信仰と人生―正しい生き方を心にとどめて−

奈良康明師

人は信によって激流を渡り、怠らず勤めることによって迷いの海を渡る。
努力して苦しみを克服し、智慧に由って心は清らかとなる。
  『スッタニパータ』184

●本当の幸せ
私達の人生には、よいことや悪いこと、楽しいことや悲しいことなど複数の要素がからみあっています。ですから、「生きる」ことは平坦な道を歩むだけのことではないのです。

私の友人に、若くして父親を亡くし、家業の商売を継いで一生懸命生きてきた男がいます。お互いよきライバルとしてきましたが、50歳前後のころ、彼はこんなことをいいました。「大学を出てすぐに親父に死なれて、これまでの人生は大変だった。目の前に解決すべきことが次々と山のように現れてくるんだ。『この目の前の山を越えたら幸せな人生がある』と自分を励ましながら頑張ってきたけれど、一つの山を乗り越えるとまた次の山が現れ、その繰り返しで何十年もたつ。これではいつまでたっても自分は幸せだといえないのではないか。そこで考えたんだ。人生に山がなくなることはないけれど、目の前の山をどう乗り越えようかと一生懸命努力する過程にこそ、幸せがあるのではないだろうか」。

真面目に努力しながら生き、そこに人生の幸せを見出そうとする彼の姿勢は立派だと思います。これは、苦労しながら自分で身に付けた、いわば人生の智慧というべきものでしょう。しかし、仏教の立場から見ると、もっと広い視野も必要となってきます。一生懸命生きることはとても大切ですが、ただ一生懸命に生きていればいい、というわけではありません。人生は、正しい人間のあり方に導かれながら努力して生きることが大事だと思うのです。

仏教ではそれを「法に則して生きる」といいます。大勢の人の、いろいろな形の恩恵の中で生かされていることへの感謝と報恩、自分を支えてくれる大きなものへの信頼があってこそ、本当の幸せなのではないか、と私は彼にいいました。

●二艘の船
さて、自分を支えてくれる大きなものの存在に気付き、それを信頼するということはどういうことでしょうか。それは信仰を持ち、その教えを拠り所としながら、正しい生き方を求めていくことだと考えます。ここで、確固たる拠り所を得られることの喜びを表した「二艘の船」の比喩をご紹介しましょう。これはキリスト教の比喩ですが、信仰というもののありようを見事に示したものです。

海の上に二艘の船が泊まっています。一艘は碇(いかり)が海底まで下ろされていますが、もう一艘は碇を上げたままです。おだやかな天候の日には、二艘とも、ゆらゆらと波間に揺られているでしょう。波風が強くなってくると、碇が下ろされていようがいまいが、二艘の船は大きく揺れます。そこへ嵐がやってきて、二艘の船はますます激しく波にもまれてしまいました。しかし、嵐が去ったあと、碇を下ろしていた船は同じ場所にとどまることが出来ましたが、碇を上げていた船はどこかに流されてしまいました。

この比喩では、碇を信仰に、波を人生の荒波にたとえています。信仰をもっていようがいまいが、人生の荒波からは逃れられません。碇が下りていても、嵐のときには船を沈没させまいと一生懸命に操作するように、生きることに精一杯の努力を払うことが必要です。
しかし、信じる拠り所があれば、どんな嵐にあっても、流されることはありません。また、碇を下ろしていれば「流されることはない」という安心感のもとに嵐と戦うことが出来ますが、碇を上げていれば、どこに流されるか分からない不安の中で嵐と戦わねばならないのです。

信じるものがあるかないかは、心の問題ですから、外側から見ただけではわかりませんが、人間の行動にも影響を与える大切なことだと思います。

●前向きに生きる強さ
信じるものがあることの安心感や、それを拠り所とした生き方を考えたときに、私は鈴木章子さんの詩を思い出しました。この方はお寺に嫁がれましたが、10代の息子さん3人と娘さん一人残して、40代半ばで癌で亡くなりました。

自分の思いどおりにしようとしたら
孤独になる

思いどおりを捨てさせてもらったら
ずいぶん明るい

一人であっても明るい
足元を支えてくれている
諸佛が見えてくる

そして明るさに気付いた者は
闇から明るさへの道を
知っているので
闇があんまり
気にならなくなる
         (『癌告知のあとで〜なんでもないことが、こんなにうれしい』探求社版)
「どうして私が死ななければならないのか。私は死にたくない」と自分の思いを振りかざしても癌は治りません。そればかりか愚痴をいえばいうほど悩みが大きくなり、孤独になっていくでしょう。そうではなくて、癌になったと言う事実から逃げ出さず、現実に向き合っていく生き方があります。人間は一人で生きているのではなく、大勢の人に支えられ、多くの縁によって生かされています。そのような真実に目を向けると、足下を支えてくれている仏さまが大勢いることに気がつくでしょう。そして、仏さまにすべてをお任せすることで自我を乗り越えていくことができます。

たとえば、死ぬことは辛いことですが、誰も死から逃れることはできません。ですから、生き死には仏様にお任せしてしまう。すると、「今」という時間を前向きに生きる強さが湧いてきます。鈴木さんの詩はそういう心情をうたっているのです。

●正しい生き方を念じる
原始仏典に次のような言葉があります。
「仏弟子が如来を念じる時、心は貪瞋痴(とんじんち)にまどわされることなく、その時、心は如来に対して正直である。心の正直な仏弟子は法を伴える喜びを得る。喜べるものは軽安となり、軽安となっているものは楽を受け、楽を得るものは三昧に入る。これが即ち『法の流れに入れる者(預流果、よるか)』となって念仏を修する者というのである」

「如来を念じる」とは、いつもお釈迦様を忘れないことです。恋人を思うように、ひとときも忘れないことを「念」といいます。「貪瞋痴(とんじんち)」は、貪欲、瞋恚(しんに、怒りや怨み)、愚痴(無知)の、煩悩の三毒のことです。つまり、「どんなときもお釈迦様の教えを忘れないように心掛けていれば悪い考えに惑わされず、心が軽くなる」とこの教えは説いています。また、「楽を受ける」とは悩みを乗り越えるゆとりが生まれること、「三昧」はそのゆとりが身につくことで、そのような状態が信仰の第一歩であると教えています。

分かり易く説明しますと、お釈迦様は正しい生き方を教えてくれるのですから、素直にそれを受け止めなさい、そして常に念じなさい、ということです。すると、心は迷いが生じたときも、「こんなことをしてはいけないのですね、お釈迦様」と自我欲望を抑制できます。

もちろん、お釈迦様の教えがはじめから全部わかるとは限りません。そんなときは「よくわかりませんよ、お釈迦様」と疑問をぶつけても構いません。でも、お釈迦様のことを常に忘れず念じていると、「お釈迦様、そこはわかります」ということが出てくるでしょう。たとえ、はじめから全部わからなくても、疑問があっても、常に正しい生き方を心にとどめていると、真実が少しずつわかるようになり、「これでいいんですね、お釈迦様」と心が軽くなっていきます。心が軽くなると生きているのが楽になるでしょう。悩みは悩みとしてあったとしても、それを乗り越えていける心の余裕が生まれてきます。

ここで、冒頭に掲げた『スッタニパータ』184をもう一度読み直してほしいのです。人は、信仰によって人生の荒波を渡ることができ、一生懸命努力することで、災難にあっても自己と向かい合う強さをもつことが出来ます。また、苦しみを乗り越える智慧を知れば、心が清らかになっていきます。

このように常に正しい生き方を念じるところに、やすらかに生きていく道があるということをお釈迦様は教えてくださっているのです。

●奈良康明師の紹介
昭和4年千葉県生まれ。東京大学文学部印度哲学梵文学科卒業。同大学修士課程を経て、カルカッタ大学大学院博士課程修了。現在駒澤大学総長、駒沢大学名誉教授、曹洞宗総合研究センター所長、法清寺住職。




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