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No.630  2006.9.11

歎異抄に還って―第五章―@

●まえがき
第三章の「善人が往生するのであるから、まして、悪人の往生は間違いない」と言うお言葉からも、この第五章の「親鸞は父母を供養するために念仏を称えたことは一度もない」と言うお言葉からも、親鸞聖人の他力本願の教えを広めなければならないと言う強い意志を私は感じて参りました。一般の人々からの、「えっ?」と言う反応を期待しての思い切ったご表現を為されたのではないかと思います。

逆に言いますならば、親鸞聖人が生きて居られた時から既に、父母を始めとする先祖供養の儀式では、「南無阿弥陀仏」と称えることが一般化していたものと考えられます。そして、その行為は何よりの善行であると言う認識ではなかったかと思います。現代でも、お盆や正月、そしてお彼岸にお墓参りをする人々を見れば、殊勝な心掛けの持ち主であると評価されるのではないでしょうか。

しかし、親鸞聖人は、「私は父母を供養するためにと言うことでは一遍もお念仏を称えたことはない」とおっしゃったのであります。ここで大事なことは、親鸞聖人は父母を供養しなかったとはおっしゃっていないと言うことではないでしょうか。供養の為の念仏は称えなかったと言うことであります。念仏を称えるよりももっと父母が喜んでくれる供養のあり方があるのだと云うことだと受け取るべきだと思います。

その父母が喜ばれる供養のあり方と、その考え方の根拠を端的に述べられているのが、この第五章であると思います。 先ずは、原文全体と、白井成允先生の現代訳と高史明師の現代意訳の全体を読んで頂きたいと思います。

●第五章原文
親鸞は父母(ぶも)の孝養ためとて一返にても念仏まふしたることいまださふらはず。そのゆへは、一切の有情はみなもて世々生々(せせしょうじょう)の父母兄弟なり。いづれもいずれもこの順次性(じゅんじしょう)に仏になりてたすけさふらふべきなり。わがちからにてはげむ善にてもさふらはばこそ、念仏を廻向して父母をたすけさふらはめ。ただ自力をすてていそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道四生のあひだいづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもてまづ有縁を度すべきなり、と。云々。

●白井成允師の現代訳
親鸞は父母に孝養をつくそうと思って念仏もうしたことは未だ一度も無い。そのわけは、あらゆる有情はだれもかれもひとりのこらず、私共が生まれかわり死にかわりしてきたいずれの世いずれの生においてか、或は父母となり或は兄弟となった深い縁のある者である。だれもかれもこの次の生に私共が浄土において仏と成った暁にたすけすくうべきである。もしも念仏が私共自分の力で努め励む善ででもあるならば、その念仏を修めて父母にふりむけて父母をすくうこともしよう。けれども念仏はさようのものではない。それで、ただ自分のはからいはげみをすててしまって、本願の念仏一つで、この世の生命の終わるや否やすぐにお浄土にまいって仏のさとりを開かせていただくので、そうなった暁には、よしんば六道四生のあいだいかなる迷いの境界におちいり、いかなる業苦にしずんでいるにしても、仏の具うる神通方便の力を以て、まず縁のある方々をすくいさとらしむべきである、と云々。

●高史明師の現代語意訳
親鸞は、父母の供養のためということでもってしては、一遍も、念仏を称えたことは、いまだありません。その故は、一切の生きとし生けるものは、みなもって、生まれかわり生きかわるそのいのちの縁からすると、すべて父母、兄弟であります。(そのあるがままの自分を覆い隠しているものは、人間の無明であります。その自分が中心となって、念仏を供養の手段としているような供養が、本当の孝養と言えましょうか。まず、あるがままの自分に目覚めさせて頂くことこそ肝要であります。そうすれば、それがそのまま本当の孝養になりましょう。それはまた、順をおっていただく次の生には、仏にさせていただくことになるのでありますから)どなたにあっても、その順次生には、仏となって、父母をお助けできると言うものであります。(念仏が)わがちからでもって励むわが善でもありますものならば、その念仏を差し向けて、父母をもお助けできましょうが、念仏とは、私のものではなく、阿弥陀仏の智慧であります。(よかれと思ってすることであっても、私達が、自分を中心にして、念仏を自分の善きこころがけにしているようでは、供養しようと思っても、それが、かなうことはないのであります。自分を中心とする自力を捨てることであります。)ただ自力を捨てて、念仏の一心において、瞬時に開かれる浄土の覚りがいただけますなら、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天人という六つの迷界、また胎生・卵生・湿生・化生という四種の生まれ方とそれによる生のあり様のいずれにあって、どのような苦しみに沈淪(ちんりん)することになりましょうとも、私共衆生を導いて下さる、方便という名の阿弥陀仏の巧みな手立てと神通と呼ばれる超能力によって、何よりもまず、もっとも縁の深い身近な者を助けあげていくことができるのであります。

●あとがき
『賜りたる信心』『賜 (たまわ)りたる念仏』と言う表現があります。「仏様からお与え下さった信心であり念仏である」と言うことであります。「私が長年聞法に励んで念仏を称えるようになった」と言うことではなく、「何時かしら、念仏せしめられて」と言う他力による念仏でありますから、この念仏を私のものとして、父母の供養の為に差し向けると言うことがあってはならないと言うことではないかと思います。理屈を申し述べますとこう言うことになりましょう。

ただ、親鸞聖人は、このような堅苦しい理屈を申されるのが目的ではなく、生きとし生きるもの、過去・現在・未来に亘って全てが縁によって繋がっているのであるから、自分の父母だけの孝養を目的として念仏するのは如何なものかと言う全生命と一体と言う広いお考えからだと思います。

12歳のご長男が自死されると言う辛いご体験をされた高史明師は、その苦しみの中で、ご長男をどのように供養すればよいかと悶々とされ、この歎異抄によって救われたとお聞きしていますが、最終的には、この第五章によって心を転換されたのではないかと私には思えます。


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No.629  2006.9.7

世間と仏法―G

これまで、世間の苦悩・苦しみに対して、仏法はどう教え導くものであるかに付きまして私見を述べて参りました。仏法が世間を生き抜く上において、私達に何らかの力にならなければ仏法は絵に描いた餅、理想論に堕してしまうと考えています。しかし一方、「世間は難行、出家は易行」とも言われる位に、世間と言うものは、私達在家仏法信者に取りまして、なかかな仏法を体現し得ない現場である事も間違いない現実があります。

毎日世間で見るもの、聞くもの、出遇うもの全てが、欲望を刺激し、煩悩を燃え盛らせます。テレビで流されるコマーシャルは、魅力的な女性・男性が贅沢な品物を手にし或いは口にして、私達の『貪り(むさぼり)』と言う煩悩に訴えて来ます。街に出ますと、彼方此方に溢れるルール違反が『瞋恚(しんに;怒り)』と言う煩悩を燃え立たせます。そしてその『貪り』と『瞋恚』は最終的には『愚痴(ぐち)』と言う煩悩を表舞台に引っ張り出します。それが時たまではなく、四六時中と言うところが何とも凡夫に取りましては堪らない現場なのであります。

古来より、仏法信者は出家(しゅっけ)と在家(ざいけ)に分けて考えられて来ましたが、現在は、浄土門のお坊さんは勿論のこと、聖道門と言われる禅宗のお坊さんも肉食妻帯(にくじきさいたい)されており、私達在家信者と殆ど変わらない日常生活を送られており、出家と在家に分けることはあまり意味が無くなっております。この発端は、非僧非俗と自称され、公に(隠す事なく)肉食妻帯された親鸞聖人であるのかも知れません。

親鸞聖人は、仏法は在家の一般市民が救われるものでなければあまり意味は無いと考えられ、自ら在家の身となられて、仏法者のあるべき姿を一生涯追求されたのではないかと思われます。それがまた大乗仏教の本来の精神ではないかとも思いますが、親鸞聖人も、身を以って上述の『貪り』『瞋恚』『愚痴』の煩悩退治に挑戦されたのだと思います。その挑戦は、亡くなられる90歳まで続けられたものと思われます。しかし、その煩悩があるからこそ、常に阿弥陀仏と接点を持たれ、念仏一筋に生きられた事もまた間違いないところだと思います。

私が想像致しますに、親鸞聖人が心の裡に煩悩を抱えられていた事は間違いないと思いますが、他の人々から見た場合、煩悩が燃え盛っているお方には見受けられなかったものと思います。それは何故なのだろうかと言うのが、私が長年抱いて来たテーマでもあります。普通、「あれだけ仏法を聞きながら、実際の言動は仏法に適ったものとは思えない」と言うのが、自称念仏者の現実であり、私自身が全くその通りの人間だからであります。

親鸞聖人が申される、浄土往生がこの世において確定した『正定聚の位(しょうじょうじゅのくらい)』に至らなければ、自分自身も、そして世間から見ても救われた人間になれないと致しますならば、『救い』と言う視点から仏法を評価いたしますと、仏法、特に念仏門は、凡夫に取りまして甚だ狭き門であると言わねばなりません。

無相庵の別コーナー『唯識の世界』で、悟りの段階にはどう言う段階があるかに関して学び終え、これから、悟りに至る方法について、唯識の考え方を学ぶ予定でありますが、その辺りに、念仏に生きようとする者が学ぶべきところがあるように思っております。

次週に続きます。


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No.628  2006.9.4

歎異抄に還って―第四章―完

●まえがき
前回のコラムで、私は、「「自分の周りに苦難・苦悩に陥っている人々が居ても、念仏者は何もせずに、ただ念仏を称える事で、世間の現実から逃避しているだけではないのか?」この第四章を読んだ殆どの人は、その様な疑念を抱くはずであります。私も正直なところ、そう思いつつ、これまではこの第四章に親しみや共感を抱けませんでした。」と申し上げました。 しかし、今回、それは私の他力の本当のところが分かっていなかったからだと言うことがはっきり致しました。

歎異抄第一章にも「念仏に勝るべき善無き故に」と書かれ、第二章には「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけ参らすべしと、よき人の仰せを蒙りて、信ずるより別の子細なきなり」と言われ、第三章にも「自力の心をひるがえして他力を頼み奉れば真実報土の往生をとぐるなり」と示されているにも関わらず、私には、その言葉の出所が、他力を深く信ずる心にあることが、未だ分かっていなかったことになります。 序文に、「自見の覚悟を以って他力の宗旨を乱すこと莫れ」とは、私自身に向かって言われていたことに気付かされました。それは、白井成允先生が、第五章の父母の孝養も含めて述べられている次の解説文によるものであります。

慈悲といい、別して孝養という、このことを究竟して浄土に往生して仏と成りて後においてのみ遂げ得ることとせられるならば、今この人間生活において、父母に対して或いは社会の同胞に対してわれらは如何にすべはであろうか。これ今日においてわれらに切要なる問題でなければならない。もし浄土往生の信がこの現実の問題を解決しないならば、それはわれらの現実の道徳に眼を閉ざし責任を避け逃れて、虚しく未来の夢幻空想の境に惰眠を貪るものと評されても致し方がないであろう。しかしこの疑惑は親鸞聖人の道徳界が如来の本願の上に建てられてまた崩るるの恐れなきに至ったことに おいて、全く解決されているのである。それは、即得往生の義に照らして考えられる。それは現在において本願を信受する一念の内に既に得たる徳として往生を解し、即ち正定聚の位に住せしめられ、この世と別れて浄土に至ったその瞬間に往生すると言う即得往生の信に立つ者は如来の願に生かさるる者、即ち如来の願を己れの願として生くる者なのである。けだし如来の願に生かさるる者は、おのずから#@来の願を己れの願として生きずには居られぬようになるからである。さればとて己れが既に仏の覚りを開いのではない。己れは生涯煩悩具足の凡夫たるを免れない、貪り怒り妬み争い等の情、この世の終わるまで絶えず狂い起こるであろう。しかもその起こるところ、さながら名号不思議の海水に清められ潤されておのずから如来の願に融けしめられ、ここに煩悩を縁として如来の徳を恵まれ如来の願を行うの身たらしめられる。これ弥陀仏の誓願の真実にまします証である。真実者は虚仮不実なる者を転じて真実ならしめずには止まない。

●第四章原文
慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐることきはめてありがたし。また浄土の慈悲といふは、念仏していそぎ仏になりて大慈大悲心をもておもふがごとく衆生を利益(りやく)するをいふべきなり。今生にいかにいとをし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏をまふすのみぞすゑとをりたる大慈悲心にてさふらふべき、と。云々。

●白井成允師の現代訳
慈悲を行うについて聖道の立場でするのと、浄土門の立場でするのとの間に違いがある。聖道の立場で行う慈悲というのは衆生を憐れみ、いとおしみ、はぐくむのである。けれども、自分のおもいのままに他をたすけきることは極めてむつかしいことである。浄土の立場で行う慈悲というのは、念仏してこの世の生命の終わり次第直ぐに仏に成って大慈大悲心をもっておもいのままに衆生をめぐみたすけることを云うはずである。今生においていくらいとおしい、ふびんだと思っても、おもいのままにたすけきることはむつかしいから、聖道の慈悲は行っても終わりまでなしとげることのできないものである。こういうわけであるから、本願を信じて念仏もうすことばかりが、どこまでも徹り届いた大慈大悲心であると云うべきだ、と云々。

●高史明師の現代語意訳
慈悲に自力による聖道と念仏による浄土の違いがあります。(南無阿弥陀仏の法し、その始源からして、本来一つでありますが、人間はこの永遠の法が、人間の言葉において立ち現れて下さった深い意義を、いつしか見失い、南無する心を横におき、この法を自分の努力によって実現出来る、自分の道にしようとしたのでありました。そこから、仏様の慈悲に聖道と浄土の違いが、生まれたのであります。)聖道の慈悲とは、(われを依り処としてわれと言える知恵でもって)ものを哀れみ、慈しみ、育むというあり様を本質としています。(それは極めて優しい、まさに人間的なあり様ですが、その優しい思いが、思いのままに実現されることは、滅多にあることではないと言ってよいでしょう。)その立場において、思うがままに助けとげるということは、極めて困難なことであります。
(一方)浄土の慈悲とは、(何よりもまず)念仏するということを、本質としています。(その念仏とは、せしめられる念仏であります。念仏せしめられ、われを頼りとして生きてきた者が、阿弥陀仏の法に生かされるわれに、生まれ変わらせていただくのであります。わが身の汚辱を深く自覚せしめられる事を通して、阿弥陀仏の真実の智慧をいただくのであります。念仏せしめられるとは、その瞬間、すでにして仏となることが、約束されていることであります。そこに阿弥陀仏の計り知れず大きい、慈悲の世界が開かれます。)念仏して、いそぎ仏の手に包み取っていただくのであります。すなわち仏様の大慈悲心が、その身を通して現われ出て、自在に人々を助けて行くことになるのであります。念仏して、仏様の大慈悲心に助けられ、それでもって、人々を助けようとしておられる仏様の働きを実証していくこと、これが(生死を通して働く)浄土の慈悲であります。(われが中心である限りにおいて、このわれの)今生においては、いかに、いとおしく思い、不憫に思おうとも、知っての通り、助け難いことがあります。そうであれば、われが中心の慈悲とは、首尾一貫しないものであります。念仏を称えさせていただくこと、これのみが末とおりたる大慈悲心であります。(阿弥陀仏の慈悲こそが、首尾一貫した真実であります。)

●あとがき
私達が自分の計らいで、他に情けをかけたり、ボランティア活動することを全面的に否定するものではないと思いますが、ただそれは末徹ったものにはならないということを一方で心しておく必要があるのではないかと思います。そうでなければ、その情けが逆作用した場合などには、恨みや怒りに転じるのが凡夫の常であるからだと思います。

他力の本願に目覚められるならば、おのずから℃りの人々に対しても、仏様の慈悲心がその私を通して(私の慈悲心ではなくて)、働く、それが自然な姿ではないか、それが、他力の(浄土の)慈悲と言うものだと言うことではないかと思います。従いまして、先ずは、法話を聞き続けて、自力の心を転じせしめられて他力に生きる身となりたいものであります。


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No.627  2006.8.31

世間と仏法―F

これまで、世間と仏法と言うテーマを人間関係と言う面から捉えて論じさせて頂きました。私はこの人間関係の苦悩は、苦悩に深浅はありましょうが、人間関係に全く問題が無いと言う人は居ないと思いましたので、先ずは先陣を切らせたのであります。しかし、世間に暮らす私達の苦悩は、人間関係だけに在るのでは無いことは勿論であります。

次に取上げるべき世間の悩みは何でありましょうか。それは、お金の決定的な不足、即ち経済破綻寸前と言う状況に在る場合の苦悩・苦しみではないでしょうか。人間の欲望には限りがありませんから、多くの人も「もう少しお金があれば・・・」と言う状況にはあるとは思いますが、それは苦悩ではなく、贅沢と云うものだと言ってもよいのではないでしょうか。私が申しますお金不足の苦悩・苦しみとは、金融業者から厳しい取立てに遭っていたり、当然支払わねばならない税金を滞納し差し押さえの危機に瀕していると言う立場の苦悩・苦しみを指します。

私自身が、現在その状況にございますが、勿論、それでは今世間で最低、極貧の衣食住レベルであるかと言いますと、そう云う状況ではございません。現在住んでいる一戸建てを手離し、1DKの文化住宅にでも引っ越せば、多額の住宅ローンの支払いから解放されて、年金で生活して行く道も選択肢としてございますが、それは、不動産価値が半値になってしまっている現状では、自己破産をする事が前提条件になりますので、なかなか踏み切れないでいると言うのが正直なところであります。また、 本来ならば、そこそこの維持費も労力も必要な、この無相庵ホームページも閉じるべきではありますが、それも決断出来ません。従いまして、そのツケが色々な生活面の不自由さを現出している訳であります。

所詮他の人々から見れば、決断しきれずに往生際が悪いだけの苦悩・苦しみではありますが、当人の私達夫婦に取りましては、かなり厳しいものがあります。しかし、そう言う状況が続く中、何とか踏ん張って来れたのは、やはり、仏法の教えが支えになって来た事は間違いないと思っております。『全てが縁なのだなぁー』と言う教えであります。色々な困難、厳しい局面はありますが、夫婦して最後の心の落ち着きどころ、依り所は、仏法の『全ては縁に依って起こる』と言う教えでしたし、今も、それは変わらないのであります。勿論、そう思いつつも、何とか経済的に良い方向に転じないかと願う気持ちはずっと持続しておりますし、今月の支払い・返済に四苦八苦している状況は変わりませんが、最後の落ち着きどころを夫婦で共有出来ている有り難さにも感謝している次第です。

その一方、世間における生活の建て直しはしなければなりません。仏法に逃げ込んで居るわけにも参りません。その為には、やはりお金を稼ぐ必要がございます事は勿論であります。従いまして、会社を再興する為に、特許技術を生かした製品開発、顧客開拓の夢を捨てていませんし、11年前にヒットした(世事雑感で紹介)口紅ケースを利用した認印の販路開拓も模索しております。そして更に、私が在宅で為しうる唯一のビジネスとして昨年から始めた小学生相手の塾も、頑張っているところであります。

事業が思わしくなくなりました直接のキッカケは、低賃金の中国に仕事を奪われたというものですが、しかし、達した結論は、商売の鉄則である『出るを制し、入るを増やす』意識も努力をしなかった経営者の私の不見識と経営哲学を持たなかった事に依るものだと言う事であります。そして、もう残された時間は少なくはありますが、事業におきましても『全ては縁に依って起こる』事を旨に、最後になるかも知れない挑戦をしているところであります。

在家の私は、仏法に励めばそれで何もかもうまく行くとは思っていません。否、昔はその様に考えていた事もございましたが、それは間違いだと思うようになりました。私達が生き抜く世間には世間の法(理、因縁果)があると思います。世間の道理。法に従いつつ、そして、世間が仏法を生かす現場でなければならないと思っているところであります。


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No.626  2006.8.28

歎異抄に還って―第四章―A

●まえがき
NHK教育番組の『こころの時代』のシリーズ「歎異抄を語る」(山崎龍明師)も、丁度、第四章に入られたところであります。私には、この第四章はなかかな心にすっと入って来ないものがありました。それは、山崎龍明師もおっしゃって居られましたが、「人に慈悲を施すにおいて、或いは、人を救い幸せにするには、念仏を称えるしかない」と言う断定的表現にあるように思われます。普通に考えますと、「念仏を称えるだけで人を救えるのか? 献身的な愛があれば、幸せに出来るのではないか? だからこそ、後進国や難民収容地で献身的ボランティア活動が為されているのではないか?」と言う疑問が湧き上がるからでありましょう。

「自分の周りに苦難・苦悩に陥っている人々が居ても、念仏者は何もせずに、ただ念仏を称える事で、世間の現実から逃避しているだけではないのか?」この第四章を読んだ殆どの人は、その様な疑念を抱くはずであります。私も正直なところ、そう思いつつ、これまではこの第四章に親しみや共感を抱けませんでした。

しかし、白井成允先生の『歎異抄領解』の第四章から第六章までのご解説をあらためて読ませて頂き、また、山崎龍明師のご解説をお聞きして、「ああ、そう言うことであったか」と、今は、心にすっと納まるような気がしています。

身近な例で考察いたしますと、私は今、小学生相手の塾をしていまして、小学4年生と5年生6名に算数と国語を教えています。いずれこの6人の塾生は、成績順に公立高校が割り当てられる神戸方式の市立中学校へ進学しますから、私と致しましては、上位の高校に進学出来て、最終的には一流大学に入れるレベルになるように、「小学生の間に学力を引き上げたい」と言う願いを持って教えている積りであります。また、これは親御さんの願いでもあろうと考えています。

しかし、5年生で既に中学入試問題を解ける子もいます一方、私が思う程にはやる気を見せてくれず、従って学力が向上しない生徒もいます。塾は、生徒の勉強のし具合を一日中管理する事が出来ませんので、どうしても、親御さんとの共同管理が必要ですが、勉強を出来るようにするのは塾の仕事だ考えて、協力が得られない親御さんもいます。お金を頂いている限りは責任がありますから、勉強に意欲が無い子にも勉強癖をつけさせて、何とかしたいとは考えていますが、我が子ですら、なかなか思うように育たない訳ですから、いわゆる末徹った教育指導が何処まで出来るのか、不安が無いわけではありません。

塾と言うのは、問題を解く考え方やテクニックを教えればそれで良いのではなく、むしろ、勉強に対する姿勢、生活習慣、大きく言えば人生観まで指導致しませんと、いわゆる勉強が出来る子≠ノはならないように思います。そして、そんな子が殆どでもあります。従って、本当の愛情・優しさが無ければ、末徹った指導は出来ないなと感じているところであります。

では、私にそんな愛情があるのかと自問する時、イエスと言う確固たる自答が出来ないと言うのが、正直なところです。私と親鸞聖人を同じレベルで推し量る事は、おこがまし過ぎますが、親鸞聖人は、84歳の頃に長男(善鸞)を勘当されています。恐らくは、我が子さえ正しい仏法の道に導けなかったやるせないご経験は、聖道の慈悲の限界を感じさせるには充分だったのではないかと思われます。そしてまた、親鸞聖人が生きておられた時代の庶民は、戦争や飢饉によって、死と隣り合わせの生活を強いられていました。念仏信者になった人々の多くの死に対しても、何も手が下せない無念・無力さを感じられていたものと思われます。その様な現実の自分を見据えられた上で、人間は、末徹った慈悲の心を持ち続けられないな、と言う慙愧の念をお持ちに成られたのではないかと推察致します。

それを、冒頭の「聖道の慈悲は・・・・・・思うがごとく助け遂げる事は滅多には有り得ない事だ」といわれたのではないかと思います。決して、聖道門の慈悲が駄目だと言う事ではなく、人間が計らう慈悲心では、結局は、人を救うとか、人を本当の意味で幸せにすることは難しいと言う事だと解釈したいものです。

自分の問題として捉えますと、この第四章は真に迫って来る気が致します。

●第四章原文
慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐることきはめてありがたし。
また浄土の慈悲といふは、念仏していそぎ仏になりて大慈大悲心をもておもふがごとく衆生を利益(りやく)するをいふべきなり。今生にいかにいとをし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏をまふすのみぞすゑとをりたる大慈悲心にてさふらふべき、と。云々。

●白井成允師の現代訳
慈悲を行うについて聖道の立場でするのと、浄土門の立場でするのとの間に違いがある。聖道の立場で行う慈悲というのは衆生を憐れみ、いとおしみ、はぐくむのである。けれども、自分のおもいのままに他をたすけきることは極めてむつかしいことである。
浄土の立場で行う慈悲というのは、念仏してこの世の生命の終わり次第直ぐに仏に成って大慈大悲心をもっておもいのままに衆生をめぐみたすけることを云うはずである。今生においていくらいとおしい、ふびんだと思っても、おもいのままにたすけきることはむつかしいから、聖道の慈悲は行っても終わりまでなしとげることのできないものである。こういうわけであるから、本願を信じて念仏もうすことばかりが、どこまでも徹り届いた大慈大悲心であると云うべきだ、と云々。

●高史明師の現代語意訳
慈悲に自力による聖道と念仏による浄土の違いがあります。(南無阿弥陀仏の法し、その始源からして、本来一つでありますが、人間はこの永遠の法が、人間の言葉において立ち現れて下さった深い意義を、いつしか見失い、南無する心を横におき、この法を自分の努力によって実現出来る、自分の道にしようとしたのでありました。そこから、仏様の慈悲に聖道と浄土の違いが、生まれたのであります。)聖道の慈悲とは、(われを依り処としてわれと言える知恵でもって)ものを哀れみ、慈しみ、育むというあり様を本質としています。(それは極めて優しい、まさに人間的なあり様ですが、その優しい思いが、思いのままに実現されることは、滅多にあることではないと言ってよいでしょう。)その立場において、思うがままに助けとげるということは、極めて困難なことであります。

(一方)浄土の慈悲とは、(何よりもまず)念仏するということを、本質としています。(その念仏とは、せしめられる念仏であります。念仏せしめられ、われを頼りとして生きてきた者が、阿弥陀仏の法に生かされるわれに、生まれ変わらせていただくのであります。わが身の汚辱を深く自覚せしめられる事を通して、阿弥陀仏の真実の智慧をいただくのであります。念仏せしめられるとは、その瞬間、すでにして仏となることが、約束されていることであります。そこに阿弥陀仏の計り知れず大きい、慈悲の世界が開かれます。)念仏して、いそぎ仏の手に包み取っていただくのであります。すなわち仏様の大慈悲心が、その身を通して現われ出て、自在に人々を助けて行くことになるのであります。念仏して、仏様の大慈悲心に助けられ、それでもって、人々を助けようとしておられる仏様の働きを実証していくこと、これが(生死を通して働く)浄土の慈悲であります。(われが中心である限りにおいて、このわれの)今生においては、いかに、いとおしく思い、不憫に思おうとも、知っての通り、助け難いことがあります。そうであれば、われが中心の慈悲とは、首尾一貫しないものであります。念仏を称えさせていただくこと、これのみが末とおりたる大慈悲心であります。(阿弥陀仏の慈悲こそが、首尾一貫した真実であります。)

●あとがき
親鸞聖人の奥様であられた恵信尼様のお手紙がかなりの数保存されているようでありますが、その中に、親鸞聖人が、2度程、農民・庶民の生活の悲惨さを見るに耐え切れず、浄土三部経の千回読誦に挑戦されたと言う事が記されているようです。阿弥陀仏の他力に生かされる身でありながら、自力に頼るとは何と言う事かと、途中で気付かれて中止されたようでありますが、それほどまでに、自分の周りの世間の現実に心を痛められていたということであります。そして、人間の無力さを慙愧されたに違いありません。

単に、現実の世間から眼を背けて、念仏に逃避されると言う親鸞聖人ではなかったと言う事であります。しかし、その慙愧が、念仏を称えて覚りを開いて大慈悲心をもって衆生を利益(りやく)すると言う風に転換すると言う事は、一体どの様に考えればよいのでしょうか、それは次回の勉強に譲りたいと思います。


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No.625  2006.8.24

世間と仏法―E

人は、幸せを求めて仏法の門を叩くと思います。その幸せとは、恐らくは世間の様々な苦悩に押しつぶされないように、極端には、苦悩を感じないようになりたいと言うものではないかと推察致します(一方、所謂新興宗教の門を叩く人々は、欲望の満足を求めてのものではないかと思います)。しかし、仏法を長年聴聞(法話を聞く)致しましても、初期の目的はなかなか達成出来ないと言うのもまた現実ではないかと思います。残念ながら、私自身が全くその通りなのであります。

最近も、ちょっとした人間関係でのトラブルがございまして、その想いを強くしたのであります。そのトラブルの真因を求めるべく、冷静になってから自己の心を問い尋ねますと、「私が正しくて、相手が間違っている」と言う私の我癡・我見・我慢・我愛にあることが認識出来たのでありますが、それでも、やはり、相手の非を責める心が皆無ではありません。この相手の非を責める心は、恐らくは無くなることは無いと思われます。

この相手を責める心を無くせ、或いは、そう言う拘りの心から離れよと言うのが、聖道門の説くところだと思いますが、私の様な、煩悩の燃え盛った人間には到底出来ないことであります。しかし、それでは、どうするのだと自問自答致しましたところ、仏法の六波羅蜜(ろくはらみつ、ロッパラミツ)の教えに思い至りました。

即ち、今回の人間関係のトラブルを我に課せられた修行と捉えねばならないと言うことであります。浄土門的な表現をするならば、阿弥陀仏から賜った修行の場面だと言うことであります。六波羅蜜とは、悟りに到る修行項目、修行の種類と言っても良いと思いますが、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧が、その六項目であります。詳しくは下記のホームページをご参照下さい。
http://homepage2.nifty.com/shusse-kannon/budda/budda6.htm
この中の、忍辱の心を持たねばならないと言うことです。忍辱と言うのは、寛容の心ですが、これは努力が必要だと言うことです。自分の心のままに任せている限りは、寛容な心にはならないと言うことだと思います。相手が間違っていると思っても、辛抱せよと言う教えであります。辛抱せずに、怒りの心のままに行動しても、それは自分にとっても善き結果をもたらせないということではないかと思います。辛抱することによって、色々な事が見えて来ますし、真実・真理が分かって来ると言うことではないかと思います。

此方が辛抱したら、相手はますます増長するではないかと言う気持ちも湧いては来ると思いますが、忍辱と言うのは、ひたすら相手に頭を下げるとか、相手の言い成りに成る事を求めているのではないと思います。「血が上った頭を冷やし、その上で、誰もが納得し、自分も納得し、自分の良心(仏様の心)も納得する対応を淡々と為せ!」と言うことではないかと思います。

今回の私の人間関係のトラブル(未だ表面化してはいませんが)に対して、上述の考えで、忍辱波羅蜜(にんにくはらみつ)と言う姿勢で我が心身・言動をコントロールしようと結論付けた次第であります。

これは、今も解決していない拉致問題を抱える北朝鮮と日本の関係にも言えることだと思います。対話と圧力で解決したいと言うのが日本政府の立場でありますが、歴史的、そして第三者的に考えますと、一方的に北朝鮮が悪いとは言えないのかも知れません。拉致そのものに関しましては、一方的に北朝鮮が犯罪を犯したのでありますから、それは断じて許される行為ではありませんが、そこに到るまでの歴史を考えますと、朝鮮半島が日本の植民地とした時期があり、さきの戦争で、朝鮮半島の人々を強制連行したり、慰安婦にしたり、拉致に匹敵する行為をしたことを思います時、一方的に北朝鮮を責める事が出来ないのではないかと・・・拉致被害者とご家族の方々には承服出来ない見解だとは思いますが、敢えて私は、日本は一方的に北朝鮮を非難出来ないと言う事を強調したいと思います。従いまして、日本政府もなかなか圧力をかけずに、拉致被害者家族に歯痒い想いを抱かせ続けて来た訳でありますが、圧力一辺倒では進められない過去に対する反省、或いは国際社会に対する気兼ねから、日本政府が忍辱六羅蜜(にんにくはらみつ)の実践をしていると致しましたら、これはこれで、仏法的見地からは見上げた対応だと言わねばなりません。

忍の一字、忍辱、辛抱と言う言葉も、もう過去のものになりつつありますが、この心を取り戻さないと、日本は、否、人類は破滅に向かうしかないのではないか・・・『忍辱(にんにく)』と言う熟語を世間と仏法を繋ぐキーワードなのかも知れないと思った次第であります。


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No.624  2006.8.21

歎異抄に還って―第四章―@

●まえがき
白井成允先生のおっしゃるには、この第四章、第五章、第六章は、本願の念仏が、人間生活にいかに作用するか、人生の内容を成す義務を如何に遂げしめるかを示すものであって、即ち、いわば実質的に念仏の作用を語っているとのことであります。第四章は慈悲を、第五章は孝養を、第六章は指定の関係を念仏の道に立って明らかにすることによって、この歎異抄は人間生活の道徳的地盤を確かめているとの事であります。

念仏が私たちの生活にどのように作用するのかを説くものでありますが故に、念仏を呪(まじな)いの一種ではないかと受け取っている一般の人々は勿論のこと、浄土真宗の教えを聞きながらも、自力の世界から抜け出せないでいる私を含めた自称浄土真宗信者に取りましても、なかなか心から頷けない三章ではないかと思います。

私自身、この機会に、念仏とは何かと言うところを勉強したいと思います。先ずは、原文と、現代訳、現代意訳の全体を把握したいと思います。

●第四章原文
慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐることきはめてありがたし。また浄土の慈悲といふは、念仏していそぎ仏になりて大慈大悲心をもておもふがごとく衆生を利益(りやく)するをいふべきなり。今生にいかにいとをし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏をまふすのみぞすゑとをりたる大慈悲心にてさふらふべき、と。云々。

●白井成允師の現代訳
慈悲を行うについて聖道の立場でするのと、浄土門の立場でするのとの間に違いがある。聖道の立場で行う慈悲というのは衆生を憐れみ、いとおしみ、はぐくむのである。けれども、自分のおもいのままに他をたすけきることは極めてむつかしいことである。浄土の立場で行う慈悲というのは、念仏してこの世の生命の終わり次第直ぐに仏に成って大慈大悲心をもっておもいのままに衆生をめぐみたすけることを云うはずである。今生においていくらいとおしい、ふびんだと思っても、おもいのままにたすけきることはむつかしいから、聖道の慈悲は行っても終わりまでなしとげることのできないものである。こういうわけであるから、本願を信じて念仏もうすことばかりが、どこまでも徹り届いた大慈大悲心であると云うべきだ、と云々。

●高史明師の現代語意訳
慈悲に自力による聖道と念仏による浄土の違いがあります。(南無阿弥陀仏の法し、その始源からして、本来一つでありますが、人間はこの永遠の法が、人間の言葉において立ち現れて下さった深い意義を、いつしか見失い、南無する心を横におき、この法を自分の努力によって実現出来る、自分の道にしようとしたのでありました。そこから、仏様の慈悲に聖道と浄土の違いが、生まれたのであります。)聖道の慈悲とは、(われを依り処としてわれと言える知恵でもって)ものを哀れみ、慈しみ、育むというあり様を本質としています。(それは極めて優しい、まさに人間的なあり様ですが、その優しい思いが、思いのままに実現されることは、滅多にあることではないと言ってよいでしょう。)その立場において、思うがままに助けとげるということは、極めて困難なことであります。
(一方)浄土の慈悲とは、(何よりもまず)念仏するということを、本質としています。(その念仏とは、せしめられる念仏であります。念仏せしめられ、われを頼りとして生きてきた者が、阿弥陀仏の法に生かされるわれに、生まれ変わらせていただくのであります。わが身の汚辱を深く自覚せしめられる事を通して、阿弥陀仏の真実の智慧をいただくのであります。念仏せしめられるとは、その瞬間、すでにして仏となることが、約束されていることであります。そこに阿弥陀仏の計り知れず大きい、慈悲の世界が開かれます。)念仏して、いそぎ仏の手に包み取っていただくのであります。すなわち仏様の大慈悲心が、その身を通して現われ出て、自在に人々を助けて行くことになるのであります。念仏して、仏様の大慈悲心に助けられ、それでもって、人々を助けようとしておられる仏様の働きを実証していくこと、これが(生死を通して働く)浄土の慈悲であります。(われが中心である限りにおいて、このわれの)今生においては、いかに、いとおしく思い、不憫に思おうとも、知っての通り、助け難いことがあります。そうであれば、われが中心の慈悲とは、首尾一貫しないものであります。念仏を称えさせていただくこと、これのみが末とおりたる大慈悲心であります。(阿弥陀仏の慈悲こそが、首尾一貫した真実であります。)

●あとがき
「私に慈悲心があるだろうか?」その問い掛けを先ず自分自身にしてみる必要があるのではないかと思います。仏の覚りをひらき得ずして慈悲を行おうとする事自体、間違いであると言うのが結論のようでありますが、では、この第四章の結論である「念仏を申すのみが末徹った大慈悲心である」と言う意味は、どういうことでしょうか。白井成允先生のご説明を詳しく勉強したいと思います。


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No.623  2006.8.17

世間と仏法―D

私が『世間と仏法』と言うテーマを掲げる事に違和感を持つ人は居ないと思います。しかし、世間に仏法を当てはめて、仏法のお蔭で日々平穏に生活出来ているとおっしゃれる方は少ないのではないでしょうか。それは、それ程に世間は厳しい場であるからだと私は思います。原理原則、或いは理想論で済ませられないところだとは思いますが、厳しい修行の場を生き抜くには、依り所となる原理や原則そして理想を知る事は大切ではあります。以下に、対人関係においてキーワードである『愛』に関しまして、キリスト教の説く『愛』と仏教が説く『慈愛』を紹介しようと思います。キリスト教の愛は、渡辺和子さん(ノートルダム清心学園理事長)、仏教の慈愛は、青山俊董尼(曹洞宗・愛知専門尼僧堂堂長)のお話からのものであります。

愛とは意志の力」(渡辺和子さん)

「愛」と「好き」は、似ているけれど少し違います。 たとえば、私は食べ物の中でピーマンだけがどうしても好きになれません。そのような「好き嫌い」は感情的・生理的なものですから、仕方のないことだと思っています。でも、私は「ピーマンが好き」とおっしゃる方がいることを十分知っております。さらに、栄養が豊富だというピーマンの価値も知っています。ですから私はピーマンが好きではないけれど、その価値は認めます。そのように、感情的・生理的なものを越えて価値を認めることが「愛」です。
人間の中にも、私にとって「ピーマン的存在」とも言える、どうしても好きになれない方がいます。でも、その方の長所を認めることが愛なのです。ですから、愛には厳しい意志の力が必要です。これはむずかしいことですね。好きな人を愛することは簡単ですが、好きでない人の価値を認めて大切にするには、自分自身との闘いが必要になってきます。
アメリカの心理学者、エーリッヒ・フロムは、愛について「単なる熱情ではなく、本質的に意志の行為である。それは決意であり、判断であり、約束である」「もし人がひとりの人のみを愛し、他の人々に冷淡であるとすれば、その愛は愛ではなく、エゴイズムに過ぎない」と書いています。

自分を愛するように」(青山俊董尼)
お釈迦様の言葉に次のようなものがあります。
人の思いは
いずこへもゆくことができる
されど いずこへおもむこうとも
人は おのれより愛しいものを
見いだすことはできぬ
それと同じく 他の人々も
自己はこの上もなく愛しい
されば
おのれより愛しいことを知るものは
他のものを害してはならぬ

人間には、本能ともいうべき「わが身かわいい」という思いがあります。「誰よりも自分がかわいい」「誰にも傷付けられたくない」という切ない思い。そして、その思いが満たされなかったときのやりきれない痛みや苦しみ、悲しみ・・・・。誰もが持つ、ガリガリの自我の姿です。 しかし、お釈迦様はそれを認めたうえでこう続けます。「それと同じく他の人々も自己はこの上もなく愛しい」。私が「誰よりも自分がかわいい」と思うように、どの人も自分がかわいい。どの人も傷付けられたくないのです。 だから、お釈迦様は「自分を本当に愛しいと思うのなら、みんなを自分と同じように愛していきなされ。傷つけてはならんぞ」とおっしゃいます。「わが身がかわいい」という思いを突き詰め、どん底で「人を傷つけるな。自分と同じように愛せよ」とひっくり返す。そのような転じ≠ェあるからこそ、慈悲の心にすばらしいぬくもりをもたせることができるのだと思います。 人を傷つけてはいけない、しかし、だからと言って、人に注意をしてはいけないと言うことではありません。しかし、私どもが人に何かを言うときに心から相手のことを思っているでしょうか。これはなかなか難しいものですね。お釈迦様は、何か一言を言うときには次の三つのことを確かめたといいます。 一つ目は、今自分が話そうとすることが真実であるかどうかを確かめる。二つ目は、それを伝えて、相手のためになるかどうかを確かめる。三つ目は、それを伝えるのに時と場所を選ばないとマイナスに働くことがあります。そしてこの三つの確かめがついたら、相手の好むと好まざるに関わらず伝える。これは毅然としておりますね。 よく「嫁に嫌われるから」とか「若い者に嫌われるから」という理由で黙っている人を見かけます。これは、お嫁さんや若い人がかわいいからではなく、相手に嫌われたくないから言わないのです。しかし、どうでしょう。私どもは自分の経験の範囲でしか理解が出来ないものです。つまり、30年生きてこられた方は30年分の受け皿と物差ししかないわけで、それは70年、80年生きてこられた方のものとは違ってきます。ですから若い人が年配の方のおっしゃることをわからないのは当たり前です。それでも、「今はわからなくても、いつの日か理解してくれればいい」という願いのもとに、それが相手のためになることならば、時と所を選んで伝える。それが本当の親切であり、愛の言葉でしょう。

――引用終わり

どちらのお話も、人と付き合うには、かなりのエネルギーと意志力が必要だと言うことでありましょう。感情的・生理的・価値観的に合わない相手と上手に付き合う事は、生易しいことではありませんし、既に破綻してしまった相手と関係を修復することは更に難しいことだと思いますが、対人関係こそが、厳しい修行の場だと認識して、上述の教えを実践して行こうとする強い意志力が必要だと言うことだと思う次第です。


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No.622  2006.8.15

歎異抄に還って―第三章―C

●まえがき
人間は、祖先の遺伝子を貰って、この世に生を受けると考えます。祖先を辿れば、人間以前の生命体であったことも想像出来ますが、人類となったであろう700万年前後に遡りますと、私の祖先は、数億人、数十億人ににも登るものと思われます。そして統計学的に考えますと、何十代か前の祖先は、多くの日本人と共通の祖先であろうことも立証されるでありましょうが、現在存在している人間が、ホンの少しではあっても異なる遺伝子を貰って生まれて来ていることも間違いないと思います。

そして、生まれてから育つ環境(人的、地理的、経済的)も千差万別であり、もの心つく頃には、崇高な人格から野獣の如き人格までのバラツキが生じるものと思われます。仏法上の人格で言いますと、お釈迦様のような人格から、極悪人でありながら後悔も反省もない人格まで、到底同じ人間とは思えない違いが生じているものと思います。

聖道門の修行によって、お釈迦様と等しい悟りの心境に達せられる方も居られることも確かでありましょうが、どのような修行をしても、お釈迦様の悟りの心境には到れない者もあることもまた確かだと思います。大乗仏教では、末法思想と言う考え方があり、日本では、西暦1052年に末法の世に入ったと考えられています。つまり、お釈迦様の教えに従って修行出来る者もなく、悟りを開く者も居ない、そして辛うじて教えだけは伝わっていると言う時代になると言う考え方であります。

恐らくは、物質文明が盛んになり、精神が堕落するだろうと言うところから中国で生まれた考え方でありますが、その末法の時代に入って間もない平安末期、鎌倉時代初期に、日本浄土門の二祖、法然上人と親鸞聖人が善導大師(613〜681年、中国・唐代の浄土教の大成者)の教えに感銘し、極悪人が救われる道を開かれたことは、大変意義深いものがあると私は思います。

末法時代に入って、約千年、ますます精神の荒廃が進んでいることが実感される現代、煩悩はますます燃え盛り、日本中に苦悩が満ち溢れているように思われます。中には崇高な人格者も居られることでありましょうが、政治の貧困に思いを致す時、またマスメディアが競って取上げる話題を思います時、末法の時代を実感するのは私一人ではないと思います。

末法の時代に入って約200年経過した時に、人類が救われる道、『悪人正機』(他力を頼む悪人こそが救われる)を説いた親鸞聖人のお言葉に耳を傾ける必要があると思うのであります。

●第二章原文
善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつね(常)にいはく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をや、と。この条、一旦そのいはれあるにに(似)たれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆえは、自力作善のひとはひとへに他力をたのむこころ(心)か(欠)けたるあひだ(間)、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして他力をたのみたてまつれば真実報土の往生をと(遂)ぐるなり。煩悩具足のわれらはいづれの行にても生死をはな(離)るることあるべからざるをあはれ(憐)みたまひて願をおこ(起)したまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人もとも往生の正因なり。よて、善人だにこそ往生すれ、まして悪人は、とおほせ(仰)さふらひ(候)き。

●白井成允師の第一章現代訳
善人でさえ往生を遂げるのだ。まして悪人はもとより往生するに決まっている。ところが世間の人々は、いつも、悪人でさえ往生する、まして善人はもとより往生するに決まっている、と云っている。この言い分は、一応道理にかなっているように思われるけれども、弥陀の本願他力を恵み賜った御思召しに違っている。その理由は、いわゆる善人、即ち自分の力で善を作(な)し、その功徳で浄土に往生しようと欲(おも)う人は、ひとえに如来の御慈悲にまかせ御力にたよる心がないのであるから、それは弥陀の本願ではない。けれども、さようの人でも、自分で善根を積もうなどという心がひっくりかえってしまって、如来の御力をたのみまいらせるときには、即ち真実報土の往生をとげるのである。煩悩という煩悩を一つも欠けることなく具えている私たちは、いかなる行を励んでも、生死を離れることが出来ないのをお憐れみくださって、必ず救うと願いたたせられた弥陀仏の御本意は、悪人を仏と成らせようというためなのであられるから、その御本意を素直に頂いて、仏の御力をたのみたてまつる悪人こそ、何にもまさった往生の正しき因(たね)なのである。だから、善人でさえも往生するのだから、まして悪人は往生するに決まっている、と仰せられたのである。

●高史明師の現代語意訳
善人でさえも、なおもって往生を遂げることが出来るのであります。そうであれば、悪人の往生は、もはや、言うまでもないことであります。これが真実でありますのに、世間の人が、いつも口にして言いますのは、「悪人でさえ往生させていただけるのです。そうであれば、善人の往生は、もっと確かなものである」と言うものであります。この世間で人が口にしている説は、いちおう、そこにそれなりの道理を備えているように見えますが、阿弥陀仏の願いの根本と、その根本と一つのものである、真実の智慧の働きの向かうところに背くのであります。なぜかといえば、自分を依り処として、自分と言える知恵と力によって善をなそう(往生の業にしよう)とする人は、いちずに阿弥陀仏の本願力におすがりするところがかけてしまいます。それ故に、阿弥陀仏の(願いと呼びかけに耳を傾けようとしないことになり)本願の慈悲からもれ落ちることになるのであります。そうではありますが、(阿弥陀仏の慈悲は、計り知れず深いものです。自力の行者であっても)その自分の力を頼りとする心を、根本ものから改めて、阿弥陀の本願におまかせ申し上げれば、阿弥陀仏の真実の智慧によって開かれた浄土に、往って生かされたいという願いを、成し遂げさせて頂くことができます。
全身が、まるごと身の煩いところの悩みである、と言ってよいような私たちは、(自分を頼りとしている限り)どのような行によっても、生と死が繰り返される迷いの世界から、逃れようはないのであります。それを憐れみくださり、一切の生きとし生けるものすべてを、平等に救い取らんと思いたたれたのが、阿弥陀仏が本願を起こされたお心の根本であってみれば、阿弥陀仏の根本の願いは、(真実の智慧に背を向け、いのちを見失ってしまう、という罪を犯している)私たち本源的悪人に、覚りを与え、真実のいのちを、恵まんとするところにこそあります。ですから、すべてを阿弥陀仏の智慧におまかせ申し上げようとする悪人こそが、往生ということでは、もっともそれに相応しい人間なのであります。それ故にこそ、善人でさえ往生できるのであれば、まして悪人においては、と仰せられているのであります。

●あとがき
今日、8月15日に小泉首相が靖国神社に参拝した。退任前になって漸く公約を果たしたことになりますが、中国と韓国の神経を逆撫でしたことになり、ますます日中、日韓関係は悪化するのだと思われます。

それぞれがそれぞれの価値観(善い事と悪い事、して良い事として悪い事の基準)を持って主張する限り、対話も実現しないでしょうし、溝は永久に埋まらないものと思われます。日本が北朝鮮と国交正常化しないのは、北朝鮮の拉致と核・ミサイルが許せないからであります。しかし、北朝鮮は、日本の強制連行・従軍慰安婦こそ拉致に匹敵する犯罪だと主張し、ミサイル実験は、通常の軍事訓練だと主張して、自国の非を認めません。お互いが相手の価値観を認めようとしない限り、永遠に断絶状態が続くしかないでしょう。

個人対個人の人間関係も、全く同様です。お互いの大切にするところが異なる場合、些細な事で絶交という不幸な結果に到ってしまいかねません。お互いが自分の正しさを主張する限り、不幸な人間関係もなくなりませんでしょうし、国同士も同じことだと思われます。

その自己を正当化し相手を非難する人間の業をご自分の心に感得されて、親鸞聖人は罪悪深重・煩悩具足の凡夫と慙愧(ざんき)されたのだと思います。「こうなったのは、全面的に私が悪かったからです」と相手に対して心の底から頭を下げられない自分を「傷ましい」と見守っている阿弥陀仏を仰がれたのではないか・・・私にはそう思えます。

親鸞聖人は85歳の時に、自分を裏切り、そして且つ関東の信者を混乱させたご長男(善鸞)との親子の縁を切られました。親鸞聖人のお心に、単純には計り知れない感情が湧き起こったに違いありませんが、我が子を見捨てねばならない自分と、そしてその我が子にも傷ましさを感じられたのではないでしょうか。

そして、そう言う傷ましい自分をこそ救うという阿弥陀仏の誓願に出遇えた感謝と慶びを『南無阿弥陀仏』と表わされたのだと思います。私も、煩悩を無くさないと救われないと言われますと、救いようが無い凡夫でしかありませんが、親鸞聖人のお蔭で、遠くではありますが希望の灯火が見えることで既に救われている想いが致します。


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No.621  2006.8.10

世間と仏法―C

前回まで3回に亘りまして、人間関係で躓かない為、仏法(主として唯識)から学ぶべきところがある事を申して参りました。理論的には、相手にも私にも、唯識で言うところの『末邦識の我執』がある事を前提とすればよいと申しましたが、私は、正直なところ、常にこの理論を忘れ去って、今日まで来ていますから、決して偉そうな事を申せる身分ではございません。

私は元来、一目惚れし易いけれど一目嫌いもし易く、一目で相手を信用する反面、一目で相手を信用しないこともありました。そして、そのどちらの場合も、結果として後味の悪い人間関係になってしまったと言う経験が数例あります。一目嫌いしたり、一目で相手を信用しなかった場合は、元々付き合いを拒絶しますから、そんなに後味は悪くありませんが、問題は、一目惚れしたり一目で信用した場合でありまして、その後の付き合いで「それほどの相手では無いな」と言う事態に至り、最終的に絶交状態になったケースがあるという事です。充分に相手の事を知らない裡に、相手像を自分勝手に描いてしまって好意をよせたり信用したりして、結果的には、自分の描いた像との乖離(かいり)に、ショックを受けるという図式であります。

「一目惚れするな、相手を直ぐに信用するな」と誡めれば済むように思いますが、これがなかなか難しいものです。これは、末邦識の4根本煩悩(我癡・我見・我慢・我愛)が、それ位強く、本能と言っても良い位に払拭出来ないものだと言うことに繋がると思います。

禅門では、この根本煩悩を滅するべく修行を積むのかも知れません(少なくとも臨済宗での修行は、そうでは無いかと思います)が、親鸞聖人の到られたご心境は、「この根本煩悩を滅する事は、私のような凡夫には到底出来るものではない、しかし、このような煩悩具足の凡夫を何とかして救おうと言う阿弥陀仏が立てられた誓願を信じて、全てをお任せしよう」と言うことだと思います。そして、その安心を得た感情(慙愧と歓喜)を「南無阿弥陀仏」と言う6字で表わせられたと言う事だと思います。

ただ、親鸞聖人は、4大根本煩悩の払拭を諦められたのではないと思います。自分の心の中に厳然としてある、我癡・我見・我慢・我愛の煩悩を透徹した眼で見詰められながらも、それによって自分をがんじがらめにはされなかったのではないかと思います。仏様の眼で見守られながら生活すると言う事は、そう言うことだと思います。

禅門のお悟りの心も、決して『無』では無いとお聞きしたことがございます。煩悩を滅したのではなく、湧き上がる煩悩に自らが惑わされない、囚われないということではないでしょうか。山田無文老師が、『鏡の様な心』と申されていた事を思い出します。鏡は、汚いものも、美しいものも映すけれども、鏡の前からその汚いものが去れば映さない、美しいものも鏡の前から去れば映さない、美しいからと言って取り込まない、汚いからと言って排除しない、そう言う淡々とした心が禅の心だとおっしゃったことがあったと記憶しています。それを『空』とも言うのだと思います。

人間関係にあって、もし、好ましい人に接した時とか、反対に嫌な人に出遭ったと感じた時には、「ああ、また我癡・我見・我慢・我愛の心が騒いでいるのだなぁー」と言う位に軽く受け流して行けばどうかなと思います。私自身、そのように処して行ければと考えている次第であります。


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