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No.520  2005.08.22

正信偈の心を読む―第十八講【依経段(結誡)】

●まえがき
正信偈は、依経段(えきょうだん)と依釈段(えしゃくだん)に分別されて解釈されていますが、今日の4句は、依経段のまとめと言われるところです。依経段は、浄土真宗が依って立つ根拠とされている『大無量寿経』の教えを讃嘆されたものであり、依釈段は、お釈迦様以降にインド・中国・日本に出生された七高僧方の浄土の真宗に関する解釈を述べられたものであります。

この4句は、信じる事の難しさについて書かれていますが、何故信じる事が難しいのか、それは、邪見(じゃけん)と驕慢(きょうまん)の心があるからだと、親鸞聖人は、ご自身を顧みられながら、また、大無量寿経にお釈迦様のお言葉として説かれてある「驕慢と弊と懈怠とは以(も)て此の法を信ずること難し」や、無量寿如来会に説かれている「懈怠・邪見の下劣の人は、如来のこの正法を信ぜず」と言う言葉から、領解(りょうげ)せられたものと思われます。

私達は、何か習い事(新しい仕事を覚える時や芸事、スポーツを習う時など)をする時、指導者の言う通りに出来れば上達は早いのですが、自分の先入観や思い込みによって、素直に聞き入れられないものです。指導者を尊敬出来ていなかったりしますと、全く教えは耳に入りません。そして、たとえ尊敬していても、なかなか教えの通りには出来ないものであります。

この原因は、間違った思い込み(邪見)や、思い上がり(驕慢)にある、と親鸞聖人は反省され、私達にも反省を促されているのだと思います。宗教は教えを信ずる事が真実の信仰生活に入る出発点でもあり、またゴールでもあるのだと思いますが、信ずる事は、言う程には、た易いものではありません。その信ずる事が難しいのは、邪見や驕慢の心を無くす難しさであると言うことを説かれているようであります。

私自身、心からの念仏が私の口から出ないのは、この邪見と驕慢の心があるからだと実感しておりますが、なかなか、拭い去る事が出来ません。邪見とは、正見(しょうけん、八正道の一つ)の反対で、因果の道理に則した考え方が出来ないと言う誤った考え方であります。自己中心の考え方でありますから、思い上がり(驕慢)にもなります。こういうことは、頭では分かっても、なかなか身に付かないと言う事だと思います。

「信心の伴なわない念仏はあるが、念仏の伴なわない信心は無い」と言う事を何処かで聞かされましたが、大変厳しい言葉であり、また重たい言葉だと思います。

●依経段(結誡)原文
弥陀仏本願念仏(みだぶつほんがんねんぶつ)
邪見驕慢悪衆生(じゃけんきょうまんあくしゅじょう)
信楽受持甚以難(しんぎょうじゅぢんいなん)
難中之難無過斯(なんちゅうしなんむかし)

●依経段(結誡)和訳
弥陀仏の本願念仏は
邪見・驕慢の悪衆生
信楽受持すること甚だ以って難し
難の中の難斯に過ぎたるは無し

●大原性実師の意訳
阿弥陀仏の本願に誓われた念仏は、素直でさえあれば、誰でもた易く戴かれるけれども、おごりたかぶれる人々にとっては、信じたもつこと、これより難きものはありません。

●大原性実師の解説
古来、浄土真宗の信者が30年40年と聴聞に耳を傾けつつ、未(いま)だ信の決定(けつじょう)に確信を得ず、あれこれと悩める様子を聞くにつけ、如何にも信ずることが非常に難しいことを嘆ぜずにはいられないのであります。それにつけても信のあかしを得ようとする信者の昔に変わらず現に多いことは尤もだと思います。

しかし、一歩退いて反省しますと、信のあかしを得ようというようなことを考えているから、いよいよ信ぜられないのだということが出来ましょう。親鸞聖人の信は無證明の信です、ただ素純(そじゅん)に聞き、ひたすらに随い、驕慢と邪見の角(つの)を折るところに恵まれる信です、言い換えれば、邪見と驕慢の角が折れたのが信です、我慢の頭が下がったのはそのまま尊いみ法(のり)の光に照らされたからです。

ですから、信ずることの難きには非(あら)ず、邪見驕慢の兜(かぶと)を脱ぎ捨てることの難きを反省すべきでありましょう。これを誡(いまし)められて、

弥陀仏の本願念仏は
邪見・驕慢の悪衆生
信楽受持すること甚だ以って難し
難の中の難斯に過ぎたるは無し
と仰せられました。本願念仏の大道は易行(いぎょう)の至極であります。然るにこれを歪曲して難行とするは邪見驕慢のためである。信ずるを得ないとかこつことをやめて先ず自己が邪見に堕しているのではないか。又は驕慢に陥っているのではないかを反省すべきを誡められたものであります。

キリスト教にも、「富者の天国に入ることの難きは駱駝(らくだ)が針の穴を通るよりも難しい」という意味の諺(ことわざ)があったように思います、富めるものは富に高ぶり、智慧あるものは智慧にほこり、美貌のものは美におごる。かく素純に聞き謙敬に従うことが実に難しくなるのであります。これを誡めて「邪見・驕慢の悪衆生、信楽受持すること甚だ以って難し、難の中の難斯に過ぎたるは無し」と仰せられたのであります。

しかして、この4句は依経段の結文ともなっております。この点より窺がえば経典に対する正しい態度は、先ず邪見と驕慢の兜(かぶと)を脱ぐにあることを指示せられたものといい得るでありましょう。

●あとがき>
阿弥陀仏の本願を信ずる事が浄土真宗の信心でありますが、一方、色即是空・空即是色を体得するのが禅門の悟りだと思うのですが、どちらも、邪見・驕慢の心のままでは至られぬ心境だと思われます。何か、自分の了見を持っていると驕慢になります。ですから、私達は、えてして色々と知識を入れて、悟ろうとか信心を得ようとしますが、本当は、捨てて捨てて、生まれたままの心に戻る事こそ必要だと言う見方が出来ます。

しかし、それも達成の難しい修行です。親鸞聖人もこの辺りで大変ご苦労されたそうでありますが、これから勉強する依釈段に示される、七高僧の方々が遺された経典のご解釈を辿るうちに、親鸞聖人は、ご自身の邪見と驕慢が自然と霧散されたことを感じられたようであります。即ち、親鸞聖人の自力ではなく、阿弥陀仏の本願の強さが親鸞聖人をして、自然に邪見と驕慢の心を融かしめたということではないでしょうか。

私の頑固なまでの邪見と驕慢も、仏法のお話を聞いたり、本を読んだりしているうちに、阿弥陀仏の本願の強いお働きによって、融ける時も来るのかも知れません。時節到来を願いつつ、出来るだけ素直な気持ちで、次回からの正信偈依釈段を勉強したいと思う次第であります。


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No.519  2005.08.18

聖徳太子の遺言

衆議院の解散後、連日、テレビは政治の世界の凄まじさを報道しています。『刺客(しかく、しきゃくとも言うようです)』と言う物騒な言葉を誰が言い始めたのか知りませんが、まさに刀を使わないだけで、殺し合いの時代劇を見ているように思います。

しかし、これは政治の世界だけの話しではなく、私達が生きている世間は、結局は弱肉強食の修羅場であります。経済活動も結局は殺し合いそのものであります。事実、負け組みの中から自殺に追い込まれる人が多数出ていることは衆知のことであります。

約1400年前に仏教興隆に力を尽くされ、政治の世界でも日本のリーダーであられた聖徳太子は、『世間虚仮唯仏是真(せけんこけゆいぶつぜしん)』と言う言葉を遺されていますが、このお言葉は、仏法を称える一方、弱肉強食の世間を嘆かれたお言葉だと私は思います。

世間虚仮とは、世間に真実は無いと言う事であります。郵政民営化を強行に進めようとしている小泉首相を指示する人々が多いようでありますが、人間が為す何事も、必ず良い面もあれば悪い面もあるわけですから、改革・改革と声高に叫んでも、本当に、国民を利する改革になるかどうかは怪しいものであります。歴史を見て明らかなように、改革と言いましても積み木崩しのようなもので、積み上げては壊し、また積み上げては壊しと言う繰り返しだけであり、大多数の国民・庶民がこの世間で幸せを享受し得た時期はありません。

聖徳太子は、歴史に学び、仏法に学んで、世間で起こる様々な現象に真実は無い、ただ移り変わるだけの“無常(変化して止まない)”と言う真実があるだけだと悟られたのだと思います。

こう言う虚仮の世間を生きている私達は、世間の波に翻弄され、嵐の海に漂う小舟のようであります。勝った負けた、得した損した、可愛い憎いと、一喜一憂の人生に、心の安らぐことはありません。おそらく聖徳太子も、一喜一憂の人生を経験され、仏教を学ばれて、不変の真理を見付けられたのだと思います。それが、『唯仏是真』と言うお言葉になったものと思われます。

世間は虚仮だから、こんな意味の無い世間は逃避しようと言う事ではないと思います。私達は他の生命を奪って自らの命を繋いでゆかねばなりません。弱肉強食の世界から逃げることは出来ない存在であります。しかし、この弱肉強食の世間に埋没して、自分を失ってはならないというのが、仏法の教えるところだと思います。世間は変化して止まないのでありますから、一時的に勝っても奢(おご)るな、一時的に負けても悔やむな、と言うことだと思います。そして、他の生命を奪うことは避けられないけれども、なるべく人間より弱い他の生命を慈しみ育てる配慮をしなければならないと言う慈悲の心を持とうと言うことだと思います。

今、小泉首相には追い風が吹いているようでありますが、政治の世界も、世界情勢も変化して止みません。これから何が起こってもおかしくはないと思います。それが、聖徳太子の世間虚仮と言うつぶやきなのだと思います。そして、仏法に真実を求めて欲しいと言う遺言でもあるのだと思います。


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No.518  2005.08.15

正信偈の心を読む―第十七講【釈迦章(信心得益)―C】

●まえがき
幼い頃、母がこの正信偈を読んでいるのを聞いていて、今日の分陀利華(ふんだりけ)と言う文言は子供には、「ふんだりけったり」と言うように聞こえ、印象に残り、この分陀利華と言う言葉が聞こえると、まだまだお経が続くなと、うんざりしていたことを思い出します。

そして、大人になってから、分陀利華は白蓮華(びゃくれんげ)のことであり、泥の中に咲く美しい華は、ちょうど、煩悩まみれの世間だからこそ開く“信心”を象徴したものである事を知って、違った意味で印象深い言葉になりました。

●釈迦章(信心得益)原文

獲信見敬大慶喜(ぎゃくしんけんきょうだいきょうき)
即横超截五悪趣(ちょくおうちょうぜつごあくしゅ)
一切善悪凡夫人(いっさいぜんあくぼんぶにん)
聞信如来弘誓願(もんしんにょらいぐぜがん)
佛言広大勝解者(ぶつごんこうだいしょうげしゃ)
是人名分陀利華(ぜんにんみょうふんだりけ)

●釈迦章(信心得益)和訳
信を獲て見て敬い大いに慶喜(きょうき)すれば
即ち横ざまに五悪趣を超截(ちょうざい)す
一切善悪の凡夫人
如来の弘誓願を聞信せよ
仏は広大勝解の者と言えり
是の人を分陀利華(ふんだりけ)と名づく

●大原性実師の意訳
ご信心を頂き歓喜の生活をなせる人は、迷いの世界を超越し、再びここに輪廻するようなことはありませぬ。如来の尊いご本願を信じる一切の人々を、仏は、めざめた人である、白蓮華(びゃくれんげ)のような人であるとご讃嘆あらせられます。

●暁烏敏師の講話からの抜粋
『即横超截五悪趣』の五悪趣とは、地獄・餓鬼・畜生・人間・天人のことです。これが人間の迷うた心から出て来る苦の世界です。即ち横(よこざま)に五悪趣を截(き)るとは、信心を獲て喜びが出ると、そこにはもう三悪道五悪趣へ行く綱が截(き)れるのです。ここには『横に』と書いてあり、お経には、横超(おうちょう)とも横截(おうぜつ)とも書いてある。その横という字は、親鸞聖人は他力を味わう時にお味わいになった。聖道門自力の宗教を竪(たて)の道、他力の道を横の道だと仰せられた。三段論法や論理の方式をもって建てる理屈でもなく、また自分の了見で積み上げてゆく修行でもない意である。信の一念で横に飛ぶ。だからこれは理屈では合わない。人間の決めた理屈や算盤の桁に合わない。

そして、一切善悪の、殊に凡夫人は、仏様の弘(ひろ)い誓いを聞信すべしとあります。弘(ひろ)い誓いというのは、十方衆生、智者でも愚者でも、悪人でも凡夫でも、すべてを洩らさず助けないと、私は正覚を取らぬという弘(ひろ)い誓願です。

この弘(ひろ)い誓いを聞いて信じる人を仏様は、「広大勝解者」と言われ、この人を泥中に咲く、分陀利華(ふんだりけ)、即ち白蓮華(びゃくれんげ)と名付けられました。『観無量寿経』に広大な仏様の言葉のわかった者は、分陀利華というとあります。このお経は、阿弥陀仏・観音菩薩・勢至菩薩の三尊のお徳を説いたものですが、お釈迦様はこの三尊のお徳が本当にわかった人は、人中の分陀利華だとおっしゃった。阿弥陀仏の心が本当に味わえた人が人中の分陀利華であるとおっしゃったのです。

●あとがき
曽我量深師が「本当に仏法を分かるのは、70歳を超えてからだ」と言われていたことを何かで読んだ記憶があります。私は、終戦の年の生まれですから、丁度60歳です。まだまだ自分の知力と気力と体力に何らかの自信を持っているからでしょうか、仏様のお声は本当の意味では聞こえていないように思います。

仏法に出遇わなければ、どんな人生になっていたかとも思いますので、仏法に縁があったことに感謝しています。そしてこうして、仏法の勉強をしたり、話を聞くことは喜びではありますが、一切を阿弥陀仏に投げ出すという「帰命(きみょう)」の心には程遠い自分であると思っています。

正信偈を完成された親鸞聖人は、多分70歳を超えておられていたことでありましょう。歳を経なければ分からないこともあると思われます。明日の命の保証はありませんが、歳をとることは信を深めるという楽しみもあるのだと思います。


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No.517  2005.08.11

小泉解散

衆議院が解散されました。小泉首相は、参院で否決されたら衆議院を解散すると言っていましたが、私は、参院で否決されたら、小泉内閣総辞職と言う方向を想定していましたので、びっくり致しました。そして、衆議院の採決で反対票を投じた議員を公認しないと言っていましたが、これも可決させるための脅しであろうと思っていましたので、これまた見事に裏切られました。そして、更に、公認しない現職が立候補する選挙区に、対立公認候補を立てると言うのですから、この徹底ぶりには空恐ろしさを感じている人も多いのではないでしょうか。反対票を投じた亀井静香議員のグループの人々には、まさかと言う事態ではないでしょうか。

小泉首相の手法が日本をより良くするためには致し方ないものであったかどうかは、少なくとも15年の歳月が必要だと思われますので、今、小泉解散を云々することは控えたいと思いますが、ただ、民主主義国家、2院議会内閣制を取っている国家の政治のあり方として正しいかどうかに関しましては、少々疑問があります。

政党政治でありますから、政党内に様々な意見があっても、多数決で政党としての意見をまとめて、国会ではまとまって行動すべきだと言うのが多数決民主主義の有り方であり、政党政治の有り方だと言う考え方があり、その観点から致しますと、小泉首相が、反対票を投じた議員を公認しないと言うのは分からない訳ではありません。しかし、問題は、少数意見にも耳を傾けて、党内での議論を尽くしたのかどうかと言うことではないかと思います。

小泉首相や、それに同調する議員の考えとしては、今回、郵政民営化法案が成立出来なかったら、もう永久に郵政民営化も、そして所謂構造改革も出来ないと言う危機感を強く抱いているのだと思われます。その気持ちも分からなくはありませんが、余りにも拙速過ぎるのではないかと思います。小泉首相でなければ為し得ない改革であるとしたら、本当の意味で、国民が望んでいる改革では無いと言う見方が出来るのではないでしょうか。

小泉さんが首相になってから、景気は回復しつつあると言う統計があります。また一方、年間の自殺者が毎年3万人を超え、雇用条件の厳しさが増し、正規従業員を減らしてパートタイマー化が進んでいる上に、ニートと呼ばれる労働しない若年層が生まれていると言う、暗い日本の将来を予感させる、弱者には大変厳しい状況になっております。景気が良くなったことも、弱者に厳しい状況になったことも、一人小泉首相の所為ではないと思います。世界の経済・政治の情勢変化によるものだと私は思っています。しかし、家庭を持っていない首相に日本の舵取りを任せるのは、やはり弱者には厳しい片寄った政策になりかねないのではないかと危惧しているところです。

ただ、今回の郵政民営化法案に反対した人々についても、郵政族として、郵政公社で働く人々と、自分自身の権益を守りたいが為の反対ではないかと言う想いをどうしても払拭出来ません。また、それ以上に、なにが何でも反対の民主党や共産党の野党にも、共感は出来ません。

弱者にも目配りが出来、本当の改革をしてくれる改革者の登場が待たれます。私は、今回の総選挙に関して、現在のところ、我が1票を投じる政党を決めかねています。これから約1ヶ月、選挙戦を通じて、真の改革派を見付けられなければ、積極的棄権も有り得るかも知れないなと思っているところであります。


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No.516  2005.08.08

正信偈の心を読む―第十六講【釈迦章(信心得益)―B】

●まえがき
親鸞聖人ほど自分の煩悩に苦しまれた方はいないのではないかと思います。29歳で法然上人に遇われて、一応の信心を得られたものと思われますが、90歳で亡くなられるまで、その信心を深めてゆかれたのだと思います。それは自分の心に湧き上がる煩悩との闘いでありながら、しかしその煩悩があるからこその仏との出遇いを喜ばれたに違いありません。

太陽の光が雲に完全に遮られることなしに地上を明るく照らしている自然現象に、「ああ、こういうことなんだ」と、雲を煩悩に、日光を仏様の慈悲心に見立てられ、信心を確かなものにされたのではないかと思います。

仏教の悟りは、煩悩を退治した後に至る心境ではないかと一般的に考えられていると思うのですが、親鸞聖人は、生きている限り煩悩は常に湧き起こると断言されています。しかし、間違ってならないのは、煩悩を肯定しておられる訳ではないと言うことです。自分の煩悩が見えると言うことは、自分の力で煩悩が見えたのではなくて、私の心に仏様の心が至り届いているからだと確信され、仏様と同時に、その手掛かりとなった煩悩にも手を合わしたいと言うご心境ではなかったかと思います。

白井成允先生のお歌に、次のような、わが煩悩を愛しいと詠まれたものがあります。
   おほけなく なむあみだぶつと ききまつる わが煩悩の あやにいとしき
親鸞聖人も、同じ想いを持たれていたのではないでしょうか。

このようにご自分の煩悩を見詰められる方に、煩悩にまみれた無自覚な日常生活があろうはずはないと思います。

●釈迦章(信心得益)原文
摂取心光常照護(せっしゅしんこうじょうしょうご)
已能雖破無明闇(いのうすいはむみょうあん)
貪愛瞋憎之雲霧(とんないしんぞうしうんむ)
常覆真実信心天(じょうふしんじつしんじんてん)
譬如日光覆雲霧(えにょにっこうふうんむ)
雲霧之下明無闇(うんむしげみょうむあん)

●釈迦章(信心得益)和訳
摂取の心光は常に照護したまふ
已に能く無明の闇を破すと雖(いえど)も
貪愛瞋憎の雲霧
常に真実信心の天を覆へり
譬へば日光の雲霧に覆はるれども
雲霧の下明らかにして闇無きが如し

●大原性実師の意訳
すべてをおさめとって捨て給わぬ仏のみ光が、常に衆生をお護り下さいます。衆生はそのみ光によって疑惑の闇を破られて居りながら、貪欲・瞋恚等の煩悩の雲霧は絶えず信心のこころを覆い隠しているのです。しかし、太陽の光はどんなに雲霧に覆われても、その下は依然明るく暗黒にならないように、信心の人は決して再び疑いの闇に迷うようなことはありません。

●暁烏敏師の講話からの抜粋
「摂取の心光は常に照護したまふ」とは、「摂取」とは“摂(おさ)め取る”ということです。摂取していただく、この言葉に不捨という言葉が添うて「摂取不捨」という言葉が『観無量寿経』の中に出ております。一生の間多くの罪をつくった人が、臨終今はの時に善知識に遇うて、仏の心に遇い、はじめて自分の悪かったことが分かって、仏に対して念仏を称えるようになると、仏の光明がその人を摂取して捨てない。念仏の衆生を捨てない。一度自分の懐に入れたら見放されぬ。どんな悪いこと、どんないたずらごとがあっても、長い目で見て、愛想をつかされぬ。それが摂取不捨です。

「心光(しんこう)」とは心の光。摂取して捨てないという大きな心の光が常に私を照らしていて下さる。どんなことがあってもお照らしの外へ出ないのであります。仏様が呼びかけられるのは、こっちに値打ちがあるからではない。私達の胸に悩みがある。冷たいものがある。それで泣いている。その声を聞きつけて、どうしたと尋ね寄って下さる。その悩みの心の原因について、それらの悩みを我がものとして五劫の間、思案して、その悩みの助かる道を求めて下さった阿弥陀様である。

「已に能く無明の闇を破すと雖(いえど)も」の無明は、疑いです。摂取の心光が常に私を照らして下さるということが、はっきり自分のものとして味わわれたときに、心の闇は晴れている。しかし、と親鸞聖人は、いつも晴れた心でいられないとおっしゃいます。貪愛瞋憎(とんないしんぞう)の雲は、常に真実心の天を覆う。この「常に」は、先の「摂取の心光は常に照護したまふ」とあったその「常に」に対して、「常に真実信心の天を覆へり」とおっしゃっているのである。摂取の心光はいつも私を照らしておられる、こうおっしゃる親鸞聖人は、貪愛瞋憎の雲は常に真実信心の天を覆うとおっしゃる。これは、親鸞聖人が自分を見詰められる時、自らの浅ましさにおののいて、貪愛瞋憎が、真実信心の天を覆うておる自分だと懺悔せられたお言葉であります。

そして、「譬へば日光の雲霧に覆はるれども、雲霧の下明らかにして闇無きが如し」と言う有り難いお言葉です。太陽が出ているとき、雲霧がかかって太陽のお照らしがはっきり見えなくても、闇とは違う。やはり明るい。ここに白熱した明るさはないけれど、雲一つ隔たった明るさがある、と。ここにまた親鸞聖人のお喜びがある。嘆きのその中に喜びがある。ご和讃に、

煩悩にまなこさへられて
摂取の光明みざれども
大悲ものうきことなくて
つねにわが身をてらすなり
とある。煩悩とは、貪愛瞋憎の雲である。それに眼が眩(くら)んで、摂取の心光は見えない。が、仏の大慈悲心は、ものうい(大儀で気が進まない)とも思し召さない。常にわが身を照らしづめである。その喜びをここにおっしゃるのである。

●あとがき
親鸞聖人の説かれる「救われる道」は、なかなか一般には分かり難いものだと思います。正しい姿勢で座禅し同時に心も整えて無心の境地を体得すると言う禅門の方が、受け入れられ易いと思います。

しかし、煩悩を退治しなければ救われないとしたら、一般市民が精神的に救われる手立ては無くなります。宗教は、特別な人々の為にあるものではないはずであります。自らが救われそして皆が救われる道を生涯かけて検証された方が親鸞聖人ではないかと思います。そして、その検証結果を後代の私達に文章として遺されたのが『教行信証』と言う書物であり、また、その中に偈(げ)として遺されたのが、この正信偈であります。

この正信偈の中で讃嘆されている浄土門の七高僧方の中に妻帯された方は居ないと思われますが、親鸞聖人は、私達と同様に家庭を持ちながら仏道を歩まれました。その道を選ばれたところに、親鸞聖人の宗教への想いと、なみなみならぬご決意を感じます。


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No.515  2005.08.04

清濁併せ呑む

本音と建前を使い分けることが、この世を生きて行く上では肝要であると言う事になっていると思います。今、国会の注目案件となっている郵政民営化に関しても、賛成か反対かで、自殺議員まで出ています。私の推測ですが、本音と建前の不一致が、人間の心に与えるストレスは計り知れないものであると思います。

経済界でも、極最近粉飾決算容疑で逮捕されたカネボウの元社長を始めとする経営トップは、「経営の実態を公にすれば、会社は潰れると思った」事を粉飾決算の言い訳にしていると報道されています。多くの一流企業と言われていた企業が、経営実態或いは経営恥部を公に出来ないままに、潰れていったことは衆知の事実であります。あの西部王国も、内部では法律違反を指摘する社員も居たはずにも関わらず、結局はワンマン経営者の逮捕に至って、漸く、姿勢を正しつつあります。

私も、二つのそこそこ大きな企業(東証一部上場)の社員でありましたから、企業の表裏、本音と建前の使い分けの実態をよく知っています。また、客先の一流企業とも付き合った事もありますし、現在も、付き合っていますので、企業と社員の姿勢に付いても、把握出来ている積もりであります。

今日のコラム題名とした『清濁(せいだく)併せ呑む』とは、この娑婆を生きる上での大人の姿勢として、ある種、尊敬されるものだと思います。『清』とは、誰が考えても正しく清らかなことを言うのだと思います。『濁』とは、法律を破るようなことも含めて、決して誉められない行為を言うものと考えてよいと思います。

従いしまして『清濁(せいだく)併せ呑む』とは、清く正しい事ばかり主張せずに、時には、必要悪とも言うべき、知らない人が聞いたら批判に曝されるようなことも敢えてすると言う事で、堅物ではない、融通が利く、柔軟で話しが分かる人だと言う、尊敬される人と言う表現だと思われます。

私は、決して『清濁(せいだく)併せ呑む』事が出来る人間ではありません。だから、私は組織の中で力を発揮出来無かったと思っております。全ての企業が『清濁(せいだく)併せ呑む』人間だけがトップに上り詰めると言うのではないでしょうが、私の知り得る限りは、より濁を承知の上で処理出来る人間が、一流企業のトップに君臨する世の中になっていると思います。経済界のみならず、政界も、どの社会も・・・・、そしてこれは日本だけではなく、世界全体が流れて来たものと思います。

アメリカのイラク先制攻撃の理由とした大量破壊兵器も見付かりませんでした。これを素直に誤りと認めない強さに拍手を送る人々も多いようです。しかし、真実を見据えて語る人々が表面に顔を出せる状況にはありません。私は、その結果が、テロを生む現在に至っていると思っています。片寄った弱者救済に走れば、政治を支える多くの企業や資産家から政権は否定されるに違いありません。だから、アメリカにせよ、日本にしても、経済的強者に比重を置いた政策に傾いています。

本音を語れない、本音を語ると、葬り去られると言うのが、ここ2千年の人間の歩んで来た歴史ではないかと思います。その間、日本では唯一、聖徳太子が、清く正しい心から十七条憲法を制定し、その実現に努力されたのでありますが、一人のお力ではどうすることも出来なかったものと思われます。

これまでの経済界も、政治の世界も、『清濁(せいだく)併せ呑む』事が出来る人材を登用し、本音の正しく清い発言をする人材を左遷、或いは抹消して来たことは間違いありません。そして多くの人材を失って来たのではないか・・・そう思わざるを得ません。

私は、自分が『清濁(せいだく)併せ呑む』事が出来ないからではなく、これからの人類がこの地球上で、繁栄を続けるには、この『清濁(せいだく)併せ呑む』人材を求める風潮と人間価値観から脱出して、清く正しいだけの人材が登用される社会にならなければならないと切に思うことであります。何世紀掛かるに致しましても、そういうコペルニクス的転回が人類にも、この日本社会にも必要だと思います。

西日本JRの福知山線事故も、社内にあったに違いない安全に関する真面目な訴えや改善すべき点を無視しない経営トップが育つ企業環境にあれば、未然に防ぎ得たことは間違い無いことだと思います。多くの真面目な訴えは、左遷・降格と言う人事で、抹消し続けて来たに違いありませんし、事故後の現在も、その企業体質は生き続けているに違いありません。

企業は、そこで働く人間を守るのではなく、そこで働く人間が、企業と言う実態の無い透明な存在を神様のように奉って神輿(みこし)のように担(かつ)ぎ続けているものだと思います。そして、犯罪に結び付くことも承知で、何のためらいも無く神輿を担げる人々が、経営トップに上り詰める、それが企業であり、政界でもあると言うのは、言い過ぎでしょうか?

聖徳太子が十七条憲法を策定されたのは、今から1400年前(西暦604年)であります。十七条憲法は、清く正しいものだと思います。しかし、聖徳太子は志半ばで49歳(西暦622年)で、この世を去られました。それ以後、清く正しい人生観を持った日本のリーダーは現われていません。

アメリカの原子爆弾投下で32万人の命を失った日本が、そのアメリカの核の傘の下で平和を享受している状況は、私は矛盾しているのてはないかと思うようになりました。日本はアメリカとの関係を最重要視しなければ生きていけないのか、これからの数十年を掛けて、国民自身が結論を出さなければならないと思います。

私は、清濁併せ呑むことを止めて清く正しく生きて行かねば、人類は破滅するしかないと思います。


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No.514  2005.08.01

正信偈の心を読む―第十五講【釈迦章(信心得益)―A】

●まえがき
信仰心において上下関係はないというのが、法然上人と親鸞聖人の開かれて浄土門の考え方であります。歎異抄にも記載がございますが、法然上人の信心も親鸞聖人の信心も同等の信心であると親鸞聖人(善信房と名乗られていた30歳の頃のこと)が同行のお弟子さん達に発言されて問題になったのでありますが、法然上人は「その通りだ」と言われたという話があります。

他力の信心は、自分の努力・修行で得た信心ではなく「仏様から賜った信心」でありますから、信心を得た人に取りましては極々当たり前の見解でありましょう。他力と言う言葉を用いない禅門においても、おそらくは、師匠から印可(悟りを認めること)を得た僧は、師匠と同列に扱われるでしょうし、師匠もそう言う態度で接するものと思います。

今日の正信偈の二句は、この娑婆(しゃば)においては、地位身分が異なったり、善人と評価されたり、罪を犯した人もあったりと様々ではあるけれども、一旦信心を得たならば、皆等しく浄土に往生することは間違いないと断言せられたものだと思います。

●釈迦章(信心得益)原文
能発一念喜愛心(のうほついちねんきあいしん)
不断煩悩得涅槃(ふだんぼんのうとくねはん)
凡聖逆謗斉廻入(ぼんしょうぎゃくほうさいえにゅう)
如衆水入海一味(にょしゅすいにゅうかいいちみ)

●釈迦章(信心得益)和訳
能(よ)く一念喜愛の心を発(おこ)せば
煩悩を断ぜずして涅槃を得る
凡聖逆謗斉(ひと)しく廻入すれば
衆水の海に入りて一味なるが如(ごと)し

●暁烏敏師の講話からの抜粋
「凡聖逆謗斉(ひと)しく廻入す」
、仏様の心の中へ廻転して入る、向きが変わるのです。人間に向うている心が仏様の方に向うてゆく。それが廻入(えにゅう)である。廻入とは引っ繰り返ることである。廻れ右である。仏様の方に向くのである。そして丁度、川の水が海にはいって一味であるように、犀川、手取川、浅野川、梯川、それぞれ川にある間は水の性質が違う。しかし、海の中へ流れ込んでみれば一つである。一味の海の塩水となる。

今までを眺めれば凡夫と聖者とのけじめがあった。最も罪の深い者から言えば五逆罪・謗法罪をつくった者もあった。が、入り込んでみれば一つである。隔てがない。善い人でも善いことが間に合わない。悪い人でも悪いことが障りにならない。善いことも悪いことも何にもならない。ただ、まるまると仏の智慧を頂く。だから一つに融け合うのである。

元はどうでもよい。廻入である。廻の相は、廻心懺悔(えしんざんげ)である。わかるのである。本当に気が付くのである。算盤をおきそこなったということがはっきり分かる。それが廻心懺悔である。心の向きがかわるのである。廻心懺悔して更新する、生まれ変わるのである。凡夫の世界、人間の世界から仏の世界に生まれ変わるのである。

この廻心がなければ本当に助からないのです。この切り替えが大事である。一念喜愛の心を発す、その切り替えの心である。これは何遍もあることではない。廻心は一生に一度である。ひっくりかえってみれば、そこにはじめて明らかなものが見えてくる。そこをいうと、信心を得るということは、信心のお育てにあずかってだんだん姿も変わる。凡夫聖者の切り替えは信の一念である。

●あとがき
親鸞聖人が生きられた時代は、平清盛、源頼朝・義経、北条時政・政子達が天下を左右していた時代であります。真近で戦争が頻発したり、大飢饉もあったり、また盗賊の出没もあったりして、生命財産の危機に毎日といってよい位曝されていたに違いありません。

そういう時代は、一般庶民に取りましてはまことに苦しいものであり、忍土(にんど、辛抱すべき世の中)という梵語(サーハ)の音訳である娑婆(しゃば)であったのだろうと想像出来ます。それだけに、浄土を乞い願う気持ちは強く、またそれは自然な気持ちではなかったかと思います。

物に恵まれ、生命の危険が切実に差し迫っていないように思える現代日本の私達の想像を超える感情があったのではないか。そう言う視点を持ってこの正信偈を味わうこともまた必要ではなかろうかと思います。

しかし、現代の日本社会が忍土ではないと感じるのは、あまりにも真実を見ていないからだと自戒せねばならないと思います。欲望を掻き立てる情報があまりにも多く、刹那的な幸せの虜(とりこ)になっているだけであり、この現代日本の真実に眼を凝らすならば、交通事故死者が毎年1万人、自殺者が3万人、犯罪の低年齢化・凶悪化、国のリーダーである政治家、役人、大企業経営者のモラル低下、低労働条件のパート・フリーターの増加、働かない・働けないニートと言われる若者層の出現など、親鸞聖人の生きておられた時代よりも末世的な様相にあるのではないかと思われます。

この世を忍土・穢土(えど)と思えない限りは、浄土門が説く『お浄土』は、お伽噺か、夢物語でしかありません。親鸞聖人は、庶民の苦しみに忍土を感じられると共に、自分の心の中の煩悩を見詰められて、90年間にわたって浄土往生を求められたのだと思います。その結論が正信偈に凝縮されているように思われます。


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No.513  2005.07.28

不断煩悩得涅槃(ふだんぼんのうとくねはん)

今週の月曜日のお経(親鸞聖人の正信偈)解説で今日のテーマとした『不断煩悩得涅槃』について説明させて頂いておりますが、仏教では、『煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)』とも説かれています。『即(そく)』は勿論『=(イコール)』ではなく、『表裏一体』とか『瞬時に転換することがある』と言う意味だと受け取ればよいのではないかと思います。

3年前に解説させて頂いた『白隠禅師座禅和讃』の中に『衆生本来仏なり、水と氷の如くにて、水を離れて氷無く、衆生の外に仏無し』という言葉があります。水は温度が零℃で瞬時に氷に変わります、また瞬時に氷が水に変わります。この場合、水が仏で、氷は凡夫・衆生ですが、煩悩即菩提の『即』とは、こういう現象を思い浮かべてのことだと思われます。

私達全ての人間が感じる苦しみや悩みは煩悩があるからです。煩悩に付きましては、別コーナー『唯識の世界』で詳細に説明させて頂いておりますが、我愛・我見・我慢・我痴を4大根本煩悩と申します。平易に申すなら、「自分が一番可愛い、自分が一番正しいと思っている、しかし、本当の自分のことを知らない」と言うことです。そして、これは無意識のうちに抱いている心で、ここから貪り心や、怒りや、過ぎ去ってしまった事を何時までも愚痴る心などが湧きあがって、自らを苦しめることになります。

だから、仏道を志した者にとりましては、煩悩は難敵であります。従いまして、この煩悩を何とか退治して楽になろう、悟りを開きたいと思って座禅に通い、念仏を称え、法話も聞き、仏教書も読んだりして頑張ります。しかし、そう簡単に煩悩は退治出来ません。多くの祖師方も大変な修行をされましたが、煩悩を完璧に退治出来た人は居なかったと言っても良いのではないかと思います。

考えてみますと、煩悩があるからこそ苦悩があるのですが、一方、煩悩があるからこそ仏法に出遇い、真理に出遇えている訳であります。素晴らしい先生や素晴らしい本にも出遇えたのですから、もうそれだけで充分なのかも知れません。

悟るとはどう言うことかを、体験していない私には説明が出来ませんが、もし悟り(菩提)が開けることがあるとしたら、それは煩悩があったからだと言うことになりましょう。それを「煩悩即菩提」というのではないかと思います。

人間以外の動物には煩悩は無いと思われます。痛みは感じるでしょうが、苦しみではないでしょうし、悩みも持っていないと思われます。生命を持続しようとする本能は持っていても、死に対する恐怖心は持っていないでしょうし、自殺する程の苦しみも持ち合わせないようであります。ですから、人間以外の動物が悟りを開くことはありません。悟りと言うと特別な境地のように思ってしまいますが、安らかな気持ち、何があっても大丈夫と言う心境には他の動物が至ることは無いと思います。

生命ある限りは、私達は煩悩を完全に退治出来ないと思います。しかし、この煩悩を手掛かりとして、菩提を願います。お釈迦様の教え、この宇宙の真実・真理に出遇えます。この事を親鸞聖人は『不断煩悩得涅槃』と納得されたのではないかと思うことであります。


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No.512  2005.07.25

正信偈の心を読む―第十四講【釈迦章(信心得益)―@】

●まえがき
今日の正信偈の言葉「不断煩悩得涅槃(ふだんぼんのうとくねはん)」は、「煩悩を断つことなくして涅槃の悟りを得ることが出来る」と言うことですが、私は永らく疑問に思って来た言葉でした。浄土真宗の信徒の方の中にも、「凡夫が煩悩を断ち切るなんて事は所詮無理なことであるから、煩悩を断ち切る必要はない、それでも浄土往生が出来ると言うのが親鸞聖人の教えであり、有り難いことだ」と受け取っておられる方がおられるかも知れません。

一般の方々においても、仏教は座禅や滝に打たれたりして、煩悩を退治して清浄な心にする事を説く教えと受け取られているのではないかと思いますので、浄土真宗の「不断煩悩得涅槃」は、門徒の中に『本願誇り』という風潮を生ましめ、一般的にも誤解され易い言葉であります。しかし、この誤解され易い言葉があったから、一般庶民に広く受け容れられて、現在のマンモス本願寺教団を生み出したと言う面もあるのかも知れません。

正しい受け取り方は、他力本願から出ている言葉である事に思い至らねばなりません。私達凡夫が自分の努力で煩悩を断つのではなく、「応信如来如実言、能発一念喜愛心」。つまり、「仏様の真実のお言葉を聞いて、信心一つを頂く事が出来たら、自らの力で煩悩を断ち切ろうとしなくても、他力(如来のお力)のお働きで、煩悩は涅槃の悟りを得る妨げにはならない」ということであります。決して、煩悩の赴くままに日常生活を送っても良いと言うものでは決してありません。

●釈迦章(信心得益)原文
能発一念喜愛心(のうほついちねんきあいしん)
不断煩悩得涅槃(ふだんぼんのうとくねはん)

凡聖逆謗斉廻入(ぼんしょうぎゃくほうさいえにゅう)
如衆水入海一味(にょしゅすいにゅうかいいちみ)

●釈迦章(信心得益)和訳
能(よ)く一念喜愛の心を発(おこ)せば
煩悩を断ぜずして涅槃を得る

凡聖逆謗斉(ひと)しく廻入すれば
衆水の海に入りて一味なるが如(ごと)し

●大原性実師の意訳
ただ信心一つをいただくばかりで、あさましい煩悩にとらえられたまま、涅槃の悟りに入ることが出来ます。それは宛(あたか)もさまざまの河川の水が、大海に入れば同一の海水になるが如く、凡夫も聖者も五逆や謗法の輩も、廻心すれば同じく信心の恵みによって悟りの法海に入ることが出来るのです。

●暁烏敏師の講話からの抜粋
「能く」は能力の能です。“きっと”ということです。如来如実の言葉を聞けば、きっと胸から喜びが湧いてくる、愛が湧いてくる。我々は世間の声を聞き、自分の言葉を聞くと、どうしてもそこに心の曲がりがある。だからそこに悲しみが発(おこ)り、悪い心が発(おこ)る。胸がほのかに融けないのです。如来如実のお言葉が聞こえると胸が融けてくるのです。愛の心が発ってくるのです。自然に発るのです。その心が発って来るから、「煩悩を断ぜずして涅槃を得」です。

普通に仏教では、煩悩を断じて涅槃を得るということになっています。煩悩とは、煩い悩みです。三毒の煩悩―貪欲・瞋恚・愚痴、この煩悩をやめて涅槃を得るというのが普通です。ところがここには、煩悩を断ぜずして涅槃を得る。貪欲・瞋恚・愚痴、それを根絶やしにしてから涅槃の悟りを得るのではない。煩悩を断ぜずとは、そのままということである。貪欲・瞋恚・愚痴の三毒の煩悩を苦にしなくともよいのです。

「能(よ)く一念喜愛の心を発(おこ)せば煩悩を断ぜずして涅槃を得る」のです。喜びと愛の心が発ると、喜びの心の中にも、愛の心の中にも人と自分とを融かしてしまうのです。一つに融け合うのです。善悪の隔てがなくなり、善人と悪人のけじめがなくなるのです。

貪欲・瞋恚・愚痴、そんなものはどうでもよい。そんなものと相撲を取らずに、如来如実の言を信ずることだ。そこに愛が生まれる、喜びが生まれる。その愛の心、喜びの心には貪欲も瞋恚も愚痴も邪魔にはならないのだ。煩悩を起こすまいとするのではない。喜びや愛の心が踊り出ると自然に起こらないようになるのである。仏の如来の言葉が信じられて、喜愛の心が湧いてくれば、貪欲も瞋恚も愚痴も起こり様がない。「不断煩悩得涅槃」である。

罪を造らないようになって助けられるのではない。仏の如実のお言葉が耳に入ると喜びが湧いてくる、愛が湧いてくる。そうすると三毒の煩悩の起き場がないのである。それが煩悩を断ぜずして涅槃を得ることである。涅槃は寂(しず)かな心、一筋の心だ。喜びの心、愛の心の上にこそ寂(しず)かなものがある。これは如来の真実のお言葉の信ぜられた人の心の上に具わる徳であると親鸞聖人はお味わいなされたのであります。

●あとがき
私達は、自分の力や決断で今日があるように思っていますが、決して自分の力だけで今日の状況があるのではなく、様々な人々との予期せぬ出遇い、予期せぬ世の中の状況変化、世界の情勢変化、経済状況の変化等が微妙に絡んだ、多くの縁によって今日があることは、少し考えれば分かることであります。

更に自分がこの世に生まれ出たこと、伴侶とのめぐり合い、そして子供や孫との出遇いも、全ては自分が計った力によるものではなく、他の何らかの力、そもそもの宇宙を存在有らしめる力、真理なども含めた働きを親鸞聖人は、他力と称されたのだと思います。

そして、この他力が私にかける「本当の幸せを求めてくれ」と言う願いを他力本願と申します。 世間で使う「他力本願では駄目だ」と言う使い方は、全く本来の他力本願とは異なるものである事を改めて申し上げたいと思います。


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No.511  2005.07.21

母の念仏

今、月曜コラムで勉強中の『正信偈(しょうしんげ)』と言うお経は、正式には『正信念佛偈(しょうしんねんぶつげ)』と申しまして、現代風に申しますと、正しい信心と念仏の関係に関する親鸞聖人の考察とでも言えるかと思います。

正信偈を勉強していて思い出したのが母の念仏です。母は、日常生活において、何かというと「なんまんだふ、なんまんだぶつ」とお念仏を口にしていました。口癖になっていたと言ってもよい位でした。私は、「また、空念仏(からねんぶつ)?」ってからかっていたことを思い出していますが、今思うことは、48歳で主人(私の父)を亡くし、独りで5人の子育てをし、教育をつけ、結婚させると言う道すがらには、色々な悩ましいことも、悲しいことも、悔しいこともあったはずで、それらのことを念仏と共に流していたのだろうなと言うことであります。

48歳から亡くなる80歳までの32年間、姉3人を嫁がせるに当たっては、多分お金の苦労や不安もあったに違いありませんし、未亡人と言う立場で、世間で肩身の狭い想いもしたことでしょう。そう言う事は、私自身が子育てを終え、孫を持つようになってはじめて分かり、母の念仏を思い出しているところであります。

辛い時の念仏が圧倒的に多かったとは思いますが、しかし、その母の念仏は、辛さを流すものではなく、辛さの出所である自分の煩悩に気付いた慙愧(ざんき)の念仏であり、そして、そういう煩悩に気付かせて貰った歓びの念仏でもあり、恐らく、親鸞聖人とも法然上人とも隣り合わせの「なんまんだぶつ」であったろうなと思っている次第であります。

正信偈のお蔭で、母の念仏にこもっていた想いを知ることが出来ました。そして、一首うかびました。

今にして 知りて尊き 亡き母の 慙愧・歓喜の なむあみだぶつ


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