No.992  2010.03.25
日常生活における仏法の応用問題

「仏法を聴くと腹が立たなくなる」と云うことはありません。むしろ、「仏法を聴くと腹は立つものだと云うことが分かる」と言われています。

腹が立つのは自我があるから、自分可愛さがあるからだと仏法は説きますが、では、「腹が立っても、それは自我から来たものだからじっと我慢せよ」と云うことでは不親切ではないかと思います。以下の応用問題はあるお寺のご住職様(世間ではご院さんとも云います)の法話から引用したものでありますが、腹が立ったらどうすればよいのかを考察してみたいと思います。

法話からの引用―
あるお宅に月参りにうかがいまして、お勤めが終わりましたら、待ち構えていたように、そこの奥さんが、おっしゃるんです。「ご院さん、私、腹が立って、腹が立って、ちょっと聞いてもらえますか」と。それで、お話を聞きましたら、こういうことでした。

 五歳になる外孫さんの七五三の御祝いに、子供用の着物を新調して送ってやった。しばらくして、七五三の写真を送ってきたけれど、その着物を着ている写真がなかった。お孫さんは、洋服を着ていたんですね。それでね、きっと嫁さんが着せなかったんやと、腹が立って、電話をかけたんだそうです。

 で、こうおっしゃるんです。「そしたらね、ご院さん。子供が着たがらなかったんで洋服にしたて、言いよりますね。そんなアホなことありますかいな。五歳の子供が、そんなこと言いますか。あれは嫁が着せなんだんですわ。
 これまで、いろんなもん買うて送ってやったんですけど、いっぺんもええ顔したことないんですね。何が気に入らんのや言うてやったら、息子が電話に出てきましてな、そんな言うんやったら、何にもしてもらわんでもええて、言いますんや。親の心、子知らずや。腹立ちますやろ、ご院さん。

 息子は、あんな子やなかったんですわ。結婚するまでは、よう言うこと聞くええ子やったんです。あんななったんは、嫁のせいですわ。腹立ってしょうがないんで、いっかい聞いてもらお思いまして」と。まあ、こういう話でした。いかがです。皆さんとは関係ない話ですか。

 まあ、それはともかく、それでね、「いや、奥さん、気持ちは分からんでもないんですけど、奥さんは、仏法を聞いてこられたんやから、腹が立って仕方がないというときには、何で腹が立ったんやろと、ちょっと考えてみるということが大事でないですかね」と申しましたら、その奥さん、ちょっと首をひねってこうおっしゃった。「腹が立ったんは……嫁が悪いからですわ」と。

 「目の中に入れても痛くないほど可愛い孫を、腹を痛めて産んでくれた嫁のことが、死ぬほど憎い」って、珍しくもない話ですが、自分が見えないというのは、実に難儀ですね。

 私たちは、我が身大事なエゴに支配されています。ですから、何でも自分の思い通りにしたいし、自分の都合が一番大事。「自分は偉い、自分は正しい、自分は間違っていない」と、自分が大事で仕方がない。何があっても、自分は悪くない、悪いのは相手だということになる。仏法を聞いていないと、そんな自分が見えません。仏法を聞いて、はじめて見えてくる。  「結婚するまでは、よう言うこと聞くええ子やった」と言いますが、「よい子」って、どんな子ですかね。親の言うことを聞き、親を大切にし、親を喜ばせ、親の世間体がよくなるような、勉強のできる、おとなしい、親にとって「都合のよい子」ではないですか。  「いろんなもん買うて送ってやった」のに、いい顔をしないので腹が立つというのもね、自分がしてやったことを相手が喜ばないのが、面白くないということではないですか。

 もう、お分かりでしょう。「買ってやった、送ってやった」というのはね、相手を喜ばせたいからではなくて、自分が喜びたいからしたことですよ。腹が立つというのは、つまりは、相手が自分の思い通りにならないので、気に入らないということです。  私たちは、悩むことや苦しむことがあると、その悩みや苦しみの原因は、みんな自分の外にあると思いがちですが、そうではないのですね。原因は、私たちの内にあるのです。

 私たちのこころはエゴに支配されているので、何でも自分の思い通りにしたいのです。ですが、そうは自分の思い通りにはなりませんからね、それで、腹が立って、苦しくて仕方がないということになるのです。
 私たちの苦しみの原因は、こころをエゴに支配されているところにある。仏法は、そのことを教えているんです。その「こころがエゴに支配されている」という教えを、自分のこととして聞く。それが、自分を仏法の鏡に写すということなんですよ。  「自分のこととして聞く」。ここが大事なところですよ。「お姑さんに聞いてほしい話や」なんて他人事として聞いたり、「なるほど、そういう理屈か」なんて知識として聞いたりしたのでは、仏法を聞いたことにはなりません。仏法は、自分を聞く教えなんです。

―法話引用終わり

さて、皆さんはどう思われましたでしょうか。私の妻は、「私だって腹が立つと思う。でも、腹立ちまぎれに電話して、息子にもうこれから何もせんといてと言われたら、もう息子一家との付き合いが断絶になるから電話したんは不味い。5歳の子どもでも服の好き嫌いがあるから、本当にその孫が着なかった可能性もあるから私は我慢するけれど・・・でも、だいたい人それぞれに好き嫌いのある着物や服は送らないほうがいいんちゃう?お金がいいと思うわ」と申しました。

実際のところ、おばあちゃんから送って来た着物を着て写っていない七五三の記念写真をおばあちゃんに送ること自体信じられないのですが、おばあちゃんは腹が立ったとしても、「一体自分は何に腹が立っているのか。自分が送った着物を着ていないことに腹が立っているのか、それとも着物を着ていない写真を無神経に送って来たことに腹が立っているのか、もともと気に入らない嫁だから腹立っているのか・・・」と、自分の自我を見詰め、私が一番可愛い自分の感情を蔑(ないがし)ろにされていることに腹が立っていることが分かる頃、腹立ちは完全に収まり、電話する気もなくなり、関係断絶と云う自分にとっても不幸な結果にならなかったのではないかと思います。そして、自分の自我が見えてくると、相手の自我にも気付き、相手に気に入られる着物を送らなかった自分の非にも気付くのではないかと思われます。

本当に自分が可愛いならば、自分自身も相手も不幸な結果にならないように、短兵急(たんぺいきゅう、『にわかに、非常に急いで』)な腹立ち紛れの行動を起こさないようにするのが、この娑婆を上手に渡る知恵ではないかと思います。

この2、3日、民主党の生方副幹事長の解任そして解任撤回と云う何とも可笑しい政治劇が話題になっておりますが、これも真相は分かりませんが、双方共に自我を見詰めることなく、短兵急に事を為して、相手の自我に更に火を点けて燃え上がらせたと云うことだと思います。結局は双方共に評価を落とすことになっているのではないでしょうか。

腹が立ったら、自分の自我を見詰め、相手の自我にも思いを致し、時を置く。事を起すのは時を得てからと云うことにすれば、最悪の事態にはならないはずであります。

西川玄苔師の『老僧のねごと』の中に、次のお言葉がございます。

        本来
        自我というものは
        無い
        自我意識が
        あるのみだと
        気づけば
        ゆきづまりがなく
        なる

意識は意識すれば取り除けると云うことではないかと思います。瞬間的に自我意識から腹立ちが起きても、意識を働かせば、冷静さを取り戻せて、取り返しのつかないことをせずに済むと云うことではないかと思います。

私は、セッカチで、人一倍腹立ち易い性格です。最近、取引先が契約違反していることが第三者からの通報で分かり、やはり腹が立ちました。しかし、時を置いたお蔭で自然な形で付き合いを止められましたので、喧嘩別れの状態になるのは免れました。世間が狭くならなくて済んだと思っています。腹は立ちます。しかし、今後の取引一切停止と云う極端な結果には至らなかったと思っています。

腹は立ちます。でも、自分の自我と相手の自我を大切に取り扱い、自我意識と自我意識のぶつかりあいにならないように努力したいものであります。それが仏法で日常生活の応用問題を解く方法ではないかと思います。

合掌ーなむあみだぶつ


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No.991  2010.03.22
仏法は物足りないものである

この連休、孫達の世話に明け暮れておりまして、勉強の時間が取れませんので【『教行信証』を披く】はお休みさせて頂きまして、西川玄苔師(法話コーナーでご紹介しております)のお言葉を紹介させて頂きます。

今年2月8日(月曜日)に、NHK教育テレビの『こころの時代』にご登場された西川玄苔師には映像ではございましたが実に8年振り位のご縁でございました。奥様を4年程介護されて後に見送られたことも初めて存じ上げた次第でございました。

大変ご無沙汰をしておりましたので、先日、ご挨拶方々京阪神では3月の旬の味であります『イカナゴの釘煮』をお送り申し上げましたところ、ご丁重なる礼状と共に、極最近(3月8日)中日出版社から出版された『老僧のねごと』と云うご著書をお送り下さいました。

独特の文字で記された『言の葉』は、仏法に関する折々の味わいを綴られたものでございます。 解説がございませんので、どのような思いを抱かれているのかは私などに窺う由もございませんが、私はこう受け取りましたと云うところの感想と共に、このコラムで時々ご紹介させて頂こうと思います。

今回ご紹介させて頂きますのは、下記のお言葉です(老僧のねごと 11ページ写真)。

        人間から見て
        張合いのないのが
        坐禅である
        人間から見て
        物足りないもので
        なければ仏法ではない

仏法は物足りないものだと云うことでございますが、一体どういうことでしょうか?私たちは物足りようとして、物足りようとして仏法を聞きかじっているのに、仏法は物足りないものだと・・・。 多分、この私のボンクラな頭で、この罪悪深重・煩悩熾盛の凡夫の頭で理解して納得出来る程低レベルなものが仏法ではないと云うことではないかと思います。

考えてみますと、私たちは分かろう分かろう、納得したい確実なものを掴みたいと思って法話を聴いたり、仏教書を読んだりしています。しかし、なかなか分かりませんし、これだと云うことに行き着きません。

仏法は頭で理解するものではない、また理解出来るものではない。もし、「分かった、これでよし」と思ったとしたら、それは本当の仏法ではないと云うことではないかと思われます(超能力が身に付くとか、特定の教祖を崇拝する教団とか、病気が治ると商売が繁盛するとかの現世利益を標榜する新興宗教等はその典型かと思われます)。

坐禅の方も、私が充実感や遣り甲斐を感じる坐禅だとしたら、それは何等かの自我が混じった心で坐っている坐禅だと云うことなのかも知れません。私が毎朝している5分間坐禅位では、その本当のお心を知ることは出来るはずがありませんが・・・。

合掌―お蔭さま

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No.990  2010.03.18
煩悩と共に生きるとは?(訂正有り)

重大な間違い表現をしておりました。「煩悩を断絶して涅槃を得る」と記しておりましたが、読者様からのご指摘で気が付き訂正致しました。正しくは「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」でございます。

仏法に関心を持たれた方が仏法に期待されることはどんなものでしょうか。キリスト教の神様に当たるのが仏教の仏様だと思われている方も居られるかも知れません。また、禅宗の坐禅に取り組み始められた方は、坐禅すれば心が清らかになり、いずれ煩悩を滅して苦悩の無い悟りの世界が開けると思われているかも知れません。 一方、浄土真宗の法話に接しられ始めた方はどうでしょうか。念仏を称えていれば、この世では苦しむけれども死後は心安らかなお浄土へ往生出来ると思われているのでしょうか。

仏法を聞き進みますと、上述したいずれもが仏法そのものではないことに気付くことになろうかと思いますが、では仏法が私たちに何を教えてくれて、仏法を求める私たちの出発点であった「心安らかな日常生活を送りたい」と云う期待はどうなるのでしょうか。

なかなか私たちの期待には応えてくれないのも仏法ではないかと思います。特に親鸞聖人の仏法は、「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」と云う分かり難いことを説きます。また、極端な表現ですが、今日の標題にある「煩悩と共に生きる」ことを標榜致します。この「煩悩と共に生きる」は、最近私のお気に入りに登録させて頂いた「青色青光(しょうしきしょうこう)ブログ」の3月16日に掲載された表題でもあります。その内容を下記に転載させて頂きます。

「青色青光ブログ」からの転載―
「愚痴いっぱい、欲望いっぱい、腹立ちいっぱい、煩悩いっぱい、恥ずかしいけどこれが私の全財産」「我が身は罪悪深重煩悩具足の凡夫、これのみがたったひとつの人間における真実です」とあるように、我が身の中に煩悩があるのではなく、我が身そのものが煩悩なのです。煩悩を無くすことはできません。煩悩とともに生きるしかないのです。 この煩悩があるから阿弥陀如来は、念仏となり、光となり、弥陀の船となり、仏の大地となって私たちを救おうと働き続けてくださっているのです。煩悩が無くなれば仏さまと縁が切れるのです。仏法に用事がなくなるのです。 念仏に生きるとは、仏の光に照らされ、仏の船に乗って生きる人生であり、仏の大地に樹(た)って生きる人生です。それは煩悩とともに安心して浄土への道を歩む人生です。
―転載終わり

「煩悩と共に生きる」と云うのは親鸞仏法の一番大切な宗旨でありますが、非常に誤解され易い教えでもあると私は思っています。煩悩と云うものは、自らを傷付け悩ませ苦しませるものでありますが、他人を傷付け悩ませる日常生活の悪役であることも間違いの無いところだと思うからであります。
他人を傷付けながら、自らの煩悩を肯定される親鸞仏法の信者、或いは親鸞仏法の説き手に出遭う時、自らの姿を観るようで、とても悲しく心苦しい思いが致します。

煩悩が無くなることはないのも事実であり現実でありますが、では、仏法を聞いても、多くの人々から、後ろ指をさされる人格の人間でもよいと云う訳ではないと思います。自分の事を人格者だと思う仏法者であってはなりません。むしろ、自分は人格者では無いと云う自覚がいよいよ深まっていくのが親鸞仏法の求める姿でありましょう。

「煩悩と共に生きる」とは、自分の煩悩を自覚して生きると云うことだと思いますが、この自覚は、一般に使われる反省ではないと思います。米沢先生のご表現をお借りするならば、「頭を下げるのではなく、否応なく頭が下がる」のが親鸞仏法の煩悩の自覚であり、どんどん限りなく深まって行く自覚だとも言えるのではないかと思います。

煩悩の自覚が深まるとは、煩悩が強くなっていくのではなく、新たな煩悩に気付いていくと云うことだと思いますが、それは法話を聴き重ねることに依って、仏心が育って行くと共に煩悩の自覚が深まると云うことではないかと私は思っています。
分かり易く申しますと、苦しく感じるのは、楽しいこととは何かが分かっているからであり、汚いと云うことを認識するには、美しいとは何かが分からなければなりません。同じように、地獄が分かるには浄土が分からなければ分かりません。地獄に堕ちることが決まっていると自覚された親鸞聖人は、浄土とは何かが分かる仏心を育てられていたからだと言えるのだと思います。煩悩まみれの人間には自分の煩悩を認識出来ませんし、地獄行きを自覚出来ません。煩悩の自覚が深まるには、仏心が育つに従ってと云うことになるのだと思います。
つまり、「煩悩と共に生きる」と云うことは、「仏心と共に生きる」と云うことを逆説的に表現した言葉だと思います。

理屈をこねてしまいましたが、結論は私たちには法話を聴き重ねることしかない、聴き重ねることに依って仏心を育てて頂き、我が煩悩を見詰めながら生きていくと云うことだと思います。我が煩悩の自覚が深まっていくにつれて、生かされて生きている自己の真実に気付かされ、感謝の気持が深まり、日常生活の有り方も自然に変化していくのではないかと思われます(でも、この世に生まれてから育て上げて来た煩悩は生身の私から決して滅することはありません)。

合掌―お蔭さま

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No.989  2010.03.15
教行信証を披く-教巻―5

まえがき
前回から『大無量寿経』の一部を勉強し始めています。大乗仏教の経典はお釈迦様が弟子達を前にして語られた法話ですが、経典の形として記録されたのはお釈迦様が亡くなられて4、5百年後の事だとされています。そしてそれが中国に伝わって漢訳経典になるまでには更に数百年経っていますから、本当にお釈迦様が語られた通りのものかどうか疑わしいと思うのが一般的ではないかと思います。私も、そのように思っておりました。一部創作が入っているのではないかと・・・。
しかし、聞くところによりますと、紀元前のインドでは、聖なる物事を文字にすることは書き換えに依って捻じ曲げられることが有り得ると云うことからタブーとされていたそうで、記憶力に優れた人の人から人へ口から口へと伝承されていたようであります。そういえば、日本の古事記や日本書紀なども同じように伝承されていたものが、奈良時代や平安時代に文字化されたものだと習った記憶があります。

伝承は一つの仕事として成り立っていたようでありますから、プロとしては一字一句間違わないように記憶したでありましょう。従いまして、インドの原典はお釈迦様が語られた通りに伝わっていたと信じてよいと思います。今勉強している大無量寿経はインドの原典が漢訳されて日本に伝わった経典ですから訳者の理解力に依って内容が変わっていることは有り得ることも確かであります(現存しているインド原典と比較研究が為されてはいます)が、お釈迦様が語られたことが殆どそのまま伝わっているものだと考えて、読むべきであろうと思います。

●教巻の原文
何以得知出世大事。 大無量寿経言。今日世尊、諸根悦予、姿色清浄、光顔巍巍、如明鏡来淨影暢表裏威容顕曜、超絶無量。未曽瞻覩殊妙如今。唯然大聖、我心念言。今日世尊、住奇特法。今日世雄、住仏所住。今日世眼、住導師行。今日世英、住最勝道。今日天尊、行如来徳、去・来・現仏、仏仏相念。得無今念諸仏邪。何故威神光光乃爾。於是世尊告阿難曰。諸天教汝来問仏邪、自以慧見問威顔乎。阿難曰仏。無有諸天来教我者、自以所見問斯義耳。仏言。善哉阿難、所問甚快。発深智慧、真妙弁才、真妙愍念衆生、問斯慧義。

● 和文化(読み方)
是に世尊、阿難に告げて曰(のたまわ)く。諸天の汝を教えて来して仏に問わしむるや、自ら慧見を以て威顔を問えるやと。阿難、仏に曰(もうさ)く。諸天の来りて我を教ふる者の有ること無けん、自ら所見を以て斯の義を問いたてまつるならくのみと。仏の言(のたまわ)く。善き哉、阿難、問える所甚だ快し。深き智慧、真妙(しんみょう)の弁才を発(おこ)して、衆生を愍念(みんねん)せしむとして、斯の慧義(えぎ)を問えり。

● 語句の意味
阿難―アーナンダの略。釈尊の従弟で、いつも釈尊のそば近くに仕え、多聞第一といわれた人。真妙の弁才―まことにして巧みな話術の才能。

● 現代訳(本願寺出版の現代語版より)
そこで釈尊は阿難に対して仰せになった。「阿難よ、神々がそなたにそのような質問をさせたのか、それともそなた自身の優れた考えから尋ねたのか」 阿難が答えて言う。「神々が来てわたしにそうさせたのではなく、まったく自分の考えからこのことをお尋ねしたのでございます」 そこで釈尊は仰せになった。「よろしい、阿難よ、そなたの問いは大変結構である。そなたは深い智慧と巧みな弁舌の力で、人々を哀れむ心からこの優れた質問をしたのである。・・・」

● あとがき
今勉強している部分は、お釈迦様が本当に伝えたい教えである証拠だとして、親鸞聖人が大無量寿経から引用されたものであります。次回に引用されているところから、お釈迦様が阿弥陀如来が人間の形を取ってこの世に生まれ出て大切な法を説いている様子が見受けられます。 考えてみますと、2500年前にお釈迦様が説かれた仏法が、多くの祖師方を経由して今日まで伝わっていること自体不思議なことでありますが、親鸞聖人が日本に生まれ出られたことも、お釈迦様がインドに生まれ出られたと同じ位に仏法に取りましては重要な出来事であります。

合掌―な・む・あ・み・だ・ぶ・つ


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No.988  2010.03.11
一切皆苦(いっさいかいく)

3月8日、65歳の誕生日に受検した胃カメラ(内視鏡検査)の検査結果は有り難いことに異常無しでした。硫酸バリュウムを飲んでのレントゲン検査(胃透視)では、一部分に隆起が認められると云う所見があったようですが、撮影の角度でそのような影が見えたのだろうということでした。お医者さんと一緒に胃の内壁を隈なく目視検査致しましたが何処にも怪しい病変は見付かりませんでした。歳を取ると癌細胞が生まれないことの方が奇跡であると云う見解を聞いたことがありますので覚悟を持って検査に臨みましたが、今回の検査時点では胃癌が疑われる病変は見当たらず兎に角、ホッと致しました。もうしばらくは技術開発の仕事も無相庵ホームページの更新のどちらも頑張れよと言う仏様の仰せだと思い、有り難く思っております。

さて、胃がんに罹るのは苦そのものでありますが、今日は仏法が説く、「全ては苦である」と云う意味の「一切皆苦」に付いて考えたいと思います。仏法の印(しるし)として、三法印(さんほういん)と言われる教義(と言ってよいでしょう)があります。その三つとは、諸行無常(しょぎょうむじょう)、諸法無我(しょほうむが)、涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)でありますが、それに「一切皆苦」を加えて四法印と云う場合があります。三法印の説明は別の機会に譲ることにさせて頂き、今日は「一切皆苦」に付いてのみ考察したいと思います。

仏法の教えの一つが「一切皆苦」であると申しますと、一般の方は「何と暗い考え方なんだろう」と眉をひそめられる方もあると思います。「苦楽は糾える縄の如し」と申しますと、「苦あれば楽有り、楽あれば苦有り」と云う考え方でありますから納得出来るけれども、全ては苦だと云うのは受け容れ難いと云うことになるのだと思います。私はこの点に違和感を感じられて仏法を敬遠される方も多いのではないかとずっと気にして参りました。

確かに私たちには苦労・苦難もありますが、楽しいことも結構ありますから、一切皆苦と言われますと抵抗感があるのだと思います。しかし、この『一切皆苦』を、仏様の眼から私たちの人生を観ると、全ては苦にしか見えないと云うことだと解釈すれば頷けるのではないでしょうか。

適切ではない喩えかも知れませんが、肉牛牧場(正確には肥育牧場と称するようです)を思い浮かべて頂きたいと思います。どの牛も3年以内には牛肉になって店頭に並ぶ運命にあります。餌を与えると喜んで食べている姿を見たり、じゃれあっている子牛達を見て胸の痛まない牧場主は居ないでしよう。肉牛達は自分が置かれている立場を知りません。牧場主から見たその肉牛達の姿は仏様から観た私たちの姿そのものではないでしょうか。牧場主の方は勿論自らの生活の糧のために肉牛を飼育しておられるのでありますが、殆どの方は心の中で手を合わせておられるのだと思います。

それは私をこの世に送り出された仏様のお心(米沢先生流に申しますと、仏様とは宇宙のはたらきそのもの;今日更新する法話をご参照下さい)と同じではないかと思われます。仏法には『大悲(だいひ)』と云う言葉があります。仏様の悲しみです。『大悲』とは自らの無明に気付かず(真実を知らないまま)空しく人生を終わろうとしている私たちの姿を観られての悲しみだと思います。南無阿弥陀仏は、仏様が私たちに向かって手を合わせて「真実に目覚めてくれよ」と云う呼びかけのお言葉です(そして、そのお心を受け取って、「はい」と云うのが私たちの念仏であります)。

私たちは肉牛達と違って、発達した大脳皮質を持って生まれ、大悲を感じられる能力を与えられてこの世に命を頂きました。仏法を聴き抜いて、『罪悪深重・煩悩熾盛の凡夫』、『南無阿弥陀仏』と云う仏様の呼びかけに応えて、苦の根源となっている自らの煩悩に目覚めて、親鸞聖人と共に念仏する身となりたいものであります。 そのお念仏は『一切皆苦』が「一切がお蔭さま」と転ずる瞬間でもあろうかと思っている次第であります。

合掌ーなむあみだぶつ


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No.987  2010.03.08
教行信証を披く-教巻―4

● まえがき
今日は65歳の誕生日。敬老される老人の仲間入りです。でも、敬老誕生日祝いとは程遠く、先日受検した胃検診で要精密検査の通知を受けていましたので、これから罹り付けの医院に参りまして胃カメラを飲みます。やはり『胃がん』ではないかと云う心配がありまして、気持の良いものではありませんので、昨夜から今日の胃カメラの事が頭から離れません。結局、私は私が良いと思う事は有り難く仏様に感謝出来るけれども、普通一般的に不幸と思われることは全く有難く無く、「はい」と受け取る気持にはなれませんし仏様に感謝する気持にはならない事が分かりました。

こう云う私に対して『煩悩具足の凡夫よ』と仏様からの呼び掛けがあります。私は『まことにその通りでございます』と頭を垂れるしかございません。親鸞聖人が仰った『罪悪深重・煩悩熾盛の凡夫』と云う名乗りも凡夫がするものではなく、仏様から私への呼びかけの言葉であると云うことが分かりました。
でも、もし癌が疑われることになれば、早期(?)発見出来たとして、むしろ喜ぶべきだと言い聞かせて、行って参ります!

さて、その親鸞聖人がこの『教行信証』を書いた真意は何だったのであろうか。現代のように印刷技術が無い時代である。多くの不特定多数の人々に読んで貰うためにと云う気持を持たれて書かれたのではなかったはずである。いずれ、『後序』でこの『教行信証』を書かれたお気持を確認出来るのであろうが、親鸞聖人は生涯、念仏禁止を朝廷に訴え出た奈良の興福寺に代表される奈良仏教の僧侶達が抱く浄土教偏見の誤りを理論的に証明しなければならないと言う使命感が『教行信証』を生ましめたと思うのである。

私たちのような一般在家の者に書残すと言うよりも、日本の為政者や知識階級並びに仏教界を牛耳る高僧を意識して、浄土教こそお釈迦様が在家信者に説かれた教えだと云うことを、仏典を引用しながら論理的に書残したものだと思うのである。

今日の大無量寿経の一節も、大無量寿経が釈尊が説き遺したかった法話である証拠として、この法話を説かれる釈尊の容姿と様子そのものが何よりの証拠であるとして引用されているのだと思います。

●教巻の原文
何以得知出世大事。 大無量寿経言。今日世尊、諸根悦予、姿色清浄、光顔巍巍、如明鏡来淨影暢表裏威容顕曜、超絶無量。未曽瞻覩殊妙如今。唯然大聖、我心念言。今日世尊、住奇特法。今日世雄、住仏所住。今日世眼、住導師行。今日世英、住最勝道。今日天尊、行如来徳、去・来・現仏、仏仏相念。得無今念諸仏邪。何故威神光光乃爾。

● 和文化(読み方)
唯(やや)然(しか)なり。大聖(だいしょう)我が心に念言(ねんごん)すらく。今日(きょう)世尊(せそん)、奇特(きどく)の法に住したまえり。今日世雄(せおう)、仏の所住に住したまえり。今日世眼(せげん)、導師の行に住したまえり。今日世英(せよう)、最勝の道に住したまえり。今日天尊(てんそん)、如来の徳を行じたまえり。去・来・現の仏、仏と仏と相い念じたまえり。今の仏も諸仏も念じたまうこと無きことを得んや。何が故ぞ威神の光、光乃(いま)し爾(しか)ると。

● 語句の意味
奇特の法―めったに現れない気瑞(きずい、霊妙な福々しい人相)の姿。世雄―釈尊のこと。世に優れた雄者という意味。仏の所住―仏の本来の証果の境地で、普等三昧をさす。世眼―釈尊のこと。世の闇を照らす眼という意味。導師の行―人びとを真実の悟りに導きいれる導師としての行。世英(せよう)―世に超え優れているということで釈尊をさす。最勝の道―如来の悟りの道で、最もすぐれた智慧の境地をいう。天尊―釈尊のこと。仏を天にたとえて言ったもので第一義天のこと。 如来の徳―自利利他の功徳を円満にそなえた仏のこと。

● 現代訳
世尊、わたくしが思いますには、今日、世尊は世の中でもっとも尊いものとして、とくにすぐれた禅定に入っておいでになります。また、煩悩を断ち、悪魔を打ち負かす雄々しいものとして、仏の悟りの世界そのものに入っておいでになります。また、迷いの世界を照らす智慧の眼として、人々を導く徳をそなえておいでになります。また、世の中でもっとも秀でたものとして、何よりもすぐれた智慧の境地に入っておいでになります。そしてまた、すべての世界でもっとも尊いものとして、如来の徳を行じておいでになります。過去・未来・現在の諸仏たちは、互いに念じ合われるということですが、いま世尊もまたそのように諸仏を念じておられることでしょう。そうでなければ。このように神々しい輝きがあるはずがありません。と阿難は申し上げました。

● あとがき
親鸞聖人の布教活動は飽くまでも苦しい生活を余儀なくされている一般庶民・農民を対象とされていました。従って、一般庶民に対しては、『教行信証』のような難しい漢文ではなく、平仮名をまじえた和讃を製作されて、他力本願の教えを書残されたのであります。

『教行信証』は、飽くまでも他力本願の教えがお釈迦様の仏法そのものであることを理論的に証明するための論文であると云う考え方で読む方が良いように思います。

今は8時半。9時半から検査です。結果は木曜日のコラムでご報告申し上げます。では、行って参ります!

合掌―な・む・あ・み・だ・ぶ・つ


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No.986  2010.03.04
仏法は体で聴くもの

明教寺さんの『青色青光ブログ』に「身に響く」と云う標題で次のようなメッセージがあります。

「どんなに仏教を勉強しても、どんなによく聴聞をしても、我が身に響かなければ、この胸に落ちなければ生きる力・生きる喜びにはならない。浄土真宗が難しいのは、阿弥陀如来に願われていることを信じることが難しいのです。如来のはたらきが我が身に響いてこないのです。仏教で一番大切なことは、み教えを我が身に受け止めることです。我が身に受け止めれば、煩悩に振り回されている我が身が見えてきます。自分中心に生き、自分を飾りごまかしている我が身が見えてきます。我が身が見えてくると、それを知らせてくれる大きないのちのはたらきにうなずくことができます。私の姿を照らしだしてくれる、如来の光を身に感じることができるのです。
「光なくして煩悩は見えない、煩悩なくして光に遇えない」
「難しいことなんか何にもなかった、たった一言の何でもない言葉が、この胸に落ちればそれで良かったのだ」(浅田正作)

よく「仏法は頭で聴いて理解するのではなく、体で聴いて納得出来なければ駄目だ」と云うことを聞きます。また米沢先生が「仏法信者であるといっても、その仏法が日常生活の中に生きておらなければ、何にもならぬのでないか。ただ仏法の言葉だけを知っているのではつまらぬ。日常生活の中に働かなければ、何にもならぬと思います」と仰っておられるのも、『仏法は体で聴く』や『身に響く』と云うことではないかと思います。

しかし、仰ることは何となく分かりますが、それこそ身に響くまでには至らない、分かった様で分からず、日常生活に生かせないもどかしさを感じるのは私だけでしょうか。

日常生活で見聞きする事には、『事実(現実)』と『真実』があると思います。『事実(現実)』は人間の憶測や先入観が入っているもの、真実に修飾語を付けたものだと私は定義します。そして真実は文字通り真実そのもの、何の主観も入らない、修飾語が一切付かないものだと定義します。

例えば、このバンクーバーオリンピックの浅田真央さんの銀メダル獲得。これはジャッジが浅田選手の演技を採点すると、結果としてキム・ヨナ選手に次ぐ2番目だったので銀メダルとなった。「無念の銀メダル」であった。浅田選手も直後の記者のインタビューに涙ながらに悔しい気持をコメントしていました。
でも、浅田選手のフィギアの演技の真実は、3回転半を3回ミスなく成功させましたが、2箇所ほどミスがあったと云うことです。それと比べて金メダルのキム・ヨナ選手はSPとフリーを通してほぼノーミスでした。それが真実である。ジャッジの採点に問題(ジャンプに重きを置いていない。点数が開き過ぎだ)があると云う意見もありますが、ジャンプでもミスしたのは真実です。浅田選手も直後は悔しさを抑えられなかったけれども、もう今では真実を受け容れて、次のソチ五輪に気持は向かっています。
私たちは、真実は受け容れざるを得ないのです。現実は受け容れられなくとも、真実は受け容れられるのだと思う。

もう一つ日常生活で経験しがちな例を挙げると、『他人の裏切り』である。この裏切りと云う言葉自体既にその人の先入観が入っており、真実は裏切りでは無くて、単に自分が勝手に期待していた通りの行動を取ってくれなかっただけである場合が多いはずである。
私たち人間は、実に真実に暗いのである。それは自己中心(自己愛)の煩悩がそうせしめていると言ってよい。「自分だけはこんな目には遇わない」「自分にはいつか良いことが訪れるはずだ」と無意識の意識が私たちの思考を支配しているのである。最近、世界各地で地震や風雪災害が頻発している。地震は、私たちが頼りにしている大地自体が液体の上に浮かんでおり、且つ隣の大地の端と重なり合っている故に、いつか大地が震動することは、避けられない真実である。それは地球そのものが大地で暮らす人間の為にのみ生まれた星ではないから当然のことなのであるが、いつしか人間は「地球は俺達の所有物」と云う思い込みと先入観を抱いてしまっているから地震に驚くのである。

真実は優しい面もあるが厳しいものである。優しいとか厳しいというのも人間が勝手に感じることでもあるのではないか。
私たちは残念ながら、煩悩を消し去ることは絶対に出来ない。それもまた真実であると思う。生きたまま煩悩を滅することは出来ないというのが親鸞仏教である。しかし、煩悩の存在に気づくことは出来るはずである。日常生活において、何か(悲しいこと、悔しいこと、腹立たしいこと、或いは逆に飛び上がるほど嬉しいこと、死んでもいい位に幸せなこと)に出遭った時、それは真実かどうか、自分の煩悩から見誤りをしていないかどうかを冷静にチェックしてみる必要がある。「真実はこうなんだなぁー、これが真実だったんだなぁー」と思えるとき、それは真実の自分に出遭った時でもあり、しみじみと生かされて生きている真の喜びを感じる時でもあるのだと思う。その時仏法に出遭えた喜び、親鸞や道元禅師などの祖師方と喜びを共有出来る至福の時ではないかと思うのである。そしてその瞬間が、仏法を体で聴いたと言う実感を感じるのではないかとも思う次第である。

私は2月中旬に『神戸市胃がん検診(検診実施機関)の胃部間接X線検査』を受けましたが、昨日「要精密検査」と云う通知を貰いました。真実は胃がんの疑いがあると云うのではなく、ただ精密検査が必要だと云うことですが、私は「胃がん」ではないかと云う不安一杯で受け取りました。胃検診の結果であって、胃がん検診の結果ではないのに、最早胃がんを心配しているのである。今から罹りつけの医院に参りますが、真実はどうなのかと云うことであって、取り越し苦労は無用ではないかと言い聞かせつつ、いずれ胃カメラを飲むことになります。早期発見の為に胃検診を受けたのですから、要精密検査と云う結果も想定しておかねばならないですし、もし見付かれば、早期発見出来たと喜ぶべきだと思いたいものですね・・・。

合掌


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No.985  2010.03.01
教行信証を披く-教巻―3

● まえがき
親鸞聖人が「私の出遇え得た仏法はこれだ」と『確かなもの』としてこの教巻で示されたのが、「阿弥陀仏の本願と、その本願が私たち人間に具体的なものとして与えられたのが南無阿弥陀仏と云う名号」であり、それを説かれるのが、お釈迦様が『出世の本懐(この世にお出ましになられた意味)』だと考えられたのであります。そしてそれをお釈迦様の言葉として書き遺されているのが『大無量寿経』と云う経典だと仰ったのでありますが、そう確信された根拠として、『仏説無量寿経』の中の一節を引用され、そして、『如来会(にょらいえ)』、『平等覚経(びょうどうがくきょう)』と云う『仏説無量寿経』とは別の無量寿経の漢訳書と『述文賛(じゅつもんさん)』と云う注釈書から夫々一節を引用されているのが、この教巻の内容のようであります。

私は研究者ではありませんので、上述の捉え方が適切なものかどうか自信はありませんが、 この教巻の構成を存じ上げる限り、親鸞聖人のご性格は極めて粘り強くて几帳面で、論理的思考をされる方だったんだなと思います。

そして、この教巻を纏め上げられながら、この世に生まれて、この阿弥陀仏の本願と名号に出遇い得た喜びを噛み締められていたのではないかと思われ、親鸞聖人の息遣いが感じられるようで、少しワクワクとする感動を覚える次第であります。

経典を読むのは大変難しいですが、漢字字典も今のように揃っておらず、不明なことを調べるにしても何かと不便だったであろう鎌倉時代の親鸞聖人のご苦労を思いますと、少々の難儀を乗り越えて、ゆっくりとした歩みにはなりますが、読み進みたいと思っております。

●教巻の原文
何以得知出世大事。 大無量寿経言。今日世尊、諸根悦予、姿色清浄、光顔巍巍、如明鏡来淨影暢表裏威容顕曜、超絶無量。未曽瞻覩殊妙如今。

● 和文化(読み方)
何を以てか出世の大事なりと知ることを得るとならば。 大無量寿経(巻上)に言(のたまわ)く。今日世尊、諸根(しょこん)悦予(えつよ)し、姿色(ししょく)清浄(しょうじょう)にして、光顔巍巍(こうげんぎぎ)とましますこと、明らかなる鏡浄き影(かげ)表裏(ひょうり)に暢(とお)るが如し。威容(いよう)顕曜(けんよう)にして、超絶したまえること無量なり。未だ曽(か)つて瞻覩(せんと)せず、殊妙なること今の如くましますをば。

● 語句の意味
出世
(しゅっせ)―諸仏が衆生を助けるため仮に娑婆世界に出ること。それが転じて、世の中に出て立派な地位・身分になることを出世と言うようになった。諸根悦予(しょこんえつよ)―全身に喜びをたたえている姿。諸根とは、眼耳鼻舌身の五根をいう。光顔巍巍(こうがんぎぎ)―かがやく顔が気高いこと。威容顕曜(いようけんよう)―威厳のある顔が照り輝いていること。瞻覩(せんと)―仰ぎ見ること。殊妙(しゅみょう)―この上なく尊いこと。

● 無相庵の現代私訳(解説含む)
どういう訳でこの『無量寿経』が釈尊「出世の本懐(しゅっせのほんかい)」だと考えるのかと云うと、それは大無量寿経に説かれていることをみればわかるのである。
すなわち『無量寿経』(巻上)に次のように説かれている。
「世尊よ、あなたは今日、全身に喜びに溢れ、姿は清らかで、輝く顔色は気高く、それはちょうど明鏡止水と言うように透き通っているようです。その威厳のある顔の輝きは量り知ることが出来ません。私はこれまで、今日のような尊いお姿を拝したことがありません。」(以下次回以降に続きます)

● あとがき
大乗仏教の経典は、お釈迦様が亡くなられて数百年して口伝されていた事柄を書物化されたものだそうであります。そしてそのお釈迦様の生まれられた地域の言葉(サンスクリット語等)や文字で書かれていた原典を漢訳されたのが私たちの接することが出来る『無量寿経』であります。

そういう経緯を知りますと、私などはどうしても、「本当にお釈迦様の説かれたものなのか、作り話ではないのか」と云う疑いの心が芽生えてしまうのが正直なところであります。しかし、親鸞聖人は確信を持たれていらっしゃいます。私などよりも頭脳明晰で且つ勉強家で、言い過ぎかも知れませんが、疑い深くそしてかなり理屈っぽい方が信心の根拠とされている経典であります。恐らく千年を越え、そして1万キロメートルの地域を越えて日本の自分に経典として伝わっている事実を、親鸞聖人は真実だと受け取られたのではないかと考察している次第であります。

合掌―なむあみだぶつ


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No.984  2010.02.25
再び父を語る

2004年8月12日のコラムNO.413『父を語る』で、私の父大谷四郎(1903~1955年)のことを紹介させて頂いたことがある。父は満51歳で私が小学4年生の3学期1月19日に会社帰りに交通事故で突然亡くなった。大学4年生の長女を頭に末っ子の私まで5人の子どもを遺して、である(母はその時48歳)。

そんな父を想うことがここ数年では1年に1回あるか無いかの親不孝な私の眼に極最近、父を思い出させる新聞記事が飛び込んできた。それは、神戸新聞の2月15日(日曜日)の朝刊に掲載された『新兵庫人』の第11部―「女たちの仕事場」の中で、増田製粉所の取締役総務部長堀井美千代さんを紹介した記事であった。

私は、父のお蔭で、そして増田製粉所(以下増粉と呼ぶ)のお蔭で今日があるのに、それを忘れて居たことを申し訳なく思い、その堀井取締役さんに、昔増粉の工場長をしていた大谷四郎の息子の大谷國彦として増粉への感謝の気持をメールした。

それに対して堀井さんから、『私からのメールが嬉しかったこと』、『今も父の写真が工場事務所に掲げられていること』、『増粉の菓子用小麦粉の「宝笠印」が今尚お菓子メーカーからブランド商品として信頼され、昨年100周年を迎えたこと』など、丁寧なご返事を頂いた。 そして更に日を置いて、増粉から沢山の小麦粉製品が届いてびっくりさせられたのであるが、もっと驚いたのは、製品と一緒に送られて来た『洋菓子の経営学』(プレジデント社)と云う一冊の本に紹介されている増粉と云う会社の技術とそれを支えている体質を知ったことである。

私は、増田製粉所が製粉業界でどのような立場・地位にあるかは知らなかったが、この本を読んで、私が目標としていた企業の姿であることにびっくりすると共に、そう云う体質造りに一役買ったであろう父大谷四郎と増田製粉所を誇らしく思った次第である。 増粉の素晴らしさに付いては、その本からの抜粋部分を読んで頂きたいのであるが、参考までに紹介すると、下記のようになる。

★有名洋菓子メーカーのコメント「いつか増粉さんで自分とこのこのケーキのためだけの特別な粉をつくることが出来ればと思いますよ。増粉で自社粉をつくってもらうのは夢ですね」

★増粉の小麦粉は、『亀井堂瓦せんべい』、『本高砂屋のエコルセ』、『ケーニヒスクローネのクローネ』、『長崎文明堂のカステラ』、『アンリ・シャルパンティエのケーキ類』、『有馬名物の炭酸せんべい』、『宝塚ホテルの洋菓子』等の人気商品に使用されている。

★パティシエやケーキづくりに拘りのある人は、「増田のあの粉でないと、この商品はできない」と言う人は多い。しかし、増田製粉という製粉会社の名前を知っている人はそう多くない。

★増田製粉所の「宝笠」は、増粉の製粉技師たちにより、大正時代から商品開発を繰り返すことで出来た薄力粉である。今日の「宝笠」の土台を成したのは、戦後の配給時代のことだそうだ(昭和20年代の工場長を務めた父が陣頭指揮を執ったのだと思う)。

★増粉は合併・買収をされなかったししたこともなかったので、会社が社員を大切にするという伝統を生み、社員の愛社精神を育んでいる。その証拠に従業員は皆「一生ここで骨を埋めるつもり」で働いており、誰も引き抜きに応じないのである。

私は、あらためて父と増粉を誇らしく思い、そして、父に負けない無形の財産を遺さねばならないと気を引き締めた次第である。

合掌


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No.983  2010.02.22
教行信証を披く-教巻―2

● まえがき
浄土真宗や浄土宗のお葬式でお坊さんが読まれる『仏説阿弥陀経』や『大無量寿経』は、一般の方々は、死者をお浄土へ成仏させるための『贈る言葉』だと思われているかも知れませんが、そうではなく、苦悩を抱えて人生を渡っている私たち生きて居る者自身がそんな苦しみを乗り越えて、この世に人間として生まれた意味を知り、活き活きとして生きられることを願っての教えが説かれていることを是非知って欲しいと思いますし、また『南無阿弥陀仏』も死者を弔う暗い悲しいお呪(まじな)いではなく、私たち生きて居る者自身の為に要約された教えそのものであることを認識したいものであります。

法然上人も親鸞聖人も数十年に亘って比叡山で修行を積まれました。比叡山の延暦寺は天台宗であり、法華経を根本経典としていますが、 「朝題目、夕べに念仏」と言われており、法然上人も親鸞聖人も比叡山では『南無妙法蓮華経』と『南無阿弥陀仏』を称えられていたことは間違いないと思いますが、お二人とも大乗仏教の経典を全て読破され、法然上人は『選択本願念仏集』で、最終的には念仏でしか救われないと確信され、親鸞聖人もその法然上人のお弟子として一生を終えられたのでありますが、親鸞聖人は、法然上人が選択された念仏の教えの出どころである『大無量寿経』が唯一真実の教えであるとした根拠を、この『教行信証』の教巻で示されているのでありましょう。

●教巻の原文
謹按浄土真宗有二種廻向。一者往相、二者還相。就往相廻向、有真実教行信証。
夫顕真実教者則大無量寿経是也。斯経大意者弥陀超発於誓広開法蔵致哀凡小選施功徳之宝釈迦出興於世光闡道教欲拯群萌恵以真実之利。是以説如来本願為経宗致即以仏名号為経体也。

● 和文化(読み方)
謹んで浄土真宗を按ずるに、二種の廻向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の廻向について、真実の教行信証有り。
夫れ真実の教を顕さば、則ち大無量寿経是(こ)れなり。斯(こ)の経の大意は、弥陀誓(ちかい)を超発(ちょうほつ)して、広く法蔵を開きて、凡小(ぼんしょう)を哀み選びて功徳の宝(ほう)を施すことを致す。釈迦世に出興して、道教を光闡(こうせん)して、群萌(ぐんもう)を拯い恵むに真実の利を以てせんと欲(おぼ)すなり。是(ここ)を以て如来の本願を説きて経の宗致と為す、即ち仏の名号を以て経の体と為すなり。

● 語句の意味
超発(ちょうほつ)
世に超え優れた本願を起こすこと。広く法蔵を開きて―法蔵菩薩が修行されて万善万行を積まれたこと。凡小(ぼんしょう)―凡夫のことをいう。菩薩などの大人(だいじん)に対して凡夫は小人(しょうじん)であるから凡小という。功徳の宝―一切の功徳の宝をもった名号のこと。道教を光闡(こうせん)し―聖道門一代の教えをひろめること。群萌(ぐんもう)―衆生のこと。拯う(すくう)―水に沈もうとする人を助け上げる。真実の利―阿弥陀仏の名号のこと。弥陀の本願は一切の衆生に真実の利益(りやく)となるから真実の利という。本願―阿弥陀仏の四十八願の中の第十八願のこと。宗致―最も大切なこと。要(かなめ)のこと。体(たい)ー具体的本質。

● 無相庵の現代私訳(解説含む)
さて、大乗仏教の経典は千巻万巻遺されているのであるが、その中で釈尊が我々のために説かれた真実の教は、唯一つ『大無量寿経』だけであると私親鸞は考えるのである。そしてこの『大無量寿経』の教えの要点は、法蔵菩薩が世自在王仏に出遇われて、全ての人々を救うための誓願を起され、厳しい仏道修行を貫徹出来ない愚かな私たち凡夫を救うために『南無阿弥仏』と云う具体的な形としての名号として与えて下さったと云うことである。そして阿弥陀仏が釈尊としてこの世にお出ましになられて私たち衆生を救う為に『大無量寿経』として教えを説かれたのである。従って、弥陀の本願を説くことがこの『大無量寿経』の目的であり、そして南無阿弥陀仏の名号がこの『大無量寿経』が伝えたい本質的且つ具体的なものなのである。

● あとがき
今日、更新する法話『諸仏を見る』は、私たちが眼にする全ての存在は全て仏様の顕れであると云うのが要旨であります。現代に生きる私たちは神社にお参りして幸せを祈る一方で、科学的真実(人間の感覚で捉えることが出来る事実のみが真実であるとする)だけしか認めないと云う立場も取ります。従って『阿弥陀如来』とか『南無阿弥陀仏』と云うことを聞きますと、架空のものを信じる幼稚な教えであると一笑に付す人々も多いかと思います。私自身もそのように受け取る部分も無いわけではありません。

しかし、米沢先生がよく『風』を喩えとして説明されます。どういうことかと申しますと、『風』そのものは私たち人間には見えない。しかし、洗濯物が揺れ動いたり、木々の枝や葉っぱが揺れ動くのを見て『風』を確認出来たり、頬に当たる冷たい空気を感じて『風』の存在を知るように、仏様も仏像のような形として確認出来るのではなく、働きそのものとして私たちは確信することが出来るものだと云うことであります。

全ての存在や現象は仏様である、つまり、この地球、宇宙は働きそのものの顕れである。そしてその顕れには原因と条件と結果と云う『因縁果の道理(いんねんかのどうり、『縁起の道理』とも言います)』があると気付かれたのがお釈迦様なのであります。 そのお釈迦様の教えを親鸞聖人なりに受け取られたのが、お念仏の教えなのだと思います。

合掌―なむあみだぶつ


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No.982  2010.02.18
幸せ力―その3

幸せ力―その2は、「『本願力』が『幸せ力』に転換したと言えるのではないかと思います。」で終わりました。『本願力』は、「私たちの幸せを切に願っている仏様のお働き」だと申してよいでしょう。「救われて欲しい、助かって欲しい」と云う仏様の願いの表れと申しても良いでしょう。助かるとはどう云うことかを端的に纏められた言葉をインターネットで見付けました。大阪の由緒ある明教寺(浄土真宗本願寺派)のご住職の下記のお言葉です。

『救われるとは、生きる自信が持てること。迷いが晴れること。苦しみを乗り越えること。悲しみが癒されること。私が私であってよかったと喜べること。当たり前ではなく、おかげさまといただけること。生きる人生の方向が決まること。どういう状況になっても、しっかりと生きていける拠りどころ(因)を得ること。生きる居場所が与えられること。』

このお言葉は無相庵が申します、「当たり前のことが当たり前ではなくお蔭さまと拝めるようになることだ。」とした『幸せ力』を、過不足なく且つ現代的に説明されたものだと感銘を受けました。では、そう云う心境になる為にはどうすればよいのかと云うことになりますと、「聞法を重ねるしかありません」、と前回の『幸せ力―その2』で申し上げました。 普通はこれで終わらねば、「斯くあるべし」と云う自力的な倫理・道徳論に陥ってしまいますので避けたいところでありますが、敢えて矛盾覚悟で私の考察したところを申し上げたいと思います。

私たちが生まれ立ての赤ちゃんの頃は、嬉しい時は声をあげて笑い、辛い時(赤ちゃんの時は、お腹が空いた時とか眠たい時や、おしっこをもらしたりして気持が悪くなった時位でしょうか・・・)には泣き叫んでおりました。辛い時にはお母さんが面倒を見てくれましたので、問題は解消していました。従って自分の思う通りにならない時には、意思表示すれば、何でも解決するものだと思うようになり、自我が芽生えました。成長するに従いエゴが段々強くなってきました。そして一方、生まれて初めて出遭う新鮮な発見に喜びを感じて笑っていましたが、それが何回も繰り返されると何でもが当たり前になって、段々心の底から喜べなくなってきました。

そうして大人になって、当たり前が喜べなくなり、エゴを満足させられない辛さ苦しさばかりが目立つようになり、幸せに感じることが殆どなくなって来たように思います。つまり、エゴの成長に依って、『幸せ力』を失い、『不幸せ力』が私たちの心の中で王座を占めるようになっているのだと思います。私たちから幸せ力を奪い取っている真犯人はエゴであります。 「自分を優先させたい」、「自分が一番大事で可愛い」、「自分さえ良ければよい」と云うエゴが『幸せ力』を押し込めてしまっているのだと思います。そして、不安、不満、不信に苦しんでいるのが私たちの現実のように思われます。

しかし、幼い時から無意識の中に育て上げて来たエゴは最早消し去ることは不可能であると云うのが、親鸞聖人の仏法の考え方であります。しかし、エゴが無くならないとしたら、私たちは永遠に救われないと云うことになりますが、逆説的にエゴがあるから救われると云うのが、親鸞聖人のお立場ではないかと思います。

親鸞聖人の教えを大切にされ、その心を沢山の詩に込められた竹部勝之進と云う方に次のような詩がございます。

        タスカッテミレバ
        タスカルコトモイラナカッタ
     ワタシハコノママデヨカッタ

これはエゴがなくならないままに救われた心を詠われているのだとお聞きしたことがございますが、私にはなかなか理解出来ませんでした。しかし、最近こう云うことではないかと思うようになりました。つまり、例えば私たちの日常生活において不満、不安、不信の心が芽生えた時や腹が立ったりした時に、直ぐにその解消や対策に乗り出さずに、「あっ、エゴの心が動いたな!」と自分のエゴを見付けて行くことではないかと。エゴを満足させることは、他人のエゴとぶつかり合うことでありますから、必ず苦しみになって帰って来ます。また、自分のエゴを消し去ろうという努力は尊いのでありますが、決して目的が達成されることの無い努力ですから、これまた苦しみになります。

ただ単に、「エゴの心が動いたなっ!」と我が心の中のエゴを再確認するだけでよいのだと思います。そうすると多分、四六時中、我が心の中のエゴに出遇うことになるのだろうと思います。「不平、不満、不安、不信、不足、腹立ちの心を感じたら、これは自分のどのようなエゴから生まれ出ているのかを考察する習慣を付ける事」に依って、エゴはそのエネルギーを失うに違いないと思います。そして、徐々にエゴの塊の自分が明確に認識され、やがて罪悪深重・煩悩熾盛の凡夫の自分に目覚めしめられて、自然と頭が下がる時が来るのだと思います。

その時が確実に来るように、聞法を重ねることだと思う次第であります。

合掌ーなむあみだぶつ


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No.981  2010.02.15
教行信証を披く-教巻―1

● まえがき
さて、いよいよ親鸞聖人が、私たちが安心して人生を渡り、安心して死んでいけるようになれる仏法の教えはこれしかないと確信された浄土門の教えを纏(まと)められた本論の勉強に入ります。 その前に、親鸞聖人が使われている『浄土真宗』と云う言葉は、現在仏教宗派として使われている『浄土真宗』ではないと云うことを知っていた上でお読み頂きたいと思います。また、親鸞聖人は飽くまでも法然上人を仏法のお師匠として仰がれ続けられたのであり、決してご自分が新しい宗派を新しく建てられたと云う立場を取られたのではなかったこともあらためてご認識頂きたいと思っております。

私は現在の本願寺教団、即ち東西本願寺を非難する立場にはありません。親鸞聖人の教えが鎌倉時代から現代の私たちまで伝えられたのは、親鸞聖人の子孫の方々や子孫を門主として教団を支えて来られた無数の方々のお蔭であると思っております。しかし、時代の流れ、時節が変遷して、組織であるが故に親鸞聖人の思いとは異なった有り方になっている面もあり、親鸞聖人の教え即ち現在の教団の教えではない部分があることも認識しておかねば親鸞聖人のご苦労が報われないのではないかと思っているのも確かでございます。

つまり、親鸞聖人はお葬式や法事の儀式でお経をあげられることはありませんでしたし、お寺をお持ちにもなりませんでした。また、仏壇も必要とはされていませんでしたし、儀式的なことと言えばただ、『帰命尽十方無碍光如来』と云う十字の名号を前に拝まれてお念仏を称えられていたとお聞きしているだけでございます。

私は親鸞聖人が死んでから後に自分の魂が浄土へ参ることを成仏とか浄土往生と言われていたのかどうかも今現在は確信を持って答えられません。多分そのようなことではないだろうとは思っておりますが、一切先入観を排除して、真っ白な頭でこの『教行信証』から学び取り、結論を得たいと考えております。

●教巻の原文
謹按浄土真宗有二種廻向。一者往相、二者還相。就往相廻向、有真実教行信証。

● 和文化(読み方)
謹んで浄土真宗を按ずるに、二種の廻向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の廻向について、真実の教行信証有り。

● 語句の意味
二種の廻向―廻向とはめぐらしひるがえして、さしむけることを言う。一般には自分が行った善をめぐらして、人びとにさしむけることを言うが、親鸞聖人はそのような自力の廻向に対して他力の廻向を明かされた。すなわち、衆生が浄土に往生する往相も、往生して仏になり、衆生を救うためにこの世にかえって利他教化をする還相も、弥陀本願の他力廻向によってなさしめられるということで、これを往相・還相の二種の廻向という。
教行信証―十方の諸仏如来が阿弥陀仏の徳を讃嘆されるのが「教」であり、その讃嘆される名号が「行」であり、その名号を聞いて信ずる一念が「信」であり、それによって得られる覚りが「証」である。

● 無相庵の現代私訳(解説含む)
今一度静かに浄土の真実を顕した教えの肝要なところは何かつぶさに調べ直して見ると、如来より2種類の相が廻向されると云うところにある。その一つの廻向とは私が浄土に往生して悟りを開かせて貰う往相の廻向であり、もう一つは往生した浄土からこの世界に還って来て他の人びとを救うという還相の廻向である。そしてその往相の廻向については真実の教と行と信と証がある。

● あとがき
『廻向(えこう)』とも『回向(えこう)』とも申しますが、説明を聞きますと、「自分の善行の結果現れる良い報いを他の人に回してあげること」ではないかと受けられますが、何となくすっきりとは分かり難い言葉だと思います。おそらく、親鸞聖人のおっしゃりたいのは、浄土へ往生するのも、この世に還って来るのも、自分の力ではなく全ては阿弥陀如来(仏様)の本願力にお任せするだけであると云う「本願他力」に依る救いだと思われます。しかし、往相も還相も、浄土と云う概念がすっきり理解出来ておりませんので、「浄土へ往くこと」、「浄土から還って来ること」と説明されても頷けない訳であります。

多分私たちには、お浄土が私たちの感覚でその存在を捉えられるものではないけれども、でも、お浄土を信じられるようになるのだと思い、勉強して参りたいと思います。

合掌―なむあみだぶつ


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