No.691  2007.4.912/a>

人生の贈り物

数年前のさだまさしさん≠フヒット曲(?)に『人生の贈り物』と言う歌があります。その歌詞の2番は下記のものですが、さだまさしさんの言う『人生の贈り物』は、心の通い合った友≠ニ言うことでしょうか・・・・。

季節の花がこれほど美しいことに
歳を取るまで少しも気づかなかったV 私の人生の花が散ってしまう頃V やっと花は私の心に咲いたV  (何も言うこともないままで、並んで座って暮れる夕日を一緒に眺めてくれる友さえあれば、
  これ以上何も願うものはない)
並んで座って沈む夕日を一緒に眺めてくれる
友が居れば 他になにも望むものはない
他になにも望むものはない
他になにも望むものはない
 それが人生の秘密
 それが人生の贈り物

共感を覚えるいい歌詞で、私は歌謡曲の中では人生の真髄に最も近い教訓を謳い上げたものではないかと思っております。

一方、仏法が教えてくれる『人生の贈り物』も、信心を共にする友(法友、善友)もその一つではありますが、『日常生活で感じる諸問題』それは発展して『苦悩』になり得ますが、私達が生きて行く上で感じるこの苦悩こそが、やがて最上最高の『人生の贈り物』(信心、悟り)を受け取る前段階の『人生の贈り物』なのだと思います。その『苦悩』を『人生の贈り物』と捉えられなければ、私達は法友・善友と言う『人生の贈り物』も、また、お釈迦様や親鸞聖人が至られた『お悟り』と言う『人生の贈り物』も手にすることなく、この世を去ってしまうことになるのではないかと思います。

私はこの7年間、借金苦に攻め立てられて参りました。現在もなお完全に脱出している状況にはございませんが、その借金苦のお陰で仏法を真剣に求めるようになりました。また、このような境遇になったが故に心通う本当の友人の存在に気付かされ、また親族にも出遇うことが出来ました。『お悟り』には未だ未だ遠いのではありますが、それに向って歩めていることは確かであり、『人生の贈り物』が何かを知ることが出来た現在だけでも、十分に幸せを感じている次第であります。


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No.690  2007.4.9

歎異抄に還って―第十三章―B

● まえがき
キリスト教徒の陥りやすいのが偽善者、浄土真宗信者が陥りやすいのが偽悪者であると昔から言われております。キリスト教徒は如何にも善人らしく振舞いがちであり、浄土真宗信者は自分が如何にも悪人である事を自覚しているかのように振る舞いがちであると云うものです。

「私のような罪悪深重の凡夫は・・・・」とか、一見、謙(へりくだ)っているようではあっても、心の中では自信満々で、本当は自分の悪を自覚出来ていない人を偽悪者と言うのでありましょう。そしてこの偽悪者は偽善者のキリスト教徒よりも仕末が悪いのではないかと思われますが、この第十三章では、浄土真宗の信者には偽悪者のみならず偽善者も居り、その偽善者の異議について論じられていると解釈すべきもののようであります。

浄土真宗における偽善者とは、キリスト教徒の偽善者とは少し趣が異なり、第三章に語られている『自力作善の人』のことであります。このように書きますと、他人事のようでありますが、斯く言う私の心の中に、偽悪者的な心構えに加えまして、拭い難い自力作善の心≠ェございます。自力作善の心と言うよりも、「念仏者は斯くあるべき」と、念仏者に善を求める心、他の念仏者の悪を裁く心を持ち合わせています。

今も私は、「我が煩悩を深く自覚するようになれば、喩え心の中の煩悩が消えずとも、表の言動にその煩悩が現れることが無くなるに違いない。阿弥陀仏の本願を信じて念仏を申すようになると、結果として、世間的な評価も善人になるべきではないか」と言う希望的観測を持っています。

しかしこの第十三章で紹介されている親鸞聖人のお考えは、そのような希望的観測を真っ向から否定されています。第十三章は、第三章と対になって、飽くまでも自力作善を誡めている章である事に留意して読むことが大切だと思います。

●第十三章原文
弥陀の本願不思議におはしませばとて悪をおそれざるは、また本願ぼこりとて往生かなふべからず、ということ。この条、本願をうたがふ、善悪の宿業をこころえざるなり。よきこころのおこるも宿善のもよほすゆへなり、悪事のおもはれせらるるも悪業のはからふゆへなり。故聖人のおほせには、卵毛羊毛のさきにゐるちりばかりもつくるつみの宿業にあらずといふことなしとしるべし、とさふらひき。 またあるとき、唯円坊はわがいふことをば信ずるか、とおほせのさふらひしあひだ、さんさふらふ、とまふしさふらひしかば、さらばわがいはんことたがふまじきかとかさねておほせのさふらひしあひだ、つつしんで領状まふしてさふらひしかば、たとへばひと千人ころしてんや、しからば往生は一定すべし、とおほせさふらひしとき、おほせにてはさふらへども一人もこの身の器量にてはころしつべしともおぼへずさふらふ、とまふしてさふらひしかば、さてはいかに親鸞がいふことをたがふまじきとはいふぞと。これにてしるべし、なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんにすなはちころすべし。しかれども一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり、わがこころのよくてころさぬにはあらず、また害せじとおもふとも百人千人をころすこともあるべし、とおほせのさふらひしは、われらがこころのよきをばよしとおもひ、あしきことをばあしとおもひて、願の不思議にてたすけたまふといふことをしらざることをおほせのさふらひしなり。
そのかみ邪見におちたるひとありて、悪をつくりたるものをたすけんといふ願にてましませばとて、わざとこのみて悪をつくりて、往生の業とすべきよしをいひて、やうやうにあしざまなることのきこへさふらひしとき、御消息に、くすりあればとて毒をこのむべからず、とあそばされてさふらふは、かの邪執をやめんがためなり、またく悪は往生のさはりたるべしとにあらず。持戒持律にてのみ本願を信ずべくば、われらいかでか生死をはなれるべきや。かかる浅ましき身も本願にあひたてまつりてこそげにほこられさふらへ。さればとて、身にそなへざらん悪業はよもつくられさふらはじものを。

● 白井成允師の現代訳
弥陀仏の本願が不思議であらせられ、いかにあさましき罪悪の凡夫をも必ず救いたもうのだから安心だといって、己れの造る悪を怖れないでいる人々があるが、こういうのはやはり本願ぼこりというもの、自分が本願をいただいたことを誇りとしているのであって、それでは往生することが出来ないのだ、と云う主張がある。これ罪悪の凡夫を必ず救うという本願を疑うものであり、現生に造る罪悪は、必ず宿業の避くべからざる果報であることをわきまへないものである。善いこころのおこるのも宿善が催すからである、悪いことが心に思われ身に行われるのも悪業がはからうからである。故聖人の仰せには、卵毛羊毛の端にいる塵ほどの微細なことでもすべて造る罪の宿業でないものはないと知らねばならぬ、と申された。
またあるとき、唯円坊は私の言うことをば信ずるかという仰せがあったので、さようでありますと申し上げたところが、では私の言うことに背きはしまいなと重ねて仰せがあったので、謹んでお受け申し上げたところが、まず人を千人殺してみないか、そうすれば必ず往生するに違いないと仰せられたので、仰せではありますが私のような者の力では一人も殺せそうに思えませんと申し上げたところが、それではどうして親鸞のいうことに背くまいなどと言うのかと仰せられ、さらに、これでよく知るがよい、何事でも思うままになることならば、往生のために千人殺せと言われたら、直ぐに殺すことだろう。しかるに一人でも殺し得るような業縁がないから殺さないのだ。自分の心が善いために殺さないのではないのだ。また殺すまいと思っても百人千人を殺してしまうこともあろうと、仰せられたことがあった。これは私どもが自分の心の善いのをば、善い、これで往生ができるぞと思い、悪しきことをすると、悪い、これでは往生の礙(さまた)げになるぞとばかり思うていて、真実にはそれら善き悪しきに係らず、ただ如来の本願の不思議にて往生させてくださるのだと言うことを知らずにいることを仰せくだされたのである。
かつて聖人の世に在した頃、邪見におちた人があって、弥陀の本願は悪を造った者を救おうという願であらせられるから、という口実で、いい気になってわざわざ悪を造って、これを往生の業とするのだなどと言って、いろいろの悪いことをしているという噂がきこえてきたとき、聖人は御手紙に、薬があるからといって毒を好んではならない、と仰せられたが、これはその邪(よこしま)な執着を止めさせようというためであられたのであって、決して悪は往生の障(さわ)りとなるであろうと言うのではない。まったく戒をたもち律をたもちおごそかに道徳を励むことによってのみも本願を信ずることができるのだというならば、私たちのような戒も律もたもち得ない者がどうして生死を離れることができようか。このようなあさましき身も、本願にあいたてまつりてこそ、いかにもとうとい御法におあいもうしたことだ、これでこそ必ず往生ができるのだ、と誇ることができるのである。しかしかようにいくら身を誇ったからといっても、己れの身にかねてから具えていないような悪業はとても造ることが出来ないではないか。(それを本願を聞いて誇るところから悪を造るのだなどと強いて云うのは、宿業のことわりに昧(くら)いところから来るのである。)

● 高史明師の現代語意訳
阿弥陀仏の本願には不思議な力が備わっているからといって、悪を恐れようとしないのは、また、本願に甘えている者の本願ぼこりというものであって、往生できるはずがないというと、このような見解は、本願を疑う者の見解であります。また、人間の善悪というものが、過去に積まれた行為の結果が、現世において現れ出るところの、宿業というものであることを知らないがためのものであります。善きこころのおこるのは、過去に積まれた善行の現われである宿善に、導かれてのことであります。悪事が思われ、実行されてしまうのも、悪業の結果であります。故聖人はいわれていたものであります。「卵毛羊毛のさきについている小さな塵ほどのものといえども、そのつくられる罪は、宿業によるものであって、そうでない罪はないと知ることが肝要です」と。
また、ある時、仰せられたのであります。「唯円坊は私の言うとをば信ずるか」と。それで、「はい、信じます」とお答えいたしましたところ、「ならば、私の言うことに背くことはないのだね」と、重ねてお言葉を続けられ、謹んで領状(承諾)申し上げたところ、「たとえば、人千人殺してくれるか。そうすれば、(あなたの)往生は、しかと定まったものとなると思うのですが・・・」というお言葉でありました。(それを聞いて私は驚き、慌てて、すぐにお答えしたものであります。)「お言葉ではありますが、(たとえ)一人といえども、私のこの身の器量(力量)では、殺せそうにありません」と。(すると、言われたのでありました。)「それでは、どうして、親鸞の言うことに、背かないなどと、言ったのですか」と。(ついで威儀を正され、真面目な口調になって言われたのであります。)「これでもって、理解できましょう。何事も、思い通りになるのであれば、往生のために千人殺せと言われれば、ただちに殺すことができるはずです。しかしながら、一人といえども、殺すということのできる業縁がなければ、殺害できないのであります。わがこころが善くて、殺さないのではありません。殺すまいと思ったとしても、百人千人を殺すということが、ありうるのであります。」と。(今改めて、このお言葉を思い返すのでありますが、聖人のこの仰せは)私たちが、自分のこころが善ければ、それが(往生のための)善い種となる(と思う一方)、悪いことをしては、それが(往生ということにおいて)悪い種になるのではないかと思ったりしていて、(往生は、まったくもって)阿弥陀仏の願いの不思議な働きによる、お助けであることに気付こうとしないのを、お諭しになろうとしての言葉であったと、気付かされるのであります。
その昔、因果の道理を無視する邪見に落ちた人があって、悪をつくりたる者をお助け下さる願であられるからと言って、わざわざ好んで悪を働き、往生のための種にするんだなどと言い、さまざまな悪を働いているとの噂が聞こえて参りましたとき、親鸞聖人はお手紙でもって「薬があるからといって、毒を好んではなりません」とお諭しになられましたが、これはよこしまな執着をやめさせんがためのものであります。(その意味するところは)決して、悪は往生にとっての障りになると言われている、のではないのであります。「戒律を守ろうと心がけ、修行のための規律に、よくしたがい得ることを通してのみ、本願が信じられるというのであれば、(私たちのように戒律を守りきれない者は)どうして、生死の迷界を超え出ることができましょうか」というのが、お言葉でありました。(私たちのような)歎かわしい身も、本願との出遇いを恵まれていればこそ、こうして現に誇れるのであります。だからといって、身に具わっていない悪業は、決して勝手につくれるものではありません。

● あとがき
先週のNHK教育番組『こころの時代』の「歎異抄を語る」最終回の中で、山崎龍明師がどなたかが仰られたとして「私たちは、他人の悪については直ぐに検事となり、自分の悪には直ぐに弁護士になるものだ」と言う言葉を紹介されていましたが、実に至言であります。それに付けても思い出すのは、常念仏者の母の事であります。

私は五人兄弟の末っ子でありますので、兄弟の中では最後まで母と暮らしていましたが、嫁いで行った3人の姉達にまつわることや兄嫁に関わることで、折に触れて愚痴めいたことを私に漏らしていました。私は若気の至りで、「ふんふん、そうか、そうか」と聞くことが出来ず、法話を引用して念仏者の母に説教していたことを思い出します。「仏法を聞く者が愚痴を言ってはならない」と、親鸞聖人の教えを聞き違えていた訳であります。母は多分、そう云う愚痴をこぼした自分の姿を思い返して、「なんまんだぶ、なんまんだふつ」と念仏で自ら懺悔しながら癒していたのかも知れません。

念仏者の普段の言動がどうあるべきかと言う事に関しまして、どうでもよいと云う訳では勿論ありませんが、信仰は道徳そのものではありません。道徳的には、「他人の悪には弁護士、自らの悪には検事」と言う心構えで暮らしたいものでありますが、他力の信心は、飽くまでも自己の心を仏様の心を鏡として見詰めて行くことこそが肝要ではないかと思います。親鸞聖人が、「外に賢善精進の相を現わすを得ざれ、内に虚仮を懐けばなり」と善導大師のお言葉を読み解かれたお心と、最晩年に至られた『自然法爾(じねんほうに)』のご心境を思い起こしたいと思います。


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No.689  2007.4.5

業縁についての考察

今週の『歎異抄に還って』の「まえがき」の内容に関しまして、ある読者様から次の様なご質問を頂きました。

『今回のご意見の中の「即ち、縁の全てではないにしても、縁を自分の意思で変えられ、そして結果を変えられ得ると言うのが仏法でなければならないと私は思っておりますし、恐らくは親鸞聖人も、否定はされないと思います。」につきましては、自分の意志の源はどうかと考えた場合、それらも縁によるのではないでしょうか。』

このような疑問を抱かれるかも知れないと思いつつ、また若干の躊躇も致しながらも、私は思い切って「縁を自分の意思で変えられ」と言う文言を記しました。お答えと致しまして私は下記の様にお返し申し上げました。

『私も、そう言う考え方を全く否定するものではございませんし、過去を振り返り観ますと、全て私の力でなく、何か大きな力(仏法では仏様)によって動かされて来たのでは無いかとしか思えない事もまた事実でございます。浄土真宗の妙好人として有名な浅原才市翁も、「他力には、自力も他力もなし、ただ一面の他力なり」とも仰って居られます。非常に微妙なニュアンスを要するところであり、またボカすべきところかも知れません。ただ、親鸞聖人の教えを十分聞いて居られない方が誤解して、「全ては縁のままだから、そんなに積極的に努力する必要は無い、努力すべき時は、そのような縁が働いてくれるのだ」と納得されては困る事態も起り得るのではないかと思い、未来に対しては、出来る限りの事を尽くすと言うことが新たな縁を生み出すのだと考えて欲しいと思ったからです。』

その後も私は考察を試みましたが、『結果として全ては他力に依るものの、現実の生活の場において自らの意思をも他力に依存する考え方は親鸞聖人の教えの本意ではない』と言う前述の考え方は大きく変わることがありませんでした。そして、そう言う頭の中の思考思索も大切ではありますが、自分が自分の人生をどう受け止め、実際にどう行動しているのか、他力の本願をどう受け止めているかを自問自答する事の方が先決ではないかと自誡した次第であります。

冒頭の読者殿が「全ては縁による」と受け止められているならば、それはそれで本当に尊いことであります。私もこれからそのような境地に至るのか、或いはやはり疑問を抱きながらも人間の意志に希望を持ち続けるのか、夫々の、それこそ『業縁』なのかも知れません。

付け加えまして、冒頭に引用しました『・・・恐らくは親鸞聖人も、否定はされないと思います』と言う箇所は、余り断定的に過ぎますので、ホームページの内容を『・・・恐らくは親鸞聖人も、積極的に肯定されないに致しましても言下に否定はされないと思います。』と言う内容に変更したいと思います。


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No.688  2007.4.2

歎異抄に還って―第十三章―A

● まえがき
この十三章は、一歩間違いますと親鸞聖人の教えは運命論と誤解されます。キーワードである『業縁(ごうえん)』にそのような響きが感じられがちであります。しかし一方、逆に、自分の力だけで自分の人生を思い通りに出来ると言ってしまうのも行き過ぎであり仏法では無くなってしまいますので、大変難しい章である事を認識しておきたいと思います。

さて、昨年に引き続きまして、悲惨な事件や事故が頻発しています。極最近では、医者の息子がイギリスの22歳の英会話の女先生を絞め殺し、ベランダに置かれた浴槽内の砂の中に遺棄すると言う事件があり、犯人の男は未だ見付かっておりません。医者や歯医者の息子による殺人事件が目立つように思います。

このような凶悪無慈悲な殺人犯になったり、その親になってしまう人生は、単なる偶然ではない、いわゆる運命ではないと言うのが親鸞聖人の仏法の考え方だと思います。それを十三章の今日の 文節では、『業縁(ごうえん)』と表現されているのだと思います。

私は、『業(ごう)』とは生物化学的に考察しますと、私の先祖達が次々と受け継ぎながら形成して来た素質とか能力がDNAとして記録されているものだと思います。その記録された素質を『種(たね)』と表現してよいでしょう。植物の花の種は、バラならバラになる素質だけがDNAに記録されているだけですからバラの種にどんな肥料や環境(生育条件即ち縁)を施しても決してチューリップの花は咲きません。しかし、人間のDNAには一つの種だけではなく、十数億年に遡るならばそれこそ無数の先祖達から受け継いだ色々な種が埋め込まれていますから、外見は同じ人間でありましても生まれ落ちてから育ち上がる環境条件・人との出遇い(これを縁と申します)によって、餓鬼畜生のような悪行から仏様のような善行を為し得るのだと思われます。原因(DNA)と縁によって個別の人生が展開する事を仏法では『業縁(ごうえん)』と考察するのだと私は考えます。

従いまして、人を殺せと言われても、そう簡単に「はい、分かりました」と実行は出来ません。業縁が整っていないからであります。私は今まで殺人を犯したことはありません。しかし、これは私が殺人を犯すような悪い素質を持っていないからではないと親鸞聖人は教えられるのです。たまたま殺人を犯す縁に出遇っていないからだと言うことであります。

拡大解釈しますと、私たちは他人を直ぐに善人と悪人に区別致しますが、善人がずっと善人で有り得ないし、悪人も然りであると云うことになります。現実として、善人と言われる人物が突然殺人犯にもなり得るものであり、また凶悪殺人犯と言われ死刑判決を受けた人物が仏様のような心になって処刑の日を迎えたと言う例もあります。何れも縁によっては殺人犯にもなり、仏のような心にもなり得ると言うことであります。

こう述べて参りますと、業も縁も、私たちの意志と関係がないように受け取られがちでありますが、それでは親鸞聖人の教えもただ運命論に堕ちてしまいかねません。私は冒頭で、医者や歯医者の子息の殺人事件が目立つと書きました。それは、医者や歯医者の家庭は経済的には裕福であり、周りから尊敬される職業であり社会的地位が高い家庭であります。そう言う特別な家庭環境で育ちますと、やはり普通では無い人格が出来上がる可能性もあるのではないかと考えたからであります。 しかし、医者や歯医者の家庭の子の全てがそうではないように、親の子育ての有り方を変えることに依っても避けられることであり、運命ではないと言うことも物語っていると受け取りたいと考えます。即ち、縁の全てではないにしても、縁を自分の意思で変えられ、そして結果を変えられ得ると言うのが仏法でなければならないと私は思っておりますし、恐らくは親鸞聖人も、積極的に肯定されないに致しましても言下に否定はされないと思います。

●第十三章原文
弥陀の本願不思議におはしませばとて悪をおそれざるは、また本願ぼこりとて往生かなふべからず、ということ。この条、本願をうたがふ、善悪の宿業をこころえざるなり。よきこころのおこるも宿善のもよほすゆへなり、悪事のおもはれせらるるも悪業のはからふゆへなり。故聖人のおほせには、卵毛羊毛のさきにゐるちりばかりもつくるつみの宿業にあらずといふことなしとしるべし、とさふらひき。
またあるとき、唯円坊はわがいふことをば信ずるか、とおほせのさふらひしあひだ、さんさふらふ、とまふしさふらひしかば、さらばわがいはんことたがふまじきかとかさねておほせのさふらひしあひだ、つつしんで領状まふしてさふらひしかば、たとへばひと千人ころしてんや、しからば往生は一定すべし、とおほせさふらひしとき、おほせにてはさふらへども一人もこの身の器量にてはころしつべしともおぼへずさふらふ、とまふしてさふらひしかば、さてはいかに親鸞がいふことをたがふまじきとはいふぞと。これにてしるべし、なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんにすなはちころすべし。しかれども一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり、わがこころのよくてころさぬにはあらず、また害せじとおもふとも百人千人をころすこともあるべし、とおほせのさふらひしは、われらがこころのよきをばよしとおもひ、あしきことをばあしとおもひて、願の不思議にてたすけたまふといふことをしらざることをおほせのさふらひしなり。

● 白井成允師の現代訳
弥陀仏の本願が不思議であらせられ、いかにあさましき罪悪の凡夫をも必ず救いたもうのだから安心だといって、己れの造る悪を怖れないでいる人々があるが、こういうのはやはり本願ぼこりというもの、自分が本願をいただいたことを誇りとしているのであって、それでは往生することが出来ないのだ、と云う主張がある。これ罪悪の凡夫を必ず救うという本願を疑うものであり、現生に造る罪悪は、必ず宿業の避くべからざる果報であることをわきまへないものである。善いこころのおこるのも宿善が催すからである、悪いことが心に思われ身に行われるのも悪業がはからうからである。故聖人の仰せには、卵毛羊毛の端にいる塵ほどの微細なことでもすべて造る罪の宿業でないものはないと知らねばならぬ、と申された。
またあるとき、唯円坊は私の言うことをば信ずるかという仰せがあったので、さようでありますと申し上げたところが、では私の言うことに背きはしまいなと重ねて仰せがあったので、謹んでお受け申し上げたところが、まず人を千人殺してみないか、そうすれば必ず往生するに違いないと仰せられたので、仰せではありますが私のような者の力では一人も殺せそうに思えませんと申し上げたところが、それではどうして親鸞のいうことに背くまいなどと言うのかと仰せられ、さらに、これでよく知るがよい、何事でも思うままになることならば、往生のために千人殺せと言われたら、直ぐに殺すとだろう。しかるに一人でも殺し得るような業縁がないから殺さないのだ。自分の心が善いために殺さないのではないのだ。また殺すまいと思っても百人千人を殺してしまうこともあろうと、仰せられたことがあった。これは私どもが自分の心の善いのをば、善い、これで往生ができるぞと思い、悪しきことをすると、悪い、これでは往生の礙(さまた)げになるぞとばかり思うていて、真実にはそれら善き悪しきに係らず、ただ如来の本願の不思議にて往生させてくださるのだと言うことを知らずにいることを仰せくだされたのである。

● 高史明師の現代語意訳
阿弥陀仏の本願には不思議な力が備わっているからといって、悪を恐れようとしないのは、また、本願に甘えている者の本願ぼこりというものであって、往生できるはずがないというと、このような見解は、本願を疑う者の見解であります。また、人間の善悪というものが、過去に積まれた行為の結果が、現世において現れ出るところの、宿業というものであることを知らないがためのものであります。善きこころのおこるのは、過去に積まれた善行の現われである宿善に、導かれてのことであります。悪事が思われ、実行されてしまうのも、悪業の結果であります。故聖人はいわれていたものであります。「卵毛羊毛のさきについている小さな塵ほどのものといえども、そのつくられる罪は、宿業によるものであって、そうでない罪はないと知ることが肝要です」と。
また、ある時、仰せられたのであります。「唯円坊は私の言うとをば信ずるか」と。それで、「はい、信じます」とお答えいたしましたところ、「ならば、私の言うことに背くことはないのだね」と、重ねてお言葉を続けられ、謹んで領状(承諾)申し上げたところ、「たとえば、人千人殺してくれるか。そうすれば、(あなたの)往生は、しかと定まったものとなると思うのですが・・・」というお言葉でありました。(それを聞いて私は驚き、慌てて、すぐにお答えしたものであります。)「お言葉ではありますが、(たとえ)一人といえども、私のこの身の器量(力量)では、殺せそうにありません」と。(すると、言われたのでありました。)「それでは、どうして、親鸞の言うことに、背かないなどと、言ったのですか」と。(ついで威儀を正され、真面目な口調になって言われたのであります。)「これでもって、理解できましょう。何事も、思い通りになるのであれば、往生のために千人殺せと言われれば、ただちに殺すことができるはずです。しかしながら、一人といえども、殺すということのできる業縁がなければ、殺害できないのであります。わがこころが善くて、殺さないのではありません。殺すまいと思ったとしても、百人千人を殺すということが、ありうるのであります。」と。(今改めて、このお言葉を思い返すのでありますが、聖人のこの仰せは)私たちが、自分のこころが善ければ、それが(往生のための)善い種となる(と思う一方)、悪いことをしては、それが(往生ということにおいて)悪い種になるのではないかと思ったりしていて、(往生は、まったくもって)阿弥陀仏の願いの不思議な働きによる、お助けであることに気付こうとしないのを、お諭しになろうとしての言葉であったと、気付かされるのであります。

● あとがき
私が今こうして無相庵のコラムを書いていることを考えますと、やはり業縁を思わざるを得ません。 私には私以外に4人の兄姉がいますが、仏法を積極的に人生に組み入れているのは私だけのように感じております。同じ宗教的感性と言う素質のDNAを持ち合わせていないかも知れませんが、持ち合わせていたとしても、育ち上がった環境が異なっています。私は母の背中に背負われて仏法講座に通っていたようであります。そして、兄弟姉妹の中では念仏者の母と一番縁が深かったのは私だったと思い起こしています。それだけではなく、その他にも他の兄姉とは仏法との縁と言う面では異なるところが多かったのであろうと思っております。

そして、兄姉達は何の挫折もない人生を送っているのに比べまして、私は脱サラして起業すると言う特異な道を歩み、自己破産まで覚悟しなければならない状況に追い込まれたことも、仏法との縁をより深め強くしたように振り返っております。業と縁を感じている次第であります。

これで、この十三章の冒頭にありました『本願ぼこり』を非難する人々を、それは正しく無いといっている理由が分かると思います。本願が悪人を救うためのものであるからと言って故意に悪事を働くことを本願ぼこりと称していたようでありますが、人間と言うものは、悪い事をしようと思っても業縁が整わないと出来ないという現実を思い致せと言うことであります。

しかし、それは運命ではないことも認識しなければなりません。善き縁さえ整えば善き人生が待っていると言うことであります。そして、親鸞聖人が最も推奨される善き縁とは、仏法と善き縁を結ぶと言うことであり、善き師、善き友との出遇いではなかったかと私は考えています。


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No.687  2007.3.29

わかっちゃいるけどやめられない

コメディアンで歌手そして俳優としても活躍した元クレージーキャッツの植木等さんが、一昨日、80歳で亡くなられた。「およびでない?およびでない!こらまた失礼しましたぁ」や表題のギャグで茶の間の人気を独り占めした時期もありました。「ちょいと一杯のつもりで飲んで、いつの間にやら梯子酒」と云う出だしの『スーダラ節』は高度成長期のサラリーマンの哀歓を歌い込み、サラリーマンの共感を呼んだものでありました。

しかし、さすがに植木等さんもこの『スーダラ節』を歌うことには抵抗を感じたと言います。これはかなり経ってから出演した『徹子の部屋』で黒柳徹子さんに語られていたので事実であります。しかし、浄土真宗のお寺の住職をしていたお父様に相談したとろ、「『わかっちゃいるけどやめられない』と云うのは親鸞聖人のお考えだから堂々と歌え」とアドバイスされたので、歌う決心がついたと話されていました。

あの無責任男として一世を風靡した植木等さんが、まさか親鸞聖人を背景として『スーダラ節』を歌っていたとは・・・と驚かされました。

「わかっちゃいるけどやめられない」と親鸞聖人がどのように結び付くかと申しますと、親鸞聖人が、「悪性さらにやめがたし 心は蛇蝎(じゃかつ)のごとくなり 修善も雑毒(ぞうどく)なるがゆへに 虚仮の行とぞなづけたる」と和讃に詠われていますように、親鸞聖人はご自身の心の中に抱える煩悩と云う煩悩を全て自覚されて居られたのですが、この煩悩は我が力ではどうしても断絶出来ないと考えられ表白もされていたからであります。

しかし、植木等さんのお父様が植木等さんに親鸞聖人の教えをどのように説明されたかは分かりませんが、親鸞聖人は「わかっちゃいるけど止められない」と開き直られたのではありません。ご自分の煩悩を慙愧されたのであります。そして、「このような罪悪深重の凡夫の私だからこそ、阿弥陀仏が何としても助けたいと云う誓願を立てられたのである」と信心を深められたのでありますから、『スーダラ節』とは全く立場を異に致します。考えて見ますと、『スーダラ節』は、青島幸男さんが作詞されたものであります。彼は時代を読み取る天才ではありましたが、親鸞聖人の教えとは無関係の方でありましので、もしもお父様が親鸞聖人を持ち出さなかったら、このヒット曲は世に出なかったと云うことになります。

親鸞聖人と『スーダラ節』そして植木等さんとの取り合わせに驚かされましたが、この機会に本当の親鸞聖人の教えを知って頂きたいと思い、『スーダラ節』が世に出るに際しての裏話を取上げさせて頂いた次第でありますが、植木等さんが立派だなと思いましたのは、お寺の住職の跡を継がねばならなかった為に、東洋大学に入学したと言うことですが、同好会の音楽サークルに入って彼方此方で演奏するようになり、観客が喜ぶ顔を見て、「死んでしまった人を供養するよりも、生きている人々を喜ばせたい」と考え、寺の跡継ぎを望む親の反対を押し切って芸能界に入り、一生、人々を喜ばせることに徹せられたとであります。

本来仏教は、死人を供養するためにあるのではなく、生きた人々がより良い人生、生き甲斐のある人生を送れるように人生観を転換する手助けをする為にあります。そう言えば、東洋大学を創設された井上円了師は、そういう建学の精神(哲学はあらゆる事物の原理を定める学問であります。政治、法律はもとより科学や芸術まで、その根底には哲学がなくてはなりません)を持っておられました。 植木等さんは、僧侶の道に進まれなかったけれども、井上円了師の建学の精神を体現されたと言ってよいでしょう。ご冥福をお祈り致します。


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No.686  2007.3.26

歎異抄に還って―第十三章―@

● まえがき
この十三章は最も長い章ですので、原文並びに現代訳の全文を一気に転載する暇(いとま)がありませんでしたので、何回かに分けて転載させて頂くことと致しました。

さて、冒頭に出て来ている『本願ぼこり』は聞きなれない言葉でありますが、当時の信者の中に、「私は阿弥陀仏を信じ、そして本願を信じているから、どんなに悪い事をしても往生出来るのだ」と本願に誇って悪を為すことに恥じない人々が居たのでありましょう、そしてまた、そういう人々を「本願ぼこり」と批判する信者仲間も居たようであります。

こう言う『本願ぼこり』的な人々は現在も居られるのかも知れません。「私はまことに罪深い煩悩具足の凡夫でありますから、罪を犯すことは避けられません」と開き直る人々が居ても不思議はありません。そう云う人々には私も抵抗感を覚えるのでありますが、唯円坊はそのような批判は当たらないと、この十三章の冒頭で言われているように受け取りがちであります。しかし、この十三章をよくよく読み進みますと本願を誇る人も本願ぼこりを批判する人も自らの悪の本質を見誤っているのではないかと仰っているのだと思います。

親鸞聖人のお立場もそうではなかったかと思われます。ただ、その考え方の根本にある宿業(しゅくごう)と云う問題を私達一人ひとりがどう受け取り確信するかは、信心の世界に入り得るかどうかの分水嶺ではないかと思いますが、どうなのでしょうか。

親鸞聖人は、「私達が為すどんな些細な事でも、自分が為した過去の業の結果が現れているのである」と仰られたと唯円坊は云われているのであります。それも、自分がこの世に生を受けて後の業だけではなく、過去世の業も含めての結果が現れると云う、いわゆる『宿業観』であります。この考え方を平易に且つ思い切って言い換えますならば、『宿命論』と言ってもよいと思います。この対極にあるのが、『私が人生で受ける全ての結果はある程度自分の努力でコントロール出来る事であるが、思うようにならない場合は予期できぬ偶然の出来事に依るものだ』と云う考え方でありましょう。

これはどちらが正しいかを誰も証明出来ませんし決められません。どちらを信じるか、どちらを抵抗無く受け取れるかと云うことだと思います。

●第十三章原文
弥陀の本願不思議におはしませばとて悪をおそれざるは、また本願ぼこりとて往生かなふべからず、ということ。この条、本願をうたがふ、善悪の宿業をこころえざるなり。よきこころのおこるも宿善のもよほすゆへなり、悪事のおもはれせらるるも悪業のはからふゆへなり。故聖人のおほせには、卵毛羊毛のさきにゐるちりばかりもつくるつみの宿業にあらずといふことなしとしるべし、とさふらひき。

● 白井成允師の現代訳
弥陀仏の本願が不思議であらせられ、いかにあさましき罪悪の凡夫をも必ず救いたもうのだから安心だといって、己れの造る悪を怖れないでいる人々があるが、こういうのはやはり本願ぼこりというもの、自分が本願をいただいたことを誇りとしているのであって、それでは往生することが出来ないのだ、と云う主張がある。これ罪悪の凡夫を必ず救うという本願を疑うものであり、現生に造る罪悪は、必ず宿業の避くべからざる果報であることをわきまへないものである。善いこころのおこるのも宿善が催すからである、悪いことが心に思われ身に行われるのも悪業がはからうからである。故聖人の仰せには、卵毛羊毛の端にいる塵ほどの微細なことでもすべて造る罪の宿業でないものはないと知らねばならぬ、と申された。

● 高史明師の現代語意訳
阿弥陀仏の本願には不思議な力が備わっているからといって、悪を恐れようとしないのは、また、本願に甘えている者の本願ぼこりというものであって、往生できるはずがないということ、このような見解は、本願を疑う者の見解であります。また、人間の善悪というものが、過去に積まれた行為の結果が、現世において現れ出るところの、宿業というものであることを知らないがためのものであります。善きこころのおこるのは、過去に積まれた善行の現われである宿善に、導かれてのことであります。悪事が思われ、実行されてしまうのも、悪業の結果であります。故聖人はいわれていたものであります。「卵毛羊毛のさきについている小さな塵ほどのものといえども、そのつくられる罪は、宿業によるものであって、そうでない罪はないと知ることが肝要です」と。

● あとがき
歎異抄そして親鸞聖人の教えを学問としてではなく信心の世界を求める上での理解に深めるには、どうしても宿業(しゅくごう)と云う考え方への共感が必要だと思います。山崎龍明師は、『歎異抄を語る』と云う解説テキストの中で次のように語られています。

『第十三章は歎異抄の中で最も長いものであり、また、わかりにくいものです。それは、宿業というもののわかりにくさにあるといってもよいと思います。ここには、宿業、宿善、悪業、業縁、業報という語が出てきます。仏教は輪廻思想を説きますので宿(過去性)という語が用いられます。宿という語がついていなくても、業には過去性の意味が含まれているとみられます。業とは身、口、意の人間の行為のことです。宿業とは過去の世で行った業ということで、その業が現在の私に関係しているということです。この宿業を運命と理解するような誤った見解がうまれてきたことも事実です。』

お釈迦様は霊魂の存在を否定されたのか無記≠ニして語られなかったか存じませんが、少なくとも私固有の霊魂が輪廻転生すると言う考え方ではなかったと思われます。従いまして、私達がこの世に生まれる以前の業をこの世で業報として受けると言われますと、固有の霊魂がある事を前提としているように受け取られて、お釈迦様のお考えから外れているように思われます。その点に関しまして私は現代の生命科学が明らかにしたDNA(遺伝子)が業の担い手であると考えて納得しています。私がこの世で為している身口意の業がどのようにして遺伝子に情報として刻みまれるかを現代科学もさすがに説明出来ないと思いますが、私のDNAに数十億年に亘って先祖達が連綿と形成して来た途方も無い情報が満載されている事は間違いありませんので、業とDNAは決して無関係ではなく、従って仏教の、中でも浄土真宗の宿業と言う考え方に私は共感しております。

白井成允先生は、業について、時間的継起とは別に空間的連関について述べられておられますが、この考え方にも強く共感しております。つまり、私達は一人で生きてはいません。周りに影響されながら生きており、自分だけの業としての『不共業(ふぐうごう)』と、周り、例えば日本に生まれたが故に他の日本人と共に受ける業、例えばアメリカとの同盟関係にあり、中国・韓国・北朝鮮等とは難しい関係にある中で受ける様々な影響を他の日本人と共に受ける業としての『共業(ぐうごう)』があると言う考え方です。北朝鮮に生まれたが故に受ける業、イラクに生まれたが為に受ける業などを思い浮かべますと、空間的連関のある共業を納得出来ます。

この時間的継起、空間的連関のある宿業を頷くことが出来ませんと、この第十三章で主張されている異議を本当に理解するには至らないと思いますし、親鸞聖人の教えも深いところで共感出来ませんし、ましてや、阿弥陀仏の本願を信じることにはならないと思われます。


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No.685  2007.3.22

仏様のお導き

今回、私達夫婦がどん底の経済苦から救われたことに関しまして、「仏様のお導きだ」と言う見方がございます。実際そのようなコメントを寄せて下さった方も少なくありません。勿論私達自身もこの度の事に関しましては、驚き、戸惑い、歓びの感情から仏法上の受け止め方を模索・考察したことも確かでございます。

そして今思っていますことは、今回だけの事だけではなく、これまで苦しんで来た約7年間も、そしてその以前のすべての事も全てが仏様のお導き≠セったと言うことであります。「どんな些細な事も含めまして何一つ仏様のお導き≠ナないものは無かった」と言うことにあらためて気付かされている次第であります。更に付け加えますと、過去の出来事のどれか一つでも欠けていたならば、今回の救いの手は有り得なかったと言う気が致します。

そして勿論これで話しは終わりではなく、これから更に仏様のお導き≠ノよって、今回の救いの手に応えて行く大きな役割が待っていると思っています。その役割がどんなものかは定かではございませんが、間違いなくこれまで為して来たことと無関係のことではなく、私にしか為し得ない仕事が待っているのだと確信しております。

この1月末には正直なところ、いよいよ家を手放して何処か安い家賃のアパートに引越しかと云う覚悟も決めていました。「この家に住む縁のある家族が何処かに居るならば私達は出て行くだろうし、私達がどうしてもこの家に居る必要がある縁があれば事態の急変があるだろうし・・・」と言う心境でした。この7年間で何回かこう云う心境になりましたが、この1月末のものはかなり現実味がありましたので、畏れ多いことではありますが、私は親鸞聖人が流罪に処せられて京都から越後(新潟)に独り向われる時のご心境を思ってもみました。親鸞聖人は「念仏の教えを越後の人々に伝える機会を仏様から与えられた」と思い直し、罪人としてではなく、法を伝える使者として胸を張って越後に向われたと思われますので、私ももし縁有って向うアパートがあるならば、其処に私の果たすべき役割があるはずだと言い聞かせて、覚悟を決めたことを思い出しています。

そして「仏様のお導き」と言う事に付きましては、これは別に超能力者としての仏様が宇宙の何処かに居られて、私達衆生一人一人の人生を決めているのではなく、お釈迦様が発見された『因果の道理』『縁起の道理』によって物事も、私達人間の人生も決まっていくと言うことであります。私達人間に見える因(原因)と縁(条件や周りの環境)はホンの少しでしかありません。殆どは私達人間が窺がい知ることが出来ない因と縁によって人生は決まっていると言ってよいと思います。『仏様のお導き』と言うのは、そう言う私達が知り得ない『因と縁』を認めた仏法の智慧なのだと思います。決して神懸かり的なものではないことを申し添えたいと思います。

追記:

第2文節のところで「どんな些細な事も含めまして何一つ仏様のお導き≠ナないものは無かった」と申しましたが、少し事情を説明させて頂きます。些細な事と申しますのは、私と妻の出遇いがあるバス旅行で座席が偶々前と後になった事だったからです。一つ座席がズレていたなら、私と妻の縁は無かったと思うからです。しかも、私は神戸生まれの神戸育ち、妻は水俣市。普通は有り得ない組み合わせだからです。そしてもう一つ娘の結婚も、些細な事から話が始まります。娘が大学卒業前に就職活動している最中、これも偶々或る交差点で高校時代の友人に遇い、その友人が受ける面接試験先に娘も兎に角受けて見ようと言う事になり、結果として友人は落ち、娘が何十倍と言う競争倍率の中合格してしまったのです。そして偶々同期入社の男性と3年後に結婚しました。交差点で遇わなければ、この結婚は無かったことになります。そして、その結婚相手のご実家に今回ご支援頂いたのであります。

もし、私達夫婦があのバスで座席が一つズレていたならば、私達の結婚は無かったでしょうから勿論娘も存在しない訳でありますから、娘達の結婚も無かったし、娘の嫁ぎ先との縁も無かったことになります。第一私の人生全てが全く違ったものになっているのですから、この無相庵ホームページも存在しなかったでしょう。何故私達夫婦があのバスで前と後ろの座席になったのか・・・正に私達が窺がい知ることの出来ない因縁即ち『仏様のお導き』としか言えないと思います。縁の不可思議を思わずには居られません。


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No.684  2007.3.19

歎異抄に還って―第十二章―D

● まえがき
今朝(3月18日の日曜日)午前5時から、NHK教育テレビの『こころの時代』で山崎龍明師の歎異抄解説「歎異抄を語る」の最終回がありました。私はいつもは第四週の日曜日の午後2時からの再放送を見ているのですが、今朝はたまたま早く目が覚めましたので、5時半頃からの後半部分を見させて頂きました。

番組の終わり頃に山崎師が「視聴者の皆様から色々と感想等のお便りを頂きましたが、中には今の私には無碍の一道と言うことが何の助けにもなりません≠ニ言う悲痛なものもありました」とおっしゃっていましたことが大変気になりました。この視聴者は、第七章に「念仏者は無碍の一道なり。」と言う言葉がありますけれども、「私は念仏を称えるけれども、苦しみが消え去ることがありません。念仏は無碍の一道と言われているけれども、とてもそう思えません」と言いたかったのではないかと思います。これは恐らく多くの人が同感するに違いない心の内を、勇気を持って吐露されたものだと思います。

このお便りに対する解答を山崎師がどのようにされたかはお聞きできませんでしたが、おそらく、「信心を得て念仏を称えるようになったからと言っても、この世で苦難を受けなくなるとか、人生が自分の思い通りになると言う意味の無碍の一道≠ナはなく、こうありたい、こうあらねばならないと言う自分の計らいがなくなり、全ては阿弥陀仏のお計らいと受け取って行くことが出来ると言う意味の無碍の一道≠ナある」と言うことではないかと思います。逆に申しますと、そう受け取れないならば、まだまだ信心が徹底していない、阿弥陀仏の誓願を信じ切れていないと考える方がよいのではないでしょうか。

念仏は奇跡を呼ぶものではないことは勿論ですし、人生の苦難に遇わなくなると言うことも一切無いと思います。ましてや貧乏が突然金持ちになるはずもありませんし、長寿が保証されたり、重い病気が治る訳もございません。もし奇跡があるとするならば、出遇った苦難によって自分自身を見詰め直し、いよいよ阿弥陀仏の誓願を信じる気持ちが強くなることを奇跡と言うべきではないかと思います。

さて、この第十二章では信心を獲るのに必ずしも学問が必要と言う訳ではないことが説かれていますが、だからと言って学問が不必要だとも言われてはいないと思います。一般的には、仏法を学問的に捉えますとますます自我が盛んになり、無碍の一道から遠い道を歩んでしまいがちであります。その危うさをこの章の最後のところで誡めているように思います。仏法をとことん学問的に勉強すれば、阿弥陀仏の誓願も信じられるようになり、また他宗と言い争う必要もなくなるのではないかと戒めているように思います。

●第十二章原文
経釈を読み学せざるともがら、往生不定のよしのこと。この条、すこぶる不足言の義といひつべし。他力真実のむねをあかせるもろもろの聖教は、本願を信じ念仏をまふさば仏になる、そのほかなにの学問かは往生の要なるべきや。まことにこのことはりにまよへらんひとは、いかにもいかにも学問して本願のむねをしるべきなり。経釈をよみ学すといへども聖教の本意をこころえざる条、もとも不便のことなり。一文不通にして経釈のゆくぢもしらざらんひとのとなへやすからんための名号におはします、ゆへに易行といふ。学問をむねとするは聖道門なり、難行となづく。あやまて学問して名聞利養のおもひに住するひと、順次の往生いかがあらんずらん、といふ証文もさふらふぞかし。当時専修念仏のひとと聖道門のひと、諍論をくはだてて、わが宗こそすぐれたれ、ひとの宗はおとりなり、といふほどに、法敵もいできたり謗法もおこる。これしかしながらみづからわが法を破謗するにあらずや。たとひ諸門こぞりて、念仏はかひなきひとのためなり、その宗あさしいやしといふとも、さらにあらそはずして、われらがごとく下根の凡夫、一文不通のものの信ずればたすかるよしうけたまはりて信じさふらへば、さらに上根のひとのためにはいやしくともわれらがためには最上の法にてまします、たとひ自余の教法すぐれたりともみづからがためには器量およばざればつとめがたし、われもひとも生死をはなれんことこそ諸仏の御本意にておはしませば、御さまたげあるべからずとて、にくひ気せずば、たれのひとかありてあだをなすべきや。かつは、諍論のところにはもろもろの煩悩おこる、智者遠離すべきよし、の証文さふらふにこそ。故聖人のおほせには、この法をば信ずる衆生もありそしる衆生もあるべし、と仏ときおかせたまひたることなれば、われはすでに信じたてまつる、またひとありてそしるにて、仏説まことなりけり、としられさふらふ。しかれば、往生はいよいよ一定とおもひたまふべきなり。あやまてそしるひとのさふらはざらんにこそ、いかに信ずるひとはあれどもそしるひとのなきやらんともおぼへさふらひぬべけれ。かくまふせばとて、かならずひとにそしられんとにはあらず、仏のかねて信謗ともにあるべきむねをしろしめして、ひとのうたがひをあらせじ、とときおかせたまふことをまふすなり、とこそさふらひしか。いまの世には学文してひとのそしりをやめ、ひとへに論議問答むねとせんとかまへられさふらふにや。学問せばいよいよ如来の御本意をしり、悲願の広大のむねをも存知して、いやしからん身にて往生はいかが、なんどとあやぶまんひとにも、本願には善悪浄穢なきおもむきをもとききかせられさふらはばこそ、学生のかひにてもさふらはめ。たまたまなにごころもなく本願に相応して念仏するひとをも、学文してこそなんどといひをどさるること、法の魔障なり、仏の怨敵なり、みづから他力の信心かくるのみならず、あやまて他をまよはさんとす。つつしんでおそるべし、先師の御こころにそむくことを。かねてあはれむべし、弥陀の本願にあらざることを。

● 白井成允師の現代訳
いかに念仏もうしていても、仏の説きたまえる経を誦(よ)んだり、これを解釈しまつれる賢聖の書などを学んだりしていない人々は、果たして往生するかどうかわからない、という説がある。これはもとよりあげつらうにも足らない主張というべきものである。いったい弥陀の本願他力の真実のいわれを明らかにせる諸々の聖教は、弥陀の本願を信じ念仏申せば仏に成る旨を説いておられるので、その説かれるままに念仏申すほかに、いかなる学問が往生のために必要だと云うのであろうか。まことにこの道理に迷っておるような人々はあくまでも学問して如来の本願のおぼしめしを知らねばならない。いたずらに経を誦(よ)み釈を学んでも、それら聖教の本意を心得ないのはたいそう可哀相なことである。文字一つ知らないで、御経や註釈を解くいとぐちもわからないような者が、たやすく称えられるようにと御工夫くだされた名号であらせられるから、この名号を称えて往生するのを易行というのである。これに反して学問を主とするのは聖道門である、この道を難行と名付ける。学問する意味を間違えて、名聞を獲たり利養を貪ったりしようと思っている人は、この次の生に浄土に生まれ得るかどうか怪しいことである、という証文もあることである。この頃専修念仏の人と聖道門のひとが、法門の勝り劣りの議論をたくらんで、我が宗こそ勝れている、他の宗は劣っている、と云いあうので、その間に聖い法に敵対する者もいできたり、法をそしる者もあらわれるのである。これはよく考えてみれば、自分で自分の奉ずる法を破り謗ることではないか。たとい余宗の人々が一緒になって、念仏はつまらぬ人のための教えである、その説くところ浅くして卑しい、と云っても、それに対してすこしも争わないで、私共のような根機の劣った凡夫、文字一つ知らぬ愚者が信じれば助かると承りて信じているのであるから、根機のすぐれた人々のためには卑しくても、私共のためにはこの上ない法であられる、たとい余の教法がすぐれているとしても、私共のためには力が足りないからそれを修めることが出来ない、われもひとも生死の迷いを離れることこそ諸仏の御本意であらせられるのであるから、私共が念仏申すのを御さまたげなさらないで下さい、と穏やかに云って、憎らしそうな気色を示さないならば、だれか敵対する者があろうか。そのうえ、争論の場処にいるといろいろの煩悩がおこる、智者はかかる場処から遠く離れるべきだ、という証文もあることである。故聖人の仰せには、この念仏の法をば信ずる衆生もあり謗る衆生もあるであろう、と釈尊がかねて説いておいてくだされたことであるから、私は既に信じたてまつっているのに、また他に謗る人がおられるので、仏の説きたもうところはいかにもまことであると知られるのである。かく仏の説きたもうところが真実であればこそ、いよいよ私共愚かな者が念仏して往生するに間違いがないと思いなさるがよい。もしひょっとして謗る人がないような場合にこそ、信ずる人はあるのにどうして謗る人がないのであろうか、と思われるであろう。こう言ったからとて、必ず人に謗られるように、というのではない。仏がかねてから、信ずる者も謗る者も両方ともあるはずだと知っておいでになって、たとい他から謗られることがあっても、この法に疑いをおこすことがないようにとお考えくだされて、説いておいてくだされたのであることを申すのである、と仰せられたことであった。
ところがこの頃の人々は、学問して他の謗りを止めさせよう、ひとえに論議問答に力を尽くそうとたくらんでおられるのであろうか。学問すればするほどいよいよ深く如来の御本意を知り、仏の大慈悲心から起こしたもう誓願の一切の衆生を、一人残さず救わねば止まぬとの広く大きなる趣をも知りて、自分などのように卑しい身であって果たして往生出来るであろうか、などと危ぶんでいる人々に対しても、弥陀仏の本願には善きと悪しきとを問わず、浄きと穢れたるとを別たず、すべて等しく憐れみ救いたもう所以を説き明かし領承せしめられるならば、それこそ学者として学問しただけのかいがあると云われよう。たまたま素直な心で本願を承って如来の思し召しのままに念仏申しておられる人に向かいてまでも、学問してこそ往生は出来るのだ、などと言いおどされるのは、これこそ法を礙げんとする魔の仕業であり、仏に怨み刃向わんとする敵の仕業である。かかる振る舞いは、ただ自分が他力の信心をいただいていないばかりでなく、さらに間違って他人までも迷わそうとするものである。これ先師の御心に背くことであるから、慎み懼れてかかる振る舞いに陥らないように気を付けねばならない。これ弥陀仏の本から願わせられる所ではないのであるから、かかる振る舞いを為す人々をばもとから憐れむべきである。

● 高史明師の現代語意訳
お経やその注釈書を読み、学問を積んでいないお仲間は、往生出来るかどうか定まっていない。などという説について、このような説は、言うほどのこともない、つまらぬ説であると言ってよいものであります。他力真実の根本を説き明かしているすべての聖教は、本願を信じ、念仏を称えるならば、成仏できると説いております。念仏のほかに、どんな学問が、往生にとって必要でありましょうか。まさに、この道理に迷うような人は、どのようになりと学問して、本願の味わいを、知るがよいのであります。お経や注釈書を読み、学問したとしても、聖教の本当のおこころが理解出来ないとは、まったくもって、お気の毒としか言い様のないことであります。文字一つ知らず、お経や注釈書の道筋をたどり知ることの出来ない人が、称え易いようにというご配慮によってもうけられているのが、南無阿弥陀仏の名号であります。ですから、念仏を称えることでもって往生させていただける念仏往生の道を行じ易いという意味で、易行と言います。学問を中心に据えているのは、聖道門であって、行じ難いという意味で、難行と呼ばれております。正しい道から外れて、学問して、世間的な名誉や利欲の思いを、自分の住処(すみか)としている人は、今のその一生を終わって、次に来るところの生において、果たして浄土への往生がかなえられるか、どうか、という証拠となる文献もあるではありませんか。(親鸞聖人88歳のときのお手紙に、法然の言葉を示して言うところの、次の言葉があります。「ふみざたして、さかさかしきひとのまいりたるをば、『往生はいかがあらんずらん』と、たしかにうけたまわりき」と。)それがこの頃では、専修念仏の人たちと、聖道門の人たちの論争をくわだてて、わが宗こそ勝れており、相手の人の宗は劣っているなどと言い出すから、念仏往生の法に対する敵も現れ、誹謗も起こってくるのであります。このようなことでは、自ら、わが法を傷つけ、誹謗しているということになりはせぬか。たとい、さまざまな宗派の人々が、いっせいに、念仏は甲斐性のない人のためのものであって、その宗は、浅薄で卑しいものであると言ってきたとしても、それにめげず争わずして、「われらのような生まれつき能のないただの人間、文字一つ知らない者も、ただ信ずれば、お助けいただける法が、念仏であることの次第を、お聞かせいただき、それを信じているのでありますれば、生まれつき勝れた能力を恵まれている上根の人には、まったくもって卑しい教えであると見えましょうとも、われらがためには、最上の法であります。たとえ念仏以外の他の教法が勝れたものであったとしましても、この身にとってみると、わが能力を超えたものでありますので、とても修行できるものではありません。われも、ひともまた、生死の迷いから解かれんことこそが、願いであり、諸仏の御本意もそこにこそあらせられるのでありますれば、念仏を称えるからといって、邪魔だてなさるということは、あってよいことではありません」ということで、憎々し気な顔をせずして言いますれば、どのような人があって、あえて仇をなそうとしましょう。なおまた、「論争のあるところには、様々な煩悩が起きるものであります。智者は、争いの場を避け、遠く離れているがよい」という証拠の文献もあることであります。 亡き親鸞聖人は仰せられていました。「念仏の法を信ずる衆生があれば、誹謗する衆生もあるはずでありますと。これが、仏のかねてより説かれておられることであれば、われは、現にいま、この法を信じたてまつるものであります。一方また、他に人あって、この法が謗られていることでもあります。(それはまさに、仏の説かれているとおりでありまして、)このことからも、仏説が真実であることがいっそうよく知られてきましょう。従って(謗る人がいたからといって、恐れることはなく、むしろ)、いよいよもって、往生は、決定されていると思いいただいてよいのであります。間違って、謗る人がいないということにでもなれば、どうして信じる人がいるのに、謗る人がいないのであろうと、思えてもまいりましょう。このように言ったからといって、決してそれは、他人にあえて、謗られようということを意味するものではありません。仏の、かねてより、信と謗がともにあるはずであることをお見透しなられて、人に疑いを抱かせまいと説きおかれたもうた、お言葉を考え、申しているのであります。」これが聖人のお言葉であります。
それが、この頃では、学問積んで、他の人の非難をやめさせ、ひたすら教理にかかわる議論や問答こそが、中心だと言わんばかりに身構えておられるようであります。学問をするのでしたら、いよいよもって阿弥陀如来のご本心を知り、悲願の広大無辺の根本を体得することが、大切であります。従って、他にあって、自分のように卑しく罪業の深い身では、往生させていただけないのではないかと、危ぶみ心配していたなら、阿弥陀仏の願いの根本には、善人悪人、あるいは清浄な人穢れた人、ということでの差別はないという趣旨を、説き、お聞かせになられるようであってこそ、学問をした者の甲斐というものでありましょう。(それがその反対に、)たまたま、阿弥陀仏の根本に相かなって、無心に念仏している人に向かって、学問をしてこそなどと言って、驚き恐れさせるということは、仏法にとっての災いの悪魔であり、仏の怨敵であります。そのような人は、自ら他力の信心が欠けているばかりでなく、道を踏みあやまって、他の人をも迷わそうとしているのであります。つつしんで、畏るべきであります。親鸞聖人の御こころに背くことを、あわせて、哀れむべきと言うほかありません。弥陀の本願にあらざることを。

● あとがき
法然上人も親鸞聖人も、中国から日本に伝わっていた経典や、経典の解説書を余すところ無く勉強されました。それは法然上人の著作『選択本願念仏集』や親鸞聖人の『教行信証』の内容を見れば、その引用文から窺い知ることが出来るようであります。法然上人も、親鸞聖人も、仏法を学問的に追求された挙句の果てに、念仏一つを選び取られ、信心に学問は必要なしと説かれたのであります。私が尊敬する師である井上善右衛門先生も、そのお師匠さんである白井成允先生も、共に倫理学者であり、井上善右衛門先生は神戸商科大学の学長まで勤められ、また白井成允先生は広島大学の学部長を勤められ、共に名誉教授に任ぜられた学問的にも一流の方々でありますが、親鸞聖人の教えを身を以って私たちにお示し下さった方々でもあります。

従いまして、私は学問が信心の礙げになるとは思えません。この章の最後に書かれてあります『学問せばいよいよ如来の御本意をしり、悲願の広大のむねをも存知して、いやしからん身にて往生はいかが、なんどとあやぶまんひとにも、本願には善悪浄穢なきおもむきをもとききかせられさふらはばこそ、学生のかひにてもさふらはめ。』と言う唯円坊の仰せを、まことにその通りだと頷くのみでありまして、これからも、私は残りの人生で様々な経験をしながら、仏法を勉強して行きたいと言う思いで一杯であります。

さて先週末のことでありますが、1月末私に多額のお布施をして頂いた東ヨーロッパの方が日本本社への出張を機に、私達夫婦の強い希望にお応え頂きまして、我が家にお立ち寄り下さいました。お忙しいスケジュールの中、午後9時半から翌朝5時までの短いご滞在ではありましたが、初対面とは思えない程にしゃべり込みまして、睡眠時間は4時間弱になってしまいました。調べてみますと、1月9日に始めてのメールを頂き、丁度2ヶ月後の3月9日に我が家にお出で下さいました。縁の不可思議を思わずには居られませんでした。


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No.683  2007.3.15

無相庵コラムの大きな節目

これまでの無相庵コラム(特に木曜コラム)は、「切羽詰った経済苦を精神的に乗り越えて行く上で仏法がどのような助けになるか」と言う事を何となくテーマとしていたように振り返っています。そして、思いも掛けない救いの手に依りましてその切羽詰った状況から脱出した今、正直なところ、筆が進まない状況にあります。

ただ、今私が思っていますことは、破綻寸前で奇跡的に救い上げられたと言う事は、私にはまだまだこれから果たさなければならない大きな使命があるはずだと言うことであります。大きな使命と申しますのは、あの中越大震災の時、車ごと山崩れに埋もれ奇跡的に救い出された男児がいましたが、あの子も私も奇跡的に助け出されたことは間違いありませんが、人間として本当に救われたと言うことになるのは、これからの人生で、社会の為、人々の為に役立ち、生き甲斐のある日々を送ることだと思っているからであります。

私の大きな使命と申しますのは、間違いなく仏法に関係することだと思っています。破綻状態にある会社経営を再興する事も、又この無相庵ホームページを続けて参りますこともその一つであるとは考えておりますが、それは大きな使命を果たす上での2次的手段だと考えております。奇跡的に救われた以上、もっともっと積極的直接的に人々の役に立つ役割があると考えております。

その役割に付きましてはある程度心に浮かんでおりますが、今しばらく心の中で温めまして、自然に具体化し開花する時を待ちたいと思っております。


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No.682  2007.3.12

歎異抄に還って―第十二章―C

● まえがき
「念仏するだけで極楽往生出来る」と言う教えを、奈良時代・平安時代に栄えた仏教の宗派(三論宗、成実宗、法相宗、倶舎宗、華厳宗、律宗、天台宗、真言宗)のいわゆる旧仏教界の人々は程度の低い教えだと蔑(さげす)んだようであります。それは分からない話ではないと思います。庶民に対しては阿弥陀仏の誓願に関して詳しく説明するよりも、「この世で苦しむ我々衆生を救いたいと言うのが阿弥陀仏の願いであり、この阿弥陀仏の願いを信じて念仏する者は全て救われるのである」と説く方が説得力があったと思われますが、仏教を哲学として捉えていた旧仏教の人々には、余りにも安易な教えとしか受け取れなかったと思います。「我が教団に入会すれば、病気は治る、お金が儲かる」と言う新興宗教に私は首を傾げてしまいますが、丁度、そのような感じではなかったかと思います。

親鸞聖人の教えは勿論そう言う批判は全く当たらないのでありますが、それらの批判に対して理論的に対応するには旧仏教界の僧侶達以上に経典を勉強した法然上人や親鸞聖人でなければ収められなかったでありましょうから、唯円坊は、批判は批判として受け流そう、決して言い争うことはすまいと言う姿勢を打ち出したのではないかと思われます。そして、この念仏の教えは元々お釈迦様が説かれたものであり、これを信じる人もあり謗る人もあると云うことであるから、謗られれば、いよいよお釈迦様の仰った通りであるから、念仏をして往生出来ることもまた間違いないことではないかと言う論法でありましょう。

原始仏教経典そのものに念仏の教えは説かれていないと思いますので、お釈迦様が念仏の教えを直接的に説かれたかどうか、唯円坊の論法には多少無理が感じられますが、お釈迦様の教えを本として生まれた大乗仏教教典の中に浄土三部経がありますので、在家信者に対してお釈迦様が説かれた教えの中に、原始仏教経典に遺されていない教えがあったのかも知れません。

●第十二章原文
経釈を読み学せざるともがら、往生不定のよしのこと。この条、すこぶる不足言の義といひつべし。他力真実のむねをあかせるもろもろの聖教は、本願を信じ念仏をまふさば仏になる、そのほかなにの学問かは往生の要なるべきや。まことにこのことはりにまよへらんひとは、いかにもいかにも学問して本願のむねをしるべきなり。経釈をよみ学すといへども聖教の本意をこころえざる条、もとも不便のことなり。一文不通にして経釈のゆくぢもしらざらんひとのとなへやすからんための名号におはします、ゆへに易行といふ。学問をむねとするは聖道門なり、難行となづく。あやまて学問して名聞利養のおもひに住するひと、順次の往生いかがあらんずらん、といふ証文もさふらふぞかし。当時専修念仏のひとと聖道門のひと、諍論をくはだてて、わが宗こそすぐれたれ、ひとの宗はおとりなり、といふほどに、法敵もいできたり謗法もおこる。これしかしながらみづからわが法を破謗するにあらずや。たとひ諸門こぞりて、念仏はかひなきひとのためなり、その宗あさしいやしといふとも、さらにあらそはずして、われらがごとく下根の凡夫、一文不通のものの信ずればたすかるよしうけたまはりて信じさふらへば、さらに上根のひとのためにはいやしくともわれらがためには最上の法にてまします、たとひ自余の教法すぐれたりともみづからがためには器量およばざればつとめがたし、われもひとも生死をはなれんことこそ諸仏の御本意にておはしませば、御さまたげあるべからずとて、にくひ気せずば、たれのひとかありてあだをなすべきや。かつは、諍論のところにはもろもろの煩悩おこる、智者遠離すべきよし、の証文さふらふにこそ。故聖人のおほせには、この法をば信ずる衆生もありそしる衆生もあるべし、と仏ときおかせたまひたることなれば、われはすでに信じたてまつる、またひとありてそしるにて、仏説まことなりけり、としられさふらふ。しかれば、往生はいよいよ一定とおもひたまふべきなり。あやまてそしるひとのさふらはざらんにこそ、いかに信ずるひとはあれどもそしるひとのなきやらんともおぼへさふらひぬべけれ。かくまふせばとて、かならずひとにそしられんとにはあらず、仏のかねて信謗ともにあるべきむねをしろしめして、ひとのうたがひをあらせじ、とときおかせたまふことをまふすなり、とこそさふらひしか。いまの世には学文してひとのそしりをやめ、ひとへに論議問答むねとせんとかまへられさふらふにや。学問せばいよいよ如来の御本意をしり、悲願の広大のむねをも存知して、いやしからん身にて往生はいかが、なんどとあやぶまんひとにも、本願には善悪浄穢なきおもむきをもとききかせられさふらはばこそ、学生のかひにてもさふらはめ。たまたまなにごころもなく本願に相応して念仏するひとをも、学文してこそなんどといひをどさるること、法の魔障なり、仏の怨敵なり、みづから他力の信心かくるのみならず、あやまて他をまよはさんとす。つつしんでおそるべし、先師の御こころにそむくことを。かねてあはれむべし、弥陀の本願にあらざることを。

● 白井成允師の現代訳
いかに念仏もうしていても、仏の説きたまえる経を誦(よ)んだり、これを解釈しまつれる賢聖の書などを学んだりしていない人々は、果たして往生するかどうかわからない、という説がある。これはもとよりあげつらうにも足らない主張というべきものである。いったい弥陀の本願他力の真実のいわれを明らかにせる諸々の聖教は、弥陀の本願を信じ念仏申せば仏に成る旨を説いておられるので、その説かれるままに念仏申すほかに、いかなる学問が往生のために必要だと云うのであろうか。まことにこの道理に迷っておるような人々はあくまでも学問して如来の本願のおぼしめしを知らねばならない。いたずらに経を誦(よ)み釈を学んでも、それら聖教の本意を心得ないのはたいそう可哀相なことである。文字一つ知らないで、御経や註釈を解くいとぐちもわからないような者が、たやすく称えられるようにと御工夫くだされた名号であらせられるから、この名号を称えて往生するのを易行というのである。これに反して学問を主とするのは聖道門である、この道を難行と名付ける。学問する意味を間違えて、名聞を獲たり利養を貪ったりしようと思っている人は、この次の生に浄土に生まれ得るかどうか怪しいことである、という証文もあることである。この頃専修念仏の人と聖道門のひとが、法門の勝り劣りの議論をたくらんで、我が宗こそ勝れている、他の宗は劣っている、と云いあうので、その間に聖い法に敵対する者もいできたり、法をそしる者もあらわれるのである。これはよく考えてみれば、自分で自分の奉ずる法を破り謗ることではないか。たとい余宗の人々が一緒になって、念仏はつまらぬ人のための教えである、その説くところ浅くして卑しい、と云っても、それに対してすこしも争わないで、私共のような根機の劣った凡夫、文字一つ知らぬ愚者が信じれば助かると承りて信じているのであるから、根機のすぐれた人々のためには卑しくても、私共のためにはこの上ない法であられる、たとい余の教法がすぐれているとしても、私共のためには力が足りないからそれを修めることが出来ない、われもひとも生死の迷いを離れることこそ諸仏の御本意であらせられるのであるから、私共が念仏申すのを御さまたげなさらないで下さい、と穏やかに云って、憎らしそうな気色を示さないならば、だれか敵対する者があろうか。そのうえ、争論の場処にいるといろいろの煩悩がおこる、智者はかかる場処から遠く離れるべきだ、という証文もあることである。故聖人の仰せには、この念仏の法をば信ずる衆生もあり謗る衆生もあるであろう、と釈尊がかねて説いておいてくだされたことであるから、私は既に信じたてまつっているのに、また他に謗る人がおられるので、仏の説きたもうところはいかにもまことであると知られるのである。かく仏の説きたもうところが真実であればこそ、いよいよ私共愚かな者が念仏して往生するに間違いがないと思いなさるがよい。もしひょっとして謗る人がないような場合にこそ、信ずる人はあるのにどうして謗る人がないのであろうか、と思われるであろう。こう言ったからとて、必ず人に謗られるように、というのではない。仏がかねてから、信ずる者も謗る者も両方ともあるはずだと知っておいでになって、たとい他から謗られることがあっても、この法に疑いをおこすことがないようにとお考えくだされて、説いておいてくだされたのであることを申すのである、と仰せられたことであった。
ところがこの頃の人々は、学問して他の謗りを止めさせよう、ひとえに論議問答に力を尽くそうとたくらんでおられるのであろうか。学問すればするほどいよいよ深く如来の御本意を知り、仏の大慈悲心から起こしたもう誓願の一切の衆生を、一人残さず救わねば止まぬとの広く大きなる趣をも知りて、自分などのように卑しい身であって果たして往生出来るであろうか、などと危ぶんでいる人々に対しても、弥陀仏の本願には善きと悪しきとを問わず、浄きと穢れたるとを別たず、すべて等しく憐れみ救いたもう所以を説き明かし領承せしめられるならば、それこそ学者として学問しただけのかいがあると云われよう。たまたま素直な心で本願を承って如来の思し召しのままに念仏申しておられる人に向かいてまでも、学問してこそ往生は出来るのだ、などと言いおどされるのは、これこそ法を礙げんとする魔の仕業であり、仏に怨み刃向わんとする敵の仕業である。かかる振る舞いは、ただ自分が他力の信心をいただいていないばかりでなく、さらに間違って他人までも迷わそうとするものである。これ先師の御心に背くことであるから、慎み懼れてかかる振る舞いに陥らないように気を付けねばならない。これ弥陀仏の本から願わせられる所ではないのであるから、かかる振る舞いを為す人々をばもとから憐れむべきである。

● 高史明師の現代語意訳
お経やその注釈書を読み、学問を積んでいないお仲間は、往生出来るかどうか定まっていない。などという説について、このような説は、言うほどのこともない、つまらぬ説であると言ってよいものであります。他力真実の根本を説き明かしているすべての聖教は、本願を信じ、念仏を称えるならば、成仏できると説いております。念仏のほかに、どんな学問が、往生にとって必要でありましょうか。まさに、この道理に迷うような人は、どのようになりと学問して、本願の味わいを、知るがよいのであります。お経や注釈書を読み、学問したとしても、聖教の本当のおこころが理解出来ないとは、まったくもって、お気の毒としか言い様のないことであります。文字一つ知らず、お経や注釈書の道筋をたどり知ることの出来ない人が、称え易いようにというご配慮によってもうけられているのが、南無阿弥陀仏の名号であります。ですから、念仏を称えることでもって往生させていただける念仏往生の道を行じ易いという意味で、易行と言います。学問を中心に据えているのは、聖道門であって、行じ難いという意味で、難行と呼ばれております。正しい道から外れて、学問して、世間的な名誉や利欲の思いを、自分の住処(すみか)としている人は、今のその一生を終わって、次に来るところの生において、果たして浄土への往生がかなえられるか、どうか、という証拠となる文献もあるではありませんか。(親鸞聖人88歳のときのお手紙に、法然の言葉を示して言うところの、次の言葉があります。「ふみざたして、さかさかしきひとのまいりたるをば、『往生はいかがあらんずらん』と、たしかにうけたまわりき」と。)それがこの頃では、専修念仏の人たちと、聖道門の人たちの論争をくわだてて、わが宗こそ勝れており、相手の人の宗は劣っているなどと言い出すから、念仏往生の法に対する敵も現れ、誹謗も起こってくるのであります。このようなことでは、自ら、わが法を傷つけ、誹謗しているということになりはせぬか。たとい、さまざまな宗派の人々が、いっせいに、念仏は甲斐性のない人のためのものであって、その宗は、浅薄で卑しいものであると言ってきたとしても、それにめげず争わずして、「われらのような生まれつき能のないただの人間、文字一つ知らない者も、ただ信ずれば、お助けいただける法が、念仏であることの次第を、お聞かせいただき、それを信じているのでありますれば、生まれつき勝れた能力を恵まれている上根の人には、まったくもって卑しい教えであると見えましょうとも、われらがためには、最上の法であります。たとえ念仏以外の他の教法が勝れたものであったとしましても、この身にとってみると、わが能力を超えたものでありますので、とても修行できるものではありません。われも、ひともまた、生死の迷いから解かれんことこそが、願いであり、諸仏の御本意もそこにこそあらせられるのでありますれば、念仏を称えるからといって、邪魔だてなさるということは、あってよいことではありません」ということで、憎々し気な顔をせずして言いますれば、どのような人があって、あえて仇をなそうとしましょう。なおまた、「論争のあるところには、様々な煩悩が起きるものであります。智者は、争いの場を避け、遠く離れているがよい」という証拠の文献もあることであります。
亡き親鸞聖人は仰せられていました。「念仏の法を信ずる衆生があれば、誹謗する衆生もあるはずでありますと。これが、仏のかねてより説かれておられることであれば、われは、現にいま、この法を信じたてまつるものであります。一方また、他に人あって、この法が謗られていることでもあります。(それはまさに、仏の説かれているとおりでありまして、)このことからも、仏説が真実であることがいっそうよく知られてきましょう。従って(謗る人がいたからといって、恐れることはなく、むしろ)、いよいよもって、往生は、決定されていると思いいただいてよいのであります。間違って、謗る人がいないということにでもなれば、どうして信じる人がいるのに、謗る人がいないのであろうと、思えてもまいりましょう。このように言ったからといって、決してそれは、他人にあえて、謗られようということを意味するものではありません。仏の、かねてより、信と謗がともにあるはずであることをお見透しなられて、人に疑いを抱かせまいと説きおかれたもうた、お言葉を考え、申しているのであります。」これが聖人のお言葉であります。
それが、この頃では、学問積んで、他の人の非難をやめさせ、ひたすら教理にかかわる議論や問答こそが、中心だと言わんばかりに身構えておられるようであります。学問をするのでしたら、いよいよもって阿弥陀如来のご本心を知り、悲願の広大無辺の根本を体得することが、大切であります。従って、他にあって、自分のように卑しく罪業の深い身では、往生させていただけないのではないかと、危ぶみ心配していたなら、阿弥陀仏の願いの根本には、善人悪人、あるいは清浄な人穢れた人、ということでの差別はないという趣旨を、説き、お聞かせになられるようであってこそ、学問をした者の甲斐というものでありましょう。(それがその反対に、)たまたま、阿弥陀仏の根本に相かなって、無心に念仏している人に向かって、学問をしてこそなどと言って、驚き恐れさせるということは、仏法にとっての災いの悪魔であり、仏の怨敵であります。そのような人は、自ら他力の信心が欠けているばかりでなく、道を踏みあやまって、他の人をも迷わそうとしているのであります。つつしんで、畏るべきであります。親鸞聖人の御こころに背くことを、あわせて、哀れむべきと言うほかありません。弥陀の本願にあらざることを。

● あとがき
念仏の教えがお釈迦様が直接説かれた教えであろうと無かろうとも、お釈迦様をこの世に送り出したのは間違いなく仏様のお働きであり、そのお働きが念仏の教えをも生み出し、善導大師、法然上人、親鸞聖人を介して私たちに届けて下さったのは間違いない事実であります。そのお働きに、ただただ報恩感謝して念仏するだけでよいのだと思います。


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No.681  2007.3.8

地獄の底に足が着いてから

昨日、私は住宅金融公庫以外の住宅ローンを繰り上げ一括返済しました。この7年間ずっと苦しめられて来た特別な事情のある住宅ローンであります。そして今日、私は62歳の誕生日を迎えました。娘の嫁ぎ先からの資金提供によって為し得た一括返済ではありますが、2月に解消したその他借財と合わせますと、本当にこんな事があって良いのだろうかと云う程の出来事でありました。

と申しますのは、今年1月に見積もりした資金繰りによりますと、6月末には資金ショートつまり手元にお金が全く無くなり、生きる上で最も大切な食生活が立ち行かなくなると云う状況になっていたからであります。そして以前のコラムで申し上げたように、不動産の差し押さえが何時実行されても致し方無いと言うところまで追い詰められていたからでもあります。それがホンの一ヶ月余りで、少なくとも今後数年の食生活は心配する必要がなくなった訳でありますから、夢のような話でなかなか信じられないと言うのが本当のところであります。

1月の苦しい時に私は、この今住んでいる家に私たち以外の誰かが住む縁を持っていれば、私たちはこの家とも別れねばならない時が来るだろうし、私たちが住み続ける縁(運命)があれば、そのようになると思っていましたが、どうやら、当分はこの家に住み続けられそうであります。そして、あの1月末の10日間近くは、私たちが地獄の底に突き当たった瞬間だったように思えてなりません。一般的に「地獄から這い上がって来た男」とか「地獄を見た男は強い」とか「地獄で仏に遇う」と言うことを申します。私は、地獄の底を思い切り蹴り上げまして、これから、上昇し続けようと思っております。それが、私たちに救いの手を差し伸べて下さった方々への唯一の恩返しになると思っているところであります。

たまたま昨日見たテレビ報道番組で、今話題になっている川内康範氏が、『黒い花びら』で一躍スターダムにのし上った水原ひろしが自らの不良行為により世間から忘れ去られて数年後、『君こそ我が命』で劇的な復活を遂げさせたエピソードが紹介されていました。水原ひろしが所属するプロダクションから、水原ひろしを復活させる歌の作詞を依頼された川内康範氏は、「水原ひろしが地獄の底(プールの底と表現されていた)に足を着かなければ、蹴り上がる力が起らないから、5人残った友人が全て居なくなるまで待たねば本当の復活は無い」、と、その時点での作詞を断ったと云う話しでありました。そして後日、頃合を見計らって作詞したのが、『君こそ我が命』だそうであります。

人間不遇になりますと友人・知人は次々と去って行きます。去って行くと言うよりも、電話やメール等によるお便りが来なくなります。残念なことには、友人・知人だけではなく兄弟姉妹、その他の親族も全く同じことであります。私の窮状を知った上で、なお付き合いを続けて下さっているのは今では正しく5人(家族)になってしまいました。 

そう云う人生の真理と真実を川内康範氏はよく見通されていたのだと思います。今も川内康範氏と森進一の間は修復される見通しが立っていませんが、恐らく、川内康範氏には、森進一の中に許しがたい『奢り(おごり)』を感じる大きな出来事が有ったに違いないと思います。そして、森進一を地獄の底に突き落として、這い上がらせ、より立派な歌手に仕立て上げよう、しかしもし這い上がらなければ、それまでの人物だと言う賭けに出ているのだと思います。

地獄の底に足を着けると言うのは、好ましいものではありません。しかし、地獄の底に足を着けなければ分からない事もあります。その時には、思い切り蹴り上がりたいものであります。


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