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No.640  2006.10.16

歎異抄に還って―第六章―B

●まえがき
親鸞聖人はお師匠さんである法然上人とは、たったの5年の師弟関係でした。1207年に流罪と言う不本意な出来事によって、親鸞聖人は越後(現在の新潟県)へ、法然上人は土佐(現在の高知県)へと別れ別れになってしまいました。そして、二度と会われる機会はございませんでしたが、親鸞聖人は、法然上人を一生涯、本師(本当のお師匠さんと言う意味と、仏法を世に広める為に生まれた真実の師と言うお気持ちからの表現だと思います)と仰がれました。

そして、お二人の間には、通常ありがちな閉鎖された師弟関係ではない、特別な感情の通いがあったものと想像出来ます。傍に居るから親しいと言うような近所付き合い的な信頼関係でもなく、また、遠く離れているから徐々に心が離れて行くというような浅薄な結び付きではない、既に浄土の光を一杯浴びながら、信心によって結ばれている関係ではなかったかと思います。

この第六章の後半にございます、「つくべき縁あればともなひ、はなるべき縁あればはなるることのある」を現代的な表現で申しますと、「来るものは拒まず、去るものを追わず」と言う事になりましょうが、この表現には、『縁』と言う文字が入っておりませんので、何か少し冷たさを感じてしまいます。親鸞聖人は、人間の計らいではない『縁』と言う事、すなわち、人との出遇いも、念仏との出遇いも、全ては如来より賜ったものであると、おっしゃりたかったのだと思います。

●第六章原文
専修念仏のともがらの、わが弟子、ひとの弟子といふ相論のさふらふらんこと、もてのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたずさふらふ。そのゆへは、わがはからひにてひとに念仏をまふさせさふらはばこそ弟子にてもさふらはめ、ひとへに弥陀の御もよほしにあづかりて念仏まふしさふらふひとを、わが弟子とまふすこと、きはめたる荒涼のことなり。つくべき縁あればともなひ、はなるべき縁あればはなるることのあるをも、師をそむきてひとにつれて念仏すれば往生すべからざるものなり、といふこと、不可説なり。如来よりたまはりたる信心をわがものがほにとりかへさんとまふすにや。かへすがへすもあるべからざることなり。自然のことはりにあひかなはば、仏恩をもしり、また師の恩をもしるべきなり、と。云々。

●白井成允師の現代訳
ひとすじに念仏を申している人々の間に、あれはわしの弟子だ、いやひとの弟子だ、などというあげつらいがあるということ、これはもってのほかのことである。そもそも親鸞は弟子一人も持っていない。その故は、自分のはからいでひとに念仏を申させるのならば弟子でもあろうが、ひとえに弥陀の御手回しを頂いて念仏申している人を、わが弟子だなどと云うのは極めてあさましいことである。つくべき縁があれば一緒になり、離れるべき縁が来れば離れるようになるのであるのに、師匠に背いて他のひとに従って念仏すれば往生することが出来ないのだなどと言うのは、いささかも筋の立たないことだ。如来からいただいておられる信心を、自分が与えたものであるかのようにして取り返そうとでも云うつもりなのか、さようのことはかえすがえすもあってはならぬことである。弥陀仏の御誓いのままに、わがはからいをまじえずしておのずから往生させていただくことわりにかないて念仏申すならば、仏の恩をも知り、師の恩をも知るようになるはずである、と、云々。

●高史明師の現代語意訳
念仏一つに、心身を打ち込んでいる専修念仏のお仲間の間にあって、わが弟子、ひとの弟子ということでもって、言い争いをしているということは、もってのほかのことであります。親鸞は、弟子一人も持っておりません。(その訳を申しましょう。)私の思いや企てによって、他の人が念仏するようになったということでしたら、その人をわが弟子とも言えましょうが、(人が念仏を称えるようになるのは、決して私の計らいによるものではありません。)ひとえに阿弥陀仏の御うながしをたまわって、念仏を称えるようになった人を、わが弟子などと言って、(私物化するようなことは、)荒涼このうえない、きわめてぶしつけなことであります。つくべき縁あれば伴い、はなれるべき縁あれば、離れるのが、この世の有り様(ありよう)でありましょう。それを、師に背いて、他の人について念仏することになれば、往生できないことになろうなどと言う事、口にしてよいことではありません。 (真実の信心とは、阿弥陀如来そのものであります。どなたにあっても、その信心は、如来よりいただいた阿弥陀仏のものであります。)その如来よりいただいている信心を、あたかも自分のものであるような顔をして、授けたり、取り上げたりすることができると言うのでありましょうか。わが弟子などと言うことは、よくよく心して決して口にしてはならないことであります。 阿弥陀仏の真実の智慧である「自然(じねん)」のことわりに、ぴったりと寄り添っているものであれば、生きとし生けるものすべてを救い取らんと願われた阿弥陀仏の働きに目覚め、おのずと報恩感謝のこころをも抱くようになったり、また、念仏の教えを授けて下さる師匠の恩をも知り、感謝するようになるはずなのであります。

●あとがき
この第六章は、親鸞聖人ご自身も経験されたことを基に唯円坊に語られたものだと思います。従いまして、親鸞聖人の下を離れて行ったお弟子さんも居たでしょうし、また、遠く離れた関東のお弟子さん達からの相談事に触れられてのお話であったと思われますが、離れて行ったお弟子が如来から賜った真実の信心に目覚めて念仏しているならば、仏の恩、師匠の恩に気付くのは、自然の理(ことわり)ではないかと、ご自身が抱いている法然上人への恩を思われながら、吐露されたものと思われます。

親鸞聖人は、師となること、集団のリーダーになることを極力避けられたようであります。現在の浄土真宗は、親鸞聖人を開祖とされておりますが、親鸞聖人ご自身は、そのような気持ちを持たれることはなく、法然上人を師と生涯仰がれて、他の宗祖のように一派をたてられませんでした。そのお気持ちがこの第六章に語られているものと思います。


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No.639  2006.10.12

帰命無量寿如来(きみょうむりょうじゅにょらい)

『帰命無量寿如来 南無不可思議光(なむふかしぎこう)』とは、浄土真宗門徒でありましたら、どなたでも、毎朝夕に仏前で読誦されている『正信偈(しょうしんげ)』と云うお経の冒頭の言葉であります。

『正信偈』は、以前(2005年4月18日〜2006年4月10日)に解説した事がございますので、1年前からの無相庵読者さんでしたら、よくご存知の事と存じますが、これは親鸞聖人の『教行信証』と云うご著書の中の偈(げ)でありまして、約500年前に、蓮如上人が門徒の毎朝夕に読誦するお経として定めたものであります。

この冒頭の言葉は、大変重要であります。帰命(きみょう)とは、「命を投げ出して、神仏など優れたものに服従し、すがること」ですが、私たちは、何に命を懸けて生きているのでしょうか?言い換えれば、何を一番価値あるものとして生活しているでしょうか?

多くの方が、直ぐに頭に浮かぶのは、お金、社会的地位・名誉、立派な家、子供の高学歴、仲間との楽しい集い、好きなスポーツ・お稽古事・・・かも知れません。少し精神的な価値観として思い浮かぶものとすれば、家族の幸せ、親孝行を揚げる方がいらっしゃるかも知れません。

私も恥ずかしながら、今、常時頭を占領しているのは、仏法ではなくて、お金の事です。お金の為に、すなわち金融機関や納税の為に毎日を生きているような気さえ致します。「どうしてお金儲けしようか?」ではなく、「どうして、今月の借金を返済するか、来月はどうしようか」と言う情けないものではありますが、朝起きたら、先ず仏法ではなくて、先ずお金と言う煩悩まみれの一日がスタートすると言う状況であります。

しかし、親鸞聖人は、「帰命無量寿如来」です。無量寿如来に命を投げ出しておられるのであります。無量寿如来とは、「寿命が無量・無限な如来」です。『如来』とは、「真如から来る働き」、すなわち、直訳致しますと「宇宙の真理に基づく働き」となりますが、「無量寿如来」は、『真理』とか『法』と一言で言って良いと思います。従いまして、「帰命無量寿如来」とは、「真理(法)に命を懸けて帰依致します」と言う宣言であります。私のように「お金に命を懸けます」と言うのとは、次元が全く異なる宣言であります。

「帰命無量寿如来」は、親鸞聖人の宣言でありますが、実は、これは、お弟子さん達に向かってとか、他の人に向かって、「無量寿如来に帰命せよ」とおっしゃっているのではなくて、親鸞聖人ご自身に言い聞かせておられる宣言であると解釈されます。放任すれば、直ぐに、お金や名誉に走る煩悩具足のご自身に対して、「帰命無量寿如来」と呼び掛けておられたそうであります。

そうお聞きしますと、日ごろ、お金に頭を悩ましている私も、何かほっとするような安心感を覚えます。そして、毎朝夕のウォーキング時、ふと「帰命無量寿如来、南無不可思議光」と口ずさむこともございます。親鸞聖人は生前に、「念仏を称える時には、傍にもう一人居ると思ってください、それは私親鸞ですよ」と、おっしゃられたそうでありますが、念仏の時だけではなく、「帰命無量寿如来、南無不可思議光」と言う声のするところにも、親鸞聖人はそっと寄り添って下さるような気が致します。

なお、南無不可思議光も、帰命無量寿如来と殆ど同じ意味だとお考え頂いて、結構かと思います。


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No.638  2006.10.9

歎異抄に還って―第六章―A

●まえがき
現在、NHK教育番組の『こころの時代』で「歎異抄を語る」と言うシリーズを講義されていらっしゃる山崎龍明師が、第六条に示されている「親鸞は弟子一人ももたず」という言葉に関しまして、次のように述べられています。

この言葉によって、決して師匠ぶらない、指導者ぶらない一求道者としての親鸞聖人が褒めたたえてられても来ました。しかし、そうでしょうか。この第六条に示される世界は、そんな簡単なことではなく、阿弥陀仏から賜る念仏の法を自己の所有物、専有物のようにしまっている、当時の念仏者たちの誤りをきびしく指弾しているということを忘れてはなりません。

異なるを嘆く≠ニ言う意味の命名である『歎異抄』の中に取り上げられているだけに、私も、まったくその通りだと思いました。

そして親鸞聖人は、決して師匠と弟子の関係を否定されている訳ではありません。その何よりの証拠に、親鸞聖人は、和讃に「本師源空いまさずば、このたび、むなしくすぎなまし」とか「本師源空あらわれて浄土真宗をひらきつつ」と詠われて、法然上人を本当のお師匠さんであると仰いでおられます。

しかし一方で、「法然上人の信心と、わたし親鸞の信心は同じ一つの同じものである」と言われまして、お弟子さん達の中に物議をかもしたようですが、しかしそれは、法然上人の「私の信心も、善信坊(親鸞の青年時代の法名)の信心も、阿弥陀仏から賜った信心であるから、全く変わらない」と言う裁定により、親鸞聖人の信心の確かさが証明されたのでありますが、お師匠さんをお師匠さんとして尊敬される一方で、お師匠さんも仏弟子、親鸞も仏弟子であると言うしっかりとした他力の信心を30歳の頃から持ち続けられていたと言うことになりましょう。

そう言うことを頭におきながら、この第六章の前半を読みたいものであります。

●第六章原文
専修念仏のともがらの、わが弟子、ひとの弟子といふ相論のさふらふらんこと、もてのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたずさふらふ。そのゆへは、わがはからひにてひとに念仏をまふさせさふらはばこそ弟子にてもさふらはめ、ひとへに弥陀の御もよほしにあづかりて念仏まふしさふらふひとを、わが弟子とまふすこと、きはめたる荒涼のことなり。
つくべき縁あればともなひ、はなるべき縁あればはなるることのあるをも、師をそむきてひとにつれて念仏すれば往生すべからざるものなり、といふこと、不可説なり。如来よりたまはりたる信心をわがものがほにとりかへさんとまふすにや。かへすがへすもあるべからざることなり。自然のことはりにあひかなはば、仏恩をもしり、また師の恩をもしるべきなり、と。云々。

●白井成允師の現代訳
ひとすじに念仏を申している人々の間に、あれはわしの弟子だ、いやひとの弟子だ、などというあげつらいがあるということ、これはもってのほかのことである。そもそも親鸞は弟子一人も持っていない。その故は、自分のはからいでひとに念仏を申させるのならば弟子でもあろうが、ひとえに弥陀の御手回しを頂いて念仏申している人を、わが弟子だなどと云うのは極めてあさましいことである。
つくべき縁があれば一緒になり、離れるべき縁が来れば離れるようになるのであるのに、師匠に背いて他のひとに従って念仏すれば往生することが出来ないのだなどと言うのは、いささかも筋の立たないことだ。如来からいただいておられる信心を、自分が与えたものであるかのようにして取り返そうとでも云うつもりなのか、さようのことはかえすがえすもあってはならぬことである。弥陀仏の御誓いのままに、わがはからいをまじえずしておのずから往生させていただくことわりにかないて念仏申すならば、仏の恩をも知り、師の恩をも知るようになるはずである、と、云々。

●高史明師の現代語意訳
念仏一つに、心身を打ち込んでいる専修念仏のお仲間の間にあって、わが弟子、ひとの弟子ということでもって、言い争いをしているということは、もってのほかのことであります。親鸞は、弟子一人も持っておりません。(その訳を申しましょう。)私の思いや企てによって、他の人が念仏するようになったということでしたら、その人をわが弟子とも言えましょうが、(人が念仏を称えるようになるのは、決して私の計らいによるものではありません。)ひとえに阿弥陀仏の御うながしをたまわって、念仏を称えるようになった人を、わが弟子などと言って、(私物化するようなことは、)荒涼このうえない、きわめてぶしつけなことであります。
つくべき縁あれば伴い、はなれるべき縁あれば、離れるのが、この世の有り様(ありよう)でありましょう。それを、師に背いて、他の人について念仏することになれば、往生できないことになろうなどと言う事、口にしてよいことではありません。
(真実の信心とは、阿弥陀如来そのものであります。どなたにあっても、その信心は、如来よりいただいた阿弥陀仏のものであります。)その如来よりいただいている信心を、あたかも自分のものであるような顔をして、授けたり、取り上げたりすることができると言うのでありましょうか。わが弟子などと言うことは、よくよく心して決して口にしてはならないことであります。 阿弥陀仏の真実の智慧である「自然(じねん)」のことわりに、ぴったりと寄り添っているものであれば、生きとし生けるものすべてを救い取らんと願われた阿弥陀仏の働きに目覚め、おのずと報恩感謝のこころをも抱くようになったり、また、念仏の教えを授けて下さる師匠の恩をも知り、感謝するようになるはずなのであります。

●あとがき
前回、引用させて頂きました下記の和讃は、「親鸞は弟子一人も持たない」と言う親鸞聖人が、「人師を好む」すなわち、「人の師匠になりたがる」と慙愧されたものであります。

よしあしの文字をもしらぬひとはみな
まことのこころなりけるを
善悪の字しり顔は
おおそらごとのかたちなり
是非しらず邪正もわかぬこのみなり
小慈小悲もなけれども
名利に人師をこのむなり
この和讃全体の現代意訳は、「善悪の文字さえ知らない人は、かえって、自分を飾らないし、嘘・偽りを言わないから、まことの心を持った人であると言える。それなのに、善悪の文字を如何にも知った顔をして説明をし、もの知り顔するのは、大嘘つきの姿というべきである。私は物事の是非、よしあしも知らず、また邪正、正と不正も判断出来ない無智でおろかな者である。わずかな慈悲の心も持ち合わせていないのに、私はわが身の名聞・利養、名誉を得たい、生活の糧を得たいという欲望のために、人びとの師となることを好んでいる。まことに恥ずかしい限りである。」と言う事になります(早島鏡正師訳)。

従いまして、この第六章の「親鸞は、一人も弟子を持たない」と云う言葉は、弟子争いをする念仏者に向かっての誡めであると共に、親鸞聖人自らにも言い聞かせておられるものである事を忘れてはならないと思います。そう致しますと、弟子を持たないと言いながら、師と云う言葉を使うのは矛盾ではないかと言う議論があるとお聞きする「自然(じねん)にあいかなわば、仏恩をも知り、師の恩も知るようになるものです」と云うお言葉も、親鸞聖人ご自身に言い聞かせているものとして、深い感銘を受けるものとなりましょう。


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No.637  2006.10.5

お釈迦様が見付けられた真理と教え−その三

お釈迦様が見つけられた真理は、『無常』そして『縁起の道理』であると説明して参りましたが、その他の表現として『無我』そして『空』と、仏法を象徴して表現する言葉は多くあります。しかし、全ては同じことを違う角度から表現しているだけであると言ってよいと思いますが、この真理に異を唱える方はいらっしゃらないと思います。しかし、それは、飽くまでも頭で理解したと云う状態であり、苦が満ち溢れた私達の人生を生き抜く依り処になるには、一山二山越えねばなりません。

一山二山越えて、理解が『信』にまで高められなければ、生きた仏法にはなり得ないのであります。従いまして、仏教入門書と言う本ならば、どれを読まれましても、辞書さえあれば、内容は理解出来、仏教がどんな教えを説いているかは分かると思います。しかし、それは直ぐには役に立たない、絵に描かれた桃源郷でしか有り得ないと思うのであります。

適切な喩えではないかも知れませんが、水泳教室に行って、水に浮かぶ心構えと要領を教えて貰うときの事を考えてみましょう。「体の力を抜いて、水に体を預ければよい」と口頭で説明して貰えば、頭では分かりますが、いざ、プールに浸かって、水に浮かぼうと致しましても、大方の人は直ぐには浮かぶことが出来ず、もがきながら沈んでしまうものです。「水に自分の体を預ける、任せる」と言うのは言葉では簡単ですが、何回も何回もトライして、ある時、何かの拍子に漸く会得出来るものです。一旦、会得すれば、「水に体を預けよう」と言う事すら考えずとも、水に浮かんでしまうものであります。言葉では説明し尽くされないコツと言いますか、ポイントと言うものがあるようですね。これは、あらゆるスポーツにも、また芸事の熟達過程に付きましても言い得ることだと思いますし、また仏法に付きましても、『理解』が『信』に転換するのはどのようなキッカケで為されるのか、言葉では説明し尽せないところだと思われます。

仏法も、無常を本当に我が身に受け止めて、「なるほどこの世は無常だなぁー」と実感するようになるには、色々な体験を経てと言うことにならざるを得ないのではないかと思います。仏法を我がものにする道筋として、よく『聞・思・修(もん・し・しゅう)』と言われます。真理の言葉を何回も何回も聞き(聞)、そして、人生の色々な問題に遭遇する度に真理と比較思索し(思)、そして真理に即して試行錯誤(修)し、やがて仏法の中に生かされている自分に気付くのではないかと思います。仏法を生き抜く上での手段として考えていた次元から、わが身、わが心を含めて全てが、仏法の中での出来事であることに気付かされた時、仏法の理解が『信』に変質したと言えるのではないかと思う次第であります。


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No.636  2006.10.2

歎異抄に還って―第六章―@

●まえがき
第四章(末徹った慈悲と念仏)、第五章(父母の孝養と念仏)は、どちらも、浄土へ往生することによって始めて目的が達成されるという主旨の教えであり、一般には少しイメージし難いところがあることは否めないと思いますが、そう云う面から申しますと、この第六章は、現実生活の中での出来事に関して他力の教えるところが申し述べられており、私達にも比較的理解し易い内容であると思います。

この章は、「親鸞は弟子一人も持っておりません」と言う象徴的な言葉を私達に投げかけて、仏法における師匠と弟子の関係について述べられている訳であります。これは、第四章の「親鸞は、父母の供養のために一回も念仏を称えたことはありません」と言う言葉と同様、読む人、聞く人に「ええっ?」と思わせて、目を見開かせ、耳をそばだてさせる、親鸞聖人特有の説き方ではないかと思います。親鸞聖人が、お弟子を持っていないはずは無いのでありまして、現に、第二章に、関東から数人の人々が京都の親鸞聖人を訪ねて来た場面がございましたが、まさしく、あれは関東のお弟子さん達であります。

しかし、親鸞聖人は、「あの人々も、私の弟子では無い」と言われるでありましょう。「私の弟子ではなく、仏のお弟子、阿弥陀仏のお弟子さん達である」と言われるに違いありません。考えて私自身を顧みます場合に感じられます。私が今こうして仏教コラムを書いているのは、実に多くの先生方から直接間接にお教え頂いたことが背景にある事がよく実感されるからであります。また、各先生方との出遇いだけではなく、これまでの人生で遭遇した色々な苦難も、また反面教師と位置付けられる多くの方々も、全ては私が仏法に傾倒する縁であったと実感出来るからであります。どなたかお一人が私のお師匠さんであるとは断定出来ない状況にあるからであります。

教えられた立場としては、その通りであると思えるのでありますが、逆に教える立場になりました時にも、そのように思えるかと言うところが問題であります。往々にして、「彼は、私が仏法に導いてやったのだ」とか、「私の助言で、念仏を称えるようになったのだ」とか、仏法や念仏を私物化し易いのであります。そこのところをご自分にも言い聞かせながら、それこそお弟子さん達を誡められたのを唯円坊が伝えられたのが、この第六章だと思うのであります。

●第六章原文
専修念仏のともがらの、わが弟子、ひとの弟子といふ相論のさふらふらんこと、もてのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたずさふらふ。そのゆへは、わがはからひにてひとに念仏をまふさせさふらはばこそ弟子にてもさふらはめ、ひとへに弥陀の御もよほしにあづかりて念仏まふしさふらふひとを、わが弟子とまふすこと、きはめたる荒涼のことなり。つくべき縁あればともなひ、はなるべき縁あればはなるることのあるをも、師をそむきてひとにつれて念仏すれば往生すべからざるものなり、といふこと、不可説なり。如来よりたまはりたる信心をわがものがほにとりかへさんとまふすにや。かへすがへすもあるべからざることなり。自然のことはりにあひかなはば、仏恩をもしり、また師の恩をもしるべきなり、と。云々。

●白井成允師の現代訳
ひとすじに念仏を申している人々の間に、あれはわしの弟子だ、いやひとの弟子だ、などというあげつらいがあるということ、これはもってのほかのことである。そもそも親鸞は弟子一人も持っていない。その故は、自分のはからいでひとに念仏を申させるのならば弟子でもあろうが、ひとえに弥陀の御手回しを頂いて念仏申している人を、わが弟子だなどと云うのは極めてあさましいことである。つくべき縁があれば一緒になり、離れるべき縁が来れば離れるようになるのであるのに、師匠に背いて他のひとに従って念仏すれば往生することが出来ないのだなどと言うのは、いささかも筋の立たないことだ。如来からいただいておられる信心を、自分が与えたものであるかのようにして取り返そうとでも云うつもりなのか、さようのことはかえすがえすもあってはならぬことである。弥陀仏の御誓いのままに、わがはからいをまじえずしておのずから往生させていただくことわりにかないて念仏申すならば、仏の恩をも知り、師の恩をも知るようになるはずである、と、云々。

●高史明師の現代語意訳
念仏一つに、心身を打ち込んでいる専修念仏のお仲間の間にあって、わが弟子、ひとの弟子ということでもって、言い争いをしているということは、もってのほかのことであります。親鸞は、弟子一人も持っておりません。(その訳を申しましょう。)私の思いや企てによって、他の人が念仏するようになったということでしたら、その人をわが弟子とも言えましょうが、(人が念仏を称えるようになるのは、決して私の計らいによるものではありません。)ひとえに阿弥陀仏の御うながしをたまわって、念仏を称えるようになった人を、わが弟子などと言って、(私物化するようなことは、)荒涼このうえない、きわめてぶしつけなことであります。つくべき縁あれば伴い、はなれるべき縁あれば、離れるのが、この世の有り様(ありよう)でありましょう。それを、師に背いて、他の人について念仏することになれば、往生できないことになろうなどと言う事、口にしてよいことではありません。 (真実の信心とは、阿弥陀如来そのものであります。どなたにあっても、その信心は、如来よりいただいた阿弥陀仏のものであります。)その如来よりいただいている信心を、あたかも自分のものであるような顔をして、授けたり、取り上げたりすることができると言うのでありましょうか。わが弟子などと言うことは、よくよく心して決して口にしてはならないことであります。 阿弥陀仏の真実の智慧である「自然(じねん)」のことわりに、ぴったりと寄り添っているものであれば、生きとし生けるものすべてを救い取らんと願われた阿弥陀仏の働きに目覚め、おのずと報恩感謝のこころをも抱くようになったり、また、念仏の教えを授けて下さる師匠の恩をも知り、感謝するようになるはずなのであります。

●あとがき
親鸞聖人も、常に人の先生になりたがる自分を内省されて、次の和讃を遺されています。「弟子一人ももたず候」と言われた親鸞聖人ご自身が、深い内心を告白された重たい魂の詩であります。

よしあしの文字をもしらぬひとはみな
まことのこころなりけるを
善悪の字しり顔は
おおそらごとのかたちなり
是非しらず邪正もわかぬこのみなり
小慈小悲もなけれども
名利に人師をこのむなり


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No.635  2006.9.28

お釈迦様が見付けられた真理と教え−その二

お釈迦様が見つけられた真理は、「この世のものはすべて変化し続ける」事です。仏教では一つの熟語で表現され、『無常』と言っております。平家の没落を謡う平家物語に「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり」と言う有名な冒頭の言葉がございますから、「無常」は「無情」と言う響きを持ち、『無常』と言う熟語にはどうしても暗いイメージが定着しておりまして、一般の方々は仏教そのものにも暗さを感じておられるのではないかと推察しています。

折角お釈迦様が見付けられた真理である『無常』も、それが人生を生き抜く上での依り処になってはじめて、私達は、その恩恵に与(あずか)ることになると思いますが、それは『無常』を積極的に捉えてはじめて可能になるのだと思います。それは私が切に願うところでありますので、以下に一つのヒントをご提示しておきたいと思います。

変化し続けるのは、何かの働きによるものだと仏教は考えます。「何の働きと考えるのか」と言うことに関しましては、かなり難しい議論になりますが、一般的には『人間が量り知ることが出来ない力』と説明される場合が多いと思います。「仏のお働き」とも表現する場合もありますが、浄土門では、『他力』と申しております。

「この世は、人間を超えた大きな力によって動いている」と考えますが、こう申しますと、それでは私達人間個人の努力は何も役に立たないことになり、「仏教は、あなた任せの運命論なのか?」と言う疑問が必ず湧き上がるものと思います。一般の方からのこのような質問に、納得して貰える明確な説明をすることは、仏法信者にも大変難しいところであります。私も、正直なところ、どのように説明すればよいのか、思い迷うところでありますが、現時点で、私がこうだと把握しているところを申し述べさせて頂きたいと思います。何らかのヒントになれば幸いであります。

仏法では、『因果応報(いんがおうほう)』とか『三世に亘る宿業』とか、また、道元禅師が、修證義と言う書物の中で、「今の世に因果を知らず、業報を明らめず、三世を知らず善悪を弁えざる邪見のともがらには・・・」と申されていますように、自分の行為が将来必ず何らかの結果を生じさせると言う考え方をしていることは否定出来ないと思います。

その証拠と言っては何ですが、仏法と言いますと、『無常』も然ることながら、『縁起(えんぎ)』の方が一般的によく知られておりますように、「ものごとは縁に依って起こる」と言われております。省かれている言葉を付け加えますと、「ものごとは、必ず因(いん)があって、その因に縁(色々な条件)が働いて、果が生じる」と言うことであります。よく草花の生育に喩えられ、「草花は、種(因)があって、土が含んでいる養分、水、太陽の光、炭酸ガスなど(縁、条件)があって始めて、私達が目にする草や花(果)になる」と説明されます。従いまして、これを「因縁果(いんねんか)の道理」とも申します。しかし、この「因」も別の因の「果」であったものですし、その果には何かの因と縁があったはずであると言うことになりますから、大昔からの無数の因縁果の連鎖があって、はじめて、今この瞬間の結果が生じていることになりましょう。

この因縁果の道理に当てはめて考えますと、私達がある結果(目標、目的)を達成しようする場合、達成しようと考えた事自体が「因」であり、そして目的達成のために、色々と、本を読んで知識を集めたり、人に相談したり、何かの力を身につける努力をしたり致しますが、それを「縁」と言ってもよいのではないかと思います(勿論、これらの意思や、努力にも大昔からの因と縁の連鎖が繋がっていることは申すまでもありません)。

今のところ、私は、「仏教が運命論ではないか?」と言う質問には、上述のようなお答えを致したいと思っております。他の動植物には『意思』や『自覚』が与えられておりません。人間だけに与えられている『意思』と『自覚』を大切にしたいものであります。それが人間に生まれた生き甲斐でもあるのだと思うのであります。


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No.634  2006.9.25

歎異抄に還って―第五章―完

歎異抄解説に入ります前に、読者の方々にお願い申し上げます。
昨春から始めました小学生対象の塾(共育塾と申します)も順調に人数を増やしております。一方、今年の3月から塾生相手に毎日通信(FAX)添削指導をテスト的に実施して参りましたが、非常に大きな効果(勉強癖が付く、ケアレスミスが激減した、字が丁寧になった等)が上がり、好評でありますので、インターネットをフルに活用して、全国的に通信塾生を募りたいと考えまして、本日、ホームページを立ち上げました(http://www.plinst.jp/kyoikujuku/

無相庵コラムの読者様方に小学生(3年生、4年生、5年生)をお持ちの方にご紹介して頂きたく、このコラムを利用してお願い申し上げる次第であります。

●まえがき
今回で、この第五章も終わりと致しますが、私たちが称える念仏は、いまや、神社に行きお賽銭を上げて手を合わせることであったり、お葬式へ行って故人の冥福を祈る行為となってしまっています。浄土真宗の信者であっても、無意識のうちに、お念仏を称えてお願い事をしたり、冥福を祈ったりと、念仏に神通力が備わっているかのように考えているとしか思われませんが、親鸞聖人のお念仏は、全く異なったものであったと言うことが、前第四章とこの第五章ではっきりしたのではないかと考えます。

だからと言いまして、お墓の前で念仏を止めるべきであるとか、お葬式で故人の冥福を祈って「なむあみだぶつ」と称えてはいけないと言うのではありません。それはそれで続けても結構だと思いますが、本来の他力のお念仏は、そのようなお呪(まじな)いとは、随分とかけ離れたものであると言う認識は持っておきたいと思います。

そして、先祖の供養や亡き父母の供養にお墓参りすることも良いことではありますが、本当の供養は、私自身がこの世に生きている間に、自力から他力へと心を翻して、無限の命(仏の命)に目覚め、親鸞聖人が如来と等しいとおっしゃった『正定聚の位』に至ることであると思い改めたいと思う次第であります。

●第五章原文
親鸞は父母(ぶも)の孝養のためとて一返にても念仏まふしたることいまださふらはず。そのゆへは、一切の有情はみなもて世々生々(せせしょうじょう)の父母兄弟なり。いづれもいずれもこの順次性(じゅんじしょう)に仏になりてたすけさふらふべきなり。わがちからにてはげむ善にてもさふらはばこそ、念仏を廻向して父母をたすけさふらはめ。ただ自力をすてていそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道四生のあひだいづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもてまづ有縁を度すべきなり、と。云々。

●白井成允師の現代訳
親鸞は父母に孝養をつくそうと思って念仏もうしたことは未だ一度も無い。そのわけは、あらゆる有情はだれもかれもひとりのこらず、私共が生まれかわり死にかわりしてきたいずれの世いずれの生においてか、或は父母となり或は兄弟となった深い縁のある者である。だれもかれもこの次の生に私共が浄土において仏と成った暁にたすけすくうべきである。もしも念仏が私共自分の力で努め励む善ででもあるならば、その念仏を修めて父母にふりむけて父母をすくうこともしよう。けれども念仏はさようのものではない。それで、ただ自分のはからいはげみをすててしまって、本願の念仏一つで、この世の生命の終わるや否やすぐにお浄土にまいって仏のさとりを開かせていただくので、そうなった暁には、よしんば六道四生のあいだいかなる迷いの境界におちいり、いかなる業苦にしずんでいるにしても、仏の具うる神通方便の力を以て、まず縁のある方々をすくいさとらしむべきである、と云々。

●高史明師の現代語意訳
親鸞は、父母の供養のためということでもってしては、一遍も、念仏を称えたことは、いまだありません。その故は、一切の生きとし生けるものは、みなもって、生まれかわり生きかわるそのいのちの縁からすると、すべて父母、兄弟であります。(そのあるがままの自分を覆い隠しているものは、人間の無明であります。その自分が中心となって、念仏を供養の手段としているような供養が、本当の孝養と言えましょうか。まず、あるがままの自分に目覚めさせて頂くことこそ肝要であります。そうすれば、それがそのまま本当の孝養になりましょう。それはまた、順をおっていただく次の生には、仏にさせていただくことになるのでありますから)どなたにあっても、その順次生には、仏となって、父母をお助けできると言うものであります。(念仏が)わがちからでもって励むわが善でもありますものならば、その念仏を差し向けて、父母をもお助けできましょうが、念仏とは、私のものではなく、阿弥陀仏の智慧であります。(よかれと思ってすることであっても、私達が、自分を中心にして、念仏を自分の善きこころがけにしているようでは、供養しようと思っても、それが、かなうことはないのであります。自分を中心とする自力を捨てることであります。)ただ自力を捨てて、念仏の一心において、瞬時に開かれる浄土の覚りがいただけますなら、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天人という六つの迷界、また胎生・卵生・湿生・化生という四種の生まれ方とそれによる生のあり様のいずれにあって、どのような苦しみに沈淪(ちんりん)することになりましょうとも、私共衆生を導いて下さる、方便という名の阿弥陀仏の巧みな手立てと神通と呼ばれる超能力によって、何よりもまず、もっとも縁の深い身近な者を助けあげていくことができるのであります。

●無相庵の現代意訳・要訳
この世で自分の命が無限の命(仏)と一つながりのものであると目覚めて、この有限の命が終わった時にはじめて、仏となって一切の生きとし生けるものを救えるのであります。念仏が何かを期待しての善行であれば、念仏を称えて父母に供養したいと思いますが、念仏は、そのような自力で何か目的を果たす為にあるのではありません。むしろ、そのような自力の心を翻して、他力を信じ、報恩感謝の念仏を頂く身となることが、本当の意味での父母の供養になるのだとおっしゃいました。

●あとがき
第四章、第五章、そして次の第六章も、私たちが日常生活の中で、ついつい間違った念仏の扱いに陥り易い事柄を取り上げて、自力の念仏ではない他力の念仏、すなわち、賜りたる念仏について、繰り返し・繰り返し説き示されている三章であります。

慙愧の念仏、歓喜の念仏と言われますが、いずれも報恩感謝の念仏と言ってよいでしょう。すなわち、煩悩具足の自己に気付かせて頂いて慙愧し、そう気付かせて頂く身に導かれたことへの喜びと報恩感謝の念仏であります。そして、念仏せしめられて称える『南無阿弥陀仏』であるというところが他力念仏の所以であろうと思う次第であります。


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No.633  2006.9.21

お釈迦様が見付けられた真理と教え

ある「初心者」と名乗られるお方から、仏法の入門書を推薦して欲しいと言う要望が、掲示板に書き込まれました。これまで、私は一般の方々にも仏法の説くところが分かって頂けるように、出来るだけ平易にこのコラムを書いて来た積もりでございましたが、未だ未だ、努力と想像力が至らなかったのだなぁーと反省しているところであります。従いまして、9月19日に更新した世事雑感におきまして、一般の方々、これまで全く仏法に触れられたことが無い方々を読者として想定して、「仏法」つまり、お釈迦様が人類で最初に気付かれた真理としての『諸行無常』を「この世の現象や存在は変化し続けるものである」と言う表現で、下記のように説明させて頂いております。

お釈迦様が発見された真理を仏法と言いますが、これは実に簡単な真理なのです。その真理とは、「この世のものは、すべて変化し続ける。変化しないものは無い。」と言うことです。私たちに変化しないと見えるものも、時間の単位を変えてみれば、1日で変化が感じられるもの、1年で変化が感じられるもの、10年で、100年で、1000年で、1万年で、1億年で、数十億年でやっと変化が感じられるものが、地球上(宇宙全体)に混在しているのであります。そして、それらの変化は、急に変化しているのではなく、瞬間・瞬間に連続的に変化し続けており、人間はそれを感じられないだけなのです。
この真理について、ある人から「変化し続けることは頭では分かった、それでどうなるのですか?」と言う質問を受けました。「なるほど、そこまで言及しなければならないのだ」と、またまた言葉足らずを反省致しました。そこで、追加説明をしたいと思います。

その一つは、変化し続けるから苦悩が生まれると言うことであります。変化するから、向上を目指して私たちは努力致しますが、一方、変化するから苦悩が我が心の平穏を乱します。お金をずっと握っていたいが、お金は逃げて行きます。愛し合った男女が何時までも愛し合えずに憎しみに満ちて別れ別れになることも起こります。無常だから、この世に生を受けましたが、無常だから、この世とやがてはお別れする時が必ずやって参ります。これは最も好ましくない変化であります、最大の苦悩と言ってもよいでしょう。
『無常』を悟れば、苦悩は無くなるに違いありません。無常であるのに無常だと思えない私たちを無明煩悩の凡夫、煩悩具足の凡夫とも申します。

二つ目は、変化し続けるからこそ、私たちの命はとてつもなく尊いと言うことであります。変化し続けることを本当に悟ったならば、いま現に生きている瞬間がとてつもなく尊いことに思えて来るはずであります。もう二度と私と言う生命はこの宇宙には現れ得ないと思いますから、『かけがえの無い命』とよく言われますが、これは変化し続ける生命と言う視点がなければ感じられないことではないかと思います。これは、私だけではなく、また人間だけではなく、私がこの世で出遇う生きとし生けるもの全て、否、道端に転がる石も、夜空の星も、生命体ではないものも全ては二度と出遇えない存在だと思います。『無常』を悟れば、全てが有り難く尊く存在であり、また現象に感じられるはずであります。

この『無常』すなわち「変化し続ける」ことを、『空(くう)』とか『無我』と表現したり、『縁起(えんぎ、縁に依って起こる)』と言ったりしますが、「変化し続ける」と言うことだと理解して、大きな間違いはないと思います。 しかし、ここで話しを終わってしまえば、宗教ではなくて、哲学と言う学問と言うことになろうかと思います。変化し続けるには、何か力のような働きがなければならないと考えるのが極自然ではないでしょうか。それを仏教では、『仏』とか『如来』と、人格化して呼んでいるのだと私は思っております(親鸞聖人はそれを『阿弥陀仏』と拝まれ、その働きを『他力』とか『本願力』と呼ばれたものと存じております)。

『変化し続けさせる働き』、すなわち『仏』を信じるのが仏教だと私は考えておりますし、私はそう信じているところであります。


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No.632  2006.9.18

歎異抄に還って―第五章―A

●まえがき
今でこそ、親鸞聖人を開祖として教団を組織した浄土真宗は、葬式仏教とまで揶揄(やゆ)されていますが、親鸞聖人は一度も、葬式や法事をされなかったと聞いております。そもそも平安から鎌倉時代初期の頃は、少なくとも、一般庶民においては、今の葬式のような儀式は無かったと思われますので、その通りだと思いますが、この第五章で、『孝養(こうよう、或いは、きょうよう)』と言う「供養(くよう)」に当たる言葉が使われていますから、儀式としての弔い事は無かったのでありましょうが、一般庶民も既にお墓に埋葬されていたようでありますから、お墓の前で、手を合わせて、「南無阿弥陀仏」と念仏を称えられていたものと思われます。

親鸞聖人は、もの心つく前にお母様と死別し、お父様とも9歳で別れて比叡山に預けられましたので、お墓があったとも考えられませんが、それだけに余計に父母を慕い、この世に生を受ける上で最も強く深い父母との縁を感謝する気持は人一倍強くお持ちだった事は容易に想像出来ます。その親鸞聖人が、父母の供養の為には念仏を称えたことは一度もなかったと仰っておられたと言うのは、私たちを驚ろかせるには十分なお言葉であります。

しかし、すぐさま、「その故は」と続けられているのであります。父母を供養したくないと言うのではなく、「一切の生きとし生けるもの全ては、皆、いつかは父であったかも知れないし、母であったかも知れないから、私の父母に限定して供養するのは、如何かと思うからです」と理由を明らかにされているのであります。

行基菩薩が、『山鳥のほろほろと鳴く声きけばちちかとぞ思うははかとぞ思う』と言う歌を詠われ、その歌を元歌として芭蕉が、『父母のしきりに恋し雉の声』と言う句を残されていますが、 六道輪廻の考え方をする仏教であるからとも思いますが、個々の命を産み出す命の源は一つでありましょうし、また、40憶年前の地球に誕生したと言われる生命の進化の歴史を思います時、 個々の動植物の命を遡って参りますと、一つの命に辿り着くはずであろうと思いますので、全ての命は一つながりの命であると科学的にも説明出来るのではないかと思います。

●第五章原文
親鸞は父母(ぶも)の孝養ためとて一返にても念仏まふしたることいまださふらはず。そのゆへは、一切の有情はみなもて世々生々(せせしょうじょう)の父母兄弟なり。
いづれもいずれもこの順次性(じゅんじしょう)に仏になりてたすけさふらふべきなり。わがちからにてはげむ善にてもさふらはばこそ、念仏を廻向して父母をたすけさふらはめ。ただ自力をすてていそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道四生のあひだいづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもてまづ有縁を度すべきなり、と。云々。

●白井成允師の現代訳
親鸞は父母に孝養をつくそうと思って念仏もうしたことは未だ一度も無い。そのわけは、あらゆる有情はだれもかれもひとりのこらず、私共が生まれかわり死にかわりしてきたいずれの世いずれの生においてか、或は父母となり或は兄弟となった深い縁のある者である。
だれもかれもこの次の生に私共が浄土において仏と成った暁にたすけすくうべきである。もしも念仏が私共自分の力で努め励む善ででもあるならば、その念仏を修めて父母にふりむけて父母をすくうこともしよう。けれども念仏はさようのものではない。それで、ただ自分のはからいはげみをすててしまって、本願の念仏一つで、この世の生命の終わるや否やすぐにお浄土にまいって仏のさとりを開かせていただくので、そうなった暁には、よしんば六道四生のあいだいかなる迷いの境界におちいり、いかなる業苦にしずんでいるにしても、仏の具うる神通方便の力を以て、まず縁のある方々をすくいさとらしむべきである、と云々。

●高史明師の現代語意訳
親鸞は、父母の供養のためということでもってしては、一遍も、念仏を称えたことは、いまだありません。その故は、一切の生きとし生けるものは、みなもって、生まれかわり生きかわるそのいのちの縁からすると、すべて父母、兄弟であります。
(そのあるがままの自分を覆い隠しているものは、人間の無明であります。その自分が中心となって、念仏を供養の手段としているような供養が、本当の孝養と言えましょうか。まず、あるがままの自分に目覚めさせて頂くことこそ肝要であります。そうすれば、それがそのまま本当の孝養になりましょう。それはまた、順をおっていただく次の生には、仏にさせていただくことになるのでありますから)どなたにあっても、その順次生には、仏となって、父母をお助けできると言うものであります。(念仏が)わがちからでもって励むわが善でもありますものならば、その念仏を差し向けて、父母をもお助けできましょうが、念仏とは、私のものではなく、阿弥陀仏の智慧であります。(よかれと思ってすることであっても、私達が、自分を中心にして、念仏を自分の善きこころがけにしているようでは、供養しようと思っても、それが、かなうことはないのであります。自分を中心とする自力を捨てることであります。)ただ自力を捨てて、念仏の一心において、瞬時に開かれる浄土の覚りがいただけますなら、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天人という六つの迷界、また胎生・卵生・湿生・化生という四種の生まれ方とそれによる生のあり様のいずれにあって、どのような苦しみに沈淪(ちんりん)することになりましょうとも、私共衆生を導いて下さる、方便という名の阿弥陀仏の巧みな手立てと神通と呼ばれる超能力によって、何よりもまず、もっとも縁の深い身近な者を助けあげていくことができるのであります。

●無相庵の現代意訳・要訳
「親鸞は、父母の冥福を願ってお念仏を称えたことは、一度もありません。それは何故かと申しますと、この世に命を受けた、或いは受けている全ての生き物は、過去・現在・未来に関わらず、一つながりの命であり、全ての命が父母兄弟姉妹であると思うからなのです。」

●あとがき
「周りの人々が全ては父母であったかも知れない、また、ずっと以前の生において私の子どもであったかも知れない」と仰られても、私たちは、なかなかすんなりとは受け容れ難いところがあります。「あの立派な人が父であり、あの素敵な女性が母であったと言うのなら嬉しいが、あんなひどい男が父で、あの小憎たらしい女が私の母だったとはとても思いたくない」と言うのが本音のところであります。

しかし、それについては、歎異抄第十三章に、「さるべき業縁の、もよおせば、いかなるふるのいも、すべし」と親鸞聖人が仰られたと記されています通り、凶悪至極の殺人犯であっても、それは、その男が生まれながらにして凶悪至極であったのではなく、育った環境、人との出遇い、タイミングの悪さ等など、その犯罪はその殺人犯にのみ帰すべきではない、私たちもたまたまそういう縁がめぐって来ていないだけの事なのだということであろうと思われます。

そう考えますと、確かに、そのような殺人をする縁にめぐり合った事について、少し憐れみの感情が生じ来るような気が致します。


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No.631  2006.9.14

世間と仏法―H

前回は下記の段落で締めくくり、次週に続く≠ニさせて頂きましたので、引き続いて書き始めます。

無相庵の別コーナー『唯識の世界』で、悟りの段階にはどう言う段階があるかに関して学び終え、これから、悟りに至る方法について、唯識の考え方を学ぶ予定でありますが、その辺りに、念仏に生きようとする者が学ぶべきところがあるように思っております。

念仏者からよく聞く発言の中に、「私は煩悩具足の凡夫ですから・・・」と、言い訳とも開き直りとも取れる言葉がありますが、とんでも無いことだと思います。煩悩具足の凡夫とは、仏様から私達を見られた時の言葉だと思います。言い換えますと、仏の智慧と慈悲の光に照らされた時に、私たちは慙愧の心と共に、仏様の憐れみの声として「煩悩具足の凡夫よ」と、聞こえて来るように感じるものであり、決して、人さまの前で主張すべき言葉ではないと思います。

禅門でも聴聞(法話を聞く)はございますが、特に浄土門では、「仏法は聴聞に尽きる」とまで言われる位に、法話を聞くことを大切に致します。禅門の座禅会に匹敵すると言ってもよいかも知れません。禅門では座禅が行であり、浄土門での行は聴聞であると言ってもよいでしょう。

聴聞が大切であることは間違いございませんが、自力を避けて他力を奉るあまり、いわゆる実践とも言うべき『行』が疎(おろそ)かになる傾向にあるように、私は感じて参りました。これは他人事ではなく、私自身がそうであったからであります。私は、お釈迦様もおっしゃっていた事もあって、難行苦行は無意味だ、念仏を何千回、何万回と称えることは、他力本願の教えに反すると言う考え方を持っていましたが、最近は、少し考え方が変化して来たように思います。

信心を得る為に修行するのではなく、信心が深まって来ると、自ずから言動・姿勢・生活態度が変わるのではないかと思います。そのうちに『唯識の世界』で、仏道修行としての六波羅蜜を学びますが、六波羅蜜とは、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧、と言う、悟りの世界へ行く為の6種類の修行のことであります。ここで個々に関する詳しい説明は省略させて頂きますが、六波羅蜜は、唯識では悟りを開く為の修行と言う位置付けですが、悟りを開いてからは、むしろこの修行をせずには居られなくなるのだと思います。禅門では悟りを開いた後にも修行が必要と言うことで、『悟後(ごご)の修行』とも言われていると聞いておりますが、修行と言うよりも、極論すれば『一種の法悦、法に浸る楽しみ』ではないかと思われます。

お釈迦様が説かれた仏教の根本の教えとして、四聖諦と言いまして、苦諦・集諦・滅諦・道諦(くたい・じゅうたい(じったい)・めったい・どうたい)がありますが、苦を認識し、そして苦の原因は煩悩にあることを知り、その煩悩が滅した境界が悟りの世界であることを示し、そしてその悟りに至る方法を道として示してありますが、一般的な流れから致しますと、順序は、苦・集・道・滅、であろうと思いますが、道を最後に持って来ているところに、煩悩が滅して悟りを開いたならば、八正道(これも六波羅蜜と共に『唯識の世界』で勉強致します)と言う規律正しい日常生活に自ずからなるものだと言う深い意味があると考えています。

更に、次週に続きます。


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