親鸞聖人の他力本願の信心は同じものであり、ただ表現が異なるだけでどちらもお釈迦様の悟りの内容そのものなのだと思う次第です。

親鸞聖人の至られた心境は『はからわないこと』とか『自然法爾(じねんほうに)』と言う表現から窺い知ることが出来ると思いますが、それを禅では『無心』とか『無我』とか、『赤子の心』とか『鏡の如く』と言うように表現しております。悟りの心境を伝えるには、どうしても言葉で表現するしかない訳でありますが、言葉と言うものは人それぞれ受け取り方が異なり、同じ心境を伝えようとしても、表現が異なれば、違う事と捉えてしまうのは避けられないと思われます。従って、そういう事を前提として、仏教書や経典を読み、言葉の奥にある真実を読み取る事が大切ではないかと思います。

禅宗と真宗どちらの門を叩こうかと悩んでおられる方の参考になるかと思い、少し長くなりますが、鈴木大拙師と井上禅衛門先生の道元禅師に関して書かれている箇所を下記に引用させて頂きます。皆様なりにご考察頂ければどうかと思います。

鈴木大拙師の著書より:
この間道元禅師の本を見ていると、禅師にこういう言葉がある。よほど真宗の所説に似ています。正法眼蔵という書物はなかなか大部なものです。道元禅師は五十幾つで亡くなっておられるが、今の時代で言えばまだ若かったと見てよい。よっぽど筆まめ口まめであったので、書きものになって残っているものは大部である。その中に「生死(しょうじ)」の巻というのがある、それに次のごとき文句がある。
『此生死は即ち仏のお命なり、これを厭い棄てんとすれば、即ち仏のお命を失わんとするなり、これに留まりて生死に着(ちゃく)すれば、これも仏のお命を失うなり。仏の有様を留むるなり。厭うことなく、慕うことなき、是時始めて仏のこころに入る。ただし心を以て計ることなかれ。言葉を以て言う事勿れ。ただ吾身をも心をも、放ち忘れて、仏のいえに投げ入れて、仏のかたよりおこなわれて、これに従いもて行くとき、力をもいれず、心をも費やさずして、生死を離れ仏となる。云々』 ここに注意すべき事は、道元が『仏の命』と言う文字を用いたことである。そしてこの生死がすなわち仏の御命なりと言うのである。われわれは生まれたり死んだりするのであるが、この生まれたり死んだりするものがすなわち仏の御命に外ならぬと、道元は言うのである。お経など読んでみると、仏は生死の因を悟られ生死を脱却せられ、久遠の生命を獲得せられたという風に書いてありますが、それがここでは仏の御命は生死そのものがそうだと言うのです。それゆえこの生死は無駄に棄てるべきでない。それは仏の御命を棄てることになるのである。またこれにとどまる、すなわち生死に住するあるいは生死に執着することになると、これまた仏の御命を失うことになるのである。生死を厭うこともなく恐れることもなく、生死の中に住して、そしてその来住に任せ、自然に生死の動くままに動いていると仏の御命を失うこともなく、従いて生死に囚われることがない。この時始めて仏の心に入ると言う。心に入るはすなわち命を全うするのである。ただし心をもって計るなかれと道元はいう。これは自分で計らいをするなとの義(ぎ、道理と言うこと)である。言葉をもって言うことなかれとは、論理や哲理の詮索に耽りて概念化の幣(へい、弊害のこと)に陥るなとの義である。ただ、わが身をも、心をも放ち忘れて、仏の家に投げ入れて、そうして仏の方より行われて、これに従いもてゆけと言う道元の指示は、真宗の他力説と全く同じことではありませんか。身をも心をも打ち棄てて、仏の中に投げ入れて、そうして仏の方より行われて来ることになれば、こちらではこれに従いもてゆくばかりで、本当の受動性が見られて、自分の力をも要せず、心をも費やさずと言うわけで、これはとりも直さず無心であります。また他力三昧であります。

井上善右衛門先生の著書より:
道元禅師は仏陀の教えを私どもに示して、「仏道を習うというは、自己を習うなり」といわれている。これは、真宗であろうが、禅宗であろうが、真言宗であろうが、天台宗であろうが、この言葉を動かすことは出来ないと思います。「仏道を習うというは自己を習うなり、自己を習うというは自己を忘るるなり」と道元禅師が『正法眼蔵』の現成公案の中で示しておられる有名な言葉です。「自己を忘るるなり」というのは執われた自己を脱却することです。それはとりもなおさず無我の真理に魂の目を開くことであります。

では自己を忘れるということは、いかにしてこの私に果せられるのか、それが私どもの根本の問題です。それをうけて道元禅師は、「自己を忘るるというは万法に証せらるるなり」とおっしゃっておる。私ども人間は、自我意識を自己の土台としていますから、自分の努力で自分を救うという思いを、だれしもが持ちがちのところでございます。しかしそうであるならば、なぜ、道元禅師は「自己を忘るるとは万法に証せらるるなり」とおっしゃったのでしょう。我執にまつわられた自分で、自分の我執 を取り除くことが出来るように考えているのは、心に絵を書いておるときの思いに過ぎません。

たとえて言うならば、自分が乗っかっておる板を自分の手で持ち上げることが出来ましょうか。道元禅師は同じ現成公案の中で、「自己を運びて万法を修証するを迷いとなす。万法すすみて自己を修証するを悟りとなす」といわれています。私の努力で天地の真理を明かすという心そのものがどこかで逆立ちしておる。いまのこの言葉と「自己を忘るるというは万法に証せらるるなり」という言葉とは、まったく一つの心を私どもに語っておられるものでありましょう。私どもが、執われた自我意識をかえりみず、その執われた自我意識を元手にして自己を救おうとするのは、それこそつまづきの石であるということを、私どもにご注意くださっておるのであると思います。

さて、私どもにとって「万法に証せられる」という言葉は一応、頭の理解としては頷けます。なるほど大いなる天地の真理というものは、私のちっぽけな力で悟れるようなものではない。大いなる真理が来たって、私を悟らせてくれるのだということぐらいはわかります。わかりますけれども、それで私の身と心が救われるものではございません。

有名な『臨済録』という極めて鋭い書物がございますが、その中で臨済禅師は「衣変(いへん)」ということをいっておられます。衣変と申しますのは、奇麗ないろどりの着物に着替えて、自分を飾って立派そうに思っておるけれども、それは、ただ衣が変わっただけである、裸になってみたら、そこに何があるかということです。我執にとらわれた私どもの心の中で、ああの、こうのと頭の中で思案致します。そして「あっ、そうか」と、あるときわかったような気もする。それは、ことごとく衣変だ。着物を着替えて喜んでいるに等しい。確かにそういう趣(おもむき)が人間にはございます。しかし、私どもは、着物を着て喜んでいても着物を脱がねばならぬときがくる。裸の己れに立ち返ってみるということは私どもにとって大切なことだと思います。

さて裸の己れに返ったときに、そこに一体、何が残されておるでありましょうか。ただ闇黒の己れに突き当たるのではありますまいか。けれどもその闇黒の全くたよりにならぬ己れの無に返ったその時に、はじめて、まことの如来の大いなる光と寿(いのち)とが手を差し延べて、しかと、この私を受け止めていてくださるのに出会うときなのではありませんか。だから「自分が努力する間は迷わざるをえない」とゲーテも述懐しています。そこのところを道元禅師は「自己を忘るるというは万法に証せらるるなり」という言葉で私どもに示してくださったのだと思います。私どもに先立って、私どもが、やがて裸にならずにはおれない存在なのだということを見抜いて、私どもの底に如来が手を差し延べて、真実の寿(いのち)を用意してくださる。それが仏の自他一如の慈悲というものでございます。

『大無量寿経』には法蔵菩薩の私どもに対する大いなる大悲の働きかけが語られ ております。私は、仏法の筋道は、一筋のものだと思います。決して別々のもの があるのではない。一つのことを私どもに因縁に応じていかにして気付かせるかという、やるせない働きかけであると申すべきでありましょう。そう思いますと、如来の本願というのは、物語ではなく、万法に証せられるときの奇しき具体的体験であり、消息であると申してよいと思います。

『歎異抄』の中に、「ただ、ほれぼれと弥陀のご恩の深重なること常に思い出しまいらすべし」と述べられている。そこに、おのれというものの力みは影さえもございません。「至心信楽おのれを忘れて、無行不成の願海に帰す」というのは『報恩講式』の中に出てくる言葉ですが、ほんとうにおのれを忘れるというのは、仏さまとの出会いの中に成就させられることなのではありますまいか。そのことを裏書きするかのごとく、道元禅師が『正法眼蔵』の「生死」の巻の中で、「心を以て計ることなかれ。言葉を以て言う事勿れ。ただ吾身をも心をも、放ちわすれて、仏のいえに投げ入れて、仏のかたよりおこなわれて、これに従いもて行くとき、力をもいれず、心をも費やさずして、生死を離れ仏となる。たれの人か心にとどこおるべき、仏になるにいとやすき道あり」と、語っておられますが、まことに見事な言葉です。一句の添えるべきもなく削るべくもないという感じが致します。しかしなおその語には抽象性を免れることは出来ません。

親鸞聖人が「大悲の願船に乗じて光明の広海に浮かぶ」とおっしゃったのは、道元禅師の言葉がさらに具体化され信体験の喜びとなったものでありましょう。また「明らかに知んぬ、是れ凡聖自力の行に非ず」と親鸞聖人は申されておりますし、「しかれば、もしは行もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の廻向成就したもう所に非ざることあることなし」という体験を披瀝しておられます。抽象的な道元禅師の言葉が、ここでは具体的に自他一如の生命に摂取され輝いております。

―引用おわり―

あとがき:
我々の目に見える世界、即ちこの地球も大宇宙も変化しつづけております。変化していないように見えても、総ては刻々と変化しています。この変化があるからこそ、宇宙に太陽が生まれ、地球が生まれ、そして人類が現れ、私自身が今ここに生まれ出ています。そして必ず総ては死を迎え、そしてまた形を変えて生まれ出るのでしょう。宇宙は変化して止まないものであることは間違いところです。

これらの変化がどう言う法則によって生じているか、何に向かって変化し続けているのか、それは我々人間には分かりません。これを『宇宙の真理』と言ったり、『宇宙の意志』と言ったりしていますが、道元禅師は、これを『万法』と言う表現をされたのだと思います。そして、親鸞聖人は、『自然法爾』と表現されたのだと思います。そしてそれは親鸞聖人においては、人間の計らいが届く領域ではないと言う他力本願と言う信心となったのであります。一方、鈴木大拙師は『宇宙の意志』を『無心』と表現されたのだと思いますが、無心とは人間のはからいが届かい宇宙のとでも言い換える事が出来るのではないかと思います。


[ご意見・ご感想]

[コラムのお部屋へ]


No.428  2004.10.04

蓮如上人御一代記聞書讃解ー第151条ー

『れんにょしょうにん ごいちだいき ききがき さんかい』と読みます。

表題―鑽(き)ればいよいよかたし

まえがき.
『真実』というものは、時代によって変わるものではありませんし、国や地域によっても変わるものではありません。逆に、そう言うものを『真実』と名付けます。
それとは反対に、時代によっても変わり、国・地域によって変わる経済や政治の世界を『虚仮(こけ)』即ち『真実にあらざるもの』と申してよいと思います。

最近の日本や世界の政治・経済界の状況は、まさに『虚仮』なるものが顕れたと言わねばなりません。高度経済成長を遂げている時には表面化せずに見逃され気付かずに来たことが、バブル崩壊後に一斉に正体を顕わしたということでありましょう。満々たる池の水が引いた時の池底に様々なゴミ・ガラクタが現れるように、経済面では、三菱自動車のリコール隠し、原子力発電関係の安全管理のズサンさ、社会保険庁の放漫な資金管理、金融機関の脆弱な体質、ダイエーを始めとする大企業の破綻や、近くはプロ野球界の一連の騒ぎ等に象徴されていると思います。また、世界政治の面では、共産主義体制の崩壊、アメリカ的民主主義・資本主義に対するテロの頻発はまさしく人間の『虚仮』なる部分が投影されているものであると言えましょう。国内政治面では、自民党の派閥政治の崩壊、共産党・社会党の没落、更に理念なき教育行政がもたらしたであろう凶悪犯罪の頻発・犯罪の低年齢化等などは、古来の日本が受け継いで来た美しい『真心』を失い、『虚仮』なる虚飾に惑わされたからでありましょう。
虚仮なるものが人間社会に顕れることこそが、真実によって照らし出されたと言えるのだと思います。

しかし、そんな時代を幾度か超えて、お釈迦様が見付けられた仏法は2500年も受け継がれ、真実を求める人々を照らして参りました。恐らく、これから人類がこの地球上に存続する限りは、仏法が真実を求める人々の心に灯火を点してゆくことは間違いありません。それは、仏法が宇宙の真実を語っているからでありましょう。

今から1400年前、聖徳太子様が『世間虚仮唯仏是真(せけんこけゆいぶつぜしん)』と言われておりますが、まさに時代を超えた『真実の言葉』であります。

私達は『真実』に出遇った時に初めて心の底からの慶びをしみじみと感じるものだと思います。世俗の喜びは瞬間瞬間のものであり持続しないことは経験済みのことであります。真実を求めて、本当の慶びを知りなさいというのが、仏法の説くところであります。今日の聞書もまた切り口を変えて、真実の尊さと本当の慶びを私達に指し示されています。

●聞書本文
鑽(き)れば弥(いよいよ)かたく、仰げば弥(いよいよ)たかし、ということあり。物を鑽りてみてかたきと知るなり。本願を信じて殊勝なる程も知るなり、信心おこりぬれば、たふとくありがたく、よろこびも増長あるなり。

●現代意訳
論語に「鑽れば弥かたく、仰げば弥たかし」という言葉がある。玉や石も穴をあけたり彫刻してみてはじめてその堅さが分かるが、仏法も、知識として聞いているだけでは分からないが、本願を信じるに至って漸くその教えがこの上も無く尊いことが分かるのである。そして世俗の喜びというものは必ず失せてしまうが、信心というものは、尊く有難く、その慶びはどんどん膨らんで失せることはないのである。

●井上善右衛門先生の讃解
「鑽れば弥かたく・・・・・」というのは『論語』子罕篇の言葉です。原典では「之を仰げば弥よ高く、之を鑽れば弥よ堅し」となっていますが、いまは逆に「鑽れば弥かたく・・・・」が先に出されています。この言葉は孔子の弟子顔淵が師の人格を仰ぎ嘆じて述べた言葉ですが、それをいま宗教体験の味わいを表わすのに転用されたのであります。

「鑽る」というのは玉や石に穴をあけたり刻したりすることですが、その玉や石がどれほど硬度のものであるかは、目で見ているだけでは解らない。それを鑽ってみてはじめて堅さがわかる。山の高さも同様で、麓に来ていざ登ろうと仰げば仰ぐほど高さが知らされるというのはまことの経験であります。本願弘誓の道もまた然りで、ただ漠然と見たり聞いたりしているだけでは、さほどにも思われず、ただの話しに終わってしまうでありましょう。ところが人生の究極の問題に突き当たって篤と聞かずにはおれなくなると、その教えの深さ尊さがしみじみと味わわれてくる。それは本願に直面する人に、真実が真実自らを証して来るが故でありましょう。

いかにわれわれが間違いないと考えている事でも実ならぬものは、いつかはその影が薄れてきます。反対に真なるものは、初めはそれを軽んじていても、やがてはその事を肯(うけが)わずに(受け容れること、無視出来ないこと)おられない確かさが現れてきます。虚仮と真実とはただ頭で描いただけでは解らない。おおよそ人間の知性というものは中味のない輪郭を構画するものです。大いなる宇宙的真実と人間との間柄は体験によって証される、そこにこそ輪郭で無い真実の生命的なものが開かれてくるのであります。真実に照らされて虚仮もまた虚仮として実感されてきます。

ひるがえってこの人生をかえりみると、この世のことはすべてこの世とともに流れ消えてゆきます。わがものと思う財産も地位も能力も、わが身と共に失せてゆきます。享楽を生甲斐と勘違いしている人も、享楽の持続しがたいことが嫌応なしに身に迫るでありましょう。人間の官能というものは、楽しめば楽しむほど靴底のように擦り切れてゆくものです。その擦り切れる悲哀をきっと嘆かずにはおられないでしょう。それは頼むべくもない身体的感覚に不当な期待をかけているからに外なりません。

おおよそこの世の総ては衰退と消滅をまぬがれません。この世においてそれ自らが増大してゆくものは何でありましょう。衰退と消滅は有限なるものの必然の姿であり、しかもわれわれはその有限なるものに限りなく執着するのであります。そしてその矛盾から起こる果てしない苦悩と葛藤が、業の波浪をいよいよつのらせてゆくのです。その波浪に翻弄されるより外ない人間は哀れという外ないでありましょう。

そのわれわれに対して、ただ一つ本願の真実が発遣(はっけん)と招喚(しょうかん)の二手に分かれて働きかけて下さる。発遣とは虚仮を転じて真実に帰すべき方向を指し示し、われわれを導き勧めて下さる釈尊の教示であります。招喚とは真実世界から光寿二無量の阿弥陀仏がわれわれに喚びかけて来られる南無阿弥陀仏のみ声であります。

白井成允先生の「天地(あめつち)のきよきまことのすみとおり、ナムアミダブツの声となりぬる」と詠じられたその喚び声を「谷ひとつへだてて啼(な)けどこころしてきけばきこゆる山ほととぎす」と甲斐和里子女史のうたわれたごとく、まさしくこの身にききまつるところこそ「本願を信じて・・・」と述べられている意であります。従って、信じるとは、無造作に間接的内容を鵜呑みにすることではなく、真実の働きを直接的に体験することです。これを心の眼が開かれて新しい世界の人となることと言えましょう。

●あとがき
親鸞聖人は「念仏のみぞまことにておわします」とおっしゃっています。「念仏だけが真実である」と・・・・。しかし、これは何も私達が称える念仏が真実であると言うことではなく、仏様のお働き、即ち、浄土門で言うところの他力本願こそが真実であると言うことであると解釈しなければならないと思います。一般的な言い方をすれば、宇宙の働きが真実であると言うことだと思います。

この真実に出遇うと私達の心は本当の慶びに包まれ、その慶びは失われることがないと言われます。禅門では、悟りを得た瞬間の心境を「手の舞い、足の踏むところを知らず」と言う慶びだと言います。私は未だそういう経験がありませんので、何ともお伝えしようがありませんが、母が存命中の仏法の話をする時の、嬉しそうな生き生きとした顔や、井上先生がお師匠である白井成允先生の思い出を語られていた時の何とも言えない懐かしげで誇らしげなお顔を思い起こします時、それが真実に包まれた慶びだったのだなと思い返します。

一昨日、アメリカの大リーグで活躍するイチロー選手が最多安打の大リーグ記録を更新致しました。実に84年振りの記録更新ということで、同じく大リーグのヤンキースの4番バッターとして活躍する松井選手の3試合連続ホームランのニュースと共に、日本の野球ファンは、興奮の1週間を過ごしたようであります。

イチロー選手が宗教とどう言う関わり合いを持っているか知りませんが、「小さな積み重ねをすることによって、とんでもないところまで来た」と言う感想を述べていました。これは、常人では真似の出来ない、節制とトレーニングを毎日続けた本人にしか分からない実感ではないかと思います。そして、それは真実というものを垣間見、体験した瞬間ではなかったかと思われます。そして、記録に向かうプレッシャーについてイチロー選手は、「プレッシャーを抜け出る方法はない、プレッシャーを背負って立ち向かうことでしかプレッシャーに打ち勝つ方法はない」というようなことを述べられていましたが、それが自然法爾であり、無心と言うことではないかと、ヒントを貰ったような気が致しました。

一方、宗教とか信仰というのは神仏を拝んだりお寺や教会に行って法話やお説教を聞いたりする行為を言うものではないと思います。宇宙的真実を求めることを宗教的行為とか信仰と言うのだと思います。イチロー選手も松井選手も未だ30歳と言う若さでありますが、真実を求めて日夜修行しているのだと思います。だからこそ、国籍を超えて感動を与えるのだと思います。

真実を求める行為は人々に共感され感動を与えます。しかしそれは決して世界的なヒーローであるイチロー選手だけに与えられた能力でもないと思います。市井(しせい)に生きる平凡な私達一人一人が夫々の立場と能力に応じて真実を求めて生きる事こそが宗教的行為であり信仰ではないだろうか・・・・・。イチロー選手の今回の活躍に際して思ったことであります。


[ご意見・ご感想]

[コラムのお部屋へ]


No.427  2004.09.30

命のふるさと

私達人間に備わっている眼・耳・鼻・舌・身と言う五官の中、例えば眼が与えられてなかったとしたら、人類はどのような歴史を歩んだだろうかと考えますと、文字は無いですし、品物を必要としなかったでしょうから、文明も文化も芽生えなかったでしょう。そして星も見えないのですから宇宙の存在にも気付かず、と言うことは宇宙はそもそも存在しないことになっていたはずであります。耳も無ければ音が無いわけでありますから、情報の伝達は捗(はかど)らず、これまた文明は発達しなかったでしょう。また匂い、味、触感を感知する事が出来なかったならば、人類が地球上で生き延びれたかどうかも分からないと思います。そして、何よりも"意"と言う6番目の機能を5官が揃った上に与えられて始めて人間と言う"考える生物"がこの宇宙に誕生したのだと思います。

この眼・耳・鼻・舌・身・意(げん・に・び・ぜつ・しん・い)と言う6官が宇宙の働きによって人間に与えられた機能の総てであります。そしてこれらの機能は地球に生物が生まれた20億年前から営々として育て上げられてきたものであると言えます。もっと言えば、これらの機能を持った人類の誕生は、宇宙が出来たと言われる150億年前から約束されていたものだと言ってもよいと思います。

しかし、この与えられた6官総て揃うのが、宇宙で与えられる最上のものであるかどうかを疑う必要があるのではなかろうかと思います。私達現代人はこの与えられた感覚・感知能力が総てだと思い、慢心・過信しているのではないか?地球上の人類が感知しえない宇宙の真実・事実があるのではないか、或いは感知し難い宇宙の真実・事実があるのではないか、いわゆる"人智を超えた世界"があるのではないか?

そう言う宇宙の真実を求める謙虚さが人類には必要ではないかと言う立場が宗教の立場ではないかと思います。少なくとも私はそれが仏教の立場ではないかと思います。そして、"意"と言う機能の中に、命を生み出す世界("命のふるさと"とでも言う世界)を感知する能力が僅かながらも備えられているのではないかとも思います。だから、総ての人ではないにしても、人間は宗教を求めるのだと思います。

そして私達が不安を感じるのも、苦悩を抱えるのも、自由を希求するのも、そして命と命のふれあいに感動するのも、総ては自由で差別の無い、一如の世界である"命のふるさと"を本能的に知っているからだと思います。それに気付かずに、眼・耳・鼻・舌・身だけを中心とした欲望の世界、分別・差別の世界にのみ関心を持ち続けるならば、私達人間は決して自由を得られないだろう,即ち解脱は出来ないだろうというのが、仏教の立場ではないかと思います。

仏教における、禅宗の悟りも、浄土門の信心も、上述の"命のふるさと"を我が命の故郷であると言う確信ではなかろうか・・・・・・・。鈴木大拙師の『無心ということ』や井上善右衛門先生のご著書を読みながら思い至った事であります。

さて、今日は9月30日ですが丁度2年前の10月2日から妻がパート勤務を始め、私は我が家を事業活動の拠点とした生活が始まりました。私はこの丸2年間、家事の半分を受け持ちながら、会社再建に努力をして参りましたが、残念ながら当分はこの生活が続きそうであります。特許技術で何とか持ち堪え、また活路を見出そうとしていますが、それこそ、努力がそのまま必ず報われると言う保証はありません。

欲望の満足を求める世界、分別の世界を精一杯努力しながら生きつつも、"命のふるさと"を私の"心のふるさと"として追い求めて行きたいと思っています。それが仏様(="命にふるさと")から私に課された宿題であると確信しているからです。


[ご意見・ご感想]

[コラムのお部屋へ]


No.426  2004.09.27

蓮如上人御一代記聞書讃解ー第136条ー

『れんにょしょうにん ごいちだいき ききがき さんかい』と読みます。

表題―六賊も念仏を障えず

まえがき.
もし私達に眼・耳・鼻・舌・身という器官が備わってなくて、感覚と言うものが一切無いとすれば、どうなりますでしょうか?植物がそう言うものでしょうから、ただ淡々と生きて淡々と死んでいくのだと思います。感覚というものがあっても、その感覚を認識し記憶する機能・働き(これを"意"と呼びます)がなければ、動物のように、本能のままに生き、寿命が来れば死んで行くしかないでしよう。

この"意"という機能がある生き物が人間であります。そしてこの"意"があるからこそ、我が身に執着し、煩悩に苦しみます。動物にも欲望はありますが、むさぼる程の欲望は持っていません。
満腹のライオンは決して人間も他動物も襲わないと申します。人間は、満腹以上に欲望を燃やします。

眼・耳・鼻・舌・身・意という六つの機能があるばっかりに人間の苦悩が生じるのだと言うのが仏教の考え方であります。勿論、眼・耳・鼻・舌・身・意という六つの機能があるからこそ幸せに感じる瞬間もあるわけですが、残念ながら長続きする幸せとはなり得ません。

この六つの機能があるからこそ煩悩が生じ、私達を苦しませる訳ですが、この苦しみから脱出しようとして、善行を積んだり、神様・仏様に祈りもするのですが、なかなか脱出は出来ません。 どうすれば、この苦悩の人生から救われるのであろうか・・・・・・と修行し思案されたのが、仏教の祖師方であります。

その祖師方の中で、極めて現実に則した結論を出されたお一人が親鸞聖人ではないかと思います。

●聞書本文
人の身には眼・耳・鼻・舌・身・意の6賊ありて善心を奪ふ。これは諸行のことなり、念仏は然らず、仏智の心を得る故に貪瞋痴(とんじんち)の煩悩をば仏の方より刹那に消したまふなり。故に「貪瞋煩悩中、能生清浄願往生心」と言えり。正信偈には「譬如日光覆雲霧・雲霧之下明無闇」といへり。

●現代意訳
人間の体には、眼・耳・鼻・舌・身と言う五官と五官が得た情報を認識・記憶する意を合わせて六つの意識を備えていますが、この六つの意識が私達が本来持っている清浄な心を損なうのである。しかし、これは私達が日常生活で行う様々な行為について言えることであり、念仏はそう言う行為とは異なり、仏様の智慧の心を頂いたものであるから、代表的煩悩である貪瞋痴の煩悩は仏様の力で瞬間的に隠されてしまうのである。だから、善導大師は、「貪瞋煩悩中、能生清浄願往生心」といわれ、親鸞聖人は正信偈の中で「譬如日光覆雲霧・雲霧之下明無闇」と述べられているのである。

●井上善右衛門先生の讃解
人間は身体と心から成り立っていることは言うまでもありません。ところが身体というのは五尺の小躯に限定されており、他より区切れているものです。即ち個体という根本的な性質をもっています。早い話が、自分が腹一杯食べても他の人のお腹はふくれません。その反対もまた然りです。ところが心という働きはこれと異なります。愛情は自他に通じるがごとく、無限に広く通うてゆくことの出来る働きを持っています。ゲーテの『ファウスト』に次のような句があります。

霊(精紳)の世界は鎖(とざ)されたるにはあらず、汝の官能塞がり汝の心情死せるなり。いざや学徒たじろがず、俗塵の胸を曙の光に浴しめよ。
官能とは限られた身体にもとずいて起る本能や欲望や感覚的欲求をさします。本来鎖されてはいない心が、この官能によって塞がり閉鎖され奴隷となっているのが現実です。

いま『聞書』に「人の身には眼・耳・鼻・舌・身・意の六賊ありて善心を奪う」とあるのも全く同じこころを語るものでありましょう。眼・耳・鼻・舌・身・意は個体である人間の身体上に成り立つ感覚であり、ことに前の五つは五官と名づけられる機能で外に向かって開かれている窓であります。ところが先に述べるように、人間の身体そのものが本来個体として鎖されている存在でありますから、その五つの窓から入り来るものが個体の執着の材料となるのです。つまり見るもの聞くもの味わうものが執着の種となるのです。その執着心を受け持っているのが第六番目の「意」であり、この内なる第六意識が五官の働きと常に同時に伴い起こって執我の性質を現し出します。ゲーテが「俗塵の胸」といったのも、『聞書』に「六賊ありて善心を奪う」と述べたのも、共にこうした人間の個体的六官の実態を語ったものでありましょう。「善心」とは開かれた心が広く真実に通うて、美しい心情と行動とを果たすことであります。

●あとがき
親鸞聖人は、自分の力では、この煩悩を如何ともし難いのだと悟られたのだと思います。眼・耳・鼻・舌・身・意を備えている限りは、煩悩を消し去ることは出来ないと自覚されたのだと思います。しかし、眼・耳・鼻・舌・身・意という六つの機能があるからこそ、そして煩悩があるからこそ、悟りを求め、仏に出遇えるのだとお考えになられたのではないでしょうか。

そして煩悩を雲に譬えられ、また仏様の慈悲と智慧を太陽の光に譬えられ、雲があっても、太陽の光は地上を明るくする力があるように、煩悩があるままに仏様の慈悲と智慧の恵みが与えられる、即ち救われるのだと確信をされたのだと思います。そして、こう考えられるようになったのも仏様のお力、他力の本願なのだと自覚され、報恩の念仏人生をまっとうされたのだと思います。

人間生きているということは、眼・耳・鼻・舌・身・意という六つの機能があり、それらが働いているということですから、欲望もあり、我執もあり、煩悩も消えないと思いますが、眼・耳・鼻・舌・身・意も、欲望も我執も煩悩も総ては我が物ではなくて、仏様から授けられたものである、即ち他力本願によるものであると言う確信こそが、親鸞聖人の頂かれた信心ではないかと思います。

これは、私の知的理解であります。井上先生が、この条の讃解文の末尾に、下記のように誡められておられますが、この知的理解が確信に変わるには、聞法と共に自力の限りを尽くして、決定的な自力無効の体験を必要とするのだろうと思います。

煩悩のあるがままに仏の方より信心をいただくことが、安易な煩悩の肯定となり、ただ観念的な信の知的理解に止まるならば、闇の夜は決して明けはせぬでありましょう。真実信心は闇夜が転じて白昼となる体験です。夜の雲霧と昼の雲霧とは等しく雲霧であっても、天日に照射されるところ大地は白昼の明るさに転じます。慙愧歓喜の南無阿弥陀仏とは、闇の破れた生活であります。

闇の破れた生活であるかどうかは、自分自身が自覚出来ることであると思います。従いまして、闇の中にいる凡夫の私には、闇が破れる瞬間を自覚出来るのではないかと思っております。


[ご意見・ご感想]

[コラムのお部屋へ]


No.425  2004.09.23

親鸞聖人と無心

今、鈴木大拙師の『無心ということ』と言うご著書(角川文庫、昭和30年初版)を読み返しているところです。『無心』とか『無我』と言いますと禅門的なニュアンスを感じてしまいますが、鈴木大拙師は、親鸞聖人の教えも、結局は無心・無我の教えであるという見解を述べられております。

浄土門の方々には不審があるかも知れませんが、詳しく師のご見解を承りますと、なるほどと思えます。鈴木大拙師は、晩年には浄土真宗系の大谷大学の教授もされており、親鸞聖人の教えを学問的にも深く研究された上での事でもあると思いますが、禅宗も、浄土宗も、浄土真宗も、ギリギリの悟りと言いますか、信心を得るところの心模様においては変わるところが無いと言うお立場だと思われます。私も永年、根拠も無く、そう思って参りましたが、このご著書を読み返しまして、成る程と頷かされているところです。

無心というのは、木石のように、何も感情が無いと言うことでもなく、また、今週の月曜コラムで申し上げた「凡夫のはからい」が無いと言うことでもなく、何事にも囚われない、そして何事も、受け容れる絶対受動性だと言われておられます。即ち、親鸞聖人が『不断煩悩得涅槃(ふだんぼんのうとくねはん)』【煩悩を抱えたままに悟りの世界に入る】と言われ、また自然法爾(じねんほうに)といわれている聖人の至られた境地は、まさに我が煩悩にすらはからうことのない自然体ではないかと思われます。

"凡夫のはからい"は決して無くならないけれども、無心だからこそ、我が"凡夫のはからい"がはっきりと見えて、その"凡夫のはからい"にむやみに引きずられることが無くなるのだと思われます。 "凡夫のはからい"は我執・自己愛から来るものであります。我執がある限り、私のこの"凡夫のはからい"に気付くことはありません。そして更には"凡夫のはからい"を取り除こうとすることこそ、"凡夫のはからい"であることに気付かれたのが親鸞聖人ではなかったかと思います。

そして、親鸞聖人は"凡夫のはからい"も"仏様のはからい" であったと気付かれたとき、すべては、親鸞一人を救う為のおはからいであったと、絶対の受動性である無心の境地を体得されたのだと思われます。

禅門では、無心の境地を鏡に譬えます。鏡は、何でも映します。綺麗なものも汚いものもより好みすることなく映します。そして、次から次へと鏡の前に現れる物を映し出します。綺麗だから、気に入ったから映し残すと言うことはありません。また、汚いから映さないと言うこともありません。鏡はただ無心に映すだけだと・・・・。そして、綺麗なものには執着し、気に入らないものは排除しようとする私達の心は、本来生まれてきた時は鏡と同じだったのであるが、我執と言う埃(ホコリ)で曇ってしまっているという訳です。

埃で曇った鏡は、"凡夫のはからい"を映し出せません。『総てのものを拒むこと無く映し出す心を無心と言うのである』、鈴木大拙師の説かれる無心とはそういうことだと受け取れるのではないかと思います。

考えて見ますと、お釈迦様の生きておられた時代も、親鸞聖人の生きておられた時代も、何十億年という地球の歴史、宇宙の歴史から致しますと2500年以内のことであります。宇宙の時間経過から致しますと、ほんの瞬きする間と言っても過言ではありません。そして、地球が太陽の周りを廻っている地動説をコペルニクスが称えたのは、ほんの450年前であります。そして、宇宙の広大さが分かったのは、この200年のことであります。

この間に人間は、宇宙の実体も科学的に解明出来るものと過信するに至り、凡夫のはからいを拡大して参ったような気が致します。しかし地球上の人類が知り得た宇宙の真実は、空間的に見ましても、時間的に見ても、宇宙全体の何万分の一或いは何百万分の一でしかないはずであります。そんな無知な自己をとっくの昔に深く自覚されたのがお釈迦様を始めとしてインド、中国、日本に出られた祖師方であり、親鸞聖人だと思います。

私達人類は、無心を目指すというより、むしろ"凡夫のはからい"を増大させることに必死に走っているように思えます。この辺りで、方向転換を図る必要があるのではないか。鈴木大拙師の著書『無心ということ』を読みながらそう思わずにはいられませんでした。


[ご意見・ご感想]

[コラムのお部屋へ]


No.424  2004.09.20

蓮如上人御一代記聞書讃解ー第135条ー

『れんにょしょうにん ごいちだいき ききがき さんかい』と読みます。

表題―まいらせ心わろし

まえがき.
「凡夫のはからい」という言葉があります。「私達凡夫が考えることは所詮大したことはない、真理に適っていない」とでもいう意味だと思いますが、仏法は、この凡夫の"はからい"を止めて、仏様に一切をお任せしなさいと説きます。そして、そこに絶対の自由があり、苦からの解脱が可能となるのだと説きます。

考えて見ますと、私の日常生活は、"はからい" の連続であります。「これはこうして、あれはああして、何はどうしょう。この人は良い人、あの人は悪い人」と、自分の希望する結果を求めて、色々と手立てを考え、策を労したり、自分勝手な基準で物事や人を断定しようとします。実際のところは、現実の社会生活でこのような"はからい"をしないと生きていけないと思っていますが、本当にそうかと問い直す必要もあるのではないかと思います。

例えば、赤ちゃんは何も"はからい"ませんが、母親が、また周囲の人々皆が"はからって"くれてるからこそ生長していきます。禅門では、「赤子の無心に戻れ」と説く場合もあるようですが、"はからい"を捨てなさいと言うことであります。

しかし、私達は「泣けばお乳が貰える」「笑顔を見せれば可愛がって貰える」「勉強すれば誉められる」「親の気に入ることをすればお小遣いが増える」と、生長するに従って色々と体験学習し、そして知識も得て、はからいの生活習慣を無意識のうちに身に付けてしまいますから、元の赤子の無心に戻るのは並大抵のことではありません。

どうすれば、赤ちゃんの無心に戻れるでしょうか、そして"凡夫のはからい"から脱出できるでしょうか。

●聞書本文
蓮如上人仰せられ候。仏法にはまいらせ心わろし。是れをして御心にかなはんと思ふ心なり。仏法の上は何事も報謝と存すべきなりと。

●現代意訳
蓮如上人がおっしゃいました。「仏法の信心を得るには"まいらせ心"はよくない。"まいらせ心"というのは、これをして仏の御心に気に入られようとする心である。仏法の上では何事も、ただ報謝に尽きると考えるべきである」と。

●井上善右衛門先生の讃解
「まいらせ心」というのは、次下に述べてあるように「これをして御心にかなはんと思う心」でありますが、さらに具体的に言えば、念仏を称え善根を修している事が、仏の御心にかのうて摂取にあずかり、往生を得る身になるであろうと期待する心であります。

つまり仏の嘉(よみ、好とする)される事をして、それによって救われようという思いですが、こうした思いは人間の心底に深く潜んでいる本質的な性向によるものといえましょう。人間関係は常に相対的な遣り取りによって成り立っていますから、そうした人間の固有な性質が気付かずして宗教の場にも現れるのです。しかしそれが純粋な真実の宗教の世界を阻む大きな障害となることに気付かねばなりません。それは仏なる絶対者と自分との間柄を相対的な人間の力で結び付けようとする過ちであります。

人間の有限にして相対的な心で、とやかく思うたり、考えたりすることを総じて「はからい」と言います。このはからい心を中心として実践し、それによって仏との関係を成就しようとするのを自力と誡められます。何故ならそれは場を取り違えているからであります。宗教は人間の力を超えたところに開かれます。しかもそれが還って人生を真実に照らすものになるのです。真実に照らすというのは人間のはからいで解決できない事柄に打開の新しい光が与えられるということであります。ところがその首尾が混乱して逆に人間のはからいで宗教の世界に立ち向かおうとするのが自力の過ちであります。自力の効は自力無効と気づかされることでありましょう。

相対的本質に由来する人間のはからいで、自己を超えようとするのは、自分が自分の尻尾を追いかけて果てしなく"ぐるぐる廻い"を続けるようなものです。このような心に停滞して身の一大事を失し、真実の教えに触れながらも空しく過ぎることを痛んで「仏法にはまいらせ心わろし」と申されているのであります。

また、「仏法の上は何事も報謝と存ずべきなり」とありますが、「何事も」とは信に生かされる生活の一切を指します。それは身口意の三業にわたる総ての営みであります。「報謝」意識的報謝を超えて、宗教的生活実践の本質を語られたものです。一般に「報謝の念仏」というと、報謝を意識している念仏のように思われますが、はからいを離れ、まいらせ心を忘れて、しかもほとばしる念仏は仏恩より催される念仏ですから、意識すると否とにかかわらず報謝にかなう念仏であります。何心なくもうす念仏も、有難いと思う念仏も、悲しみの念仏も、ふと申す念仏も、報謝であります。では報謝とは如何なる意でありましょう。

「はからい」と「まいらせ心」を離れるということは、人間的意識の基盤が転ずるということであります。しかしそれは心が入れ替わるということではありません。凡夫の心をそのままにそれを仏心が貫いて、この心の一切を摂め取って下さる。摂め取るということは、わが心の土台となって下さることです。その土台の上に生活が成り立つことになれば、意識すると否とは問題ではありません。

『成唯識論』に、執我の上に成り立つ身口意の三業は、たとえ精進の様相を呈しても本質的には懈怠である。何故なら真実の世界に向かい進むのではなく、執我に足をくくられてそこに停滞している行動だからと語られている事を思えばよく解ります。丁度その反対に大悲に照らし取られての生活は、思うも思わざるも仏恩の上に成り立つものであります。

報謝とは。仏恩に催され我の執を離れたる行いの故に報謝といわざるをえないのです。即ち法爾として恵まれる無我行であることを示す言葉です。たとえ煩悩の惰性に思わずわざわいされることがあっても「念々称名常懺悔」の徳が自ずと宿されてきます。

生活が仏恩の上に成り立ってくると、自ずと報謝の則にかない、知らずして無我の徳に貫かれて、そこに自ずとその人の人生が様相を変えてくることは、宗教的真理のもたらす奇しき消息であります。

●あとがき
凡夫のはからい心ではなく、仏様のはからいにお任せするというのが、浄土門の信心であり、禅門でいう悟りだと思います。仏様のはからいに任せるには、自我があっては、お任せ出来ませんが、この自我は自分の力で除き取れるものではありません。凡夫の自力の限りを尽くし、やがてその"はからい心"の限界に気づかしめられるとき、自力無効の他力の本願に救い取られるのだと思います。

自力ではなく、他力の働きによるのですから、仏法の上は何事も報謝と存すべきなり、と蓮如上人が言われたのでしょう。

そして、逆説的ではありますが、私達に"凡夫のはからい心"があるからこそ、悟りがあり、他力本願による救いがあるのだと思います。自力の限りを尽くした上での他力本願なのだと思います。親鸞聖人も、20年間自力の限りを尽くした後、絶妙のタイミングで法然上人に出遇われて、他力の本願に気付かしめられた訳であります。

また、禅門の道元禅師も、決死の覚悟で中国に渡られて得られたのは、柔軟心(にゅうなんしん)だったと述懐されたそうです。柔軟心は、"はからい心"と対極にある心です。すべてを受け容れる赤子の無心です。道元禅師も"はからい心"を持ち合わせておられたからこそ、柔軟心を得られたのであります。

仏様のはからいに気づかしめられると、報謝と柔軟心が芽生える、これは仏道を歩む人にとって自然な消息だとは、祖師方の一致したお言葉だと思います。


[ご意見・ご感想]

[コラムのお部屋へ]


No.423  2004.09.16

相思相愛

『冬のソナタ』と言う韓国ドラマが話題になっています。主役の韓国俳優の人気は、今やキムタク以上のようです。一気に韓国ブームが到来したような感じが致します。 私は、一度もそのドラマを見たことはありませんが、報道番組で紹介されているところから察しますと、昔の日本映画でこれまた大人気だった『君の名は』と同様、初恋純愛物語と言いますか、初恋相思相愛物語のようです。

特に女性に人気があるのは分かりますが、50歳、60歳台の方々にも熱烈なファンがいると言うことを聞き、やはり、初恋とか相思相愛は、いつまで経っても胸"ときめく"特別なものなのだなと再認識致しました。そして、人生における最高の幸せは、やはり愛して愛される相思相愛が実感される時なのかも知れないと思いました。しかし、人間のこの相思相愛の恋愛感情はそう長く続くものではない事も事実であります。

歳老いるとともに現実に出遭い、恋愛感情から程遠い生活が繰り広げられるのが大方の人生だと思いますが、私達の心の奥底では相思相愛を望む切実な感情は終生消えないのでしょう。だから、いつまで経っても、"初恋"とか"相思相愛"と言う言葉に出会うと条件反射的に"胸がときめく"のだと思います。

相思相愛が人生最高の幸せだと致しましたら、永遠に相思相愛状態が実現すれば、永遠の幸せが得られると言うことになります。仏教では、この永遠の幸せになる道筋を教えているのだとこの度思ったことです。つまり、仏様との相思相愛関係を勧めていると考えられます。親鸞聖人のお教えでは、阿弥陀様と相思相愛関係になると言うことですね。

阿弥陀仏は、私が生まれてから、いや生まれる前から私に片想いしていらっしゃると言うことです。 それに気付かない私は名誉や財産、そして異性に目が眩み、人生をさ迷っていると言うことになります。しかし、そんな私に、阿弥陀様は常に片想いのシグナルを送って来られています。苦難・苦悩と言うシグナルです。

そしてやがては、私を本当に愛してくれるのは阿弥陀様だけであり、本当に愛さねばならないのは阿弥陀様だったのだと確信出来るようになるのだと思います。この心境を詩にされているのが、無相庵カレンダーの16日の西川玄苔師のお言葉『奈がながの(長々の)、月日をかけて、御佛(みほとけ)は、そのみこころ(御心)をとどけたまえり』だと思います。

阿弥陀仏との相思相愛を勧めているのが親鸞聖人のお教えではないかと、『冬ソナ』の人気を横目で見ながら思ったことであります。


[ご意見・ご感想]

[コラムのお部屋へ]


No.422  2004.09.13

蓮如上人御一代記聞書讃解ー第133条ー

『れんにょしょうにん ごいちだいき ききがき さんかい』と読みます。

表題―冥見(みょうけん)を恐るべし

まえがき.
私達の日常生活は無意識のうちの選択・決断の連続です。常に「あれかこれか?」「こうしょうかああしようか?」と自問自答の繰り返しです。殆どの場合その結論は瞬時に下されており、私達にはそんな選択過程があるとも意識出来ていません。そして、その選択基準に付いても意識していません。

人生を左右する問題の場合は勿論ですが、そうではなくても、生活にある程度重大な影響や変化をもたらしそうな案件に付いては若干時間を掛けて選択し決断致します。その時の結論を下す基準が何処にあるかが、その人の人生における価値観であり、その人の人生の依り処でもあると言ってもよいと思います。

廻りの人々の目を気にして、世間の常識からして異常と思われないようにとか、嫌われないようにと、我が行動を決めると言うのが一般的な基準だと思います。これはこれで大切なことではありますが、今日の聞書は、仏教徒としてはそれでは極めて不充分だと教えています。

結論と致しましては、仏様の眼から見た場合にどうか、一般的な表現に換えますと、宇宙の真理に照らしてどうかと言う視点が最も大切だと言うことですが、これは、無相庵カレンダーの8日のお言葉『独りを慎しむ』と言うことでもあります(お言葉の部屋の解説をご参照下さい)。

私自身顧みますと殆どの場合は、損得とか、好き嫌い、名誉・不名誉等が基準となってしまっているように思われます。これは自己愛が基盤となっている選択基準であります。根本に我執があります。この基準に従いますと、必ず真理から外れており、最終的には我が身の不幸を招くと言っても過言ではないでしょう。

では、どう判断すればよいのでしょうか。非常に難しいことではありますが、先ずは周りの人々にとってどうか、地域社会にとってどうか、日本全体にとってどうか、人類にとってどうか、地球にとってどうか、と言う自己愛を離れた視点で物事を選択することが、仏様の眼に適うと言ってもよいのではないかと思いますが、如何でしょうか・・・・?

●聞書本文
同行・同侶の目をはじて冥慮を恐れず、ただ冥見を恐ろしく存ずべきことなり.

●現代意訳
自分の言動を周囲の人がどう見るかばかりを気にして、仏様の眼を恐れないと言うのはどうだろうか。私の考え方や言動が、仏様の眼から見て(宇宙の真理に照らした場合に)、どうかと言う視点が我々仏教徒には最も大切なことである。

●井上善右衛門先生の讃解
「同行・同侶の目を恥じる」というのは要するに人間相手の心です。「冥慮を恐れる」というのは、人間を超えた真実者の冥見を深く心に蔵して自らを慎むことであります。たとえ人は知らずとも、仏様が総てをご覧になっていると言う心の目をもつ人のことです。悪事というものは人の見ているところではできない。ところが人の見ていないところでこっそりやる。それは何時の間にか、人間が宇宙の真実から離別した存在になり、ただ自己の感覚に映じるものだけを総てとする錯誤に陥った意識から起る非行であります。

法の制裁や人の批判は外面的抑止力とはなっても、人間自体の心まで変えることは出来ません。悪の根源は、真実の母胎より切り離された自我意識の妄想と執我のエゴに由来するものです。嘘や妄想。へつらいや虚飾のすべての源はここにあります。「冥見を恐ろしく存ずべきこと」とはわれわれの存在を本来的自覚に復帰せしめる言葉として深く省みるべき意味を含んでいます。

これに関連して忘れ難い実話があります。記して御参考に供します。ドイツのライン河に沿ったケルンの町に、ケルネルドームとして知られている大寺院があります。12世紀後半に起工され13世紀に竣工したゴシック建築の代表ともいわれる雄大壮麗な大教堂であり、そそり立つ2基の尖塔があります。この建築が進められていた頃、その塔に毎日身心をうち込んで花模様を刻んでいた一人の彫刻家がありました。ある日、見廻りに来た監督の技師が「そんな丁寧な彫刻をして何になる。下を歩いている人を見たまえ、蟻のように見えるではないか。ここの彫刻の細かさなど見えるものか」と言って注意した。するとその彫刻家の曰く「下から見てもらうために彫刻しているのではありません。神様はいつも上から見ておいでになります」と答えたという・・・。かつてケルンを訪れたとき、この聖堂の前に立って塔を仰ぎ、この話を思い出して胸せまる思いがしたのであります。

現代人はこの彫刻家の言葉を馬鹿げた幻想というかもわかりません。しかし人間の眼だけを相手としている意識こそ妄想ではありますまいか。問題の根本はわれわれ人間が宇宙と自己との正しい関係を如何に主体的に自覚し、如何に正しい精神的位置付けの中に生きているかということです。人間が本当の人間になろうとするとき、切り離せない宇宙的なものと自己との関係は必ずや意識に投影されてきます。

シナの古典には、「天知る、地知る、人知る、我知る」ということが「四知」として語り伝えられているのも単なる誡めのみの言葉ではありますまい。人間の心の落ち着きどころは、天地のまことの位置に立つ己れに帰り生きることです。

その人の生きる依りどころは、必ずやその人の生活の上にまた人格の上に顕現せざるを得ません。『論語』に「其のなすところを視、その由る所を視、その安ずる所を察すれば、人いづくんぞかくさんや、人いづくんぞかくさんや」とあります。その人の行動を視、その動機を視、その内心の依りどころを察すれば、その人の正体は覆うことなく顕れるというのですが、まことに至言といわねばなりません。

今ここに「冥見」とはまさにその人の内心の落ち着きどころであり、それが動機となり行動となる依り処であります。換言すれば純粋の宗教的開眼によって本当の心の住み家が与えられるということです。『聞書』に

弥陀のただ知ろしめすように心中をもつべし、冥加を恐ろしく存ずべき事なり(83条)
とあるのは本条とぴったり照応する一条であることが知られます。

●あとがき
井上先生が例として挙げられている彫刻家の視点が、仏様の眼を具体的に示したものだと思います。仏教徒でこれに異論を唱える人はいないでしょう。効率を求める経済第一主義者にとっては、人に見えないところでの精緻な彫刻は無駄なことだと思います。上げ底のお土産品も拍手喝采のアイディアでしょう。

しかし、そう言う考えから生まれた品物であれ、サービスであれ、私達の表面に顕れた言動は、やはり仏様にも認められませんでしょうし、結局は周りの人々にも感動を与えないだろうと思われます。

仏法を聞くと言うことは、結局、少しずつでも、仏様の眼を頂くと言うことだと思いますが、少し現実的な例を挙げて考察致しますと、3年目を迎えた同時多発テロ9.11に致しましても、極最近のロシアの北オセチア共和国で起きたテロに致しましても、世界に大きな影響力を持つ二人の大統領が、「テロには屈しない」と宣言しておりますが、仏教の『縁起の道理』から致しますと、「テロを絶滅する」と言う宣言をしなければなりません。「テロの発生する根本原因を探り、テロが起らない世界を各国の協力を得て構築する」と言う姿勢で無ければ、テロの連鎖は永遠に続くと言うのは誰も否定出来ないと思います。二人の大統領こそ、冥慮を恐れていないと言うことだと思います。

テロを空爆で抑えこむ道を選択したアメリカの間違いは、イラクの混迷、アフガニスタンの不安定状態に如実に顕れていると考えねばなりません。仏様の眼を恐れぬと言うのは、縁起の道理を無視すると言うことであり、自我を押し通す事でもあると言うことは、現実の世界が直面しているテロと大きな経済的不平等が雄弁に語っていると考えるべきではなかろうかと思う次第です。

また小さい例と致しましては、私の直面している経済危機も、縁起の道理から致しますと、私の経営のあり方に基本的な問題と多くの問題があったからだと振り返っています。こうなるべくしてこうなったと思っております。この考察は、後日にまとめたいと思いますが、世の中も、地球上で起る総ての現象は、宇宙の真理・道理から外れるものではありません。「縁に依って起る」と言うお釈迦様が発見された宇宙の真理・道理は、ニュートンが発見した万有引力の法則をも包含した絶対的真理であり、己れの正否をこの真理に問い直すことが、仏様の眼を恐れると言うことだと私は思います。


[ご意見・ご感想]

[コラムのお部屋へ]


No.421  2004.09.09

台風一過

今年は高気圧の配置からしても台風の当たり年だそうです。18号台風は今年日本列島に上陸した7番目の台風ですが、1年に7つの台風が上陸したのは新記録だそうです。

神戸は比較的台風の被害を受ける事は少なく、私は神戸市西区に住んでいますが、私自身この25年間で台風による被害を受けた記憶はありません。しかし今回、珍しく停電を経験致しました。7日の午後4時頃、バーンと言う爆発音と共に火花が散り、停電となりました。結局、停電解消は8日午後3時でしたので、丸1日停電の生活を余儀なくされました。10年前の神戸大震災の時には、断水の不便を記憶していますが、停電で困ったと言う記憶はありません。大袈裟に申しますと、始めて停電の不便さを感じたと言ってよいでしょう。

電話もパソコン通信も駄目ですから、外部との情報交換は唯一携帯電話ですが、これも電池切れになれば、家庭電源での充電は出来ませんから、頼りになる"命の綱"とは思えませんでした(実際、停電の翌日は、使用出来ませんでした)。クーラーが効かない、風呂にも入れない、テレビも見れない、本も読めない、冷蔵庫の中の食物が心配になる、結局、暗くなったら、寝るしかありませんでした。今回の停電は現代人が如何に電気に頼った生活をしているのかを思い知らされました。

そして、丸1日間の電気の無い生活をしながら、電気の無い昔の人々の生活はどんなものだったろうかと想像しました。多分江戸時代は未だ家庭には電気は無かったはずだし、ましてや、あの親鸞聖人の生きておられた鎌倉時代の頃は、確実に電灯は無かったはずで、そんな中、多くの経典を読まれ、沢山の著述をされているのですが、大変なご苦労があったのだろうなと、これまでとは少し切り口の違う偉大さに感動させられました。

現代の私達は、電気、水道、ガスが無ければ、お手上げですが、ほんの120年前までは、電気、ガス、水道のない家庭生活でした。そう言うことを改めて知りますと、現在まで伝わる多くの経典や他の芸術品の存在を思う時、先人の残した遺産を見る目は確実に変わりました。

そしてまた、私達は生活が便利になり豊かになることが幸せと思っている訳ですが、電気、ガス、水道のない時代の人々と比べて、私達現代人の方が幸せ感を抱いているかと言うと、そうでもないのではないかとも思い、やはり、幸せは生活の便利不便とは次元の違うところにあるのだとも再認識致しました。

今回の停電は、電柱に設置されているトランスに明石海峡からの潮風が当たり、トランスがショートした事が原因のようです。度重なる台風による潮風が、私に電気の大切さと共に、先人のご苦労、そして物質文明が必ずしも幸せをもたらしてはいない事を伝えてくれたのだと思いました。

台風一過、我が家に残された台風の爪跡は過電流によるテレビの破損と給湯器の故障だけです。家屋を損傷する被害に遇われた方に比較すれば大したことは無いと、幸運に感謝したいと思います。


[ご意見・ご感想]

[コラムのお部屋へ]



[HOME]