No.710  2007.6.18

歎異抄に還って―第十五章―完

● まえがき
白井成允先生は、ご著書『歎異抄領解』の中で、『「今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをひらく、とならひさふらふぞ」と云う御告白の中には、祖聖が法然上人にむかって抱かれた深い信頼の念と、この世の命の終わるまでは煩悩の凡夫を免れないことを知った慙愧と、このような罪業の者を必ず浄土に往生せしめ仏の覚りを開かせようとの如来のやるせなき大悲の誓願に対する純なる信とが、はっきりと窺われる。この土にして煩悩の身のままで仏の覚りを開くことができるのならば、如来の本願を頼む必要もなく、本願そのものも無意味なものとなってしまうであろう。この祖聖が先師から伝えられた深い言葉を以ってこの章が結ばれている』と言う記述がありますが、私は、未だに「かの土で覚りを開く」と言う考え方をなかなかすんなりと受け容れることが出来ないで居ます。

かの土とは勿論、お浄土のことであります。そして浄土門の教えは、浄土なくして成り立ちようが無いことも間違いないことでありますが、私は「かの土で覚りを開く」ことを「ああ、そう云うことなのか」とはなかなか納得出来ないで居ます。私が、仏法(広く言いますと、宗教)に期待するのは、「この世で心安らかな生活」を送れるようになることであり、そのためには、「仏教の覚りを得ること」ではないかと漠然と考えて来たように思います。おそらく、読者の皆さんの殆どの方も、私と同じ目的を持って仏法を求められているのではないでしょうか。

この仏法をこの世の手段と言いますか、人生を渡る上での助け舟と言うような位置付けで捉えている限りは、何よりも今生きている現実のこの世が大切であり、死んでから後の事を真剣に考えられないと言うことなのかも知れません。恐らく、この考え方が翻されて、「この世に生を受けたのは仏法に出遇うためであった」と本願力に気付かしめられた時、始めてかの土(お浄土)を感じられるようになるのではないかと想像しております。

●第十五章原文
煩悩具足の身をもてすでにさとりをひらくといふこと。この条、もてのほかのことにさふらふ。 即身成仏は真言秘教の本意、三密行業の証果なり。六根清浄はまた法華一条の諸説・四安楽の行の感徳なり。これみな難行上根のつとめ、観念成就のさとりなり。来生の開覚は他力浄土の宗旨、信心決定の道なるがゆへなり、これまた易行下根のつとめ、不簡善悪の法なり。 おほよそ、今生においては煩悩悪障を断ぜんこときはめてありがたきあひだ、真言法華を行ずる浄侶なをもて順次生のさとりをいのる。いかにいはんや戒行恵解ともになしといへども、弥陀の願船に乗じて生死の苦海をわたり、報土のきしにつきぬるものならば、煩悩の黒雲はやくはれ、法性の覚月すみやかにあらはれて、尽十方の無碍の光明に一味して、一切の衆生を利益せんときにこそ、さとりにてはさふらへ。この身をもてさとりをひらくとさふらふなるひとは、釈尊のごとく種々の応化の身をも現じ、三十二相・八十随形好をも具足して、説法利益さふらふにや。これをこそ今生にさとりをひらく本とはまふしさふらへ。
和讃にいはく、金剛堅固の信心の、さだまるときをまちえてぞ、弥陀の心光摂護して、ながく生死をへだてける、とはさふらへば信心のさだまるときにひとたび摂取してすてたまはざれば、六道に輪廻すべからず、しかればながく生死をばへだてさふらふぞかし。かくのごとくしるをさとるとはいひまぎらかすべきや。あはれにさふらふをや。
浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをひらく、とならひさふらふぞ、とこそ故聖人のおほせにはさふらひしか。

●白井成允師の現代訳

信心をいただく者は、煩悩という煩悩何一つ欠けたものもなく具えているこの身のままで、既に仏の覚りをひらくのだ、と云う者がある。これは思いもよらぬことである。
この身のままで仏となるというのは、真言宗秘密教の趣旨であって、手に大日如来の一切の徳を象徴せる印を結び、口に大日如来の一切の徳を蔵(おさ)め持てる真言を誦し、意に本尊大日如来を観じて、如来の三業がそのまま行者の三業になってしまう神秘な行を修め果たして開く証である。また、われらの眼・耳・鼻・舌・身・意の六根があらゆる垢を離れて清らかになり、それぞれ無碍自在のはたらきをなす、というのは、法華経に説かるるところであり、われら自らの身と口と意とを清めつつ他を慈しみ悲れむ誓願を起こし、すべて仏の覚りの安楽に住する行を修めることによって感得する功徳である。これら真言の法も法華の道もみなわれらには行い難く、機根のすぐれた聖者にしてはじめてできるつとめであり、それも深く観念をこらしこらしてそれができあがった暁に辛うじて達(いた)り得るさとりである。これとは異なり、この次の生において覚りを開くというのが、弥陀仏の本願力に乗ぜられて浄土へまいる真宗の趣旨であり、如来の大悲の御誓いにほだされて信心の定まった者の行く道なのであるから、この浄土の教えを聞く者にとって、この身のままで覚りを開くなどということはあるべくもないことである。まことにの教えはわれらにとりて行い易く、機根の劣った者のだれにもできる勤めであり、善人だ悪人だという差別なく皆が残らず救われてゆく法なのである。
いったい、今生においては、煩悩を断ち悪障を除いてしまうことがどうしても出来難いことであるから、真言や法華の浄い行を修める人々も、やはりこの身のままでは覚られないと思ってこの次の生で覚りを開こうと祈るのである。まして戒律をも保てず、智慧も無い我等がどうして今生に覚りを開き得ようや。しかもこのような我等でありながら、弥陀仏の本願の船に乗りて、生死の苦海を渡り、真実浄土の岸に着きさえすれば、煩悩の黒雲たちまち晴れ渡り、法性の覚りの月直ちに現れて、我等はすぐさま、かの限りなく十方を照らしつくして何ものにも碍(さ)えられることのない弥陀仏の智慧の光明に一つとなってしまって、ありとある迷いの衆生を覚りへと導かせて頂くのである。こうなってこそ、始めて真実に覚ったと云われるのである。この身のままで覚りを開くのだと云う人は、釈尊の如く、救おうとする対者の機根に応じて種々の身をも現わし、三十二の勝れた相、それにつきそう八十の立派な形などを充分に具えて、自在に法を説き衆生を救うのであろうか。こうするのをこそ今生この身で覚りを開くという趣旨に合うものと云うのである。
故聖人の和讃に『金剛堅固の信心の、さだまるときをまちえてぞ、弥陀の心光摂護して、ながく生死をへだてける』とあるが、これは遥かに遠い昔から迷いきたれるわれらを、すぐに来いよと呼びつづけ待ち続けておられた如来の大悲の至心が、ようやくわれらの胸の奥底にしみこんでしまって、この至心の御願いにほだされて、われらは浄土にまいるのだという金剛の如く堅くして崩るることなき信心が定まったとき、まさしくその時に、われらの世々生々の初事として、ひとたび如来の光明の中に摂め取られてしまって、もうどんなとがあっても決して捨てられることのない身であると気付かしめられるのであるから、もはや六道にさすらい迷うはずはないのである。その故に『ながく生死をへだて』とこしえに迷いの境から離れてしまうのである。こう知らせていただくことを覚るのだ、などとどうして云いまぎらせることができよう。そう云いまぎらせるのはいかにも気の毒なことである。
浄土真宗には今生で弥陀仏の本願を信じ、かの浄土において仏の覚りをば開くのだ、と承わっている、とこそ故親鸞聖人は仰せられた。

●高史明師の現代語意訳
身の煩い心の悩みに、絶え間なく苛(さいな)まれている今生の肉身の身でもって、すでに覚りを開くということ。この説は、とんでもない説であります。
即身成仏は、真言秘教の根本であり、三密行業によって得る覚りであります。六根清浄は、すべてのものを、等しく一つの乗物に乗せて、救わんとする『法華経』において説かれている、覚りへの道であり、四安楽の行に備わるご利益であります。これみな行ずるに困難な、能力のすぐれた方が勤めるところの、観念成就の覚りであります。(それに対して)来世において、覚りをいただかんとするのが、阿弥陀仏の真実をたのみとする、浄土の教えの根本義であり、それは信心をいただくことでもって、すべてを阿弥陀仏におまかせする信心決定の道であります。(それ故に)これは行じ易い、能力の劣った者の勤める道であり、また善人悪人ということで差別されることのない道であります。
そもそも、この世において煩悩、悪の絆を断ち切るというとは、滅多にあることではありません。ですから、真言・法華の教えを行ずる清僧でさえ、なおもって順を追って次に頂く生の、覚りを祈っていることであります。そうであれば、来生の開覚が根本義である私たちにおいて、(今生の開覚などということが、どうして言えましょう)もはや言うまでもないことであります。(私たちは教えられています)戒行・恵解ともに無し、と言うほかないこの身ではありますが、すべてのものを、平等にお救い下さると誓われた、阿弥陀仏の願いの大きな船に乗せていただき、生死流転の苦海を渡り、浄土の岸に導かれ、着きますなら、煩悩の黒雲たちまちにして晴れるのであります。すなわち、あるがままの法の覚りが、澄明な月の輝きそのままに現れ、十方世界のすべてに、遮られることのない、無碍の光明を放ち続けておられる阿弥陀仏と一体とさせて頂いて、一切の生きとし生けるものに、まことの利益を恵んでゆくことが出来るようになります。その時こそが、覚りであります。今生のこの身をもって、覚りを開くことが出来ると云われる人は、釈尊のように、万人それぞれ応じたいろいろな姿を現わし、三十二相・八十随形好のすべてを十二分に備えて、人々を説き、人々にまことの利益を恵まれているのでありましょうか。釈尊こそがまさに、今生に覚りを開いたと言える、覚りのお手本であります。
(親鸞聖人が善導大師を讃える)和讃に詠まれています。「金剛石のごとく、堅固な信心が、定まった時、そのときを待ち受けて、阿弥陀仏の、真実の智慧の光明に、摂め取られ、護られて、生死流転の苦しみから、永遠にへだてられ、お助けいただけるのです」と。信心が定まったとき、阿弥陀仏は、ただちに私たちをそのみ手に摂め取られるのであり、いったん摂め取られたからには、もうお見捨てにはなられないのでありますれば、もはや六道に輪廻することはないのであります。それ故、その後は、永遠に生死流転の苦しみに戻ることはない、と言えましょう。このように領解すべきことを、覚るなどと言って、覚りを開くことと言い紛らわしてよいものでありましょうか。信心いただくことと、仏の覚りを開くこととを混同しているとは、なんともお気の毒なことではありませんか。
「浄土真宗では、今生においては本願を信じて、浄土においてはじめて仏の覚りを開かせていただく、これが教えられ習ったところであります」これこそが、故親鸞聖人の仰せでありました。

● あとがき
次の第十六章に『廻心(えしん)』と言う熟語が出てまいりますが、私はこの廻心を浄土真宗における『覚り』の瞬間だと考えて参りました。自力の心をすてて、阿弥陀仏の本願をたのみとすること、これを『廻心』といい、また『信心が定まった』と言い、ただ一回切りの経験だとも言われますので、禅門の覚りの瞬間と同じだと受け取っていた訳であります。

しかし考えて見ますと、禅門の覚りというものも、生身の人間の覚りでありますから、煩悩が滅した訳ではないのではないかと思います。肉体を持っている限りは5欲を持っており、欲望を持っている以上、煩悩が湧き上がることは避けられないと思います。ただ、大きな力(浄土門では本願力と言います)によって生かされている我が身を覚ったならば、煩悩に身を任せた行動を取れなくなると言うことではないかと思います。

煩悩が滅した状態を覚りと定義するならば、それはやはり、この第十五章の結語の通り、覚りはこの世ではなく、肉体が滅して参るかの土で成就されるものでありましょう。


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No.709  2007.6.14

歎異抄考

私は、歎異抄は親鸞聖人の教えを理解する上で非常に大切な文献であると思っていますし、著者と思われる唯円坊にも親近感を抱いております。
しかし、歎異抄の全てが親鸞聖人のご信心の内容に一致していると云う考え方もしておりません。歎異抄を重んじる方が「もし、歎異抄が親鸞聖人の教えでは無いと言うならば、私は浄土真宗から歎異抄宗に宗旨替えしたい」とまで言われたそうでありますが、そのお気持ちは十分に理解しつつも、私はそこまで無批判にはなれません。

今、第十五章を勉強中でありますが、少し気になりますのは、『即身成仏は真言秘教の本意、三密行業の証果なり。六根清浄はまた法華一条の諸説・四安楽の行の感徳なり。これみな難行上根のつとめ、観念成就のさとりなり』と『今生においては煩悩悪障を断ぜんこときはめてありがたきあひだ、真言法華を行ずる浄侶なをもて順次生のさとりをいのる』と言う文言です。遠慮がちな表現ではありますが、「我々人間は聖道門では覚りを開くことは出来ない。その証拠に、真言法華の行者も、結局は生まれ変わった次の世での覚りを願っているのが実情ではないか」と、私達凡夫が聖道門では救われないと断定しているように受け取れます。

この歎異抄の影響からだと思いますが、現代におきましても、浄土真宗の信者と自称する人達の間には、禅門に代表される聖道門に批判的な考え方が支配的であるように感じます。むしろ、浄土真宗だけが、或いは親鸞聖人の教えだけが私達を救う唯一の仏法だとすら云わんばかりの人々さえ居られるように思われますが、それは親鸞聖人の本意ではないと私は思っております。

仏法の王道は、お釈迦様が説かれた、苦・集・滅・道の四聖諦にあります。この教えは『苦の原因が煩悩にある事を知り、その煩悩を滅すれば苦から解放される。その煩悩を吹き消すためには、八つの正しい道を歩み続けることだ』と言う教えでありますが、私は、親鸞聖人の教えを大切に思う人々が、このお釈迦様の教えを無視し、歎異抄の「生身の人間は煩悩を滅することは有り得ない」と云う言葉尻りだけを依り処として煩悩に振り回される生活に安住することがあってはならないと思います。

そう思いつつ煩悩に振り回され、そう云う自分に愕然としている私ではありますが、親鸞聖人も90年の生涯を通して、お亡くなりになる寸前まで、ご自分の心に湧き上がる煩悩と闘いつつも、八正道を歩み続けられたのだと思います。それは決して覚りを求めて、つまり煩悩を制圧しようとして八正道を歩まれたのではなくして、他力本願に目覚められた方であったが故に、自然法爾として無意識のうちに八正道を歩まれたのではないかと推察しております。

親鸞聖人の教えを学ぶ者としては、念仏・念仏と、唯、仏を念じると言う観念のみを凝らすのではなく、お釈迦様の苦・集・滅・道の四聖諦を実践しつつ歩まねばならないと思っております。素晴らしい歎異抄ではありますが、それを自分勝手に、自分の都合の良いように利用 することがあっては、唯円坊に対しましても真に申し訳ないことだと思う次第であります。


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No.708  2007.6.11

歎異抄に還って―第十五章―C

● まえがき
私は、これまで、聖道門で云う『覚りを開く』事と浄土真宗の『信心を獲得(ぎゃくとく、と読みます)する』事とは表現が異なるだけであり、同じ『大安心』の心境であると禅門の高僧・名僧方のお話から理解して参りました。また、曹洞宗を開かれた道元禅師のご著書の「自己を運びて万法を証するを迷いと為す、万法に証せらるるを覚りと為す」と言うお言葉からも、登るルートは異なっても目指すは同じ山の頂上ではないかと推察して参りました。

上述の私の推察の正否は、私自身がどちらをも経験致しておりませんので判定出来ないのがまことに歯痒く存じますが、親鸞聖人も、唯円坊も、煩悩の火が吹き消された真の涅槃(寂静の世界)に入ることを『覚りを開く』と考えて居られたようでありますので、それを判断基準と致しますと、生身の人間は煩悩を完全に滅することは出来ないと思いますので、今生で『覚りを開く』ことは不可能であると云わざるを得ず、『今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをひらく』と言うこの章の結論を頷くことが出来ます。

しかし、今日勉強する箇所で唯円坊が、「信心を獲得することは覚りを開くことではない」と言われ、親鸞聖人も、煩悩具足の凡夫が至り得る『覚りの仮免許取得の段階』として、『正定聚(しょうじょうじゅ)の位(くらい)』と言う、『信心を獲得』した「如来と等しい」境地を設定されたのではないかと私は思っていますが、何故そこまで潔癖に、覚りと信心を区別しなければならなかったのでしょうか・・・。

●第十五章原文
煩悩具足の身をもてすでにさとりをひらくといふこと。この条、もてのほかのことにさふらふ。 即身成仏は真言秘教の本意、三密行業の証果なり。六根清浄はまた法華一条の諸説・四安楽の行の感徳なり。これみな難行上根のつとめ、観念成就のさとりなり。来生の開覚は他力浄土の宗旨、信心決定の道なるがゆへなり、これまた易行下根のつとめ、不簡善悪の法なり。 おほよそ、今生においては煩悩悪障を断ぜんこときはめてありがたきあひだ、真言法華を行ずる浄侶なをもて順次生のさとりをいのる。いかにいはんや戒行恵解ともになしといへども、弥陀の願船に乗じて生死の苦海をわたり、報土のきしにつきぬるものならば、煩悩の黒雲はやくはれ、法性の覚月すみやかにあらはれて、尽十方の無碍の光明に一味して、一切の衆生を利益せんときにこそ、さとりにてはさふらへ。この身をもてさとりをひらくとさふらふなるひとは、釈尊のごとく種々の応化の身をも現じ、三十二相・八十随形好をも具足して、説法利益さふらふにや。これをこそ今生にさとりをひらく本とはまふしさふらへ。
和讃にいはく、金剛堅固の信心の、さだまるときをまちえてぞ、弥陀の心光摂護して、ながく生死をへだてける、とはさふらへば信心のさだまるときにひとたび摂取してすてたまはざれば、六道に輪廻すべからず、しかればながく生死をばへだてさふらふぞかし。かくのごとくしるをさとるとはいひまぎらかすべきや。あはれにさふらふをや。
浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをひらく、とならひさふらふぞ、とこそ故聖人のおほせにはさふらひしか。

●白井成允師の現代訳
信心をいただく者は、煩悩という煩悩何一つ欠けたものもなく具えているこの身のままで、既に仏の覚りをひらくのだ、と云う者がある。これは思いもよらぬことである。
この身のままで仏となるというのは、真言宗秘密教の趣旨であって、手に大日如来の一切の徳を象徴せる印を結び、口に大日如来の一切の徳を蔵(おさ)め持てる真言を誦し、意に本尊大日如来を観じて、如来の三業がそのまま行者の三業になってしまう神秘な行を修め果たして開く証である。また、われらの眼・耳・鼻・舌・身・意の六根があらゆる垢を離れて清らかになり、それぞれ無碍自在のはたらきをなす、というのは、法華経に説かるるところであり、われら自らの身と口と意とを清めつつ他を慈しみ悲れむ誓願を起こし、すべて仏の覚りの安楽に住する行を修めることによって感得する功徳である。これら真言の法も法華の道もみなわれらには行い難く、機根のすぐれた聖者にしてはじめてできるつとめであり、それも深く観念をこらしこらしてそれができあがった暁に辛うじて達(いた)り得るさとりである。これとは異なり、この次の生において覚りを開くというのが、弥陀仏の本願力に乗ぜられて浄土へまいる真宗の趣旨であり、如来の大悲の御誓いにほだされて信心の定まった者の行く道なのであるから、この浄土の教えを聞く者にとって、この身のままで覚りを開くなどということはあるべくもないことである。まことにの教えはわれらにとりて行い易く、機根の劣った者のだれにもできる勤めであり、善人だ悪人だという差別なく皆が残らず救われてゆく法なのである。
いったい、今生においては、煩悩を断ち悪障を除いてしまうことがどうしても出来難いことであるから、真言や法華の浄い行を修める人々も、やはりこの身のままでは覚られないと思ってこの次の生で覚りを開こうと祈るのである。まして戒律をも保てず、智慧も無い我等がどうして今生に覚りを開き得ようや。しかもこのような我等でありながら、弥陀仏の本願の船に乗りて、生死の苦海を渡り、真実浄土の岸に着きさえすれば、煩悩の黒雲たちまち晴れ渡り、法性の覚りの月直ちに現れて、我等はすぐさま、かの限りなく十方を照らしつくして何ものにも碍(さ)えられることのない弥陀仏の智慧の光明に一つとなってしまって、ありとある迷いの衆生を覚りへと導かせて頂くのである。こうなってこそ、始めて真実に覚ったと云われるのである。この身のままで覚りを開くのだと云う人は、釈尊の如く、救おうとする対者の機根に応じて種々の身をも現わし、三十二の勝れた相、それにつきそう八十の立派な形などを充分に具えて、自在に法を説き衆生を救うのであろうか。こうするのをこそ今生この身で覚りを開くという趣旨に合うものと云うのである。
故聖人の和讃に『金剛堅固の信心の、さだまるときをまちえてぞ、弥陀の心光摂護して、ながく生死をへだてける』とあるが、これは遥かに遠い昔から迷いきたれるわれらを、すぐに来いよと呼びつづけ待ち続けておられた如来の大悲の至心が、ようやくわれらの胸の奥底にしみこんでしまって、この至心の御願いにほだされて、われらは浄土にまいるのだという金剛の如く堅くして崩るることなき信心が定まったとき、まさしくその時に、われらの世々生々の初事として、ひとたび如来の光明の中に摂め取られてしまって、もうどんなとがあっても決して捨てられることのない身であると気付かしめられるのであるから、もはや六道にさすらい迷うはずはないのである。その故に『ながく生死をへだて』とこしえに迷いの境から離れてしまうのである。こう知らせていただくことを覚るのだ、などとどうして云いまぎらせることができよう。そう云いまぎらせるのはいかにも気の毒なことである。
浄土真宗には今生で弥陀仏の本願を信じ、かの浄土において仏の覚りをば開くのだ、と承わっている、とこそ故親鸞聖人は仰せられた。

●高史明師の現代語意訳
身の煩い心の悩みに、絶え間なく苛(さいな)まれている今生の肉身の身でもって、すでに覚りを開くということ。この説は、とんでもない説であります。
即身成仏は、真言秘教の根本であり、三密行業によって得る覚りであります。六根清浄は、すべてのものを、等しく一つの乗物に乗せて、救わんとする『法華経』において説かれている、覚りへの道であり、四安楽の行に備わるご利益であります。これみな行ずるに困難な、能力のすぐれた方が勤めるところの、観念成就の覚りであります。(それに対して)来世において、覚りをいただかんとするのが、阿弥陀仏の真実をたのみとする、浄土の教えの根本義であり、それは信心をいただくことでもって、すべてを阿弥陀仏におまかせする信心決定の道であります。(それ故に)これは行じ易い、能力の劣った者の勤める道であり、また善人悪人ということで差別されることのない道であります。
そもそも、この世において煩悩、悪の絆を断ち切るというとは、滅多にあることではありません。ですから、真言・法華の教えを行ずる清僧でさえ、なおもって順を追って次に頂く生の、覚りを祈っていることであります。そうであれば、来生の開覚が根本義である私たちにおいて、(今生の開覚などということが、どうして言えましょう)もはや言うまでもないことであります。(私たちは教えられています)戒行・恵解ともに無し、と言うほかないこの身ではありますが、すべてのものを、平等にお救い下さると誓われた、阿弥陀仏の願いの大きな船に乗せていただき、生死流転の苦海を渡り、浄土の岸に導かれ、着きますなら、煩悩の黒雲たちまちにして晴れるのであります。すなわち、あるがままの法の覚りが、澄明な月の輝きそのままに現れ、十方世界のすべてに、遮られることのない、無碍の光明を放ち続けておられる阿弥陀仏と一体とさせて頂いて、一切の生きとし生けるものに、まことの利益を恵んでゆくことが出来るようになります。その時こそが、覚りであります。今生のこの身をもって、覚りを開くことが出来ると云われる人は、釈尊のように、万人それぞれ応じたいろいろな姿を現わし、三十二相・八十随形好のすべてを十二分に備えて、人々を説き、人々にまことの利益を恵まれているのでありましょうか。釈尊こそがまさに、今生に覚りを開いたと言える、覚りのお手本であります。
(親鸞聖人が善導大師を讃える)和讃に詠まれています。「金剛石のごとく、堅固な信心が、定まった時、そのときを待ち受けて、阿弥陀仏の、真実の智慧の光明に、摂め取られ、護られて、生死流転の苦しみから、永遠にへだてられ、お助けいただけるのです」と。信心が定まったとき、阿弥陀仏は、ただちに私たちをそのみ手に摂め取られるのであり、いったん摂め取られたからには、もうお見捨てにはなられないのでありますれば、もはや六道に輪廻することはないのであります。それ故、その後は、永遠に生死流転の苦しみに戻ることはない、と言えましょう。このように領解すべきことを、覚るなどと言って、覚りを開くことと言い紛らわしてよいものでありましょうか。信心いただくことと、仏の覚りを開くこととを混同しているとは、なんともお気の毒なことではありませんか。
「浄土真宗では、今生においては本願を信じて、浄土においてはじめて仏の覚りを開かせていただく、これが教えられ習ったところであります」これこそが、故親鸞聖人の仰せでありました。

● あとがき
欧米に禅を伝えた禅者として有名な鈴木大拙師は、浄土真宗の妙好人(学問の素養無くして信心獲得した人)の中のお一人浅原才市翁について研究され、才市翁の信心は禅の覚りの心境そのものであると申されています。また南禅寺官長であられた故柴山全慶老師も、同じ事を申されていました。「他力には自力も他力もなし、ただ一面の他力なり」と言う浅原才市翁の言葉を是とする禅門もまた究めれば、他力の世界なのだと思います(私は真言密教などの即身成仏を求めての行や、又あの死を覚悟して行うと云われる天台宗の千日回峰行の仏教上の位置付けに関しまして言及する知識を持ち合わせておりませんので、言及出来ません)。

ただ、私は浄土真宗一辺倒の者ではございませんので、何故覚りは浄土往生してからであると云わねばならないのか未だ納得出来ていません。何故この世ではない浄土と言う世界を打建てなければならなかったのか、私の心の奥底に疑問が残っております。そして、『浄土真宗は今生においては本願を信じて、浄土においてはじめて仏の覚りを開かせていただく』と言うこの第十五章の約800年前の結論を、宇宙の実体を垣間見出した現代人が容易に受け容れられるものかどうか密かに疑問を抱いているところであります。

宇宙の真理・実体を人間が図り知ることは出来ない、仏法は人智を超えたものであり、科学するものではないとも言われております。私も科学を勉強しているものとして、その通りだと思います一方、現代の科学的知識を勉強した普通の人間として私は仏法を勉強して行き、何時かは、「他力には自力も他力もなし、ただ一面の他力なり」と目覚めたいと考えております。「自力の限りを尽くさなければ本当の他力は無い」と言うことは法然上人や親鸞聖人の歩まれた道が物語っていると考えております。


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No.707  2007.6.7

二度とない人生だから

       二度とない人生だから
       一輪の花にも
       無限の愛をそそいでゆこう
       一羽の鳥の声にも
       無心の耳をかたむけてゆこう

       二度とない人生だから
       つゆくさのつゆにも
       めぐりあいのふしぎを思い
       足をとどめてゆこう

これは、仏法者でもあった詩人の坂村真民さんの詩であります。私は、朝夕約1時間半のウォーキングを楽しんでいますが、歩道の街路樹や公園の木々や野花を目にする時、或いは餌さを求めて飛び交う鳥達を目にする時、しばしばこの詩を思い出します。そして最近は、人間の私も、草花、街路樹、鳥達も、一つの大きな命と云う大自然・大宇宙の働きの現われではないかと考えたりして歩いています。

しかし同時に、「同じ一つの命である草花や鳥達は無心に咲き、無心に鳴いているのに、何故人間である私は無心ではないのだろうか?」と・・・。

そこで、思い直してみました。「無心でないことも含めて、私は今、人間と言うかけがえの無い命を授かっているんだ」と・・・。そして、やはり二度とない人生だから、人生の偉大な先輩・先師方が受け継いで来た仏法を聞き続けてゆこうと思っているところであります。


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No.706  2007.6.4

歎異抄に還って―第十五章―B

● まえがき
さて、この章の結論は最初にも申しましたように、私たち凡夫がこの世で覚りを開くことは先ず有り得ないと言うことであります。さて、ここまで勉強して来まして、「この第十五章で云う覚りとは一体どのようなことと考えて、この世では覚りを開けないと言っているのだろうか」と言う疑問が出て参りました。

私たちが仏法を求める動機は、大方の人の場合苦しみたくない苦悩から解放されたいと言うところにあると思いますが、生身の肉体を持っている限りは煩悩を消し去ることが出来ないと言うことから致しますと、親鸞聖人は、「この世にある限りは苦悩から解放されることは無い」とおっしゃっておられることになり、仏法を求める者に取りましては、大変ショッキングなことになります。「覚りが開けるのは死んでからである」、そして「本願を信じればあの世で覚りが開けることは間違いが無い」と言うことでありますが、「死んでから苦悩から解放されても・・・」と、どうにも納得出来ないと言うことになりはしないでしょうか。

私が未だ浄土の真宗の信心を得られていないからですが、一般の方々に、それでは何故救われることになるのか、『正定聚の位』と言う信心の心模様はどんなものかを自分の言葉で説明することが出来ません。夫々の方が、実感して頂くより他はないものと存じますが、あとがきで、私の推測を申し述べさせて頂こうと思います。

●第十五章原文
煩悩具足の身をもてすでにさとりをひらくといふこと。この条、もてのほかのことにさふらふ。 即身成仏は真言秘教の本意、三密行業の証果なり。六根清浄はまた法華一条の諸説・四安楽の行の感徳なり。これみな難行上根のつとめ、観念成就のさとりなり。来生の開覚は他力浄土の宗旨、信心決定の道なるがゆへなり、これまた易行下根のつとめ、不簡善悪の法なり。 おほよそ、今生においては煩悩悪障を断ぜんこときはめてありがたきあひだ、真言法華を行ずる浄侶なをもて順次生のさとりをいのる。いかにいはんや戒行恵解ともになしといへども、弥陀の願船に乗じて生死の苦海をわたり、報土のきしにつきぬるものならば、煩悩の黒雲はやくはれ、法性の覚月すみやかにあらはれて、尽十方の無碍の光明に一味して、一切の衆生を利益せんときにこそ、さとりにてはさふらへ。この身をもてさとりをひらくとさふらふなるひとは、釈尊のごとく種々の応化の身をも現じ、三十二相・八十随形好をも具足して、説法利益さふらふにや。これをこそ今生にさとりをひらく本とはまふしさふらへ。
和讃にいはく、金剛堅固の信心の、さだまるときをまちえてぞ、弥陀の心光摂護して、ながく生死をへだてける、とはさふらへば信心のさだまるときにひとたび摂取してすてたまはざれば、六道に輪廻すべからず、しかればながく生死をばへだてさふらふぞかし。かくのごとくしるをさとるとはいひまぎらかすべきや。あはれにさふらふをや。
浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをひらく、とならひさふらふぞ、とこそ故聖人のおほせにはさふらひしか。

●白井成允師の現代訳
信心をいただく者は、煩悩という煩悩何一つ欠けたものもなく具えているこの身のままで、既に仏の覚りをひらくのだ、と云う者がある。これは思いもよらぬことである。
この身のままで仏となるというのは、真言宗秘密教の趣旨であって、手に大日如来の一切の徳を象徴せる印を結び、口に大日如来の一切の徳を蔵(おさ)め持てる真言を誦し、意に本尊大日如来を観じて、如来の三業がそのまま行者の三業になってしまう神秘な行を修め果たして開く証である。また、われらの眼・耳・鼻・舌・身・意の六根があらゆる垢を離れて清らかになり、それぞれ無碍自在のはたらきをなす、というのは、法華経に説かるるところであり、われら自らの身と口と意とを清めつつ他を慈しみ悲れむ誓願を起こし、すべて仏の覚りの安楽に住する行を修めることによって感得する功徳である。これら真言の法も法華の道もみなわれらには行い難く、機根のすぐれた聖者にしてはじめてできるつとめであり、それも深く観念をこらしこらしてそれができあがった暁に辛うじて達(いた)り得るさとりである。これとは異なり、この次の生において覚りを開くというのが、弥陀仏の本願力に乗ぜられて浄土へまいる真宗の趣旨であり、如来の大悲の御誓いにほだされて信心の定まった者の行く道なのであるから、この浄土の教えを聞く者にとって、この身のままで覚りを開くなどということはあるべくもないことである。まことにの教えはわれらにとりて行い易く、機根の劣った者のだれにもできる勤めであり、善人だ悪人だという差別なく皆が残らず救われてゆく法なのである。
いったい、今生においては、煩悩を断ち悪障を除いてしまうことがどうしても出来難いことであるから、真言や法華の浄い行を修める人々も、やはりこの身のままでは覚られないと思ってこの次の生で覚りを開こうと祈るのである。まして戒律をも保てず、智慧も無い我等がどうして今生に覚りを開き得ようや。しかもこのような我等でありながら、弥陀仏の本願の船に乗りて、生死の苦海を渡り、真実浄土の岸に着きさえすれば、煩悩の黒雲たちまち晴れ渡り、法性の覚りの月直ちに現れて、我等はすぐさま、かの限りなく十方を照らしつくして何ものにも碍(さ)えられることのない弥陀仏の智慧の光明に一つとなってしまって、ありとある迷いの衆生を覚りへと導かせて頂くのである。こうなってこそ、始めて真実に覚ったと云われるのである。この身のままで覚りを開くのだと云う人は、釈尊の如く、救おうとする対者の機根に応じて種々の身をも現わし、三十二の勝れた相、それにつきそう八十の立派な形などを充分に具えて、自在に法を説き衆生を救うのであろうか。こうするのをこそ今生この身で覚りを開くという趣旨に合うものと云うのである。

(中略)

浄土真宗には今生で弥陀仏の本願を信じ、かの浄土において仏の覚りをば開くのだ、と承わっている、とこそ故親鸞聖人は仰せられた。

●高史明師の現代語意訳
身の煩い心の悩みに、絶え間なく苛(さいな)まれている今生の肉身の身でもって、すでに覚りを開くということ。この説は、とんでもない説であります。
即身成仏は、真言秘教の根本であり、三密行業によって得る覚りであります。六根清浄は、すべてのものを、等しく一つの乗物に乗せて、救わんとする『法華経』において説かれている、覚りへの道であり、四安楽の行に備わるご利益であります。これみな行ずるに困難な、能力のすぐれた方が勤めるところの、観念成就の覚りであります。(それに対して)来世において、覚りをいただかんとするのが、阿弥陀仏の真実をたのみとする、浄土の教えの根本義であり、それは信心をいただくことでもって、すべてを阿弥陀仏におまかせする信心決定の道であります。(それ故に)これは行じ易い、能力の劣った者の勤める道であり、また善人悪人ということで差別されることのない道であります。
そもそも、この世において煩悩、悪の絆を断ち切るというとは、滅多にあることではありません。ですから、真言・法華の教えを行ずる清僧でさえ、なおもって順を追って次に頂く生の、覚りを祈っていることであります。そうであれば、来生の開覚が根本義である私たちにおいて、(今生の開覚などということが、どうして言えましょう)もはや言うまでもないことであります。(私たちは教えられています)戒行・恵解ともに無し、と言うほかないこの身ではありますが、すべてのものを、平等にお救い下さると誓われた、阿弥陀仏の願いの大きな船に乗せていただき、生死流転の苦海を渡り、浄土の岸に導かれ、着きますなら、煩悩の黒雲たちまちにして晴れるのであります。すなわち、あるがままの法の覚りが、澄明な月の輝きそのままに現れ、十方世界のすべてに、遮られることのない、無碍の光明を放ち続けておられる阿弥陀仏と一体とさせて頂いて、一切の生きとし生けるものに、まことの利益を恵んでゆくことが出来るようになります。その時こそが、覚りであります。今生のこの身をもって、覚りを開くことが出来ると云われる人は、釈尊のように、万人それぞれ応じたいろいろな姿を現わし、三十二相・八十随形好のすべてを十二分に備えて、人々を説き、人々にまことの利益を恵まれているのでありましょうか。釈尊こそがまさに、今生に覚りを開いたと言える、覚りのお手本であります。

(中略)

「浄土真宗では、今生においては本願を信じて、浄土においてはじめて仏の覚りを開かせていただく、これが教えられ習ったところであります」これこそが、故親鸞聖人の仰せでありました。

● あとがき
まえがき≠ナ、親鸞聖人の教えで救われるとはどう云うことかを私自身の言葉で説明出来ませんと申しましたが、それは、私が『煩悩具足の凡夫』であると云う自覚が徹底されていないからだと考察しております。もし、私が親鸞聖人と同様の自覚、つまり「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。さればそくばくの業をもちける身にてありけるをたすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と言う慙愧心が心に芽生えましたならば、恐らく、本願を信じ、阿弥陀仏の救いを信じる事になるのだろうと推察しているところであります。

しかし、「真言・法華の修行を続ければ覚りが開けると思うならばそれははっきり云って驕慢至極であり、進むべき道を最初から踏み外している」と言うのが、唯円坊がこの第十五章で言い残したかったことではないかと思いますが、そう言う考え方から致しますと、親鸞聖人のような方と同じように、私が『煩悩具足の凡夫』だと自覚出来ると思うのもまた驕慢ではないかと思います。

こう云う驕慢至極の者が救われる道は、ただ一つ、「善き人の仰せを信じるより他には無い」のではないかと思われますが、それもまた簡単なことではありません。親鸞聖人が正信偈の中で、他力の信心を獲ることは『難中の難』と言われた所以であろうと思い、私は少し慰められる想いが致しております。


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No.705  2007.5.31

浄土に関する考察

私は浄土真宗の門徒ではありませんが、親鸞聖人を敬愛しています。祖師方の中では最も共感を覚える方でもあります。しかし、私は未だ浄土へ往生することを心の底から願う気持ちにはなっていませんし、本当のところ、浄土を信じるには至っておりません。私のお師匠さんである井上善右衛門先生や白井成允先生は、どのような信じ方かは分かりませんが、浄土を信じ、浄土往生を願い且つ信じて居られたことは間違いないと思っておりますので、私自身もそうなりたいと思っている事もまた本当のところでありますが、未だ為し得ておりません。

前回の木曜コラム『本願力と万有引力』に申し述べました様に、『本願力』はその働きを自分自身が感じますので、信じていると言ってよいと思いますし、『本願力』が『阿弥陀仏のお力』であると云うことも今は信じております。そして、阿弥陀仏に関しましても、「阿弥陀仏と称するものが、本願力のみならず万有引力もそして私達の本能や、この地球上のあらゆる現象を引き起こし、宇宙全体の動きをも引き起こす、宇宙の働き、宇宙の真実・真理・法則そのものである」と捉えております。

しかし、『お浄土』に付きましては、今ひとつイメージが湧いておりません。私達の『命の故郷』だと言う捉え方もあります。故金治勇先生は、『命の命』と言う言葉で私達の命が還るところを『お浄土』と説明されていたと思いますが、還るとか、往くと聞きますと、どうしても空間的な場所を探し求めてしまいまして、未だ心にしっくりと来ないままであります。

浄土門の祖師方が信じて居られた『お浄土』を、何故私には信じることが出来ないのかと常々悶々としながら考察しておりますが、祖師方が生きて居られた今から700年前の13世紀以前までの人達は、地球が円いことも、地球が太陽の周りを廻っていることも、宇宙に輝く月や星の実体、宇宙の成り立ちや大きさに付きましても、全く知りませんでしたし、考え及ばないことでもありましたので、西方の遠い遠い空の上に『お浄土』があるかも知れないとイメージし易かったのではないかと想像したりしています。

人間の思考は、その時点の科学的知識に左右されるものであると思います。人間が現実としてその地面を歩いて知ってしまった月と、うさぎが居るかも知れないと『お月様』と呼んでいた月とでは、月と言う言葉そのものから受けるイメージが全く異なっています。「死ねばお星様になる」と子供達に言い聞かせていた時代はもう遠い昔の話にもなっているのだと思いもします。

実際のところ、お釈迦様が生きて居られた時代には、須弥山の絵のように、私達の住んでいる地球は果てし無く広がる平面状態に在ると捉えられていたようでありますので、2500年後の私達の世界観、宇宙観とは随分隔たりがあって当然ではないかと思います。

人間が抱える苦悩は、自己愛を出発点としている以上、時代が異なりましても、本質的には変わるものでないと思いますので、その苦悩を解決する上で仏法が説くところは真理であると思いますが、『お浄土へ往く』事が最終的な救いとなると言う考え方は、私を含めて現代人にはなかなか受け入れ難いものではないだろうかと思います。

そう言う意味から、親鸞聖人がこの世で『正定聚の位』と言う「仏様と等しい」とされる心境を設定された事は、示唆に富んだ教えではないだろうかと考察しているところであります。取り留めの無い話になってしまいましたが、お浄土がなかなか願わしいところにならない私の現状をそのまま申し述べさせて頂いた次第であります。


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No.704  2007.5.28

歎異抄に還って―第十五章―A

● まえがき
浄土門の考え方は、生身を持つ人間が煩悩を断じて覚りを開くと言うことは有り得ないと言うものですが、親鸞聖人が生まれる約400年前に真言宗を開いた空海(弘法大師、774年〜835年)が即身成仏したとされている事を親鸞聖人は、どのように受け取られていたのでしょうか。
遺されている文献からは、浄土門は下品下生(人格の劣った下根)のために開かれている教えであるとされていますので、親鸞聖人ご自身は同じ生身の人間でも即身成仏する事も有り得ると考えて居られたのではないかと思います。

私は自分が本当に下品下生とは自覚出来ていませんから、即身成仏ということは錯覚であって、生身の人間が到達出来るはずがないと考えています。私がこの第十五章の文面を読み取ります限りは、唯円坊も私と同様心の底では、真言宗の即身成仏も法華の覚りも本当の覚りではないと考えているように思われます。

しかし、現実としてお釈迦様は生身のまま覚りを開かれましたし、趙州和尚や白隠禅師等、中国や日本の禅門の祖師方が覚りを開かれたことは疑いようもありませんので、生身を抱える人間も過去世からの業(DNA)とこの世における縁(生育環境と出遇い)によって覚りを開くことが出来ると言うのが、仏教主流の考え方ではないかと思います。

●第十五章原文
煩悩具足の身をもてすでにさとりをひらくといふこと。この条、もてのほかのことにさふらふ。
即身成仏は真言秘教の本意、三密行業の証果なり。六根清浄はまた法華一条の諸説・四安楽の行の感徳なり。これみな難行上根のつとめ、観念成就のさとりなり。来生の開覚は他力浄土の宗旨、信心決定の道なるがゆへなり、これまた易行下根のつとめ、不簡善悪の法なり。 おほよそ、今生においては煩悩悪障を断ぜんこときはめてありがたきあひだ、真言法華を行ずる浄侶なをもて順次生のさとりをいのる。いかにいはんや戒行恵解ともになしといへども、弥陀の願船に乗じて生死の苦海をわたり、報土のきしにつきぬるものならば、煩悩の黒雲はやくはれ、法性の覚月すみやかにあらはれて、尽十方の無碍の光明に一味して、一切の衆生を利益せんときにこそ、さとりにてはさふらへ。この身をもてさとりをひらくとさふらふなるひとは、釈尊のごとく種々の応化の身をも現じ、三十二相・八十随形好をも具足して、説法利益さふらふにや。これをこそ今生にさとりをひらく本とはまふしさふらへ。
和讃にいはく、金剛堅固の信心の、さだまるときをまちえてぞ、弥陀の心光摂護して、ながく生死をへだてける、とはさふらへば信心のさだまるときにひとたび摂取してすてたまはざれば、六道に輪廻すべからず、しかればながく生死をばへだてさふらふぞかし。かくのごとくしるをさとるとはいひまぎらかすべきや。あはれにさふらふをや。
浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをひらく、とならひさふらふぞ、とこそ故聖人のおほせにはさふらひしか。

●白井成允師の現代訳
信心をいただく者は、煩悩という煩悩何一つ欠けたものもなく具えているこの身のままで、既に仏の覚りをひらくのだ、と云う者がある。これは思いもよらぬことである。
この身のままで仏となるというのは、真言宗秘密教の趣旨であって、手に大日如来の一切の徳を象徴せる印を結び、口に大日如来の一切の徳を蔵(おさ)め持てる真言を誦し、意に本尊大日如来を観じて、如来の三業がそのまま行者の三業になってしまう神秘な行を修め果たして開く証である。また、われらの眼・耳・鼻・舌・身・意の六根があらゆる垢を離れて清らかになり、それぞれ無碍自在のはたらきをなす、というのは、法華経に説かるるところであり、われら自らの身と口と意とを清めつつ他を慈しみ悲れむ誓願を起こし、すべて仏の覚りの安楽に住する行を修めることによって感得する功徳である。これら真言の法も法華の道もみなわれらには行い難く、機根のすぐれた聖者にしてはじめてできるつとめであり、それも深く観念をこらしこらしてそれができあがった暁に辛うじて達(いた)り得るさとりである。これとは異なり、この次の生において覚りを開くというのが、弥陀仏の本願力に乗ぜられて浄土へまいる真宗の趣旨であり、如来の大悲の御誓いにほだされて信心の定まった者の行く道なのであるから、この浄土の教えを聞く者にとって、この身のままで覚りを開くなどということはあるべくもないことである。まことにの教えはわれらにとりて行い易く、機根の劣った者のだれにもできる勤めであり、善人だ悪人だという差別なく皆が残らず救われてゆく法なのである。

(中略)

浄土真宗には今生で弥陀仏の本願を信じ、かの浄土において仏の覚りをば開くのだ、と承わっている、とこそ故親鸞聖人は仰せられた。

●高史明師の現代語意訳
身の煩い心の悩みに、絶え間なく苛(さいな)まれている今生の肉身の身でもって、すでに覚りを開くということ。この説は、とんでもない説であります。
即身成仏は、真言秘教の根本であり、三密行業によって得る覚りであります。六根清浄は、すべてのものを、等しく一つの乗物に乗せて、救わんとする『法華経』において説かれている、覚りへの道であり、四安楽の行に備わるご利益であります。これみな行ずるに困難な、能力のすぐれた方が勤めるところの、観念成就の覚りであります。(それに対して)来世において、覚りをいただかんとするのが、阿弥陀仏の真実ををたのみとする、浄土の教えの根本義であり、それは信心をいただくことでもって、すべてを阿弥陀仏におまかせする信心決定の道であります。(それ故に)これは行じ易い、能力の劣った者の勤める道であり、また善人悪人ということで差別されることのない道であります。

(中略)

「浄土真宗では、今生においては本願を信じて、浄土においてはじめて仏の覚りを開かせていただく、これが教えられ習ったところであります」これこそが、故親鸞聖人の仰せでありました。

● あとがき
覚りを開いていない私には、「覚りとはどう云うことなのか」と言う問いに即答出来かねますが、推測として「生死を超える事」ではないかと思っております。しかし、それは死が怖くないと云うことではなく、死を前提とした生の素晴らしさに本当の眼が開いたと言うべきではないかと推量しておりますが、本当のところはどうでしょうか?

現代に生きる私と唯円坊にはかなり考え方の隔たりがあります。唯円坊のお考えが親鸞聖人ご自身のお考えとは少し違う部分もあるのではないかとも思われますが・・・さて?


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No.703  2007.5.24

万有引力と本願力

ニュートン(1643〜1727年)はリンゴが木から落ちるのを見て、すべての物と物の間に引き 合う力が働いていることを発見した(気が付いた)と言う話があります。これはどうやら作り話だそうでありますが、ニュートンが万有引力(ばんゆういんりょく)を発見したことは事実であります。全ての物と云うことは、宇宙に存在する無数の星達を含めまして、全ての物(気体、液体、固体)に、この万有引力が働いていると言うことであります。

この万有引力があるからこそ、地球は太陽の周りを安定して廻り続け、殆ど一定の気温が保たれ、そして日本は毎年四季を楽しむ事が出来ているのだと思います。また気象予報、衛星放送の恩恵を受けられているのも、万有引力を利用して人工衛星が地球の周りを廻り得ているからなのだろうと思います。

さて、物には遍(あまね)く万有引力が働いていることから、私達の命にも何かの力が働いていると考えてもいいのではないかと思います。万有引力そのものを私達の五感で感じることは出来ません。しかし、リンゴが木から落ちる現象を見て推測出来ます。私達が地球上に立っていられることからも確信されます。それと同じように、法然上人や親鸞聖人が確信された阿弥陀仏の本願力或いは他力が私達の命或いは心に働いていると考えられるのではないかと思います。阿弥陀仏を信じなくとも、また仏教徒でなくとも、殆どの人が物心付く頃には「より良く生きたい」「人間としての命を全うしたい」と、誰に教えられなくとも願いを持ちますのは、私達の命や心に、『そう思わせる力』が働いているからなのではないかと思います。その力に素直に従って生きることが、極自然のことでありましょう。それを仏教、特に親鸞聖人は『自然法爾(じねんほうに)』の生き方、他力本願に身を委ねて生きる姿勢だと覚られたのではないでしょうか。

私達人間や他の生き物には、この他に、種を維持保存して行こうとする力が働いています。あらゆる 本能もそう言う力でありましょう。私達人間にそう言う本能的な力が働いていることも真実、より良く生きたいと思わせる力が働いていることも、万有引力と同じように真実であろうと思います。あらゆる力の働きのお陰で今この地球上に命を咲かせられていることを思い、『天命のあるがままに人事を尽くして参りたい』ものだと思っている次第であります。


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No.702  2007.5.21

歎異抄に還って―第十五章―@

● まえがき
この第十五章は、悟り(覚り)についての親鸞聖人のお立場を唯円坊が書き残してくれた章であります。「私達凡夫と言うものは、この世で生きながらにして悟りを開くと言うようなことは絶対に無い」と言うものでありますが、親鸞聖人ご自身が本当にこのように明言されたかどうかは分かりません。親鸞聖人は正信偈に『不断煩悩得涅槃』、すなわち「煩悩を滅し切れないままに涅槃、つまり覚りを開かせて頂ける」と言う言葉を遺されていますが、一方で、あの世に往生したら必ず成仏する事が約束された『正定聚の位』なるものを私達にお示しになられていますので、悟り(覚り)と言うものの定義・判定基準をどう捉えるかによって、ある時はこの世で既に悟ったも同然と言われ、またある時は、煩悩を完全に断ち切ることが出来ない生身の私達が悟れるはずがないとも言われたのではないかと推察しております。

今回は、冒頭と結語において示されている、浄土真宗の悟りに関する立場を先ずはご紹介するに留めたいと思いますが、この章で使われている『浄土真宗』と言う熟語は、宗派の名称ではなく、「浄土に往生して仏の覚りを開くことを教える真実の教え」を意味するものであり、『浄土の真宗』と言い換える方がよいと思います。

●第十五章原文
煩悩具足の身をもてすでにさとりをひらくといふこと。この条、もてのほかのことにさふらふ。
即身成仏は真言秘教の本意、三密行業の証果なり。六根清浄はまた法華一条の諸説・四安楽の行の感徳なり。これみな難行上根のつとめ、観念成就のさとりなり。来生の開覚は他力浄土の宗旨、信心決定の道なるがゆへなり、これまた易行下根のつとめ、不簡善悪の法なり。
おほよそ、今生においては煩悩悪障を断ぜんこときはめてありがたきあひだ、真言法華を行ずる浄侶なをもて順次生のさとりをいのる。いかにいはんや戒行恵解ともになしといへども、弥陀の願船に乗じて生死の苦海をわたり、報土のきしにつきぬるものならば、煩悩の黒雲はやくはれ、法性の覚月すみやかにあらはれて、尽十方の無碍の光明に一味して、一切の衆生を利益せんときにこそ、さとりにてはさふらへ。この身をもてさとりをひらくとさふらふなるひとは、釈尊のごとく種々の応化の身をも現じ、三十二相・八十随形好をも具足して、説法利益さふらふにや。これをこそ今生にさとりをひらく本とはまふしさふらへ。
和讃にいはく、金剛堅固の信心の、さだまるときをまちえてぞ、弥陀の心光摂護して、ながく生死をへだてける、とはさふらへば信心のさだまるときにひとたび摂取してすてたまはざれば、六道に輪廻すべからず、しかればながく生死をばへだてさふらふぞかし。かくのごとくしるをさとるとはいひまぎらかすべきや。あはれにさふらふをや。
浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをひらく、とならひさふらふぞ、とこそ故聖人のおほせにはさふらひしか。

●白井成允師の現代訳
信心をいただく者は、煩悩という煩悩何一つ欠けたものもなく具えているこの身のままで、既に仏の覚りをひらくのだ、と云う者がある。これは思いもよらぬことである。

(中略)

浄土真宗には今生で弥陀仏の本願を信じ、かの浄土において仏の覚りをば開くのだ、と承わっている、とこそ故親鸞聖人は仰せられた。

●高史明師の現代語意訳
身の煩い心の悩みに、絶え間なく苛(さいな)まれている今生の肉身の身でもって、すでに覚りを開くということ。この説は、とんでもない説であります。

(中略)

「浄土真宗では、今生においては本願を信じて、浄土においてはじめて仏の覚りを開かせていただく、これが教えられ習ったところであります」これこそが、故親鸞聖人の仰せでありました。

● あとがき
法然上人も親鸞聖人も共に覚りを求められまして、20年にも及ぶご修行や仏教経典の勉強を比叡山で続けられましたが、覚りには程遠い煩悩具足の身が明らかになるばかりの自己の救いを求めて比叡山を下られ、善導大師の示された他力本願の教えに依って始めて仏法に出遇えた悦びを得られたのであります。

そう云うご体験から、私達在家の者が生身の身を抱えたままで聖道門が説く『悟り』に至ることは極めて難しく、今生においては阿弥陀仏の本願を信じて念仏すれば、浄土往生が間違いない身と成らせて頂けるのだと自ら確信され、人々にも説かれたのであります。

何故、生身を抱える私達が覚りを開けないのか、真言宗で言う即身成仏にも言及しながら説明されているこの十五章を勉強したいと思います。


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No.701  2007.5.17

天命のあるがままに人事を尽くす

『人事を尽くして天命を待つ』とは、広辞苑で「人間として出来る限りのことをして、後は天命にまかせて、心を労しない」と説明されている日本の名言の一つでありますが、この名言を仏教徒のどなたかが、『天命に安んじて人事を尽くす』と読み替えられたということを何かの本で読みました。その時は、如何にも良い結果を待ち望む本心が見て取れる『人事を尽くして天命を待つ』よりも、「他力的でいいなぁー」と思ったのでありますが、その後、なかなか「天命に安んじられない」自分に気が付きまして、私の心にしっくり来なくなり、その後そのままになっていました。

そして、最近になりまして、親鸞聖人が晩年に至られたご心境と思われます『自然法爾(じねんほうに)』と言うお言葉が私の心に強く響くようになったからでしょうか、『天命のあるがままに人事を尽くす』と言う読み替えがふっと$カまれ出た次第であります。

通常、人間は良い結果を希望するから頑張れるものであります。しかし、良い結果になるか悪い結果になるかは色々な周りの環境や条件に影響されまして、決して自分一人の力だけでは決まるものではなく、「兎に角、結果は気にせず、自分が出来る精一杯の事をすれば、それで良いではないか」と諭しているのが『人事を尽くして天命を待つ』でありましょう。従いましてこの名言は、人事を尽くした後の結果には良い結果と悪い結果がある事を認めているのでありますが、もし、悪い結果の場合は「精一杯しての結果だから諦めなさい」と言うように受け取れ、少々不親切な名言のように思います。

そして、『天命に安んじて人事を尽くす』と読み替えも、良い結果でも悪い結果でも、そういう結果に心を悩ますことなく安らかに受け取りましょうと云う、やはり、何処か自力的な匂いが感じられて、以前の私にしっくり来なかったのではないかと述懐しているところであります。

『天命のあるがままに人事を尽くす』の心は「毎日、とにかく出来る限りのことをする」と言うことです。そしてその結果として、現実を生きる人間に取りましては良いと思える結果と悪いと思える結果があることは間違いないのでありますが、それは凡夫の私が判定した良いと悪いであり、本当の良悪の判定は仏様にお任せしようと言うものであります。

前回のコラムで『唯嫌揀択』と言う禅語をご紹介致しましたが、凡夫の私は良い結果を選り好みして、悪い結果を厭い、なかなか『唯嫌揀択』とは参りません。しかし、選り好みをしつつ最後の良悪・善悪の判定を仏様に委ねられたら、眼前に現れる事実を『自然法爾』と受け取って行けるように思います。

私の心は常に変化を致しますので、この後どう変化して行くのかは自分自身でも分かりません。やっぱり、『天命に安んじて人事を尽くす』が絶対他力の言葉として響いて来ることになるかも知れませんが、しかし、今は、<>『天命のあるがままに人事を尽くす』が『自然法爾』と共に私の気持ちにしっくり来るように思います。


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