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No.460  2005.01.24

蓮如上人御一代記聞書讃解ー第227条ー

『れんにょしょうにん ごいちだいき ききがき さんかい』と読みます。

表題―我がよき者にはやなりて

●まえがき
この聞書で、善き事とか悪き事という言葉がよく出てまいります。今日の聞書もそうですが、善き事とはどういう事を言い、悪き事とは何をもっていうのかをあらたまって質問されますと、案外即答できないものではないでしょうか。

親鸞聖人は、何が善悪かは私達には分からないといわれています。善いと思った事が悪い結果を生み出すこともありますし、悪い事が結果的には善い事に繋がってゆく場合も経験致しますから、確かに、難しいことかも知れません。

今勉強中の唯識の参考書の著者、太田久紀先生は、悪とは利己的、自分が得することを考えて起こした行為を悪であると言ってよいのではないかとされ、末那識(まなしき)は常に自分の得する事しか考えていない深層心であり、この末那識が働いている限り、たとえ善き事をしていても、私達が気付かない心の奥底では、我執に基づく利己心が働いていると言う事になります。今日の聞書では、その心の動きは一大事であると言うものであります。

●聞書本文
皆人毎に善き事を言ひもし働きもすることあれば、真俗ともにそれを我がよき者にはやなりて、その心にて御恩といふことは打ち忘れて、我が心本になるによりて冥加に盡きて、世間仏法ともに悪しき心が必ず必ず出来(しゅつらい)するなり、一大事なりと云々。

●現代意訳
人は誰でも時として善い事を言ったり、善い行為もするものであるが、仏法のことでも、また世事においても、いささかでも善い事をすると、自分は善き者である、立派な人間であると言う想いが直ぐに胸に生じ、自分自身が多くの御恩を蒙っている事を忘れ、俺が俺がと言う我情にとらわれるようになる。そうなると折角の仏様のご加護を自分で遮ってしまうことになってしまう。世事においても仏法上のことも、そう云う悪い心が必ず湧き上がってくるものである。これこそ取り返しのつかない憂慮すべき事態である。

●井上善右衛門先生の讃解
人間として、如何なる人にも共通する最も根深い迷いは我執であります。我執というのは自我意識の底に、真相に反する「我」の幻をいだき、それに執ずる迷いであります。
この世のものすべては流れ遷り変ってゆきます。無常とはその真実相を示す言葉です。ところが人間はこの無常の中に生きながら無常に一致した生き方はしていません。老いを厭い、病をにくみ、死を恐れているのが人間の現実です。そこに真実に違する矛盾が起り、その矛盾の故に悩みが生じます。意識の底に幻覚的なあるべからざる自己の影を描いて、その影の中に自己を閉じ込めるこの我執は、人間が背負っている最も重大な心の病です。

もろもろの煩悩というのも、この我執が根となって生じる妄情であり、自らより出て自らを煩わし悩ますものです。自己中心の利己主義が如何にこの世を乱していることでしょう。また自己主張の精神的エゴイズムはさらに大きな禍いの本です。これらすべては我執の迷いに由来するものであります。

我執は意識の底に潜む形なき迷執ですから、意識の反省の手の届かないところで心を汚し濁し歪めます。ところがわれわれはこの事に気付かず、皮相な意識面で善い事をした立派な行ないをしたと想い込んで自負するのですが、ここに大きな危険が伏在しています。

かえりみれば、たまたま善い事をするというのも、自分の気付かぬところに真実者の催促を蒙るからではありませんか。哲人カントも良心の声を我が声とは云わず「天来の声」と言っています。虚仮を離れたよび声は、自分を越えて自分を喚んでいる声と実感されずにはおられないからです。 「それを我がよき者にはやなりて、その心にて御恩といふことは打ち忘れて・・・・」とありますが、自分がよきものになれば、自己が主となりますから、己れを超えた真実の働きに浴して、その徳を仰ぐ御恩という世界は消え去ってしまいます。

我が心本になるによりて冥加に盡きて・・・」我が先に立ち我情にとらわれると、その途端に仏の真実の働きを遮ってしまうことになります。それが冥加に尽きるという事でしょう。冥加とは、自分には気付かずに、仏の方より暗々に加えられている徳の働きです。その徳をこちらから断ってしまい、冥加を失ってしまう。そしてその結果「世間仏法ともに悪しき心が必ず必ず出来(しゅつらい)するなり、一大事なり」とあります。我執は悪の根源です。我執が心を占領して根を下ろすことは、もろもろの悪しき思いや煩悩が増長する門戸を開くようなものです。

そして折角、仏法を聞く縁に遇いながら、またむなしく迷いに流転する身となる。まことにそれは、人と生まれた身の一大事と云わねばなりません。
われわれ凡夫には、常にこの危険が潜みますが、真実の信心をたまわればたまわる程、この大事を知らしめられ、妄念は起っても常に仏智に立ち帰り、慙愧と共に悲心を仰ぎ仏恩に生かしめられる身となりましょう。善導大師が「念々称名常懺悔」と申されたのが偲ばれます。「一大事なり」という結語には深くこの誡めが感じられるのです。

●あとがき
今日の聞書を読む限り、蓮如上人も、きっと唯識を勉強された上でのご発言ではないかと思います。浄土真宗と曹洞宗は、他宗派に比較致しますと、煩悩に焦点を当てます。その面では煩悩に焦点を当てて悟りへの歩み方を示す唯識の影響を多分に受けて成立したもの、というよりも、それぞれの祖師方ご自身が唯識を勉強されていたのではないかと思えるふしがあります。

今日の聞書を読んで、誤解しがちなのは、「私達が善き事をしても、奥底には我執の心が働いているから善き事を為しても意味がない」と受け取りかねないところです。そうではなくて、やはり、私達は善き事を積み重ねて、阿頼耶識に善き種を蒔き続けてゆかねばなりません。ただ、善き事をしていても、自分の心の深層には我執が働いている事を自覚しながらでなければ、その善き事も善き事ではなくなってしまうという誡めだと受け取りたいと思います。

ボランティア活動も、善の行為をしようとしてやるのではなく、報恩感謝の心でボランティアを奉じる心構えを失っては、本当のボランティアではないと言う厳しい誡めだと思われます。大袈裟なボランティア活動でなくとも、身近な人々への善の行為にも、この誡めを忘れてはならないと思います。この仏教コラムを書き続ける私の心の奥底に、「こんな立派な考え方をしている」「こんな事も知っている」と言う驕慢の心がうごめいている事を忘れてはならないと言うことだと思います。私自身が勉強しつつ、どなたかの仏法との縁結びの一助になれば・・・と言う心を持ち続けたいと思います。

唯識の善悪についてー太田久紀氏の『唯識の読み方』よりー
唯識では人間の一番根底を阿頼耶識として捉えるということは、今まで繰り返しみてきたわけであるが、その阿頼耶識は善なのか悪なのかということである。

本当はその前に、善・悪とはいったい何をさすのかという問題があるのだが、そしてそれを多少とも突っ込んで考えるとすると、世界の思想史とか倫理学史のような分野に足をいれなければならないことになるので、ここでは仏教でいう場合の善・悪というのは、どうやら我執・利己性・自己中心的思惟などがその中心にあり、それに添ったものを悪、それを超えたものを善とするという程度に、おおまかに捉えていこうと思う。利己性を中心とするから、人にも迷惑をかけたり、自分でもすっきりしなかったりするのである。菩薩の心を清浄といい、凡夫の心を染汚(ぜんま)というから、「きいな心」と「汚れた心」と言い換えてもよいだろう。「あの人はきれいな心の人だ」「あの人はお金に汚い」などとふだん使っている、あの意味である。その「きれい」が善であり、「きたない」というのが悪だと考えておこう。


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No.459  2005.01.20

成仏という事

世間一般で「成仏」と言うのは、「死ぬ事」だと考えられていますが、仏教では決して「死ぬ事」そのものを言うのではありません。しかし、成仏について、統一した考え方もまた無い事も確かであります。

生きている生身のままで悟りを開く事を成仏と言う見解もあります(真言宗の考え方だと思います)。生身のままで悟りを開くのは、禅宗もそうですが、禅宗では、それを成仏とは言っていないようであります。禅宗が成仏と言う表現を取っていないのは、浄土真宗や浄土宗で成仏を死ぬ事と結び付けていると考えて来たからだと思われます。

成仏に関して浄土真宗教団の考え方がどうかは存じておりませんが、親鸞聖人の成仏についてのお考えは、私の思うには、親鸞聖人の潔癖なお考えからして、「生身のままでは、肉体に伴なって起る煩悩は決して払拭出来ない、そして生きている間は正定聚(しょうじょうじゅ)と言う成仏を約束された境涯には至り得るが、成仏というのは煩悩が肉体と共に滅した死の瞬間である」と言う考えをされていたのではないかと推察しております。

肉体が滅しない限り煩悩は消えないかどうかは、煩悩の捉え方によりますから、一概に、真言宗の即身成仏を否定は出来ません。しかし、生きている限りは生きたいと言う欲望があり、全く煩悩が滅するとは思えませんので、親鸞聖人のおっしゃる浄土往生と言う考え方が現実的だと思われます。

上述の議論はあるとは思いますが、本当の成仏は、この世に生まれて、自分らしく生きることではないかと思います。桜は桜の如く初春に咲き、そして散って行くところに桜の本分があります。菊は菊の、薔薇は薔薇の花を咲かせるところに、本分を果たした訳で、これは成仏したと言えると思います。

成仏とは、本分を余すところ無く発揮したことと言ってよいと思います。人間は人間らしく、他の動物と異なった生き方が求められ、各個人個人に与えられた本分を如何無く発揮して始めて、成仏したと言えるのではないかと思います。最近奈良県で発生した幼女誘拐殺人事件を起こした犯人は、人間と生まれながら人間らしくない生き方をしてしまった訳ですから、たとえ死んで罪を償っても成仏したとは言えないでしょう。

正反対に、あの大リーグで活躍しているイチロー選手は、自らに与えられた本分を精一杯発揮しているわけですから、既に成仏していると言ってよいと思います。人夫々に与えられた本分・素質があります。他人よりも恵まれた才能が皆に備わっていると思います。その自分の才能に目覚めて、才能を発揮して、世の中の役に立つのが、成仏すると言う事だと思います。

才能を発揮するとは、イチロー選手の様になることだけではありません。掃除名人として家庭でその才能を開花するのも、手芸の腕を発揮して周りの人々に喜んで貰うのも、家庭料理で家族から一目置かれるのも、総て本分を発揮したことで、立派な成仏だと思います。

自分の出来る事で周りの人々のお役に立つ、或いは喜んで貰えるというのが、お釈迦様が説くところの、本来の成仏であると思います。自分に与えられた素質を見付けたいですし、子供達、孫達が自分の素質を見出す手助けもしたいものです。そして、知人・友人の良きところを大切に見守り合い、拝み合うところに、本当の和が生まれるのではないかと思います。

成仏は死ぬ事ではない、自分を生かし切る事だと思います。


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No.458  2005.01.17

蓮如上人御一代記聞書讃解224条ー

『れんにょしょうにん ごいちだいき ききがき さんかい』と読みます。

表題―仏法に厭足(えんそく)なし

●まえがき
今朝の午前5時46分、神戸淡路大震災から丁度10年となりました。私の家は、神戸市の西区にあり、私の会社の工場も明石にあって、震源地から10キロも離れていませんでしたが、幸いにも活断層から外れていたために、家や工場が倒壊すると言う致命的な被害を蒙ることはありませんでした。

従いまして、同じ神戸の住人ではありますが、家族を失った方々とは若干、この日の迎える想いに違いがあるとは思います。しかし、震災の翌日か翌々日には、須磨区で家の倒壊に遭遇された知人の5人家族を約10日間程度我が家に避難して貰った事もあったり、水の出ない親族や知人の家に明石の工場から水を運んだり、逆に遠くの友人から好意の食材を送って頂いたりと、色々と普通ではない経験を致しましたので、あれから10年になるのかと言う感慨を抱いております。

そして同時に、この10年で私の会社も個人の生活も実に大きく変化している事に驚かされます。家も引越しましたし、あの時借りていた工場からは退去し、当時30数人いた従業員は全員退職して頂き、今は息子と二人だけとなり、自宅が事務所となっております。当時独身だった二人の子供達は結婚し、私達は既に4人の孫がいる爺ちゃんとおばあちゃんになっております。そして、今は、私が主夫となり、出勤する妻を玄関で送り迎えをする逆の立場になっております。 そして、10年前には考えもしていなかったこの無相庵ホームページが生まれております。恐らく、どなたにおかれましても、大小の差はあるかも知れませんが、10年の月日は思いもかけない変化を齎していることでありましょう。

私達夫婦と私の会社に取りましては、どうしてもマイナス変化にしか感じられないこの10年でありますが、その中だからこそ真剣に求め始めた仏法との出遇いは、私のこれからの人生を大きく支えてくれるものと思います。

今日の聞書は、仏法では飽きるということは無いと言うものでありますが、人生で遭遇する色々な苦難が自分自身のあり方に問題があると気付きますと、仏法は幾ら聞いても飽きる事にはならないだろうと実感しているところであります。

●聞書本文
「仏法に厭足(訓読みで、あきたり、音読みでは、えんそく)なければ法の不思議を聞く」といへり。前住上人仰せられ候、たとへば世上に我がすき好む事をば知りても知りてもなほ能く知りたく思ふに、人に問い幾度も数奇たる事をば聞いても聞いても能く聞きたく思ふ。仏法の事も幾度聞いても飽かぬ事なり、知りても知りても、存じたき事なり、法義をば幾度も幾度も人に問い極め申すべき事なる由仰せられ候。

●現代意訳
「仏法を聞き飽きると言うことがないから、この法の不可思議であり且つ真実である事が信じられるのである」と言われた。そして更に実如上人は、「たとえば世の中で私達が好きなことについては知っても知っても未だ知りたいと思うし、好きなことに関することについて問い尋ねる場合にも、聞いても聞いても飽きることがないように、仏法を聞く場合も、聞いても聞いても飽きない、知っても知っても、もっと知りたいと思うものだ。仏法は何度も何度も人に聞いて聞き抜くことだ」とおっしゃいました。

●井上善右衛門先生の讃解
さて、「厭足なければ」という言葉にどのようなこころが含まれているでしょうか。厭足とは飽き足ることですから、あることに飽きがきて進んで求めようとする意欲を失う状態です。私どもの生活経験にもよくあることで、初めは珍しいので興味は示しているが、やがて飽きてしまう。眺めのよい景色でも二度三度と見ると、もう見ようと思う気持がなくなることがあります。ところが同じ自然の景色でも、幾度見ても見飽きない景観があることを経験します。それはどうしてでしょうか。

ある芸術作品の前に立って、見ても見ても見尽くしたという気がしない。見れば見るほど奥行きが果てしなく深まってゆく。私はかって台北の故宮博物館で宋代の青磁の色に魅せられてしまった事があります。その前に立ち尽くして動けないのです。無限の深さが招くとでも言いましょうか。不思議な事だと感じました。

総じて技巧的なものはいくら繊細でも有限です。作り物だという域を出ません。まことの芸術の真価はこの作り物の域を超えるところにありましょう。真実なるものは無限です。その無限に没入して、これを具現する芸術は、われわれの生命を揺り動かす力を宿します。

ましてや究極の真実そのものが、われわれ人間の究極の問題に喚びかけて来る宗教的精紳は、聞けば聞くほど、問えば問うほど、無限の光がこの有限の身を照らし射し込んでくるのです。どうして飽き足ることが出来ましょうか。

「仏法の事も幾度聞いても飽かぬ事なり、知りても知りても存じたき事なり」とありますが、嗜好や趣味の世界の道は個性と深く結びついた特殊のものですから、総ての人が同じ一つの道を進みうるとは限りません。世間では仏法も特殊な人の関心事と思われている事が多いのですが、真実の宗教は人間という存在の根に関わるものです。言葉を換えれば、人間がまことの人間になるにはどうしても、この道に関わらざるをえないのです。総ての人間の究極的問題を担うものでありますから、人間が人間たる限り、関心を持たざるをえない必然性があります。ただ一日一日を夢と過ごして自己を問い直すことのないのは、この必然性を殊更に鎖(とざ)しているのです。

かぎられた一生の儚い関心事、それが愛欲名利というものでしょうが、その儚い関心事が破れたとき、真実の関心事に立ち帰らざるを得なくなります。即ち人間としての必然性が必然に現れてくるのです。それが人間の究極の関心であり、その時まことの生甲斐の問題に人間は立ち向かうのです。

●あとがき
震災から10年と言うことで追悼行事が行なわれますが、追悼と共に、現在生きている私達自身が、今この瞬間に生かされて生きている事の不可思議を思い、人間としての正しい生き方に思いを致す事が何よりも大切ではないかと思います。


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No.457  2005.01.13

私達人類の忘れもの

今回インド洋で起った津波被害の痛ましさ、被害の甚大さを目の前にし、20万人もの人々を一瞬にして奪う自然の脅威に対して、私達人類は、これまで一体何を準備して来たのだろうか・・・これから何をすべきか、私は、人類に付き付けられた課題に正しく向き合っていない事こそを痛ましく思うべきではなかろうかと考えます。

亡くなられた方を追悼し、数百万と言う被災された人々の支援も大事であるし、今後も起り得る津波対策にも人類の叡智を傾けることは当たり前のことですが、それと同じ位、或いはそれ以上に大切なことは、私達現代人が失ってしまっている宗教心を取り戻すことではないかと思います。

宗教心を持てば災害に遭わないというのではありません。宗教を持とうが持つまいが、災害や苦難に遭遇します。そして、この世に生まれて来た限り、生命あるものは必ず死を迎えます。それも何時やって来るか分かりません。

仏教の教えは、折角人間と言う尊い命を貰ったのだから、他の動物と同じような死を迎えては勿体無いと説きます。それは即ち、他の動物と同じ生き方をしていてはいけないと言うことであります。本能のまま、欲望の満足のためだけに明け暮れする他の動物のような生き方は、勿体無いではないかと言うことであります。

人間だからこそ、自分とは何か、何の為に生まれて来たのか、死とは何かを考える能力を与えられ、人間だからこそ、他の為に役に立つ生き方が出来るのだ・・・と仏教は考えます。そして、そのような生き方、死に方に目覚めるのは一刻を争う問題だとも説きます。明日と言う日が確約された人生ではないからであります。

災害から身を護る対策に人類の叡智を傾けると共に、人類だからこそ出来る生き方に心の眼を開こうではないかと・・・今回の津波災害のもう一つのメッセージではないかと思います。


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No.456  2005.01.10

蓮如上人御一代記聞書讃解ー第217条ー

『れんにょしょうにん ごいちだいき ききがき さんかい』と読みます。

表題―法敬坊の尼公の不信

●まえがき
先々月に個人個人に関する「宗教と相性」と言うテーマのコラムを掲載しましたが、では、夫婦間における宗教上の相性と言うことになるとどうなりますでしょうか。具体的な問いとして、夫婦が異なる宗教をそれぞれに信仰していることはあり得るのでしょうか。かなり昔の事ですが、私の仕事仲間の一人が、仏教系の新興宗教に熱心な女性と結婚致しました。彼は元々は無宗教でしたが、何とか彼女の総てを愛したいと願い、自分も入信して努力されたのですが、結局は破局を迎えると言う事になってしまいました。

宗教心の有無、更に信仰する宗教の別は、その人の根本的な価値観と密接な関係にあると思われますので、夫婦間の宗教に関する不一致はかなり深刻なものだと言えるかも知れません。夫婦で異教徒、しかもお互いの信仰を認め合って夫婦関係が存続していると言うのは、極めて稀、或いは皆無と言えるかも知れません。

しかし一方、夫婦揃って同じ宗教で且つ信心深いと言う例もまた稀であると言っても過言ではないと思われます。私の両親に致しましても、母が仏教講演会を主宰していましても、父は仕事の関係もあったかと思いますが仏教講演会に顔を見せた事はなかったと記憶しています。ただ、私の父は、母が仏教講演会を催す会館の建設に意欲を示した時には、発起人会に出席して議長を務めたと聞いたことがありますので、自分も聞法しようとは思わなかったのでしょうが、母の信仰には理解を示していたのだと思います(母は、「お父さんは私とは違って煩悩が少なく、既に仏様のようだった、だから私のようなじゃじゃ馬も許されていたんよ」と述懐していました)。

大抵の場合は、配偶者が信仰に熱心でも片方の配偶者は無関心である場合が殆どだと推察しておりますが、この場合、相手方にも同じ信仰の道に入って欲しいと言う気持ちが起るのは自然なことだと思いますが、勧誘に一生懸命になればなるほど難しくなるものと思われます。そんな状況の場合、自分の信心が足らないからではないかと思い、周りもそのように考える向きもあるのかも知れません、そしてこれが悩みとなることもあるかも知れません。しかし、これは悩む問題ではなく、この事も仏法の説く因縁を学ぶ機縁としてはどうかと言うのが先師の説くところであります。

上述のテーマについて、今日の聞書と井上善右衛門先生のご感想は一つの答えを示されているものと思います。

●聞書本文
法敬坊に或人不審申され候。これ程仏法に御心をも入れられ候ふ法敬坊の尼公の不信なる。いかがの義に候ふ由申され候へば、法敬坊申され候。不審さる事なれども、これほど朝夕御文を読み候ふに驚き申さぬ心中が、何か法敬が申分にて聞き入れ候ふべき、と申され候ふと云々。

●現代意訳
或人が法敬坊に向って、「あなたのような篤信な仏法者のお側にいる奥方が不信心なのは不審の至りです。どう言う訳でしょうか」と尋ねますと法敬坊は、「不審である事はもっともですが、これ程、朝夕に蓮如聖人の御文を読んでいるのを側で聞きながら重大事と受け取れない妻の心が、私のような者の言う事を聞き入れられるはずがないでしょう」と言われたそうです。

●井上善右衛門先生の讃解
われわれは死を忘れて生きていることが多いのです。自分の命が一定の間保証されているかのように安易な生の観念に住していることが多いのですが、しかしそこから夢の生がこの身をつつむこととなります。夢に生きているとき、それを夢だとは思いません。しかし不実な夢はいつか揺るがざるを得ません。それは真実の生が、夢見る生に喚びかけてくる出来事とも言えましょう。

夢幻の生を破り、真実の生へ転ぜしめるのは、生命の底に起る驚きであります。この驚きの心情がいかに大切な働きを果たすかを思わねばなりません。知識は驚きではありません。驚きこそ開かれなかった世界へその人を入らしめるものです。ここに本当の歩みが始まります。

清沢満之(きよさわまんし)師は「宗教は自己を問い直すことから始まる」と言われましたが、真に自己を問い直すとき、私どもは驚かざるをえません。それは今まで隠されていた問題に自己が心の奥から掘り起こされるからであります。また驚くということも、無意識に自己が問い直されているからでありましょう。

聞法ということは、このような道に私の心を育て養い促し進めるものです。驚くべきことに驚く心の用意が培われるのです。第123条に「一度び仏法をたしなみ候ふ人は、おほやうなれども驚き易きなり」といわれているのはそのことであります。夢が破られる驚きと共に、そこに現われ出て下さる弥陀の本願の広大無辺なることもまた驚きであります。本願に遇うて感動なきを得ましょうか。

こうした驚きの呼びかけを随処に身に受けながら、なおなお堅くなに夢の殻に閉じ篭って、脱却の機を失うているのは歎かわしい事といわねばなりません。その悲心が第174条には「おどろかす甲斐こそなけれ村雀、耳馴れぬれば鳴子にぞ乗る」という歌を引かれて蓮如上人は「ただ人は耳馴れ雀なり」と歎じておられるところにうかがえます。 親鸞上人が正信偈に「難中至難無過之」(なんちゅうしなんむかし、信心を得るのは難しい中でもこれ程難しい事は無い)と述べられておられるのも、ここのところでありましょう。

ところがわれわれが仏法に遇うて心開かれるということは、不思議の催しにあずかると言う外はありません。祖聖(親鸞聖人)はこれを「遠く宿縁を慶べ」と申されました。そこには後天的な環境だけではどうしても割り切ることの出来ぬものがあるからです。法敬坊のような篤信の人の傍に生活しているならば、その感化によって必ず仏法に志しを持ち、信心の人となるはずであると考えるのは、人間の合理的な思考というものです。

勿論、環境が大きな縁の一つとなって働くことはいうまでもありませんが、ただそれだけで必ず聞信の結果が生じるとは言えません。では捨てて顧みずとも良いかといえば、これまた真実を心得ぬ人の思いです。「いづれもいづれもこの順次生に仏になりてたすけ候ふべきなり」という『歎異抄』のこころは共に生活する家族に対して殊に切実な思いといわねばなりません。

いま法敬坊に、あなたの尼公はどうして不信心なのかと問う人に対して、「朝夕お文を読み候ふに驚き申さぬ心中が、何か法敬が申し分にて聞き入れ候べき」と答えられたのは味わうべき言葉です。
尼公に愛想をつかし断念されたのではありません。因縁の深さが思われると共に、やるせなく切ない心がそこに働いていることを深く感じるのであります。

●あとがき
私の場合は、妻にも二人の子供にも仏法を強要したことはありません。子供が幼い頃、家族で般若心経を読むことを習慣にしていた時期はございますが、中学生以上に育ってからは強要したことはありません。

妻にも強要したことはございませんが、下の子が小学校に上がった頃だったと思いますが、妻は嫁の立場として(そうあらねばならないと考えたのでしょう)、私と一緒に母が主宰する仏教講演会の手伝いに行き、自然の成り行きで法話も聞いていました。今は睡眠薬代わりに就寝前に仏教書を読んだり、法話テープを聞いたり、またこのコラムの校正を積極的に担当してくれていますが、これは母や私が強要したからではなく、妻自身に過去世からの仏縁があったのだと、この因縁を有り難く思っております。

二人の子供は既に家庭を持っておりますが、子供達や孫達にも今後も仏法を強要することは致さない積もりです。人生の苦難を乗り越えるために宗教を求めるかどうかはやはり個人個人夫々の因縁によるものだと思うからです。

しかし、私は私の二人の子供に、「父親が信仰している仏法だけは信仰する気になれない」と言われる父親であってはお釈迦様にも親鸞様にも申し訳ない事だと・・・そう言う事にだけはならないようにしなければと自分に言い聞かせています。今のところ、息子はこの無相庵ホームページを編集管理してくれていますし、娘もたまには読んでくれているようですので、これまた有り難いことだと思っていますが、終生仏法と縁が続くかどうかは、これまた因縁にお任せするより外は無いと思っております。


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No.455  2005.01.06

還暦を迎える年の始めに

皆様、改めまして、新年明けましておめでとうございます。

私はこの3月8日に還暦の誕生日を迎えます。私の同級生達は、順次定年を迎えてリタイアしているところですが、私はリタイアする訳には参りません。会社と個人の借金を返し、家族の生活の目途を立て、更に仏法の興隆に多少のお金が必要だからです。会社も個人の生活も存続させ、且つ上向きにする為に何としても踏ん張らねばならないと思っています。ただ、還暦ともなりますと、踏ん張ると申しましても、雇ってくれるところもありませんし、借金の金額が金額ですから、兎にも角にも、私の会社の仕事で飛躍的に収入を増やす事でしか打開の道は拓けません。

5年前から会社も個人も経済危機に陥っているのですが、これまで開発した特許技術で何とか飛躍したいと思って参りました。しかし、なかなかこれはと言う製品開発には至らないまま、今日に至りました。何かが足りないのだとは思いつつも、研究開発にはお金も必要と言うことで、消極的な考え方と行動になってしまっていた事を反省しているところです。そして、幼い頃からの成長過程で、母の庇護の下、お金を稼ぐ大変さを肌で知ると言う育ち方をしておりませんでしたので、お金に対する貪欲さに欠けていることも確かであると自己分析しております。

昨年の仕事始の6日、丁度1年前に、取引先から総ての仕事が無くなると言う通告を受けました。通告を受けた時点で既に資金は切れかかっており、個人の生活資金、会社の運転資金も含めて2ヶ月先には枯渇すると言う状況でした。あれから1年、会社も個人もローン返済条件を緩和して貰う交渉をしたり、その他色々とそれなりに努力致しましたし、収入を増やす為の努力も致しまして、何とか不思議とこの1年間、会社も個人も破綻すること無くやって参りましたが、破綻せずに来られたというだけで、今も、昨年の年初の状況から改善されたとはとても言えません。これは、やはり、私の収入を増やす努力が決定的に足りなかったからだと思います。

今年も、この仏教コラムは続けたいと思っていますが、一方で、お金を稼ぐことにも、積極的な努力をしようと決意致しました。頭をフル回転して、来年の今日、良い報告が出来るように頑張る所存であります。コラム同様、応援の程を宜しくお願い申し上げます。


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No.454  2005.01.03

蓮如上人御一代記聞書讃解ー第213条ー

『れんにょしょうにん ごいちだいき ききがき さんかい』と読みます。

表題―心得たと思うは心得ぬなり

●まえがき
皆様、新年明けましておめでとうございます。
しかし2004年は最後の最後まで災いの年となってしまいましたので、新年の挨拶も憚られる気が致します。スマトラ沖を震源地とする地震は10数万人の命を奪う真に大きく深刻な災いとなっており、死者の数も日を追うごとに万単位で増えているという状況であり、自然の恐さを思い知らされています。

被災地は観光国であるため、日本を含む世界中の国の人々が犠牲になっております。この度の災害を一部の人々が遭遇した災害として片付けず、人類全体が受けた災害として、私達人類が正しい生き方をしているかどうか、足元を顧みる契機にすべきではないかと思わずにはいられません。

さて、今日の聞書も、宗教の根本問題を"心得る"という言葉を取り上げて私達に投げかけてくれていると思います。"知識を広げ増やすこと"と、"信ずること"は全く別のものであるという事であります。この問題は、仏様、阿弥陀様を信ずることが出来ない今の私に取りましては切実な問題ですので、言わんとするところがよく解ります。解りますが、信ずることに至らないと言う"歯痒さ"を如何ともし難いのです。

この"歯痒さ"がありますからいよいよ勉強に励む訳です。しかしこれは他力を信じたいと思いながら、自力に頼っている訳でありますから、いよいよ歯痒さが募ると言う自家撞着(じかどうちゃく)に陥っているのです。

この自家撞着から脱出する唯一正しい方法は、正しい師に遇い、聞法を重ねると言う"たゆまぬ努力"しかないと言うことであります。親鸞聖人は、「難中の難、これに過ぎたるは無し」とまでおっしゃっておられますから、私達も諦めずに、精進するより外はありません。

●聞書本文
心得たと思ふは心得ぬなり、心得ぬと思ふは心得たるなり、弥陀の御助あるべき事の尊さよと思ふは心得たるなり、少しも心得たると思うことはあるまじきことなり、と仰せられ候。されば口伝鈔にいわく「さればこの機の上にたもつところの弥陀の仏智を募らんより他は凡夫いかでか往生の得分あるべきや」といへり。

●現代意訳
「心得たと思うのは心得ていない証拠である。心得ていないと思うのは逆に心得ている証拠である。阿弥陀仏のお助けを頂く有難さを深く感じるというのは心得たということである。少しでも心得たと思うことがあってはならないのだ」とおっしゃいました。従って、覚如上人の書かれた口伝鈔にも「だからこの身は阿弥陀仏の智慧におすがりするより外に救われる道はないのだ」と語られているのです。

●井上善右衛門先生の讃解
この条には知的理解と宗教的理解との別が鮮やかに語られています。初めに先ず「心得たと思うは」とあるのは知的理解を指した言葉です。そしてそれを受けて「心得たと思うは心得ぬなり」と言われています。「心得ぬなり」とは、本当に如来の大悲を頂いた信心ではないと申されているのです。従ってここに「心得る」という言葉が二様に使い分けられていることを知ります。一つは解ったと知解として承知する状態をいい、一つは仏心に値遇して頭の下がった心中を指しておられるのです。

私ども人間は、知とか理解とかを初めから飛び越えて進むことが出来ません。殊に現代人はそうであります。ですから聞法が一度理解という形で受け入れられることは、あながち否定されることではありませんけれども、それを宗教的な魂の開眼と混同し、大悲の領受である信心と取り違えることは大きな誤りであります。理解というのは知性を媒介として頷くことであり、対象化して知ることです。信は直接に私の命に注がれる大悲そのものに浴することであって、知による関接的な理解ではありません。

知的に追求してある種の理解に達することはまだしも意味のあることでしょうが、それまでにも至らず、或る教えを型通りレッテルでも貼ったように知り覚え、それで解った心得たと腰を据えているのは悲しむべきことです。

人間は我が心で考え、我が意識で作るものを転々として渡り歩くものですが、どんなに立派に構築しても、畢竟それは作り物で心の闇は晴れないのであります。「来て見れば浮世なりけりここもまた」といった趣きを心の世界にも経験するものです。

どうにもならない計らいに行き詰まるということは、尊いことであります。真実がそこに私を導くのです。作り物が作り物であることを自ら暴露し、頼り執じていた己れが崩れ行くと、始めて独り真実が仰がれてきます。知解をもって心得たと思うていたことの空しさに目覚め、その空しさの外に何もない己れを、やるせない大悲が摂取したまう尊さが仰がれてくる消息が「心得ぬとおもうは心得たるなり」といわれてある意であります。

そして最後に『口伝鈔』が引用されていますが、仏智を力にすることは己れがすたることです。それを「ゼロの自覚」と語っておる人もあります。己れに執じて仏智を遮っていた、その己れが空しくなることと仏智の無限なる働きとは表裏して現れます。自己が無底の底に落ち込んで消えゆくとき、大悲真実の限りない深さ高さが仰がれ味わわれてきます。

●あとがき
仏法は、学べば学ぶほど、「未だ道遠し」と思わされます。とても心得たとは思えません。従いまして正直なところ、今日の聞書に「心得たると思うことはあるまじきことなり」と書かれてあるのを知りまして、私は少し安心することが出来ました。 信心を得るには程遠い私ですし、死ぬまで無理なのかも知れませんが、仏法の事で勉強したいこと、読みたい本は読めば読むほど増えており、たゆまぬ努力をする教材がドンドン増えていると言うことでもあります。やがては信に至るという希望を抱きながら、この道を歩み続けようと思います。今年の4月頃には、この蓮如上人御一代記聞書の勉強も一応の区切りがつきますが、今年は、唯識と共に、親鸞聖人の最も重要な著作である『教行信証』の勉強に挑戦したいと考えております。
本年もどうか宜しくお願い申し上げます。そして、感想メールは大歓迎ですので、どんなことでもご意見を下さい。


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No.453  2004.12.30

新しい夢に向って

今年も残り2日となりました。今年も、世界、日本、そして私個人、夫々に実に色々な出来事がありました。今年の日本を象徴する漢字一文字に『災』が選ばれましたが、確かに台風、地震、兇悪犯罪が多発した今年は多くの人にとって『災いの年』と言う総括になるのかも知れません。しかし、今年だけに限らず、1年を振りかえる時、多くの人にとりまして、福よりも災いが目立つのではないでしょうか。本当は、災いと同じ位に福に恵まれているはずですが、福よりも災いの印象が強い、そう言う心の構造になっているものと思われます。

私も今年を振りかえって色々と思い起こすことが出来ますが、最終的な結論としては、こうして、今日もコラムを書けていることが何よりの『幸い』であると言うところに落ち着きました。今年のスタート時点では会社も個人も破綻して当たり前のものでありましたが、色々と思いもかけない恵みによって会社も個人も生き続けられて来た1年でありました。

来年3月には、私は生まれ直しの還暦を迎えます。会社の危機に遭遇してから丁度5年になる訳ですが、この5年間は、この無相庵ホームページでコラムを書き続けた5年間でもあります。危機が私に仏法を求めさせ、このコラムを書き続けさせてくれたと思うよりほかありません。そして、この危機は私に『本当に大切な人々』を教えてくれました。私は新しい年に生まれ直しまして、これらの人々に多少とも恩返しをして行きたいと思います。それが私の新しい夢であります。

また、今年もコラムを書き続けることが出来ましたのは、コラム読者の皆様方のお陰でもあります。多くの励ましも頂きましたことを含めまして、感謝申し上げます。

皆様、よいお年を!


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No.452  2004.12.27

蓮如上人御一代記聞書讃解ー第212条ー

『れんにょしょうにん ごいちだいき ききがき さんかい』と読みます。

表題―人に御酒をも下さる

●まえがき
私の母は、小学校入学したての長女を急病で亡くしました。母は当時としては珍しいキャリアウーマンと言うのでしょうか、現在の神戸山手女子高等学校で教鞭を取る、働く女性でありました。今では殆ど見られない住み込みのお手伝いさんに育児の殆どを任せて働きに出でいた状況下に起きた、長女の急死でした。

母は大いに苦悶し、自分を責め、心の落ち着きどころを求めて、仏教の聞法に勤(いそ)しみました。そして、ある時、「私が救われるのは親鸞聖人の説かれるお念仏しかない」と信心が確定したようであります。それは、昭和13年頃のことでした。

その後戦時下の生きるか死ぬかの生活に取り紛れていたようですが、昭和20年(私が生まれた年)の終戦を迎えた後の一時期、田舎の島根県大社町に疎開し、土地の仏教青年会に参加した事がキッカケとなり、疎開先から戻った神戸にも仏教青年会が必要だと一念発起し、昭和25年、現在も続いている仏法を聞く会『垂水見真会』を立ち上げました。

昭和30年には夫(私の父)を交通事故で亡くしますが、自身が亡くなる昭和61年までの30年間、5人の子育てをしながら、仏教流布のために毎月1回の仏教講演会を主宰し続けました。母を支え、駆立てたのは、長女への供養と言う面もあったとは思いますが、自身が救われた仏法を他の人々にも伝えたいと言う願いだったと思います。「仏様の願いが私を動かしている」と良く聞いた言葉です。

母は常々仏法が広まるための工夫をしていました。講演の題名を一般の人が抵抗を感じないようにしていたのもそうですし、お坊さんよりも東大や京大の教授を講師に招いたりしていたのも、一般の人々の関心を集める工夫だったと思います。また、夏にはバスを仕立てて六甲山に納涼登山をしていた時期もありましたし、聴聞を兼ねて京都の南禅寺に日帰りバス旅行したこともありました。総ては、何とかして一般の人々に仏法との縁を結んで欲しい、信心を得てもらいたいが為の企画だったと思い起こされます。

仏法流布に一途だった母の願いは、今も『垂水見真会』が半世紀を超えて続いていること、そして、私を含めて多くの人々の心の支えになって生きているのだと思います。これは2500年前から連綿と続いている、人から人への仏法の灯火渡しなのだと思います。その中でも大きな灯火を点されたのがこの聞書の主人公である蓮如上人であります。

仏教の戒律に不飲酒戒(ふおんじゅかい)と言いまして、お坊さん達はお酒を禁じられていますし、法座でお酒を振舞うことは伝統的に控えるものですが、蓮如上人は、民衆が好むお酒を振舞ってでも、仏法を聞かせて縁を結ばせようと工夫されたことが、今日の聞書が伝えております。

●聞書本文
蓮如上人、或いは人に御酒をも下され物をも下されて斯様の事ども有難く存ぜさせ近づけられさせられ候ふて、仏法を御聞かせ候。されば斯様に物を下され候ふ事も信をとらせるべき為と思召せば報謝と思召し候ふ由仰せられ候ふと。

●現代意訳
蓮如上人は、場合によっては、お酒を振舞うこと等もされて法座に人々を近付けしめられて、仏法を聞くように仕向けられました。このような事もひとえに信心を得て貰いたいと言う慈悲心からのものであり、これも報謝の心が表れたものであるとお聞きしております。

●井上善右衛門先生の讃解
-仏が衆生を摂取される道を菩薩が行じられる場合、それが四摂法(ししょうほう)として示されています。法蔵菩薩の四十八願も四摂法を根本として展開されたものと言えましょう。四摂法とは一切衆生を摂取する大行という意で、その具体的活動は布施・愛語・利行・同事の四つであります。

布施とはまことに与えること、愛語とは慈悲より流出する言葉、利行とは真実の利他成就、同事とは衆生に同化して摂取の行が実践されることです。いずれも自他一如から起る活動でありますが、布施も愛語も利行も、みんな同事の行を通じて成就されるという関係にあります。如来の方便も同事から現れます。如来の真実そのものがぴったりと衆生の宜しきにかなって働かれるのが方便であり、これを善功方便といわれます。

そもそも如来とは、決して独り輝く天上の月ではありません。聖徳太子は『維摩経義疏』に「大悲息むことなく機に随って化を施す。即ち衆生の在るところ至らざる所なし・・・・如来は本、己が土なし、唯だ所化の衆生を取っては以て仏土と為す」と述べられておられます。即ち如来は衆生を離れたまわず、衆生のあるところ如来ましますのであり、衆生を摂め取るところが即ち仏土であって、如来固有の仏土が本来独りあるのではないとの意であります。

如来と衆生のかかる関係を思うとき、同事の行ということがいよいよ深く味われます。如来は常に衆生と一つとなって衆生に同じて下さるのです。親が子を慈しみ育てるとき、親は大人であることを捨てて子供と一つになります。親がアーンと口を開いてみせるから子が口を開く、その口へ栄養を与えて身を育てる。子供と融けて遊んで、遊びながら心を養う。如来の大慈悲心は同事の働きをもって衆生を摂取されるのです。その大悲によって念仏申す身になった人には、また自然にその同事の徳が伝わるのであります。

●あとがき
お釈迦様の仏法は、大乗仏教としてインドから中国・韓国を経て日本に伝わり、現代の私達は当たり前の様に仏法を学んでいますが、これまでには多くのお坊さんの生死を賭けた努力があった事を忘れてはならないと思います。西遊記のモデルとなった玄奘三蔵は、中国からインドに、そして再び中国に戻るまでに17年もの歳月が掛かったと聞いています。そしてその目的は、今、別コーナーで勉強している『唯識』の探求にあったと言われております。

また、聖武天皇の招きに応じ日本にやってきた唐僧鑑真和上は、幾度かの海上遭難を乗り越えて、漸く日本に来られたことは余りにも有名であります。

仏法を求めている私達も、勿論自分も救われなければなりませんが、自分だけの救いではなく、仏法を後の世代に伝える責任と義務があると思います。出来る事は微々たるものではありますが、私も、何等かの役割を果たして参りたいと考えております。


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No.451  2004.12.23

心配の先取り

「明日は明日の風が吹く」「人生なるようにしかならない」「人生なるようになって行く」「人生万事塞翁が馬、悪い事も良いことに変わる」等と、心配を先取りする必要は無いと言う誡め、励ましの言葉は沢山あります。それ程、私達人間は心配を先取りするものだと思いますが、私自身今年を振り返って見ますと、情け無いながら心配の先取りの連続でありました。心配の先取りをせず、毎日を心安らかに、今出来る事を精一杯して生きて行きたいと言う願いを抱きながら、心配を先取りする自分とも闘って来たような感じが致します。

しかし、私は来年も心配を先取りして生きて行くだろうと思います。心配を先取りすると言うことは、自己愛(我執)を払拭出来ていないことでありますが、払拭出来ていないからこそ仏法を求め、このコラムを書き続けられているように思います。そして、最近になって勉強を開始した仏教の深層心理学『唯識(ゆいしき)』との出遇いもあったのだと思います。

苦からの脱出を求めて仏法に出遇いました。仏法によって私自身が救われなければ仏法を求めた意味がないはずでありますので、何か矛盾を感じますが、仏法を求め続けることにこそ意味があるように思うようになりました。勿論、苦しみが無くなった訳ではありませんし、今この瞬間も、3ヶ月先の生活の心配を先取りしています。心配の先取りをしたくないと言う気持ちは失っていませんが、だからこそ、そのお陰で仏法との出遇い、真実との出遇いがあるように思います。

今年も残り僅かでありますが、今年は実に色々な出来事がございました。そして現在も日々人生との闘いは続いておりますが、冷静に振り返りますと、今年心配の先取りをして、その私の描いた心配の筋書き通りに進んだことは一度だって無かった事に思い当たります。所詮私の浅知恵で描く筋書きは、何の根拠もありませんし、私の想定出来ない要因(縁と言えます)の方がはるかに寄与率が大きいと言う証拠だと思います。

と思いながらも、この心配の先取りと共に今年も年越ししたいと思います。今年の収穫は、心配の先取りをする自分との闘いこそ無意味であると分かりかけた事でしょうか・・・・・。


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