大谷政子

1906年(明治39年)に島根県に、石膏鉱業会社を経営する塩田家の次女として生まれる。
政子の父は、 仏教の信仰心が厚く、会社にお坊さんを招いて、親鸞上人の教えを、従業員とともに聴聞していたと言う。
そんな環境が、後に政子の垂水見真会創設へと結び付いて行ったものと思われる。

政子は、当時では珍しいケースとして、地方から東京への留学を果たし、東京女子高等師範学校(現お茶の水大学)で学び、滋賀県の女子高校、兵庫の山手女子高校(現山手女子短期大学)の教師を歴任した。
結婚は、同郷の島根県大社町出身の大谷四郎(現横浜国立大学工学部卒、神戸の増田製粉株式会社勤務)と見合い結婚(当時は、見合いと言っても、道ですれ違うだけのものだったらしい)し、4女2男をもうけたが、長女は、小学校に入学して直ぐに幼い命を無くした。

政子は、当時では珍しい働く母親として、子供をお手伝いさんに任せて外で働いて来た自分の非を大いに反省し、勤めを辞め、落ち着かない心の拠り所を、仏教に求め、各地、各寺で開かれていたお坊さんの講話を聞き歩く日々を送った。
長女の死から自分を責め続け、何とか自力で心の安定を得る事を目標に、話しを聞き続けた訳であるが、ある時、ふっと自分の力で何とか出来ると考えて来た事の間違いに気付かされた。

大きな自然の力で生かされている自分に目覚めて、信心を得られたと言う。
自力ではない、他力(自然の大きな力、宇宙を動かす真理)によって生かされている自分に目覚めさせられたと言う。

長女が死をもって、自分を目覚めさせてくれたと感じた政子は、更に各地の仏教講演会を聞きまわり、確信を深めて行った。
この仏教の教えを他の人々にも伝えたいと言う一心から、40代半ばに、自ら講演会を主宰した。

昭和30年に、主人でもあった大谷四郎の協力もあり、垂水見真会として、正式に宗教組織として再出発したが、その直後、四郎は、大学4年生を頭に5人の子供を残して他界してしまった(現社長は当時小学5年生であった)。
四郎は、増田製粉株式会社(大証2部上場)の専務と言う要職にありながら54歳で、当時では珍しい交通事故による突然の死であったためか、会社の温情と本人の功績を称えてもらったのか、増田製粉は、残こされた子供達が仕上がるまで、手厚い援助をしてくれたと言う。
そんな、逆境にもめげず、いろいろな支援と協力に助けられて、政子は、死ぬ直前まで、垂水見真会の主宰者として、約30年間、計400回の講演会を主催して、80年間の人生を終えた。


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